第1話 断罪の玉座、崩れ落ちる王子
玉座の間には、雪が降る前の冷たさがあった。壁面の大理石は磨かれ、燭台は過剰なほど灯されているのに、どこか夜の底みたいに寒い。人はこれを「儀礼」と呼ぶのだろうが、俺にはただの見世物に思えた。
「第二王子レオン・アルヴェイン。汝の罪は反逆」
兄の、即位したばかりの王が宣告する。だが、その声に王の品位はない。勝ち誇った少年の、つまらない悪戯の種明かしのような響きだけがあった。
「……反逆?」
俺は笑ったのだと思う。笑ってしまうくらい、出来の悪い話だったからだ。
「兄上。証をお示しください」
「証ならある。お前が王都の糧倉の鍵を偽造し、兵糧を移した記録がある。更に近衛副長が証言した。――ここに」
侍従が差し出した羊皮紙は、俺の筆跡に似せてある。近衛副長の名も、確かに見える。だが副長は一月前、毒で死んだ。兄に忠誠を誓い、王家の台所事情を知りすぎた男だった。
「副長は、亡くなっている。死人の証言を、誰が書き取った?」
「彼の遺書に記されていた――そうだ、エリナ」
兄が顎をしゃくる。その視線の先に、俺の婚約者――エリナ・ヴァルグレアが立っていた。薄青のドレスは氷を思わせ、芯の通った灰色の瞳は、いつかの柔らかさを欠いている。
彼女は一歩、前に出た。
「レオン殿下。わたくしは……あなたの行為を、許せません」 知らない声だった。冷ややかで、刃の裏だけを見せる声。「あなたはこの国を裏切り、戦を望んだ。民を飢えさせ、兵に反旗を勧めた。――わたくしは、そうした方と婚約を続けられません」 婚約破棄の言葉は、静かに、正確に、俺の胸に落ちた。音はしなかった。ただ、温度だけが消えた。
あの夜の、彼女の横顔を思い出す。王城の塔の上、風に髪をほどきながら笑ったエリナは、世界が好きだと言った。人がパンを買って並ぶのを見るのも、兵士が酒場で歌うのを聴くのも、好きだと。
俺もそうだ、と答えた。――それは、幻だったのだろうか。
「……兄上。俺が偽造をする理由は?」
「王位が欲しかったからだろう。第二王子の分際で」
幼い。彼は幼い。だがその幼さの背に、数多の大臣と貴族の影が揺れる。彼らは知っているのだ。糧倉の鍵の本当の行方を。冬越しの予算がどこに消えたのかを。だから、俺を貼り付ける。同意した視線が、燭台の炎に揺れた。
「判決を言い渡す。第二王子レオン・アルヴェインは王籍を剥奪、婚約を破棄し、王都より永久追放。――罪人の街へ(ノクティス)の流送」
どよめき。誰かが息を呑む音。しばし沈黙。
エリナの睫毛が微かに震えた。ほんのわずかに。俺はそれを見逃さなかった。けれど彼女は、唇を結び直しただけだった。
儀礼は、終わった。
◇
鉄の車輪は、凍った土の上を容赦なく跳ねる。護送馬車の木板は薄く、風は刃に等しかった。手首の枷はきついが、抵抗は無意味だ。扉の隙間から覗けば、灰色の空が、終わりの見えない平野を覆って
いる。
ノクティス。王国の地図の端に小さく記されたその名は、書庫の地誌によれば、鉱脈が枯れて以降、罪人と流民が流れ着く“沈殿地 ”だ。王都から見れば捨て石。冬の荒風と、古い水路と、壊れた街路灯。そんなものしかない。
寒い。だが、頭のどこかは異様に静かだった。
――反逆。偽造。婚約破棄。追放。
用意のいい台詞だ。誰かが前もって書いた脚本を、王が読み上げ、観客が頷いた。俺の役は、よくできた悪役だったのだろう。ならば、幕が下りたあとに残るのは、舞台裏だ。表の王道が腐っているなら、裏に回るしかない。
馬車が大きく揺れ、車輪が泥に取られた。やがて止まる。扉が開いた瞬間、刺すような風が顔を打つ。護送兵が枷を外し、無言で背を押した。
「ここから先は、お前の足だ」
王都から持ち出せたものは、冬衣と短剣ひとつ。腰に残ったそれは、辛うじて俺が俺である証のようだった。
見下ろす谷間が、ノクティスだった。斜面に貼り付いた家屋は、瓦が風にめくれ、壁は煤に染まっている。煙突から上がる煙は細く、冬の空に吸い込まれて消える。遠くで犬が吠え、鐘が死んだような音で三度鳴った。
足を踏み入れた途端、腐った藁と古い油の匂いが鼻を刺す。石畳は割れ、下水の蓋は半分沈み、壁の影に、目だけがこちらを見ている。子どもの目、老婆の目、警戒と飢えの色。
「兄上、ここを知っているか」
独り言は煙のように消えた。知るはずがない。地図の色の外にある街だ。けれど――歩けばわかる。ここには、王都にない“律”がある。生きるために編まれた即席の規則、黙契。誰も守らない王令よりよほど堅い約束が、足音の間にある。
路地の先で、短い悲鳴が弾けた。
反射で走っていた。細い横道を抜けると、朽ちた倉庫の前で、三人のならず者が少女を取り囲んでいる。少女は十にも満たない。煤けたマントの裾を握り、歯を食いしばっていた。
