ニュースは、昼休みの終わりを狙ったみたいに落ちてきた。

 社食のカレーの皿にスプーンを沈めたまま、俺は動けなくなった。



「県北のダム建設予定地から、十年前に行方不明になっていた当時十四歳の男子生徒の遺体が見つかりました。現場付近からは当時の学生証も――」



 アナウンサーが二音目を発した瞬間、舌の上の辛さが消えた。

 高原祐真。

 俺が“埋めた”はずの親友の名前が、鎖骨の下で音になった。



 金属片みたいな記憶が、錆を落として浮かぶ。卒業式の前夜、雨上がりの河原、スコップの柄のざらざら、胸ポケットの硬いペン。

 十年。俺は自分を“普通”に成形し、出勤して退勤し、眠って起きた。人は、形だけなら生きられる。

 でも、耳に入った名前は消えない。



 スマホの通知が畳みかける。

 〈身元確認はこれから〉

 〈遺留品に学生証〉

 〈立入禁止区域〉



 席を立つ。上司には「午後、現場回りです」とだけ告げる。現場――どれかは言わない。施工管理の俺には言い訳になる現場がいくつもある。だが実際に足が向かうのはひとつだけだ。

 県北のダム予定地。十年前、そこは河原だった。いま、白いフェンスが風に鳴る。



     *



 フェンス越しに見える冬の斜面は、重機に剥がれた地層を晒していた。春になれば水に沈む谷の骨。

 白黒のテープが、寒風で鳴った。その向こう、黒いコートの男が立っている。顔の骨格。頬の削げ方。眉の角度。

 間違えようがない。

 生きている。



「……祐真」



 俺が名前を置くより早く、男は片方の口角だけ上げた。十年前と同じ癖。



「来ると思った」



「ニュースで、――」



「『見つかった』って。学生証まで添えて。きれいに出来すぎてる」



「……お前、死んだんじゃなかったのか」



「死ぬことにしたんだ、十年前、君のために」



 警備員の「立入禁止です」という声が背後から飛んだ。

 首からぶら下げた会社のIDを示し、工区長に電話を入れて臨時の入場許可をもらう。ヘルメットを被り、フェンスの人の出入り口から中へ。

 さっきの黒いコートは、資材置場の陰へ移動していた。俺も追う。



「話そう、湊」



 仮設事務所の打合せスペース。安い長机に紙コップのコーヒー。電気ストーブが、赤い口を開けている。



「順番に並べよう。思い出すんじゃなく、並べる」



「……十年前の、河原からか」



「うん。卒業式の前夜、君は“合図”を出した。家の電話を三回鳴らして切る――助けて、って」



「柴田先生に呼び出された。生活指導。……『推薦が欲しいなら、わかるよな』」



 あの口の匂い。酒と、古いコロンと、湿った言葉。

 俺は河原を選んだ。学校の外なら言えることがあると思った。

 彼は笑って来た。俺の胸ぐらを掴み、母の名前を出した。



「そこに僕が来た。君の合図を見て。背中から柴田の腕を外そうとして、三人の足場が崩れて――」



「――頭を打った」



 乾いた音。

 街灯のオレンジと、河面の鈍い銀。

 時間が止まって、音だけが先に戻ってくる。



「救急車を、って言った。――言ったよな」



「言った。でも、動けなかった。君も、僕も。未成年二人と男の教師。夜の河原で、教師が倒れてる。……事情説明の言葉を、君は失ってた」



「俺は……考えた。『これで、母さんが助かる』って。考えてしまった」



「三秒間ね」



 祐真は、紙コップを両手で包んだ。熱の逃げ道を塞ぐ仕草が昔のままだ。



「そこで僕は、第三の選択肢を出した。『僕が死んだことにしよう』って」



「意味が、わからなかった」



「この町では、柴田は“死ねない”。学校も委員会も町も、彼を守る。だったら、いなかったことにする。死ねない人は『何もしていない』に置き換えられる。代わりに“いなくなる”のは僕。学生証を残し、足取りを断つ。――君は誰も埋めないし、殺さない。“僕を埋めた”という記憶は、僕が君のために上書きする」



