第1話 断罪の玉座、崩れ落ちる王子
 玉座の間には、雪が降る前の冷たさがあった。壁面の大理石は磨かれ、燭台は過剰なほど灯されているのに、どこか夜の底みたいに寒い。人はこれを「儀礼」と呼ぶのだろうが、俺にはただの見世物に思えた。
「第二王子レオン・アルヴェイン。汝の罪は反逆」
 兄の、即位したばかりの王が宣告する。だが、その声に王の品位はない。勝ち誇った少年の、つまらない悪戯の種明かしのような響きだけがあった。
「……反逆?」
 俺は笑ったのだと思う。笑ってしまうくらい、出来の悪い話だったからだ。
「兄上。証をお示しください」
「証ならある。お前が王都の糧倉の鍵を偽造し、兵糧を移した記録がある。更に近衛副長が証言した。――ここに」
 侍従が差し出した羊皮紙は、俺の筆跡に似せてある。近衛副長の名も、確かに見える。だが副長は一月前、毒で死んだ。兄に忠誠を誓い、王家の台所事情を知りすぎた男だった。
「副長は、亡くなっている。死人の証言を、誰が書き取った?」
「彼の遺書に記されていた――そうだ、エリナ」
 兄が顎をしゃくる。その視線の先に、俺の婚約者――エリナ・ヴァルグレアが立っていた。薄青のドレスは氷を思わせ、芯の通った灰色の瞳は、いつかの柔らかさを欠いている。
 彼女は一歩、前に出た。
「レオン殿下。わたくしは……あなたの行為を、許せません」 知らない声だった。冷ややかで、刃の裏だけを見せる声。「あなたはこの国を裏切り、戦を望んだ。民を飢えさせ、兵に反旗を勧めた。――わたくしは、そうした方と婚約を続けられません」 婚約破棄の言葉は、静かに、正確に、俺の胸に落ちた。音はしなかった。ただ、温度だけが消えた。
 あの夜の、彼女の横顔を思い出す。王城の塔の上、風に髪をほどきながら笑ったエリナは、世界が好きだと言った。人がパンを買って並ぶのを見るのも、兵士が酒場で歌うのを聴くのも、好きだと。
俺もそうだ、と答えた。――それは、幻だったのだろうか。
「……兄上。俺が偽造をする理由は?」
「王位が欲しかったからだろう。第二王子の分際で」
 幼い。彼は幼い。だがその幼さの背に、数多の大臣と貴族の影が揺れる。彼らは知っているのだ。糧倉の鍵の本当の行方を。冬越しの予算がどこに消えたのかを。だから、俺を貼り付ける。同意した視線が、燭台の炎に揺れた。
「判決を言い渡す。第二王子レオン・アルヴェインは王籍を剥奪、婚約を破棄し、王都より永久追放。――罪人の街へ(ノクティス)の流送」
 どよめき。誰かが息を呑む音。しばし沈黙。
 エリナの睫毛が微かに震えた。ほんのわずかに。俺はそれを見逃さなかった。けれど彼女は、唇を結び直しただけだった。
 儀礼は、終わった。
 ◇
 鉄の車輪は、凍った土の上を容赦なく跳ねる。護送馬車の木板は薄く、風は刃に等しかった。手首の枷はきついが、抵抗は無意味だ。扉の隙間から覗けば、灰色の空が、終わりの見えない平野を覆って

いる。
 ノクティス。王国の地図の端に小さく記されたその名は、書庫の地誌によれば、鉱脈が枯れて以降、罪人と流民が流れ着く“沈殿地 ”だ。王都から見れば捨て石。冬の荒風と、古い水路と、壊れた街路灯。そんなものしかない。
 寒い。だが、頭のどこかは異様に静かだった。
 ――反逆。偽造。婚約破棄。追放。
 用意のいい台詞だ。誰かが前もって書いた脚本を、王が読み上げ、観客が頷いた。俺の役は、よくできた悪役だったのだろう。ならば、幕が下りたあとに残るのは、舞台裏だ。表の王道が腐っているなら、裏に回るしかない。
 馬車が大きく揺れ、車輪が泥に取られた。やがて止まる。扉が開いた瞬間、刺すような風が顔を打つ。護送兵が枷を外し、無言で背を押した。
「ここから先は、お前の足だ」
 王都から持ち出せたものは、冬衣と短剣ひとつ。腰に残ったそれは、辛うじて俺が俺である証のようだった。
 見下ろす谷間が、ノクティスだった。斜面に貼り付いた家屋は、瓦が風にめくれ、壁は煤に染まっている。煙突から上がる煙は細く、冬の空に吸い込まれて消える。遠くで犬が吠え、鐘が死んだような音で三度鳴った。
 足を踏み入れた途端、腐った藁と古い油の匂いが鼻を刺す。石畳は割れ、下水の蓋は半分沈み、壁の影に、目だけがこちらを見ている。子どもの目、老婆の目、警戒と飢えの色。
「兄上、ここを知っているか」
 独り言は煙のように消えた。知るはずがない。地図の色の外にある街だ。けれど――歩けばわかる。ここには、王都にない“律”がある。生きるために編まれた即席の規則、黙契。誰も守らない王令よりよほど堅い約束が、足音の間にある。
 路地の先で、短い悲鳴が弾けた。
 反射で走っていた。細い横道を抜けると、朽ちた倉庫の前で、三人のならず者が少女を取り囲んでいる。少女は十にも満たない。煤けたマントの裾を握り、歯を食いしばっていた。
「いいから寄越せ。手を離せば楽になる」
 男の一人が掴んでいるのは、小さな革袋。触れただけで乾いた音がした。硬貨だ。少女は首を振る。
「これは、薬の、代金だよ……おかあの……」
「母親か。ならお利口だ。金は俺たちが預かる」
 笑い声。肋骨の隙間を針でつつかれたみたいな感覚がした。体が勝手に動く。
 俺は男の手首を掴み、逆方向に捻った。鈍い音がして、革袋が宙に舞う。落ちる前に拾い、少女の手に押し戻す。
「その子の用事だ。邪魔をするな」
 間近で腐敗した酒の匂いがした。男が睨み、刃を抜く。短いナイフ。二人目も、鉄棒を持ち上げる。
「貴族様ごっこか? ここは王都じゃねえ」
「王都でも、俺は王じゃない」
 吐いた言葉が、自分でも意外に平坦だった。刃が振り上がる。踏み込みは浅い。右肩で躱し、手首を打つ。短剣が落ちる。鉄棒が振り下ろされる前に膝で相手の脛を蹴り、体重で肩を押し込む。二人が転がり、三人目が逃げ腰になった瞬間、路地の陰から投げ縄のように何かが伸び、男の足に絡みついた。
「ほいっと」 乾いた声。視線を向けると、路地の上、壊れた庇の上に女が座っていた。狐の仮面――いや、道化の白い半面だ。亜麻色の髪が肩で切りそろえられ、指には薬草の汁が染みている。
「三匹、捕獲完了。ノクティスへようこそ、見知らぬお兄さん」
 半面の女は軽やかに飛び降り、鉄棒男の後頭部に指先で触れた。
ふっと力が抜け、男はその場に崩れ落ちる。
「……毒?」
「薬。点で眠るやつ。起きたとき、ちょっと頭が痛いくらい」
 女は肩をすくめ、仮面の裏から、じっとこちらを見た。俺の短剣の柄、手の皮、立ち位置。観察眼が鋭い。
「その子は?」
 少女は革袋を胸に抱きしめ、俺を見る。瞳は黒曜石の欠片みたいに硬いのに、内側は震えていた。
「ありがと……。ルゥナ。わたし、ルゥナ。薬を、買いに」
「母さんの、だね」
 半面の女が優しい声に変える。ルゥナはこくりと頷いた。
「行こう。案内するよ。――お兄さんも来る?」
 問われ、俺は一瞬迷った。王都の王子としての常識なら、関わるべきではない。だが、王子ではない俺は、もういない。
「行く」
 そう答えると、半面の女は口元で笑った気配を見せた。
「名は?」
「レオン」
「いい名前。私はシルヴィア。街医者。偽でも裏でもなく、いちおう正規の」
「正規?」
「この街の、ね」
 ◇  シルヴィアの診療所は、崩れかけた礼拝堂の隣にあった。床はきしみ、窓枠には古いステンドグラスの破片が残っている。けれど台は磨かれ、器具は清潔に並び、湯気の立つ薬鍋の匂いには、かすかな甘さがあった。
 ベッドには、痩せた女が横たわっている。ルゥナの母だ。咳が硬く、血の匂いが混じる。
「鉱夫の肺だね。粉塵と寒さ。王都からの補助は途絶え、坑道は崩れていく。――はい、これ飲ませて」
 シルヴィアが杯を渡し、ルゥナが母の口元に当てる。女の喉がかすかに動き、色が戻るわけではないが、咳は少し柔らいだ。
「ありがとう、ルゥナ。ありがとう、お医者さま」
 掠れた声に、ルゥナの目が潤む。俺は壁に背を預け、その光景を見ていた。王都では滅多に見ない、まっすぐな“ありがとう”だ。
「で、レオン。外の三匹は勝手に転んだってことでいい?」
「問題ない」
「よし。じゃあ質問を一つ。――あんた、何者?」
 半面越しの視線が、笑っていない。
 俺は息を吐いた。偽名を食むのは簡単だ。だが、この街に来て最初に引き金を引いたのは、目の前の医者だ。嘘をつけば、たぶん見抜かれる。
「王都からの、追放者だ」
「ふうん。王都の匂いはする。言葉の角でわかる。で、戻る気は?」
「ない」
 その一言が、自分の中で音を立てて固定された。ない。戻らない。
戻れないのではなく、戻らない。
「愚かね」
 シルヴィアの声は冷たく、それでいてどこか楽しげだった。
「ここは、食べ物が勝手には来ない街。薬も、火も、秩序も。欲しいなら、自分でこしらえる。あんたは、こしらえられる?」「――こしらえ方は知っている。けれど、俺ひとりの手じゃ足りない」
 言葉が、口に出てから自分でも驚くほど適温だった。王城の会議室で何百回も飲み込んだ文の、言い直しのようだ。
「なら、手を集めなきゃね」
 シルヴィアは仮面に指をかけた。外すのかと思ったが、外さない。
代わりに、壊れかけた窓の向こう――礼拝堂の影を顎で示す。
「バルト、聞いてたでしょ」
 影の中から、重い靴音が一歩、二歩。現れた男は、厚い胸板と、折れた近衛章の布片を肩に残していた。髪は短く刈られ、顎には古傷。目は狼のように静かだ。
「近衛……?」
「元、だ」
 男は短く答え、俺の腰の短剣と立ち姿を測る。
「王都で、名前を聞いたことがある。レオン殿下」
 ルゥナが目を丸くする。シルヴィアは肩をすくめた。
「やっぱり。――で、殿下。何をしたい?」
 何を、したいか。
 王都では、答えに千の前置きが必要だった。立場、派閥、財務。誰の顔を立て、誰の恨みを買うか。だがここは、ノクティスだ。答えは、短くていい。
「街を、守る」
 自分でも驚くほど、言い切るのは容易かった。
「まずは、食べさせる。寒さを凌ぐ。病を減らす。治安を、表のものにする。――そのために、俺は、裏に立つ」
「裏?」
「表は腐っている。王令は届かない。なら、夜に王が要る」
 沈黙。薬鍋の泡が一つ弾ける音がした。ルゥナが真っ直ぐ俺を見上げ、シルヴィアが鼻で笑い、バルトがわずかに口角を上げた。「夜王、ね。気障だけど、嫌いじゃない」
 シルヴィアが言う。
「必要なものは?」
「人材、拠点、資金。それと、信」
「信?」
「信じる、の信だ。約束が約束であるための土台。――俺は王都で、それが欠け落ちる音を聞いた」
 兄の笑い。大臣の沈黙。エリナの睫毛の震え。あの場にいた誰も、信に重みを置かなかった。置ける場所がなかった。なら、ここで作る。
「資金は?」
 現実的な問いが、すぐ飛ぶ。ありがたい。王都では誰も、最初にそれを口にしない。
「鉱山は死んだが、水路が生きている。古い地図を見た。地下に網がある。――水を流し、粉を挽き、灯りをつける。夜に灯りがあれば、人は集まり、金が落ちる」
 言いながら、礼拝堂の割れたステンドに視線が行った。欠けた赤と青が冬の光で曖昧に混ざっている。あの光を、夜に灯したいと思った。
「治安は?」
「表の番は買収されやすい。だから、裏の番を立てる。夜の市場を管理し、借金の利率を固定する。暴力の価格を上げ、暴力以外の稼ぎを下げないようにする」
「やるじゃない。王子の勉強は伊達じゃないって顔ね」
 シルヴィアが笑い、バルトが短く頷いた。
「力は出す。殿下の旗のもとに、俺みたいな折れた剣は集まる」
 剣。旗。言葉の重みが、体温を持って戻ってくる。
「……ルゥナ」
 俺は少女に向き直る。彼女は小さな拳を握っていた。
「何」
「母さんを助けたいだろう」
「うん」
「そのために、君の足がいる。走れるか」
 ルゥナは考え、頷いた。黒曜石の瞳に、硬さの下の芯が灯る。
「走る。なんどでも」
「よし。じゃあ最初の仕事だ。――この街で、一番人が集まる場所を教えてくれ」
「夜市。水路の上の橋。灯りがつくところ」
「そこに、灯りを足す」
 言葉にした瞬間、胸の奥で、何かが“カチリ”と音を立てた。玉座の間で凍っていた針が、わずかに動く。白い部屋の温度が、端から色づき始める。
「夜に王が要るなら――俺がなる」
 シルヴィアの半面の奥で、目が笑う。バルトが拳を胸に当てる。
ルゥナが、空になりかけた革袋をぎゅっと握る。
「ようこそ、夜へ。殿下」
「レオンでいい」
「じゃあ、レオン。今日からここは、あなたの“王都”よ」
 扉が開き、冬の風が流れ込む。冷たいのに、どこか澄んだ匂いがした。遠くで鐘が四度鳴る。昼と夜の境目に、足を踏み入れる音がする。
 ――俺は、ここで王になる。
 玉座はもう、必要ない。必要なのは、灯りと、手と、信。夜の街を歩く靴音が、確かにそれを告げていた。