「いいから寄越せ。手を離せば楽になる」
男の一人が掴んでいるのは、小さな革袋。触れただけで乾いた音がした。硬貨だ。少女は首を振る。
「これは、薬の、代金だよ……おかあの……」
「母親か。ならお利口だ。金は俺たちが預かる」
笑い声。肋骨の隙間を針でつつかれたみたいな感覚がした。体が勝手に動く。
俺は男の手首を掴み、逆方向に捻った。鈍い音がして、革袋が宙に舞う。落ちる前に拾い、少女の手に押し戻す。
「その子の用事だ。邪魔をするな」
間近で腐敗した酒の匂いがした。男が睨み、刃を抜く。短いナイフ。二人目も、鉄棒を持ち上げる。
「貴族様ごっこか? ここは王都じゃねえ」
「王都でも、俺は王じゃない」
吐いた言葉が、自分でも意外に平坦だった。刃が振り上がる。踏み込みは浅い。右肩で躱し、手首を打つ。短剣が落ちる。鉄棒が振り下ろされる前に膝で相手の脛を蹴り、体重で肩を押し込む。二人が転がり、三人目が逃げ腰になった瞬間、路地の陰から投げ縄のように何かが伸び、男の足に絡みついた。
「ほいっと」 乾いた声。視線を向けると、路地の上、壊れた庇の上に女が座っていた。狐の仮面――いや、道化の白い半面だ。亜麻色の髪が肩で切りそろえられ、指には薬草の汁が染みている。
「三匹、捕獲完了。ノクティスへようこそ、見知らぬお兄さん」
半面の女は軽やかに飛び降り、鉄棒男の後頭部に指先で触れた。
ふっと力が抜け、男はその場に崩れ落ちる。
「……毒?」
「薬。点で眠るやつ。起きたとき、ちょっと頭が痛いくらい」
女は肩をすくめ、仮面の裏から、じっとこちらを見た。俺の短剣の柄、手の皮、立ち位置。観察眼が鋭い。
「その子は?」
少女は革袋を胸に抱きしめ、俺を見る。瞳は黒曜石の欠片みたいに硬いのに、内側は震えていた。
「ありがと……。ルゥナ。わたし、ルゥナ。薬を、買いに」
「母さんの、だね」
半面の女が優しい声に変える。ルゥナはこくりと頷いた。
「行こう。案内するよ。――お兄さんも来る?」
問われ、俺は一瞬迷った。王都の王子としての常識なら、関わるべきではない。だが、王子ではない俺は、もういない。
「行く」
そう答えると、半面の女は口元で笑った気配を見せた。
「名は?」
「レオン」
「いい名前。私はシルヴィア。街医者。偽でも裏でもなく、いちおう正規の」
「正規?」
「この街の、ね」
◇ シルヴィアの診療所は、崩れかけた礼拝堂の隣にあった。床はきしみ、窓枠には古いステンドグラスの破片が残っている。けれど台は磨かれ、器具は清潔に並び、湯気の立つ薬鍋の匂いには、かすかな甘さがあった。
ベッドには、痩せた女が横たわっている。ルゥナの母だ。咳が硬く、血の匂いが混じる。
「鉱夫の肺だね。粉塵と寒さ。王都からの補助は途絶え、坑道は崩れていく。――はい、これ飲ませて」
シルヴィアが杯を渡し、ルゥナが母の口元に当てる。女の喉がかすかに動き、色が戻るわけではないが、咳は少し柔らいだ。
「ありがとう、ルゥナ。ありがとう、お医者さま」
掠れた声に、ルゥナの目が潤む。俺は壁に背を預け、その光景を見ていた。王都では滅多に見ない、まっすぐな“ありがとう”だ。
「で、レオン。外の三匹は勝手に転んだってことでいい?」
「問題ない」
「よし。じゃあ質問を一つ。――あんた、何者?」
半面越しの視線が、笑っていない。
俺は息を吐いた。偽名を食むのは簡単だ。だが、この街に来て最初に引き金を引いたのは、目の前の医者だ。嘘をつけば、たぶん見抜かれる。
「王都からの、追放者だ」
「ふうん。王都の匂いはする。言葉の角でわかる。で、戻る気は?」
「ない」
その一言が、自分の中で音を立てて固定された。ない。戻らない。
戻れないのではなく、戻らない。
「愚かね」
シルヴィアの声は冷たく、それでいてどこか楽しげだった。
「ここは、食べ物が勝手には来ない街。薬も、火も、秩序も。欲しいなら、自分でこしらえる。あんたは、こしらえられる?」「――こしらえ方は知っている。けれど、俺ひとりの手じゃ足りない」
言葉が、口に出てから自分でも驚くほど適温だった。王城の会議室で何百回も飲み込んだ文の、言い直しのようだ。
「なら、手を集めなきゃね」
シルヴィアは仮面に指をかけた。外すのかと思ったが、外さない。
代わりに、壊れかけた窓の向こう――礼拝堂の影を顎で示す。
「バルト、聞いてたでしょ」
影の中から、重い靴音が一歩、二歩。現れた男は、厚い胸板と、折れた近衛章の布片を肩に残していた。髪は短く刈られ、顎には古傷。目は狼のように静かだ。
「近衛……?」
「元、だ」
男は短く答え、俺の腰の短剣と立ち姿を測る。
「王都で、名前を聞いたことがある。レオン殿下」
