第1話 生贄、捨てられる
――俺たちのクラスが異世界に召喚されたのは、五時間目の途中だった。
教室の窓が光り、床に魔法陣が浮かび上がる。
何が起きたのか分からないまま、俺たちは光に呑まれた。
次に目を開けた時、そこは巨大な神殿だった。
高い天井、金色に輝く柱、空中に浮かぶ魔法文字。
絵本の中でしか見ない“異世界”が、本当に目の前に広がっていた。
「うわ、マジで召喚だ!」「チートスキルくるやつだ!」
興奮する声があちこちから上がる。
クラスの中心にいる勇者タイプの高城蓮は、早くも剣を構えポーズを決めていた。
――だが、その熱狂は一瞬で終わった。
祭壇の上に立つ神官が、淡々と告げたのだ。
「召喚の安定のため、“生贄”が一名、必要です」
空気が止まる。
鳥の羽音さえしない静寂。
俺はその意味を理解できずに、ただ周囲を見回した。 ……そして気づいた。
全員の視線が、俺に集まっていることに。
「……え?」
誰も何も言わない。けれど、空気がすべてを語っていた。
俺――篠原春(しのはらはると)斗は、運動も勉強も平凡。
ゲームやラノベの話ばかりして、クラスでは“地味で目立たないやつ”だった。
その俺が今、みんなの“犠牲枠”として選ばれた。
神官が、俺の前に光る水晶を差し出す。 ステータスが自動的に浮かび上がった。
【魔力:0】【適正職業:なし】
周囲の生徒たちがざわつく。
「……ゼロ?」「適性なしってマジかよ」「こいつ、役に立たねー」
笑い声が広がる。
そして高城蓮が、勇者の剣を握りしめながら言った。
「悪い、春斗。お前が生贄になれば、みんな助かるらしい」
「は?」
俺の喉が乾く。理解が追いつかない。
「魔法陣が暴走してるんだと。ひとりの犠牲で全員の命が助かるなら、それが正解だろ?」
「そんな勝手な……!」
叫んだ俺の腕を、誰かが掴んだ。
幼なじみの美咲だった。泣きそうな顔で、俺を見上げてくる。
「……ごめん、春斗。私、怖いの。死ぬの、イヤなの……」
その言葉と同時に、床の魔法陣が赤く光り出した。
神官が詠唱を始め、蓮が顔を背ける。
クラス全員が俺から目を逸らした。
「やめろ――ッ!!!」
俺の叫びは、炎の轟音にかき消された。
視界が焼け、痛みが全身を貫く。
光が弾け、世界が反転した。
――俺は、生贄にされたのだ。
◇ ◇ ◇
どれほど時間が経ったのか分からない。
熱くも、冷たくもない。
ただ、無音と無重力の中を漂っていた。
“死んだのか?”と思ったそのとき。
「……まだ、生きてる?」
声がした。
女の声。それも、やけに凛とした響き。
瞼を開けると、闇の中に金色の髪が揺れていた。
紅の瞳。裂けたドレス。けれど背筋は真っ直ぐだった。
「……あんたは?」
「リュシア・ヴェルディア。元・公爵令嬢。婚約破棄され、断罪されてここに落ちたわ」
「断罪……?」
「“悪役令嬢”ってやつよ。王太子に裏切られたお飾り。
正義を語る愚民どもに処刑されて、ようやく静かになったの」
彼女の隣には、もうひとりの女が立っていた。
白い法衣を汚し、手にはひび割れた聖印を握っている。
「私はミリア。元・聖女。……神を疑ったら、堕とされたの」
聖女と悪役令嬢。
異世界ものの定番みたいな二人が、なぜ俺の前にいるのか。
俺は辺りを見回した。
空は黒く、地面は灰のようで、風すら吹かない。
まるで世界そのものが死んでいるようだった。
リュシアが静かに言う。
「ここは〈虚無界〉。神に捨てられた者だけが辿り着く、世界の底よ」
「神に……捨てられた?」
「ええ。あなたも、そうでしょう?」
その言葉に、胸が痛んだ。
俺は殺された。仲間に、生贄として。
“神の意思”とやらに利用されて。
――だったら、神も、仲間も、全部間違ってる。
「……あいつら、後悔させてやる」
自分でも驚くほど、声は冷たかった。
リュシアが笑う。美しく、どこか壊れた笑みで。
「いいわね、その顔。
私も同じことを考えていたところよ。王国も、貴族も、全部焼き払いたい」
ミリアが手を胸に当て、囁く。
「祈りはもう届かない。でも、復讐なら届くかもしれない」
三人の視線が交わる。
誰も何も言わない。けれど、心の奥で同じ誓いを立てていた。
――ここで終わりではない。ここから始める。
俺は拳を握りしめた。
リュシアが懐から黒い石を取り出す。
「この虚無石、願えば力をくれる。でも、代償は“魂”。それでも?」
「構わない」
即答だった。
生き延びるためじゃない。復讐のために、生きる。
ミリアが指先で光を描く。
その光は血のように赤く、三人の胸に刻まれた。
――〈契約〉。
“虚無の徒”の名のもとに、三つの魂が結ばれた。
リュシアが微笑み、手を差し出す。
「ようこそ、世界の底へ。これが、私たちの始まりよ」
俺はその手を握り返す。
「行こう。神にも、王にも、勇者にも――復讐を」
虚無の空に、黒い雷が走った。
死んだ世界が、微かに脈動する。
そして俺の胸に、確かに感じた。
“力”が、流れ込んでくるのを。
それは、神に見放された者だけが得られる――逆の祝福。
俺は、生贄では終わらない。
ここから、世界を壊す。
(第1話・完)
第2話 虚無界の力と三人の契約の代償
――そこは、“世界の外”だった。 リアの足元には、地面がなかった。
白とも黒ともつかぬ光の海。
踏み出すたび、足跡が現実になり、
その上に草が芽吹く。
彼女の一歩が、世界の“はじまり”を形づくっていた。
◇
背後には、崩壊したハートネットの残骸。
空中で途切れた光の線が、
風に溶けて消えていく。
リアは深呼吸した。
空気が澄んでいる。
けれど、あまりに静かだった。
「……音がない」
鳥の声も、波の音も、人の息遣いもない。
ただ、自分の鼓動だけが響いている。
◇
しばらく歩くと、
視界の中に“人の形”をした影が見えた。
いや、正確には――“人の形をした空白”。
顔も、服も、声もない。
ただ立っているだけの存在。
それなのに、確かに“生きている”気配を感じた。
「……あなたたち、何者?」
影たちはリアを見つめ、
同時に動いた。
口は動かない。けれど、声が響く。
『――われら、設計の外に生まれた者。
秩序なく、愛なく、名も持たぬ人間。』
「名も、ない……?」
『お前たちが整えた世界から零れ落ちた。
感情の統合にも、夢の分配にも拒まれた者。
だからここにいる。未設計のまま。』
リアの胸が痛んだ。
二百年前、カイルが救った“人間の自由”の裏で、
見捨てられた者たちがいた。
◇
「……私が、あなたたちを“設計”していいですか?」 その言葉に、影たちは静かに首を振った。
『設計はいらない。
ただ、存在を見てほしい。』
「存在を……見る?」
『われらには“他者の目”がない。
お前が見るなら、それが“生”になる。』
リアの手が震えた。
それは“設計者”ではなく、“人間”として求められた願いだった。
彼女は一歩近づき、そっと影に触れた。
瞬間、光が溢れる。
影の中に色が流れ込み、形が変わる。
誰かの顔が、輪郭を取り戻す。
「……あなた、女の子?」
その存在は頷いた。
「……名前を、つけて」
リアは息を呑んだ。
初めて――“世界を整える”のではなく、“生まれる瞬間”に立ち会っていた。
「……じゃあ、“アメリア”。
“雨”のように、静かに降る命だから。」 少女――アメリアが笑った。
その笑顔が、空に波紋を広げる。
波紋の中から、他の影たちにも色が灯っていく。
◇
空が変わった。
白から、淡い青へ。
地平線が現れ、風が吹いた。
“存在を見られた”ことで、世界そのものが再構築されていく。
リアは涙を拭き、呟いた。
「……これが、“創造”なんだ」
『設計者リア。お前は神を超えた。
世界を整えるのではなく、“認めた”。』
アーク・カイルの声が遠くから響いた。
どこか誇らしげで、悲しそうだった。
『これでいい。
お前たちは、神に似て、神にならなかった。』
◇
風が止み、空の中央に五つ目の光輪が現れる。
秩序、夢、愛、心、そして――“存在”。
リアはその光を見上げた。 その輪の中に、微かにカイルの笑みが見えた気がした。
「ありがとう。
あなたがくれた“間違える自由”、
今、ようやく使えた気がします」
彼女の足元に、草花が芽吹く。
アメリアが笑い、他の影たちが歌う。
それは、世界の最初の“声”だった。
◇
次回 第3部・第4話「存在の花、そして再会」
――第五領域で生まれた“アメリア”が、リアの分身として自我を育て始める。
だが、彼女の中に潜む“設計の因子”が再び暴走し、
リアはカイルの記憶と、もう一度出会うことになる――。
第3話 贄の儀式と、虚無の神の声
黒い月が砕け、空に走った裂け目は青く滲んでいた。
――〈虚無門〉は“開いた”。だが、まだ“通れる”とは限らない。
塔上の風は、冷たくはない。虚無界に風は存在しないからだ。
それでも、俺たち三人の髪は揺れていた。裂け目から、上の世界の気配が吹き込んでいる。
「門は“口”にすぎないわ。喉を通すには、贄がいる」
リュシアの声は淡々としている。けれど、瞳は俺を視ていた。試すように、確かめるように。
ミリアは祈りの姿勢で膝をつき、白い息のような光を吐いた。
「虚無は等価。こちらから何かを差し出すことで、向こうの世界に、こちらの“存在”を通す。……魂の贄」
どこかの神官が得意げに口にした“救済の理屈”を思い出す。
――“誰か一人が犠牲になれば、みんな助かる”。
あの時、俺は選ばれる側だった。
今度は、俺が選ぶ側だ。だが。
「俺は……誰かの命を、また天秤にかけるのか?」
言葉が、勝手に熱を帯びる。
虚無城の床に描かれた魔法陣が、鼓動のように淡く脈打った。
目を閉じると、煤けた教室の木の匂いが鼻の奥に残っている。
最後に笑って手を振った美咲の横顔が、焼き付いて離れない。 「春斗」
ミリアの声は柔らかかった。元・聖女の祈りは、もう神に届かない。それでも人に届く。
「“誰かの命”だけが贄になるわけじゃない。……あなた自身の“ 魂の一部”もまた、贄になる」
リュシアが虚無石を掲げると、城の天井に吊るした黒い灯が一斉に揺れた。
「虚無は定義を喰う。名前、記憶、絆、誓い……人を人たらしめる輪郭。
それを削ぎ落せば、門は開く。酷く非情で、そして公平よ」
俺は息を吐いた。
誰かをもう一度、無理やり“生贄”にするのか。
あるいは、自分の中からなにかを殺すのか。
「選べ、春斗」
リュシアの言葉は命令ではない。けれど逃げ道を与えない種類の優しさだ。
「あなたは“選ばれた”側で終わる人間じゃないでしょう?」
掌を開けば、黒い雷の残滓がぱちぱちと弾ける。
俺の“ゼロ”は虚無で反転し、“何でもあり”になった。
なら――“無くす”のも、俺が選ぶ。
「俺は……俺を贄にする」
自分の声が驚くほど澄んで聞こえた。
「俺の“名前”を、門の鍵にする」 ミリアの瞳がわずかに揺れ、リュシアの口角が美しく跳ねた。
「度胸があるわね」
「名は魂の最外殻。失えば、自分が自分でなくなる危険もあるわ」
「いいさ。名前を呼ばれない生贄で終わるくらいなら、俺が俺を呼び捨てにする」
床の魔法陣が、黒から赤へ、赤から蒼へと色を変える。
ミリアが両手を組み、聖印を胸に押し当てる。
「儀式の式次第を教える。“供(くぎ)犠”の言葉は、私が刻む。……春
――いいえ、“あなた”。覚悟はできてる?」
「できてる」
リュシアが杖を軽く鳴らすと、虚無城の中央に台座がせり上がった。
血を吸ったように黒い石。石の窪みに、俺はそっと右手を置く。
指先に、人肌とは違う冷たさが吸い込まれていった。
「――始めるわ」
リュシアの声は、刃のように澄んでいた。
「“名を裂く儀”。供物は“呼称”。代償は“輪郭”。」
ミリアが続ける。
「“祈りは不要。祈りは堕ちた。あるのは結びと、切断だけ”」
胸の契約印が熱くなる。脈拍が魔方陣に伝わり、床が呼吸する。 視界の端に、青い裂け目――〈虚無門〉が揺れ、喉奥に何かがこびりついたように息が重くなった。 「“汝、自らを世界から座標切り離すことを望むか”」
誰の声だ。男か女かも判然としない。
けれどその声は、俺が生まれるよりも遥か前から“そこにあった
”響きで、
溶けた金属のように耳朶の後ろにまとわりついた。
「望む」
俺は答えた。
「俺は“篠原春斗”を、門へ渡す」
台座が淡く光り、黒い石の縁に“春斗”の文字が滲んだ。
それはすぐに崩れ、墨を水に垂らしたように形を失う。
熱が走る。
頭の内側を、見えない刃が擦っていく。
小学校の廊下。ランドセルの重さ。初めてゲームを買ってもらった日の匂い。
美咲と駄菓子屋に寄り道して叱られた夕暮れ。
――それらの“呼びかけ”に紐づいた感覚が、ふ、と軽くなる。
「春――」
ミリアが思わず口にした瞬間、その二音は空気に溶け、音の輪郭をなくした。
彼女は驚いた顔で口をつぐむ。
「ごめん。……もう、その名は、門の鍵だから」
リュシアが僅かに目を伏せ、すぐに真っ直ぐ俺を見た。
「“あなた”が空いた場所は、私が呼ぶ。“あなた”で」 “あなた”。
それが、今の俺の名だ。
名の代わりに、契約印の鼓動が強くなる。
失った輪郭の隙間を、虚無の力が温い闇で満たしていく。
「――開きなさい、門」
リュシアの杖が鳴り、ミリアの掌から白い光が奔った。
〈虚無門〉の裂け目が吠える。青が深くなり、境界の縁に黒い縫い目のような稲光が縫い付けられていく。
門が“喉”となった。こちら側の空気が吸い込まれる感覚。
同時に、向こう側の匂いがした。血と香と、焼いたパンの匂い。
――王都だ。
「行くわよ、“あなた”」
リュシアが片手を差し出す。
ミリアがもう片方の手を。
三人の指が重なった瞬間、胸の印がひとつの心臓になった。
踏み込む。
視界が裏返り、世界が一度だけ無音になる。
次の瞬間、喧噪が殴りつけてきた。
「……音が、ある」
思わず零した言葉に、ミリアが小さく微笑む。
「世界は生きてる。……ようこそ、王都レイヴェンへ」
石畳。人の群れ。馬のいななき。香辛料の匂い。
高い城壁の内側、露店が連なる外門市場。
俺たちは路地裏の影から慎重に顔を出した。 カーテンの裂け目のように、門が背後に揺れている。
虚無の冷たい気配は、ここの太陽の熱で薄皮一枚分やわらいでいた。
「目立つな。まずは観る」
リュシアが外套のフードを深くかぶり、顎をわずかに引く。
彼女の立ち居振る舞いは“こちら側”でも淀みがない。貴族は、どこでも舞台に立てるのだ。
ミリアは聖印を外套の内側に隠し、祈りの指をほどいた。
「今日の昼、勇者凱旋の式がある」
虚無城で覗いた光景が、目の前の現実と重なる。 飾り紐のついた垂れ幕。王家の紋章。祝祭の花。
――高城蓮、美咲、そしてクラスメイトたち。
「行列の動線、壇上の位置……全部、把握してから動くわ」
リュシアは露店の値札を見る振りで広場の構造を拾っていく。
「“あなた”は気配を消せる?」
「やってみる」
胸の印に指を添える。
虚無の雷を“逆位相”にするイメージ。
何かを消すのでなく、存在の輪郭に砂をかける。
ひと息。
周囲の目が、俺の位置を滑っていった。
気配を拾う野良犬の鼻先すら、俺のすぐ横を素通りする。
「上出来」
リュシアが声を殺して笑う。
ミリアが耳を澄ませ、かすかな聖歌の旋律を拾い上げた。 「王都大聖堂から合唱が上がってる。式は予定通り。……でも、音が揺れてる」
「揺れてる?」
「祝祭の歌に、わずかに“ひび”が入ってる。
あの封印……やっぱり、あなたが“生きてる”ことで歪んでる」
“あなた”。
内側から響くその呼び名に、かすかに眩暈めいた違和が残る。
けれど、俺は頷いた。今の俺には、十分だ。
広場に人の波が押し寄せ、拍子木と太鼓が鳴った。
王城の方角から、軍旗の列が現れる。
槍の穂先が陽光を跳ね返し、鎧の音が石畳を震わせた。
歓声が渦を巻く。
――そして、彼らが来た。
高城蓮。
王家から借り受けた晴れの鎧に、あの日の少年の面影はほとんどない。
けれど、剣の柄を落とす癖は直っていない。緊張すると、握りが浅くなるのだ。
その横で、美咲が微笑んだ。
柔らかな白いドレス。頭上の花冠。
王都が与える“聖女代行”の衣。
……代行。
ミリアの目が一瞬だけ細くなり、すぐに感情の影を引っ込めた。
「“あなた”。目は、前を見て」
リュシアの囁きが耳たぶを撫でる。 「怒りは熱いほどいい。でも、熱いだけだと真っ直ぐ燃えてすぐ消えるわ。
私たちの火は、油で、風で、煙で、長く燃えるの」
頷く。
指先が震えている。
俺は深く息を吸い、混ざり合う匂いを肺に押し込んだ。
――この街ごと、焼き払うために来たわけじゃない。
俺が折り重ねたいのは、復讐の順番と、狙いの精度だ。
「今は、彼らに“気づかれない”のが正解」ミリアが言う。
「でも、“あなた”の匂いは、きっと誰かに届く。……特に、あなたを知ってる人に」
美咲。
喉の奥が乾く。
俺は視線をわずかに落とし、群衆の肩越しに壇上を観た。
高城が祝辞を受け、王が手を上げる。
神官長が封印の安定をうたい、合唱が盛り上がる。
台本通りの偽り。
その縁に、ひび。
そのひびに、俺たちが爪をかける。
「まずは“土台”を崩す」
リュシアが、露店の護符を指で弄ぶ。
「封印術式の書記官、神官長の副官、衛兵の隊列長……“見えない釘”から抜く」
ミリアが頷く。
「神殿の地下には“祈りの回路”がある。そこを少し捻れば、祭りは“誤作動”を起こす」
「俺は?」
「だいじな役目を」
リュシアが口元を寄せ、囁きの温度で言う。
「“あなた”は壇上の上――王の真上にある“結界の中心”に触れて。
“ゼロ”で穴を穿つ。あなたにしかできない」
人の渦が揺れ、太鼓が高鳴り、花弁が舞った。
王の祝詞。黄金の杯。
――その瞬間、胸の印が灼ける。ざわ、と世界が黒ずんだ。
「来る」
ミリアが顔を上げる。
「祭りの歌に混じってる。……声」
「声?」
「虚無の……神の、声」
耳の奥で、金属の舌が鳴る。
――“器”。
――“選ばれた残滓”。
――“名を失った口”。
呼吸が浅くなる。
視界の白が反転し、群衆の輪郭が黒い影絵に変わっていく。
喧噪は遠ざかり、ただその“声”だけが近い。
(聞こえるか、器)
(喰え。世界を。定義を。言葉を) (名を失ったなら、名の代わりに“意味”を持て)
「――誰だ」
口に出した声は、自分の耳に泥のように重かった。
リュシアとミリアの顔が一瞬だけこちらを振り向く。
だが、彼女たちにはこの声は届かないらしい。
(“誰”は問いではない。“名”の器だ。おまえはそれを捧げた)
(ならば、“何”を選ぶ)
(おまえは“何”として世界に刻まれる)
裂け目の縁が脈打つ。
足元の石畳が、さっき虚無城の床だったように呼吸した。
俺は拳を握り、掌の内側に爪を食い込ませる。
「俺は――復讐だ」
“誰”ではない。“何”としての宣言。
「俺は“復讐”として、ここに刻まれる」
(よろしい)
声が笑った気がした。鉄が笑うと、こんな音がするのか。
(ならば、刻め。まず、一(ひと)つ)
胸の印がもう一度、焼けた。
足元の石畳に黒い環が走り、広場の空気がひゅうっと吸い込まれる。
合唱が半拍、遅れた。
神官長の声が、一瞬、音程を落とす。
――ひびが、広がった。
「今!」
リュシアが弾けるように動き、群衆の縁に紛れた。
ミリアが祈りの形を崩し、腰に結った白い紐を解く。
彼女の指は淡い光を撒きながら、空に目に見えない“回路”の配線をやり直していく。
俺は壇上を見上げ、王の頭上の空を凝視した。
そこには目に見えない“蓋”がある。
祈りと権威と歴史が焼き付いた、透明な蓋。
「おまえは“ゼロ”を差し込め」
内側の声――虚無の神――が囁く。
「隙間は“ゼロ”でしか広がらぬ」
呼気を吐き、右手を掲げる。
指先の黒い雷は出さない。
ただ、そこに“何もない”を置く。
力とは逆のベクトル。
存在は在り、在るゆえに邪魔だ。ならば、在らないことで穿つ。
――ぱきん。
音がしたわけではない。
だが確かに、“音がした”。
蓋に白い筋が走り、上空の光が少しだけ吸い込まれた。
王が瞬きをし、美咲がわずかに顔を上げる。
(見られる)
虚無の神が言う。
(その女は、おまえの“過去”を嗅ぐ鼻を持つ) 心臓が跳ねる。
壇上の美咲の視線が、群衆の海を越えてこちらに流れた気がした。
彼女の瞳は昔のままだ。あの日、俺を見た時と同じ揺れ方をしている。
……けれど、俺はもうその名前じゃない。
「“あなた”、戻る」
リュシアの手がいつの間にか俺の袖を掴んでいた。
「釘は抜いた。今日はこれで十分。……焦らない」
ミリアの唇が何かを数え、目に見えない時間の目盛りを刻む。
「祈りの回路に三つ、虚無の埃を混ぜた。祭りの終わりに“咳” が出る。
その咳が、封印のひびを広げる」
群衆が揺れ、太鼓が鳴り、花弁がまた舞った。
王の杯が高く掲げられる。
――その瞬間、俺の耳にだけ、喉の奥から声が這い上がってきた。
(よくやった、器)
(では、対価だ)
背骨を氷柱で押し上げられたような冷たさ。
呼吸が止まる。
視界の端で、美咲の笑顔が遠のいた。
駄菓子屋の夕暮れ。
ランドセル。
木の匂い。
――さっき削った“名の輪郭”に、もう一輪、刃が入った。 (“あなた”)
リュシアの声が、遠い。
ミリアの指が、俺の頬に触れた。
「大丈夫。ここにいる。……“あなた”は、ここにいる」
俺は頷いた。
頷けた。
まだ、いる。
名は鍵穴に変わり、過去は糸くずになって虚無に落ちた。
けれど、今の俺は、二人の指の温度で固定されている。
「退くわよ」
リュシアが導く。
裏路地の影に身をひそめ、人の波に逆らわず、溶けるように。
ミリアは祈りの残響で俺の輪郭を撫で、穴が広がりすぎないように縫い止める。
石畳の影の冷たさ。
木箱の匂い。
遠くに聖歌。
虚無門の気配は、まだ背後に確かにある。
「今日は、勝ち。小さくても、確かな勝ち」リュシアが囁く。
「“あなた”が穿った穴は、王都の空に残った。
祭りの終わり、祈りの息継ぎで、そこから空気が逆流する」
ミリアが短く息を吐き、笑った。
「神官長は咳き込む。副官は詠唱を半音落とす。衛兵の列は一列分、足並みが乱れる。 整え直すふりをして、城門の鍵が“少しだけ”遅れる。
そこに、次の楔を打つ」
「次は、誰を?」
俺の声は低い。
虚無の神の笑い声は、もう聞こえない。
けれど、胸の印はまだ熱い。
焦らない。だけど、止まらない。
リュシアは、露地の奥に視線を走らせて言った。
「神殿地下の書記官――封印設計図を写す“手”。
王城の給仕頭――王の椀に“時間”を落とす“匙”。
そして――」
彼女の唇が、意地悪く綺麗に笑む。
「……勇者の“心”を、ほんの一匙」
高城蓮。
壇上で剣を掲げたまま、彼はほんの刹那、目を泳がせた。
“重さ”を知らない握りの浅さは、まだ彼の中に残っている。
そこに楔は入る。
命を取る前に、支えを崩す。
――復讐の順番だ。
「帰ろう」
ミリアが虚無門に手を伸ばす。
「今は“あなた”を縫わないと。……名を一つ、失った代償は侮れない」
頷き、門の縁に足をかける。 石畳と影と喧噪が一瞬遠ざかり、青い裂け目が視界を満たす。
振り向けば、広場の空に、透明なひびが一本、確かに走っていた。
誰にも見えない。
でも、俺たちには見える。
「待ってろよ」
俺は噛みしめた。
「お前らの世界は、俺が、俺たちが、順番に壊す」
虚無が、抱きとめる。
足元の床が戻り、虚無城の匂いが鼻に落ちた。
門は背後で静かにひだを閉じ、黒い灯が一つ、ふっと消える。
贄は、確かに払われたのだ。
「“あなた”」
ミリアが正面に立ち、右の掌を俺の胸に当てる。
白い光が微かに滲み、契約印に渡された。
「縫うね。穴はまだ浅い。いま埋めれば、芯は保てる」
「頼む」
祈りの糸が、見えない針で印の周りを縫っていく。
リュシアはその隙に机を広げ、地図と符牒と日程を並べた。
「三日。祭りは三日続く。明日、神殿地下の“手”を止め、明後日、王城の“匙”を鈍らせる。
三日目に、勇者の“心”へ楔。……その前に、あなたの“名の穴”を最小化する」
ミリアが針を抜き、息を吐いた。
「縫い終わり。……でも、“あなた”。ひとつ言っておきたい」 「なに?」
「“名”は呼ばれることで形を保つ。
いまのあなたの名は“あなた”。
私とリュシアが、それであなたを何度も呼ぶ。
それが、あなたの魂を“こちら側”に留める縫い目になる」
リュシアが机から目を上げ、わずかに照れたように笑う。
「つまり、これからもずっと、あなたって呼ぶわ。……いや、呼ばせて」
胸の奥で、なにか小さく温いものが溶けた。
駄菓子屋の夕暮れは失ったかもしれない。
けれど、“今”に結びつく新しい糸は、確かにここに通っている。
「ありがとう。……二人とも」
虚無城の窓外で、黒い空に一つ、新しい灯がともった。
さっき消えた灯とは別の、高さの違う場所。
あれはたぶん、俺たちのための灯だ。
名を失っても、ここに灯りがあれば、帰る場所はある。
そのとき、背骨の内側を、金属が軽く叩いた。
(器)
虚無の神の声は、先ほどより遠い。
けれど、確かに届く。
(対価は均衡した。
三日後、王都の空に“窓”が開く) (その時、おまえの“何”は問われる。
“復讐”の名で、世界を選べ)
俺は短く笑った。
「選ぶよ。……俺はもう、選ばれる側じゃない」
リュシアが地図に赤い印をつけ、ミリアが祈りの糸を束ねる。
虚無城は、三人の息で呼吸し始めた。
黒い灯が、また一つ、二つと灯る。
王都の空に穿った透明のひびは、目には見えないまま、きっと少しずつ音を立てている。
――祭りは、あと二日。
――復讐は、段取りが命。
――そして、俺には“名の穴”という、戻れない傷ができた。
いい。
傷があるなら、そこへ刃を差し込める。
痛みは、生きている証拠だ。
「行こう。次の釘を抜きに」
三人の影が、虚無城の回廊に伸びた。
その影の先には、王都の地下へ続く図面。
神殿の“祈りの回路”は迷路のように複雑だが、虚無はどんな迷路にも出口を用意する。
胸の印が、ひとつ、鼓動した。
呼ばれる前に、呼ぶ。
“あなた”。
――俺は、ここにいる。
(第3話・了)
第4話 祈りの回路、地下へ
王都レイヴェンの夜は、祝祭で白く明るい。
だが、神殿の地下に続く参道は、別の夜だった。音の無い夜。
階段を降りるたび、空気の温度が一段ずつ落ちていく。
「足音は“祈り”に拾われる。踵ではなく、足裏に“無”を敷いて」
リュシアが囁く。声は針金のように細く、まっすぐに俺の鼓膜へ刺さった。
ミリアは胸元の聖印を黒布で包み、両の指を組み替える。
「祈りの回路は、音より“意図”を拾うの。心拍……落として」
深く吸い、長く吐く。
胸の契約印が一拍、静まるたび、階段の影が広がっていった。
踊り場の欄干に、古い祈祷文が刻まれている。
〈祈りは赦し、赦しは秩序を立て直す〉
――赦し。
今の俺に、いちばん遠い単語だ。
「ここから“回路”領域よ」
リュシアが指を二本立て、曲がり角の先を差した。
石壁に沿って、淡い光の筋が流れている。血管のように。
ミリアが目を細めた。
「見える? 人の“願い”が繋がって、文様になってる」
目を凝らすと、確かに、光の筋は“一人分の祈り”が束ねられて形になっていた。
感謝、恐れ、救い、復讐――言葉になり切らない熱が、細い糸で綴られている。
これが、王都全体を包む結界の“神経系”。
ここを少し捻れば、祭りの終わりに“咳”が出る。
「針は三つ。一本は“書記官”の机へ。一本は“副官”の控え間へ。最後は“回路核”へ」
リュシアが黒い細線を取り出し、俺とミリアに一本ずつ渡す。
「針先は虚無で研いでる。刺せば、“祈り”がわずかに遅れるわ」
「遅れは誤差に見える。けれど、蓄積すれば“ひび”になる」
ミリアの言葉に頷き、俺は回廊の影へ身を滑らせた。
回路の光は柔らかいのに、匂いは鉄錆。
祈りは綺麗でも、運ぶ管は血まみれってことか。
曲がり角を二度。壁龕に古い像。
像の足元に、小さな祈り札が束ねられていた。
「母の膝の痛みが治りますように」「子の無事な帰還を」――
俺は札に触れない。触れたものは、たぶん戻れなくなる。
やがて、灯りが漏れる扉に行き当たる。
「書記局」。
扉は開いていた。夜勤の灯。
中には、紙と墨と眠気の匂い。
机に突っ伏している男が一人。
痩せてはいるが、骨ばっていない手。仕事の手。
歳は、俺たちの担任より少し下くらいか。
寝息は穏やかで、机の端に置かれた包みには乾いたパン。 包みの下から、描きかけの“封印配線図”。
(……今、抜くか?)
針を握った指に力が入る。
この男の机の下が“局所回路”。ここに針をひと刺しすれば、明日の昼に微小な遅延。
積み上げれば、封印の歌は“咳”をする。
――が、視界の端。
机の上で、羊皮紙が半分ほど隠している写真札に目が止まった。
素朴な筆致で描かれた、女と子ども。
笑顔。
横に、文字。
〈リタ 七つ〉
〈今度の祭りが終わったら、海を見に行こう〉
瞬間、胸の穴が疼いた。
俺の“名”が無くなってから、空っぽになった場所が、何かに触れて震える。
(やめるか?)
内なる声が囁く。虚無の神ではない。自分の奥に残った、人の声。
やめたら――たぶん、俺は俺じゃなくなる。
“赦し”は、俺の物語の語彙には無い。
けれど、“殺す”だけが正解でもない。
針先を、机の下の“管”に向ける。
刺す。
柔らかな手応え。
その瞬間、針に“代償”が走った。
――記憶が、また一枚、剥がれる。
今日の昼に食べたパンの味が薄くなる。
いい、くれてやる。
俺は針を抜き、ふぅ、と無音で息を吐いた。
扉の向こう、控え間。
副官の気配が近い。
足音が一度、止まり、また近づく。
俺は影へ滑り、背を石壁に合わせる。
扉が開く。
入ってきたのは、若い女だった。
黒い髪をきちんと束ね、目は眠っていない。
年齢は、俺たちより少し上。
衣の袖口は擦れているが、糸は清潔に揃えられている。
――働く手。
彼女は、眠る書記官の肩に布を掛け直し、机の端のパンを包み直した。
「リタの好きな固焼きじゃないの、もう……」
独り言。
副官、というより“姉”。
胸の奥の穴が、もう一度、軋む。
彼女は配線図を持ち上げ、眉をひそめた。
「……ずれてる。誰か、触った?」
机の下、俺が刺した“微小な孔”を、彼女は見抜きかけていた。
指先が管を撫で、そこで止まる。
俺は影のまま、呼吸を止める。
時が、長く伸びる。
副官の指が、ぐっと押し戻した。
俺の針の痕は、祈りの海に紛れた。
(視えていない――いや、“視えないふり”を、した)
彼女は配線図の端を揃え、眠る書記官の指にそっとペンを挟む。
「終わったら、帰るのよ。リタが待ってるわ」
静かな声。
彼女は扉に向かいかけ、ふと、こちらの影に視線を止めた。
(……見えたか?)