第2話 夜市に灯を
 ノクティスは夜に生きる街だ。昼は腹が鳴り、陽が傾くと人が現れる。橋の上、廃水路のふち、崩れた城壁の陰。売られるのは細いパン、古い釘、濁った酒、噂、嘘、そして暴力。
「夜に王が要るなら、最初にやるのは灯りだ」
 俺は橋のたもとに立ち、凍える水面を見下ろした。石のアーチの下には古い水車跡がある。軸は曲がり、羽根は半分折れていたが― ―流れはまだ死んでいない。
「バルト、軸を起こせるか」
「材料が要る。楢か樫の丸太、鉄の楔。釘は足りん」
「釘は私がどうにかする。納屋の裏に壊れた柵が山ほどある」
 シルヴィアが半面越しに眉を上げる。薬屋の棚からどこに釘が出るのかと思えば、彼女は路地の端に合図を送った。隠れていた少年が二人、駆け出す。足は細いが、身のこなしは猫だ。
「“ネジ屋のイヌア”に言って。曲がった釘でもいいから全部、今日。支払いは夜王印で」
「夜王印?」
「作る。――ルゥナ、来てくれ」
 少女は革袋を抱えたまま駆け寄る。頬は赤く、目は相変わらず硬い。
「走れるか」
「走る」
「これから“印”を配る。紙切れだが、俺の約束の代わりだ。裏市(アンダー)の店に“印”の価値を通す。今日だけでいい、最初の灯りを点けるまでは」
 少女は何度か瞬きをして、頷いた。「約束の紙」――それが意味を持つと感じたのだろう。
 俺は診療所に戻り、壊れた礼拝堂の古い聖句の裏に書いた。粗い紙に、印し。王都では封蝋と紋章が必要だ。ここでは、裏の信用が印になる。だから、名でなく原則を書く。
一、夜市の暴力は“高くつく”。殴れば二倍。刃を抜けば五倍。
血を流せば十倍。
二、借金の上限は元金の二倍。取り立ては夜明け後に。
三、夜市の灯り代は“夜王印”で払える。印は紙でも、約束は鉄。
四、裏切りに罰。保護に利。
 字は大きく、短く、誰にでもわかるように。紙を十枚、二十枚。
ルゥナが胸に抱え、仲間の子に配る。「夜王印だ!」という叫びが、路地から路地へ走った。
 日が傾くと、バルトが水路に降りた。上衣を脱いだ背中に古傷が走り、腕に縄を巻き付ける。元近衛は無駄に動かない。石と木を組み、曲がった軸を外す。水車の羽根を一本ずつ、捨て、再び打ち直す。俺も手を貸した。王都で学んだのは政略と数と法だが、手を汚すのは嫌いじゃない。手がかじかんでも、脳は温かい。
「よし、回る」
 バルトが合図を出すと、少年たちがロープを引いた。水が唸り、羽根が鈍く回った。軸が軋み、声を上げ、それでも止まらない。
 俺は橋の上に戻り、シルヴィアに頷く。
「灯せ」
 彼女は油壺から芯の太い燈を取り出し、火を移す。最初の灯りが、橋の欄干に灯った。二つ、三つ、四つ。風が抜けても消えず、夜の底に柔らかい円を描く。人が集まり、足音が増えた。屋台木枠が開き、煮込みの鉢が置かれ、パンの香りが増幅される。
「――あ」 ルゥナの声が震えた。橋の下の水面に、小さな光が揺れて映る。
母の咳はまだ止まらないだろう。明日も明後日も薬が要る。けれど、灯りがある。帰る場所の目印がある。
「夜王印、通るのか?」
「通す」
 俺は一番強欲そうな屋台の主に近づき、印の紙を差し出す。男の目が薄く笑い、紙を透かし、周りを伺う。
「紙だ」
「紙だ。だが、約束は鉄だ。通せば客が増える。通さなければ―― 橋に立てない」
 男の喉が動いた。周囲の目が、俺でも紙でもなく、灯りに集まっている。商売人は温度に敏い。男は肩をすくめ、紙を受け取り、銅貨の代わりにそれを箱に滑らせた。
「最初の一枚、受けた」
 声が、夜市の空気に沁みた。二軒目、三軒目。紙は増え、湯気も増えた。印は信用に変わり、信用は食い物に変わる。人は灯りに寄ってくる。灯りは金になる。
 ――ただ、金の匂いは、別のものも呼ぶ。
「レオン。来たよ、最初の“税吏”」
 シルヴィアが肩で示す。橋の向こうから、灰色の外套を羽織った男たちが三人、ゆっくり近づいてくる。外套の留め具に妙な意匠― ―『灰貴会(グレイ・ギルド)』。ノクティスの徴税を“代行”している裏組織だとシルヴィアは言っていた。代行の意味は、強盗に近い。
「おやおや、おやつの匂い。橋に灯りが戻るとは、殊勝なことだ」
 先頭の男が歯を見せる。太い指に指輪。目は笑っていない。
「ギルドの許可状、見せな」
 返事の代わりに、俺は紙を差し出した。夜王印。男は鼻で笑う。「紙遊びか。ここに立つなら、通行料。灯り一つにつき銅貨三枚」
「高い」
「灰の火事は見たくねえだろ。灯りは燃えやすい」
 男が手を広げ、後ろの二人が橋の灯りに近づく。その瞬間、俺は木杭の影に設置した細い縄を引いた。灯りの根本に括りつけた小さな鉄鈴が一斉に鳴る。夜市の端、路地の陰、屋台の下――あちこちから小さな鈴の音が返る。約束の合図。目が一斉にこっちを見る。
「通行料は、夜王印で払った」
 俺は夜市の端から端まで見回し、はっきり言った。
「ここは夜王の保護下にある。暴力の値段は上がった。殴れば二倍。刃は五倍。血は十倍――払えるか?」
 男の顔から笑いが消える。彼は一歩寄る。俺も一歩踏み出す。距離は近い。互いの息がかかる。背後でバルトの足音が近づき、彼の重みが空気を変える。橋の欄干にいた数人の若い連中――さっき印を受け取った屋台の主も――が、手元の棒や鍋を握り直す。
 男は舌打ちをひとつ。「よかろう」
 言葉ほど良くはない顔で、彼は踵を返した。「今夜は祝ってやる。
祭りの初日は客の顔を立てるのが礼儀だ。だが――」
「明日は違う?」
「明日も祭りならいいがな」
 三人は去った。残された空気は硬く、だが割れなかった。鈴の音がまた一つ、軽く鳴り、湯気が夜を満たす。
「荒い真似は避けたいが、避けられない夜もある」
 俺の言葉に、バルトが短く頷く。
「奴らは戻る。だが、今日は通した。――橋の灯りは、彼らの灯りじゃない」
 夜市は回った。印は十、二十、三十。小麦粉が流れ、炭が売れ、古布が新しい包帯に変わる。ルゥナは走り続け、足を止めない。母の息はまだ浅いが、顔の色はさっきより良い。 シルヴィアは半面の裏で目を細めた。
「印は明日には紙切れに戻るかもね」
「戻さない」
「どうやって」
「二日目の灯りを、“昼”に作る」
 彼女の指が止まる。俺は水車の軸から引いた細い縄を指差した。
「水の流れは夜だけじゃない。昼のうちに粉を挽かせる。挽いた粉を、印と交換する。印は粉になり、粉はパンになる。紙切れがパンになれば、紙ではない」
「なるほど。紙からパンへ、パンから信へ」
「その間に、橋の下に“番”を置く。バルト、夜だけでなく昼も回せるか」
「できる。折れた剣は昼も立つ」
 短い会話で足場ができる。王都では十人が二十の反対を言い、会議が夜明けに終わる。ここでは三人で、夜が変わる。
 夜更け、屋台が片づき始めた頃、橋の端に黒い影が立った。ボロをまとい、背は曲がり、杖をつく。顔は見えない。ルゥナが一歩踏み出しかけ、俺が手で制した。
「何者だ」
 影は顔を上げた。皺だらけの男。目は澄んでいないが、濁り切ってもいない。井戸の底の水のような光がある。
「夜王を、見に来た」
「ここにいる」
「さっきの印。読んだ。字がまっすぐだ。裏の字だ」
 男は杖で橋の石を叩き、ゆっくり笑った。
「昔、ノクティスには“掟板”があった。冬に炭の値、春に水の値、
夏に塩の値。王都から来た役人が壊していった。掟板がなければ、誰も守らんと」「掟板を戻す」
「戻せるか?」
「戻す。紙でも木でも石でもいい。守るものがあるなら、守る」
 男は長く息を吐いた。白い煙が、星のない空に溶ける。
「名前は?」
「レオン」
「よい。――わしは塔の番。名は塔番と呼ばれておる」
 塔などノクティスに残っていたか? 男は杖で橋の向こう、崩れた城壁に空いた黒い穴を指す。
「あそこに古い見張り塔がある。物好きしか上らん。だが夜風はよく通る。お前の灯りを、遠くまで見せてやろう」
「頼む」
 塔番はこくりと頷き、闇に消えた。ルゥナが袖を引っ張る。
「本当に、王になるの」
「王都の王じゃない。夜の王だ。――灯りと約束の王」
 ◇
 翌朝、俺たちは橋の下で粉を挽いた。軸は悲鳴を上げ、それでも回る。昼の光は弱く、冷たい。だが粉の匂いは温かい。印と粉を交換する列ができ、短い言葉が飛び交う。印がただの紙でないと、手が覚える。
 昼過ぎ、バルトが眉をひそめた。
「尾がついた」
「どこから」
「王都の匂い。靴の泥が違う。歩幅が違う。剣の重みが違う」
 視線の先、橋の向こうに黒い外套が二つ、平然と立っていた。貴族の黒でも、灰貴会の灰でもない。布は質が良く、肩の縫い目が堅い。腰の革が柔らかい。剣は短く、細い。
「査問官だ」
 シルヴィアが低く言った。「王都法務院の犬。汚れ仕事は自分で手を汚さないから、タチが悪い」
 黒外套の一人が一歩前に出る。顔は整っている。皮肉を言う前の口元だ。目だけが笑っていない。
「第二王子レオン・アルヴェイン。王籍剥奪と追放令状に基づき、所在を確認した。――我々と来てもらおう」
 ルゥナが俺の袖を握る。シルヴィアの半面の奥で目が細くなる。