ルゥナが目を丸くする。シルヴィアは肩をすくめた。
「やっぱり。――で、殿下。何をしたい?」
何を、したいか。
王都では、答えに千の前置きが必要だった。立場、派閥、財務。誰の顔を立て、誰の恨みを買うか。だがここは、ノクティスだ。答えは、短くていい。
「街を、守る」
自分でも驚くほど、言い切るのは容易かった。
「まずは、食べさせる。寒さを凌ぐ。病を減らす。治安を、表のものにする。――そのために、俺は、裏に立つ」
「裏?」
「表は腐っている。王令は届かない。なら、夜に王が要る」
沈黙。薬鍋の泡が一つ弾ける音がした。ルゥナが真っ直ぐ俺を見上げ、シルヴィアが鼻で笑い、バルトがわずかに口角を上げた。「夜王、ね。気障だけど、嫌いじゃない」
シルヴィアが言う。
「必要なものは?」
「人材、拠点、資金。それと、信」
「信?」
「信じる、の信だ。約束が約束であるための土台。――俺は王都で、それが欠け落ちる音を聞いた」
兄の笑い。大臣の沈黙。エリナの睫毛の震え。あの場にいた誰も、信に重みを置かなかった。置ける場所がなかった。なら、ここで作る。
「資金は?」
現実的な問いが、すぐ飛ぶ。ありがたい。王都では誰も、最初にそれを口にしない。
「鉱山は死んだが、水路が生きている。古い地図を見た。地下に網がある。――水を流し、粉を挽き、灯りをつける。夜に灯りがあれば、人は集まり、金が落ちる」
言いながら、礼拝堂の割れたステンドに視線が行った。欠けた赤と青が冬の光で曖昧に混ざっている。あの光を、夜に灯したいと思った。
「治安は?」
「表の番は買収されやすい。だから、裏の番を立てる。夜の市場を管理し、借金の利率を固定する。暴力の価格を上げ、暴力以外の稼ぎを下げないようにする」
「やるじゃない。王子の勉強は伊達じゃないって顔ね」
シルヴィアが笑い、バルトが短く頷いた。
「力は出す。殿下の旗のもとに、俺みたいな折れた剣は集まる」
剣。旗。言葉の重みが、体温を持って戻ってくる。
「……ルゥナ」
俺は少女に向き直る。彼女は小さな拳を握っていた。
「何」
「母さんを助けたいだろう」
「うん」
「そのために、君の足がいる。走れるか」
ルゥナは考え、頷いた。黒曜石の瞳に、硬さの下の芯が灯る。
「走る。なんどでも」
「よし。じゃあ最初の仕事だ。――この街で、一番人が集まる場所を教えてくれ」
「夜市。水路の上の橋。灯りがつくところ」
「そこに、灯りを足す」
言葉にした瞬間、胸の奥で、何かが“カチリ”と音を立てた。玉座の間で凍っていた針が、わずかに動く。白い部屋の温度が、端から色づき始める。
「夜に王が要るなら――俺がなる」
シルヴィアの半面の奥で、目が笑う。バルトが拳を胸に当てる。
ルゥナが、空になりかけた革袋をぎゅっと握る。
「ようこそ、夜へ。殿下」
「レオンでいい」
「じゃあ、レオン。今日からここは、あなたの“王都”よ」
扉が開き、冬の風が流れ込む。冷たいのに、どこか澄んだ匂いがした。遠くで鐘が四度鳴る。昼と夜の境目に、足を踏み入れる音がする。
――俺は、ここで王になる。
玉座はもう、必要ない。必要なのは、灯りと、手と、信。夜の街を歩く靴音が、確かにそれを告げていた。
第2話 夜市に灯を
ノクティスは夜に生きる街だ。昼は腹が鳴り、陽が傾くと人が現れる。橋の上、廃水路のふち、崩れた城壁の陰。売られるのは細いパン、古い釘、濁った酒、噂、嘘、そして暴力。
「夜に王が要るなら、最初にやるのは灯りだ」
俺は橋のたもとに立ち、凍える水面を見下ろした。石のアーチの下には古い水車跡がある。軸は曲がり、羽根は半分折れていたが― ―流れはまだ死んでいない。
「バルト、軸を起こせるか」
「材料が要る。楢か樫の丸太、鉄の楔。釘は足りん」
「釘は私がどうにかする。納屋の裏に壊れた柵が山ほどある」
シルヴィアが半面越しに眉を上げる。薬屋の棚からどこに釘が出るのかと思えば、彼女は路地の端に合図を送った。隠れていた少年が二人、駆け出す。足は細いが、身のこなしは猫だ。
「“ネジ屋のイヌア”に言って。曲がった釘でもいいから全部、今日。支払いは夜王印で」
「夜王印?」
「作る。――ルゥナ、来てくれ」
少女は革袋を抱えたまま駆け寄る。頬は赤く、目は相変わらず硬い。
「走れるか」
「走る」
「これから“印”を配る。紙切れだが、俺の約束の代わりだ。裏市(アンダー)の店に“印”の価値を通す。今日だけでいい、最初の灯りを点けるまでは」
少女は何度か瞬きをして、頷いた。「約束の紙」――それが意味を持つと感じたのだろう。
俺は診療所に戻り、壊れた礼拝堂の古い聖句の裏に書いた。粗い紙に、印し。王都では封蝋と紋章が必要だ。ここでは、裏の信用が印になる。だから、名でなく原則を書く。