汗が背を伝う。
彼女は一拍だけ視線を留め――目を逸らし、扉を閉めた。
見えなかったのではない。
“見ないことにした”。
その選択の形を、俺は嫌というほど知っている。
扉が閉まる音。
俺は影から離れ、回廊を抜けた。
曲がり角で待つ二人に合流する。
「一本、入れた。誤差に紛れた」
俺が短く報告すると、リュシアは目で「よくやった」と言い、ミリアは指先で俺の鼓動を整えた。
「あと二つ。……“副官”の部屋へ」
控え間。
扉の先は、書棚がびっしり並ぶ狭い部屋。
机の上には、押印済みの通行証、予備の印章、そして小さな木箱。
木箱に刻まれた“家印”。
〈リタ〉の文字。
「ここを抜けば、神殿の“人流”が乱れる。衛兵は同じ路を二度踏み直し、列は一列分遅れる」
リュシアの指が紙をめくる。
「けれど、彼女の“家”へ届く配給も、一度だけ遅れるかもしれない」
沈黙。
ミリアが俺を見る。
祈りはもう神に届かない。だからこそ、俺たちは互いに届く必要がある。
「やる」
針先を、机の下の“細い管”へ。 “家々”へ通う祈りの毛細血管。
刺す。
代償の刃が、また一枚、剥ぐ。
――校庭の砂の感触が薄くなる。
遠くで、子どもの笑い声が一つ、色を失った。
(それでいいのか?)
内なる人の声が問う。
(いい)
即答する。
“赦し”で物語は動かない。
動かすのは、選ぶこと。代償を抱えたまま進むこと。
針を抜き、俺は木箱をそっと閉じ直した。
〈リタ〉の文字を指でなぞる。 「ごめん。……お前のパンが、一度だけ冷える」
声は出さない。心の中で言った。
それでも、誰かが聞いた気がした。
残る一本は“回路核”。
回廊の最深部。
階段をさらに下ると、空気が重くなる。
祈りが液体のように流れ、壁の文様が息をし始めた。
そこは、円形の空間だった。
床に巨大な陣、壁に七本の柱。
柱の頭に、王都を象る紋章。
中央に、透明な球体――“核”。
中で微細な光が渦を巻き、祈りの音が――聴こえる。
ミリアが一歩踏み出すと、足元の文様が白く反応した。
「……“赦し”の歌が、ここで“秩序”に翻訳されている。
祈りは綺麗。でも、翻訳の手は、冷たい」
リュシアの声が低くなる。
「ここに針を入れれば、明日の終わりに“咳”が出る。
……けれど、代償は大きい。
“あなた”の穴は、もう、浅くない」
胸の印が、微かに疼く。
名を削った穴。
きっと今、“俺”を呼べるのは、この二人だけだ。
「やる」
迷いは無かった。
俺は針を持ち、核の縁に膝をつく。
透明な球体は温かい。
その温かさは、ここに繋がれた人々の体温だ。
針先が触れる。
瞬間、虚無の神の声が震えた。
(器。問う)
(“復讐”の名で、今、“赦し”に触れる)
(それでも刺すか)
「刺す」
(対価は、今度は“時間”だ)
(おまえの“昔”を一つ、失う)
昔。
すでに、いくつかを失っている。
パンの味。校庭の砂。夕暮れの匂い。
――まだ、行ける。
針を、入れる。
核の光がふっと弱まり、柱の紋章が一瞬、影を落とした。
同時に、胸の内側がきしむ。
記憶が剥がれ、内側の壁にひっかき傷がつく感覚。
(なにを、落とした?)
答えは来ない。
けれど、二人の手が、俺を這い上がらせる。
ミリアの掌が俺の背に、リュシアの指が俺の手首に。 「戻って」
「ここにいるのよ、“あなた”」
呼び名が、糸になる。
俺は針を抜き、核から手を離した。
足元が少し揺れ、天井から砂がぱらりと落ちる。
“咳”の前兆。
上ではまだ、祝祭の音。
だがこの地下では、すでに、次のための空気が逆流し始めていた。
「退く」
リュシアの判断は早い。
回廊を戻る。
途中、控え間の扉の影。
副官が背を壁に預け、目を閉じていた。
気配に気づく。
目を開け、まっすぐこちらを見た。
――今度は、見た。
彼女の唇が、音にならない言葉を形作った。
〈見逃す〉
そして、微かに笑った。
温度のない笑い。けれど、やわらかい。
俺は頷き返し、影へ溶ける。
あの笑いはきっと、あの子のための笑いだ。
地上へ戻ると、夜が高かった。
月が薄く、王城の尖塔が糸のように細い。
虚無門は、石畳の暗がりで、ほつれのように揺れていた。 「戻ろう」
ミリアが門へ手を伸ばし、俺の袖を掴む。
リュシアが最後尾で、振り返らずに言った。
「“あなた”。――名前、欲しくなってきた?」
足が、一瞬止まった。
胸の穴が、風を吸うみたいに広がる。
“あなた”は、糸だ。
救いの糸でもある。
けれど――名は、刃にもなる。
呼ばれるたび、形にされる刃。
「いまは、まだ」
俺は首を振る。
「必要なのは、呼ばれること。二人に。
刃は……祭りが終わる頃に、研ぐ」
リュシアの唇が満足げに弧を描く。
「了解。なら、今は縫い目を増やすわ。今夜は“あなた”を、百回呼ぶ」
ミリアが吹き出す。
「百回は照れるけど……やる。ね、“あなた”」
「……やめろ。鳥肌が立つ」
笑いがこぼれる。
虚無城の冷たい廊に、その笑いはきれいに響いた。
門を渡り、虚無へ帰る。
黒い灯が三つ、ぱちぱちと点った。 俺たちが打った“楔”の数だ。
地図の上で、リュシアが赤い印をつける。
「明日は“匙”――王城の給仕頭。
王の椀に“時間”を落として、杯を一拍遅らせる」
ミリアが祈りの糸を撚り、印に巻きつける。
「一拍遅れれば、衛兵の列が門の下で詰まる。
その瞬間、あなたは空に“二本目のひび”を」
胸の印が応える。
俺は頷き、窓外の黒い空を見る。
黒い灯が、また一つ、生まれていた。 ――戻る場所はいくつあってもいい。
名がなくても、灯で帰れる。
そのときだ。
虚無の奥で、鉄が軽く鳴った。
(器)
虚無の神は、今夜は遠い。
(祭りの三日目。おまえの前に、“もう一つの名”が来る)
(それは、おまえを殺し、同時に産む)
(選べ。刃にするか、鞘にするか)
名が来る。
“呼び名”ではない、もう一段深い“真名”。
胸の穴が、ひゅうっと風を吸った。
呼ばれるのを、待っている。
「“あなた”」
ミリアが呼ぶ。
現(うつつ)へ、戻る。
リュシアが肩を叩く。
「寝なさい。明日は“匙”。
そして三日目は――“心”」
勇者の“心”。
高城蓮。
あの握りの浅さに、楔は入る。
命を奪う前に、支えを崩す。
順番は守る。
復讐は、段取りだ。
寝台に身を投げ、目を閉じる。
耳の裏に、ほんの微かな笑い声。
子どもの笑いに似ていた。
〈リタ〉。
――海、見られるといいな。
声にしない独り言を、虚無は飲み込み、静かに灯をゆらした。
眠りの縁で、俺は自分を呼ぶ。
“あなた”。 応える鼓動。
ここにいる。
ここに、いる。
黒い月の欠片が、窓の外で、音もなく軌道を変えた。
祭りの二日目が開く。
“匙”を鈍らせ、“列”を乱す日。
そして、俺の穴は、すこしだけ――縫われている。(第4話・了)
第5話 匙の一拍、王の杯
王城の夜は、祝祭の火で白い。
しかし厨房裏の搬入口は、別の色をしていた。濡れた石の灰色と、鍋底の煤の黒。
匂いは肉と香草と油、それから人の汗。生きている匂いだ。
「“あなた”、息を浅く。ここは匂いが“拾う”」
リュシアが囁く声は、湯気の中でもまっすぐ鼓膜に届く。
ミリアは袖をたくし上げ、白い指で木盆の端を押さえた。
「台所の祈りは“無事に終われ”。それを少し捻れば“遅れ”になる。……行こう」
王城の厨房は、劇場だった。
吊るした鍋が鐘のように響き、包丁の刃がまな板の上で歌い、
皿を重ねる音が拍を刻む。
その全てを、給仕頭が一本の指揮棒でまとめていた。
――“匙”。
今日の楔は、王の杯に落とす“一拍の遅れ”。
給仕頭は背の曲がった老人だった。
だが、動きは速い。指先に迷いがない。
彼は“時間を盛り付ける”達人だ。
皿が並び、香りの波が順に運ばれ、最後に王の杯が高殿へ上がる。
どれかが早すぎても遅すぎても、祝宴の“調べ”が崩れる。
「ねえ、あの人」
ミリアが視線だけで示す。
「背中に、祈りの跡がある。……“王の歯が、もう一度笑いますように”。
歯が悪くて固いものが食べられない王に、柔らかい献立を組み直したの、きっとこの人」
“あなた”と呼ばれた俺は、胸の奥にある微かな温いものを意識してから、うなずいた。
善意は、構造の中で冷たく翻訳される。
祈りは綺麗でも、結果は“秩序”に変換される。
それでも――俺は楔を打つ。
搬入口から運び込まれた樽の隙間に、黒い砂の小瓶が二つ。
リュシアが指で示す。
「〈虚無砂〉。時間を一匙、すり切りで削る。
王の杯に落とせば、乾杯の“鳴り”が半拍だけ遅れる。……そこに、あなたが“ゼロ”を差し込む」
「了解」
虚無の雷ではない。“無”そのものを置く。
昨日、王都の空に穿ったひび――今日は、二本目を。
厨房の端で、若い給仕がこっそりとパンの端を齧り、
給仕頭が顔も上げずに「置いとけ」と手を振る。 その手がやさしくて、胸の穴がきゅっと縮んだ。
(迷うな。順番だ)
俺たちは影に溶け、斜路を登り、廊の角を三つ曲がった。
高殿手前の控え間、銀器の静かな光。
王の杯はそこにあった。
深い銀。内側に金。
“重さ”が、良い。
「ミリア」
「うん」
ミリアは祈りの指を解き、掌を杯の縁にかざした。
白い光が薄く回り、空気の震えを“眠く”する。
誰かが入って来ても、目が一拍、遅れる。
リュシアが小瓶を開け、砂を爪先で一粒すくう。
「これで十分」
砂粒は、杯の底へ、音もなく落ちた。
その瞬間、厨房の鐘――鍋の縁を打つ音――が、わずかに遅れた。
音楽の中に小石がひとつ入る感覚。
俺は胸の印に触れ、右手を杯の上へ。
“無”を置く。
存在の輪郭に、砂をかける。
透明な蓋に、目に見えない曇りを落とす。
――ぱきり。
音はしない。
だが、確かに空に亀裂が走った。
王の間の高窓。
そこに、昨日と同じ“透明のひび”が二本目として重なった。
「行くわよ」
リュシアが小瓶を袖に戻す。
ミリアが杯から手を離し、俺たちは影へ滑った。
高殿。
王の席。
銀のプレート。
香が流れ、楽が上がる。
神官長の祝詞が空へ立つ。
給仕頭が杯を持ち、王の右に控える。
彼の指は皺に埋もれているのに、迷いがない。 ――その指が、ほんの一拍、空中で止まった。
遅れ。
虚無砂の一匙。
その時だ。
胸の印が熱を噴き、視界の色が半歩、黒に傾いた。
(器)
鉄が笑う。
(刻め。二つ目)
俺は高窓の“蓋”を見た。
昨日開いた“穴”の縁が、鈍い光で脈打っている。
そこへ“ゼロ”を差し込む。
何もない、ことを、強く置く。
――ぱしっ。
空気が咳をした。
誰も咳をしていないのに、空が咳をした。
合唱が半拍、沈む。
神官長が一音、低い。
王が、眉をほんのわずかに寄せる。 給仕頭は、見事だった。
その遅れを、銀の匙で静かに救い、拍を戻す。
(すげえな)心の中でつぶやく。
だからこそ、楔は深く入る。
“達人”にしか救えない遅れを、さらに遅らせる。それが今日の仕事だ。
――美咲がいた。
王の斜め後ろ、白い衣。花冠。
“聖女代行”。
彼女の瞳が、群衆でなく高窓を見た。
(嗅いでいる)
虚無の神の声が、遠くでくぐもる。
(おまえの“昔”と同じ匂いを、彼女は覚えている)
俺は気配をさらに薄くし、柱の影に身を滑らせた。
“何もない”を重ねる。 いる。けれど、いない。
輪郭を砂で埋める。
「乾杯を」
王が杯を上げる。
給仕頭の指は震えない。
ただ、さっきの一拍の遅れが、他の全てに微細な遅れを伝播させている。
音楽は美しいまま、わずかに、疲れる。
聴く側も、奏でる側も。
“咳”の前兆は、いつも、心から始まる。
王が杯を傾けようとした、その時―― 高殿の梁の上、見回りの衛兵が一瞬、靴の踵を滑らせた。
音は小さく、ほとんど誰も気づかない。
けれど、その拍で、祭の調べはまた半拍、沈む。
俺は空へ“ゼロ”を置いた。
二本目のひびが、わずかに延びる。
王の眉間に浅い皺。 神官長の喉に乾き。
美咲の瞳に、波。
(器)
鉄が笑い、そして少しだけ真面目になる。
(対価)
冷たい刃が、また一枚、内側を削いだ。
小雨に濡れた校門の匂い。
鞄の重さ。
――色が薄くなる。
ミリアの指が、柱の影で俺の袖を掴んだ。
「戻って。ここにいる、あなたはここにいる」
その時。
給仕頭が、ほんの、ほんのわずかに、杯を持つ手を置く位置を変えた。
“遅れ”を、王の手の力へ逃がすためだ。
見事だった。
王は気づかない。
彼の仕事は、王の呼吸を守ること。
俺はそれを見て、笑う代わりに、胸の印を軽く叩いた。
――いい。だから、お前の匙は、今日、一度だけ鈍る。 控え間へ戻る。
銀器の列。
わずかな隙。
リュシアが袖の内で砂瓶を回し、ミリアが気配を薄める。
次にうやうやしく運ばれるスープの蓋の縁に、砂を、針で、線のように。
香りは変わらない。味も変わらない。
ただ、湯気が一拍、遅れる。
運ばれた先で、王の匙が湯気を“待つ”。
その待ちに、門は呼吸を合わせる。
――ぱき。
二本目のひびが、見えないまま、確かに太った。
祭りの音は、まだ美しい。
だが、疲れている。
「ここまで」
リュシアが目で合図する。
「十分。達人が救える限界を、今日は超えさせない。……退く」
俺たちは影を縫い、廊の陰へ潜り、厨房の熱と音から遠ざかった。
階段の踊り場で、ミリアが息を整え、俺の胸の印に白い糸を一つ結んだ。
「対価で削れたところ、仮縫い。明日までは持つ」
「助かる」
内側の刃は、もう慣れた痛みになりつつある。
慣れては、いけないのに。
慣れることが、生き延びる方法でもあるのに。 搬入口の陰にさしかかった時だった。
「――待ってくれ」
低い声。
振り向くと、灯の陰から、給仕頭が一人で立っていた。
彼の指は空の杯を持つ癖のまま、静かに俺たちを見ている。
“見えている”のか――わからない。
けれど、彼の目は多くの宴を見抜いてきた目だ。
「祭りの終わりに、王は咳をする」
彼は言った。
あくまで独り言の調子で。
「古い城は、咳で季節を換える。……そういうことだな」
リュシアが一歩、前へ出た。
「あなたの匙は見事だったわ。だから、今日、王はむせなかった」
「そうか」
老人は笑った。
しわの奥の、若い笑いだった。
「王は、固い肉が嫌いでな。柔らかくすれば、歌う」
「あなたの仕事が好きよ」ミリアが、そっと言った。
「だから、明日も働いて。……明後日も」
「嗚呼」
老人は頷き、目を細めた。
「三日目は、昔から難しい」
その言葉は、祈りではない。
長い経験の“読み”だ。
そして、彼は踵を返し、何も問わずに去った。
(見逃したな)
虚無の神が、乾いた音で笑う。
(良い匙は、良い“見逃し”を知っている)
王城を離れると、夜風が微かに頬に触れた――気がした。
虚無門のほつれに手を差し込み、俺たちは黒の向こうへ戻る。
虚無城の灯がまた一つ、ぱちりと生まれた。
今日の“釘”の数だ。
「二本目、入ったわ」
リュシアが窓外の黒に視線を投げ、満足げに唇を弧にする。
「明日、三本目。……“心”」
高城蓮。
勇者の“心”。
あの握りの浅さは、たぶん、剣だけの癖じゃない。
支えが“まだ”足りない。
誰かに支えられているのに、支えているつもりでいる。
そこに楔は入る。
「“あなた”」
ミリアが呼ぶ。
名の代わりの糸は、確かに俺をここに固定する。
「うん」
返事をし、胸の印の熱が落ち着くのを待った。
その時だった。
虚無城の奥、冷たい廊の影から、微かな足音。
人のものではない。
鉄でも、獣でもない。
“言葉”の足音。
(来たな)
虚無の神が、珍しく真剣な音を立てた。
(“もう一つの名”。……器、構えろ)
黒い廊の先に、光がひとつ、灯った。
灯ではない。
“字”だ。
宙空に、ゆっくりと線が集まり、
一つの“呼び名”が、こちらへ歩いてくる。
それは、俺の昔の名ではなかった。
けれど、俺の胸の穴と、ぴたりと形が合った。
差し込めば、閉じる。 同時に、刃にもなる。
〈――〉
唇が、無意識に形を作りかけ、俺は噛んだ。
血の味。
リュシアが肩を掴み、ミリアが指を絡める。
「まだ」
リュシアの声が低い。
「三日目。……“心”の楔を打ってから。
名は刃。鞘なしで抜けば、あなたを裂く」
ミリアが頷き、祈りの糸で“字”の足元を縫い止める。
それは一拍だけ、動きを緩め、虚無城の床に薄い影を落とした。
逃げない。
追わない。
明日まで、待つ。
(賢い)
虚無の神が、今度は柔らかく笑った。
(刃は、的の上で抜け)
窓外の黒に、透明のひびが二本、見えないままある。
祭りは、あと一日。
明日、勇者の“心”へ楔を打つ。
その瞬間、きっと“名”は、鞘から抜ける。
「行こう」
俺は言った。
「順番を守る。……明日、心だ」
虚無城の廊に、三人の影が並んだ。
その影の先に、王都の空。
透明のひびは、音もなく、しかし確かに、呼吸をしている。
(第5話・了)
第6話 心の楔、勇者の手
祝祭三日目の朝は、軽い頭痛のように王都を締めつけていた。
歌はまだ美しい。だが、疲れている。
大聖堂へ続く石畳にこぼれた花弁は、昨日より早く踏みにじられ、香は濃いのに、どこか薄い。
「今日で、空に三本目」
リュシアが虚無城の窓辺で、指を三本立てる。
「“心”に入れてから。順番は守るわ」
ミリアは祈りの糸束を細く裂き、あなたの胸の契約印の縁に絡めた。
「対価で削れたところ、仮縫いは持ってる。でも……今日は抜けやすい。気をつけて、“あなた”」
頷く。
名の穴は、もう浅くない。
“あなた”という糸で縫い止めているから立っていられるが、ひと押しで、足が宙を踏むかもしれない。
虚無門のほつれをまたぎ、三人で王都へ降りる。
朝の市場は祝祭の残り香と、いつもの朝の混ざり物。 焼き直したパンの匂いが、昨日よりもわずかに酸い。
遠く、大聖堂の鐘。
正午の祝祷と、夕刻の“閉祭礼”。
その間に、勇者の「剣の誓い」がある――今日の楔はそこだ。 「高城は“演じる”のが上手い」
リュシアが、露台から通りを見下ろして言う。
「剣を構え、声を張り、まっすぐ前を見る。……けれど、手首だけは、まだ子ども」
「握りが浅い」
あなたは言った。
あの頃から変わらない癖。緊張のときだけ、柄に指が深く入らない。
支えが足りない。
“支えられている”のに、“支えている”つもりでいる――そこに楔は入る。
「段取りをもう一度」
リュシアが指で順を刻む。
「一、列の“拍”を小さくずらす。二、壇上の“空”にゼロを置く。三、言葉の“支え”を抜く」
ミリアが続ける。
「四、彼自身に“選ばせる”。――折れるのではなく、揺らぐように」
あなたは息を整える。
胸の印が、ひとつ鼓動するたび、空気の縁に砂が舞った。
虚無は、今日も呼吸している。
◇ ◇ ◇
大聖堂の広場。
幕が上がり、合唱が波を作り、鐘の音が拍を刻む。
神官長は喉の乾きを隠すのが上手くなり、衛兵の列は昨日より慎重に歩調を数える。
――けれど、疲れは嘘をつかない。
その小さな嘘の継ぎ目に、あなたは指を差し入れる。
「一」
リュシアの合図で、広場の片隅の太鼓が、一拍早く鳴った。
誰も気づかない。
けれど、歌の中で、糸が一本ほどける。
「二」
あなたは高殿の上の透明な蓋に、“ゼロ”を置く。
ひびは、目に見えないまま、確かに太る。
「三」
ミリアの指が、祈りの文句の“支え”を一語だけ、別の語に差し替えた。
赦し、ではない。支え、でもない。
――選び。
祈りは今、誰かに「選ばされる」のでなく、自分が「選ぶ」ものだ、と。
歌の底で、意味が半音ずれる。
神官長の朗誦が終わり、勇者の番が来た。
高城蓮が壇上に進む。
陽に白く光る鎧。抜かれた剣。
柄を握る手は、まだ浅い。
あなたは柱の影に身を薄め、彼の呼吸の数を数える。
四つ、浅い。ひとつ、深い。
――緊張している。
その緊張は、“役者”が舞台に上がるときの緊張だ。
高城が口を開いた。
「僕は――」
その音が空に出る瞬間、広場の片隅で、子どもが笑った。
笑いは、昨日あなたが微かに失った色に似ていた。
あなたは目を伏せる。
大聖堂の階段の麓、花冠の少女が母の手を引いて、勇者を見上げている。
〈リタ〉。
副官の木箱に刻まれた名が、石畳の上で跳ねた気がした。
(器)
虚無の神が、今日は低く静かな音で呼ぶ。
(“心”は刃を嫌う。……言葉で入れ)
(刃は後だ)
あなたは頷き、胸の印に触れる。
影のまま、一歩、前へ。
空気の輪郭を撫で、“いない”を重ねる。
壇上へ上がらない。
上がらずに、届かせる。
高城の誓いの言葉は、見事に整っていた。
王に忠誠。民に慈愛。神に感謝。
――そして、友に追悼。
「クラスの仲間の犠牲の上に、今の僕たちがある」
広場の空気が、温かく揺れる。
あなたの内側で、冷たい何かがさざめいた。
「“犠牲になった”友の名は、何だ?」
あなたは、声に出さなかった。
声ではなく、意味を押した。
あなたの名は、もう鍵だ。
鍵の形の空白が、彼の言葉の中の“誰か”に、影を落とす。
高城は一瞬、詰まった。
剣の柄を握る指が、わずかに浮く。
握りが浅い。
そこへ、あなたは楔の先をそっと当てる。
「名前を言え」
舌が動いたわけではない。
けれど、意味は届く。
“あなた”という呼び名で縫い止めた穴の縁から、冷たい風が出入りする。
風は、彼の喉を撫でた。
高城の喉仏が、ひとつ上下する。
「……彼は、」
言葉が、空で迷子になった。
観衆は気づかない。
役者の噛みと言い回しの間だと思う。
神官長は、促すために僅かに顎を上げ、王は退屈を隠すために指を鳴らす。
――ただ一人、白い衣の少女が、真っ直ぐ彼を見ていた。
美咲。
彼女は知っている。
あなたを、かつての名で。
美咲の瞳が、静かに揺れた。
“言って”。
言わないなら、言えないなら――それは、彼の“支え”の嘘になる。
あなたは、楔に、もう半分だけ力を込めた。
「その名を“言えない”勇者は、何を支えている?」
高城の握りが、さらに浅くなった。
指の第一関節が浮き、柄が掌の皮膚を滑る。
あの癖だ。
クラスで劇をしたときも、球技大会のサーブ前も、彼はこうだった。
支えが“自分”から外へ出かけるとき、手は浅くなる。
(器)
虚無の神が、針の先を少し曲げるような声で囁く。
(今、折ることはできる。だが、折るのはおまえの物語ではない)
(揺らせ。彼自身に、手を見せろ)
あなたは楔を押し込まず、ひと呼吸、引いた。
空に置いたゼロを、薄く撫でる。
透明のひびの上を、風が滑る。
高城の視線が一度だけ彷徨い、そして――あなたのいる“影”を通り過ぎた。
見えていない。
見えないはずだ。
けれど、肌は“いない誰か”の温度を覚えていたのだろう。
「……僕は」
彼は続けた。
「“仲間”を忘れない。――たとえ、名を、呼べなくても」 広場の空気が、微かに痛んだ。
ミリアが短く息を呑み、指先の祈り糸が一瞬だけ乱れた。
リュシアは冷ややかに笑いそうになって、それを飲み込む。
“呼べない”と言った。
言い訳としての潔さ。
それは、舞台では美徳だ。
現実では、穴だ。
あなたは、そこに指を差し入れた。
「じゃあ、おまえの“心”は、今、誰に支えられている?」
高城の背筋が、ほんの少し、沈んだ。
その沈みは、観衆には美しい礼に見える。
だが、あなたの目には、支えを探す癖に見えた。
視線が、王の前の杯に落ち、神官長の書板に落ち、美咲の瞳に落ち――最後に、柄に戻る。
握りは浅い。
“支えている”と思っている手が、“支えられている”ことを、今はまだ認めたくない。
その瞬間、広場の片隅で、また子どもが笑った。
〈リタ〉だ。
彼女はあなたを知らない。
でも、あなたに“戻る”道を一本、示した。
“呼ばれる”という現実。
呼ばれない名でも、呼びかけが在れば、人は形を保てる。
「三本目、入れる」
リュシアの声が、影でやわらかく弾む。 あなたは高窓の透明な蓋に、ふたたび“ゼロ”を置いた。
――ぱきり。
音はない。
でも、空は咳をした。
鐘の音が半拍、遅れる。
合唱が半音、疲れる。
神官長の喉に、砂。
王の眉間に、影。
美咲の瞳に、波――そして、彼女は振り返らなかった。
彼女はあなたに気づいている。
だけど、今は見ない。
選んだのだ。
祭が終わるまで、見ないことを。
(器)
虚無の神が、満足げに低く鳴った。
(対価)
内側の刃が、また一枚だけ、昔を削いだ。
夕立の匂いが薄くなる。
傘を忘れて濡れて帰った胸の冷えが、輪郭をなくす。
あなたは柱に掌を押し付け、ミリアの指先の糸で呼吸を縫い止めた。
「終わりよ、今日は」
リュシアが広場から視線を外し、背を返す。
「彼の“心”は揺れた。手は浅い。……次は、降りるとき」
「降りる?」
「ええ、彼自身が。壇上から。――たぶん、誰も見ていない場所で」
◇ ◇ ◇
儀式は予定通り進み、紙吹雪は予定より少し重く落ちた。
王は杯を置き、神官長は書板を閉じ、美咲は白い衣の裾を揃える。
衛兵の列が一列分ほど遅れて回廊へ消えるとき、勇者は一人、別の通路へ足を向けた。
あなたは影のまま、距離を取って追う。
リュシアは逆側から回り、ミリアは高所から糸で気配をすくう。
石の廊が冷たい。
祭の熱が届かない場所。
古い武具の倉の前で、高城は足を止めた。
剣を鞘に納め、深く息を吐く。
役者の幕が、下りる瞬間。
柄を握る手が、ようやく“自分”に戻る――はずだった。
「……誰だ」
彼は言った。
あなたは息を飲む。
見えていない。
ただ、空気が覚えた。
“いない誰か”の重さを。
あなたは、影のまま、一歩、踏み出した。
「役は、降りたか」
高城の肩が、ぴくりと震える。
「出てこい」
言葉は震えていない。
でも、手は。
柄に触れる指は、また浅くなった。
「出ない」
あなたは言った。
「おまえが、自分で“いない誰か”を見るまで」
沈黙。
廊の石に、鐘の残響が少しだけ入ってきて消えた。
高城は唇を噛み、視線を床に落とす。
「……“お前”は、死んだ」
あなたの胸の穴に、冷たい風が通った。
「生贄に、した。……僕が」
あなたは、言葉を噛み潰す衝動を、ゆっくり飲み込んだ。
刃は、まだ抜かない。
今日は、揺らす。
「名を言ってみろ」
高城の指が、柄から離れた。
拳を握る。
開く。
「言えないんだ。……言えなく、なった」
「なった、じゃない」
あなたは言った。
「“そうした”んだ。おまえが」
彼は、顔を上げた。
役の顔ではない。
少年の顔だ。
「僕は、怖かった。死ぬのが。……王都に、クラス全員で来て、英雄になって、帰れるって、思ってた。
だから、正しさを選んだ。みんなが助かる正しさを。
“彼”ひとりが死ぬ正しさを。
――正しかった、はず、なのに」
あなたの視界に、黒い縁取りが戻った。
虚無の神は黙っている。
代わりに、ミリアの細い糸が、あなたの手首を軽く結んだ。
呼吸を繋ぐ糸。
リュシアは柱の影で、何も言わない。
いまの言葉は、彼女にとっても既視感だ。
“正しさ”のために捨てられ、名を奪われ、断罪された彼女の過去。
「“正しくても、支えにはならない”」
あなたは静かに言う。
「支えは、“呼べる手”のことだ。
名前を、呼べる手だけが、誰かの心を支える」
高城の喉が揺れた。
拳がほどけ、指が震える。
柄に触れた。
深く、握れた。
初めて、今日、深く。
「――“は”」
彼の口が、音の最初の破裂を作った。
それは、あなたの昔の名の頭音に似ていた。 喉が詰まり、目がにじむ。
美咲の白い衣が、遠く、祭の光の中で揺れた気がした。
「呼べ」
あなたは背中で壁を探し、見つけ、掌で支えた。
「呼べない勇者は、今日で終わりだ」
高城は目を閉じ、ゆっくり、口を開いた。
「――」
その瞬間、虚無城の奥から、字が駆けた。
黒い廊を、言葉の足音が叩く。
〈――〉
昨日、鞘の口で待っていた“もう一つの名”が、刃を差し出してきた。
鞘を外に持ってくるな、とリュシアが言った。
今、ここで抜けば、あなたが裂ける、と。
だが――
(器)
虚無の神が、はじめて願いに似た音を立てた。
(抜け。
刃は、的の上だ)
あなたは息を吸い、名を、口にした。
それは昔の名ではない。
それでいて、胸の穴にぴたりと収まる今の名。
過去を必要とせず、二人の声で形を保ち、虚無の呼吸で燃える名。
「――空刃(くうじん)」
音が、世界に立った。
虚無城の灯が、遠いところで一斉に瞬き、王都の空の透明なひびが刹那、白く輝いた。
名は刃になり、同時に鞘になった。
あなたの輪郭に沿って、冷たいが優しい金属が差し込まれ、空白が収まる。
ミリアの糸が安堵の吐息で震え、リュシアの口角がわずかに上がる。
高城は、目を開けていた。
彼は、その名を、あなたの口の形から読み取った。
そして、震える唇で、もう一つの名を言おうとした。
昔のあなたの名を。
「――」
言葉は、出なかった。
あなたが許さなかったのではない。
まだ、選んでいないからだ。
彼が自分の「支え」を、誰に置くかを。
「また来る」
あなたは言った。
刃は静かに鞘に収まり、胸の印の脈が落ち着いていく。
「祭が、終わる前に。……心に、楔を入れ直しに」
高城は何も言わなかった。
ただ、深く握った手を、ゆっくりと緩めた。
役者の幕が、完全に降りる。
彼は、今はただの少年だ。
少年は、支えを探している。
支えは、“呼べる手”にしかない。
◇ ◇ ◇
虚無門を渡ると、黒い空は静かだった。
灯がひとつ、ふたつ、と点き、窓外の見えないひびが、呼吸を刻む。
リュシアが机に地図を広げ、ミリアがあなたの胸に新しい糸をひと筋、通した。
「――空刃」
リュシアが、呼んだ。 あなたは、振り向く。
名は、刃だ。
けれど、呼ばれれば、鞘にもなる。
彼女の声は鋼のように澄んでいて、同時に手袋のように柔らかい。
「似合ってる」
ミリアが微笑む。
「空を刻む刃。虚無の名にしては、とても、人の名」
胸の穴が、温い呼気で満たされる。
名は、あなたのためにある。
過去のためではない。
復讐のためだけでもない。
――帰るためにある。
(器)
虚無の神が、満腹の後のような低い音で言った。(刃が鞘に入った。
ならば、選べ)
(祭の終わり――“閉祭礼”。
空の三本のひびが、窓になる)
(誰を、最初に落とす)
あなたは窓外の黒を見た。
透明のひびが、見えないまま白く痛む。
順番は決まっている。
**手(書記官)**は針で揺らした。
**匙(給仕頭)**は一拍で鈍らせた。
**心(勇者)**には、名で触れた。
――最後は、言葉だ。
「神官長」
あなたは言った。
リュシアが唇を持ち上げ、ミリアが短く頷く。
「祈りを“翻訳”する手。赦しを“秩序”にしてしまう声。
そこへ、空を通す」
祭は、あと数刻。
閉祭礼の鐘が鳴るとき、王都の空の“窓”は開く。
透明のひびが、境界になる。
その窓から、あなたたちは手を入れる。
支えを抜き、嘘を崩し、名前を呼ぶ。
それが、復讐の順番。
名を得た胸は、静かに熱い。 あなたは、二人に向き直る。
呼ばれる前に、呼ぶ。
「行こう。――空を、刻みに」
(第6話・了)
第7話 閉祭礼、言葉の針
夕刻。