バルトは一歩、身を寄せ、いつでも動ける距離を詰めた。
「拒むなら?」
「罪人(ノクティス)街の治安維持のため、やむを得ず拘束する。抵抗すれば――」
「血の値段は十倍だ」
 俺は遮った。黒外套の眉がわずかに動く。
「何の話だ」
「ここでは、暴力の価格が決まった。夜王印は王令に代わる。お前たちの剣は王都の法で光るが、ここでは灯りで影になる」
「夜王、ね。――噂は聞いたよ」
 男は笑わない口元で笑い、肩をすくめた。
「だが、我々は仕事をする。今日は確認だけだ。明日は違うかもしれない。王都は、待たない」
「ノクティスも、待たない」
 小さな沈黙。彼はその沈黙を計り、背を向けた。
「灯りを楽しめ。長くはない」
 黒外套が去ると同時に、橋の陰から別の影が現れた。灰貴会の男だ。昨夜の男ではない。背が高く、爪が長い。笑い方が蛇に似ている。
「王都の犬に尾を振る気はないが、夜王に尻尾を巻く気もない」
 男は橋の欄干を指でなぞり、灯りをじろりと舐める目で見た。
「明晩、“試し”をする。夜市の真ん中、貸しだ。うちの取り立てに口を出すな。邪魔をすれば、灯りを消す」
「取り立ての限度は元金の二倍だ」
「誰が決めた」
「俺だ」
「はは。王様ごっこは楽しいか?」
「ごっこじゃない」
 男はわずかに身を乗り出した。爪が光り、舌が歯に当たる。
「夜王。お前の印がどれだけの血を吸えるか、見てやる」
 爪の男は去った。橋の上に残った空気は、雪の前の重さに似ている。遠くで咳。粉の匂い。鈴の音は鳴らない。鳴らさない。
 シルヴィアが言う。「明晩、ぶつかるよ」
「避けられない」
「怪我人が出る。死ぬかもしれない」
「死ぬのは嫌だ」
「じゃあどうする」
「“値段”を上げる」
 俺は橋の中央に立ち、粉で白くなった手を握った。
「奴らが取り立てをする場所に、灯りを二倍置く。人を四倍集める。
歌を歌わせ、鍋を増やす。暴力のコストを、最大にする」
「人が多いと、誰かが殴られる」
「だから、殴った瞬間、十倍の“罰”を皆が見る。印を破った者にはパンがない。水もない。夜市の橋に立てない」
「追放?」
「一時の、だ。戻る道も示す。働きを見せ、印を稼ぎ直せば戻れる」
 バルトが静かに頷いた。「見せしめと道を、同時に作る」
「そう。俺たちの秩序は、戻れる秩序だ」
 シルヴィアは半面の裏で口角を上げた。「ええ、王子。あんた、やっぱり好きよ。血を見たいんじゃなくて、灯りを見たい」
 その夜、塔番の塔に上った。崩れた階段は冷たく、風は骨を抜く。最上段に着くと、街が見えた。壊れかけの屋根、曲がった煙突、細い路地、黒い水。橋の灯りが線となり、薄い金の糸で街を縫っている。
「灯りは、敵も呼ぶ」
 塔番が低く言う。風に紛れて、声は遠い。「だが、灯りのない街は死ぬ。夜王、灯りを増やせ。儂は鐘を打つ」
「鐘?」
「昔、夜盗が出るときは三度。火事のときは五度。よい知らせは七度。夜王の灯りは何度だ?」
 俺は迷わず答えた。「四度」
「境目か。昼と夜の」
「そうだ。明日の四度、橋に人を集めたい」
「打とう」
 塔番は杖のかわりに古い木槌を持ち上げた。鐘の縁は欠けているが、音は生きている。遠くまで届くだろう。夜に、合図が要る。
 塔から降りると、足元に小さな影が待っていた。
「レオン」
「ルゥナ、眠ったか」
「半分。おかあ、笑った。灯り見て」
 少女は少しだけ笑った。硬い瞳の奥で、芯が灯っている。彼女は間を置いて、ぽつりと言った。
「わたし、走るの得意。走って、印を、運ぶ。橋と、路地と、家のなか。なんでも走る」
「頼む」
「うん。約束したから」
 彼女は革袋を抱き直し、走り去った。小さな背中が夜に吸われ、足音が鈴の音に混じる。
 翌日の昼、粉は足りなくなり、印は足りなくなり、灯りの油も足りなくなった。足りないものを数えると、やるべきことが明らかになる。俺は印の束を抱え、橋の下に降り、木箱に座った。
「王子」
 バルトが呼ぶ。「灰貴会の“試し”、場所が決まった。夜市の真ん中、秤のある石台の前だ」
「秤?」
「借金を量る台。昔は皆が目の前で重さを確かめた。今は誰も使わん」
「使う。――皆の前で、重さを見せる」
 シルヴィアが来る。「血止め、包帯、薬、全部準備済み。なるべく使わないで済むよう祈るけどね」
「ありがとう」
「礼は灯りで返して」
 彼女の半面が、光を跳ね返した。
 日が沈む。塔番の鐘が四度鳴る。昼と夜の境目だ。橋の灯りが一斉に点き、人が集まる。屋台が並び、歌が始まり、鍋が煮える。秤の前に、灰の外套。爪の男がゆっくりと上がる。隣には、痩せた女。目が座り、手には古い借用書。背後に二人の取り立て。
「この女は元金銅貨二十。利は十。今日で四十。払えないなら――」
「二倍までだ」
 俺は秤の反対側に立つ。周囲の目が、灯りの輪の中で固まる。シルヴィアが少し離れた場所で臨戦の姿勢を崩さず、バルトが陰に立つ。ルゥナは人の隙間を縫うように動き、合図を運ぶ。
「二倍まで。四十は越えた。――賭けよう」
「賭け?」
「秤に“信”を乗せる」
 俺は印の束を置いた。紙は軽い。だが、目は重い。人が見ている。重さが変わる。
「この印は粉になる。粉はパンになる。女は働く。印は返る。二ヶ月、毎週この秤に“返す”ところを、皆で見る。灰貴会は“見せる ”。夜王は“守る”。――遊びじゃない。街の掟だ」
 爪の男の目が細くなる。「誰が裁く」
「皆だ」
 俺は周りを指差した。屋台の主、歌い手、粉挽き、子ども、塔番。目が目を見る。夜市は静かになり、灯りが小さく揺れる。爪の男は舌を鳴らし、借用書を秤に乗せた。紙が重くなる。印が重さを“見せる”。秤は傾き、爪の男は笑うのをやめた。
「いいだろう。――試しだ」
 男は取り立てに顎をしゃくった。取り立てが女の肩に手をかけかけた瞬間、鈴が鳴った。ルゥナの鈴だ。バルトが一歩出て、取り立ての手首を軽く押さえる。力は最小、姿勢は最大。男の足が止まる。
周りの視線が、刃ではなく“手”に集まる。
「殴れば二倍。刃は五倍。血は十倍」
 俺の声は大きくしない。夜市が聞く距離にする。
「払えるか?」
 取り立ては肩をすくめ、手を離した。爪の男は小さく笑った。「今日は祭りだ。――王都の犬も来る」
 言った瞬間、橋の端に黒外套が現れた。昨日の男だ。彼は秤の前に来ると、静かに周囲を見渡した。鈴の音が止む。彼は秤を見、印を見、人を見、灯りを見た。
「面白い遊びだ」
「遊びじゃない」
「そうだろうな」
 彼は懐から細い羊皮紙を取り出し、秤の間に差し込んだ。「王都法務院・査問官エルンスト。――証拠保全のため、ここでの取り立てを一時停止する」
 ざわつき。灰貴会の男が舌打ちを飲み込む。エルンストと名乗った男の目が、ほんの僅かに俺を見る。
「夜王。明日、話をしよう」
「今日ではなく?」
「今日は灯りを見たい」
 彼は背を向け、橋の上の灯りを一つひとつ確かめるように歩いた。爪の男は彼の背を睨み、俺を睨み、それから秤の上の借用書を乱暴に引き抜こうとして、手を止めた。周囲の目が重い。重さは刃より鈍いが、深い。
「二ヶ月だ。二ヶ月で返せ。返せなきゃ――橋の外だ」
「返す」
 痩せた女の声が、細く、だが折れずに響いた。ルゥナが小さく拳を握る。シルヴィアが息を吐き、バルトが姿勢を緩める。塔番の塔が遠くで軋み、鐘が一つだけ鳴った。四度ではない。だが、境目は越えた。
 夜は続いた。歌が戻り、鍋の蓋が開閉し、印が紙からパンに変わる。俺は灯りの下を歩き、目を合わせ、短く頷き、同じ言葉を繰り返した。
「約束は鉄だ」
 その言葉は俺自身にも向けられている。玉座の間で空になった胸に、鉄の重さを戻すために。
 終わり際、石台の影でエリナの名を囁く声を聞いた。振り向くと誰もいない。風だけが下り、橋の灯りが揺れた。胸の奥で何かが疼く。彼女の睫毛の震え、兄の笑い、王都の冷たさ。全部、ここに連れてきてしまったのかもしれない。
 だが、足元に光がある。ルゥナが走っている。バルトが立っている。シルヴィアが笑っている。塔番が鐘を打つ準備をしている。灰貴会が牙を研ぎ、王都の犬が鼻を利かせている。
 なら、やることは決まっている。
 ――夜に王が要るなら、灯りと掟と人の重さで、王をやる。 翌朝、俺は新しい板を用意した。橋のたもと、石台の横。荒い木肌に、太い字で刻む。
 《夜市掟板》
一、夜に刃を抜くな。抜いた者は夜に立つ資格を失う。
二、借金は元金の二倍まで。超えた分は“働き”で払う。
三、夜王印は粉と油に換えられる。値は毎朝、秤の前で告げる。
四、争いは秤の前で。隠した争いは、三倍で返す。
五、戻れる道は必ず示す。戻らぬ者は“凍土”へ。
 刻み終えた瞬間、塔番の鐘が四度鳴った。昼と夜の境目に、街が息を吸う音がする。俺は刻み跡に指を当て、冷たさを確かめた。
 夜王の一歩は、まだ浅い。だが、足跡は残る。灯りと、掟と、信の重さで。
 その足跡を消そうとする影は、もう動いている。王都と灰と、そして――俺が一度、愛した名とともに。