一、夜市の暴力は“高くつく”。殴れば二倍。刃を抜けば五倍。
血を流せば十倍。
二、借金の上限は元金の二倍。取り立ては夜明け後に。
三、夜市の灯り代は“夜王印”で払える。印は紙でも、約束は鉄。
四、裏切りに罰。保護に利。
字は大きく、短く、誰にでもわかるように。紙を十枚、二十枚。
ルゥナが胸に抱え、仲間の子に配る。「夜王印だ!」という叫びが、路地から路地へ走った。
日が傾くと、バルトが水路に降りた。上衣を脱いだ背中に古傷が走り、腕に縄を巻き付ける。元近衛は無駄に動かない。石と木を組み、曲がった軸を外す。水車の羽根を一本ずつ、捨て、再び打ち直す。俺も手を貸した。王都で学んだのは政略と数と法だが、手を汚すのは嫌いじゃない。手がかじかんでも、脳は温かい。
「よし、回る」
バルトが合図を出すと、少年たちがロープを引いた。水が唸り、羽根が鈍く回った。軸が軋み、声を上げ、それでも止まらない。
俺は橋の上に戻り、シルヴィアに頷く。
「灯せ」
彼女は油壺から芯の太い燈を取り出し、火を移す。最初の灯りが、橋の欄干に灯った。二つ、三つ、四つ。風が抜けても消えず、夜の底に柔らかい円を描く。人が集まり、足音が増えた。屋台木枠が開き、煮込みの鉢が置かれ、パンの香りが増幅される。
「――あ」 ルゥナの声が震えた。橋の下の水面に、小さな光が揺れて映る。
母の咳はまだ止まらないだろう。明日も明後日も薬が要る。けれど、灯りがある。帰る場所の目印がある。
「夜王印、通るのか?」
「通す」
俺は一番強欲そうな屋台の主に近づき、印の紙を差し出す。男の目が薄く笑い、紙を透かし、周りを伺う。
「紙だ」
「紙だ。だが、約束は鉄だ。通せば客が増える。通さなければ―― 橋に立てない」
男の喉が動いた。周囲の目が、俺でも紙でもなく、灯りに集まっている。商売人は温度に敏い。男は肩をすくめ、紙を受け取り、銅貨の代わりにそれを箱に滑らせた。
「最初の一枚、受けた」
声が、夜市の空気に沁みた。二軒目、三軒目。紙は増え、湯気も増えた。印は信用に変わり、信用は食い物に変わる。人は灯りに寄ってくる。灯りは金になる。
――ただ、金の匂いは、別のものも呼ぶ。
「レオン。来たよ、最初の“税吏”」
シルヴィアが肩で示す。橋の向こうから、灰色の外套を羽織った男たちが三人、ゆっくり近づいてくる。外套の留め具に妙な意匠― ―『灰貴会(グレイ・ギルド)』。ノクティスの徴税を“代行”している裏組織だとシルヴィアは言っていた。代行の意味は、強盗に近い。
「おやおや、おやつの匂い。橋に灯りが戻るとは、殊勝なことだ」
先頭の男が歯を見せる。太い指に指輪。目は笑っていない。
「ギルドの許可状、見せな」
返事の代わりに、俺は紙を差し出した。夜王印。男は鼻で笑う。「紙遊びか。ここに立つなら、通行料。灯り一つにつき銅貨三枚」
「高い」
「灰の火事は見たくねえだろ。灯りは燃えやすい」
男が手を広げ、後ろの二人が橋の灯りに近づく。その瞬間、俺は木杭の影に設置した細い縄を引いた。灯りの根本に括りつけた小さな鉄鈴が一斉に鳴る。夜市の端、路地の陰、屋台の下――あちこちから小さな鈴の音が返る。約束の合図。目が一斉にこっちを見る。
「通行料は、夜王印で払った」
俺は夜市の端から端まで見回し、はっきり言った。
「ここは夜王の保護下にある。暴力の値段は上がった。殴れば二倍。刃は五倍。血は十倍――払えるか?」
男の顔から笑いが消える。彼は一歩寄る。俺も一歩踏み出す。距離は近い。互いの息がかかる。背後でバルトの足音が近づき、彼の重みが空気を変える。橋の欄干にいた数人の若い連中――さっき印を受け取った屋台の主も――が、手元の棒や鍋を握り直す。
男は舌打ちをひとつ。「よかろう」
言葉ほど良くはない顔で、彼は踵を返した。「今夜は祝ってやる。
祭りの初日は客の顔を立てるのが礼儀だ。だが――」
「明日は違う?」
「明日も祭りならいいがな」
三人は去った。残された空気は硬く、だが割れなかった。鈴の音がまた一つ、軽く鳴り、湯気が夜を満たす。
「荒い真似は避けたいが、避けられない夜もある」
俺の言葉に、バルトが短く頷く。
「奴らは戻る。だが、今日は通した。――橋の灯りは、彼らの灯りじゃない」
夜市は回った。印は十、二十、三十。小麦粉が流れ、炭が売れ、古布が新しい包帯に変わる。ルゥナは走り続け、足を止めない。母の息はまだ浅いが、顔の色はさっきより良い。 シルヴィアは半面の裏で目を細めた。
「印は明日には紙切れに戻るかもね」
「戻さない」
「どうやって」
「二日目の灯りを、“昼”に作る」
彼女の指が止まる。俺は水車の軸から引いた細い縄を指差した。