「……お前が、俺の罪を引き取った」



「半分は利己的だよ。家もうまくいってなかった。消えるには、都合がよかった」



 祐真はふっと笑って、首元のマフラーを少し緩めた。喉に、横に走る細い古傷。

 視線で尋ねると、彼は「夜に走って転んだ」とだけ言った。たぶん半分本当で、半分嘘だ。



「で、君は“僕を埋めた”と思い込んだ。――でも実際、君は何も埋めていない」



「ニュースは遺体が出たと言った」



「だから“謎”がある」



 事務所の外で足音。白と灰のハーフコート。県警の刑事が入ってきた。名乗りは室岡。声は低いが、言葉は簡潔だった。

 俺たちがテーブルから立ち上がると、室岡は手で「座って」と示す。



「県警の室岡です。十年前、同中学の同級生で、現場関係者。――確認、よろしいですね」



 うなずくと、彼は手帳を開いた。



「まず事実関係。今朝、ダム予定地の掘削箇所から遺体が出た。近くに“高原祐真”名の学生証。身元はこれから。掘削位置は斜面下、堆積域。――ここまでが現在」



 そして、ペン先で十年前を指し示すみたいに空を突いた。



「当時、中三。卒業式前夜。あなたがた二人は河原にいた。教師の柴田と揉み合い、彼が倒れた。――ここから、あなたたちは“選ばなかった”。救急要請でも逃走でもない第三の選択。『死ねない人をいなかったことにするために、別の人間をいなくする』」



「言葉が鋭いですね」



 祐真が笑い、室岡も少しだけ目を細めた。



「職業柄。で、質問。――“桜”は誰が植えた?」



 事務所の窓から、資材置場の端に一本の若木が見える。枝の先が空を撫でるように細い。

 俺は祐真を見る。祐真は肩をすくめる。



「僕です。挿し木」



「計画書に桜はない。十年間、水が要る。誰が遣った?」



「僕です」



「なぜ、そんなことを?」



「湊に目印を残したかった。『春になったら来い』って」



 室岡は、手帳に「桜 挿し木 高原」と書き、次に紙コップを二つ、左右非対称に置き直した。癖だろうか、訊きたい時にものを動かす。



「あなたは十年どこにいた?」



「名前を変えて県外へ。河川工学系の会社に入り、下請けでこの現場へ」



「偶然?」



「偶然。でも、運がこちらを向いたと思った。十年前の嘘を回収する運」



「……もう一件。十年前、あなた達の学年には“行方不明”が二人いた。高原君と、――小野寺絵里さん」



 心臓が内側から叩いた。

 絵里。図書委員で、静かで、目が真っ直ぐで。

 俺は、頷く代わりに息を吐いた。



     *



 駅前の喫茶店。夕方の光が窓ガラスに薄く貼りつく。

 絵里は、新聞記者になっていた。黒い髪を耳に掛け、メモ帳を指で弾きながら、先に話を始める。



「ニュース、見た? ――湊、十年前の手紙、まだ持ってる?」



「手紙?」



「私のロッカーに入ってた。差出人は書いてない。でも文体でわかる。……高原」



 封筒から出てきたのは、薄いレポート用紙。線の間隔が広い。

 “誰かを守るために誰かが消える話は嫌いだ。でもそれが最善の時がある。今回はそれだ”

 “桜の木の下に春が来る。湊に伝えてほしい――僕は生きてる”

 “君は君のすべきことをしてくれ”



 絵里はコーヒーをひと口飲んだ。



「私は“すべきこと”をした。家を出た。先生から母を守るために。町から離れて、名前を守るために。――湊、あなたは?」



 俺は、答えられない。

 “祐真に任せた”。その一言が喉を塞ぐ。

 祐真は消え、俺は残った。工業高校へ行き、資格を取り、現場を回し、眠る。

 それで良かったのか。誰が決める?