第3話 犬と爪と秤の夜
 朝一番の橋は白かった。霜が石に薄く張り、吐く息がすぐ形になる。粉挽きの軸は夜のうちに休ませて油を差した。回る音が軽い。
印と粉を交換する列が、昨日より長い。
「レオン、印が増えたぶん、偽造も増える」
 シルヴィアが半面の裏で目を細めた。
「番号を振る。一本の紐で通す」
 俺は印束をひもで綴じた。左上に穴。綴じ紐に通し、端に小さな結び目――“夜結び”。解けばわかる。戻せない。
「書き手が要るな」
「いる」
 返事したのはルゥナではなく、路地の陰から出てきた痩せた少年だ。指が細く、目が速い。
「ミコ。鼠のミコ。字を写すのが得意」
「印書き、やるか」
「粉と、母の薬」
「契約だ」
 俺は短く告げ、木箱を机にして“印の書記”を一人増やした。ミコの筆は速い。数字を飛ばさない。目が一枚一枚の紙の重さを覚える。
 鐘が三度鳴った頃、黒外套が来た。昨日の査問官――エルンスト。
今日は剣も杖も持たず、片手に湯気の立つカップだけだ。屋台の茶を買ったらしい。俺の前に立ち、カップを差し出した。
「熱い。持つか?」
「いらない」
「なら僕が飲む」
 彼は唇を火傷しないように慎重にすすった。目だけ動く。秤、印、粉、列、鈴。全部チェックしている。
「話をしよう、夜王。立ったままでいい」
「座る椅子はない」
「よろしい」
「王都は、お前を捕まえたい」
「知ってる」
「だが、僕は、今日すぐにお前を縄で引きずりたくはない」
「珍しい犬だ」
 エルンストは笑わない。「王はいつでも“結果”が欲しい。王都の冬越しのために必要なものは何だ?」
「兵糧、秩序、言い訳」
「そう。言い訳だ。『罪人街が荒れているから手を入れた』――陛下の言い訳になる火種が、ここに必要だ」
「だから今すぐ火をつけたくはない」
「理解が早くて助かる。僕は証拠が欲しい。お前に対するではない。
お前を追放に追い込んだ連中の『偽の手』が欲しい」
 エルンストはカップを置き、低い声で続けた。
「糧倉の鍵。副長の“遺書”。お前の筆跡。……全部、雑だ。雑で、
誰かが急いだ跡がある。急いでいた理由は一つ。今冬の糧の消え方が、王都の帳簿と合わない」
「隠したい穴が、多すぎる」
「だから僕は、ここで“秩序”を見せろと言う。今日、灰貴会とやり合うだろう。血を出すな。出すなら、値段を払わせろ。――それを僕は“王都に出す”。『罪人街は秩序を取り戻しつつある。今、手を出せば逆効果』」
「時間を買う」
「そう。時間を買う代わりに、僕は証拠を狩る。協力者がいる」「誰だ」
「言えない。だが、ヒントはやる。――お前の元婚約者は愚かじゃない」
 心臓が一拍、乱れた。エリナ。睫毛の震えが、冬の空気に差し込む。
「彼女は“王女”であり続けたい。王の玩具でいたいわけじゃない。
お前が灯りを点けたと聞いて、薬を送った。自分の名を隠して」
「証拠は?」
 エルンストは肩をすくめた。「王都の薬房に『夜の痰』に効く調合が一つだけある。彼女の部屋の帳簿に、材料が“消えて”いた。
言うだけだ。信じるとも信じないとも、お前の自由」
 彼は湯を飲み干し、空のカップを指先で回した。
「犬は犬らしく吠える。明日、お前を連れて来いと王都は言うだろう。僕はうまく“聞き違える”。だから、夜はお前のものにしろ」
「礼は言わない」
「いらない。僕は結果が欲しい」
 エルンストは去った。犬の足音は軽く、影は薄い。だが爪は鋭い。
灰貴会の爪とどちらが早いか、今夜で決まる。
 ◇
 準備に入った。やることは多いが、やるべき順は見えている。
一、灯りを増やす。橋だけでなく水路沿いの細道、秤の周り、塔番が鐘を見渡せる場所。油は足りない。代わりに“塩水布”を用意する。火が走ったら覆う。水だけでは油火は消えない。塩水の重さで抑える。
二、鈴の合図を増やす。ルゥナに“二つ鳴らし”と“三つ鳴らし”を教える。二つは“集まれ”。三つは“止まれ”。子どもに覚えさせる。 三、秤の前に板を並べ、椅子を用意。見物席じゃない。“証言席
”だ。誰でも座れる。誰でも喋れる。喋ったら嘘をつけない。
 四、逃げ道。裏水路沿いに濡れた縄梯子を垂らす。万が一のため。
バルトと“折れ剣”三人に任せる。彼らは剣を抜かない。棒と縄だ。
 日が落ちる。塔番の鐘が四度鳴った。夜の境目。橋の灯りが息を合わせるようにつき、湯気が立ち、人の声が重なる。秤の前は空けた。灰貴会は時間に来る。律儀だ。爪の男は今日も爪をといでいる。
後ろに五人。顔が変わった。昨日より若い。血の匂いを嗅ぎたい連中だ。
「貸しだ」
 爪男が秤の前に立つ。薄い笑い。俺は一歩も引かない。
「今日の借り手は?」
 押し出されるように二人が前に出た。片方は背の曲がった老人、片方は若い男。老人は“水路守”の古い腕章をボロの袖に縫い付けている。若い男の手は真新しい血豆。働いている手だ。
「元金は?」
 老人の借用書は銅貨十五。若い男は十。灰貴会の書き込みはひどい。利の計算が毎週増えている。重ねて、重ねて、沈めるやり方だ。
「二倍までだ」
「うるさい」
 爪男が吐き捨てるように言い、取り立てが老人の肩に手を置いた。その瞬間――鈴が二度鳴る。集まれ。人の輪が締まり、秤の周りが “見える場所”になる。屋台の鍋も歌い手も、視線をこちらに寄せる。
「水を」
 俺の合図で桶が前に来る。中身は塩水。布がひたひたに濡れている。誰かが火打石を隠している気配があったからだ。火は祭りを壊す最短の手段だ。壊し屋はどこにもいる。「まず“重さ”を見る」
 借用書を秤に乗せる。印を乗せる。粉袋をひとつ、ふたつ。目が見る。沈む。浮く。嘘が嘘でいられない場所。
「元金十五、返済済み五、残り十。利は十。二倍は二十。越えた十は“働き”で払う。――水路の泥上げ、夜三度、十日」
「誰が決めた」
 爪男が舌を鳴らす。俺は老人を見た。
「やれるか」
「やる」
 声は弱いが折れていない。水路守の腕章が薄く光る。塔番が遠くで杖を鳴らした。彼も“同意”の音を出す。
「若い者は?」
「元金十、返済三、残り七。利は七。二倍は十四。越えたなし。―
―七を返すために“働き”を乗せるか?」
 若い男は頷く。「橋脚の修繕、縄編み、毎晩二刻」
「受ける」
 秤がコトリと鳴る。重さが決まる。
「茶番はいい」
 爪男が手を払った。「取り立てだ。――おい」
 取り立てが老人の腕を強く引いた。鈴が三度。止まれ。俺は塩水布を掴み、灯りの根元に足をかける。火花が跳ねた。誰かが油を撒いた。布をかぶせ、一気に押さえ込む。火は空気を失って消えた。
周囲がどよめく。爪男の口元に歪みが走る。
「火遊びは高くつく」
 俺は布を片手で押さえたまま、もう片手を上げた。バルトが棒を水平に構え、取り立ての手首に軽く当てる。関節が抜ける音が小さく鳴る。悲鳴は上がらない。上げさせない。音は夜を壊す。「殴れば二倍。刃は五倍。血は十倍。――払えるか?」
 俺の声は静かで速い。爪男の目が細くなり、後ろの若い連中がわずかに足を引く。群れは空気の温度に敏い。彼らは血が高くつく夜を嫌う。
「灰貴会の掟は?」
 俺は反撃に移る。「昔は“掟板”を守っていたんだろう。塔番が言っていた。冬の炭の値、春の水の値。――お前ら、いつそれをやめた」
 爪男が返せない。返せない場所に連れてきた。秤の前、灯りの下、鈴が鳴る場所。
「試しは終わりだ。二ヶ月、秤の前で返す。灰貴会は“見せる”。
見せない取り立ては“凍土”。橋の外」
「誰が追い出す」
「皆だ」
 屋台の主が鍋の蓋で台を叩いた。歌い手が短い節を入れる。粉挽きが手を止めずに頷く。塔番が杖で三度、石を叩いた。合図は揃った。
 爪男は笑った。薄く、蛇のように。
「夜王。お前の秩序は脆い。紙だ。雨で破れる」
「だから灯りがいる。乾かすための」
 爪男は顔の筋を引きつらせ、肩をすくめた。「よろしい。今日は乗ってやる」
 彼は手を打ち、取り立てを引いた。若いのが悔しそうに舌打ちしたが、爪男は首を振るだけだ。群れは引く。引き際を知っている。 秤の前に静けさが戻った瞬間、塔番の鐘が四度鳴った。夜の真ん中。境目をもう一度越える音だ。老人が涙をこらえ、若い男が深く頭を下げる。印が紙からまた別の重さに変わる。俺の胸の針が、またひとつ動いた。
 ◇
 祭りは続いたが、完全な勝ちではない。爪は引っ込めただけ。牙は削れていない。王都の犬も見ていた。黒外套――エルンストは屋台の影から短く手を上げ、去った。彼は結果を持ち帰る。俺は夜を回す。
 片づけが終わる頃、ルゥナが駆けてきた。頬が上気している。
「レオン!」
「どうした」
「おかあ、笑った。粉のパン、食べた。……それと、これ」
 彼女が差し出したのは、小さな包み。上等な布に包まれ、結び目は丁寧。中から出てきたのは、乾かした薬草の束と、小瓶。見覚えのある調合――王都の薬房でしか手に入らないもの。
「誰からだ」
「わかんない。扉の前にあった。紙、ついてた」
 紙を広げる。文字は短く、整っている。癖が少ない。王宮の書記の字か、女の字か、判断はつきにくい。だが、最後の一行だけで十分だ。
――《もう少しだけ、そちらで生き延びてください》
 握りつぶしそうになった手を、意識して緩める。紙は紙だ。信は重い。エリナの名はない。名がないから、なお重い。
「誰のだ?」
 シルヴィアが背後から覗き込む。半面の奥の目が、俺の横顔の筋肉を見ているのがわかる。
「薬だ。効く」
「ふうん。――王都の匂い」
「匂いだけだ」
 俺は包みをルゥナに返した。「母さんに。三滴。朝と夜」
「うん!」
 ルゥナは走り去る。足音が軽い。灯りが彼女を拾う。俺は息を吐き、空を見た。星は薄い。雲が低い。雪が近い。
 橋の端でバルトが立っていた。静かに言う。
「犬は帰った。爪も引いた。……が、影が残った」
「影?」
「屋根の上。王都の影。足音が広い。手が軽い。殺しの匂い」
 暗殺者。王都の“影”部隊。追放者や反逆者を夜に消すための手。
兄の治世が短気なら、影は早い。
「狙いは?」
「殿下……いや、レオンだろう。だが、今夜は動かない。人が多かった。祭りで刃は映える」
「明日、動く」
「動く」
 俺は頷いた。「なら、こちらも先に動く」
 ◇
 深夜、橋の灯りを半分に落とし、秤の前にだけ明るい輪を残した。
周囲は暗い。暗い場所は影の居場所だが、影は光に寄る。光が輪になっていれば、入る瞬間が見える。
 塔番が塔の上で待つ。鈴を持った子どもが三人、屋根を渡る。バルトは橋脚の陰に、折れ剣たちは縄梯子の近くに。シルヴィアは診療所で待機。血の匂いが出たら、すぐ走る。 空気が一度、沈んだ。足音が消える種類の静けさ。風が方向を変え、布がわずかに鳴る。俺は秤の横に立ち、目で夜を測る。
 一歩。二歩。屋根の縁に影。三つ。速い。狙いは真ん中――秤の前に立つ“夜王”。矢か、投げ刃か。
 鈴が一つ。塔番の合図。上からだ。矢が来る。弦の鳴る前の空気の引きつり。俺は半歩左にずれた。矢が石に刺さる代わりに――
 矢は板に刺さった。新しく立てた《夜市掟板》の一番上、太い字の“一”の右側。羽根は白。矢尻は鋭い。柄の根元に、王家の薄い刻印。王都の影の矢だ。
 塔番が鐘を一度、強く打つ。鈴が二度。集まれ。――影は引いた。
今日は“見せる”夜だったのだろう。『届く』という合図。灯りの下で掟板を狙う、正確な矢。
 俺は矢を抜かずに残した。抜くより、刺さっている方が“見える ”。朝になれば街が見る。『王都は見ている』『矢は届く』『だが掟は折れない』――全部まとめて一枚の絵になる。
「始まったな」
 バルトが呟いた。
「ああ。ここからだ」
 俺は掟板に手を置いた。木は冷たいが、矢は熱を持っている。夜の間に、熱は冷め、木は固くなる。朝になれば、塔番が四度、鐘を打つ。犬は来る。爪も来る。影も来る。
 だが、灯りがある。秤がある。印がある。鈴がある。走る子どもがいる。笑う医者がいる。折れた剣が立っている。塔が鳴る。 夜王の仕事は増える一方だ。いい。増えろ。掟の行を増やし、人の“戻れる道”を増やし、灯りの数を増やす。増えたぶんだけ、矢も増える。なら、板を増やせばいい。
 俺は矢の羽根を見た。白い。王家の色。あの玉座の白い冷たさと同じ色。そこに、今は灯りの反射が小さく乗っている。
「――生き延びるだけじゃない。奪い返す」
 声に出すと、胸の針がまた一つ、中央に寄った。夜は深い。だが色がある。次は“昼を奪う”。王都の言い訳より早く、ここに“結果”を積む。
 鐘が遠くで、四度鳴った気がした。風が変わった。雪の前の匂い。
俺は矢の刺さった掟板を振り返り、短く告げた。
「第4話は、“昼を奪う”。」