「水の流れは夜だけじゃない。昼のうちに粉を挽かせる。挽いた粉を、印と交換する。印は粉になり、粉はパンになる。紙切れがパンになれば、紙ではない」
「なるほど。紙からパンへ、パンから信へ」
「その間に、橋の下に“番”を置く。バルト、夜だけでなく昼も回せるか」
「できる。折れた剣は昼も立つ」
短い会話で足場ができる。王都では十人が二十の反対を言い、会議が夜明けに終わる。ここでは三人で、夜が変わる。
夜更け、屋台が片づき始めた頃、橋の端に黒い影が立った。ボロをまとい、背は曲がり、杖をつく。顔は見えない。ルゥナが一歩踏み出しかけ、俺が手で制した。
「何者だ」
影は顔を上げた。皺だらけの男。目は澄んでいないが、濁り切ってもいない。井戸の底の水のような光がある。
「夜王を、見に来た」
「ここにいる」
「さっきの印。読んだ。字がまっすぐだ。裏の字だ」
男は杖で橋の石を叩き、ゆっくり笑った。
「昔、ノクティスには“掟板”があった。冬に炭の値、春に水の値、
夏に塩の値。王都から来た役人が壊していった。掟板がなければ、誰も守らんと」「掟板を戻す」
「戻せるか?」
「戻す。紙でも木でも石でもいい。守るものがあるなら、守る」
男は長く息を吐いた。白い煙が、星のない空に溶ける。
「名前は?」
「レオン」
「よい。――わしは塔の番。名は塔番と呼ばれておる」
塔などノクティスに残っていたか? 男は杖で橋の向こう、崩れた城壁に空いた黒い穴を指す。
「あそこに古い見張り塔がある。物好きしか上らん。だが夜風はよく通る。お前の灯りを、遠くまで見せてやろう」
「頼む」
塔番はこくりと頷き、闇に消えた。ルゥナが袖を引っ張る。
「本当に、王になるの」
「王都の王じゃない。夜の王だ。――灯りと約束の王」
◇
翌朝、俺たちは橋の下で粉を挽いた。軸は悲鳴を上げ、それでも回る。昼の光は弱く、冷たい。だが粉の匂いは温かい。印と粉を交換する列ができ、短い言葉が飛び交う。印がただの紙でないと、手が覚える。
昼過ぎ、バルトが眉をひそめた。
「尾がついた」
「どこから」
「王都の匂い。靴の泥が違う。歩幅が違う。剣の重みが違う」
視線の先、橋の向こうに黒い外套が二つ、平然と立っていた。貴族の黒でも、灰貴会の灰でもない。布は質が良く、肩の縫い目が堅い。腰の革が柔らかい。剣は短く、細い。
「査問官だ」
シルヴィアが低く言った。「王都法務院の犬。汚れ仕事は自分で手を汚さないから、タチが悪い」
黒外套の一人が一歩前に出る。顔は整っている。皮肉を言う前の口元だ。目だけが笑っていない。
「第二王子レオン・アルヴェイン。王籍剥奪と追放令状に基づき、所在を確認した。――我々と来てもらおう」
ルゥナが俺の袖を握る。シルヴィアの半面の奥で目が細くなる。
バルトは一歩、身を寄せ、いつでも動ける距離を詰めた。
「拒むなら?」
「罪人(ノクティス)街の治安維持のため、やむを得ず拘束する。抵抗すれば――」
「血の値段は十倍だ」
俺は遮った。黒外套の眉がわずかに動く。
「何の話だ」
「ここでは、暴力の価格が決まった。夜王印は王令に代わる。お前たちの剣は王都の法で光るが、ここでは灯りで影になる」
「夜王、ね。――噂は聞いたよ」
男は笑わない口元で笑い、肩をすくめた。
「だが、我々は仕事をする。今日は確認だけだ。明日は違うかもしれない。王都は、待たない」
「ノクティスも、待たない」
小さな沈黙。彼はその沈黙を計り、背を向けた。
「灯りを楽しめ。長くはない」
黒外套が去ると同時に、橋の陰から別の影が現れた。灰貴会の男だ。昨夜の男ではない。背が高く、爪が長い。笑い方が蛇に似ている。
「王都の犬に尾を振る気はないが、夜王に尻尾を巻く気もない」
男は橋の欄干を指でなぞり、灯りをじろりと舐める目で見た。
「明晩、“試し”をする。夜市の真ん中、貸しだ。うちの取り立てに口を出すな。邪魔をすれば、灯りを消す」
「取り立ての限度は元金の二倍だ」
「誰が決めた」
「俺だ」
「はは。王様ごっこは楽しいか?」
「ごっこじゃない」
男はわずかに身を乗り出した。爪が光り、舌が歯に当たる。
「夜王。お前の印がどれだけの血を吸えるか、見てやる」
爪の男は去った。橋の上に残った空気は、雪の前の重さに似ている。遠くで咳。粉の匂い。鈴の音は鳴らない。鳴らさない。
シルヴィアが言う。「明晩、ぶつかるよ」
「避けられない」
「怪我人が出る。死ぬかもしれない」
「死ぬのは嫌だ」
「じゃあどうする」
「“値段”を上げる」
俺は橋の中央に立ち、粉で白くなった手を握った。
「奴らが取り立てをする場所に、灯りを二倍置く。人を四倍集める。
歌を歌わせ、鍋を増やす。暴力のコストを、最大にする」
「人が多いと、誰かが殴られる」
「だから、殴った瞬間、十倍の“罰”を皆が見る。印を破った者にはパンがない。水もない。夜市の橋に立てない」