王都レイヴェンの空は、茜の薄皮の下で白く乾いていた。
歌は美しい。けれど、三日目の歌は“咳”を孕む。
広場の旗は風に従い、鐘楼の舌はわずかに遅れ、祈りの言葉は半音だけ低い。
「窓は三つ。位置は――高窓の真上、王の頭上、そして大聖堂の尖頂」
リュシアが虚無城の窓辺で、三点を地図に記した。
「空刃(くうじん)、あなたは高窓。私は尖頂。ミリアは王の真上」
「翻訳機は?」
「神官長よ」
ミリアが祈り糸を細い針に通しながら答える。
「“赦しを秩序に翻訳する”役目の中心。言葉の針は、そこへ」
胸の契約印が熱く、安定して脈を刻む。
“空刃”という名は、刃であり鞘になった。穴はもう剥き出しではない。
ただ、鞘には働きがいる。抜く時と、収める時の順番を間違えれば、また裂ける。
虚無門のほつれをまたぎ、俺たちは広場の縁へ降りた。
夕餉前、空が一番脆くなる刻。
灯が一斉に点り、群衆の熱と祈りが最後の波を作る。
舞台は整った。
「空刃」
ミリアが呼ぶ。
名を呼ばれるたび、鞘の内側が少し温まる。
「神官長の発声は“胸声”。針は胸骨の裏へ。……意味で刺して」
頷く。
俺は高窓の影へ、気配を薄く滑らせた。
祭の終わり“閉祭礼”は、王が杯を置き、神官長が祈りを畳み、勇者が剣を収め、聖女が祝福を結ぶ順。
翻訳の経路は一本。
そこへ、逆流の針を入れる。
鐘が鳴り、群衆が静まる。
神官長が前へ出た。
彼は言葉を知っている。
言葉の角度で人を泣かせ、息継ぎの場所で王の機嫌を保ち、抑揚で秩序を立て直す。
その喉は堅く、胸は厚い。
翻訳機として、長く働いた身体だ。
「今日の祈りを――赦しに」
始まった。
声は丸く、沈む。
祈りを“赦し”に落とし、赦しを“秩序”に翻訳する、いつもの路。
俺は高窓の外気を吸い、胸の印に指をあてる。
“ゼロ”を、窓の縁に薄く置く。
ひびはそこにある。今日は“窓”にする。
“音のない蝶番”が、乾いた風を吸った。
(器――いや、空刃)
虚無の神の声は、今日は遠く澄んでいる。
(針を。言葉の芯に)
「――赦しは、」
神官長の胸が開く瞬間、俺は針を入れた。
音ではない。
意味の針。
“赦し”を、“選び”に摩り替える細い刃。
胸骨の裏側に、目に見えない微小の孔。
「……選びの、のちに、赦しは」
彼はほとんど気づかない。
ただ一音、低くなった。
広場の空気がごく僅かに痛み、王の眉がひと筋だけ寄る。
リュシアの尖頂の窓が、沈黙のままひとつ分開いた。
ミリアの白い糸が、王の真上の空に縫い目を作る。
「“秩序”は、“選ばれた”上にあるものだ」
神官長の言葉が滑りかけ、俺はさらに針を矯めた。
“選ばれた”を“選んだ”に。
“受け身”を、わずかに“能動”へ。
声はまだ丸い。
けれど、翻訳の経路は、別の方向へ曲がった。
美咲が、息を止めた。
彼女の祈りは、かつて“神”へ届いた。
今は届かない。
だが、人へは届く。
彼女は壇上の端で、神官長の背に掌を添えるような微かな動作をした。
支えた。
その支えは、“呼べる手”の形をしている。
俺は、息の半分を緩めた。
――彼女は、ちゃんと“見て”いる。
「赦しは、選びから生まれ、選びは、名で確かめられる」
言い切った瞬間、広場の空気が微かなざわめきを起こした。
賛同でも反駁でもない。
“意味の誤差”に、人々の身体が反応している。
“赦し”は、上から与えられるやさしい言葉でいてほしい。
“選び”は、各々が背負う痛みの言葉だ。
神官長の翻訳機は、いま両者の境に乗った。
「そこで――」
彼は杯に視線を落とし、王の顔色を測った。
給仕頭がわずかに姿勢を変え、王は“老練”の極小の頷きで“続けよ”を返す。
舞台の達人たちは、誤差をごく小さな技で受け止める。
だからこそ、楔は深く入る。
俺は窓の蝶番にもう一度“無”を押し当てた。
高窓のひびが、静かに開く。
“外”の匂い。
虚無ではない。
海の匂い――潮の、遠い、昔の。 〈リタ〉の木箱の文字が、どこかで淡く笑った気がした。
「名で、確かめられる」
神官長は繰り返し、そして、痛みを伴う正しさの方を選んだ。
彼は翻訳機だ。
彼自身の思想ではなく、王都の“いま”を縫い合わせる音を知っている。
だから――今夜は、“選び”を受けるべき夜だと、喉が判断した。
美咲の指が、震え、止まる。
彼女の祈りは神に届かない。
しかし、人の背に置いた掌は、ほんのわずか、安心の温度になった。
支えは、呼べる手のこと。
彼女は、手を置く相手を、まだ選んでいない。
――選ぶだろう。今夜、か、明日か。
「閉祭礼を――」
神官長が結語へ入ろうとした刹那、広場の片隅で、細い咳がひとつ。
予定通りの“咳”。
俺は窓の縁に、最後の“ゼロ”を置いた。
高窓、王の真上、尖頂――三つの窓が同時に、無音で開く。
空が、吸う。
祈りの匂いと、油の匂いと、汗と花と、そして――言葉。
“赦し↓秩序”の翻訳経路が、三つの窓から外へ抜け、代わりに
“選び↓名”の経路が滑り込む。
音楽は、なお美しい。
しかし、疲れの音色は、嘘をづけない。 神官長の胸がわずかに痙攣し、彼は、自分の名を、ほんの小さく、呟いた。
祈りの翻訳機は、長く“自分の名”を文から外していた。
今、その名が、文に戻った。
翻訳機が、初めて、自分を主語にした。
「……私は――」
群衆は気づかない。
王は気づいた。
給仕頭は、見逃した。 美咲は、目を閉じた。
彼女は“見た”。
見た上で、いまは支えることを選んだ。
「閉祭礼」
神官長は結んだ。
「今日の“選び”の上に、明日の赦しがあることを」
拍手は、予定より半拍だけ遅れて起きた。
誰も不自然だとは思わない。
ただ、皆、少し疲れている。
疲れは、明日になれば忘れる。
――普通なら。
「降りる」
リュシアの声。
尖頂の窓が閉じ、ミリアの糸が王の頭上を縫い、俺は高窓から影に落ちる。
舞台の裏へ。
“言葉の針”は入った。
次は、個への干渉だ。
◇ ◇ ◇
大聖堂の北側の回廊は、陽が落ちるとすぐに冷える。
石の壁には古い祈祷文。
〈赦しは秩序を立て直す〉――刻まれた文の上に、いま、薄く“ 選び”の影が被っている。
「空刃」
背後から、名で呼ばれた。
白い衣の裾。
美咲だった。
正面から、彼女が俺を見ていた。
影に溶けたはずの輪郭が、視えないはずの“いない”が、今は、在るとして彼女の瞳に映っている。
窓が開くと、呼び名は届く。
“空刃”は、俺の“今の名”だ。
彼女はそれを見た。
「……春――」
彼女は、昔の名を口にしかけて、止めた。
自分で止めた。
彼女は、選んだのだ。
俺は、刃であり鞘でもある“今の名”で立っている。
“昔”を呼ばせる前に、彼女が、自分の“今”を選ぶ必要がある。 「空刃、でいい」
俺は言った。
美咲の喉が動き、彼女は頷いた。
「空刃。……あなた、なの?」
「俺だよ」
鞘が、内から温まる。
彼女の掌が、空気の上で俺の肩の位置を探し、そして、置いた。
支えは、呼べる手のこと。
彼女は、いま、俺を“呼んだ”。
「ごめんなさい」
それは、儀式的な言葉ではない。
“正しさ”のために誰かを差し出すとき、人は“ごめんなさい” を言う。
彼女は、三日間ずっと、その言葉を呑み続けていたのだろう。
――いま、それを選んで出した。
「謝るのは、あとにしよう」
俺は言った。
「順番がある。次は、言葉の主(ぬし)だ」
「神官長?」
「いや」
俺は視線を脇回廊へ滑らせる。
「――勇者だ」
高城蓮。
彼は祭の人波の外側、薄暗い側廊へ入って行った。
役者の幕を降ろす場所。 俺は影のまま進み、美咲は二歩後ろで気配を細くした。
リュシアは別の影から回り込み、ミリアは高所の欄干から糸を垂らす。
「……空刃?」
高城は立ち止まり、空気に向かって言った。
視えていない。
だが、今はもう、匂いと音と、言葉の重さが違う。
彼の胸には、さっき“選び”の針が微小の孔を残している。
そこから、言葉が沁みる。
「呼んだな」
俺は姿を半ば出した。
“いない”と“いる”の中間。
窓が開いた夜、言葉は届きやすい。
「俺は――」
高城は、柄に手をかけ、深く握った。
今日は、握れる。
彼は続けた。
「お前の名を、言えない。……まだ」
「まだ、だな」
俺は頷く。
「なら、代わりに言え。“誰の手”に支えられて立っている?」
彼は答えられなかった。
柄の握りは深い。
だが、目は、まだ支えを探している。
王の顔。神官長の背。美咲の瞳。
――そして、自分。
彼は、まだ、自分を選べていない。
その時、回廊の奥から、ゆっくりと足音。
神官長だった。
姿勢はまっすぐ、息は整っている。
ただ、胸の奥に、微かな“音のほつれ”を抱えている。
翻訳機は、今日、自分の名を文に置いた。
その痛みを、隠している。
「勇者殿」
神官長は言った。
「祭は終わる。言葉を、畳まねば」
「言葉は、畳めるのか」
俺が言う。
神官長の目は、俺の輪郭をなぞり、見えないと判断した。
だが、声の方向に、ほんの僅か、顔を向けた。
翻訳機は、音を拾う。
「畳めるとも」
神官長は静かに言った。
「言葉は、人が使う道具だ」
「じゃあ、今日の“選び”は?」
俺は続ける。
「それも、道具か。――人が、自分で使う道具か」
神官長は答えなかった。
代わりに、胸の奥で、小さく鳴った。
名だ。
彼は、自分を主語にした経験を、もう消せない。
翻訳の経路は変わった。
明日、王都の祈りは、少しだけ“選び”に敏感になる。
それが混乱か、更新かは、まだ分からない。
――それでいい。世界は、一拍で変わらない。
「空刃」
美咲が呼んだ。
支える手の温度が、背中に届く。
俺は頷き、最後の段取りに移る。
「高城」
名を呼ばないまま、俺は言う。
「剣を、置け。今日だけでいい。誰の手も借りずに」
空気が、止まった。
リュシアの影が笑い、ミリアの糸が震え、神官長の眉がわずかに動く。
高城は、剣を見た。
柄を、深く握っている。
その深さは、やっと、彼自身の手の深さだ。
彼はゆっくり、鞘に収め――置いた。
音が、しなかった。
広場の喧噪も、鐘の余韻も、いまは遠い。
彼の手は空を握り、そして、開いた。
“支えられている”手を、離した。
ほんのひと息分だけ。
「……また、来い」
彼は言った。
「次は、言えるかもしれない。……名を」
「来る」
俺は答えた。
鞘の内側で、刃が静かに呼吸する。
“空刃”。
呼ばれれば、在る。
呼ばれなくても、今は、在る。
◇ ◇ ◇
虚無城に戻ると、黒い窓外に、三つの“窓”が薄く灯っていた。
見えない。
けれど、確かに、そこに開いている。
リュシアが机に新しい図を広げ、ミリアが祈り糸を巻き直し、俺は胸の印を撫でた。
(空刃)
虚無の神が、ゆっくり、満ち足りた音で呼ぶ。
(言葉の針は入った。
“赦し↓秩序”は、“選び↓名”を必要とするだろう)
(さて――)
音が少しだけ低くなった。
(次は、天だ)
「神界」
リュシアが呟く。
「最初にあなたが喰った“残滓”の本体」
ミリアは頷き、窓外の三つの灯を指先で結んだ。 「空は、もう開く。……でも、私たちは人。
上に行くなら、下をほどき直してから。
書記官、給仕頭、神官長、勇者――“人”の秩序を壊しっぱなしにしない」
順番。
復讐は段取りだ。
壊し、ほどき、結び直す。
名は、刃であり、鞘。
俺は二人を見て、短く呼んだ。
「リュシア」
彼女は振り向き、笑った。
「はい、空刃」
「ミリア」
「ええ、空刃」
呼び合う。
支え合う。
鞘の内側が、温い。
窓外の黒に、見えない星がひとつ灯った気がした。
それは、もしかすると――海の匂いの、遠い灯。
〈リタ〉。
祭の終わり、少女は海を見ただろうか。
一度遅れた配給のパンは、今夜は温いだろうか。
答えはまだ、いらない。
俺たちは、順番にやる。
人の秩序を結び直し、天の秩序を切り開く。
「行こう」
俺は、刃を静かに鞘から半分だけ抜き、音を確かめた。
虚無は震えず、空は吸い、言葉は燃える。
「次の窓へ」
(第7話・了)
第8話 名の梯子、天の縫目
夜が、鳴っていた。
風ではない。
言葉が擦れ合うような、低い音の波。
それが“上”から降りてくる。
虚無城の大広間で、三つの窓が淡く光っていた。
ひとつは王の頭上の残滓。ひとつは高窓の縁。ひとつは尖塔の先。
それぞれに淡い輪が浮かび、揺らめきながら糸を伸ばしている。
「梯子の素材は、名」
リュシアが言った。
「この三日で動かした“人の名”を束ねる。勇者、高城蓮。聖女、美咲。神官長エイダス。……そして、あなた自身」
ミリアが虚無石を掲げ、光の中に細い線を描く。
「糸をかけるには“記憶の音”が要る。思い出じゃなく、声の形
――呼び名の音素」
俺――空刃は頷き、胸の印に手を置いた。
心臓の鼓動と一緒に、いくつかの声が浮かぶ。
〈春斗〉、〈空刃〉、〈生贄〉、〈無名〉。
それらが、ひとつの綱のように絡まり、光の筋に吸い込まれていく。
(器)
虚無の神の声が、低く鳴った。
(梯子は、人の名でしか繋げぬ)
(神の名は上から下を断つ。人の名は、下から上を縫う)
「つまり、神界へ行くには――“人間らしく”登るしかない」
リュシアが笑った。
その笑いは、戦場で笑う者の硬さを帯びている。
「皮肉ね。神を壊すために、人であれ、なんて」
「いいじゃない」
ミリアが糸を撫でる。
「人のまま、天を縫うなんて。祈りの形としては、最高に美しい」
俺は黙って、光の糸に指を触れた。
――温かい。
けれど、同時に冷たい。
上の世界に触れるたび、虚無の底がざわめく。
「準備はいい?」
リュシアの声が鋭くなる。
「この梯子を登るとき、名が試される。
途中で自分を疑えば、糸が解けて落ちる」
「落ちたら?」
「二度と“人間”には戻れない」
ミリアが一歩前へ出る。
「行こう。……空刃」
呼ばれる。
名が鳴る。
それだけで、足元の光が強くなった。
――俺は、刃であり、鞘でもある。
呼ばれれば在る。
呼ばれなければ、虚無に還る。
梯子を踏み出す。
◇ ◇ ◇
最初の一段は、柔らかかった。
糸が歌のように震え、足を受け入れる。
音がする。
高城蓮の声――「僕は、怖かった」。
その震えが、踏み石のように俺を支えた。
次の段は、熱かった。
美咲の声――「ごめんなさい」。
その音の温度が、掌に残る。
赦しの言葉は、道を焼く火。
痛みを越えれば、上に行ける。
三段目、空が揺れた。
神官長の声――「私は」。
主語を取り戻した者の言葉。
名が文に戻る瞬間の力が、梯子をひと段、押し上げた。
「順調ね」
リュシアの声が下から届く。
「でも、次からは“神の領域”。そこでは、言葉が通じない」 ミリアの祈り糸が、俺の背に絡む。
「言葉が通じなくても、想いは通る。……それが、人だから」
光が変わる。
上層の空が、黄金から白銀へと転じ、やがて無色へ。
色がなくなると、音がなくなる。
音がなくなると、名がほどけていく。
胸の印が焼けるように熱い。
“空刃”という響きが、風に削られる。
“空”が“無”に近づき、“刃”が“欠片”になる。
(器)
虚無の神の声が、どこかで笑う。
(上では、言葉が解ける。
それでも、登るか?)
「登る」
俺は答えた。
「神が名を奪うなら、俺は“名を刻む”」
虚無石が反応し、刃の形を取る。
名を刻む刃――空刃。
無色の空を裂くと、そこに“縫目”が現れた。
縫目は光の線。
だが、それは綺麗ではない。
ほつれ、焦げ、ところどころ黒ずんでいる。
まるで、世界の裏側に貼られた“継ぎ当て”のようだ。 「ここが……神界の縫目?」
ミリアが息をのむ。
「こんなに、壊れている……」
リュシアが目を細める。
「理そ(ことわり)のものがほころびている。神は、もう長くないわね」
「だったら、壊す価値もない」
俺は言った。
「ただ――正すだけだ」
光の縫目に、刃を突き立てる。
裂ける音がした。
だが、それは“悲鳴”ではない。
“呼び声”だった。
〈誰が、名を刻んだ?〉
声が降る。
無数の声。
祈りでも怒りでもない、ただの問い。
「人間だ」
俺は叫ぶ。
「神に名前をつけられた、人間が――自分の名を取り返しに来た
!」
刃が光り、縫目が開く。
そこに、巨大な瞳があった。
金でも銀でもない、色のない目。
その瞳が、俺たちを見下ろす。
「神だ……」
ミリアが呟いた。
「いや、違う」
リュシアが冷たく言う。
「神だったものよ。……もう形を保てていない」
光が降り注ぎ、空刃の胸を貫いた。
焼ける。
だが、痛みは恐怖ではない。
理解だ。
上にいるものの、孤独。
見下ろすしかない存在の、底なしの虚しさ。
〈名を、くれ〉
声が言った。
〈私は、名を失った。だから、名をくれ〉
リュシアが顔を上げた。
「空刃。与えたら、取り込まれる」
ミリアが涙を流す。
「でも、名を失った存在を見捨てるのは、神じゃない。……人でも、ない」
俺は刃を握り、静かに言った。
「――なら、“共に呼ばれる”名を作ろう」 刃の先を光に当てる。
「空」と「無」の間に、ひとつの文字を刻む。
“宙”。
それは、虚と天のあいだを結ぶ字。
光が反応し、震える。
〈宙〉という音が、神界に響く。
〈宙……刃……〉
声が微笑んだ。
〈それで、いい〉
光が静まり、空が再び色を持つ。
黄金でも白でもない、柔らかな群青。
梯子が震え、下界と天界がひとつの線で結ばれる。
「……やったの?」
ミリアが問い、リュシアが頷く。
「ええ。神の名は“人の名”の中に還った。
もう“上”と“下”を隔てるものはない」
胸の印が脈打ち、俺は空を見上げた。
星が、ひとつ、瞬いた。
まるで、神の“瞳”が、微笑んでいるように。
「空刃――いえ、宙刃」
リュシアが言った。
「あなた、もう“刃”じゃなく、“橋”よ」 「そうかもしれない」
俺は笑った。
「けど、まだ終わりじゃない。
名を結んだなら、今度は――世界を呼び直す」
虚無城の下で、地上の鐘が鳴った。
祭の余韻は終わり、夜が始まる。
新しい“呼び名”の夜が。
第9話 呼び名の夜、世界の再配置
夜は、名前を欲しがる。
昼は役で足りるが、夜は素肌の呼び名でしか呼び合えない。
“宙刃(そらは)”として梯子を降りた俺は、その当たり前の重さに、少しだけ笑った。
虚無城の窓外、黒い空に三つの窓は残っている。
見えないが、そこに“開いて”いる。
尖頂の窓は冷たく、王の頭上の窓は温かく、高窓の窓は風の匂い。
――結び直す夜だ。
「再配置の計画を始めるわ」
リュシアが地図を広げる。
王都の図、その下に祈りの回路の写し、さらに下に、俺たちが穿った三つのひびの位置。
「人の秩序は、壊しっぱなしにしない。順番よ。
一、手(書記官)へ返す。二、匙(給仕頭)へ返す。三、言葉
(神官長)を返す。
同時に――勇者の“心”に再び楔」
ミリアが糸束を指で梳く。
「“返す”って、優しい響きだけど、やることは厳しいよ。
返す相手に、“選ばせる”から」
「人の名で上を縫った。なら、下は人の“選び”で結ぶしかない」
俺は頷いた。
宙刃――刃は橋になり、橋は刃である。 結ぶときも、切る覚悟で立つ。
◇ ◇ ◇
最初に向かったのは、神殿地下の書記局。
夜勤の灯。乾いたパンの匂い。
机には、まだ“家印”の小箱――〈リタ〉。
副官が背筋を伸ばして帳面に線を引いていた。
眠る書記官の肩には、薄手の布。赤子にかけるみたいに優しい。
「こんばんは」
ミリアが先に出る。
白い衣の裾を夜色の外套で隠し、祈りの指をほどいて――ただの女の手で。
副官は顔を上げ、目だけで笑った。
「……来ると思ってました。祭の夜は、いつもだれかが“来る”」
「楔を打ったのは私たち。でも、今日返しに来た」
リュシアが机の端に指を置き、軽く叩く。
「回路核に入れた遅延は、明日には“習慣”に置き換わる。
あなたが選んだ“見逃し”が、路を残す」
副官はしばらく黙り、帳面を閉じた。
「見逃しました。……わざと」
彼女は机の下、俺が穿った微少な孔を足先で示す。
「ずっと、“正しさ”が怖かった。
正しい回路、正しい順路、正しい配給――。
でも、あの子が熱を出した夜、正しさは遅れて帰ってきた」 箱の印――〈リタ〉。
副官はそこに指を置く。
「だから、遅れを、見逃した。
正しさが、少し“人に合う”ようになるために」
「選んだのね」
ミリアが微笑む。
「それが“返す”ってこと。
あなたは翻訳の片棒を担いだ――“秩序⇔選び”の間で」
俺は箱の蓋を一度だけ持ち上げ、また閉じた。
中には硬貨が二枚。旅の小さな準備。
「海を、見に行くといい」
副官が目を瞬かせる。
「……聞いて、たの」
「匂いで分かった。潮の匂いは、遅れて来る」
別れ際、彼女は俺の影を正面から見た。
「空刃、ですね」
「宙刃でもいい」
彼女は頷き、言葉を選んだ。
「……ありがとう。見逃さないでくれて」
“見逃す”ことは易い。
“見逃さないで見逃す”ことは、痛い。
その痛みは、役ではなく、素肌の痛みだ。
◇ ◇ ◇
次は王城の厨房裏――搬入口。
夜の終わりに近く、熱も蒸気も落ち着きかけ。 鍋と皿の金属音だけが、低い子守唄のように響いている。
給仕頭は椅子に腰掛け、指先で空の匙を何度も掬っては戻す練習をしていた。
あの“遅れ”を、たぶんもう一度、今度は自分の手で再現しているのだ。
彼は顔を上げても、驚かなかった。
「来たか。……三日目は、昔から難しい」
「あなたの匙は、達人の匙だった」
俺は言った。
「遅れを救った。
だから今日は、遅れを、あなたの手で“選べ”」
老人は笑った。皺の中が若い。
「王は、固いものが苦手でな」
「知ってる」
「だから柔らかくする。
でも柔らかいだけじゃ歯が弱くなる。……少し噛ませる」
彼は空匙に、見えない“時間”をすくった。
「明日の朝餉、粥を一口、“遅らせる”。
王は最初の空腹で焦るが、自分の歯で次の一口を噛むだろう」
リュシアが目を細める。
「それ、危うい綱渡りね」
「綱は、渡るためにある」
老人は立ち上がり、作業台に置かれた大鍋の蓋を静かに戻した。
蓋が鳴らない。
完璧な“置く”音。
「あなたは達人だ」
俺は頭を下げた。
老人は首を振る。
「いや。“人”だ。
人は、匙を持つ。
誰かの口に入る前の、最後の時間を、測る役だ」
見送って外へ出たとき、搬入口の石畳に、誰かが落としたパンの端があった。
昨日より乾いていない。
遅れた配給は、今夜は温いらしい。
それでいい。
◇ ◇ ◇
三つ目――言葉の主(ぬし)。
大聖堂の内陣。
灯は落ち、香は薄く、石の冷気が戻っている。
祭の余韻を掃く侍祭たちの足音が、回廊で小さく跳ねた。
神官長エイダスは、一人で椅子に座っていた。
書板は閉じ、喉には蜂蜜の小瓶。
彼は俺たちを見ると、ほんの少しだけ、楽そうに息を吐いた。
「来ると思っていたよ。……“言葉の後始末”は、言葉でやるのが礼儀だ」
「礼儀を知る翻訳機は、長生きする」
リュシアが言い、ミリアが胸に手を当てる。
「あなたは、今日、自分の名を文に置いた。 それは、きっともう、消せない」
神官長は微笑む。
「わたしは翻訳機だ。
だが、機械は、受け取った“選び”をそのまま渡せるほど正確ではない。
わたしの“癖”が混ざる。――だから名を置いた。責任の意味で」
「明日からは?」
俺が訊くと、彼は喉を潤し、答えた。
「祈りを、“赦し”に翻訳する前に、“選び”を訊くさ。
“誰が何を選んだか”。
それを文に残す。
赦しは上から降る歌ではなく、あとで読み返せる記録でもあるべきだ」
“記録”。
俺の胸で刃が静かに鞘鳴りする。
名を刻む。
刻んだ名は、読み返せる。
それは、過去を生き直す術だ。
「ありがとう」
俺は言って、肩の重みが少し落ちたのを感じた。
神官長は首を横に振る。
「礼を言うのは、わたしだ。
三十年ぶりに、言葉が楽しかった」
別れる前、彼は美咲に目を向け、浅く会釈をした。 「あなたの掌は、よい支えだ。
“選び”の夜は、支える手が必要だ」
美咲は深く息を吸い、頷いた。
◇ ◇ ◇
再配置の三手が済むと、夜の深いところが口を開く。
影は濃く、音は沈む。
その底で――勇者の“心”が、もう一度、音を立てた。
高城蓮は、広場に面した側廊の外へ出て、ひとりで空を見ていた。
役の鎧ではなく、軽い外套。
手に剣はない。
浅い握りの癖は、もう出ていない――握るものがないからだ。
「空刃」
先に呼ばれた。
気配を隠さず、石段の影から出る。
「呼んだな」
「うん」
彼は肩で息をし、正面から俺を見る。
見えていないはずの輪郭を、言葉の重さで捉えた顔。
「さっき、剣を置いたあと、手が空になって、怖かった。
でも、少しだけ、楽にもなった」
「空のまま立つのは、難しい」
俺は石段に腰をかける。
「だから、支えを選ぶ。
王でも、神官長でも、美咲でも、自分でも――選んで、呼ぶ」 高城は、時間をかけて頷いた。
「名を……言っていいか」
背骨が、内側からひやりとする。
祭の三日目に彼が言えなかった、俺の昔の名。
ここで求めるのは、彼の“選び”だ。
「……俺は、今“宙刃”だ」
ゆっくり、言葉を選ぶ。
「昔の名は、俺たちが取り戻すときに使う。
いまは、呼ぶな。
お前が自分の“支え”を選ぶまで」
高城は目を伏せ、唇を噛む。
やがて、顔を上げた。
「わかった。
……僕は、僕を支えるのに、まず“僕の名”を呼ぶ。
それから、空刃を呼ぶ。
――“手”になってくれ」
胸の奥で、音が小さく鳴った。
それは、怒りではない。
許しでもない。
承認。
刃であり橋である者が、他者の“選び”を受ける音。
「役者じゃないお前の手で、もう一度、握り直せ」
俺は言って立ち上がる。
「明日、王の前で“空の手”を見せろ。
剣を抜かずに――名を言え」 高城の喉仏が上下し、拳が、空を握って、開いた。
「やってみる」
彼はそう言い、振り返った。
広場の遠い灯に向かい、少年の背で歩き出す。
◇ ◇ ◇
虚無城へ戻る途中、白い衣の裾が俺の袖をそっと引いた。
美咲だ。
彼女は月の出ない夜に似合う、細い声で言う。
「空刃。……“昔の名”、私は、今は呼ばない」
「選んだのか」
「うん」
彼女は真っ直ぐに俺を見る。
掌は軽く開かれ、支える準備をしたまま。
「私の“支え”を、私が選ぶ。
それから、あなたの“支え”になりたいか――それも、私が選ぶ」
喉の奥が少しだけ熱くなる。
それは祈りの熱じゃない。
人が“人”に向かうときの熱だ。
「……遅れていい」
俺は言う。
「遅れは、跳べる距離になる」
彼女は笑った。
副官の笑みと、給仕頭の笑いと、神官長の安堵と、勇者の戸惑い。 それらがぜんぶ混ざったような、いい笑いだった。
◇ ◇ ◇
虚無城の灯は、今日はよく燃える。
黒い灯が連なり、回廊の影を柔らかく撫でていく。
窓外に三つの窓――その縁に、細い星の粒がいくつも刺さり始めていた。
人の“選び”が、夜空に生まれた小さな恒星。
この街は、知らないうちに、少しだけ自分のほうへ傾いた。
「最終工程を共有するわ」
リュシアが示した新しい図に、俺は目を凝らす。
「“呼び名の夜”の後始末よ。
回路のゆがみは“記録”へ流す。
厨房の遅れは“日取り”へ吸収。
翻訳の誤差は“注釈”に落とす。
そして――“天”の縫目は、“宙刃”の梯子で固定」
ミリアが祈り糸を梯子に絡め、真綿のような光を通す。
「祈りを戻すんじゃない。祈りを“使える”ようにするだけ。
上と下、どっちにも届く糸に」
「上による次の反応は?」
俺が問うと、虚無の神が遠くで低く鳴った。
(天の残骸は、静かに満ちる。
だが、“神官”を名乗る別のものが、空の窓を嗅ぎ付ける)
(“秩序の再翻訳”を謳う者たちだ) リュシアが口角を上げる。 「王都の古い宗派ね。
“選び”を怖がる声は必ず湧く。
――歓迎しよう。舞台が整う」
ミリアが少し真顔で俺を見る。
「宙刃。あなたは刃であり橋。
“人”を傷つけず、“仕組み”を切る道を、選び続けて」
「選ぶ」
短く返す。
名は刃で、鞘でもある。
抜くのは、的の上。
的を間違えたら、刃を鞘に戻す。
◇ ◇ ◇
夜半、窓外の一つに変化があった。
尖頂の窓――天の縫目の近くで、逆向きの糸が一本、こちらへ伸びてきたのだ。
香の匂いに似ているが、甘さが強すぎる。
鉄を覆い隠す香。
“秩序の再翻訳”を謳う、古い宗派の術式。
(来た)
虚無の神の合図と同時に、城の灯がわずかに沈む。
リュシアが杖を取り、ミリアが糸を構える。
俺は鞘の縁に指をかけ、“宙刃”を半寸だけ抜いた。
声にならない声が、窓の向こうから低く囁く。
〈名を、返せ〉
〈赦しは秩序だ。選びは祈りを乱す〉
〈名は、上から与えられるべきだ〉
「――遅い」
俺は言った。
「名は、返さない。
呼び直すだけだ」
刃が光り、逆向きの糸を一息に断つ。
切断面は滑らかで、血は出ない。
人の身体ではない、“仕組み”の血管だからだ。
ミリアの糸が切り口を縫い、リュシアの炎が表面を焼き締める。
〈不敬〉
声が一瞬、震え、すぐに消える。
窓の外が静かになった。
灯が戻る。
虚無城は息を吐き、黒い天井に小さな星が増える。
「第一波、払ったわ」
リュシアが杖を肩に担ぎ、顎をほんの少し上げた。
「でも、二波、三波は来る。
明日は王城で“言葉の記録”が始まる。そこへ口を挟みに来るはず」
「――迎え撃つ準備、する」
ミリアが頷き、祈り糸を束ね直す。
「“支え”の手を増やす。
副官にも、給仕頭にも、神官長にも。
みんなで、選んだことを記す」
俺は窓外を見た。
見えない窓は、確かに呼吸している。
どこか遠く、潮の匂いがほんの少しだけ濃くなった。
〈リタ〉の箱の蓋は、きっと明日、もう一度開く。
海は逃げない。
遅れは、跳べる。
◇ ◇ ◇
夜明け前。
虚無は一瞬だけ、昼より白い。
その刹那、胸の印が静かに熱を持ち、遠い方角で――教室の匂いがした。
“クラス全員異世界転移”。
あの、始まりの匂い。
机のニス、黒板の粉、昼休み明けの熱。
匂いは、窓のさらに向こうから来た。
王都ではない。
神界でもない。
――俺たちの“元の世界”。
(器――いや、宙刃)
虚無の神が、慎重に言葉を置く。
(戻り路が、薄く、見えた)
(名を刻み、橋を掛け続ければ、いずれ――)
言葉はそこで切れた。
切ったのは、俺だ。
胸の奥で、何かが叫ぶ。
喜びでも、恐怖でもない。
選びの声だ。
「順番だ」
俺は息を吐き、二人に向き直る。
「王都の“人”を結び直す。
宗派の“仕組み”を切る。
勇者の“心”を、もう一度、握らせる。
それから――戻り路を、開く」
リュシアが笑う。
「ええ。
あなたが帰る場所は、もうひとつ、増えたのだから」
ミリアが微笑む。
「呼び名で、帰ってきて。
“宙刃”でも、“昔の名”でも。――あなたで」
名は、刃で、鞘で、橋だ。
呼ばれれば、在る。
呼ばれなくても、もう、俺は在る。
夜がほどけ、王都の鐘が、一日の最初の音を打った。
――呼び名の夜は明けた。
次は、記す朝だ。
(第9話・了)
第10話 記す朝、異議の声
朝の光はまだ眠っていた。
王都の鐘が一度だけ鳴り、音が空の窓へ吸い込まれる。