 室岡が現れ、三人で向かい合う。刑事の視線は静かで、逃げ場を作らない。



「いくつか、論理の穴を塞ぎましょう」



 彼はテーブルの上の砂糖入れを三つ指で動かし、位置を図のように整えた。



「一。『学生証』について。プラスチック製で水に強いが、身元を“指す”だけで“証明”にならない。意図的に置かれた可能性が高い。

 二。『遺体の位置』について。浅瀬で埋めても増水と流木で下流の堆積域へ移動する。あなた達がその計算を十年前に“していた”なら、河川に詳しい協力者がいたか、あるいは偶然。――どっち?」



「偶然ではない」



 祐真が短く答えた。



「僕が、流木の動きと沈殿域の位置を見て、あの夜“ここなら下流に流れる”と思った。――今考えれば無謀だけど、当時の僕は、流れを信じた」



「三。『救命可能性』について。脈を見たのは誰?」



「私」



 絵里が手を上げる。視線が真っ直ぐだ。



「呼吸が浅く、瞳孔が開いて、頭部外傷の兆候。救急要請をしても間に合わない可能性が高い。私は、そう判断した。……ただし、判断の責任は消えない。未成年とか関係ない。私が選んだ」



 室岡は、微かに息を吐いた。



「四。『十年黙っていた理由』について。高原さん」



「嘘が完成するか見たかった。湊が僕の代わりに“普通に”生きるか。僕が消えた意味が、湊の人生に変換されるか。――でも完成しなかった。湊は十年“埋めてた”。僕じゃない、自分の中の偽の記憶を」



 祐真が俺を見た。

 視線は厳しく、同時に優しい。

 俺は、目を逸らさなかった。



「五。『桜』について。これは“目印”であり、“償い”であり、“呼び出し”でもあった。十年、誰かが通った。――高原さん、あなたです」



「はい」



「六。『もう一人の行方不明者』。小野寺さん、あなたは“転居”扱いになっているが、当時の学校の記録からあなたの痕跡が薄くなっている。誰かが“消した”。――誰だと思う?」



 答えは、分かりきっていた。

 学校。生活指導。

 彼らは、見たくないものを見ない。

 室岡は、そこで手帳を閉じた。



「告げます。さきほど検視の速報が出た。遺体は、――柴田教諭。死因は後頭部打撲による急性硬膜下出血。時間経過から、偶発の可能性が高い。一方で、遺体の移動・隠匿は事実」



 喉で固い音がした。

 祐真が、先に言う。



「学生証を置いたのは僕です。『僕が死んだことにする』ために」



「単独で?」



「いいえ。絵里が手伝った。流木を動かすのに人手が要った」



「湊さんは?」



「……俺は、何も選ばなかった。選ばないことを選んだ」



「選ばない選択は、選択より重いことがある」



 室岡の言葉は、刃ではなく錘だった。

 彼は続ける。



「私はあなた方を裁けない。裁くのは法と手続き。だが――あなた方は『決める権利のないことを決めた』。そこに自覚があるなら、話は早い。供述を取り、然るべき手続きに乗せる。結果がどの程度のものであれ、各自が“見届ける”こと」



 “見届ける”。

 十年前、俺が最初に捨てた動詞。

 俺は深くうなずいた。

 祐真と絵里も、うなずいた。



     *



 聴取は数日にわたり、報じられ方は寡黙だった。学校は「遺憾」と言い、教育委員会は「当時の記録は確認中」と言い、町は「ご遺族の心情に配慮」と言った。誰も主語にならない言葉が並ぶ。