「追放?」
「一時の、だ。戻る道も示す。働きを見せ、印を稼ぎ直せば戻れる」
バルトが静かに頷いた。「見せしめと道を、同時に作る」
「そう。俺たちの秩序は、戻れる秩序だ」
シルヴィアは半面の裏で口角を上げた。「ええ、王子。あんた、やっぱり好きよ。血を見たいんじゃなくて、灯りを見たい」
その夜、塔番の塔に上った。崩れた階段は冷たく、風は骨を抜く。最上段に着くと、街が見えた。壊れかけの屋根、曲がった煙突、細い路地、黒い水。橋の灯りが線となり、薄い金の糸で街を縫っている。
「灯りは、敵も呼ぶ」
塔番が低く言う。風に紛れて、声は遠い。「だが、灯りのない街は死ぬ。夜王、灯りを増やせ。儂は鐘を打つ」
「鐘?」
「昔、夜盗が出るときは三度。火事のときは五度。よい知らせは七度。夜王の灯りは何度だ?」
俺は迷わず答えた。「四度」
「境目か。昼と夜の」
「そうだ。明日の四度、橋に人を集めたい」
「打とう」
塔番は杖のかわりに古い木槌を持ち上げた。鐘の縁は欠けているが、音は生きている。遠くまで届くだろう。夜に、合図が要る。
塔から降りると、足元に小さな影が待っていた。
「レオン」
「ルゥナ、眠ったか」
「半分。おかあ、笑った。灯り見て」
少女は少しだけ笑った。硬い瞳の奥で、芯が灯っている。彼女は間を置いて、ぽつりと言った。
「わたし、走るの得意。走って、印を、運ぶ。橋と、路地と、家のなか。なんでも走る」
「頼む」
「うん。約束したから」
彼女は革袋を抱き直し、走り去った。小さな背中が夜に吸われ、足音が鈴の音に混じる。
翌日の昼、粉は足りなくなり、印は足りなくなり、灯りの油も足りなくなった。足りないものを数えると、やるべきことが明らかになる。俺は印の束を抱え、橋の下に降り、木箱に座った。
「王子」
バルトが呼ぶ。「灰貴会の“試し”、場所が決まった。夜市の真ん中、秤のある石台の前だ」
「秤?」
「借金を量る台。昔は皆が目の前で重さを確かめた。今は誰も使わん」
「使う。――皆の前で、重さを見せる」
シルヴィアが来る。「血止め、包帯、薬、全部準備済み。なるべく使わないで済むよう祈るけどね」
「ありがとう」
「礼は灯りで返して」
彼女の半面が、光を跳ね返した。
日が沈む。塔番の鐘が四度鳴る。昼と夜の境目だ。橋の灯りが一斉に点き、人が集まる。屋台が並び、歌が始まり、鍋が煮える。秤の前に、灰の外套。爪の男がゆっくりと上がる。隣には、痩せた女。目が座り、手には古い借用書。背後に二人の取り立て。
「この女は元金銅貨二十。利は十。今日で四十。払えないなら――」
「二倍までだ」
俺は秤の反対側に立つ。周囲の目が、灯りの輪の中で固まる。シルヴィアが少し離れた場所で臨戦の姿勢を崩さず、バルトが陰に立つ。ルゥナは人の隙間を縫うように動き、合図を運ぶ。
「二倍まで。四十は越えた。――賭けよう」
「賭け?」
「秤に“信”を乗せる」
俺は印の束を置いた。紙は軽い。だが、目は重い。人が見ている。重さが変わる。
「この印は粉になる。粉はパンになる。女は働く。印は返る。二ヶ月、毎週この秤に“返す”ところを、皆で見る。灰貴会は“見せる ”。夜王は“守る”。――遊びじゃない。街の掟だ」
爪の男の目が細くなる。「誰が裁く」
「皆だ」
俺は周りを指差した。屋台の主、歌い手、粉挽き、子ども、塔番。目が目を見る。夜市は静かになり、灯りが小さく揺れる。爪の男は舌を鳴らし、借用書を秤に乗せた。紙が重くなる。印が重さを“見せる”。秤は傾き、爪の男は笑うのをやめた。
「いいだろう。――試しだ」
男は取り立てに顎をしゃくった。取り立てが女の肩に手をかけかけた瞬間、鈴が鳴った。ルゥナの鈴だ。バルトが一歩出て、取り立ての手首を軽く押さえる。力は最小、姿勢は最大。男の足が止まる。
周りの視線が、刃ではなく“手”に集まる。
「殴れば二倍。刃は五倍。血は十倍」
俺の声は大きくしない。夜市が聞く距離にする。
「払えるか?」
取り立ては肩をすくめ、手を離した。爪の男は小さく笑った。「今日は祭りだ。――王都の犬も来る」
言った瞬間、橋の端に黒外套が現れた。昨日の男だ。彼は秤の前に来ると、静かに周囲を見渡した。鈴の音が止む。彼は秤を見、印を見、人を見、灯りを見た。
「面白い遊びだ」
「遊びじゃない」
「そうだろうな」
彼は懐から細い羊皮紙を取り出し、秤の間に差し込んだ。「王都法務院・査問官エルンスト。――証拠保全のため、ここでの取り立てを一時停止する」
ざわつき。灰貴会の男が舌打ちを飲み込む。エルンストと名乗った男の目が、ほんの僅かに俺を見る。
「夜王。明日、話をしよう」
「今日ではなく?」
「今日は灯りを見たい」