――呼び名の夜が明け、“記す朝”が始まる。
大聖堂前。
群衆が押し寄せていた。
「記録(きろくぎ)儀」――神官長エイダスが提唱した新しい儀式。
これまで祈りは「唱え」るものだったが、今朝からは「書く」ものになる。
祈りを“記す”とは、神ではなく人のための行為。
人が自分の“選び”を、自分の手で残すための行事だ。
けれど、当然ながら――異議が出る。
祭服に身を包んだ古い宗派の神官たちが、列を成して進み出た。
白い香を焚き、低い声で唱える。
「祈りは声に宿る。文字に閉じるものにあらず」
「記す者は、神の言葉を盗む者なり」
その声が広場を震わせる。
観衆がざわめき、恐怖と好奇の中で、誰もが“初めての朝”をどう受け止めるか決められずにいた。
エイダス神官長は壇上に立つ。
「祈りは声に宿る。だが、声は消える。
残るのは、記す手の跡だ」 筆を取る。 その一画目の音が、鐘よりも静かに、しかし確実に響いた。
その瞬間、空の窓が小さく震えた。
虚無の神の声が、低く、俺の胸を叩く。
(来た。
“秩序の再翻訳”が、文へ干渉する)
空気がざらつく。
広場の空の縁に、白い裂け目。
香の匂いが強くなり、透明な糸が天から垂れてくる。
糸の中には“文字”が流れていた。
「赦」「統」「序」――三つの神字が、まるで血管のように這い降りてくる。
リュシアが杖を構えた。
「言葉で来たわね。物理より厄介」
ミリアが糸を構え、祈りを結び直す。
「宙刃。あなたの番」
「了解」
俺は胸の印に手を当てる。
刃は、橋だ。
“名を刻む”力は、言葉の根を切る力でもある。
「――“宙刃”、抜刀」
名を呼ぶ。
音が世界を貫く。
刃が光を裂き、三本の神字に食い込む。
「赦」は涙を流し、「統」は震え、「序」は裂けた。 だが、消えない。
まるで生き物のように、断ち切られた文字が再び絡み合う。
「不敬だ!」
古い神官が叫ぶ。
「文字を傷つけるな! それは神の骨だ!」
俺は静かに答えた。
「骨を残すな。歩ける脚を返せ」
刃をひねる。
文字が砕け、白い粉が風に舞った。
その粉は、やがて誰かの手の上に落ち、インクのように染み込む。
“記す”ための色になった。
ミリアが微笑み、声を重ねる。
「祈りを唱えたら、手で記して。
――“あなた”の言葉で」
広場の誰かが筆を取った。
震える手で、一文字だけ書いた。
“わたし”。
その一字が風に乗り、他の人々も筆を取り始める。
「母」「息子」「帰る」「遅れて」「好き」「選ぶ」。
それぞれの言葉が、声よりも静かに、だが確実に世界を再配置していく。
エイダス神官長が筆を置き、俺たちを見た。
「――これが、祈りの“翻訳”だ。
神の言葉を、人の記録に」
古い神官たちは沈黙した。
一人、白衣の老女が前に出て、筆を手に取った。
「……わたしも、書こう」
彼女が書いたのは、たった二字。
“許す”。
だがその字は、今までの“赦”とは違った。
柔らかく、人の手の温度があった。
「成功だな」
リュシアが小さく笑い、杖を下ろす。
ミリアは空を見上げ、安堵の息を漏らした。
「選びが、世界を動かした……」
だが、虚無の神の声は静かに告げる。
(まだ、ひとつ)
(“戻り路”が、完全ではない)
(記録は始まったが、起源が揺れている)
「起源?」
俺が問うと、神は沈黙した。
沈黙の中に、あの匂い――黒板の粉、教室の午後。
そして、鐘の音ではなくチャイムが聞こえた。
ミリアが顔を上げる。
「宙刃。今の、音……」
「――俺たちの世界だ」
言葉が喉で震える。
「戻り路が、開きかけてる」 リュシアが眉を寄せる。
「でも“記録”の糸を通すには、こっちの世界の主語を安定させなきゃ」
「つまり、“誰の物語”で帰るかを決める」
「そう。あなたの“昔の名”を、呼ぶ権利を選ぶ」
美咲が一歩、前に出た。
「――私が、呼ぶ」
風が鳴る。
朝の光が強くなる。
人々の筆が止まり、祈りの文が光る。
美咲の声は震えていた。けれど、確かだった。
「私は、あなたを“人”として呼ぶ。
“生贄”でも“虚無”でもない、あなたの本当の名を」
俺は笑った。
「なら、呼べ。――選びとして」
光が爆ぜる。
世界が二つに割れ、文字が宙を舞い、時間が逆巻く。
教室のチャイムが響き、机の上のペンが転がる。
窓の外の空は、王都と同じ群青色だった。
――呼び名が、交わる。
(第10話・了)
第11話 教室が割れる、主語を選べ
世界が、耳元で紙を裂く音を立てた。
茜の群青にゆっくり溶けていた王都の空が、突然、蛍光灯の白さで切り取られる。
木の匂いの代わりに、ワックスの床。
香と鐘の代わりに、チャイム。
――教室だ。俺たちの教室が、王都の広場の上に重なった。
黒板の前に、見慣れた机。
窓の外には、城壁の尖塔が“現代の校舎越し”に突き出している。
視線を戻すと、教卓の横に美咲が立っていた。白い衣の上に、うっすらとセーラーの影が重なる。
彼女は震えた唇で、もう一度、俺を呼ぶ。114
「――宙刃」
呼び名は、刃を鞘で包む。
胸の印が落ち着き、足元の床が二重に見えるのが止む。
王都の石畳と、教室のフローリング。
どちらも、今は俺の地面だ。
(器――宙刃)
虚無の神の声が遠くで鳴り、すぐ薄くなる。
(この“交差”は長くは持たぬ。
誰の物語で繋ぐか、今、選べ)
「主語の選定だって」 リュシアが、教室の後ろ扉に“半身だけ”もたれながら言う。彼女のドレスはブレザーの影を借り、妙に平然だ。
ミリアは前列の机にそっと手を置く。
「祈りは今“記録”と交差してる。どちらの文法で話すか――それで、戻り路の“向き”が決まる」
教室の左右で、二つの人波がざわめいた。
片側は王都の人々。記録儀の筆を握った手。
もう片側は、制服のクラスメイトたち。
高城蓮が、教室の中央通路に立っていた。
剣はない。代わりに、生徒手帳を握っている。
彼は、深く息を吸い、教壇に向かって歩く――空の手で。
「みんな、落ち着いて」
美咲が、板書のチョークを一本、手に取る。
白い粉が指に移り、祈りの糸と混じって、光を帯びる。
「“記す”の。私たちの言葉で」
「記すだと?」
右側列の後方――宗派の僧服が割れて、一団が進み出た。
白布に古い金糸の文様。
その先頭の老神官が、教室の天井の蛍光灯を睨みつける。
「子供の落書きを“祈り”と呼ぶな。祈りは授けられるものだ」
「授けられた言葉は、いつか“忘れられる”」
俺は前に出る。
「だから記す。忘れる権利の上に、思い出せる責任を置く」
老神官が杖を床に叩く。
その衝撃で、教室の床と王都の石畳が一瞬ズレ、二重の振動が喉を打った。
「異界の名をここで語るな、宙刃」
彼は俺の名を正しく発音した。
――つまり、俺を見ている。
「名は上から降る。名を“選ぶ”など、不遜の極み」
「不遜でいい」
リュシアが教卓に片手を置き、肩で笑う。
「“選ぶ”に責任が付くなら、私たちは幾らでも払うわ。段取りで」
ミリアが静かに、チョークで黒板に縦線を一本引く。
「文法の交差点を作るね。
左は“祈り”の語法、右は“記録”の語法。
中央は“選び”の語法――主語が先に来る」
黒板に、三つの列。
彼女は最上段に大きく書いた。
〈わたしは、〜を祈る/記す/選ぶ〉
静まり。
だが、その静寂に割り込む声があった。
教室後方――窓際の最後列。
黒髪を無造作に結んだ女子が、笑った。
「うわ、まだ続けてたのそれ。茶番でしょ」
――朱音。
俺の胸の奥で、古いベルが鳴る。
彼女は、あの日、俺の机に花を置いた。
“お悔やみ”。
彼女は泣かなかった。
代わりに、俺を笑った。
「主語? 責任? 選べるわけないでしょ。
先生が言った“正しいこと”をみんなでやるの。
それが楽じゃん」
クラスの何人かが、安心するように頷く。
責任は重い。俺だって何度も落としかけた。
けれど――
「楽は、空っぽを育てる」
高城が言った。
生徒手帳を握る手は、深い。
「俺は、空の手で立つ。
誰の“正しさ”にも寄りかからず、まず自分の名を呼ぶ」
朱音が鼻で笑う。
「じゃあ呼んでみなよ。できないくせに」
高城は、俺を見ない。
俺を見たら、役に逃げるからだ。
彼は前を向き、腹から息を出して――
「高城蓮。……俺は、俺の名で立つ」
黒板の中央列“選び”の下で、文字が光った。
チョークの粉が微かに舞い、王都の窓が呼吸する。
群衆のどこかで、子どもの声が混ざった。
〈リタ〉。
遅れて届く潮の匂いが、教室の蛍光灯の熱を洗う。 老神官が舌打ちをし、衣の袖から細い巻物を引き抜く。 そこから白い糸――“秩序の再翻訳”が教室に伸びる。
巻物の行間には、神字がびっしり。
「ここは授業だ。教師は私だ。主語は上から決まる」
「いいや、主語は人が決める」
俺は刃を半寸だけ抜く。
“宙刃”。
真横へ、すっと滑らせる。
白い糸が切断され、紙の匂いが散った。
切断面をミリアが縫い、リュシアが焼き締める――仕組みだけを断ち、人は傷つけない。
教壇の端――美咲が一歩、前に出た。
「先生。……いいえ、神官さま。お願いがあります」
老神官の眉がぴくりと動く。
「祈りを、記させてください。 私たちの“選び”と一緒に。
あとで読み返すために。
“赦し”が誰の上に置かれたか、忘れないために」
沈黙。
老神官の眼差しが揺れる。
彼は、今日、広場で見たはずだ。
“赦”の字が、骨のように硬直していたのを、粉に砕いて、人のインクに染めた瞬間を。
――そして、彼は杖を床から離し、巻物をそっと閉じた。
「記せ。
ただし――読むのは、私もだ」
「もちろん」
エイダス神官長が教卓の陰から現れ、筆を渡す。
「記された言葉は、誰でも読める。 あなたも、私も、子も、王も。
だからこそ、記そう」
板書の列のうち、右列“記録”が明るむ。
黒板の粉が星のように光り、教室と広場を同時に照らす。
クラスの誰かがペンを取り、王都の誰かが筆を取った。
それぞれの“主語”が、ばらばらのリズムで、しかし確かに並び始める。
――その時だ。
床が、低く唸った。
教室と広場の境に、縫い目のようなひびが走る。
王都からは香の風、教室からはクーラーの風。
両方に、別の影が差し込んだ。
祭服でも制服でもない。
白衣――研究棟の匂い。
細い眼鏡の青年が、教室の後方扉を開けた。
「君たち、勝手に……って、なにこれ」
彼は“教師”ではない。
非常勤の大学院生、実習で来る観察者。 彼の背後で、別の世界の糸がちらつく。
元の世界の制度。
出席簿、評価、レポート。
紙で人を測る、記録の秩序。
虚無の神が低く鳴る。 (記録の秩序が、こちらにも干渉してくる)
(“人のための記録”と“人を縛る記録”は紙一重だ。選べ)
リュシアが目線だけで俺に問う。
ミリアの指が黒板の“記録”列を撫で、わずかに震える。
美咲はチョークを握り直し、エイダスは筆を構える。
高城の手は深い。
朱音は、笑う準備をしている。
「――主語は、変えない」
俺は黒板の中央、“選び”の下にもう一文字、書く。
〈わたしは、わたしを記す〉
「記録は“人”のために。
手続きが人を縛り始めたら、手続きを切る」
白衣の青年が眉をひそめ、手帳を開く。
「勝手な集会は許可が……」
その言葉に、教室側の空気が萎みかける――が、エイダスの筆が先に走った。
彼は青年の言葉を写し取り、文末に注記する。
〈許可:誰が、何のために、誰に対して〉
主語を問う注釈。
青年は口を閉じ、手帳を見つめ、次の言葉を探す。
手続きだけでは、場は動かない。
誰のためかを問われるからだ。
老神官が咳払いをし、巻物を胸に抱え直す。
「どうやら、今日は読む日だな」
彼の背後の僧衣の列が、少しだけ肩の力を抜く。
朱音が、まだ笑っている。 「ねえ、宙刃。そんなの続くと思ってんの?
“わたしは、わたしを記す”――大変じゃん。
誰もやらなくなるよ、明日には」
俺は笑い返す。
「いいさ。
“遅れて”来ても、跳べる」
朱音の笑顔に、一瞬だけ、揺れが走った。
それは、あの日、彼女が俺の机に花を置いた後、窓の外を見たときの揺れに似ている。
彼女は誰よりも先に、“楽”の空虚さを知っていたのかもしれない。
だから先に笑った。
笑って、距離を取った。
――その選びを、俺は記す。
チョークが黒板の端で折れ、小さな音が鳴る。
窓の向こうで、王都の鐘が重なる。
“交差”の時間が、尽きかけている。
美咲が、俺の袖を引いた。
「宙刃。昔の名――今は、まだ呼ばない。
でも、帰り路を決めたい」
「決めるのは、お前だ」
「ううん。私たち」
彼女は黒板の“選び”列の一番下へ、震える字で書いた。
〈わたしたちは、帰る順番を選ぶ〉 高城が頷く。 「まず、人の秩序を結び直したこの街を、置いていけるか。
“戻る”ことと“残す”こと、両方を主語にして考える」
エイダスが筆を止め、老神官が巻物を閉じ、白衣の青年が手帳を下ろす。
全員がいま、主語を待っている。
俺は息を吸い、刃の内側で言葉を研ぐ。
胸の印が、静かに熱を帯びる。
“宙刃”――刃であり、鞘であり、橋。
“春斗”――過去と机と、教室の匂い。
(器)
虚無の神が、やさしく鳴く。
(叫んでもいい。
どちらの名でも)
俺は黒板に向き直り、チョークを握った。
そして、中央の列――“選び”の下に、はっきりと書く。
〈**きょうは、“宙刃”で話す。
“春斗”は、帰り路の鍵にする。〉
教室と広場が同時に息を吐いた。
交差の継ぎ目が少しだけ安定し、窓の群青が深くなる。
美咲が頷き、リュシアが笑い、ミリアが糸を結ぶ。
高城は空の手を握り直し、朱音は視線を窓に逃がす――それでも、逃げ切らない目で。
「段取りを言う」
俺は全員に向けて宣言する。 「一、記録儀を今日一日で制度にする。
二、“選び”を文頭に置く様式で“記録”を統一。
三、明朝、王城で帰り路の議(ぎ)を開く。
四、帰る者、残る者、それぞれ主語で名を記す。
五、帰路の鍵“春斗”は、最後に呼ぶ」
老神官が小さく笑った。
「段取り、悪くない」
エイダスは筆の先で空を指し、白衣の青年は机の端に腰を掛け、ペンを踊らせ始める。
“観察者”が“記す人”に変わる音がした。
朱音は、黒板の“わたしたち”の“たち”を、じっと見ている。
――そのとき。
窓の外、尖塔のさらに向こう。
天の縫目から、別の光が差し込んだ。
白でも金でもない、冷たい青。
虚無の神が一瞬だけ沈黙し、すぐに低く鳴る。
(来る。
“神だったもの”の、呼び名の残りだ)
教室の天井に薄い波紋。
黒板の粉が震え、チョークが床を転がる。
光が集まり、ひとつの“字”になった。
〈律〉。
それは“秩序”でも“統”でもない。
もっと冷たい、“計測”の字だ。
白衣の青年のペンが止まる。
老神官の喉が鳴る。
エイダスが筆を構える。
高城が空の手で握り直す。
朱音が笑うのをやめる。
リュシアが杖を上げ、ミリアが糸を張る。
美咲が俺の袖を強く握る。
「宙刃」
彼女が呼ぶ。
「切る? 渡す?」
刃は鞘で鳴り、胸の印が熱い。
俺は、ゆっくり頷いた。
「――両方だ。
“計るだけ”の律は切る。
“選びを支える律”は渡す」
俺は一歩、黒板の前に出る。
刃を半分だけ抜き、“律”の字の下へ滑らせる。
切断線は二本。
一本は“制度”を人から外す線。
もう一本は“記録”を人に返す線。
切って、渡す。
――橋の真ん中で。
光が爆ぜ、教室と広場の影がひとかたまりに揺れた。
“交差”は、まだ終わらない。
だが、主語は、決まった。
俺は振り向き、全員に告げる。
「明朝――王城で、“帰り路の議”。 主語を持って来い」
チャイムが鳴る。
王都の鐘が重なる。
二つの音が、同じ拍で、教室の空と王都の空に響いた。
(第11話・了)
第12話 帰り路の議、鍵の名
王城の大広間に、三つの椅子が置かれた。
一つは王の席――“秩序”の象徴。
一つは宙刃(そらは)の席――“選び”の媒介。
もう一つは空席――“帰り路”のための席。
朝の光は天窓から差し込み、広間の床の紋章を三つに分けて照らす。
人々の間に、昨夜の“交差”の記憶が残っていた。
誰もが二つの世界を見た。
“教室”の白と、“王都”の群青が一度に重なる光景。
その余韻が、今なお空気を微かに揺らしている。 壇上に立つのは、王でも神官でもなく――宙刃。
俺だ。
役ではなく、名として。
手には刃の鞘。胸には、春斗の記憶。
「本日ここに、“帰り路の議”を開く」
声が響く。
「議題は三つ。
一、“記録儀”を制度として定めること。
二、帰る者・残る者・支える者、それぞれの“主語”を記すこと。
三、“春斗”という鍵の名を、どの順番で呼ぶかを決めること。
」
リュシアが後方の机に地図を広げ、ミリアが糸で回路を繋ぎ、美咲が記録盤を準備する。
広間には、昨日の討議を見守った人々が詰めかけていた。
副官、給仕頭、神官長エイダス、老神官、白衣の青年、そして王。
それぞれが手元に筆を持ち、紙の上に“主語”を書き始める。
〈わたしは、この街を支える〉
〈わたしは、書く〉
〈わたしは、遅れても跳ぶ〉
〈わたしは、祈りを記す〉
書かれた文が光の糸となって空へ昇る。
それは天へ祈るのではなく、自分の足跡として残る。
祈りは上ではなく、横に広がっていく。
◇ ◇ ◇
第一幕――制度の決定。
エイダス神官長が立ち上がる。
「“記録儀”を制度とするにあたり、条件を三つ設けたい。
一、記される言葉には必ず主語を置くこと。
二、記された言葉は誰でも読めること。
三、記録の目的は、人の罪を測るためではなく、選びを伝えるためであること。」
老神官がゆっくり頷く。
「“赦し”は上から与えるものではなく、記録の中に残すものか
……。
だが、誰が“選び”を記せる? 子供か? 罪人か? 王か?」 俺は答える。
「誰でもだ。
書くという行為は、秩序の特権ではない。
声を持つ者は、手を持つ。
手を持つ者は、記せる。」
沈黙のあと、王が立ち上がる。
その姿はかつての威圧ではなく、疲れた老人のようでもあった。 「この国は、声を持たぬ者に秩序を与えるために、声を制してきた。
――だが、もはや我々は、聞く番だ。」
エイダスが一歩前に出て、王と宙刃の間に筆を置く。
「ならば、これを“制度”と呼ぼう。
上ではなく、横に広がる秩序として。」
筆の先が床を打つ音が、鐘のように響いた。
“記録儀”――王都初の横の制度が、成立した瞬間だった。
◇ ◇ ◇
第二幕――三つの主語。
最初に立ったのは、高城蓮。
空の手を上げ、前へ進む。
「俺は、“残る”」
声は震えていたが、言葉は真っ直ぐだった。
「この街に、人の記録が根付くまで。
俺は、“勇者”ではなく、“記す者”としてここにいる」 美咲が微笑み、ミリアが糸を張る。
高城の手に光が灯る。
それは剣ではなく、筆の形をした光。
次に立ったのは、美咲。
「私は、“支える”」
白い衣の裾が揺れ、祈り糸が風を捕らえる。
「記すことが祈りなら、祈りを伝えることもまた、記録。
私は、二つの世界を繋ぐ橋の手になる」
その言葉に呼応するように、虚無の神が遠くで鳴いた。
(支えの名を、聞いた)
(それが祈りなら、虚無もまた、余白として残れる)
最後に、リュシアが前に出る。
「私は、“帰る”」
彼女は笑って言った。
「けれど、逃げるためじゃない。
私たちが出てきた世界に、“選び”の文法を持ち帰る。
“言葉は所有ではなく、共有”――それを刻むために。」
彼女の足元に現れた光の文。
〈共有〉
それは王都の床に初めて刻まれた、人間の文字だった。
◇ ◇ ◇
第三幕――鍵の名。
「さて」
リュシアが俺を見る。
「最後の議題。“春斗”を、誰が呼ぶ?」
広間が静まる。
あの教室の空気が蘇る。
黒板の白、チャイムの音、机の傷、そして花の匂い。
“春斗”は、俺の“帰り路”であり、始まりだ。
ミリアが言う。
「呼ぶ順番で、帰り路の向きが決まる。
最初に呼べば、宙刃は“春斗”として元の世界に還る。
最後に呼べば、“春斗”はここに残り、宙刃として橋を保つ。」
「つまり、どちらを“主語”にするかの決議」
リュシアが言う。
「人として戻るか、橋として残るか。」
高城が口を開く。
「……帰るのは、俺たちだ。
でも、宙刃――お前がいないと、戻れない」
美咲が視線を落とす。
「あなたの名を呼ぶと、橋が消える。
でも呼ばなければ、私たちは帰れない。」
空気が張り詰める。
誰もが沈黙の中で、選びの痛みを知っている。
俺は笑った。
「いいさ。
――橋は、渡ったあとでも残せる。」
リュシアが目を細める。
「まさか、分岐を作る気?」
「“帰り路”は一本じゃない。
“記録”と“祈り”の糸、両方に橋を架ける。
片方は“宙刃”が渡す。もう片方は“春斗”が受け取る。
――二つの名で、ひとつの橋を造る。」
虚無の神が鳴いた。
(それは、危うい。だが、美しい)
美咲が涙を拭い、頷いた。
「では、呼びます。
順番は――同時で。」
彼女が一歩前に出る。
高城も隣に立つ。
リュシア、ミリア、エイダス、老神官、白衣の青年、王。
全員が息を合わせる。
それぞれの主語を胸に、筆を握り、名を呼ぶ。
「――春斗(はると)! 宙刃(そらは)!」
光が爆ぜた。
大広間の天井が開き、空が反転する。
群青と白が混ざり、記録の文字が舞い、祈りの糸が絡み合う。
音も、風も、温度も、すべてが二つの世界を行き来する。
俺は、その中心で立っていた。 宙刃としての身体が、春斗としての記憶を取り戻しながら、橋になっていく。
“帰る”とは、“渡す”ことだったのだ。
◇ ◇ ◇
光が収束する。
静寂の中、残されたのは、ひとつのノート。
表紙には、震える字で書かれていた。
〈わたしたちは、帰り路を記す〉
そして、その下に――
〈春斗=宙刃 作〉
誰が書いたのか、もう分からない。
けれど、王都の空にも、教室の窓にも、同じ群青が広がっていた。
“橋”は、まだ在る。
(第12話・了)
第13話 橋の向こう、言葉の外へ
朝は、二度来た。
一度は王都の鐘とともに、群青の天が薄くなる気配として。
もう一度は教室のチャイムとともに、白い蛍光灯が眠気を裂く音として。
“宙刃=春斗”。
俺は、二つの朝の間に立っている。
靴底は石畳に触れ、同時にワックスの床も踏む。
胸の印は熱を持ち、肩には通学鞄の重みが残る。
――橋だ。呼ばれれば在り、たとえ同時に呼ばれても、どちらにも倒れないように造られた橋。
(器)
虚無の神の声は、今朝は遠く、そして軽い。
(おまえは“橋”だが、橋にも渡り切る瞬間がある)
(どちらへ? 今、決めるのではない。決め方を、決めろ)
決め方。
リュシアがいう“段取り”、ミリアがいう“祈りの指の順”、エイダスがいう“主語の置き場所”。
全部の中心にあるもの――記すことだ。
俺はノートを開いた。
表紙には昨夜の字が震えのまま残っている。
〈わたしたちは、帰り路を記す〉
〈春斗=宙刃 作〉 黒の罫線が、王都と教室の境目みたいに見えた。
◇ ◇ ◇
王都側――大広間の片隅で、ミリアが糸を結び直している。
祈りは神へではなく、人の間へ走らせる。今はそのための糸。
彼女は顔を上げ、まっすぐ俺を見た。
「宙刃。約束の順番、確認させて。
一、記録儀は“主語先行”で固定。
二、‘律’は“手続きが人を縛る場合のみ切断”。
三、橋は“人を渡すために先に置く”。
四、帰る者の名は本人が呼ぶ。――合ってる?」
「合ってる」
「よかった」
彼女は胸に指を当て、息を整えた。
白い指に宿るのは神の火ではなく、人の温度。
「私は“残る”。
あなたがどちらを選んでも、支えはここに置いておく。
呼べば、届くように」
リュシアは反対側で地図を丸め、腰に差した短杖で床をとん、と叩く。
「橋の両詰に守り手がいるのが一番よ。
こっちは任せて。
……で、あなたは、どうやって“決め方”を決めるの?」
「記す」
俺はノートを掲げた。
「“今朝の自分”を一行。
同時に、向こうにも一行。
両方を書いて、どちらが先に息をするかで、今日はそちらへ渡る」
「美しい乱暴ね」
リュシアが笑い、杖先で俺の鞘を軽く小突いた。
「気に入った」
◇ ◇ ◇
教室側――黒板の前で、美咲がチョークを一本折ってから、新しい一本を取り上げた。
「ごめん。緊張して」
「そのままでいい」
彼女は深呼吸し、黒板の端に小さく書いた。
〈わたしは、今朝の“春斗”を信じる〉
チョークの粉が光り、王都の窓辺まで届く。
支えは、呼べる手のこと。
呼べば届くように、彼女の文字は橋の手すりになった。
高城が後列に立ち、空の手を握って見せる。
「俺は、ここで記す。
帰ったら学校で、残ったら王都で。
どっちでも、“高城蓮”として記す」
空の手は震えない。
昨夜、彼が“自分で”握り直した手だ。
朱音は窓際によりかかり、外の群青を見ながら低く言った。
「……アンタたちがあんまり真剣で、笑えなくなったじゃん」
彼女は鞄からペンを取り出して、ノートの端に走り書きする。 〈わたしは、後から来る〉
ペン先が止まり、彼女は鼻をすする。
「先に笑ったの、ズルかったわ。ごめん」
「遅れは、跳べる」
俺は同じ言葉を返す。
昨夜から何度も使った言葉だ。
いつか、彼女自身がこの言葉を“自分の声”で言えるように。
◇ ◇ ◇
“読む者”の気配は、ずっとあった。
ページの向こうから、視線が紙の目を撫でていく感触。
世界が書き物であるなら、読む者はいつもいる。
だが今朝は、その気配がこちらを待っている。
(器――宙刃)
虚無の神が微かに笑う。
(書くおまえに、読む者が応える。
“第四の壁”は、礼儀を持つ手で触れ)
俺はノートの一ページ目に戻り、空白を見つめた。
そして、一行、書く。
〈きょうの主語は、宙刃〉
続けて、裏面にペンを滑らせる。
〈きょうの鍵は、春斗〉
紙が、少しだけ息をした。
裏表の二つの文が、同じ厚さの繊維に染み込む。
どちらかを消そうとすれば、紙そのものが千切れる。 ――残し方が分かった。
決め方を、決めた。
◇ ◇ ◇
橋の試練は、思ったより静かに来た。
王都側の天に“律”の残り火が、細い線で再び現れたのだ。
昨夜切った“計るだけ”の線。
それが今度は、善意の仮面をつけて戻ってくる。
〈記録は、査定のために〉
〈名は、序列のために〉
〈選びは、責任の押印のために〉
手続きが、人を縛ろうと近寄ってくる。
白衣の青年は顔色を変え、手帳を握りしめた。
「ごめん、俺、怖い。書くって、すぐ“点を付ける”側に回るんだ……」
エイダスは黙って筆を寝かせ、老神官は胸の前で巻物を交差させた。
人の側の恐れ。
彼らは“正す”ことに、ずっと付き合ってきた。
「――宙刃」
美咲の声。
呼び名は鞘を温める。
俺は刃を抜かず、鞘ごと前へ出た。
「“律”、聞こえるか。
お前を全部は否定しない。
“支える”ほうの律だけ、ここに残れ」
鞘を置く。
刃は抜かない。
“切る”のでなく、“選ぶ”ために。
“律”の線はひととき揺れ、そして二つに分かれた。
一本は堅い灰色――査定のための律。
一本は柔らかな白――支えるための律。
俺は灰色を鞘の側面で弾き、リュシアが火で焼き締め、ミリアが切り口を縫う。
白い線だけが静かに残り、エイダスの筆へ吸い込まれていった。
「ありがとう。
これで、読むための記録に戻れる」
彼は額の汗を拭い、老神官がゆっくりと巻物を胸から下ろした。
「わたしも、読む」
「誰でも、読む」
白衣の青年も頷いた。
「わたしも、読む側でいたい」
橋の真ん中が、もう一段、太くなる。
王都と教室を繋ぐ幅が、呼吸ひとつ分、広がった。
◇ ◇ ◇
決め方を決めたなら、実際に渡るだけだ。
俺はノートを閉じ、二つの世界に向かって短く言う。
「順番を宣言する。
一、今朝、宙刃として王都に残る。
二、今夜、春斗として教室に帰る。
三、明日からは、“主語を毎朝記す”ことで橋を選ぶ。 ――日替わりじゃない。生き替わりだ」
ざわめき。
だが、混乱はしない。
主語がわかる限り、世界は耐える。
美咲が微笑み、チョークで黒板に写す。
〈わたしたちは、主語を毎朝記す〉
高城が「了解」と手を挙げ、老神官が「読む」と頷き、白衣の青年が「提出は自由」と笑った。
リュシアは杖で床を軽く打ち、ミリアは糸をふわりと弾ませる。
虚無の神は、満足そうに低く鳴った。
◇ ◇ ◇
その日の“昼”は、王都だけに来た。
市場の鍋は良い音で鳴り、給仕頭は最初の一口をわざと遅らせ、王は自分の歯で次の一口を噛んだ。
神殿地下の書記局では、副官が帳面の端に小さく〈遅れ:許可〉と記し、書記官は昼には家に帰った。
〈リタ〉の箱の蓋は開き、硬貨が一枚、旅の匂いを帯びた布袋に移された。
神官長エイダスは「読む会」を開き、子どもから王までが自分の
“主語”を声に出して読んだ。
誰も咎められない、読むための場。
その日の“放課後”は、教室だけに来た。
チャイムが鳴り、窓は少しだけ群青色を深め、ノートが机の上に並ぶ。
白衣の青年は出席簿に「見た」とだけ書き、朱音はペンを置いたまま窓の外の雲を数えた。 高城は部室に寄らず、図書室で“記録儀――記す祈り”の感想を書いた。
美咲は黒板の端に〈わたしは支える〉と小さく残して、消し残りの白を指で集め、そっとポケットに入れた。
祈りの粉――明日のための白。
◇ ◇ ◇
夜。
橋は、誰も渡らないとき、最も静かに鳴る。
俺は虚無城の窓辺に立ち、群青の外に見えない星を数えた。
リュシアが肩を並べ、ミリアが隣で気配を温める。
「空刃」
リュシアが低く呼ぶ。
「宙刃、ね」
「どっちでもいい」
彼女は笑って、それでいい、と言った。
「明日の‘律’は、きっと今日よりも柔らかい」
「うん。読む手が増えたから」
ミリアが頷き、遠い方角を見つめる。
「あの子……海、見られるかな」
「見られる」
俺は迷わず答える。
「遅れは、跳べるから」
沈黙。
虚無の神が小さく欠伸をし、灯が三つ、ぱち、と点る。
“手”、“匙”、“言葉”。
そしてその上に、細い新しい灯が生まれた。
“記す”。
橋は在る。
名は刃で、鞘で、橋だ。
呼べば、届く。
呼ばなくても、記せば残る。
◇ ◇ ◇
――エピローグ。
数日後。
王都の外れ、白い塩の匂い。
小さな岬の先で、女の子が波に手を伸ばしていた。
〈リタ〉。
副官は遠くから見守り、包みから固焼きのパンを半分取り出す。
今日は、温い。
彼女はパンを裂き、もう半分を空に掲げた。
「ありがとう」
誰に、とは言わない。
けれど“読む者”なら、分かる言葉。
同じ頃。
教室の窓側最後列、朱音が小さく笑う。
「……宿題、“遅れて”やる」
隣で高城が肩を揺らし、前の席で美咲が振り返る。
「跳べるよ」
朱音は頷き、ノートの端に書いた。
〈わたしは、笑う前に、読む〉 字はうまくない。 でも、良い字だ。
“主語先行”の字。
夜、俺はノートを開いた。
見知らぬ手が増やした行間に、知らないはずの呼吸が増えている。
読むことが、支えることだと、ようやく分かった。
ページの外から、気配がする。
“あなた”。
読み手。
ここまで来てくれた、あなた。