 その間も現場は動き、水は谷を塞ぐ壁の内側へ集められていく。

 俺は現場に残り、図面の数字を追い、昼休みに桜の根元へ行った。土は冷たいが、指先で触ると、春の匂いがかすかにする。



 ある日、現場の見学会が設定された。仮囲いの一部が外れ、町の人が二十人ほど訪れた。

 その群れの中に、白髪の増えた母を見つけた。

 目が合った瞬間、俺は言葉より先に頭を下げた。



「ごめん」



 母は首を振った。

 意味は二重だ。俺が謝ることじゃない、という意味と、俺に謝らせてしまってごめん、という意味。

 日本語は、こういうとき便利で不便だ。



 見学の最後、係の許可をもらい、俺は短く話した。



「ここには、十年前からあるものと、これから満ちていくもの、両方があります。見えないあいだは無いことにできる。でも、水が張られたら映ります。空も、山も、桜も、人のことも。だから、見に来てください。これからも」



 母は泣かなかった。泣かない人だ。そこが好きだ。



     *



 春が来た。

 桜は、細い枝に、ためらいがちな花をつけた。

 仮設柵の外で、祐真と並ぶ。絵里は少し離れて写真を撮っている。室岡は――来ない。彼は仕事という名前の春を別の場所で見ているのだろう。



「湊」



 祐真が、胸ポケットから一本のペンを抜いた。古い、小さなひびの入った透明軸。



「覚えてる?」



「忘れようがない。最後の約束の証だ」



 “春になったら、また桜を見に行こう”

 十年前、その句読点は地中に埋められた。いま、浮かぶ。



「ごめん、湊。十年前、僕は君にひどい役割を押しつけた。『覚えていること』だ。忘れて楽になる役は僕が取った。覚えて重くなる役を君に渡した。――それが“友情”だと、当時は思ってた。違ってた」



「違っていても、俺は救われた。救われてしまった。だから今度は、俺が“見届ける”をやる。お前の嘘も、俺の怠慢も、全部、ここで見て、終わらせる」



「終わらせる、じゃなくて『続ける』でもいい」



 祐真が笑い、春の風が笑いを運ぶ。

 絵里が近づき、カメラを下げた。



「記事にする。実名は出さない。でも伝える。“死ねない人がいる町”の構造と、それを『見ない』で済ませてきた私たちのこと。――よかった?」



「頼む」



 俺が言うと、絵里は少しだけ目を細めた。



「湊が『頼む』って言えるようになったの、十年でいちばんの進歩かも」



「うるさい」



「はいはい。ところで高原、あなたは?」



「更新保留の契約、切るかも。しばらくここに残る。水が溜まり切るのを見たい。自分が流れに託したものの行きつき先を、最後まで見ておきたい」



「それ、良い見出しになる」



「やめて」



 三人で笑った。

 笑い終わって、俺は真顔で言った。



「……祐真。俺は、お前を埋めたと思っていた。十年ずっと。その嘘は、俺が自分に吐いた。お前は、俺の嘘まで引き取ろうとした。――だから、これは返す」



 胸ポケットにしまっていた古いノートの切れ端。泥の色が痕に残る。

 『春になったら、また桜を見に行こう』

 俺はそれを、桜の根元に差した。

 祐真が、静かに頷く。



「湊。君が埋めていたのは“僕”じゃない。『見ないでいる』という選択だ。なら、もう掘り出した。――おめでとう」



 風が変わる。

 水面が、淡い群青から春の青へ明るむ。

 花びらが一枚、湖面に落ちる。波紋が、円環を作って消える。



 俺は目を閉じた。

 暗闇の裏側で、十年分の夜が音もなく崩れ、光の粒に変わる。

 耳の奥で、室岡の抑えた声がよみがえる。



『決める権利のないことを、決めた』

『それでも見届けなさい』



 あれは説教じゃない。手続きの言葉でもない。

 あの声は、俺に動詞を返した。

 見る。選ぶ。届ける。続ける。



「行こうか、湊」



「どこへ?」



「春の続きへ」



 祐真が冗談みたいに言って、真剣な顔で笑った。

 絵里がシャッターを切る。カメラの中で、この春は固定される。水面では、この春が揺れ続ける。

 どちらも本当で、どちらも救いだ。



 君を埋めた場所で、桜が咲く。

 俺は、ようやく春に間に合った。



(了)