第4話 昼を奪う
 夜が明けると同時に、矢が刺さった《掟板》を見に来る者が絶えなかった。
 老人も、子どもも、商人も、皆が言葉を交わす。
「王都の矢が刺さっても、板は折れねえ」
「矢より板が強いなら、ここも生き残れる」
 誰かがそう言い、笑いが起きる。
 矢は抜かずに残した。威嚇のためではなく、街の“印”として。
 ――昼を奪う。
 王都の監視が日中に強いなら、昼をこちらの手に変える。
 それが今日の目標だ。

 昼前、橋の下で粉を挽く音が止まった。
 軸が折れたのではない。止めたのだ。
 粉を挽くよりも先にやるべきことがある。
「昼の市を開く」
 俺が言うと、バルトが片眉を上げた。
「夜市だけじゃ足りないか」
「王都の税吏は昼に動く。昼に人がいれば、奴らは無視できない。
 “秩序がある”と王都に思わせる。それが第一歩だ」
 ルゥナが手を挙げる。
「昼の市って……夜みたいに灯りはないよ?」「灯りはいらない。音と匂いを使う」
「音?」
「鐘と太鼓。昼を“鳴らす”。」
 塔番の塔に登り、昼の鐘を三度打たせた。
 その響きが街に広がり、子どもたちが太鼓を叩き始める。
 屋台が開く。粉の匂い、肉の匂い、酒の匂い。
 昼のノクティスが初めて息をした。

 昼市の中央に秤を据え、俺は板を一枚立てた。
 《昼の掟》――
 一、昼の鐘三度の間、売買に刃を抜くな。 二、昼の取引は“夜王印”で良しとする。
 三、昼市で決めた約束は、夜にも通す。
 ルゥナが印を配り、ミコが記録を取る。
 バルトが警備し、シルヴィアは医務棚を出して簡易診療所を開く。
 昼の街が初めて“形”になった。
「昼に商いが立つとはな」
 声をかけたのは爪の男――灰貴会の使い。
 だが今日は爪を磨いていない。
「お前の掟板、王都の矢が刺さってるぞ」
「見た」
「折れなかったな」
「折らせない」
 男は鼻で笑い、昼市の人混みを見回す。「面白い。夜王。昼まで奪うつもりか」
「昼も夜も、人のものだ」
「なら、夜の商売はどうする」
「掟を守る者には開く。破る者は閉じる」
「なるほど。……覚悟はあるな」
「ある」
 爪男は短く笑い、背を向けた。
 背中に陽光が落ち、灰貴会の紋が一瞬、光を返した。

 昼市が終わりかけた頃、塔番が駆け下りてきた。
「王都の使いが来たぞ!」
 馬の蹄の音。砂煙。
 旗は黒、王都の紋章。
 先頭に立つのは、昨日のエルンストだった。
「夜王。王都から“命”だ」
 彼は馬を降り、巻物を差し出す。
 封蝋はまだ熱い。
「『罪人街ノクティスにおける自治行為の一時停止』――陛下の名だ」
 周囲がざわつく。
 ルゥナが怯え、ミコが筆を止める。
「だが」
 エルンストが声を落とした。
「この命は“王都に届く前”の写しだ。お前が持つ掟板を見せろ」 俺は板を指差す。矢が刺さったままの《夜市掟板》。 エルンストはそれを見上げ、微かに笑った。
「……いい。矢の届くところに立てたまま、生き残れ。
 それが、今のところの“命”だ」
 王都は止めに入った。
 だが、まだ手を伸ばすだけだ。
 次は掴みにくる。

 夜。
 塔番が四度、鐘を鳴らした。
 橋の灯りの下、矢の影がまだ掟板に伸びている。
 俺は板の下に新しい行を書き足した。
 《六、昼と夜を選ぶのは、王ではなく街》
 バルトがその字を見て頷く。
 シルヴィアが肩を叩く。
 ルゥナが笑う。
 エルンストの黒外套は、遠く塔の影の中に消えた。
 夜王の手が、昼を掴んだ。
 次は――王都の“心臓”だ。
第5話 心臓に針
 王都――白い大広間は暖かいようで冷たい。壁に掛かる毛皮は厚いが、隙間風が言葉の端を凍らせる。
「ノクティスが“昼の市”を開いた?」
 兄王は短く笑った。笑いは薄い金箔のように剝がれやすい。
「罪人どもが商人の真似か。よかろう、玩具が増えたと思えばいい」
 側に控える宰相が目だけ動かす。「陛下、徴発の名目が弱くなります。『無秩序の鎮圧』が使えぬ」
「なら作れ。火事でも賊でも巫女の呪いでもいい」
 兄は軽く言った。軽い言葉ほど重い血を呼ぶことを、彼は知らない。
 そのとき、扉の影でエリナは睫毛を伏せた。祭服の白は静かに揺れ、指先は紙を挟んでいる。調薬帳から切り取った、小さな空白。文字はない。ただ白い。白は罪の色にも赦しの色にもなる。彼女は胸の奥で短く祈り、微笑を作った。
「陛下。ノクティスの“自治行為の一時停止”――命は?」
「書いた。今夜、伝令を出す」
「そう」
 彼女は窓に目をやる。遠く、冬の光は薄い。「夜でなく、昼に届きますように」
「何だ」
「いえ、何でも」
 彼女は頭を下げ、退いた。背を向ける間だけ、祈りの形をほどき、掌に小さく“印”の字を書く。約束の形。届かない祈りでも、手は覚えている。
 ◇
 ノクティス――昼の市を畳み、夜の灯りを半分点す前に、バルトが低く言った。
「混じった」
「どこに」
「列の中。手つきが違う。金の握りに迷いがない」
 シルヴィアが半面を傾ける。「王都の風?」
「いや、灰の風だ。灰貴会の“針差し”」
 針差し――噂だけ聞いていた。相手の懐に入って小さな穴を開け、時間をかけて腑を漏らす。毒でも刃でもなく、穴。習慣に紛れる“ 単純さ”で崩す。
「どこから入る」
「秤の裏。印の書記の机」
 俺はミコを見る。少年は黙って頷いた。
「紙が減る。数字がずれる。列が荒れる。それから“掟板は嘘だ” って噂が走る。――それが奴らの手筋」
「対策」
 俺が言うと、ミコは手を上げた。
「秤の横で書く。紙は“穴開き”。夜結びは、僕とルゥナしかほどけない」
「もう一つ」
 シルヴィアが顔を近づける。「“嘘の机”を作る。針差しを吸う場所。数字はわざとズラす。拾いに来た手を、掴む」
「罠だ」
「医者のやり方よ。血を引きたがってる静脈に、わざと針を置く」

 決めた。秤の裏に“嘘の机”。紙は綺麗、印は薄い。数字は甘い。ここに食いつく指を“見る”。本物の机は橋脚の影、縄梯子の上。
ミコとルゥナと俺だけが行き来できるように、鈴を一本、梁に結ぶ。 日が傾く。塔番が四度、鐘を鳴らした。人が集まる。歌が始まる。
鍋が沸く。秤の前に、灰色の影はまだ来ない。だが“針の指”は来る。静かに、息のように。
 ルゥナが袖を引いた。小さな囁き。「後ろ」
 嘘の机に影が落ちた。薄い指先。爪は短く、皮膚は硬い。置いた紙を一枚抜く。筆を落とす。夜結びを真似た結びを作る。速い。上手い。
 俺は支える男になり、鍋を運ぶふりで背中をすり抜ける。ミコは視線を落として書き続ける。ルゥナは鈴を指先でつまみ、音を殺す。
 針差しは次の穴に進む。金箱の留め具。外して、戻す。数字を一つ、増やす。列の最後に“偶然の喧嘩”が起きる。二人が肩をぶつけ、皿が割れ、誰かが怒鳴る。――美しい流れだ。崩しの美学。俺は感心しつつ、心で舌を鳴らす。
 “止まれ”の鈴を鳴らすわけにはいかない。まだ早い。人の流れは掴めている。掴んだまま、指を定位置に誘導する必要がある。
「鍋、足りない」
 俺は大声で言い、屋台の主に印を二枚渡した。「秤前に二つ追加。無料。“掟に拍手”の鍋だ」
 人が秤に寄る。拍手が起きる。針差しは一瞬だけ顔を上げ、視線をずらした。鼻の穴が小さく広がる。汗の匂い、油の匂い、粉の匂いが混ざる。指は再び動く――嘘の机の下、板の継ぎ目。そこで止まる。板が“ない”。空洞。俺が昼間に抜いておいた。 指が空を掴んだ一瞬、ルゥナの鈴が“二”と“半”の曖昧な音を鳴らす。合図は“見ろ”。バルトが柱の影を動き、シルヴィアが半面の奥で目を細める。ミコが筆を止め、俺が前へ一歩。
 肩が触れる。針差しは反射で半歩下がり、背中を梁に当てた。梁から落ちる細い縄が、彼の肩甲骨に沿って落ち、腕に絡み――“夜結び”。解こうとすれば、肘が締まる。暴れれば、結びが深く沈む。
「……っ」
 短い息。声を上げない訓練が行き届いている。良い手だ。惜しいくらいに。
「穴開けは嫌いじゃないが、場所を選べ」
 俺は小声で言い、彼の手元から薄い針を抜いた。指先が震えない。
訓練の種類が見える。灰貴会の針差し。しかも“修道院上がり”。
祈りの呼吸で痛みを流す型。
「誰に言われた」
 針差しは目を逸らす。俺は頷き、ミコに顎をしゃくった。ミコが静かに金箱を開け、欠けた数字を指でなぞる。列の最後の喧嘩は、屋台の主が笑い話に変えている。崩れない。壊れない。灯りは揺れるが消えない。
 縄を解かないまま、俺は針差しの背を通路の端に寄せた。「“掟板”の前へ。座らせる」
「晒すの?」
 シルヴィアの声には皮肉があったが、目は冷静だ。
「晒さない。喋らせる。――“戻れる道”を示す」
 掟板の前、証言席。針差しを座らせると、人の輪の温度が一度下がる。恐れと好奇の混合。俺は手を上げた。
「この男は“針差し”。数字をずらし、金を漏らし、街を穴だらけにする手だ。だが今は、座っている。誰も殴るな。殴れば二倍。刃は五倍。血は十倍」
 静けさが厚くなる。針差しの喉仏が一度上下する。俺は続けた。
「掟に“六”がある。『戻れる道は必ず示す』。――針差し。お前が穴を覚えてきたように、“塞ぐ”方法も覚えられる。塞げ。十夜。
秤の下、橋脚、屋根。全部の穴を見つけて塞げ。夜王印は“働き” で支払う。逃げたら、橋の外だ」
 ざわめき。誰かが「甘い」と言い、誰かが「それでこそ」と言う。塔番が杖で石を一度叩く。統一の合図。街の呼吸が揃う。
 針差しは沈黙したまま、やがて小さく頷いた。祈りの呼吸。諦めではなく、受け入れの動きだ。
「名前は?」
「……デイル」
「デイル。十夜で穴を塞げ。塞いだ数だけ、印に刻む。――お前の
“戻り道”だ」
 人の輪が少し緩む。張り詰めた糸が返る音がする。シルヴィアが肩をすくめた。「医者いらずなら助かるけど?」
「針は手袋を貫く。油断はしない」
 バルトが短く頷いた。「見張る」
 ◇
 夜更け、エルンストが橋の影に現れた。黒外套は灯りを嫌い、境目を歩く。
「針差しを捕ったと聞いた」
「“塞ぐほう”に回した」
 エルンストは一瞬だけ目を細め、次に柔らかく息を吐いた。「そのほうが証拠が残る。穴の位置、手順、指示系統」「王都に持っていくのか」
「持っていく。……それと、王都から伝令。『自治行為の一時停止』は――明日の昼に“届く予定”だ」
「予定?」
「伝令は馬が遅れる。路が凍る。橋が落ちる。塔の鐘が迷う。いろいろある」
 彼は肩をすくめた。笑いは相変わらず口元で止まる。
「それと、王城から書付が一枚。お前の“婚約者の部屋”で見つかった走り書きだ。正式な文ではない」
 差し出された薄紙には、短い線だけがあった。直線が二本、平行に引かれ、その間に小さな“点”。下に小さく“L”の文字。―― レオンの頭文字。
「これは?」
「道の印だ。王城の裏廊の、二本の廊下と渡り廊下の位置。『点』は隠し扉。そこに“遺書の原紙”があるという示唆かもしれない。あるいは罠。だが、書いた手はおそらく――」
 エリナ。言われなくてもわかる。癖の少ない筆圧、余白の取り方、紙の選び方。王宮で学んだ“きれいな手”の書だ。
「僕は犬だ。王城の裏廊に勝手に入れない。――夜王。君の手のほうが届くかもしれない」
「どうやって」
「灯りで。塔番に鐘を三度鳴らせ。昼に。犬と爪の耳は昼に曇る。君は夜に動け」
 彼は身を翻し、半歩だけ戻って囁く。「明日、王都の“影”が動く。矢ではなく手。掟板は狙わない。君を狙う。橋の下、右側。水の流れが緩いほう」
「ありがとう」
「礼はいらない。結果だ」
 エルンストは闇に溶けた。犬は犬らしく吠えず、走った。
 ◇
 星は薄い。風は雪前の匂いを運ぶ。橋の下の水音は控えめで、右側の流れは確かに緩い。影はそこを選ぶ。塔番に昼の鐘を三度打たせ、街の視線を“上”に引き付けている間に、俺は“下”に落ちる。
 縄梯子。濡れた石。冷たい藻。足場は悪い。だが、足音は吸われる。灯りは上にある。下は目に入らない。――影の動線が見える。
王城で何度も見た。礼の裏の行進。静寂の手順。
 背後に気配。水の跳ね。刃が寝かされ、息が殺される。
「夜王」
 ささやきは風の音と混ざり、意味を隠す。俺は返事をしない。体を半歩ずらす。刃が通り過ぎる。肘で手首を抑え、膝で踏む。水音を上げない角度。影はもう一人。縄。夜結び。足首。引く。石に当てず、藻に沈める。
「……訓練を受けてる」
 バルトの声が上から降る。いつのまにか橋脚の陰にいた。折れ剣が二人、左右を塞ぐ。影は多くない。三。矢の夜ではない。手の夜。
掟板ではなく喉を狙う夜。
「殿下」
「レオンだ」
「――レオン」
 影の一人が息を取り戻し、低く言う。「命は“連れ帰れ”だった。
生かして、連れ帰れ」
「誰の命だ」
「言えない」
「なら、戻れ」
 縄を強く引き、脈を確かめる。死なせない締め方。戻れる道。ここでも同じだ。敵にも戻り道を作る。戻る場所が腐っていれば、戻っても腐るだけだが――腐りは匂う。犬が嗅げば、掘り返せる。
 影を縛めて橋上に上げると、塔番の鐘が四度鳴った。昼と夜の境。雪が降り始める。白い点が灯りに落ち、溶け、また落ちる。
 掟板の前で、俺は新しい行を刻む。凍る前に、息を吹きかけ、指で温め、刻む。
 《七、影もまた人。縛めるは刃に非ず、掟にて》
 シルヴィアが半面の奥で苦笑する。「きれいに書いたね」
「汚く書けば、読めない」
「読ませたいのは誰?」
「街。――そして、王都の“影”」
 バルトが短く頷いた。「心臓に針を刺すなら、先に自分の鼓動を整えろ、だ」
「そうだ」
 俺は板の木目に掌を当てる。木は冷たいのに、内側に熱がある。街の心臓の熱。灯り、秤、鈴、走る足、笑う声、鐘の音。全部が鼓動だ。
 夜はさらに深くなる。だが、矢よりも針よりも、深く通るものがある。掟の行、印の紙、そして“戻れる道”。それが、王都の白い冷たさに穴を開ける。“小さな穴”は、いずれ大きな亀裂になる。
 ――心臓に針を。だが折らない針を。
 刺して、血ではなく、鼓動を思い出させる針を。
 雪の匂いが濃くなる。塔番が杖で石を一度叩いた。合図。明日は “裏廊”。王都の心臓に、別の針を。