俺は最後の一行を書く。
〈あなたは、いま、何を記す?〉
ページは静かに息をし、灯がやわらかく揺れた。
橋は今日も、渡る音を待っている。
(最終章・了)
――俺たちのクラスが異世界に召喚されたのは、五時間目の途中だった。
教室の窓が光り、床に魔法陣が浮かび上がる。
何が起きたのか分からないまま、俺たちは光に呑まれた。
次に目を開けた時、そこは巨大な神殿だった。
高い天井、金色に輝く柱、空中に浮かぶ魔法文字。
絵本の中でしか見ない“異世界”が、本当に目の前に広がっていた。
「うわ、マジで召喚だ!」「チートスキルくるやつだ!」
興奮する声があちこちから上がる。
クラスの中心にいる勇者タイプの高城蓮は、早くも剣を構えポーズを決めていた。
――だが、その熱狂は一瞬で終わった。
祭壇の上に立つ神官が、淡々と告げたのだ。
「召喚の安定のため、“生贄”が一名、必要です」
空気が止まる。
鳥の羽音さえしない静寂。
俺はその意味を理解できずに、ただ周囲を見回した。 ……そして気づいた。
全員の視線が、俺に集まっていることに。
「……え?」
誰も何も言わない。けれど、空気がすべてを語っていた。
俺――篠原春(しのはらはると)斗は、運動も勉強も平凡。
ゲームやラノベの話ばかりして、クラスでは“地味で目立たないやつ”だった。
その俺が今、みんなの“犠牲枠”として選ばれた。
神官が、俺の前に光る水晶を差し出す。 ステータスが自動的に浮かび上がった。
【魔力:0】【適正職業:なし】
周囲の生徒たちがざわつく。
「……ゼロ?」「適性なしってマジかよ」「こいつ、役に立たねー」
笑い声が広がる。
そして高城蓮が、勇者の剣を握りしめながら言った。
「悪い、春斗。お前が生贄になれば、みんな助かるらしい」
「は?」
俺の喉が乾く。理解が追いつかない。
「魔法陣が暴走してるんだと。ひとりの犠牲で全員の命が助かるなら、それが正解だろ?」
「そんな勝手な……!」
叫んだ俺の腕を、誰かが掴んだ。
幼なじみの美咲だった。泣きそうな顔で、俺を見上げてくる。
「……ごめん、春斗。私、怖いの。死ぬの、イヤなの……」
その言葉と同時に、床の魔法陣が赤く光り出した。
神官が詠唱を始め、蓮が顔を背ける。
クラス全員が俺から目を逸らした。
「やめろ――ッ!!!」
俺の叫びは、炎の轟音にかき消された。
視界が焼け、痛みが全身を貫く。
光が弾け、世界が反転した。
――俺は、生贄にされたのだ。
◇ ◇ ◇
どれほど時間が経ったのか分からない。
熱くも、冷たくもない。
ただ、無音と無重力の中を漂っていた。
“死んだのか?”と思ったそのとき。
「……まだ、生きてる?」
声がした。
女の声。それも、やけに凛とした響き。
瞼を開けると、闇の中に金色の髪が揺れていた。
紅の瞳。裂けたドレス。けれど背筋は真っ直ぐだった。
「……あんたは?」
「リュシア・ヴェルディア。元・公爵令嬢。婚約破棄され、断罪されてここに落ちたわ」
「断罪……?」
「“悪役令嬢”ってやつよ。王太子に裏切られたお飾り。
正義を語る愚民どもに処刑されて、ようやく静かになったの」
彼女の隣には、もうひとりの女が立っていた。
白い法衣を汚し、手にはひび割れた聖印を握っている。
「私はミリア。元・聖女。……神を疑ったら、堕とされたの」
聖女と悪役令嬢。
異世界ものの定番みたいな二人が、なぜ俺の前にいるのか。
俺は辺りを見回した。
空は黒く、地面は灰のようで、風すら吹かない。
まるで世界そのものが死んでいるようだった。
リュシアが静かに言う。
「ここは〈虚無界〉。神に捨てられた者だけが辿り着く、世界の底よ」
「神に……捨てられた?」
「ええ。あなたも、そうでしょう?」
その言葉に、胸が痛んだ。
俺は殺された。仲間に、生贄として。
“神の意思”とやらに利用されて。
――だったら、神も、仲間も、全部間違ってる。
「……あいつら、後悔させてやる」
自分でも驚くほど、声は冷たかった。
リュシアが笑う。美しく、どこか壊れた笑みで。
「いいわね、その顔。
私も同じことを考えていたところよ。王国も、貴族も、全部焼き払いたい」
ミリアが手を胸に当て、囁く。
「祈りはもう届かない。でも、復讐なら届くかもしれない」
三人の視線が交わる。
誰も何も言わない。けれど、心の奥で同じ誓いを立てていた。
――ここで終わりではない。ここから始める。
俺は拳を握りしめた。
リュシアが懐から黒い石を取り出す。
「この虚無石、願えば力をくれる。でも、代償は“魂”。それでも?」
「構わない」
即答だった。
生き延びるためじゃない。復讐のために、生きる。
ミリアが指先で光を描く。
その光は血のように赤く、三人の胸に刻まれた。
――〈契約〉。
“虚無の徒”の名のもとに、三つの魂が結ばれた。
リュシアが微笑み、手を差し出す。
「ようこそ、世界の底へ。これが、私たちの始まりよ」
俺はその手を握り返す。
「行こう。神にも、王にも、勇者にも――復讐を」
虚無の空に、黒い雷が走った。
死んだ世界が、微かに脈動する。
そして俺の胸に、確かに感じた。
“力”が、流れ込んでくるのを。
それは、神に見放された者だけが得られる――逆の祝福。
俺は、生贄では終わらない。
ここから、世界を壊す。
(第1話・完)
第2話 虚無界の力と三人の契約の代償
――そこは、“世界の外”だった。 リアの足元には、地面がなかった。
白とも黒ともつかぬ光の海。
踏み出すたび、足跡が現実になり、
その上に草が芽吹く。
彼女の一歩が、世界の“はじまり”を形づくっていた。
◇
背後には、崩壊したハートネットの残骸。
空中で途切れた光の線が、
風に溶けて消えていく。
リアは深呼吸した。
空気が澄んでいる。
けれど、あまりに静かだった。
「……音がない」
鳥の声も、波の音も、人の息遣いもない。
ただ、自分の鼓動だけが響いている。
◇
しばらく歩くと、
視界の中に“人の形”をした影が見えた。
いや、正確には――“人の形をした空白”。
顔も、服も、声もない。
ただ立っているだけの存在。
それなのに、確かに“生きている”気配を感じた。
「……あなたたち、何者?」
影たちはリアを見つめ、
同時に動いた。
口は動かない。けれど、声が響く。
『――われら、設計の外に生まれた者。
秩序なく、愛なく、名も持たぬ人間。』
「名も、ない……?」
『お前たちが整えた世界から零れ落ちた。
感情の統合にも、夢の分配にも拒まれた者。
だからここにいる。未設計のまま。』
リアの胸が痛んだ。
二百年前、カイルが救った“人間の自由”の裏で、
見捨てられた者たちがいた。
◇
「……私が、あなたたちを“設計”していいですか?」 その言葉に、影たちは静かに首を振った。
『設計はいらない。
ただ、存在を見てほしい。』
「存在を……見る?」
『われらには“他者の目”がない。
お前が見るなら、それが“生”になる。』
リアの手が震えた。
それは“設計者”ではなく、“人間”として求められた願いだった。
彼女は一歩近づき、そっと影に触れた。
瞬間、光が溢れる。
影の中に色が流れ込み、形が変わる。
誰かの顔が、輪郭を取り戻す。
「……あなた、女の子?」
その存在は頷いた。
「……名前を、つけて」
リアは息を呑んだ。
初めて――“世界を整える”のではなく、“生まれる瞬間”に立ち会っていた。
「……じゃあ、“アメリア”。
“雨”のように、静かに降る命だから。」 少女――アメリアが笑った。
その笑顔が、空に波紋を広げる。
波紋の中から、他の影たちにも色が灯っていく。
◇
空が変わった。
白から、淡い青へ。
地平線が現れ、風が吹いた。
“存在を見られた”ことで、世界そのものが再構築されていく。
リアは涙を拭き、呟いた。
「……これが、“創造”なんだ」
『設計者リア。お前は神を超えた。
世界を整えるのではなく、“認めた”。』
アーク・カイルの声が遠くから響いた。
どこか誇らしげで、悲しそうだった。
『これでいい。
お前たちは、神に似て、神にならなかった。』
◇
風が止み、空の中央に五つ目の光輪が現れる。
秩序、夢、愛、心、そして――“存在”。
リアはその光を見上げた。 その輪の中に、微かにカイルの笑みが見えた気がした。
「ありがとう。
あなたがくれた“間違える自由”、
今、ようやく使えた気がします」
彼女の足元に、草花が芽吹く。
アメリアが笑い、他の影たちが歌う。
それは、世界の最初の“声”だった。
◇
次回 第3部・第4話「存在の花、そして再会」
――第五領域で生まれた“アメリア”が、リアの分身として自我を育て始める。
だが、彼女の中に潜む“設計の因子”が再び暴走し、
リアはカイルの記憶と、もう一度出会うことになる――。
第3話 贄の儀式と、虚無の神の声
黒い月が砕け、空に走った裂け目は青く滲んでいた。
――〈虚無門〉は“開いた”。だが、まだ“通れる”とは限らない。
塔上の風は、冷たくはない。虚無界に風は存在しないからだ。
それでも、俺たち三人の髪は揺れていた。裂け目から、上の世界の気配が吹き込んでいる。
「門は“口”にすぎないわ。喉を通すには、贄がいる」
リュシアの声は淡々としている。けれど、瞳は俺を視ていた。試すように、確かめるように。
ミリアは祈りの姿勢で膝をつき、白い息のような光を吐いた。
「虚無は等価。こちらから何かを差し出すことで、向こうの世界に、こちらの“存在”を通す。……魂の贄」
どこかの神官が得意げに口にした“救済の理屈”を思い出す。
――“誰か一人が犠牲になれば、みんな助かる”。
あの時、俺は選ばれる側だった。
今度は、俺が選ぶ側だ。だが。
「俺は……誰かの命を、また天秤にかけるのか?」
言葉が、勝手に熱を帯びる。
虚無城の床に描かれた魔法陣が、鼓動のように淡く脈打った。
目を閉じると、煤けた教室の木の匂いが鼻の奥に残っている。
最後に笑って手を振った美咲の横顔が、焼き付いて離れない。 「春斗」
ミリアの声は柔らかかった。元・聖女の祈りは、もう神に届かない。それでも人に届く。
「“誰かの命”だけが贄になるわけじゃない。……あなた自身の“ 魂の一部”もまた、贄になる」
リュシアが虚無石を掲げると、城の天井に吊るした黒い灯が一斉に揺れた。
「虚無は定義を喰う。名前、記憶、絆、誓い……人を人たらしめる輪郭。
それを削ぎ落せば、門は開く。酷く非情で、そして公平よ」
俺は息を吐いた。
誰かをもう一度、無理やり“生贄”にするのか。
あるいは、自分の中からなにかを殺すのか。
「選べ、春斗」
リュシアの言葉は命令ではない。けれど逃げ道を与えない種類の優しさだ。
「あなたは“選ばれた”側で終わる人間じゃないでしょう?」
掌を開けば、黒い雷の残滓がぱちぱちと弾ける。
俺の“ゼロ”は虚無で反転し、“何でもあり”になった。
なら――“無くす”のも、俺が選ぶ。
「俺は……俺を贄にする」
自分の声が驚くほど澄んで聞こえた。
「俺の“名前”を、門の鍵にする」 ミリアの瞳がわずかに揺れ、リュシアの口角が美しく跳ねた。
「度胸があるわね」
「名は魂の最外殻。失えば、自分が自分でなくなる危険もあるわ」
「いいさ。名前を呼ばれない生贄で終わるくらいなら、俺が俺を呼び捨てにする」
床の魔法陣が、黒から赤へ、赤から蒼へと色を変える。
ミリアが両手を組み、聖印を胸に押し当てる。
「儀式の式次第を教える。“供(くぎ)犠”の言葉は、私が刻む。……春
――いいえ、“あなた”。覚悟はできてる?」
「できてる」
リュシアが杖を軽く鳴らすと、虚無城の中央に台座がせり上がった。
血を吸ったように黒い石。石の窪みに、俺はそっと右手を置く。
指先に、人肌とは違う冷たさが吸い込まれていった。
「――始めるわ」
リュシアの声は、刃のように澄んでいた。
「“名を裂く儀”。供物は“呼称”。代償は“輪郭”。」
ミリアが続ける。
「“祈りは不要。祈りは堕ちた。あるのは結びと、切断だけ”」
胸の契約印が熱くなる。脈拍が魔方陣に伝わり、床が呼吸する。 視界の端に、青い裂け目――〈虚無門〉が揺れ、喉奥に何かがこびりついたように息が重くなった。 「“汝、自らを世界から座標切り離すことを望むか”」
誰の声だ。男か女かも判然としない。
けれどその声は、俺が生まれるよりも遥か前から“そこにあった
”響きで、
溶けた金属のように耳朶の後ろにまとわりついた。
「望む」
俺は答えた。
「俺は“篠原春斗”を、門へ渡す」
台座が淡く光り、黒い石の縁に“春斗”の文字が滲んだ。
それはすぐに崩れ、墨を水に垂らしたように形を失う。
熱が走る。
頭の内側を、見えない刃が擦っていく。
小学校の廊下。ランドセルの重さ。初めてゲームを買ってもらった日の匂い。
美咲と駄菓子屋に寄り道して叱られた夕暮れ。
――それらの“呼びかけ”に紐づいた感覚が、ふ、と軽くなる。
「春――」
ミリアが思わず口にした瞬間、その二音は空気に溶け、音の輪郭をなくした。
彼女は驚いた顔で口をつぐむ。
「ごめん。……もう、その名は、門の鍵だから」
リュシアが僅かに目を伏せ、すぐに真っ直ぐ俺を見た。
「“あなた”が空いた場所は、私が呼ぶ。“あなた”で」 “あなた”。
それが、今の俺の名だ。
名の代わりに、契約印の鼓動が強くなる。
失った輪郭の隙間を、虚無の力が温い闇で満たしていく。
「――開きなさい、門」
リュシアの杖が鳴り、ミリアの掌から白い光が奔った。
〈虚無門〉の裂け目が吠える。青が深くなり、境界の縁に黒い縫い目のような稲光が縫い付けられていく。
門が“喉”となった。こちら側の空気が吸い込まれる感覚。
同時に、向こう側の匂いがした。血と香と、焼いたパンの匂い。
――王都だ。
「行くわよ、“あなた”」
リュシアが片手を差し出す。
ミリアがもう片方の手を。
三人の指が重なった瞬間、胸の印がひとつの心臓になった。
踏み込む。
視界が裏返り、世界が一度だけ無音になる。
次の瞬間、喧噪が殴りつけてきた。
「……音が、ある」
思わず零した言葉に、ミリアが小さく微笑む。
「世界は生きてる。……ようこそ、王都レイヴェンへ」
石畳。人の群れ。馬のいななき。香辛料の匂い。
高い城壁の内側、露店が連なる外門市場。
俺たちは路地裏の影から慎重に顔を出した。 カーテンの裂け目のように、門が背後に揺れている。
虚無の冷たい気配は、ここの太陽の熱で薄皮一枚分やわらいでいた。
「目立つな。まずは観る」
リュシアが外套のフードを深くかぶり、顎をわずかに引く。
彼女の立ち居振る舞いは“こちら側”でも淀みがない。貴族は、どこでも舞台に立てるのだ。
ミリアは聖印を外套の内側に隠し、祈りの指をほどいた。
「今日の昼、勇者凱旋の式がある」
虚無城で覗いた光景が、目の前の現実と重なる。 飾り紐のついた垂れ幕。王家の紋章。祝祭の花。
――高城蓮、美咲、そしてクラスメイトたち。
「行列の動線、壇上の位置……全部、把握してから動くわ」
リュシアは露店の値札を見る振りで広場の構造を拾っていく。
「“あなた”は気配を消せる?」
「やってみる」
胸の印に指を添える。
虚無の雷を“逆位相”にするイメージ。
何かを消すのでなく、存在の輪郭に砂をかける。
ひと息。
周囲の目が、俺の位置を滑っていった。
気配を拾う野良犬の鼻先すら、俺のすぐ横を素通りする。
「上出来」
リュシアが声を殺して笑う。
ミリアが耳を澄ませ、かすかな聖歌の旋律を拾い上げた。 「王都大聖堂から合唱が上がってる。式は予定通り。……でも、音が揺れてる」
「揺れてる?」
「祝祭の歌に、わずかに“ひび”が入ってる。
あの封印……やっぱり、あなたが“生きてる”ことで歪んでる」
“あなた”。
内側から響くその呼び名に、かすかに眩暈めいた違和が残る。
けれど、俺は頷いた。今の俺には、十分だ。
広場に人の波が押し寄せ、拍子木と太鼓が鳴った。
王城の方角から、軍旗の列が現れる。
槍の穂先が陽光を跳ね返し、鎧の音が石畳を震わせた。
歓声が渦を巻く。
――そして、彼らが来た。
高城蓮。
王家から借り受けた晴れの鎧に、あの日の少年の面影はほとんどない。
けれど、剣の柄を落とす癖は直っていない。緊張すると、握りが浅くなるのだ。
その横で、美咲が微笑んだ。
柔らかな白いドレス。頭上の花冠。
王都が与える“聖女代行”の衣。
……代行。
ミリアの目が一瞬だけ細くなり、すぐに感情の影を引っ込めた。
「“あなた”。目は、前を見て」
リュシアの囁きが耳たぶを撫でる。 「怒りは熱いほどいい。でも、熱いだけだと真っ直ぐ燃えてすぐ消えるわ。
私たちの火は、油で、風で、煙で、長く燃えるの」
頷く。
指先が震えている。
俺は深く息を吸い、混ざり合う匂いを肺に押し込んだ。
――この街ごと、焼き払うために来たわけじゃない。
俺が折り重ねたいのは、復讐の順番と、狙いの精度だ。
「今は、彼らに“気づかれない”のが正解」ミリアが言う。
「でも、“あなた”の匂いは、きっと誰かに届く。……特に、あなたを知ってる人に」
美咲。
喉の奥が乾く。
俺は視線をわずかに落とし、群衆の肩越しに壇上を観た。
高城が祝辞を受け、王が手を上げる。
神官長が封印の安定をうたい、合唱が盛り上がる。
台本通りの偽り。
その縁に、ひび。
そのひびに、俺たちが爪をかける。
「まずは“土台”を崩す」
リュシアが、露店の護符を指で弄ぶ。
「封印術式の書記官、神官長の副官、衛兵の隊列長……“見えない釘”から抜く」
ミリアが頷く。
「神殿の地下には“祈りの回路”がある。そこを少し捻れば、祭りは“誤作動”を起こす」
「俺は?」
「だいじな役目を」
リュシアが口元を寄せ、囁きの温度で言う。
「“あなた”は壇上の上――王の真上にある“結界の中心”に触れて。
“ゼロ”で穴を穿つ。あなたにしかできない」
人の渦が揺れ、太鼓が高鳴り、花弁が舞った。
王の祝詞。黄金の杯。
――その瞬間、胸の印が灼ける。ざわ、と世界が黒ずんだ。
「来る」
ミリアが顔を上げる。
「祭りの歌に混じってる。……声」
「声?」
「虚無の……神の、声」
耳の奥で、金属の舌が鳴る。
――“器”。
――“選ばれた残滓”。
――“名を失った口”。
呼吸が浅くなる。
視界の白が反転し、群衆の輪郭が黒い影絵に変わっていく。
喧噪は遠ざかり、ただその“声”だけが近い。
(聞こえるか、器)
(喰え。世界を。定義を。言葉を) (名を失ったなら、名の代わりに“意味”を持て)
「――誰だ」
口に出した声は、自分の耳に泥のように重かった。
リュシアとミリアの顔が一瞬だけこちらを振り向く。
だが、彼女たちにはこの声は届かないらしい。
(“誰”は問いではない。“名”の器だ。おまえはそれを捧げた)
(ならば、“何”を選ぶ)
(おまえは“何”として世界に刻まれる)
裂け目の縁が脈打つ。
足元の石畳が、さっき虚無城の床だったように呼吸した。
俺は拳を握り、掌の内側に爪を食い込ませる。
「俺は――復讐だ」
“誰”ではない。“何”としての宣言。
「俺は“復讐”として、ここに刻まれる」
(よろしい)
声が笑った気がした。鉄が笑うと、こんな音がするのか。
(ならば、刻め。まず、一(ひと)つ)
胸の印がもう一度、焼けた。
足元の石畳に黒い環が走り、広場の空気がひゅうっと吸い込まれる。
合唱が半拍、遅れた。
神官長の声が、一瞬、音程を落とす。
――ひびが、広がった。
「今!」
リュシアが弾けるように動き、群衆の縁に紛れた。
ミリアが祈りの形を崩し、腰に結った白い紐を解く。
彼女の指は淡い光を撒きながら、空に目に見えない“回路”の配線をやり直していく。
俺は壇上を見上げ、王の頭上の空を凝視した。
そこには目に見えない“蓋”がある。
祈りと権威と歴史が焼き付いた、透明な蓋。
「おまえは“ゼロ”を差し込め」
内側の声――虚無の神――が囁く。
「隙間は“ゼロ”でしか広がらぬ」
呼気を吐き、右手を掲げる。
指先の黒い雷は出さない。
ただ、そこに“何もない”を置く。
力とは逆のベクトル。
存在は在り、在るゆえに邪魔だ。ならば、在らないことで穿つ。
――ぱきん。
音がしたわけではない。
だが確かに、“音がした”。
蓋に白い筋が走り、上空の光が少しだけ吸い込まれた。
王が瞬きをし、美咲がわずかに顔を上げる。
(見られる)
虚無の神が言う。
(その女は、おまえの“過去”を嗅ぐ鼻を持つ) 心臓が跳ねる。
壇上の美咲の視線が、群衆の海を越えてこちらに流れた気がした。
彼女の瞳は昔のままだ。あの日、俺を見た時と同じ揺れ方をしている。
……けれど、俺はもうその名前じゃない。
「“あなた”、戻る」
リュシアの手がいつの間にか俺の袖を掴んでいた。
「釘は抜いた。今日はこれで十分。……焦らない」
ミリアの唇が何かを数え、目に見えない時間の目盛りを刻む。
「祈りの回路に三つ、虚無の埃を混ぜた。祭りの終わりに“咳” が出る。
その咳が、封印のひびを広げる」
群衆が揺れ、太鼓が鳴り、花弁がまた舞った。
王の杯が高く掲げられる。
――その瞬間、俺の耳にだけ、喉の奥から声が這い上がってきた。
(よくやった、器)
(では、対価だ)
背骨を氷柱で押し上げられたような冷たさ。
呼吸が止まる。
視界の端で、美咲の笑顔が遠のいた。
駄菓子屋の夕暮れ。
ランドセル。
木の匂い。
――さっき削った“名の輪郭”に、もう一輪、刃が入った。 (“あなた”)
リュシアの声が、遠い。
ミリアの指が、俺の頬に触れた。
「大丈夫。ここにいる。……“あなた”は、ここにいる」
俺は頷いた。
頷けた。
まだ、いる。
名は鍵穴に変わり、過去は糸くずになって虚無に落ちた。
けれど、今の俺は、二人の指の温度で固定されている。
「退くわよ」
リュシアが導く。
裏路地の影に身をひそめ、人の波に逆らわず、溶けるように。
ミリアは祈りの残響で俺の輪郭を撫で、穴が広がりすぎないように縫い止める。
石畳の影の冷たさ。
木箱の匂い。
遠くに聖歌。
虚無門の気配は、まだ背後に確かにある。
「今日は、勝ち。小さくても、確かな勝ち」リュシアが囁く。
「“あなた”が穿った穴は、王都の空に残った。
祭りの終わり、祈りの息継ぎで、そこから空気が逆流する」
ミリアが短く息を吐き、笑った。
「神官長は咳き込む。副官は詠唱を半音落とす。衛兵の列は一列分、足並みが乱れる。 整え直すふりをして、城門の鍵が“少しだけ”遅れる。
そこに、次の楔を打つ」
「次は、誰を?」
俺の声は低い。
虚無の神の笑い声は、もう聞こえない。
けれど、胸の印はまだ熱い。
焦らない。だけど、止まらない。
リュシアは、露地の奥に視線を走らせて言った。
「神殿地下の書記官――封印設計図を写す“手”。
王城の給仕頭――王の椀に“時間”を落とす“匙”。
そして――」
彼女の唇が、意地悪く綺麗に笑む。
「……勇者の“心”を、ほんの一匙」
高城蓮。
壇上で剣を掲げたまま、彼はほんの刹那、目を泳がせた。
“重さ”を知らない握りの浅さは、まだ彼の中に残っている。
そこに楔は入る。
命を取る前に、支えを崩す。
――復讐の順番だ。
「帰ろう」
ミリアが虚無門に手を伸ばす。
「今は“あなた”を縫わないと。……名を一つ、失った代償は侮れない」
頷き、門の縁に足をかける。 石畳と影と喧噪が一瞬遠ざかり、青い裂け目が視界を満たす。
振り向けば、広場の空に、透明なひびが一本、確かに走っていた。
誰にも見えない。
でも、俺たちには見える。
「待ってろよ」
俺は噛みしめた。
「お前らの世界は、俺が、俺たちが、順番に壊す」
虚無が、抱きとめる。
足元の床が戻り、虚無城の匂いが鼻に落ちた。
門は背後で静かにひだを閉じ、黒い灯が一つ、ふっと消える。
贄は、確かに払われたのだ。
「“あなた”」
ミリアが正面に立ち、右の掌を俺の胸に当てる。
白い光が微かに滲み、契約印に渡された。
「縫うね。穴はまだ浅い。いま埋めれば、芯は保てる」
「頼む」
祈りの糸が、見えない針で印の周りを縫っていく。
リュシアはその隙に机を広げ、地図と符牒と日程を並べた。
「三日。祭りは三日続く。明日、神殿地下の“手”を止め、明後日、王城の“匙”を鈍らせる。
三日目に、勇者の“心”へ楔。……その前に、あなたの“名の穴”を最小化する」
ミリアが針を抜き、息を吐いた。
「縫い終わり。……でも、“あなた”。ひとつ言っておきたい」 「なに?」
「“名”は呼ばれることで形を保つ。
いまのあなたの名は“あなた”。
私とリュシアが、それであなたを何度も呼ぶ。
それが、あなたの魂を“こちら側”に留める縫い目になる」
リュシアが机から目を上げ、わずかに照れたように笑う。
「つまり、これからもずっと、あなたって呼ぶわ。……いや、呼ばせて」
胸の奥で、なにか小さく温いものが溶けた。
駄菓子屋の夕暮れは失ったかもしれない。
けれど、“今”に結びつく新しい糸は、確かにここに通っている。
「ありがとう。……二人とも」
虚無城の窓外で、黒い空に一つ、新しい灯がともった。
さっき消えた灯とは別の、高さの違う場所。
あれはたぶん、俺たちのための灯だ。
名を失っても、ここに灯りがあれば、帰る場所はある。
そのとき、背骨の内側を、金属が軽く叩いた。
(器)
虚無の神の声は、先ほどより遠い。
けれど、確かに届く。
(対価は均衡した。
三日後、王都の空に“窓”が開く) (その時、おまえの“何”は問われる。
“復讐”の名で、世界を選べ)
俺は短く笑った。
「選ぶよ。……俺はもう、選ばれる側じゃない」
リュシアが地図に赤い印をつけ、ミリアが祈りの糸を束ねる。
虚無城は、三人の息で呼吸し始めた。
黒い灯が、また一つ、二つと灯る。
王都の空に穿った透明のひびは、目には見えないまま、きっと少しずつ音を立てている。
――祭りは、あと二日。
――復讐は、段取りが命。
――そして、俺には“名の穴”という、戻れない傷ができた。
いい。
傷があるなら、そこへ刃を差し込める。
痛みは、生きている証拠だ。
「行こう。次の釘を抜きに」
三人の影が、虚無城の回廊に伸びた。
その影の先には、王都の地下へ続く図面。
神殿の“祈りの回路”は迷路のように複雑だが、虚無はどんな迷路にも出口を用意する。
胸の印が、ひとつ、鼓動した。
呼ばれる前に、呼ぶ。
“あなた”。
――俺は、ここにいる。
(第3話・了)
第4話 祈りの回路、地下へ
王都レイヴェンの夜は、祝祭で白く明るい。
だが、神殿の地下に続く参道は、別の夜だった。音の無い夜。
階段を降りるたび、空気の温度が一段ずつ落ちていく。
「足音は“祈り”に拾われる。踵ではなく、足裏に“無”を敷いて」
リュシアが囁く。声は針金のように細く、まっすぐに俺の鼓膜へ刺さった。
ミリアは胸元の聖印を黒布で包み、両の指を組み替える。
「祈りの回路は、音より“意図”を拾うの。心拍……落として」
深く吸い、長く吐く。
胸の契約印が一拍、静まるたび、階段の影が広がっていった。
踊り場の欄干に、古い祈祷文が刻まれている。
〈祈りは赦し、赦しは秩序を立て直す〉
――赦し。
今の俺に、いちばん遠い単語だ。
「ここから“回路”領域よ」
リュシアが指を二本立て、曲がり角の先を差した。
石壁に沿って、淡い光の筋が流れている。血管のように。
ミリアが目を細めた。
「見える? 人の“願い”が繋がって、文様になってる」
目を凝らすと、確かに、光の筋は“一人分の祈り”が束ねられて形になっていた。
感謝、恐れ、救い、復讐――言葉になり切らない熱が、細い糸で綴られている。
これが、王都全体を包む結界の“神経系”。
ここを少し捻れば、祭りの終わりに“咳”が出る。
「針は三つ。一本は“書記官”の机へ。一本は“副官”の控え間へ。最後は“回路核”へ」
リュシアが黒い細線を取り出し、俺とミリアに一本ずつ渡す。
「針先は虚無で研いでる。刺せば、“祈り”がわずかに遅れるわ」
「遅れは誤差に見える。けれど、蓄積すれば“ひび”になる」
ミリアの言葉に頷き、俺は回廊の影へ身を滑らせた。
回路の光は柔らかいのに、匂いは鉄錆。
祈りは綺麗でも、運ぶ管は血まみれってことか。
曲がり角を二度。壁龕に古い像。
像の足元に、小さな祈り札が束ねられていた。
「母の膝の痛みが治りますように」「子の無事な帰還を」――
俺は札に触れない。触れたものは、たぶん戻れなくなる。
やがて、灯りが漏れる扉に行き当たる。
「書記局」。
扉は開いていた。夜勤の灯。
中には、紙と墨と眠気の匂い。
机に突っ伏している男が一人。
痩せてはいるが、骨ばっていない手。仕事の手。
歳は、俺たちの担任より少し下くらいか。
寝息は穏やかで、机の端に置かれた包みには乾いたパン。 包みの下から、描きかけの“封印配線図”。
(……今、抜くか?)
針を握った指に力が入る。
この男の机の下が“局所回路”。ここに針をひと刺しすれば、明日の昼に微小な遅延。
積み上げれば、封印の歌は“咳”をする。
――が、視界の端。
机の上で、羊皮紙が半分ほど隠している写真札に目が止まった。
素朴な筆致で描かれた、女と子ども。
笑顔。
横に、文字。
〈リタ 七つ〉
〈今度の祭りが終わったら、海を見に行こう〉
瞬間、胸の穴が疼いた。
俺の“名”が無くなってから、空っぽになった場所が、何かに触れて震える。
(やめるか?)
内なる声が囁く。虚無の神ではない。自分の奥に残った、人の声。
やめたら――たぶん、俺は俺じゃなくなる。
“赦し”は、俺の物語の語彙には無い。
けれど、“殺す”だけが正解でもない。
針先を、机の下の“管”に向ける。
刺す。
柔らかな手応え。
その瞬間、針に“代償”が走った。
――記憶が、また一枚、剥がれる。
今日の昼に食べたパンの味が薄くなる。
いい、くれてやる。
俺は針を抜き、ふぅ、と無音で息を吐いた。
扉の向こう、控え間。
副官の気配が近い。
足音が一度、止まり、また近づく。
俺は影へ滑り、背を石壁に合わせる。
扉が開く。
入ってきたのは、若い女だった。
黒い髪をきちんと束ね、目は眠っていない。
年齢は、俺たちより少し上。
衣の袖口は擦れているが、糸は清潔に揃えられている。
――働く手。
彼女は、眠る書記官の肩に布を掛け直し、机の端のパンを包み直した。
「リタの好きな固焼きじゃないの、もう……」
独り言。
副官、というより“姉”。
胸の奥の穴が、もう一度、軋む。
彼女は配線図を持ち上げ、眉をひそめた。
「……ずれてる。誰か、触った?」
机の下、俺が刺した“微小な孔”を、彼女は見抜きかけていた。
指先が管を撫で、そこで止まる。
俺は影のまま、呼吸を止める。
時が、長く伸びる。
副官の指が、ぐっと押し戻した。
俺の針の痕は、祈りの海に紛れた。
(視えていない――いや、“視えないふり”を、した)
彼女は配線図の端を揃え、眠る書記官の指にそっとペンを挟む。
「終わったら、帰るのよ。リタが待ってるわ」
静かな声。
彼女は扉に向かいかけ、ふと、こちらの影に視線を止めた。
(……見えたか?)