彼は背を向け、橋の上の灯りを一つひとつ確かめるように歩いた。爪の男は彼の背を睨み、俺を睨み、それから秤の上の借用書を乱暴に引き抜こうとして、手を止めた。周囲の目が重い。重さは刃より鈍いが、深い。
「二ヶ月だ。二ヶ月で返せ。返せなきゃ――橋の外だ」
「返す」
痩せた女の声が、細く、だが折れずに響いた。ルゥナが小さく拳を握る。シルヴィアが息を吐き、バルトが姿勢を緩める。塔番の塔が遠くで軋み、鐘が一つだけ鳴った。四度ではない。だが、境目は越えた。
夜は続いた。歌が戻り、鍋の蓋が開閉し、印が紙からパンに変わる。俺は灯りの下を歩き、目を合わせ、短く頷き、同じ言葉を繰り返した。
「約束は鉄だ」
その言葉は俺自身にも向けられている。玉座の間で空になった胸に、鉄の重さを戻すために。
終わり際、石台の影でエリナの名を囁く声を聞いた。振り向くと誰もいない。風だけが下り、橋の灯りが揺れた。胸の奥で何かが疼く。彼女の睫毛の震え、兄の笑い、王都の冷たさ。全部、ここに連れてきてしまったのかもしれない。
だが、足元に光がある。ルゥナが走っている。バルトが立っている。シルヴィアが笑っている。塔番が鐘を打つ準備をしている。灰貴会が牙を研ぎ、王都の犬が鼻を利かせている。
なら、やることは決まっている。
――夜に王が要るなら、灯りと掟と人の重さで、王をやる。 翌朝、俺は新しい板を用意した。橋のたもと、石台の横。荒い木肌に、太い字で刻む。
《夜市掟板》
一、夜に刃を抜くな。抜いた者は夜に立つ資格を失う。
二、借金は元金の二倍まで。超えた分は“働き”で払う。
三、夜王印は粉と油に換えられる。値は毎朝、秤の前で告げる。
四、争いは秤の前で。隠した争いは、三倍で返す。
五、戻れる道は必ず示す。戻らぬ者は“凍土”へ。
刻み終えた瞬間、塔番の鐘が四度鳴った。昼と夜の境目に、街が息を吸う音がする。俺は刻み跡に指を当て、冷たさを確かめた。
夜王の一歩は、まだ浅い。だが、足跡は残る。灯りと、掟と、信の重さで。
その足跡を消そうとする影は、もう動いている。王都と灰と、そして――俺が一度、愛した名とともに。
第3話 犬と爪と秤の夜
朝一番の橋は白かった。霜が石に薄く張り、吐く息がすぐ形になる。粉挽きの軸は夜のうちに休ませて油を差した。回る音が軽い。
印と粉を交換する列が、昨日より長い。
「レオン、印が増えたぶん、偽造も増える」
シルヴィアが半面の裏で目を細めた。
「番号を振る。一本の紐で通す」
俺は印束をひもで綴じた。左上に穴。綴じ紐に通し、端に小さな結び目――“夜結び”。解けばわかる。戻せない。
「書き手が要るな」
「いる」
返事したのはルゥナではなく、路地の陰から出てきた痩せた少年だ。指が細く、目が速い。
「ミコ。鼠のミコ。字を写すのが得意」
「印書き、やるか」
「粉と、母の薬」
「契約だ」
俺は短く告げ、木箱を机にして“印の書記”を一人増やした。ミコの筆は速い。数字を飛ばさない。目が一枚一枚の紙の重さを覚える。
鐘が三度鳴った頃、黒外套が来た。昨日の査問官――エルンスト。
今日は剣も杖も持たず、片手に湯気の立つカップだけだ。屋台の茶を買ったらしい。俺の前に立ち、カップを差し出した。
「熱い。持つか?」
「いらない」
「なら僕が飲む」
彼は唇を火傷しないように慎重にすすった。目だけ動く。秤、印、粉、列、鈴。全部チェックしている。
「話をしよう、夜王。立ったままでいい」
「座る椅子はない」
「よろしい」
「王都は、お前を捕まえたい」
「知ってる」
「だが、僕は、今日すぐにお前を縄で引きずりたくはない」
「珍しい犬だ」
エルンストは笑わない。「王はいつでも“結果”が欲しい。王都の冬越しのために必要なものは何だ?」
「兵糧、秩序、言い訳」
「そう。言い訳だ。『罪人街が荒れているから手を入れた』――陛下の言い訳になる火種が、ここに必要だ」
「だから今すぐ火をつけたくはない」
「理解が早くて助かる。僕は証拠が欲しい。お前に対するではない。
お前を追放に追い込んだ連中の『偽の手』が欲しい」
エルンストはカップを置き、低い声で続けた。
「糧倉の鍵。副長の“遺書”。お前の筆跡。……全部、雑だ。雑で、
誰かが急いだ跡がある。急いでいた理由は一つ。今冬の糧の消え方が、王都の帳簿と合わない」
「隠したい穴が、多すぎる」
「だから僕は、ここで“秩序”を見せろと言う。今日、灰貴会とやり合うだろう。血を出すな。出すなら、値段を払わせろ。――それを僕は“王都に出す”。『罪人街は秩序を取り戻しつつある。今、手を出せば逆効果』」
「時間を買う」
「そう。時間を買う代わりに、僕は証拠を狩る。協力者がいる」「誰だ」
「言えない。だが、ヒントはやる。――お前の元婚約者は愚かじゃない」