第6話 裏廊の灯
 雪は、夜の王都を静かに覆っていた。
 塔番の鐘が三度鳴り、ノクティスでは昼を告げるその音が、王城では“裏の刻”を意味する。
 誰もが食事を終え、廊下を行く足音だけが響く――そのわずかな隙に、俺は動いた。

 エルンストから渡された図を思い出す。
 二本の平行な廊下、その間に小さな点。
 点は「隠し扉」――そして、エリナが書き残した“L”の印。
 灯りを持たず、壁の蝋燭に映る影の角度だけで進む。
 指先で石壁を撫でると、指の腹に違和のある箇所があった。
 押す。
 わずかな空気の揺れ。
 音もなく、壁が横に滑る。
 中は狭い。乾いた空気。
 机と、棚。
 机の上には一枚の書類があった――羊皮紙、王家の封蝋。
 “副長の遺書”と書かれた題。
 震える指で封を切る。
 そこに書かれていたのは―― 『レオン殿下の命により、糧倉を移送した』
『証人として王女エリナが確認した』
 だが、文字の流れが不自然だ。 筆圧が三行目で変わっている。
 書いた者が変わった。
 筆跡を追う。
 後半の行は、見覚えのある形だった。
 王女の字ではない。彼女の侍女の手、ナナ。
 字を整える練習を手伝ったことがある。
 ――なら、この遺書は途中から“書き換えられた”。
「やっぱり、来たのね」
 背後から声。
 ゆっくりと振り向く。
 薄布のベール、金糸の髪。
 エリナだった。
「王都の影は?」
「外で待たせたわ」
 彼女は一歩近づき、机の上の書を見た。
「あなたが無実だと、誰にも言えなかった。
 兄上に逆らえば、王家が割れる。……それでも、あなたに届く道が欲しかったの」
「届いた」
「ええ。でも、遅かった」
 彼女の手が、机に残る封蝋を握り潰す。
 薄く涙が光った。
「ノクティスで、あなたは“王”になったそうね」
「王じゃない。掟を作っただけだ」
「掟は王より強いわ」
 彼女は微笑む。
 その笑みが、記憶の塔を一瞬で崩した。
「……この文書を持ち出せば、あなたを罪人にした証拠になる。
 でも、それだけじゃ王を倒せない」
「だから、これを“灯り”にする。
 真実は燃やすものじゃない。照らすものだ」
 彼女は頷き、懐から小瓶を取り出す。
 淡い青の液体――見覚えがある。ノクティスで母子を救った薬。「あなたの街へ、これをもっと送りたい。けれど、私の立場ではもう……」
「俺が取りに行く」
「無茶をしないで」
「無茶しかしてない」
 ふっと、彼女が笑う。
 その瞬間、外の石廊で金属音が鳴った。
 刃の交わる音。
「見つかった!」
 エリナが声を詰まらせる。
 扉の外で、影の男たちが動く気配。
 エルンストの警告が脳裏をよぎる――“矢ではなく手”が来る、と。
「行って、レオン!」
 彼女が机を押し、壁の反対側の出口を開く。
「これは私が持っていると怪しまれる。……あなたが、外で証にして」
 俺は遺書を懐に入れ、彼女を見た。
「必ず戻る」
「そのときは、昼の鐘を聞かせて」
 壁を抜けると、冷たい風が頬を打った。
 外は雪。
 城壁の下を走り、石段を駆け下りる。
 背後で鉄の扉が閉まる音がした。
 胸の中で、紙の端が汗に濡れ、重くなった。

 ノクティスの塔に戻ると、鐘が四度鳴った。
 街はまだ眠らない。
 ルゥナが走ってきて、息を切らす。
「レオン! 王都の犬が……!」
「知ってる。準備を」
 俺は懐の文書を出し、塔番に預けた。
「塔の最上段、矢が届かぬところに保管を」
「守ろう。命よりも堅く」
 外では、雪の音がまた強くなる。
 夜の底に、灯りの輪がひとつ、ふたつと増えていく。
 矢も針も届かないその輪が、確かに街の“心臓”を動かしていた。 ――掟板の次は、王座だ。
 それを奪うのは、剣ではなく“信”。
 俺は拳を握り、雪を掴んだ。
 指の中で溶けた水が、熱を伝える。
 夜王が、再び歩き出す。
(続く)

第7話 雪の告示
 雪は止まない。屋根の縁から白が垂れ、橋の欄干に指の跡がつく。
塔番は最上段で書付の箱を抱いたまま、鐘の縄に手をかけている。
中の羊皮紙――王都が偽った“遺書の原紙”は、まだ温い。
「どうする、レオン」
 シルヴィアが半面の裏で目を細める。バルトは橋脚の陰で縄を点検している。ルゥナは走る準備で靴紐を固く結んだ。
「晒す。だが“燃やすため”じゃない。街に“読ませる”」
「王都の文言を?」
「要約して、掟板の横に『雪告(ゆきごくじ)示』として貼る。全文は塔で保管、写しは三枚。ミコ、書けるか」
「書ける」
 ミコは凍えた指を擦り、板に紙を固定した。俺は短く区切った文を口にする。嘘の継ぎ目、筆圧の変化、証人名の捏造――地の文でなく、誰にでも分かる言葉で。
「『三の行より筆が変わる』『副長の死後の証言』『王女の侍女の筆跡』……」
「『王都は焦っている』も書いとく?」
 シルヴィアが茶化す。俺は首を振った。
「感情は要らない。事実だけ。読む者に“考えさせる”」
「はい、王子先生」
 彼女は半面の口元を上げ、薬棚から墨の凍り止めを出してミコに渡した。
 塔番が鐘を四度鳴らす。昼と夜の境目。雪の粒が揺れ、街の視線が掟板へ集まる。俺は新しい行を刻んだ。 《八、証は灯り。声でなく、目で示す》
 刻み終えると、ミコが写しの一枚を掲げる。文字は大きく、歪みがない。ルゥナがそれを胸に抱え、橋の向こうへ走る。二枚目は礼拝堂の前、三枚目は水車の脇。塔には原紙と共に、写しの裏に“印 ”。
「雪告示だ!」
 誰かが叫び、輪ができる。読める者が声に出し、読めない者が耳で追う。疑いは“怒り”より遅いが、深く潜る。沈黙が厚くなり、鍋の湯気に塩の匂いが混じった。
 ――その匂いに、灰貴会は牙を見せる。
 橋の端、昨日とは別の“爪”が現れた。背が低く、手が太い。火薬袋を二つ提げ、笑うと歯茎が赤い。
「灯りは見た。次は粉を見せろ」
 彼が火打石をかざす。合わせて三人が水車の根に油を撒く。風は弱い。火事には最適な夜だ。
「撒くな」
 俺が言った瞬間、塔番が鐘を一度だけ強く打った。合図。橋の下の堰板が外れ、溜めた水が噴き出す。水車が唸り、根元から白い飛沫が立つ。油の筋に塩水布が飛び、ルゥナと子どもたちが濡れ布を投げる。炎が上がる前に“重さ”で潰された。
「っ……!」
 爪が火打石を落とす。バルトが棒で軽く払って彼の手首を“鳴らす”。派手さはないが、痛みは深い。取り巻きが一歩引く。群れは温度で動く。雪は冷たい。彼らの勢いはそこで止まった。「掟を読め」
 俺は指さす。八の行が雪を吸って黒く濃い。爪は顔を歪め、唾を吐こうとして、吐けない。人の目が多すぎる。“証”を目の前にして嘘はつきにくい。
「夜王。読み書きできねえ魚にも“証”が食えるのか」
「食える。粉になるまで擦る。そうやって“消化”する」
「上手いこと言う」
「上手いことじゃない。やることだ」
 爪は肩をすくめ、気配を消した。「今夜は寒い。……凍る前に引く」
 奴らは雪の網に紛れる。追わない。追えば流れが乱れる。秩序は
“見る側の時間”で固まる。
 雪告示の輪が一段落した頃、黒外套が現れた。エルンストは雪を払わず、そのままの姿で秤の前に立つ。
「王都から正式に来た。命の写しと、もう一通」
 彼は巻物を二本掲げ、一つを俺に渡す。封蝋は王の紋、もう一つは法務院の印。
「『自治行為一時停止』と、『公開尋問の許可』」
 周囲がざわつく。エルンストは肩をわずかにすくめた。
「前者は陛下、後者は院長。相反する。だから“現地裁量”だ。―
―王都の言い訳が足りないうちは、秤をこちらに任せたい」
「公開尋問、どこで」
「ここで。掟板と秤の前。証人は三人まで。質問は十五まで。王都の人間が“立会い”」
「犬が見てる間に、王の嘘を“目で示す”」
「そうだ」
 エルンストは声を落とす。「だが、お前を連れ帰れという命も生きている。誰かが“手柄”を欲しがっている」
「来るのは誰だ」「黒い帷の馬車。雪を裂いて走る。……宰相の使いか、あるいは“ 金庫番”」
 金庫番――王都の裏金の主。糧倉の鍵の本当の行き先を知っている男か。
 塔番が鐘を三度鳴らす。昼の合図だが、雪の夜に鳴ると音の輪郭が違う。耳が冷たく、音は遠くへ滑る。俺は頷き、声を張った。
「明日、昼の鐘《三》の後、『公開尋問』をここで行う。証人は塔番、近衛“折れ剣”のバルト、灰貴会の“針差し”デイル。――王都の立会いのもと、“雪告示”の真偽を秤にかける」
 人の輪が膨らみ、音が街路に広がっていく。誰かが歌いだし、鍋の蓋が二度叩かれる。沈黙ではなく“待ち”の音だ。
「……で、殿下」
 バルトが低く言う。俺は目だけで制す。「レオンだ」
「レオン。黒い帷が来た」
 雪の幕の向こう、灯りの端に、闇を切り裂く尖った影が現れた。車輪は大きく、幌は分厚い。馬具は黒い革。御者台の男は顔を布で覆い、背筋がまっすぐだ。後ろに二騎。いずれも剣を高く持たないが、動きが軽い。王都の“動く金庫”の匂いがする。
 馬車は橋の手前で止まり、帷が内側から開いた。ふくらんだ毛皮の襟、細い指、乾いた目。降りてきたのは、宰相でも将でもない。
細身の男で、髪に雪が似合わない顔。だが歩き方に隙がない。
「夜王殿。……初めまして」
 声はやわらかいが、温かくはない。男は薄く笑い、握手を求めるでもなく、秤の石台に視線を落とした。
「私は王都金庫局・主計頭、(しゅけいのかしら)カーデン。糧倉の勘定は、私の責任だ」
 ざわめきが走る。エルンストの視線が鋭くなった。シルヴィアは半面の裏で舌を打ち、ルゥナは印の束を握り直す。バルトは一歩、間合いを詰めた。
「公開尋問の“立会い”に参った。――それと、もう一つ」
 カーデンは雪告示の紙に目を通し、ゆっくりと首を傾けた。
「この“証”。面白い。だが、紙は風で破れる」
「だから板に刻む」
「板は火で焼ける」
 彼は笑っていない目で笑い、指を鳴らした。後ろの騎が箱を降ろす。金ではない。秤の分銅と、鋼の印板。王都式の“公印”の道具だ。
「王都の秤で、王都の印で、“ここで”測ろう」
 挑発か、賭けか、あるいは“握り”。俺は一拍置き、頷いた。
「秤は歓迎する。印も。――ただし、『問』は俺が選ぶ」
「よろしい」
 カーデンは分銅を石台に置き、雪を払った。「明日、昼の鐘の後。嘘が重ければ、沈む」
 風が強くなる。雪片が灯りを踊らせ、影を伸ばす。塔番が夜の鐘を四度鳴らした。境目。俺は掟板に手を置き、新しい行の位置を探る。今は刻まない。明日の“問”のあとに刻む。
 その夜――灰貴会の爪は影に潜り、王都の犬は遠巻きに輪を作り、主計頭の馬車は塔の見える距離で止まった。誰も寝ない。鍋だけが静かに音を立て、ルゥナの足音だけが路地から路地へ“印”を運ぶ。
 ミコがふいに顔を上げる。「レオン。字は、どこまで大きくする
?」
「一番遠い屋根から読める大きさで」
「屋根の雪が邪魔だ」
「なら、声も用意する。読む者を三人立てる。塔番、歌い手、それと――」
「エリナの声があれば一番通るんだけどね」
 シルヴィアの不用意な一言に、胸がひやりとした。だが、否定はしない。彼女はもう、自分の声の置き場所を選べない。だから俺たちが“置き場”を作る。
 雪はさらに深くなった。夜王の街は白に塗られていく。白は罪の色にも赦しの色にもなる。俺は灯りの輪を一つ増やし、塔に向かって短く告げた。
「明日の問は十五。嘘は五、事実は十。――沈むのはどちらだ」
 塔番が杖で石を二度、軽く叩いた。合図。“聞いた”。
 バルトが棒を肩に担ぎ、見張りの位置を変える。
 シルヴィアが薬と布を整え、ルゥナが最後の印束をポケットにねじ込む。
 エルンストは黒外套の襟を立て、主計頭の馬車を横目に、見えない犬歯を隠した。
 雪は止まない。だが、灯りは増えた。
 掟板の八の行が、白の上で黒く、強く、静かに立っている。
 ――明日、秤の上で“王都”を量る。
 夜王は、深く息を吸った。