汗が背を伝う。
彼女は一拍だけ視線を留め――目を逸らし、扉を閉めた。
見えなかったのではない。
“見ないことにした”。
その選択の形を、俺は嫌というほど知っている。
扉が閉まる音。
俺は影から離れ、回廊を抜けた。
曲がり角で待つ二人に合流する。
「一本、入れた。誤差に紛れた」
俺が短く報告すると、リュシアは目で「よくやった」と言い、ミリアは指先で俺の鼓動を整えた。
「あと二つ。……“副官”の部屋へ」
控え間。
扉の先は、書棚がびっしり並ぶ狭い部屋。
机の上には、押印済みの通行証、予備の印章、そして小さな木箱。
木箱に刻まれた“家印”。
〈リタ〉の文字。
「ここを抜けば、神殿の“人流”が乱れる。衛兵は同じ路を二度踏み直し、列は一列分遅れる」
リュシアの指が紙をめくる。
「けれど、彼女の“家”へ届く配給も、一度だけ遅れるかもしれない」
沈黙。
ミリアが俺を見る。
祈りはもう神に届かない。だからこそ、俺たちは互いに届く必要がある。
「やる」
針先を、机の下の“細い管”へ。 “家々”へ通う祈りの毛細血管。
刺す。
代償の刃が、また一枚、剥ぐ。
――校庭の砂の感触が薄くなる。
遠くで、子どもの笑い声が一つ、色を失った。
(それでいいのか?)
内なる人の声が問う。
(いい)
即答する。
“赦し”で物語は動かない。
動かすのは、選ぶこと。代償を抱えたまま進むこと。
針を抜き、俺は木箱をそっと閉じ直した。
〈リタ〉の文字を指でなぞる。 「ごめん。……お前のパンが、一度だけ冷える」
声は出さない。心の中で言った。
それでも、誰かが聞いた気がした。
残る一本は“回路核”。
回廊の最深部。
階段をさらに下ると、空気が重くなる。
祈りが液体のように流れ、壁の文様が息をし始めた。
そこは、円形の空間だった。
床に巨大な陣、壁に七本の柱。
柱の頭に、王都を象る紋章。
中央に、透明な球体――“核”。
中で微細な光が渦を巻き、祈りの音が――聴こえる。
ミリアが一歩踏み出すと、足元の文様が白く反応した。
「……“赦し”の歌が、ここで“秩序”に翻訳されている。
祈りは綺麗。でも、翻訳の手は、冷たい」
リュシアの声が低くなる。
「ここに針を入れれば、明日の終わりに“咳”が出る。
……けれど、代償は大きい。
“あなた”の穴は、もう、浅くない」
胸の印が、微かに疼く。
名を削った穴。
きっと今、“俺”を呼べるのは、この二人だけだ。
「やる」
迷いは無かった。
俺は針を持ち、核の縁に膝をつく。
透明な球体は温かい。
その温かさは、ここに繋がれた人々の体温だ。
針先が触れる。
瞬間、虚無の神の声が震えた。
(器。問う)
(“復讐”の名で、今、“赦し”に触れる)
(それでも刺すか)
「刺す」
(対価は、今度は“時間”だ)
(おまえの“昔”を一つ、失う)
昔。
すでに、いくつかを失っている。
パンの味。校庭の砂。夕暮れの匂い。
――まだ、行ける。
針を、入れる。
核の光がふっと弱まり、柱の紋章が一瞬、影を落とした。
同時に、胸の内側がきしむ。
記憶が剥がれ、内側の壁にひっかき傷がつく感覚。
(なにを、落とした?)
答えは来ない。
けれど、二人の手が、俺を這い上がらせる。
ミリアの掌が俺の背に、リュシアの指が俺の手首に。 「戻って」
「ここにいるのよ、“あなた”」
呼び名が、糸になる。
俺は針を抜き、核から手を離した。
足元が少し揺れ、天井から砂がぱらりと落ちる。
“咳”の前兆。
上ではまだ、祝祭の音。
だがこの地下では、すでに、次のための空気が逆流し始めていた。
「退く」
リュシアの判断は早い。
回廊を戻る。
途中、控え間の扉の影。
副官が背を壁に預け、目を閉じていた。
気配に気づく。
目を開け、まっすぐこちらを見た。
――今度は、見た。
彼女の唇が、音にならない言葉を形作った。
〈見逃す〉
そして、微かに笑った。
温度のない笑い。けれど、やわらかい。
俺は頷き返し、影へ溶ける。
あの笑いはきっと、あの子のための笑いだ。
地上へ戻ると、夜が高かった。
月が薄く、王城の尖塔が糸のように細い。
虚無門は、石畳の暗がりで、ほつれのように揺れていた。 「戻ろう」
ミリアが門へ手を伸ばし、俺の袖を掴む。
リュシアが最後尾で、振り返らずに言った。
「“あなた”。――名前、欲しくなってきた?」
足が、一瞬止まった。
胸の穴が、風を吸うみたいに広がる。
“あなた”は、糸だ。
救いの糸でもある。
けれど――名は、刃にもなる。
呼ばれるたび、形にされる刃。
「いまは、まだ」
俺は首を振る。
「必要なのは、呼ばれること。二人に。
刃は……祭りが終わる頃に、研ぐ」
リュシアの唇が満足げに弧を描く。
「了解。なら、今は縫い目を増やすわ。今夜は“あなた”を、百回呼ぶ」
ミリアが吹き出す。
「百回は照れるけど……やる。ね、“あなた”」
「……やめろ。鳥肌が立つ」
笑いがこぼれる。
虚無城の冷たい廊に、その笑いはきれいに響いた。
門を渡り、虚無へ帰る。
黒い灯が三つ、ぱちぱちと点った。 俺たちが打った“楔”の数だ。
地図の上で、リュシアが赤い印をつける。
「明日は“匙”――王城の給仕頭。
王の椀に“時間”を落として、杯を一拍遅らせる」
ミリアが祈りの糸を撚り、印に巻きつける。
「一拍遅れれば、衛兵の列が門の下で詰まる。
その瞬間、あなたは空に“二本目のひび”を」
胸の印が応える。
俺は頷き、窓外の黒い空を見る。
黒い灯が、また一つ、生まれていた。 ――戻る場所はいくつあってもいい。
名がなくても、灯で帰れる。
そのときだ。
虚無の奥で、鉄が軽く鳴った。
(器)
虚無の神は、今夜は遠い。
(祭りの三日目。おまえの前に、“もう一つの名”が来る)
(それは、おまえを殺し、同時に産む)
(選べ。刃にするか、鞘にするか)
名が来る。
“呼び名”ではない、もう一段深い“真名”。
胸の穴が、ひゅうっと風を吸った。
呼ばれるのを、待っている。
「“あなた”」
ミリアが呼ぶ。
現(うつつ)へ、戻る。
リュシアが肩を叩く。
「寝なさい。明日は“匙”。
そして三日目は――“心”」
勇者の“心”。
高城蓮。
あの握りの浅さに、楔は入る。
命を奪う前に、支えを崩す。
順番は守る。
復讐は、段取りだ。
寝台に身を投げ、目を閉じる。
耳の裏に、ほんの微かな笑い声。
子どもの笑いに似ていた。
〈リタ〉。
――海、見られるといいな。
声にしない独り言を、虚無は飲み込み、静かに灯をゆらした。
眠りの縁で、俺は自分を呼ぶ。
“あなた”。 応える鼓動。
ここにいる。
ここに、いる。
黒い月の欠片が、窓の外で、音もなく軌道を変えた。
祭りの二日目が開く。
“匙”を鈍らせ、“列”を乱す日。
そして、俺の穴は、すこしだけ――縫われている。(第4話・了)
第5話 匙の一拍、王の杯
王城の夜は、祝祭の火で白い。
しかし厨房裏の搬入口は、別の色をしていた。濡れた石の灰色と、鍋底の煤の黒。
匂いは肉と香草と油、それから人の汗。生きている匂いだ。
「“あなた”、息を浅く。ここは匂いが“拾う”」
リュシアが囁く声は、湯気の中でもまっすぐ鼓膜に届く。
ミリアは袖をたくし上げ、白い指で木盆の端を押さえた。
「台所の祈りは“無事に終われ”。それを少し捻れば“遅れ”になる。……行こう」
王城の厨房は、劇場だった。
吊るした鍋が鐘のように響き、包丁の刃がまな板の上で歌い、
皿を重ねる音が拍を刻む。
その全てを、給仕頭が一本の指揮棒でまとめていた。
――“匙”。
今日の楔は、王の杯に落とす“一拍の遅れ”。
給仕頭は背の曲がった老人だった。
だが、動きは速い。指先に迷いがない。
彼は“時間を盛り付ける”達人だ。
皿が並び、香りの波が順に運ばれ、最後に王の杯が高殿へ上がる。
どれかが早すぎても遅すぎても、祝宴の“調べ”が崩れる。
「ねえ、あの人」
ミリアが視線だけで示す。
「背中に、祈りの跡がある。……“王の歯が、もう一度笑いますように”。
歯が悪くて固いものが食べられない王に、柔らかい献立を組み直したの、きっとこの人」
“あなた”と呼ばれた俺は、胸の奥にある微かな温いものを意識してから、うなずいた。
善意は、構造の中で冷たく翻訳される。
祈りは綺麗でも、結果は“秩序”に変換される。
それでも――俺は楔を打つ。
搬入口から運び込まれた樽の隙間に、黒い砂の小瓶が二つ。
リュシアが指で示す。
「〈虚無砂〉。時間を一匙、すり切りで削る。
王の杯に落とせば、乾杯の“鳴り”が半拍だけ遅れる。……そこに、あなたが“ゼロ”を差し込む」
「了解」
虚無の雷ではない。“無”そのものを置く。
昨日、王都の空に穿ったひび――今日は、二本目を。
厨房の端で、若い給仕がこっそりとパンの端を齧り、
給仕頭が顔も上げずに「置いとけ」と手を振る。 その手がやさしくて、胸の穴がきゅっと縮んだ。
(迷うな。順番だ)
俺たちは影に溶け、斜路を登り、廊の角を三つ曲がった。
高殿手前の控え間、銀器の静かな光。
王の杯はそこにあった。
深い銀。内側に金。
“重さ”が、良い。
「ミリア」
「うん」
ミリアは祈りの指を解き、掌を杯の縁にかざした。
白い光が薄く回り、空気の震えを“眠く”する。
誰かが入って来ても、目が一拍、遅れる。
リュシアが小瓶を開け、砂を爪先で一粒すくう。
「これで十分」
砂粒は、杯の底へ、音もなく落ちた。
その瞬間、厨房の鐘――鍋の縁を打つ音――が、わずかに遅れた。
音楽の中に小石がひとつ入る感覚。
俺は胸の印に触れ、右手を杯の上へ。
“無”を置く。
存在の輪郭に、砂をかける。
透明な蓋に、目に見えない曇りを落とす。
――ぱきり。
音はしない。
だが、確かに空に亀裂が走った。
王の間の高窓。
そこに、昨日と同じ“透明のひび”が二本目として重なった。
「行くわよ」
リュシアが小瓶を袖に戻す。
ミリアが杯から手を離し、俺たちは影へ滑った。
高殿。
王の席。
銀のプレート。
香が流れ、楽が上がる。
神官長の祝詞が空へ立つ。
給仕頭が杯を持ち、王の右に控える。
彼の指は皺に埋もれているのに、迷いがない。 ――その指が、ほんの一拍、空中で止まった。
遅れ。
虚無砂の一匙。
その時だ。
胸の印が熱を噴き、視界の色が半歩、黒に傾いた。
(器)
鉄が笑う。
(刻め。二つ目)
俺は高窓の“蓋”を見た。
昨日開いた“穴”の縁が、鈍い光で脈打っている。
そこへ“ゼロ”を差し込む。
何もない、ことを、強く置く。
――ぱしっ。
空気が咳をした。
誰も咳をしていないのに、空が咳をした。
合唱が半拍、沈む。
神官長が一音、低い。
王が、眉をほんのわずかに寄せる。 給仕頭は、見事だった。
その遅れを、銀の匙で静かに救い、拍を戻す。
(すげえな)心の中でつぶやく。
だからこそ、楔は深く入る。
“達人”にしか救えない遅れを、さらに遅らせる。それが今日の仕事だ。
――美咲がいた。
王の斜め後ろ、白い衣。花冠。
“聖女代行”。
彼女の瞳が、群衆でなく高窓を見た。
(嗅いでいる)
虚無の神の声が、遠くでくぐもる。
(おまえの“昔”と同じ匂いを、彼女は覚えている)
俺は気配をさらに薄くし、柱の影に身を滑らせた。
“何もない”を重ねる。 いる。けれど、いない。
輪郭を砂で埋める。
「乾杯を」
王が杯を上げる。
給仕頭の指は震えない。
ただ、さっきの一拍の遅れが、他の全てに微細な遅れを伝播させている。
音楽は美しいまま、わずかに、疲れる。
聴く側も、奏でる側も。
“咳”の前兆は、いつも、心から始まる。
王が杯を傾けようとした、その時―― 高殿の梁の上、見回りの衛兵が一瞬、靴の踵を滑らせた。
音は小さく、ほとんど誰も気づかない。
けれど、その拍で、祭の調べはまた半拍、沈む。
俺は空へ“ゼロ”を置いた。
二本目のひびが、わずかに延びる。
王の眉間に浅い皺。 神官長の喉に乾き。
美咲の瞳に、波。
(器)
鉄が笑い、そして少しだけ真面目になる。
(対価)
冷たい刃が、また一枚、内側を削いだ。
小雨に濡れた校門の匂い。
鞄の重さ。
――色が薄くなる。
ミリアの指が、柱の影で俺の袖を掴んだ。
「戻って。ここにいる、あなたはここにいる」
その時。
給仕頭が、ほんの、ほんのわずかに、杯を持つ手を置く位置を変えた。
“遅れ”を、王の手の力へ逃がすためだ。
見事だった。
王は気づかない。
彼の仕事は、王の呼吸を守ること。
俺はそれを見て、笑う代わりに、胸の印を軽く叩いた。
――いい。だから、お前の匙は、今日、一度だけ鈍る。 控え間へ戻る。
銀器の列。
わずかな隙。
リュシアが袖の内で砂瓶を回し、ミリアが気配を薄める。
次にうやうやしく運ばれるスープの蓋の縁に、砂を、針で、線のように。
香りは変わらない。味も変わらない。
ただ、湯気が一拍、遅れる。
運ばれた先で、王の匙が湯気を“待つ”。
その待ちに、門は呼吸を合わせる。
――ぱき。
二本目のひびが、見えないまま、確かに太った。
祭りの音は、まだ美しい。
だが、疲れている。
「ここまで」
リュシアが目で合図する。
「十分。達人が救える限界を、今日は超えさせない。……退く」
俺たちは影を縫い、廊の陰へ潜り、厨房の熱と音から遠ざかった。
階段の踊り場で、ミリアが息を整え、俺の胸の印に白い糸を一つ結んだ。
「対価で削れたところ、仮縫い。明日までは持つ」
「助かる」
内側の刃は、もう慣れた痛みになりつつある。
慣れては、いけないのに。
慣れることが、生き延びる方法でもあるのに。 搬入口の陰にさしかかった時だった。
「――待ってくれ」
低い声。
振り向くと、灯の陰から、給仕頭が一人で立っていた。
彼の指は空の杯を持つ癖のまま、静かに俺たちを見ている。
“見えている”のか――わからない。
けれど、彼の目は多くの宴を見抜いてきた目だ。
「祭りの終わりに、王は咳をする」
彼は言った。
あくまで独り言の調子で。
「古い城は、咳で季節を換える。……そういうことだな」
リュシアが一歩、前へ出た。
「あなたの匙は見事だったわ。だから、今日、王はむせなかった」
「そうか」
老人は笑った。
しわの奥の、若い笑いだった。
「王は、固い肉が嫌いでな。柔らかくすれば、歌う」
「あなたの仕事が好きよ」ミリアが、そっと言った。
「だから、明日も働いて。……明後日も」
「嗚呼」
老人は頷き、目を細めた。
「三日目は、昔から難しい」
その言葉は、祈りではない。
長い経験の“読み”だ。
そして、彼は踵を返し、何も問わずに去った。
(見逃したな)
虚無の神が、乾いた音で笑う。
(良い匙は、良い“見逃し”を知っている)
王城を離れると、夜風が微かに頬に触れた――気がした。
虚無門のほつれに手を差し込み、俺たちは黒の向こうへ戻る。
虚無城の灯がまた一つ、ぱちりと生まれた。
今日の“釘”の数だ。
「二本目、入ったわ」
リュシアが窓外の黒に視線を投げ、満足げに唇を弧にする。
「明日、三本目。……“心”」
高城蓮。
勇者の“心”。
あの握りの浅さは、たぶん、剣だけの癖じゃない。
支えが“まだ”足りない。
誰かに支えられているのに、支えているつもりでいる。
そこに楔は入る。
「“あなた”」
ミリアが呼ぶ。
名の代わりの糸は、確かに俺をここに固定する。
「うん」
返事をし、胸の印の熱が落ち着くのを待った。
その時だった。
虚無城の奥、冷たい廊の影から、微かな足音。
人のものではない。
鉄でも、獣でもない。
“言葉”の足音。
(来たな)
虚無の神が、珍しく真剣な音を立てた。
(“もう一つの名”。……器、構えろ)
黒い廊の先に、光がひとつ、灯った。
灯ではない。
“字”だ。
宙空に、ゆっくりと線が集まり、
一つの“呼び名”が、こちらへ歩いてくる。
それは、俺の昔の名ではなかった。
けれど、俺の胸の穴と、ぴたりと形が合った。
差し込めば、閉じる。 同時に、刃にもなる。
〈――〉
唇が、無意識に形を作りかけ、俺は噛んだ。
血の味。
リュシアが肩を掴み、ミリアが指を絡める。
「まだ」
リュシアの声が低い。
「三日目。……“心”の楔を打ってから。
名は刃。鞘なしで抜けば、あなたを裂く」
ミリアが頷き、祈りの糸で“字”の足元を縫い止める。
それは一拍だけ、動きを緩め、虚無城の床に薄い影を落とした。
逃げない。
追わない。
明日まで、待つ。
(賢い)
虚無の神が、今度は柔らかく笑った。
(刃は、的の上で抜け)
窓外の黒に、透明のひびが二本、見えないままある。
祭りは、あと一日。
明日、勇者の“心”へ楔を打つ。
その瞬間、きっと“名”は、鞘から抜ける。
「行こう」
俺は言った。
「順番を守る。……明日、心だ」
虚無城の廊に、三人の影が並んだ。
その影の先に、王都の空。
透明のひびは、音もなく、しかし確かに、呼吸をしている。
(第5話・了)
第6話 心の楔、勇者の手
祝祭三日目の朝は、軽い頭痛のように王都を締めつけていた。
歌はまだ美しい。だが、疲れている。
大聖堂へ続く石畳にこぼれた花弁は、昨日より早く踏みにじられ、香は濃いのに、どこか薄い。
「今日で、空に三本目」
リュシアが虚無城の窓辺で、指を三本立てる。
「“心”に入れてから。順番は守るわ」
ミリアは祈りの糸束を細く裂き、あなたの胸の契約印の縁に絡めた。
「対価で削れたところ、仮縫いは持ってる。でも……今日は抜けやすい。気をつけて、“あなた”」
頷く。
名の穴は、もう浅くない。
“あなた”という糸で縫い止めているから立っていられるが、ひと押しで、足が宙を踏むかもしれない。
虚無門のほつれをまたぎ、三人で王都へ降りる。
朝の市場は祝祭の残り香と、いつもの朝の混ざり物。 焼き直したパンの匂いが、昨日よりもわずかに酸い。
遠く、大聖堂の鐘。
正午の祝祷と、夕刻の“閉祭礼”。
その間に、勇者の「剣の誓い」がある――今日の楔はそこだ。 「高城は“演じる”のが上手い」
リュシアが、露台から通りを見下ろして言う。
「剣を構え、声を張り、まっすぐ前を見る。……けれど、手首だけは、まだ子ども」
「握りが浅い」
あなたは言った。
あの頃から変わらない癖。緊張のときだけ、柄に指が深く入らない。
支えが足りない。
“支えられている”のに、“支えている”つもりでいる――そこに楔は入る。
「段取りをもう一度」
リュシアが指で順を刻む。
「一、列の“拍”を小さくずらす。二、壇上の“空”にゼロを置く。三、言葉の“支え”を抜く」
ミリアが続ける。
「四、彼自身に“選ばせる”。――折れるのではなく、揺らぐように」
あなたは息を整える。
胸の印が、ひとつ鼓動するたび、空気の縁に砂が舞った。
虚無は、今日も呼吸している。
◇ ◇ ◇
大聖堂の広場。
幕が上がり、合唱が波を作り、鐘の音が拍を刻む。
神官長は喉の乾きを隠すのが上手くなり、衛兵の列は昨日より慎重に歩調を数える。
――けれど、疲れは嘘をつかない。
その小さな嘘の継ぎ目に、あなたは指を差し入れる。
「一」
リュシアの合図で、広場の片隅の太鼓が、一拍早く鳴った。
誰も気づかない。
けれど、歌の中で、糸が一本ほどける。
「二」
あなたは高殿の上の透明な蓋に、“ゼロ”を置く。
ひびは、目に見えないまま、確かに太る。
「三」
ミリアの指が、祈りの文句の“支え”を一語だけ、別の語に差し替えた。
赦し、ではない。支え、でもない。
――選び。
祈りは今、誰かに「選ばされる」のでなく、自分が「選ぶ」ものだ、と。
歌の底で、意味が半音ずれる。
神官長の朗誦が終わり、勇者の番が来た。
高城蓮が壇上に進む。
陽に白く光る鎧。抜かれた剣。
柄を握る手は、まだ浅い。
あなたは柱の影に身を薄め、彼の呼吸の数を数える。
四つ、浅い。ひとつ、深い。
――緊張している。
その緊張は、“役者”が舞台に上がるときの緊張だ。
高城が口を開いた。
「僕は――」
その音が空に出る瞬間、広場の片隅で、子どもが笑った。
笑いは、昨日あなたが微かに失った色に似ていた。
あなたは目を伏せる。
大聖堂の階段の麓、花冠の少女が母の手を引いて、勇者を見上げている。
〈リタ〉。
副官の木箱に刻まれた名が、石畳の上で跳ねた気がした。
(器)
虚無の神が、今日は低く静かな音で呼ぶ。
(“心”は刃を嫌う。……言葉で入れ)
(刃は後だ)
あなたは頷き、胸の印に触れる。
影のまま、一歩、前へ。
空気の輪郭を撫で、“いない”を重ねる。
壇上へ上がらない。
上がらずに、届かせる。
高城の誓いの言葉は、見事に整っていた。
王に忠誠。民に慈愛。神に感謝。
――そして、友に追悼。
「クラスの仲間の犠牲の上に、今の僕たちがある」
広場の空気が、温かく揺れる。
あなたの内側で、冷たい何かがさざめいた。
「“犠牲になった”友の名は、何だ?」
あなたは、声に出さなかった。
声ではなく、意味を押した。
あなたの名は、もう鍵だ。
鍵の形の空白が、彼の言葉の中の“誰か”に、影を落とす。
高城は一瞬、詰まった。
剣の柄を握る指が、わずかに浮く。
握りが浅い。
そこへ、あなたは楔の先をそっと当てる。
「名前を言え」
舌が動いたわけではない。
けれど、意味は届く。
“あなた”という呼び名で縫い止めた穴の縁から、冷たい風が出入りする。
風は、彼の喉を撫でた。
高城の喉仏が、ひとつ上下する。
「……彼は、」
言葉が、空で迷子になった。
観衆は気づかない。
役者の噛みと言い回しの間だと思う。
神官長は、促すために僅かに顎を上げ、王は退屈を隠すために指を鳴らす。
――ただ一人、白い衣の少女が、真っ直ぐ彼を見ていた。
美咲。
彼女は知っている。
あなたを、かつての名で。
美咲の瞳が、静かに揺れた。
“言って”。
言わないなら、言えないなら――それは、彼の“支え”の嘘になる。
あなたは、楔に、もう半分だけ力を込めた。
「その名を“言えない”勇者は、何を支えている?」
高城の握りが、さらに浅くなった。
指の第一関節が浮き、柄が掌の皮膚を滑る。
あの癖だ。
クラスで劇をしたときも、球技大会のサーブ前も、彼はこうだった。
支えが“自分”から外へ出かけるとき、手は浅くなる。
(器)
虚無の神が、針の先を少し曲げるような声で囁く。
(今、折ることはできる。だが、折るのはおまえの物語ではない)
(揺らせ。彼自身に、手を見せろ)
あなたは楔を押し込まず、ひと呼吸、引いた。
空に置いたゼロを、薄く撫でる。
透明のひびの上を、風が滑る。
高城の視線が一度だけ彷徨い、そして――あなたのいる“影”を通り過ぎた。
見えていない。
見えないはずだ。
けれど、肌は“いない誰か”の温度を覚えていたのだろう。
「……僕は」
彼は続けた。
「“仲間”を忘れない。――たとえ、名を、呼べなくても」 広場の空気が、微かに痛んだ。
ミリアが短く息を呑み、指先の祈り糸が一瞬だけ乱れた。
リュシアは冷ややかに笑いそうになって、それを飲み込む。
“呼べない”と言った。
言い訳としての潔さ。
それは、舞台では美徳だ。
現実では、穴だ。
あなたは、そこに指を差し入れた。
「じゃあ、おまえの“心”は、今、誰に支えられている?」
高城の背筋が、ほんの少し、沈んだ。
その沈みは、観衆には美しい礼に見える。
だが、あなたの目には、支えを探す癖に見えた。
視線が、王の前の杯に落ち、神官長の書板に落ち、美咲の瞳に落ち――最後に、柄に戻る。
握りは浅い。
“支えている”と思っている手が、“支えられている”ことを、今はまだ認めたくない。
その瞬間、広場の片隅で、また子どもが笑った。
〈リタ〉だ。
彼女はあなたを知らない。
でも、あなたに“戻る”道を一本、示した。
“呼ばれる”という現実。
呼ばれない名でも、呼びかけが在れば、人は形を保てる。
「三本目、入れる」
リュシアの声が、影でやわらかく弾む。 あなたは高窓の透明な蓋に、ふたたび“ゼロ”を置いた。
――ぱきり。
音はない。
でも、空は咳をした。
鐘の音が半拍、遅れる。
合唱が半音、疲れる。
神官長の喉に、砂。
王の眉間に、影。
美咲の瞳に、波――そして、彼女は振り返らなかった。
彼女はあなたに気づいている。
だけど、今は見ない。
選んだのだ。
祭が終わるまで、見ないことを。
(器)
虚無の神が、満足げに低く鳴った。
(対価)
内側の刃が、また一枚だけ、昔を削いだ。
夕立の匂いが薄くなる。
傘を忘れて濡れて帰った胸の冷えが、輪郭をなくす。
あなたは柱に掌を押し付け、ミリアの指先の糸で呼吸を縫い止めた。
「終わりよ、今日は」
リュシアが広場から視線を外し、背を返す。
「彼の“心”は揺れた。手は浅い。……次は、降りるとき」
「降りる?」
「ええ、彼自身が。壇上から。――たぶん、誰も見ていない場所で」
◇ ◇ ◇
儀式は予定通り進み、紙吹雪は予定より少し重く落ちた。
王は杯を置き、神官長は書板を閉じ、美咲は白い衣の裾を揃える。
衛兵の列が一列分ほど遅れて回廊へ消えるとき、勇者は一人、別の通路へ足を向けた。
あなたは影のまま、距離を取って追う。
リュシアは逆側から回り、ミリアは高所から糸で気配をすくう。
石の廊が冷たい。
祭の熱が届かない場所。
古い武具の倉の前で、高城は足を止めた。
剣を鞘に納め、深く息を吐く。
役者の幕が、下りる瞬間。
柄を握る手が、ようやく“自分”に戻る――はずだった。
「……誰だ」
彼は言った。
あなたは息を飲む。
見えていない。
ただ、空気が覚えた。
“いない誰か”の重さを。
あなたは、影のまま、一歩、踏み出した。
「役は、降りたか」
高城の肩が、ぴくりと震える。
「出てこい」
言葉は震えていない。
でも、手は。
柄に触れる指は、また浅くなった。
「出ない」
あなたは言った。
「おまえが、自分で“いない誰か”を見るまで」
沈黙。
廊の石に、鐘の残響が少しだけ入ってきて消えた。
高城は唇を噛み、視線を床に落とす。
「……“お前”は、死んだ」
あなたの胸の穴に、冷たい風が通った。
「生贄に、した。……僕が」
あなたは、言葉を噛み潰す衝動を、ゆっくり飲み込んだ。
刃は、まだ抜かない。
今日は、揺らす。
「名を言ってみろ」
高城の指が、柄から離れた。
拳を握る。
開く。
「言えないんだ。……言えなく、なった」
「なった、じゃない」
あなたは言った。
「“そうした”んだ。おまえが」
彼は、顔を上げた。
役の顔ではない。
少年の顔だ。
「僕は、怖かった。死ぬのが。……王都に、クラス全員で来て、英雄になって、帰れるって、思ってた。
だから、正しさを選んだ。みんなが助かる正しさを。
“彼”ひとりが死ぬ正しさを。
――正しかった、はず、なのに」
あなたの視界に、黒い縁取りが戻った。
虚無の神は黙っている。
代わりに、ミリアの細い糸が、あなたの手首を軽く結んだ。
呼吸を繋ぐ糸。
リュシアは柱の影で、何も言わない。
いまの言葉は、彼女にとっても既視感だ。
“正しさ”のために捨てられ、名を奪われ、断罪された彼女の過去。
「“正しくても、支えにはならない”」
あなたは静かに言う。
「支えは、“呼べる手”のことだ。
名前を、呼べる手だけが、誰かの心を支える」
高城の喉が揺れた。
拳がほどけ、指が震える。
柄に触れた。
深く、握れた。
初めて、今日、深く。
「――“は”」
彼の口が、音の最初の破裂を作った。
それは、あなたの昔の名の頭音に似ていた。 喉が詰まり、目がにじむ。
美咲の白い衣が、遠く、祭の光の中で揺れた気がした。
「呼べ」
あなたは背中で壁を探し、見つけ、掌で支えた。
「呼べない勇者は、今日で終わりだ」
高城は目を閉じ、ゆっくり、口を開いた。
「――」
その瞬間、虚無城の奥から、字が駆けた。
黒い廊を、言葉の足音が叩く。
〈――〉
昨日、鞘の口で待っていた“もう一つの名”が、刃を差し出してきた。
鞘を外に持ってくるな、とリュシアが言った。
今、ここで抜けば、あなたが裂ける、と。
だが――
(器)
虚無の神が、はじめて願いに似た音を立てた。
(抜け。
刃は、的の上だ)
あなたは息を吸い、名を、口にした。
それは昔の名ではない。
それでいて、胸の穴にぴたりと収まる今の名。
過去を必要とせず、二人の声で形を保ち、虚無の呼吸で燃える名。
「――空刃(くうじん)」
音が、世界に立った。
虚無城の灯が、遠いところで一斉に瞬き、王都の空の透明なひびが刹那、白く輝いた。
名は刃になり、同時に鞘になった。
あなたの輪郭に沿って、冷たいが優しい金属が差し込まれ、空白が収まる。
ミリアの糸が安堵の吐息で震え、リュシアの口角がわずかに上がる。
高城は、目を開けていた。
彼は、その名を、あなたの口の形から読み取った。
そして、震える唇で、もう一つの名を言おうとした。
昔のあなたの名を。
「――」
言葉は、出なかった。
あなたが許さなかったのではない。
まだ、選んでいないからだ。
彼が自分の「支え」を、誰に置くかを。
「また来る」
あなたは言った。
刃は静かに鞘に収まり、胸の印の脈が落ち着いていく。
「祭が、終わる前に。……心に、楔を入れ直しに」
高城は何も言わなかった。
ただ、深く握った手を、ゆっくりと緩めた。
役者の幕が、完全に降りる。
彼は、今はただの少年だ。
少年は、支えを探している。
支えは、“呼べる手”にしかない。
◇ ◇ ◇
虚無門を渡ると、黒い空は静かだった。
灯がひとつ、ふたつ、と点き、窓外の見えないひびが、呼吸を刻む。
リュシアが机に地図を広げ、ミリアがあなたの胸に新しい糸をひと筋、通した。
「――空刃」
リュシアが、呼んだ。 あなたは、振り向く。
名は、刃だ。
けれど、呼ばれれば、鞘にもなる。
彼女の声は鋼のように澄んでいて、同時に手袋のように柔らかい。
「似合ってる」
ミリアが微笑む。
「空を刻む刃。虚無の名にしては、とても、人の名」
胸の穴が、温い呼気で満たされる。
名は、あなたのためにある。
過去のためではない。
復讐のためだけでもない。
――帰るためにある。
(器)
虚無の神が、満腹の後のような低い音で言った。(刃が鞘に入った。
ならば、選べ)
(祭の終わり――“閉祭礼”。
空の三本のひびが、窓になる)
(誰を、最初に落とす)
あなたは窓外の黒を見た。
透明のひびが、見えないまま白く痛む。
順番は決まっている。
**手(書記官)**は針で揺らした。
**匙(給仕頭)**は一拍で鈍らせた。
**心(勇者)**には、名で触れた。
――最後は、言葉だ。
「神官長」
あなたは言った。
リュシアが唇を持ち上げ、ミリアが短く頷く。
「祈りを“翻訳”する手。赦しを“秩序”にしてしまう声。
そこへ、空を通す」
祭は、あと数刻。
閉祭礼の鐘が鳴るとき、王都の空の“窓”は開く。
透明のひびが、境界になる。
その窓から、あなたたちは手を入れる。
支えを抜き、嘘を崩し、名前を呼ぶ。
それが、復讐の順番。
名を得た胸は、静かに熱い。 あなたは、二人に向き直る。
呼ばれる前に、呼ぶ。
「行こう。――空を、刻みに」
(第6話・了)
第7話 閉祭礼、言葉の針
夕刻。
王都レイヴェンの空は、茜の薄皮の下で白く乾いていた。
