卒業式の朝。

 空は透き通るように晴れていた。

 冷たい風の中に、春の匂いが混じる。

 どこかの教室から笑い声が響いて、誰かが泣いていた。



 私は、白いリボンを胸につけて、校舎を歩いていた。

 体育館の方から、拍手と音楽が遠くに聞こえる。

 でも私の足は、そっちじゃなくて――旧校舎の三階へ向かっていた。



 あのクローゼットがある教室。

 三年前と同じ、少し傾いた扉。

 窓から差す光が、埃の粒をきらめかせる。



「……やっぱり、ここだ」



 息を整えていると、背後から声がした。



「来たんだな」



 振り返ると、湊が立っていた。

 ネクタイを少しゆるめて、いつもの笑顔。

 でもその目の奥は、どこか覚悟みたいな光を帯びていた。



「うん。来ないと、後悔しそうで」



「俺もだよ」



 少し沈黙。

 廊下の時計の針が、秒を刻む音だけが響く。



「開けてみようか」



「……うん」



 湊が扉の取っ手に手をかけた。

 きぃ、と音を立てて、ゆっくりと開く。



 冷たい空気と、少しだけ懐かしい匂い。

 中は空っぽ。

 けれど、その“空っぽ”の中に、たしかな時間の重みがあった。



「ねえ、湊。私、思い出したんだ」



「何を?」



「三年前、文化祭の夜。

 私、湊に告白しようとしてた。

 でも、先輩が教室に来て、二人で笑ってるのを見て、

 逃げたの。クローゼットの中に」



 湊の目が、少し見開かれる。



「……そうだったのか」



「泣いてたの、あの時の私。

 見つかりたくなくて、でも誰かに気づいてほしくて。

 あの扉が閉まった瞬間、安心したんだ。

 “あ、優しい人が閉めてくれた”って」



 涙が頬を伝う。

 止めようとしても止まらない。



「ありがとう、湊。

 あのとき、何も言わずに、そっと閉めてくれて。

 たぶん、あれが、私の初恋だった」



 湊は、何も言わずに笑った。

 でも、その笑顔の端が少し震えていた。



「俺、ずっと後悔してた。

 あのとき、扉を開けて、名前を呼べばよかったって。

 でも、違ったんだな。

 “閉めた”ことで、守れたものもあったんだ」



 彼はポケットから小さな紙片を取り出した。

 くしゃくしゃになった便箋。

 端に、“ありがとう”とだけ書かれている。



「手紙の主、分かったよ。

 写真係の藤堂。あの子が書いたんだ。

 “好きだったけど、言えなかった”って。

 俺、あの子の気持ちと、委員長の涙を、一緒に閉じ込めたんだと思う」



 藤堂――今はもう別の町の高校に転校した子。

 淡い記憶が胸の奥で光る。



「そっか……。誰かの“好き”が、ここに残ってたんだね」



「うん。

 でも今、こうして開けたから、もう、しまわなくていい」



 湊が手を差し出した。

 迷う間もなく、私はその手を取った。



 春の光がクローゼットの中まで届く。

 埃の粒が、金色に舞う。



「卒業しても、さ。

 この扉のこと、忘れないでいていい?」



「うん。だって、ここで、全部始まったから」



 湊が微笑む。

 その笑顔は、三年前と同じで、でもどこか違う。

 “好き”を言える大人の顔になっていた。



「行こうか。式、もう終わってるかも」



「……うん。でも、少しくらい遅れてもいいよね」



 二人でクローゼットの扉を閉める。

 今度は、悲しみじゃなく、区切りとして。



 カチリと音がして、教室に春の風が吹き抜けた。



 私は思う。

 ――手紙も、涙も、全部、無駄じゃなかった。

 閉じた扉の向こうには、ちゃんと未来があったんだ。



 廊下に出ると、湊がぽつりと言った。



「来年の春、またここで会おう。

 “閉じたままの想い”がないか、点検しに来るために」



 笑ってうなずく。

 屋上から、チャイムが鳴った。

 春の鐘みたいに、優しい音で。



――終――