第8話 秤の前の問い
 昼の鐘が三度鳴る。
 雪の光を弾いた塔の影が、掟板の前に落ちる。
 その下に、三人の証人と一人の王都使、そして俺。
 街のすべてが“見る者”になった。

 塔番が杖を鳴らした。「これより、公開尋問を始める!」
 声が雪の反響で広がる。
 秤の台には、王都から持ち込まれた鋼の分銅と印板が並ぶ。
 主計頭カーデンが静かに手を上げた。
「では、夜王レオン。あなたの罪と称された“糧倉移送事件”について、
 まず、あなた自身の言葉で説明していただきましょう」
 俺は一歩前へ出た。
「俺は、腐った糧を民に食わせたくなかった。
 だから、寒村に回るはずだった穀を、別の倉へ移した。
 王都はそれを“横領”と呼んだ」
 ざわめき。
 カーデンは冷笑を浮かべ、次の巻物を開く。
「王都法務院に記録がある。“副長の遺書”によれば、あなたの命で移送が行われたと」
 俺は懐から紙を取り出した。
 羊皮紙の、筆跡が途中で変わる“原紙”。
 塔番が前に出て受け取り、秤の右皿に置く。
 左皿には、カーデンが持ち込んだ王都の写し。
 分銅が置かれる。
 秤は、わずかに左へ傾いた。
「王都の写しのほうが重いようだ」
 カーデンが勝ち誇るように言う。
 だが塔番は眉をひそめた。
「封蝋の中身が違う。蝋に“砂鉄”を混ぜて重くしてある」
 ざわり、と人々が息を呑む。
 俺は言った。
「“重さ”は真実の証じゃない。
 けれど、混ぜものをすれば、どんな秤でも傾く。
 それを俺に向けて作ったのが、この“遺書”だ」
 ルゥナが紙の端を掲げる。
「見て! 三行目の筆が変わってる!」
 ミコが読み上げる。
「“副長の死後の証言”――死んだあとに証言できるの?」
 笑いが起こる。だが、それは嘲笑ではなく“納得”の音だった。

 カーデンの頬が引きつる。
「筆跡など、子どもの遊びにすぎない。証人を出せ」
「なら、出そう」
 俺は橋の向こうを見た。
 雪を踏みしめ、黒外套が一歩ずつ近づく。
 ――エルンスト。
 彼は立会い人として出ることを許された、ただ一人の王都人だ。
「この遺書を届けた使者を、覚えているか」
「覚えている」
「誰だ」
「主計頭カーデンの書吏、《ナナ》――王女エリナの侍女でもある」
 群衆がどよめく。
 カーデンが一瞬、視線を逸らす。その目に、初めて“焦り”が見えた。
「その侍女は二日前、王都で“失踪”しました。
 ――死体は見つかっていない」
 エルンストの声は低いが、雪より鋭い。
「遺書の後半を書き換えた手が、その侍女のものなら、
 彼女を消したのは“遺書の中身”を隠したい者だ」

 カーデンは叫ぶように笑った。
「夜王! これはただの見世物だ!
 秤など、雪の上では役に立たない!」
「そうだな」
 俺はゆっくりと秤の台に手をかけた。
「だからこそ、王都の秤を“ここに持ち込ませた”んだ」 俺は右の皿に、王都の分銅ではなく――ノクティスの印石を置いた。
 街の者が作った、ただの石に“印”を刻んだだけのもの。
 けれど、それは“働いた手”が押した重みだ。
 秤は、中央で静止した。
 どちらも沈まない。どちらも浮かない。
 ――真実の針は、止まった。
「これが“秤”だ。
 王都の印も、街の印も、どちらかが上でも下でもない。
 ただ、針が揺れないところに“正しさ”を置く」
 塔番が鐘を鳴らした。
 雪の中に、澄んだ音が広がる。
 群衆の中で、誰かが拍手をした。
 ひとり、またひとりと音が増え、白い夜に波のような響きが生まれる。

 カーデンは歯を噛み、拳を握った。
「このままでは終わらん。陛下は黙っていないぞ!」
「黙らせる。――次は“心臓”に針を打つ」
 俺の言葉に、彼の表情が止まった。
 その瞬間、塔番の上で赤い閃光。
 王都の旗の色。
 ――矢だ。
 だが狙いは俺ではなく、掟板の“八の行”。 火矢が突き刺さり、墨が焼ける。
 ルゥナが叫び、子どもたちが布で覆う。
 だが、焼け残った一文字が、雪の中で黒く浮かんでいた。
 《目》――証は“灯り”。
 カーデンが顔を背ける間に、エルンストが俺に囁いた。
「撃たせたのは宰相か、兄王か。……だが、これで分かった」
「何が」
「矢が届くってことは、城壁の内側に“味方”がいる。
 王都も、割れ始めた」

 夜、雪はさらに深くなった。
 掟板は半分焦げて黒いが、立っている。
 塔の鐘は四度。
 俺は焼け残った部分に、新しい行を刻んだ。
 《九、針が止まるところに、真実を置く》
 バルトが肩をすくめる。「ずいぶんと簡潔だな」
「簡潔じゃなきゃ、覚えられない」
「次はどうする」
「王都の“心臓”を奪う」
「どうやって」
「灯りで。――城の中にもう一度、光を点す」 雪の夜。 黒外套の犬は月を見上げ、街の子どもたちは鈴を鳴らす。
 その音が王都まで届くことを、俺は知っている。
 矢も針も届くなら、灯りだって届く。
 ノクティスの空に、灯りが三十、四十と増えていく。
 雪を透かして、王都の白壁に映える。
 そして――遠く離れた王城の窓で、
 一つの蝋燭が、同じ時に灯った。
 エリナが灯した小さな炎だった。
(続く)

第9話 王の影
 夜の王城は、音を立てずに息をしていた。
 雪明かりが薄く差し込む廊下の奥、ひとつの蝋燭が微かに揺れる。
 その前に、白い指先を組んで座る影。
「……燃えぬものなど、ないのだな」
 兄王――アーネスト・アルヴェインは、掌の上で小さな紙片を燃やした。
 燃え残ったのは“L”の一文字。
 彼は灰を払うように指を振り、窓越しに雪を見下ろした。
 下界の遠い光――ノクティスの灯火が見える。
 それはまるで、王都の底に浮かぶ星の群れのようだった。
「弟のくせに、ずいぶん騒がしい」
 彼の背後に立つのは、宰相オズリック。
 長身で、声が低い。
 アーネストはグラスの中の酒を軽く揺らした。
「“夜王”だと。愚民はすぐ名前を欲しがる。
 秩序を作る者には、いずれ神話がつく。――厄介なことだ」
「処置を?」
「するさ。だが、剣ではなく、針だ。痛みを遅らせて、見せしめにする」
「例の主計頭カーデンを?」
「奴は使い捨てだ。王都の秤が傾いた時、真っ先に落とす重りになる」
 アーネストは微笑んだ。
 笑みは氷の表面に映る光のように薄く、冷たい。
「それより、エリナだ。……彼女の部屋から、あの走り書きが見つかったと聞いた」
「確認済みです。扉には鍵を」
「いや、閉じるな」
 王はゆっくりと立ち上がり、窓辺に近づいた。
「光は閉じ込めるほど強くなる。
 どうせなら、彼女の灯りで“夜王”を呼び寄せるほうが早い」
 その声には、かすかに狂気が混じっていた。

 ノクティス。
 雪明けの朝は白く、静かで、そして重い。
 塔番が鐘を鳴らす前に、俺は橋の上で冷気を吸い込んだ。 夜明け前に届いた報せは一つ――「王都の宰相、動く」。
 エルンストの暗号だ。
 犬が吠えれば、爪も動く。今日中に、必ず報復がある。
「レオン!」
 ルゥナが駆けてくる。頬が真っ赤だ。
「さっき、北の道で王都の旗を見た! 二十騎!」
「堂々と来るか……」
 バルトが背の剣を確かめ、うなった。
「戦支度は?」
「させない。これを“戦”にしたら、終わりだ」
 俺は橋の端を見渡した。
 雪に濡れた掟板はまだ立っている。焦げた八の行の下に、昨日刻んだ九の行が輝いていた。 ――針が止まるところに、真実を置く。
「バルト、秤を動かせ。ミコ、記録を。ルゥナ、鈴を三度鳴らせ」
 命じると同時に、鐘の音が重なる。
 塔番の鐘が空を裂き、街が動いた。