歌は美しい。けれど、三日目の歌は“咳”を孕む。
広場の旗は風に従い、鐘楼の舌はわずかに遅れ、祈りの言葉は半音だけ低い。
「窓は三つ。位置は――高窓の真上、王の頭上、そして大聖堂の尖頂」
リュシアが虚無城の窓辺で、三点を地図に記した。
「空刃(くうじん)、あなたは高窓。私は尖頂。ミリアは王の真上」
「翻訳機は?」
「神官長よ」
ミリアが祈り糸を細い針に通しながら答える。
「“赦しを秩序に翻訳する”役目の中心。言葉の針は、そこへ」
胸の契約印が熱く、安定して脈を刻む。
“空刃”という名は、刃であり鞘になった。穴はもう剥き出しではない。
ただ、鞘には働きがいる。抜く時と、収める時の順番を間違えれば、また裂ける。
虚無門のほつれをまたぎ、俺たちは広場の縁へ降りた。
夕餉前、空が一番脆くなる刻。
灯が一斉に点り、群衆の熱と祈りが最後の波を作る。
舞台は整った。
「空刃」
ミリアが呼ぶ。
名を呼ばれるたび、鞘の内側が少し温まる。
「神官長の発声は“胸声”。針は胸骨の裏へ。……意味で刺して」
頷く。
俺は高窓の影へ、気配を薄く滑らせた。
祭の終わり“閉祭礼”は、王が杯を置き、神官長が祈りを畳み、勇者が剣を収め、聖女が祝福を結ぶ順。
翻訳の経路は一本。
そこへ、逆流の針を入れる。
鐘が鳴り、群衆が静まる。
神官長が前へ出た。
彼は言葉を知っている。
言葉の角度で人を泣かせ、息継ぎの場所で王の機嫌を保ち、抑揚で秩序を立て直す。
その喉は堅く、胸は厚い。
翻訳機として、長く働いた身体だ。
「今日の祈りを――赦しに」
始まった。
声は丸く、沈む。
祈りを“赦し”に落とし、赦しを“秩序”に翻訳する、いつもの路。
俺は高窓の外気を吸い、胸の印に指をあてる。
“ゼロ”を、窓の縁に薄く置く。
ひびはそこにある。今日は“窓”にする。
“音のない蝶番”が、乾いた風を吸った。
(器――いや、空刃)
虚無の神の声は、今日は遠く澄んでいる。
(針を。言葉の芯に)
「――赦しは、」
神官長の胸が開く瞬間、俺は針を入れた。
音ではない。
意味の針。
“赦し”を、“選び”に摩り替える細い刃。
胸骨の裏側に、目に見えない微小の孔。
「……選びの、のちに、赦しは」
彼はほとんど気づかない。
ただ一音、低くなった。
広場の空気がごく僅かに痛み、王の眉がひと筋だけ寄る。
リュシアの尖頂の窓が、沈黙のままひとつ分開いた。
ミリアの白い糸が、王の真上の空に縫い目を作る。
「“秩序”は、“選ばれた”上にあるものだ」
神官長の言葉が滑りかけ、俺はさらに針を矯めた。
“選ばれた”を“選んだ”に。
“受け身”を、わずかに“能動”へ。
声はまだ丸い。
けれど、翻訳の経路は、別の方向へ曲がった。
美咲が、息を止めた。
彼女の祈りは、かつて“神”へ届いた。
今は届かない。
だが、人へは届く。
彼女は壇上の端で、神官長の背に掌を添えるような微かな動作をした。
支えた。
その支えは、“呼べる手”の形をしている。
俺は、息の半分を緩めた。
――彼女は、ちゃんと“見て”いる。
「赦しは、選びから生まれ、選びは、名で確かめられる」
言い切った瞬間、広場の空気が微かなざわめきを起こした。
賛同でも反駁でもない。
“意味の誤差”に、人々の身体が反応している。
“赦し”は、上から与えられるやさしい言葉でいてほしい。
“選び”は、各々が背負う痛みの言葉だ。
神官長の翻訳機は、いま両者の境に乗った。
「そこで――」
彼は杯に視線を落とし、王の顔色を測った。
給仕頭がわずかに姿勢を変え、王は“老練”の極小の頷きで“続けよ”を返す。
舞台の達人たちは、誤差をごく小さな技で受け止める。
だからこそ、楔は深く入る。
俺は窓の蝶番にもう一度“無”を押し当てた。
高窓のひびが、静かに開く。
“外”の匂い。
虚無ではない。
海の匂い――潮の、遠い、昔の。 〈リタ〉の木箱の文字が、どこかで淡く笑った気がした。
「名で、確かめられる」
神官長は繰り返し、そして、痛みを伴う正しさの方を選んだ。
彼は翻訳機だ。
彼自身の思想ではなく、王都の“いま”を縫い合わせる音を知っている。
だから――今夜は、“選び”を受けるべき夜だと、喉が判断した。
美咲の指が、震え、止まる。
彼女の祈りは神に届かない。
しかし、人の背に置いた掌は、ほんのわずか、安心の温度になった。
支えは、呼べる手のこと。
彼女は、手を置く相手を、まだ選んでいない。
――選ぶだろう。今夜、か、明日か。
「閉祭礼を――」
神官長が結語へ入ろうとした刹那、広場の片隅で、細い咳がひとつ。
予定通りの“咳”。
俺は窓の縁に、最後の“ゼロ”を置いた。
高窓、王の真上、尖頂――三つの窓が同時に、無音で開く。
空が、吸う。
祈りの匂いと、油の匂いと、汗と花と、そして――言葉。
“赦し↓秩序”の翻訳経路が、三つの窓から外へ抜け、代わりに
“選び↓名”の経路が滑り込む。
音楽は、なお美しい。
しかし、疲れの音色は、嘘をづけない。 神官長の胸がわずかに痙攣し、彼は、自分の名を、ほんの小さく、呟いた。
祈りの翻訳機は、長く“自分の名”を文から外していた。
今、その名が、文に戻った。
翻訳機が、初めて、自分を主語にした。
「……私は――」
群衆は気づかない。
王は気づいた。
給仕頭は、見逃した。 美咲は、目を閉じた。
彼女は“見た”。
見た上で、いまは支えることを選んだ。
「閉祭礼」
神官長は結んだ。
「今日の“選び”の上に、明日の赦しがあることを」
拍手は、予定より半拍だけ遅れて起きた。
誰も不自然だとは思わない。
ただ、皆、少し疲れている。
疲れは、明日になれば忘れる。
――普通なら。
「降りる」
リュシアの声。
尖頂の窓が閉じ、ミリアの糸が王の頭上を縫い、俺は高窓から影に落ちる。
舞台の裏へ。
“言葉の針”は入った。
次は、個への干渉だ。
◇ ◇ ◇
大聖堂の北側の回廊は、陽が落ちるとすぐに冷える。
石の壁には古い祈祷文。
〈赦しは秩序を立て直す〉――刻まれた文の上に、いま、薄く“ 選び”の影が被っている。
「空刃」
背後から、名で呼ばれた。
白い衣の裾。
美咲だった。
正面から、彼女が俺を見ていた。
影に溶けたはずの輪郭が、視えないはずの“いない”が、今は、在るとして彼女の瞳に映っている。
窓が開くと、呼び名は届く。
“空刃”は、俺の“今の名”だ。
彼女はそれを見た。
「……春――」
彼女は、昔の名を口にしかけて、止めた。
自分で止めた。
彼女は、選んだのだ。
俺は、刃であり鞘でもある“今の名”で立っている。
“昔”を呼ばせる前に、彼女が、自分の“今”を選ぶ必要がある。 「空刃、でいい」
俺は言った。
美咲の喉が動き、彼女は頷いた。
「空刃。……あなた、なの?」
「俺だよ」
鞘が、内から温まる。
彼女の掌が、空気の上で俺の肩の位置を探し、そして、置いた。
支えは、呼べる手のこと。
彼女は、いま、俺を“呼んだ”。
「ごめんなさい」
それは、儀式的な言葉ではない。
“正しさ”のために誰かを差し出すとき、人は“ごめんなさい” を言う。
彼女は、三日間ずっと、その言葉を呑み続けていたのだろう。
――いま、それを選んで出した。
「謝るのは、あとにしよう」
俺は言った。
「順番がある。次は、言葉の主(ぬし)だ」
「神官長?」
「いや」
俺は視線を脇回廊へ滑らせる。
「――勇者だ」
高城蓮。
彼は祭の人波の外側、薄暗い側廊へ入って行った。
役者の幕を降ろす場所。 俺は影のまま進み、美咲は二歩後ろで気配を細くした。
リュシアは別の影から回り込み、ミリアは高所の欄干から糸を垂らす。
「……空刃?」
高城は立ち止まり、空気に向かって言った。
視えていない。
だが、今はもう、匂いと音と、言葉の重さが違う。
彼の胸には、さっき“選び”の針が微小の孔を残している。
そこから、言葉が沁みる。
「呼んだな」
俺は姿を半ば出した。
“いない”と“いる”の中間。
窓が開いた夜、言葉は届きやすい。
「俺は――」
高城は、柄に手をかけ、深く握った。
今日は、握れる。
彼は続けた。
「お前の名を、言えない。……まだ」
「まだ、だな」
俺は頷く。
「なら、代わりに言え。“誰の手”に支えられて立っている?」
彼は答えられなかった。
柄の握りは深い。
だが、目は、まだ支えを探している。
王の顔。神官長の背。美咲の瞳。
――そして、自分。
彼は、まだ、自分を選べていない。
その時、回廊の奥から、ゆっくりと足音。
神官長だった。
姿勢はまっすぐ、息は整っている。
ただ、胸の奥に、微かな“音のほつれ”を抱えている。
翻訳機は、今日、自分の名を文に置いた。
その痛みを、隠している。
「勇者殿」
神官長は言った。
「祭は終わる。言葉を、畳まねば」
「言葉は、畳めるのか」
俺が言う。
神官長の目は、俺の輪郭をなぞり、見えないと判断した。
だが、声の方向に、ほんの僅か、顔を向けた。
翻訳機は、音を拾う。
「畳めるとも」
神官長は静かに言った。
「言葉は、人が使う道具だ」
「じゃあ、今日の“選び”は?」
俺は続ける。
「それも、道具か。――人が、自分で使う道具か」
神官長は答えなかった。
代わりに、胸の奥で、小さく鳴った。
名だ。
彼は、自分を主語にした経験を、もう消せない。
翻訳の経路は変わった。
明日、王都の祈りは、少しだけ“選び”に敏感になる。
それが混乱か、更新かは、まだ分からない。
――それでいい。世界は、一拍で変わらない。
「空刃」
美咲が呼んだ。
支える手の温度が、背中に届く。
俺は頷き、最後の段取りに移る。
「高城」
名を呼ばないまま、俺は言う。
「剣を、置け。今日だけでいい。誰の手も借りずに」
空気が、止まった。
リュシアの影が笑い、ミリアの糸が震え、神官長の眉がわずかに動く。
高城は、剣を見た。
柄を、深く握っている。
その深さは、やっと、彼自身の手の深さだ。
彼はゆっくり、鞘に収め――置いた。
音が、しなかった。
広場の喧噪も、鐘の余韻も、いまは遠い。
彼の手は空を握り、そして、開いた。
“支えられている”手を、離した。
ほんのひと息分だけ。
「……また、来い」
彼は言った。
「次は、言えるかもしれない。……名を」
「来る」
俺は答えた。
鞘の内側で、刃が静かに呼吸する。
“空刃”。
呼ばれれば、在る。
呼ばれなくても、今は、在る。
◇ ◇ ◇
虚無城に戻ると、黒い窓外に、三つの“窓”が薄く灯っていた。
見えない。
けれど、確かに、そこに開いている。
リュシアが机に新しい図を広げ、ミリアが祈り糸を巻き直し、俺は胸の印を撫でた。
(空刃)
虚無の神が、ゆっくり、満ち足りた音で呼ぶ。
(言葉の針は入った。
“赦し↓秩序”は、“選び↓名”を必要とするだろう)
(さて――)
音が少しだけ低くなった。
(次は、天だ)
「神界」
リュシアが呟く。
「最初にあなたが喰った“残滓”の本体」
ミリアは頷き、窓外の三つの灯を指先で結んだ。 「空は、もう開く。……でも、私たちは人。
上に行くなら、下をほどき直してから。
書記官、給仕頭、神官長、勇者――“人”の秩序を壊しっぱなしにしない」
順番。
復讐は段取りだ。
壊し、ほどき、結び直す。
名は、刃であり、鞘。
俺は二人を見て、短く呼んだ。
「リュシア」
彼女は振り向き、笑った。
「はい、空刃」
「ミリア」
「ええ、空刃」
呼び合う。
支え合う。
鞘の内側が、温い。
窓外の黒に、見えない星がひとつ灯った気がした。
それは、もしかすると――海の匂いの、遠い灯。
〈リタ〉。
祭の終わり、少女は海を見ただろうか。
一度遅れた配給のパンは、今夜は温いだろうか。
答えはまだ、いらない。
俺たちは、順番にやる。
人の秩序を結び直し、天の秩序を切り開く。
「行こう」
俺は、刃を静かに鞘から半分だけ抜き、音を確かめた。
虚無は震えず、空は吸い、言葉は燃える。
「次の窓へ」
(第7話・了)
第8話 名の梯子、天の縫目
夜が、鳴っていた。
風ではない。
言葉が擦れ合うような、低い音の波。
それが“上”から降りてくる。
虚無城の大広間で、三つの窓が淡く光っていた。
ひとつは王の頭上の残滓。ひとつは高窓の縁。ひとつは尖塔の先。
それぞれに淡い輪が浮かび、揺らめきながら糸を伸ばしている。
「梯子の素材は、名」
リュシアが言った。
「この三日で動かした“人の名”を束ねる。勇者、高城蓮。聖女、美咲。神官長エイダス。……そして、あなた自身」
ミリアが虚無石を掲げ、光の中に細い線を描く。
「糸をかけるには“記憶の音”が要る。思い出じゃなく、声の形
――呼び名の音素」
俺――空刃は頷き、胸の印に手を置いた。
心臓の鼓動と一緒に、いくつかの声が浮かぶ。
〈春斗〉、〈空刃〉、〈生贄〉、〈無名〉。
それらが、ひとつの綱のように絡まり、光の筋に吸い込まれていく。
(器)
虚無の神の声が、低く鳴った。
(梯子は、人の名でしか繋げぬ)
(神の名は上から下を断つ。人の名は、下から上を縫う)
「つまり、神界へ行くには――“人間らしく”登るしかない」
リュシアが笑った。
その笑いは、戦場で笑う者の硬さを帯びている。
「皮肉ね。神を壊すために、人であれ、なんて」
「いいじゃない」
ミリアが糸を撫でる。
「人のまま、天を縫うなんて。祈りの形としては、最高に美しい」
俺は黙って、光の糸に指を触れた。
――温かい。
けれど、同時に冷たい。
上の世界に触れるたび、虚無の底がざわめく。
「準備はいい?」
リュシアの声が鋭くなる。
「この梯子を登るとき、名が試される。
途中で自分を疑えば、糸が解けて落ちる」
「落ちたら?」
「二度と“人間”には戻れない」
ミリアが一歩前へ出る。
「行こう。……空刃」
呼ばれる。
名が鳴る。
それだけで、足元の光が強くなった。
――俺は、刃であり、鞘でもある。
呼ばれれば在る。
呼ばれなければ、虚無に還る。
梯子を踏み出す。
◇ ◇ ◇
最初の一段は、柔らかかった。
糸が歌のように震え、足を受け入れる。
音がする。
高城蓮の声――「僕は、怖かった」。
その震えが、踏み石のように俺を支えた。
次の段は、熱かった。
美咲の声――「ごめんなさい」。
その音の温度が、掌に残る。
赦しの言葉は、道を焼く火。
痛みを越えれば、上に行ける。
三段目、空が揺れた。
神官長の声――「私は」。
主語を取り戻した者の言葉。
名が文に戻る瞬間の力が、梯子をひと段、押し上げた。
「順調ね」
リュシアの声が下から届く。
「でも、次からは“神の領域”。そこでは、言葉が通じない」 ミリアの祈り糸が、俺の背に絡む。
「言葉が通じなくても、想いは通る。……それが、人だから」
光が変わる。
上層の空が、黄金から白銀へと転じ、やがて無色へ。
色がなくなると、音がなくなる。
音がなくなると、名がほどけていく。
胸の印が焼けるように熱い。
“空刃”という響きが、風に削られる。
“空”が“無”に近づき、“刃”が“欠片”になる。
(器)
虚無の神の声が、どこかで笑う。
(上では、言葉が解ける。
それでも、登るか?)
「登る」
俺は答えた。
「神が名を奪うなら、俺は“名を刻む”」
虚無石が反応し、刃の形を取る。
名を刻む刃――空刃。
無色の空を裂くと、そこに“縫目”が現れた。
縫目は光の線。
だが、それは綺麗ではない。
ほつれ、焦げ、ところどころ黒ずんでいる。
まるで、世界の裏側に貼られた“継ぎ当て”のようだ。 「ここが……神界の縫目?」
ミリアが息をのむ。
「こんなに、壊れている……」
リュシアが目を細める。
「理そ(ことわり)のものがほころびている。神は、もう長くないわね」
「だったら、壊す価値もない」
俺は言った。
「ただ――正すだけだ」
光の縫目に、刃を突き立てる。
裂ける音がした。
だが、それは“悲鳴”ではない。
“呼び声”だった。
〈誰が、名を刻んだ?〉
声が降る。
無数の声。
祈りでも怒りでもない、ただの問い。
「人間だ」
俺は叫ぶ。
「神に名前をつけられた、人間が――自分の名を取り返しに来た
!」
刃が光り、縫目が開く。
そこに、巨大な瞳があった。
金でも銀でもない、色のない目。
その瞳が、俺たちを見下ろす。
「神だ……」
ミリアが呟いた。
「いや、違う」
リュシアが冷たく言う。
「神だったものよ。……もう形を保てていない」
光が降り注ぎ、空刃の胸を貫いた。
焼ける。
だが、痛みは恐怖ではない。
理解だ。
上にいるものの、孤独。
見下ろすしかない存在の、底なしの虚しさ。
〈名を、くれ〉
声が言った。
〈私は、名を失った。だから、名をくれ〉
リュシアが顔を上げた。
「空刃。与えたら、取り込まれる」
ミリアが涙を流す。
「でも、名を失った存在を見捨てるのは、神じゃない。……人でも、ない」
俺は刃を握り、静かに言った。
「――なら、“共に呼ばれる”名を作ろう」 刃の先を光に当てる。
「空」と「無」の間に、ひとつの文字を刻む。
“宙”。
それは、虚と天のあいだを結ぶ字。
光が反応し、震える。
〈宙〉という音が、神界に響く。
〈宙……刃……〉
声が微笑んだ。
〈それで、いい〉
光が静まり、空が再び色を持つ。
黄金でも白でもない、柔らかな群青。
梯子が震え、下界と天界がひとつの線で結ばれる。
「……やったの?」
ミリアが問い、リュシアが頷く。
「ええ。神の名は“人の名”の中に還った。
もう“上”と“下”を隔てるものはない」
胸の印が脈打ち、俺は空を見上げた。
星が、ひとつ、瞬いた。
まるで、神の“瞳”が、微笑んでいるように。
「空刃――いえ、宙刃」
リュシアが言った。
「あなた、もう“刃”じゃなく、“橋”よ」 「そうかもしれない」
俺は笑った。
「けど、まだ終わりじゃない。
名を結んだなら、今度は――世界を呼び直す」
虚無城の下で、地上の鐘が鳴った。
祭の余韻は終わり、夜が始まる。
新しい“呼び名”の夜が。
第9話 呼び名の夜、世界の再配置
夜は、名前を欲しがる。
昼は役で足りるが、夜は素肌の呼び名でしか呼び合えない。
“宙刃(そらは)”として梯子を降りた俺は、その当たり前の重さに、少しだけ笑った。
虚無城の窓外、黒い空に三つの窓は残っている。
見えないが、そこに“開いて”いる。
尖頂の窓は冷たく、王の頭上の窓は温かく、高窓の窓は風の匂い。
――結び直す夜だ。
「再配置の計画を始めるわ」
リュシアが地図を広げる。
王都の図、その下に祈りの回路の写し、さらに下に、俺たちが穿った三つのひびの位置。
「人の秩序は、壊しっぱなしにしない。順番よ。
一、手(書記官)へ返す。二、匙(給仕頭)へ返す。三、言葉
(神官長)を返す。
同時に――勇者の“心”に再び楔」
ミリアが糸束を指で梳く。
「“返す”って、優しい響きだけど、やることは厳しいよ。
返す相手に、“選ばせる”から」
「人の名で上を縫った。なら、下は人の“選び”で結ぶしかない」
俺は頷いた。
宙刃――刃は橋になり、橋は刃である。 結ぶときも、切る覚悟で立つ。
◇ ◇ ◇
最初に向かったのは、神殿地下の書記局。
夜勤の灯。乾いたパンの匂い。
机には、まだ“家印”の小箱――〈リタ〉。
副官が背筋を伸ばして帳面に線を引いていた。
眠る書記官の肩には、薄手の布。赤子にかけるみたいに優しい。
「こんばんは」
ミリアが先に出る。
白い衣の裾を夜色の外套で隠し、祈りの指をほどいて――ただの女の手で。
副官は顔を上げ、目だけで笑った。
「……来ると思ってました。祭の夜は、いつもだれかが“来る”」
「楔を打ったのは私たち。でも、今日返しに来た」
リュシアが机の端に指を置き、軽く叩く。
「回路核に入れた遅延は、明日には“習慣”に置き換わる。
あなたが選んだ“見逃し”が、路を残す」
副官はしばらく黙り、帳面を閉じた。
「見逃しました。……わざと」
彼女は机の下、俺が穿った微少な孔を足先で示す。
「ずっと、“正しさ”が怖かった。
正しい回路、正しい順路、正しい配給――。
でも、あの子が熱を出した夜、正しさは遅れて帰ってきた」 箱の印――〈リタ〉。
副官はそこに指を置く。
「だから、遅れを、見逃した。
正しさが、少し“人に合う”ようになるために」
「選んだのね」
ミリアが微笑む。
「それが“返す”ってこと。
あなたは翻訳の片棒を担いだ――“秩序⇔選び”の間で」
俺は箱の蓋を一度だけ持ち上げ、また閉じた。
中には硬貨が二枚。旅の小さな準備。
「海を、見に行くといい」
副官が目を瞬かせる。
「……聞いて、たの」
「匂いで分かった。潮の匂いは、遅れて来る」
別れ際、彼女は俺の影を正面から見た。
「空刃、ですね」
「宙刃でもいい」
彼女は頷き、言葉を選んだ。
「……ありがとう。見逃さないでくれて」
“見逃す”ことは易い。
“見逃さないで見逃す”ことは、痛い。
その痛みは、役ではなく、素肌の痛みだ。
◇ ◇ ◇
次は王城の厨房裏――搬入口。
夜の終わりに近く、熱も蒸気も落ち着きかけ。 鍋と皿の金属音だけが、低い子守唄のように響いている。
給仕頭は椅子に腰掛け、指先で空の匙を何度も掬っては戻す練習をしていた。
あの“遅れ”を、たぶんもう一度、今度は自分の手で再現しているのだ。
彼は顔を上げても、驚かなかった。
「来たか。……三日目は、昔から難しい」
「あなたの匙は、達人の匙だった」
俺は言った。
「遅れを救った。
だから今日は、遅れを、あなたの手で“選べ”」
老人は笑った。皺の中が若い。
「王は、固いものが苦手でな」
「知ってる」
「だから柔らかくする。
でも柔らかいだけじゃ歯が弱くなる。……少し噛ませる」
彼は空匙に、見えない“時間”をすくった。
「明日の朝餉、粥を一口、“遅らせる”。
王は最初の空腹で焦るが、自分の歯で次の一口を噛むだろう」
リュシアが目を細める。
「それ、危うい綱渡りね」
「綱は、渡るためにある」
老人は立ち上がり、作業台に置かれた大鍋の蓋を静かに戻した。
蓋が鳴らない。
完璧な“置く”音。
「あなたは達人だ」
俺は頭を下げた。
老人は首を振る。
「いや。“人”だ。
人は、匙を持つ。
誰かの口に入る前の、最後の時間を、測る役だ」
見送って外へ出たとき、搬入口の石畳に、誰かが落としたパンの端があった。
昨日より乾いていない。
遅れた配給は、今夜は温いらしい。
それでいい。
◇ ◇ ◇
三つ目――言葉の主(ぬし)。
大聖堂の内陣。
灯は落ち、香は薄く、石の冷気が戻っている。
祭の余韻を掃く侍祭たちの足音が、回廊で小さく跳ねた。
神官長エイダスは、一人で椅子に座っていた。
書板は閉じ、喉には蜂蜜の小瓶。
彼は俺たちを見ると、ほんの少しだけ、楽そうに息を吐いた。
「来ると思っていたよ。……“言葉の後始末”は、言葉でやるのが礼儀だ」
「礼儀を知る翻訳機は、長生きする」
リュシアが言い、ミリアが胸に手を当てる。
「あなたは、今日、自分の名を文に置いた。 それは、きっともう、消せない」
神官長は微笑む。
「わたしは翻訳機だ。
だが、機械は、受け取った“選び”をそのまま渡せるほど正確ではない。
わたしの“癖”が混ざる。――だから名を置いた。責任の意味で」
「明日からは?」
俺が訊くと、彼は喉を潤し、答えた。
「祈りを、“赦し”に翻訳する前に、“選び”を訊くさ。
“誰が何を選んだか”。
それを文に残す。
赦しは上から降る歌ではなく、あとで読み返せる記録でもあるべきだ」
“記録”。
俺の胸で刃が静かに鞘鳴りする。
名を刻む。
刻んだ名は、読み返せる。
それは、過去を生き直す術だ。
「ありがとう」
俺は言って、肩の重みが少し落ちたのを感じた。
神官長は首を横に振る。
「礼を言うのは、わたしだ。
三十年ぶりに、言葉が楽しかった」
別れる前、彼は美咲に目を向け、浅く会釈をした。 「あなたの掌は、よい支えだ。
“選び”の夜は、支える手が必要だ」
美咲は深く息を吸い、頷いた。
◇ ◇ ◇
再配置の三手が済むと、夜の深いところが口を開く。
影は濃く、音は沈む。
その底で――勇者の“心”が、もう一度、音を立てた。
高城蓮は、広場に面した側廊の外へ出て、ひとりで空を見ていた。
役の鎧ではなく、軽い外套。
手に剣はない。
浅い握りの癖は、もう出ていない――握るものがないからだ。
「空刃」
先に呼ばれた。
気配を隠さず、石段の影から出る。
「呼んだな」
「うん」
彼は肩で息をし、正面から俺を見る。
見えていないはずの輪郭を、言葉の重さで捉えた顔。
「さっき、剣を置いたあと、手が空になって、怖かった。
でも、少しだけ、楽にもなった」
「空のまま立つのは、難しい」
俺は石段に腰をかける。
「だから、支えを選ぶ。
王でも、神官長でも、美咲でも、自分でも――選んで、呼ぶ」 高城は、時間をかけて頷いた。
「名を……言っていいか」
背骨が、内側からひやりとする。
祭の三日目に彼が言えなかった、俺の昔の名。
ここで求めるのは、彼の“選び”だ。
「……俺は、今“宙刃”だ」
ゆっくり、言葉を選ぶ。
「昔の名は、俺たちが取り戻すときに使う。
いまは、呼ぶな。
お前が自分の“支え”を選ぶまで」
高城は目を伏せ、唇を噛む。
やがて、顔を上げた。
「わかった。
……僕は、僕を支えるのに、まず“僕の名”を呼ぶ。
それから、空刃を呼ぶ。
――“手”になってくれ」
胸の奥で、音が小さく鳴った。
それは、怒りではない。
許しでもない。
承認。
刃であり橋である者が、他者の“選び”を受ける音。
「役者じゃないお前の手で、もう一度、握り直せ」
俺は言って立ち上がる。
「明日、王の前で“空の手”を見せろ。
剣を抜かずに――名を言え」 高城の喉仏が上下し、拳が、空を握って、開いた。
「やってみる」
彼はそう言い、振り返った。
広場の遠い灯に向かい、少年の背で歩き出す。
◇ ◇ ◇
虚無城へ戻る途中、白い衣の裾が俺の袖をそっと引いた。
美咲だ。
彼女は月の出ない夜に似合う、細い声で言う。
「空刃。……“昔の名”、私は、今は呼ばない」
「選んだのか」
「うん」
彼女は真っ直ぐに俺を見る。
掌は軽く開かれ、支える準備をしたまま。
「私の“支え”を、私が選ぶ。
それから、あなたの“支え”になりたいか――それも、私が選ぶ」
喉の奥が少しだけ熱くなる。
それは祈りの熱じゃない。
人が“人”に向かうときの熱だ。
「……遅れていい」
俺は言う。
「遅れは、跳べる距離になる」
彼女は笑った。
副官の笑みと、給仕頭の笑いと、神官長の安堵と、勇者の戸惑い。 それらがぜんぶ混ざったような、いい笑いだった。
◇ ◇ ◇
虚無城の灯は、今日はよく燃える。
黒い灯が連なり、回廊の影を柔らかく撫でていく。
窓外に三つの窓――その縁に、細い星の粒がいくつも刺さり始めていた。
人の“選び”が、夜空に生まれた小さな恒星。
この街は、知らないうちに、少しだけ自分のほうへ傾いた。
「最終工程を共有するわ」
リュシアが示した新しい図に、俺は目を凝らす。
「“呼び名の夜”の後始末よ。
回路のゆがみは“記録”へ流す。
厨房の遅れは“日取り”へ吸収。
翻訳の誤差は“注釈”に落とす。
そして――“天”の縫目は、“宙刃”の梯子で固定」
ミリアが祈り糸を梯子に絡め、真綿のような光を通す。
「祈りを戻すんじゃない。祈りを“使える”ようにするだけ。
上と下、どっちにも届く糸に」
「上による次の反応は?」
俺が問うと、虚無の神が遠くで低く鳴った。
(天の残骸は、静かに満ちる。
だが、“神官”を名乗る別のものが、空の窓を嗅ぎ付ける)
(“秩序の再翻訳”を謳う者たちだ) リュシアが口角を上げる。 「王都の古い宗派ね。
“選び”を怖がる声は必ず湧く。
――歓迎しよう。舞台が整う」
ミリアが少し真顔で俺を見る。
「宙刃。あなたは刃であり橋。
“人”を傷つけず、“仕組み”を切る道を、選び続けて」
「選ぶ」
短く返す。
名は刃で、鞘でもある。
抜くのは、的の上。
的を間違えたら、刃を鞘に戻す。
◇ ◇ ◇
夜半、窓外の一つに変化があった。
尖頂の窓――天の縫目の近くで、逆向きの糸が一本、こちらへ伸びてきたのだ。
香の匂いに似ているが、甘さが強すぎる。
鉄を覆い隠す香。
“秩序の再翻訳”を謳う、古い宗派の術式。
(来た)
虚無の神の合図と同時に、城の灯がわずかに沈む。
リュシアが杖を取り、ミリアが糸を構える。
俺は鞘の縁に指をかけ、“宙刃”を半寸だけ抜いた。
声にならない声が、窓の向こうから低く囁く。
〈名を、返せ〉
〈赦しは秩序だ。選びは祈りを乱す〉
〈名は、上から与えられるべきだ〉
「――遅い」
俺は言った。
「名は、返さない。
呼び直すだけだ」
刃が光り、逆向きの糸を一息に断つ。
切断面は滑らかで、血は出ない。
人の身体ではない、“仕組み”の血管だからだ。
ミリアの糸が切り口を縫い、リュシアの炎が表面を焼き締める。
〈不敬〉
声が一瞬、震え、すぐに消える。
窓の外が静かになった。
灯が戻る。
虚無城は息を吐き、黒い天井に小さな星が増える。
「第一波、払ったわ」
リュシアが杖を肩に担ぎ、顎をほんの少し上げた。
「でも、二波、三波は来る。
明日は王城で“言葉の記録”が始まる。そこへ口を挟みに来るはず」
「――迎え撃つ準備、する」
ミリアが頷き、祈り糸を束ね直す。
「“支え”の手を増やす。
副官にも、給仕頭にも、神官長にも。
みんなで、選んだことを記す」
俺は窓外を見た。
見えない窓は、確かに呼吸している。
どこか遠く、潮の匂いがほんの少しだけ濃くなった。
〈リタ〉の箱の蓋は、きっと明日、もう一度開く。
海は逃げない。
遅れは、跳べる。
◇ ◇ ◇
夜明け前。
虚無は一瞬だけ、昼より白い。
その刹那、胸の印が静かに熱を持ち、遠い方角で――教室の匂いがした。
“クラス全員異世界転移”。
あの、始まりの匂い。
机のニス、黒板の粉、昼休み明けの熱。
匂いは、窓のさらに向こうから来た。
王都ではない。
神界でもない。
――俺たちの“元の世界”。
(器――いや、宙刃)
虚無の神が、慎重に言葉を置く。
(戻り路が、薄く、見えた)
(名を刻み、橋を掛け続ければ、いずれ――)
言葉はそこで切れた。
切ったのは、俺だ。
胸の奥で、何かが叫ぶ。
喜びでも、恐怖でもない。
選びの声だ。
「順番だ」
俺は息を吐き、二人に向き直る。
「王都の“人”を結び直す。
宗派の“仕組み”を切る。
勇者の“心”を、もう一度、握らせる。
それから――戻り路を、開く」
リュシアが笑う。
「ええ。
あなたが帰る場所は、もうひとつ、増えたのだから」
ミリアが微笑む。
「呼び名で、帰ってきて。
“宙刃”でも、“昔の名”でも。――あなたで」
名は、刃で、鞘で、橋だ。
呼ばれれば、在る。
呼ばれなくても、もう、俺は在る。
夜がほどけ、王都の鐘が、一日の最初の音を打った。
――呼び名の夜は明けた。
次は、記す朝だ。
(第9話・了)
第10話 記す朝、異議の声
朝の光はまだ眠っていた。
王都の鐘が一度だけ鳴り、音が空の窓へ吸い込まれる。
――呼び名の夜が明け、“記す朝”が始まる。
大聖堂前。
群衆が押し寄せていた。