 午前。
 黒帷の馬車が再び現れた。
 昨日の主計頭カーデンが、今日は鎧をまとっている。
 肩の紋章は王家の双竜。
 つまり――「王の直接命令」だ。
「夜王レオン。陛下の命により、貴殿を拘束する」
「罪状は?」
「国家反逆。秩序の簒奪。そして、王女への接触」
 最後の一文に、群衆がざわめく。
 ルゥナが歯を食いしばる。
「“接触”って……!」
 俺は手を上げて制した。
「俺は逃げない。秤を使え。証で測る」
「秤など不要。――これが“王の秤”だ」
 カーデンが剣を抜く。刃が日光を弾く。
 その瞬間、橋の下から鐘の音。
 鈴の三度鳴る音。
「“集まれ”だ!」 ルゥナが叫ぶ。 街が動いた。
 粉屋が袋を抱え、医師が布を掲げ、塔番が旗を振る。
 橋の両側から人が集まり、秤の周囲に輪を作る。
 それは兵でも軍でもない。
 ――市。
 カーデンが唇を歪める。
「民を盾にするつもりか」
「盾じゃない。“目”だ」
 俺は一歩前に出る。
「昨日も言った。“証は灯り”。
 今ここで俺を斬れば、王の刃が“証”を焼く光景を、
 この街の全ての目が見ることになる」
 カーデンは息を詰めた。
 彼の背後に控えていた騎士たちが、一瞬だけ目を泳がせる。
 その隙に、エルンストが黒外套のまま前に出た。
「主計頭殿。陛下の命を受けているなら、文を見せろ」
「……口頭命令だ」
「なら、秤にかけるまでもない」
 エルンストは短く笑い、雪を踏みつけた。
「王が“秤”を持たぬなら、ここが国の秤になる」

 沈黙が走った。
 雪の粒が舞い、空気の色が変わる。
 俺は掟板の前に立ち、手を広げる。
「――問う。
 王とは何だ。剣を持つ者か、秩序を作る者か」
 塔番が鐘を鳴らす。
 街の屋根が震えるほどの音。
 ルゥナが泣きながら鈴を振る。
 雪告示の紙が風に舞い、焦げた行の上に貼りついた。
 《証は灯り》
 その下に、新しい行を刻む。
 《十、秤を奪う者は、王に非ず》
 ミコが震える手でそれを書き写す。
 街の人々が息を詰める。
 その時――
 黒帷の馬車の中から、細い手が見えた。
 白く、震えている。
 その指が、帷をわずかに開く。
 見えたのは、金糸の髪と、涙の瞳。
「レオン……」
 エリナだった。
 王女自ら、馬車の中に監禁され、連れて来られていたのだ。
 彼女の唇が動く。
「逃げて……兄上が、ここに……!」 その瞬間、空気が裂けた。 遠く王都の方角――高台の上で、
 “白い旗”が燃え上がる。
 王の紋章が、炎に飲まれた。
「――やつが来る!」
 エルンストが叫ぶ。

 轟音。
 雪の空を裂いて、馬群が降りてくる。
 白銀の鎧、紅のマント。
 その先頭に立つ男――兄王アーネストが、剣を掲げていた。
「夜王レオン・アルヴェイン!
 我が血に逆らう者よ――その灯り、今ここで断つ!」
 剣に纏う光が白く輝く。
 雪を弾き、氷を割り、空の色を変える。
 俺は掟板を振り返り、最後の行を見つめた。
 針が止まるところに、真実を置く。
 ならば――その針を、王都ごと止めてやる。
 塔番の鐘が五度鳴った。
 昼でも夜でもない、“決戦”の鐘だ。
 夜王と王。
 兄弟の秤が、今、雪の上で揺れ始めた。
(続く)

第10話 兄弟の秤
 風が鳴いた。雪の粒が一斉に吹き上げられ、視界が白に溶ける。
 その真ん中で、二人の影が向かい合った。
 ――兄王アーネスト。
 王の冠の下の瞳は、血のように赤かった。
 俺は、掟板の前に立つ。背後には街の灯、前には玉座を背負った男。
 夜と昼が、秤の上でつり合う。
「レオン。まだ間に合う」
 兄の声は静かだった。
「膝を折れ。夜王ごっこは終わりだ。お前はこの国の“飾り”に戻ればいい」
「……飾りで済むなら、民は寒さで死ななかった」
 俺の言葉に、兄の眉がわずかに動く。
「理屈を語るか。弟らしい」
「理屈を捨てた王に、誰がついていく」
 アーネストは笑った。
 その笑みは、雪を焦がすほど冷たい。
「誰がついてくるか? 全ての“秩序”がだ」
 剣を抜く。白光が雪を裂く。
「王の命は、法。お前の掟など、紙の遊びに過ぎぬ」

 轟音が走った。
 王の剣から放たれた光が、掟板をかすめ、雪を蒸発させた。
 板が一瞬で焦げ、黒煙を上げる。
 だが倒れない。塔番が縄を引き、後ろで支えていた。
 バルトが叫ぶ。「殿下、下がれ!」
「レオンだ!」
「――レオン!」
 俺は兄の剣先を見据えた。
 刃の光の奥、ほんの僅かに震える手首。
 そこに迷いがあった。
「兄上。あなたは、俺を憎んでいない」
「……黙れ」
「憎めないのは、王の血よりも、人の血を知ってるからだ」
「黙れ!」
 アーネストが踏み込み、刃が閃いた。
 地面の雪が爆ぜ、俺の頬を掠める。
 冷たい血が一滴、雪を染めた。 だがその瞬間、矢が一閃した。
 ――王都の方角から。
 黒外套の犬、エルンストの放った矢が、王の剣を弾いた。
 金属の音が空を裂く。
「兄弟喧嘩にしては、やりすぎだ」
 エルンストが歩み出る。
 黒い外套の裾が雪を払う。
「王都の犬が、弟に尻尾を振るのか」 アーネストが吐き捨てる。「犬は“針”の匂いを嗅ぐ。……王の心臓に刺さった針を、嗅いでるだけだ」

 風が止んだ。
 雪の向こう、エリナが馬車から降りた。
 手を震わせながら、兄と弟の間に立つ。
「兄上、もうやめて。――この国は、もう血で温まらない」
「下がれ、エリナ!」
「嫌です!」
 彼女の声が雪を貫いた。
 その細い腕が掟板の焦げ跡を撫でる。
「見てください。
 レオンは“秩序”を作ってる。あなたは“恐れ”を作ってる。
 どちらが王ですか?」
 アーネストの剣が、僅かに下がった。
 だが、その瞬間――
 背後の兵が叫ぶ。「陛下、危険です!」
 誰かが引き金を引いた。
 矢が、空を裂いた。
「――エリナ!」
 俺は叫び、身体が勝手に動いた。
 矢が白い線を描き、王女の胸元へ。
 俺は腕を伸ばし、彼女を抱き寄せた。
 熱が走った。
 肩口に痛み。血の匂い。
 矢が俺の肩を貫いていた。

「……兄上。これが、あなたの秩序か」
 息を乱しながら、俺は笑った。
 兄は凍りついたように動かない。
 やがて、ゆっくりと剣を下ろした。
「違う……違うんだ、レオン……」
「なら、秤にかけろ。王の剣と、民の灯りを」
 アーネストは足元の雪を見た。
 白の上に、血と墨が混じる。
 焦げた掟板が、倒れずに立っている。
 その九の行が、風に揺れた。
 《針が止まるところに、真実を置く》
 彼は剣を投げた。
 剣が雪に突き刺さり、音を立てて止まる。
「……お前の勝ちだ」
 その言葉に、街が一斉に息を吐いた。
 誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが鐘を鳴らした。
 雪が、まるで拍手のように降る。

 俺はその場に膝をついた。 エリナの腕の中で、傷口から血が流れる。
「……泣くな。俺は、まだ終わってない」
「でも――」
「掟板を、もう一度立てる。今度は、王都の真ん中に」
 彼女の涙が頬に落ちた。
 それは血よりも熱く、雪よりも透明だった。

 夜。
 王都の玉座の間に、火は灯らなかった。
 アーネストは冠を外し、塔番に渡した。
「秤は壊れた。……だが、針はまだ動く」
 その言葉は、雪のように静かに沈んだ。
 ノクティスでは、塔番が鐘を鳴らす。
 十度の音が、夜空に広がる。
 掟板の最下行に、ルゥナが新しい文字を刻んだ。
 《十一、王は一人ではなく、街にある》
 風が吹く。
 塔の灯りが、王都とノクティスをひとつに繋いだ。
 夜王と王の秤――
 その針は、静かに中央で止まっていた。
(終章へつづく)

終章 光の秤
 雪はもう、降っていなかった。
 ノクティスの朝は静かで、澄んでいて、まるで何もなかったかのように穏やかだった。
 だが、街の輪郭は昨日までと違っていた。
 ――灯りが増えていた。
 掟板は塔のふもとに移された。焦げた跡も、そのまま残して。
 塔番が磨き、ルゥナが花を飾り、ミコが紙の写しを束ねて掲げた。
 そこには、最後に刻まれた十一の行が黒々と光っている。
 《王は一人ではなく、街にある》
 読めない子どもたちは、字の形を指でなぞり、意味を覚えようとしていた。
 その様子を見て、シルヴィアが微笑む。
「立派な“処方箋”ね」
「薬でも毒でもない、ただの文字だ」
 俺は答える。
「けれど、人を立たせる力になる。なら、それでいい」

 王都は、血を流さずに変わった。
 兄王アーネストは冠を置き、王位を「暫定評議」に委ねた。
 塔番が議席に座り、王城の門は誰にでも開かれた。
 初めて王都とノクティスの商人たちが同じ秤を使い、同じ印で取引を始めた。
 昼の鐘が鳴るたびに、人々は顔を上げ、どこか誇らしげに笑った。
 エルンストは王都に残り、「秤局」と呼ばれる新しい部署を任された。
 犬はもう、鎖をつけられていない。
 その代わりに、塔番の杖の音が“法”を鳴らす。
 針差しのデイルは街の職人になった。
 小さな指で、壊れた水路や塔の機械を直して歩く。
 子どもたちは彼を「穴塞ぎ」と呼び、鈴を鳴らして追いかけた。
 バルトは橋の番人として残った。
 剣を抜くことはもうない。
 代わりに、行商人の荷車の秤を見ては、重さを確かめている。

 俺は、王都には戻らなかった。
 戻れなかったというより、もうその必要がなかった。
 ノクティスが“国”になった。
 王城は、街の一角にある市場と変わらない。
 塔は灯りを保つだけの場所で、誰のものでもない。
 エリナは――塔の診療所で働いている。
 夜は病人の手を握り、昼は粉を分ける。
 時折、塔の上から街を見下ろして笑う姿が、どんな鐘よりもまぶしい。
「灯り、綺麗ね」
「お前がつけた火だ」
「いいえ。あなたが“消さなかった”だけ」
 彼女はそう言って、俺の左肩にそっと触れた。
 矢傷の跡はもう癒えている。だが、その痛みだけはまだ消えていなかった。
「レオン」「なんだ」
「この街、あなたが王様じゃないの?」
「王は一人じゃないだろ」
 俺は笑った。
「秤の針が動く限り、誰のものでもない」

 夕暮れ。
 塔番が鐘を鳴らす。
 ――一度、二度、三度。
 昼を告げる鐘ではない。
 新しい刻の始まりを告げる音。
 街のあちこちで灯りがともる。
 粉屋の軒、医師の窓、橋の欄干、子どもたちの手。
 光が線になって繋がり、やがて大きな輪を描く。
 塔の上から見下ろすと、それはまるで“秤”の形をしていた。
「ほら、できた」
 ルゥナが両手を広げて笑う。
「灯りの秤!」
「きれい……」
 ミコが呟く。
「王都にも見えるかな」
「見えるさ。風は西へ吹いてる」
 空を仰ぐと、雲が切れ、夜の星がいくつも光っていた。
 星もまた、秤のように並んでいた。
 重さではなく、輝きで均衡を取る。
 ――人も、国も、そうであればいい。

 俺は、焦げた掟板の前に立った。
 雪の代わりに、夜風が頬を撫でた。
 板の最後の空白に、指でゆっくりと線を刻む。
 《十二、針の止まる場所が“国”である》
 音もなく刻み終えると、塔の鐘が最後の一度を鳴らした。
 音が空に溶け、街の灯が一斉に揺れた。
 もう、夜と昼の区別はなかった。
 王と民の境も、罪と赦しの境も。
 ただ、ひとつの光の秤が、世界の真ん中で揺れずに立っていた。
 俺はその光の下で、静かに目を閉じた。
 風の中で誰かが笑う声がした。
 ――たぶん、あの夜に失った人たちの声だ。
 鐘が鳴る。
 そして、すべてが、静かに針の中央で止まった。
(了)