「記録(きろくぎ)儀」――神官長エイダスが提唱した新しい儀式。
これまで祈りは「唱え」るものだったが、今朝からは「書く」ものになる。
祈りを“記す”とは、神ではなく人のための行為。
人が自分の“選び”を、自分の手で残すための行事だ。
けれど、当然ながら――異議が出る。
祭服に身を包んだ古い宗派の神官たちが、列を成して進み出た。
白い香を焚き、低い声で唱える。
「祈りは声に宿る。文字に閉じるものにあらず」
「記す者は、神の言葉を盗む者なり」
その声が広場を震わせる。
観衆がざわめき、恐怖と好奇の中で、誰もが“初めての朝”をどう受け止めるか決められずにいた。
エイダス神官長は壇上に立つ。
「祈りは声に宿る。だが、声は消える。
残るのは、記す手の跡だ」 筆を取る。 その一画目の音が、鐘よりも静かに、しかし確実に響いた。
その瞬間、空の窓が小さく震えた。
虚無の神の声が、低く、俺の胸を叩く。
(来た。
“秩序の再翻訳”が、文へ干渉する)
空気がざらつく。
広場の空の縁に、白い裂け目。
香の匂いが強くなり、透明な糸が天から垂れてくる。
糸の中には“文字”が流れていた。
「赦」「統」「序」――三つの神字が、まるで血管のように這い降りてくる。
リュシアが杖を構えた。
「言葉で来たわね。物理より厄介」
ミリアが糸を構え、祈りを結び直す。
「宙刃。あなたの番」
「了解」
俺は胸の印に手を当てる。
刃は、橋だ。
“名を刻む”力は、言葉の根を切る力でもある。
「――“宙刃”、抜刀」
名を呼ぶ。
音が世界を貫く。
刃が光を裂き、三本の神字に食い込む。
「赦」は涙を流し、「統」は震え、「序」は裂けた。 だが、消えない。
まるで生き物のように、断ち切られた文字が再び絡み合う。
「不敬だ!」
古い神官が叫ぶ。
「文字を傷つけるな! それは神の骨だ!」
俺は静かに答えた。
「骨を残すな。歩ける脚を返せ」
刃をひねる。
文字が砕け、白い粉が風に舞った。
その粉は、やがて誰かの手の上に落ち、インクのように染み込む。
“記す”ための色になった。
ミリアが微笑み、声を重ねる。
「祈りを唱えたら、手で記して。
――“あなた”の言葉で」
広場の誰かが筆を取った。
震える手で、一文字だけ書いた。
“わたし”。
その一字が風に乗り、他の人々も筆を取り始める。
「母」「息子」「帰る」「遅れて」「好き」「選ぶ」。
それぞれの言葉が、声よりも静かに、だが確実に世界を再配置していく。
エイダス神官長が筆を置き、俺たちを見た。
「――これが、祈りの“翻訳”だ。
神の言葉を、人の記録に」
古い神官たちは沈黙した。
一人、白衣の老女が前に出て、筆を手に取った。
「……わたしも、書こう」
彼女が書いたのは、たった二字。
“許す”。
だがその字は、今までの“赦”とは違った。
柔らかく、人の手の温度があった。
「成功だな」
リュシアが小さく笑い、杖を下ろす。
ミリアは空を見上げ、安堵の息を漏らした。
「選びが、世界を動かした……」
だが、虚無の神の声は静かに告げる。
(まだ、ひとつ)
(“戻り路”が、完全ではない)
(記録は始まったが、起源が揺れている)
「起源?」
俺が問うと、神は沈黙した。
沈黙の中に、あの匂い――黒板の粉、教室の午後。
そして、鐘の音ではなくチャイムが聞こえた。
ミリアが顔を上げる。
「宙刃。今の、音……」
「――俺たちの世界だ」
言葉が喉で震える。
「戻り路が、開きかけてる」 リュシアが眉を寄せる。
「でも“記録”の糸を通すには、こっちの世界の主語を安定させなきゃ」
「つまり、“誰の物語”で帰るかを決める」
「そう。あなたの“昔の名”を、呼ぶ権利を選ぶ」
美咲が一歩、前に出た。
「――私が、呼ぶ」
風が鳴る。
朝の光が強くなる。
人々の筆が止まり、祈りの文が光る。
美咲の声は震えていた。けれど、確かだった。
「私は、あなたを“人”として呼ぶ。
“生贄”でも“虚無”でもない、あなたの本当の名を」
俺は笑った。
「なら、呼べ。――選びとして」
光が爆ぜる。
世界が二つに割れ、文字が宙を舞い、時間が逆巻く。
教室のチャイムが響き、机の上のペンが転がる。
窓の外の空は、王都と同じ群青色だった。
――呼び名が、交わる。
(第10話・了)
第11話 教室が割れる、主語を選べ
世界が、耳元で紙を裂く音を立てた。
茜の群青にゆっくり溶けていた王都の空が、突然、蛍光灯の白さで切り取られる。
木の匂いの代わりに、ワックスの床。
香と鐘の代わりに、チャイム。
――教室だ。俺たちの教室が、王都の広場の上に重なった。
黒板の前に、見慣れた机。
窓の外には、城壁の尖塔が“現代の校舎越し”に突き出している。
視線を戻すと、教卓の横に美咲が立っていた。白い衣の上に、うっすらとセーラーの影が重なる。
彼女は震えた唇で、もう一度、俺を呼ぶ。114
「――宙刃」
呼び名は、刃を鞘で包む。
胸の印が落ち着き、足元の床が二重に見えるのが止む。
王都の石畳と、教室のフローリング。
どちらも、今は俺の地面だ。
(器――宙刃)
虚無の神の声が遠くで鳴り、すぐ薄くなる。
(この“交差”は長くは持たぬ。
誰の物語で繋ぐか、今、選べ)
「主語の選定だって」 リュシアが、教室の後ろ扉に“半身だけ”もたれながら言う。彼女のドレスはブレザーの影を借り、妙に平然だ。
ミリアは前列の机にそっと手を置く。
「祈りは今“記録”と交差してる。どちらの文法で話すか――それで、戻り路の“向き”が決まる」
教室の左右で、二つの人波がざわめいた。
片側は王都の人々。記録儀の筆を握った手。
もう片側は、制服のクラスメイトたち。
高城蓮が、教室の中央通路に立っていた。
剣はない。代わりに、生徒手帳を握っている。
彼は、深く息を吸い、教壇に向かって歩く――空の手で。
「みんな、落ち着いて」
美咲が、板書のチョークを一本、手に取る。
白い粉が指に移り、祈りの糸と混じって、光を帯びる。
「“記す”の。私たちの言葉で」
「記すだと?」
右側列の後方――宗派の僧服が割れて、一団が進み出た。
白布に古い金糸の文様。
その先頭の老神官が、教室の天井の蛍光灯を睨みつける。
「子供の落書きを“祈り”と呼ぶな。祈りは授けられるものだ」
「授けられた言葉は、いつか“忘れられる”」
俺は前に出る。
「だから記す。忘れる権利の上に、思い出せる責任を置く」
老神官が杖を床に叩く。
その衝撃で、教室の床と王都の石畳が一瞬ズレ、二重の振動が喉を打った。
「異界の名をここで語るな、宙刃」
彼は俺の名を正しく発音した。
――つまり、俺を見ている。
「名は上から降る。名を“選ぶ”など、不遜の極み」
「不遜でいい」
リュシアが教卓に片手を置き、肩で笑う。
「“選ぶ”に責任が付くなら、私たちは幾らでも払うわ。段取りで」
ミリアが静かに、チョークで黒板に縦線を一本引く。
「文法の交差点を作るね。
左は“祈り”の語法、右は“記録”の語法。
中央は“選び”の語法――主語が先に来る」
黒板に、三つの列。
彼女は最上段に大きく書いた。
〈わたしは、〜を祈る/記す/選ぶ〉
静まり。
だが、その静寂に割り込む声があった。
教室後方――窓際の最後列。
黒髪を無造作に結んだ女子が、笑った。
「うわ、まだ続けてたのそれ。茶番でしょ」
――朱音。
俺の胸の奥で、古いベルが鳴る。
彼女は、あの日、俺の机に花を置いた。
“お悔やみ”。
彼女は泣かなかった。
代わりに、俺を笑った。
「主語? 責任? 選べるわけないでしょ。
先生が言った“正しいこと”をみんなでやるの。
それが楽じゃん」
クラスの何人かが、安心するように頷く。
責任は重い。俺だって何度も落としかけた。
けれど――
「楽は、空っぽを育てる」
高城が言った。
生徒手帳を握る手は、深い。
「俺は、空の手で立つ。
誰の“正しさ”にも寄りかからず、まず自分の名を呼ぶ」
朱音が鼻で笑う。
「じゃあ呼んでみなよ。できないくせに」
高城は、俺を見ない。
俺を見たら、役に逃げるからだ。
彼は前を向き、腹から息を出して――
「高城蓮。……俺は、俺の名で立つ」
黒板の中央列“選び”の下で、文字が光った。
チョークの粉が微かに舞い、王都の窓が呼吸する。
群衆のどこかで、子どもの声が混ざった。
〈リタ〉。
遅れて届く潮の匂いが、教室の蛍光灯の熱を洗う。 老神官が舌打ちをし、衣の袖から細い巻物を引き抜く。 そこから白い糸――“秩序の再翻訳”が教室に伸びる。
巻物の行間には、神字がびっしり。
「ここは授業だ。教師は私だ。主語は上から決まる」
「いいや、主語は人が決める」
俺は刃を半寸だけ抜く。
“宙刃”。
真横へ、すっと滑らせる。
白い糸が切断され、紙の匂いが散った。
切断面をミリアが縫い、リュシアが焼き締める――仕組みだけを断ち、人は傷つけない。
教壇の端――美咲が一歩、前に出た。
「先生。……いいえ、神官さま。お願いがあります」
老神官の眉がぴくりと動く。
「祈りを、記させてください。 私たちの“選び”と一緒に。
あとで読み返すために。
“赦し”が誰の上に置かれたか、忘れないために」
沈黙。
老神官の眼差しが揺れる。
彼は、今日、広場で見たはずだ。
“赦”の字が、骨のように硬直していたのを、粉に砕いて、人のインクに染めた瞬間を。
――そして、彼は杖を床から離し、巻物をそっと閉じた。
「記せ。
ただし――読むのは、私もだ」
「もちろん」
エイダス神官長が教卓の陰から現れ、筆を渡す。
「記された言葉は、誰でも読める。 あなたも、私も、子も、王も。
だからこそ、記そう」
板書の列のうち、右列“記録”が明るむ。
黒板の粉が星のように光り、教室と広場を同時に照らす。
クラスの誰かがペンを取り、王都の誰かが筆を取った。
それぞれの“主語”が、ばらばらのリズムで、しかし確かに並び始める。
――その時だ。
床が、低く唸った。
教室と広場の境に、縫い目のようなひびが走る。
王都からは香の風、教室からはクーラーの風。
両方に、別の影が差し込んだ。
祭服でも制服でもない。
白衣――研究棟の匂い。
細い眼鏡の青年が、教室の後方扉を開けた。
「君たち、勝手に……って、なにこれ」
彼は“教師”ではない。
非常勤の大学院生、実習で来る観察者。 彼の背後で、別の世界の糸がちらつく。
元の世界の制度。
出席簿、評価、レポート。
紙で人を測る、記録の秩序。
虚無の神が低く鳴る。 (記録の秩序が、こちらにも干渉してくる)
(“人のための記録”と“人を縛る記録”は紙一重だ。選べ)
リュシアが目線だけで俺に問う。
ミリアの指が黒板の“記録”列を撫で、わずかに震える。
美咲はチョークを握り直し、エイダスは筆を構える。
高城の手は深い。
朱音は、笑う準備をしている。
「――主語は、変えない」
俺は黒板の中央、“選び”の下にもう一文字、書く。
〈わたしは、わたしを記す〉
「記録は“人”のために。
手続きが人を縛り始めたら、手続きを切る」
白衣の青年が眉をひそめ、手帳を開く。
「勝手な集会は許可が……」
その言葉に、教室側の空気が萎みかける――が、エイダスの筆が先に走った。
彼は青年の言葉を写し取り、文末に注記する。
〈許可:誰が、何のために、誰に対して〉
主語を問う注釈。
青年は口を閉じ、手帳を見つめ、次の言葉を探す。
手続きだけでは、場は動かない。
誰のためかを問われるからだ。
老神官が咳払いをし、巻物を胸に抱え直す。
「どうやら、今日は読む日だな」
彼の背後の僧衣の列が、少しだけ肩の力を抜く。
朱音が、まだ笑っている。 「ねえ、宙刃。そんなの続くと思ってんの?
“わたしは、わたしを記す”――大変じゃん。
誰もやらなくなるよ、明日には」
俺は笑い返す。
「いいさ。
“遅れて”来ても、跳べる」
朱音の笑顔に、一瞬だけ、揺れが走った。
それは、あの日、彼女が俺の机に花を置いた後、窓の外を見たときの揺れに似ている。
彼女は誰よりも先に、“楽”の空虚さを知っていたのかもしれない。
だから先に笑った。
笑って、距離を取った。
――その選びを、俺は記す。
チョークが黒板の端で折れ、小さな音が鳴る。
窓の向こうで、王都の鐘が重なる。
“交差”の時間が、尽きかけている。
美咲が、俺の袖を引いた。
「宙刃。昔の名――今は、まだ呼ばない。
でも、帰り路を決めたい」
「決めるのは、お前だ」
「ううん。私たち」
彼女は黒板の“選び”列の一番下へ、震える字で書いた。
〈わたしたちは、帰る順番を選ぶ〉 高城が頷く。 「まず、人の秩序を結び直したこの街を、置いていけるか。
“戻る”ことと“残す”こと、両方を主語にして考える」
エイダスが筆を止め、老神官が巻物を閉じ、白衣の青年が手帳を下ろす。
全員がいま、主語を待っている。
俺は息を吸い、刃の内側で言葉を研ぐ。
胸の印が、静かに熱を帯びる。
“宙刃”――刃であり、鞘であり、橋。
“春斗”――過去と机と、教室の匂い。
(器)
虚無の神が、やさしく鳴く。
(叫んでもいい。
どちらの名でも)
俺は黒板に向き直り、チョークを握った。
そして、中央の列――“選び”の下に、はっきりと書く。
〈**きょうは、“宙刃”で話す。
“春斗”は、帰り路の鍵にする。〉
教室と広場が同時に息を吐いた。
交差の継ぎ目が少しだけ安定し、窓の群青が深くなる。
美咲が頷き、リュシアが笑い、ミリアが糸を結ぶ。
高城は空の手を握り直し、朱音は視線を窓に逃がす――それでも、逃げ切らない目で。
「段取りを言う」
俺は全員に向けて宣言する。 「一、記録儀を今日一日で制度にする。
二、“選び”を文頭に置く様式で“記録”を統一。
三、明朝、王城で帰り路の議(ぎ)を開く。
四、帰る者、残る者、それぞれ主語で名を記す。
五、帰路の鍵“春斗”は、最後に呼ぶ」
老神官が小さく笑った。
「段取り、悪くない」
エイダスは筆の先で空を指し、白衣の青年は机の端に腰を掛け、ペンを踊らせ始める。
“観察者”が“記す人”に変わる音がした。
朱音は、黒板の“わたしたち”の“たち”を、じっと見ている。
――そのとき。
窓の外、尖塔のさらに向こう。
天の縫目から、別の光が差し込んだ。
白でも金でもない、冷たい青。
虚無の神が一瞬だけ沈黙し、すぐに低く鳴る。
(来る。
“神だったもの”の、呼び名の残りだ)
教室の天井に薄い波紋。
黒板の粉が震え、チョークが床を転がる。
光が集まり、ひとつの“字”になった。
〈律〉。
それは“秩序”でも“統”でもない。
もっと冷たい、“計測”の字だ。
白衣の青年のペンが止まる。
老神官の喉が鳴る。
エイダスが筆を構える。
高城が空の手で握り直す。
朱音が笑うのをやめる。
リュシアが杖を上げ、ミリアが糸を張る。
美咲が俺の袖を強く握る。
「宙刃」
彼女が呼ぶ。
「切る? 渡す?」
刃は鞘で鳴り、胸の印が熱い。
俺は、ゆっくり頷いた。
「――両方だ。
“計るだけ”の律は切る。
“選びを支える律”は渡す」
俺は一歩、黒板の前に出る。
刃を半分だけ抜き、“律”の字の下へ滑らせる。
切断線は二本。
一本は“制度”を人から外す線。
もう一本は“記録”を人に返す線。
切って、渡す。
――橋の真ん中で。
光が爆ぜ、教室と広場の影がひとかたまりに揺れた。
“交差”は、まだ終わらない。
だが、主語は、決まった。
俺は振り向き、全員に告げる。
「明朝――王城で、“帰り路の議”。 主語を持って来い」
チャイムが鳴る。
王都の鐘が重なる。
二つの音が、同じ拍で、教室の空と王都の空に響いた。
(第11話・了)
第12話 帰り路の議、鍵の名
王城の大広間に、三つの椅子が置かれた。
一つは王の席――“秩序”の象徴。
一つは宙刃(そらは)の席――“選び”の媒介。
もう一つは空席――“帰り路”のための席。
朝の光は天窓から差し込み、広間の床の紋章を三つに分けて照らす。
人々の間に、昨夜の“交差”の記憶が残っていた。
誰もが二つの世界を見た。
“教室”の白と、“王都”の群青が一度に重なる光景。
その余韻が、今なお空気を微かに揺らしている。 壇上に立つのは、王でも神官でもなく――宙刃。
俺だ。
役ではなく、名として。
手には刃の鞘。胸には、春斗の記憶。
「本日ここに、“帰り路の議”を開く」
声が響く。
「議題は三つ。
一、“記録儀”を制度として定めること。
二、帰る者・残る者・支える者、それぞれの“主語”を記すこと。
三、“春斗”という鍵の名を、どの順番で呼ぶかを決めること。
」
リュシアが後方の机に地図を広げ、ミリアが糸で回路を繋ぎ、美咲が記録盤を準備する。
広間には、昨日の討議を見守った人々が詰めかけていた。
副官、給仕頭、神官長エイダス、老神官、白衣の青年、そして王。
それぞれが手元に筆を持ち、紙の上に“主語”を書き始める。
〈わたしは、この街を支える〉
〈わたしは、書く〉
〈わたしは、遅れても跳ぶ〉
〈わたしは、祈りを記す〉
書かれた文が光の糸となって空へ昇る。
それは天へ祈るのではなく、自分の足跡として残る。
祈りは上ではなく、横に広がっていく。
◇ ◇ ◇
第一幕――制度の決定。
エイダス神官長が立ち上がる。
「“記録儀”を制度とするにあたり、条件を三つ設けたい。
一、記される言葉には必ず主語を置くこと。
二、記された言葉は誰でも読めること。
三、記録の目的は、人の罪を測るためではなく、選びを伝えるためであること。」
老神官がゆっくり頷く。
「“赦し”は上から与えるものではなく、記録の中に残すものか
……。
だが、誰が“選び”を記せる? 子供か? 罪人か? 王か?」 俺は答える。
「誰でもだ。
書くという行為は、秩序の特権ではない。
声を持つ者は、手を持つ。
手を持つ者は、記せる。」
沈黙のあと、王が立ち上がる。
その姿はかつての威圧ではなく、疲れた老人のようでもあった。 「この国は、声を持たぬ者に秩序を与えるために、声を制してきた。
――だが、もはや我々は、聞く番だ。」
エイダスが一歩前に出て、王と宙刃の間に筆を置く。
「ならば、これを“制度”と呼ぼう。
上ではなく、横に広がる秩序として。」
筆の先が床を打つ音が、鐘のように響いた。
“記録儀”――王都初の横の制度が、成立した瞬間だった。
◇ ◇ ◇
第二幕――三つの主語。
最初に立ったのは、高城蓮。
空の手を上げ、前へ進む。
「俺は、“残る”」
声は震えていたが、言葉は真っ直ぐだった。
「この街に、人の記録が根付くまで。
俺は、“勇者”ではなく、“記す者”としてここにいる」 美咲が微笑み、ミリアが糸を張る。
高城の手に光が灯る。
それは剣ではなく、筆の形をした光。
次に立ったのは、美咲。
「私は、“支える”」
白い衣の裾が揺れ、祈り糸が風を捕らえる。
「記すことが祈りなら、祈りを伝えることもまた、記録。
私は、二つの世界を繋ぐ橋の手になる」
その言葉に呼応するように、虚無の神が遠くで鳴いた。
(支えの名を、聞いた)
(それが祈りなら、虚無もまた、余白として残れる)
最後に、リュシアが前に出る。
「私は、“帰る”」
彼女は笑って言った。
「けれど、逃げるためじゃない。
私たちが出てきた世界に、“選び”の文法を持ち帰る。
“言葉は所有ではなく、共有”――それを刻むために。」
彼女の足元に現れた光の文。
〈共有〉
それは王都の床に初めて刻まれた、人間の文字だった。
◇ ◇ ◇
第三幕――鍵の名。
「さて」
リュシアが俺を見る。
「最後の議題。“春斗”を、誰が呼ぶ?」
広間が静まる。
あの教室の空気が蘇る。
黒板の白、チャイムの音、机の傷、そして花の匂い。
“春斗”は、俺の“帰り路”であり、始まりだ。
ミリアが言う。
「呼ぶ順番で、帰り路の向きが決まる。
最初に呼べば、宙刃は“春斗”として元の世界に還る。
最後に呼べば、“春斗”はここに残り、宙刃として橋を保つ。」
「つまり、どちらを“主語”にするかの決議」
リュシアが言う。
「人として戻るか、橋として残るか。」
高城が口を開く。
「……帰るのは、俺たちだ。
でも、宙刃――お前がいないと、戻れない」
美咲が視線を落とす。
「あなたの名を呼ぶと、橋が消える。
でも呼ばなければ、私たちは帰れない。」
空気が張り詰める。
誰もが沈黙の中で、選びの痛みを知っている。
俺は笑った。
「いいさ。
――橋は、渡ったあとでも残せる。」
リュシアが目を細める。
「まさか、分岐を作る気?」
「“帰り路”は一本じゃない。
“記録”と“祈り”の糸、両方に橋を架ける。
片方は“宙刃”が渡す。もう片方は“春斗”が受け取る。
――二つの名で、ひとつの橋を造る。」
虚無の神が鳴いた。
(それは、危うい。だが、美しい)
美咲が涙を拭い、頷いた。
「では、呼びます。
順番は――同時で。」
彼女が一歩前に出る。
高城も隣に立つ。
リュシア、ミリア、エイダス、老神官、白衣の青年、王。
全員が息を合わせる。
それぞれの主語を胸に、筆を握り、名を呼ぶ。
「――春斗(はると)! 宙刃(そらは)!」
光が爆ぜた。
大広間の天井が開き、空が反転する。
群青と白が混ざり、記録の文字が舞い、祈りの糸が絡み合う。
音も、風も、温度も、すべてが二つの世界を行き来する。
俺は、その中心で立っていた。 宙刃としての身体が、春斗としての記憶を取り戻しながら、橋になっていく。
“帰る”とは、“渡す”ことだったのだ。
◇ ◇ ◇
光が収束する。
静寂の中、残されたのは、ひとつのノート。
表紙には、震える字で書かれていた。
〈わたしたちは、帰り路を記す〉
そして、その下に――
〈春斗=宙刃 作〉
誰が書いたのか、もう分からない。
けれど、王都の空にも、教室の窓にも、同じ群青が広がっていた。
“橋”は、まだ在る。
(第12話・了)
第13話 橋の向こう、言葉の外へ
朝は、二度来た。
一度は王都の鐘とともに、群青の天が薄くなる気配として。
もう一度は教室のチャイムとともに、白い蛍光灯が眠気を裂く音として。
“宙刃=春斗”。
俺は、二つの朝の間に立っている。
靴底は石畳に触れ、同時にワックスの床も踏む。
胸の印は熱を持ち、肩には通学鞄の重みが残る。
――橋だ。呼ばれれば在り、たとえ同時に呼ばれても、どちらにも倒れないように造られた橋。
(器)
虚無の神の声は、今朝は遠く、そして軽い。
(おまえは“橋”だが、橋にも渡り切る瞬間がある)
(どちらへ? 今、決めるのではない。決め方を、決めろ)
決め方。
リュシアがいう“段取り”、ミリアがいう“祈りの指の順”、エイダスがいう“主語の置き場所”。
全部の中心にあるもの――記すことだ。
俺はノートを開いた。
表紙には昨夜の字が震えのまま残っている。
〈わたしたちは、帰り路を記す〉
〈春斗=宙刃 作〉 黒の罫線が、王都と教室の境目みたいに見えた。
◇ ◇ ◇
王都側――大広間の片隅で、ミリアが糸を結び直している。
祈りは神へではなく、人の間へ走らせる。今はそのための糸。
彼女は顔を上げ、まっすぐ俺を見た。
「宙刃。約束の順番、確認させて。
一、記録儀は“主語先行”で固定。
二、‘律’は“手続きが人を縛る場合のみ切断”。
三、橋は“人を渡すために先に置く”。
四、帰る者の名は本人が呼ぶ。――合ってる?」
「合ってる」
「よかった」
彼女は胸に指を当て、息を整えた。
白い指に宿るのは神の火ではなく、人の温度。
「私は“残る”。
あなたがどちらを選んでも、支えはここに置いておく。
呼べば、届くように」
リュシアは反対側で地図を丸め、腰に差した短杖で床をとん、と叩く。
「橋の両詰に守り手がいるのが一番よ。
こっちは任せて。
……で、あなたは、どうやって“決め方”を決めるの?」
「記す」
俺はノートを掲げた。
「“今朝の自分”を一行。
同時に、向こうにも一行。
両方を書いて、どちらが先に息をするかで、今日はそちらへ渡る」
「美しい乱暴ね」
リュシアが笑い、杖先で俺の鞘を軽く小突いた。
「気に入った」
◇ ◇ ◇
教室側――黒板の前で、美咲がチョークを一本折ってから、新しい一本を取り上げた。
「ごめん。緊張して」
「そのままでいい」
彼女は深呼吸し、黒板の端に小さく書いた。
〈わたしは、今朝の“春斗”を信じる〉
チョークの粉が光り、王都の窓辺まで届く。
支えは、呼べる手のこと。
呼べば届くように、彼女の文字は橋の手すりになった。
高城が後列に立ち、空の手を握って見せる。
「俺は、ここで記す。
帰ったら学校で、残ったら王都で。
どっちでも、“高城蓮”として記す」
空の手は震えない。
昨夜、彼が“自分で”握り直した手だ。
朱音は窓際によりかかり、外の群青を見ながら低く言った。
「……アンタたちがあんまり真剣で、笑えなくなったじゃん」
彼女は鞄からペンを取り出して、ノートの端に走り書きする。 〈わたしは、後から来る〉
ペン先が止まり、彼女は鼻をすする。
「先に笑ったの、ズルかったわ。ごめん」
「遅れは、跳べる」
俺は同じ言葉を返す。
昨夜から何度も使った言葉だ。
いつか、彼女自身がこの言葉を“自分の声”で言えるように。
◇ ◇ ◇
“読む者”の気配は、ずっとあった。
ページの向こうから、視線が紙の目を撫でていく感触。
世界が書き物であるなら、読む者はいつもいる。
だが今朝は、その気配がこちらを待っている。
(器――宙刃)
虚無の神が微かに笑う。
(書くおまえに、読む者が応える。
“第四の壁”は、礼儀を持つ手で触れ)
俺はノートの一ページ目に戻り、空白を見つめた。
そして、一行、書く。
〈きょうの主語は、宙刃〉
続けて、裏面にペンを滑らせる。
〈きょうの鍵は、春斗〉
紙が、少しだけ息をした。
裏表の二つの文が、同じ厚さの繊維に染み込む。
どちらかを消そうとすれば、紙そのものが千切れる。 ――残し方が分かった。
決め方を、決めた。
◇ ◇ ◇
橋の試練は、思ったより静かに来た。
王都側の天に“律”の残り火が、細い線で再び現れたのだ。
昨夜切った“計るだけ”の線。
それが今度は、善意の仮面をつけて戻ってくる。
〈記録は、査定のために〉
〈名は、序列のために〉
〈選びは、責任の押印のために〉
手続きが、人を縛ろうと近寄ってくる。
白衣の青年は顔色を変え、手帳を握りしめた。
「ごめん、俺、怖い。書くって、すぐ“点を付ける”側に回るんだ……」
エイダスは黙って筆を寝かせ、老神官は胸の前で巻物を交差させた。
人の側の恐れ。
彼らは“正す”ことに、ずっと付き合ってきた。
「――宙刃」
美咲の声。
呼び名は鞘を温める。
俺は刃を抜かず、鞘ごと前へ出た。
「“律”、聞こえるか。
お前を全部は否定しない。
“支える”ほうの律だけ、ここに残れ」
鞘を置く。
刃は抜かない。
“切る”のでなく、“選ぶ”ために。
“律”の線はひととき揺れ、そして二つに分かれた。
一本は堅い灰色――査定のための律。
一本は柔らかな白――支えるための律。
俺は灰色を鞘の側面で弾き、リュシアが火で焼き締め、ミリアが切り口を縫う。
白い線だけが静かに残り、エイダスの筆へ吸い込まれていった。
「ありがとう。
これで、読むための記録に戻れる」
彼は額の汗を拭い、老神官がゆっくりと巻物を胸から下ろした。
「わたしも、読む」
「誰でも、読む」
白衣の青年も頷いた。
「わたしも、読む側でいたい」
橋の真ん中が、もう一段、太くなる。
王都と教室を繋ぐ幅が、呼吸ひとつ分、広がった。
◇ ◇ ◇
決め方を決めたなら、実際に渡るだけだ。
俺はノートを閉じ、二つの世界に向かって短く言う。
「順番を宣言する。
一、今朝、宙刃として王都に残る。
二、今夜、春斗として教室に帰る。
三、明日からは、“主語を毎朝記す”ことで橋を選ぶ。 ――日替わりじゃない。生き替わりだ」
ざわめき。
だが、混乱はしない。
主語がわかる限り、世界は耐える。
美咲が微笑み、チョークで黒板に写す。
〈わたしたちは、主語を毎朝記す〉
高城が「了解」と手を挙げ、老神官が「読む」と頷き、白衣の青年が「提出は自由」と笑った。
リュシアは杖で床を軽く打ち、ミリアは糸をふわりと弾ませる。
虚無の神は、満足そうに低く鳴った。
◇ ◇ ◇
その日の“昼”は、王都だけに来た。
市場の鍋は良い音で鳴り、給仕頭は最初の一口をわざと遅らせ、王は自分の歯で次の一口を噛んだ。
神殿地下の書記局では、副官が帳面の端に小さく〈遅れ:許可〉と記し、書記官は昼には家に帰った。
〈リタ〉の箱の蓋は開き、硬貨が一枚、旅の匂いを帯びた布袋に移された。
神官長エイダスは「読む会」を開き、子どもから王までが自分の
“主語”を声に出して読んだ。
誰も咎められない、読むための場。
その日の“放課後”は、教室だけに来た。
チャイムが鳴り、窓は少しだけ群青色を深め、ノートが机の上に並ぶ。
白衣の青年は出席簿に「見た」とだけ書き、朱音はペンを置いたまま窓の外の雲を数えた。 高城は部室に寄らず、図書室で“記録儀――記す祈り”の感想を書いた。
美咲は黒板の端に〈わたしは支える〉と小さく残して、消し残りの白を指で集め、そっとポケットに入れた。
祈りの粉――明日のための白。
◇ ◇ ◇
夜。
橋は、誰も渡らないとき、最も静かに鳴る。
俺は虚無城の窓辺に立ち、群青の外に見えない星を数えた。
リュシアが肩を並べ、ミリアが隣で気配を温める。
「空刃」
リュシアが低く呼ぶ。
「宙刃、ね」
「どっちでもいい」
彼女は笑って、それでいい、と言った。
「明日の‘律’は、きっと今日よりも柔らかい」
「うん。読む手が増えたから」
ミリアが頷き、遠い方角を見つめる。
「あの子……海、見られるかな」
「見られる」
俺は迷わず答える。
「遅れは、跳べるから」
沈黙。
虚無の神が小さく欠伸をし、灯が三つ、ぱち、と点る。
“手”、“匙”、“言葉”。
そしてその上に、細い新しい灯が生まれた。
“記す”。
橋は在る。
名は刃で、鞘で、橋だ。
呼べば、届く。
呼ばなくても、記せば残る。
◇ ◇ ◇
――エピローグ。
数日後。
王都の外れ、白い塩の匂い。
小さな岬の先で、女の子が波に手を伸ばしていた。
〈リタ〉。
副官は遠くから見守り、包みから固焼きのパンを半分取り出す。
今日は、温い。
彼女はパンを裂き、もう半分を空に掲げた。
「ありがとう」
誰に、とは言わない。
けれど“読む者”なら、分かる言葉。
同じ頃。
教室の窓側最後列、朱音が小さく笑う。
「……宿題、“遅れて”やる」
隣で高城が肩を揺らし、前の席で美咲が振り返る。
「跳べるよ」
朱音は頷き、ノートの端に書いた。
〈わたしは、笑う前に、読む〉 字はうまくない。 でも、良い字だ。
“主語先行”の字。
夜、俺はノートを開いた。
見知らぬ手が増やした行間に、知らないはずの呼吸が増えている。
読むことが、支えることだと、ようやく分かった。
ページの外から、気配がする。
“あなた”。
読み手。
ここまで来てくれた、あなた。
俺は最後の一行を書く。
〈あなたは、いま、何を記す?〉
ページは静かに息をし、灯がやわらかく揺れた。
橋は今日も、渡る音を待っている。
(最終章・了)