心臓が一拍、乱れた。エリナ。睫毛の震えが、冬の空気に差し込む。
「彼女は“王女”であり続けたい。王の玩具でいたいわけじゃない。
お前が灯りを点けたと聞いて、薬を送った。自分の名を隠して」
「証拠は?」
エルンストは肩をすくめた。「王都の薬房に『夜の痰』に効く調合が一つだけある。彼女の部屋の帳簿に、材料が“消えて”いた。
言うだけだ。信じるとも信じないとも、お前の自由」
彼は湯を飲み干し、空のカップを指先で回した。
「犬は犬らしく吠える。明日、お前を連れて来いと王都は言うだろう。僕はうまく“聞き違える”。だから、夜はお前のものにしろ」
「礼は言わない」
「いらない。僕は結果が欲しい」
エルンストは去った。犬の足音は軽く、影は薄い。だが爪は鋭い。
灰貴会の爪とどちらが早いか、今夜で決まる。
◇
準備に入った。やることは多いが、やるべき順は見えている。
一、灯りを増やす。橋だけでなく水路沿いの細道、秤の周り、塔番が鐘を見渡せる場所。油は足りない。代わりに“塩水布”を用意する。火が走ったら覆う。水だけでは油火は消えない。塩水の重さで抑える。
二、鈴の合図を増やす。ルゥナに“二つ鳴らし”と“三つ鳴らし”を教える。二つは“集まれ”。三つは“止まれ”。子どもに覚えさせる。 三、秤の前に板を並べ、椅子を用意。見物席じゃない。“証言席
”だ。誰でも座れる。誰でも喋れる。喋ったら嘘をつけない。
四、逃げ道。裏水路沿いに濡れた縄梯子を垂らす。万が一のため。
バルトと“折れ剣”三人に任せる。彼らは剣を抜かない。棒と縄だ。
日が落ちる。塔番の鐘が四度鳴った。夜の境目。橋の灯りが息を合わせるようにつき、湯気が立ち、人の声が重なる。秤の前は空けた。灰貴会は時間に来る。律儀だ。爪の男は今日も爪をといでいる。
後ろに五人。顔が変わった。昨日より若い。血の匂いを嗅ぎたい連中だ。
「貸しだ」
爪男が秤の前に立つ。薄い笑い。俺は一歩も引かない。
「今日の借り手は?」
押し出されるように二人が前に出た。片方は背の曲がった老人、片方は若い男。老人は“水路守”の古い腕章をボロの袖に縫い付けている。若い男の手は真新しい血豆。働いている手だ。
「元金は?」
老人の借用書は銅貨十五。若い男は十。灰貴会の書き込みはひどい。利の計算が毎週増えている。重ねて、重ねて、沈めるやり方だ。
「二倍までだ」
「うるさい」
爪男が吐き捨てるように言い、取り立てが老人の肩に手を置いた。その瞬間――鈴が二度鳴る。集まれ。人の輪が締まり、秤の周りが “見える場所”になる。屋台の鍋も歌い手も、視線をこちらに寄せる。
「水を」
俺の合図で桶が前に来る。中身は塩水。布がひたひたに濡れている。誰かが火打石を隠している気配があったからだ。火は祭りを壊す最短の手段だ。壊し屋はどこにもいる。「まず“重さ”を見る」
借用書を秤に乗せる。印を乗せる。粉袋をひとつ、ふたつ。目が見る。沈む。浮く。嘘が嘘でいられない場所。
「元金十五、返済済み五、残り十。利は十。二倍は二十。越えた十は“働き”で払う。――水路の泥上げ、夜三度、十日」
「誰が決めた」
爪男が舌を鳴らす。俺は老人を見た。
「やれるか」
「やる」
声は弱いが折れていない。水路守の腕章が薄く光る。塔番が遠くで杖を鳴らした。彼も“同意”の音を出す。
「若い者は?」
「元金十、返済三、残り七。利は七。二倍は十四。越えたなし。―
―七を返すために“働き”を乗せるか?」
若い男は頷く。「橋脚の修繕、縄編み、毎晩二刻」
「受ける」
秤がコトリと鳴る。重さが決まる。
「茶番はいい」
爪男が手を払った。「取り立てだ。――おい」
取り立てが老人の腕を強く引いた。鈴が三度。止まれ。俺は塩水布を掴み、灯りの根元に足をかける。火花が跳ねた。誰かが油を撒いた。布をかぶせ、一気に押さえ込む。火は空気を失って消えた。
周囲がどよめく。爪男の口元に歪みが走る。
「火遊びは高くつく」
俺は布を片手で押さえたまま、もう片手を上げた。バルトが棒を水平に構え、取り立ての手首に軽く当てる。関節が抜ける音が小さく鳴る。悲鳴は上がらない。上げさせない。音は夜を壊す。「殴れば二倍。刃は五倍。血は十倍。――払えるか?」
俺の声は静かで速い。爪男の目が細くなり、後ろの若い連中がわずかに足を引く。群れは空気の温度に敏い。彼らは血が高くつく夜を嫌う。
「灰貴会の掟は?」
俺は反撃に移る。「昔は“掟板”を守っていたんだろう。塔番が言っていた。冬の炭の値、春の水の値。――お前ら、いつそれをやめた」
爪男が返せない。返せない場所に連れてきた。秤の前、灯りの下、鈴が鳴る場所。
「試しは終わりだ。二ヶ月、秤の前で返す。灰貴会は“見せる”。
見せない取り立ては“凍土”。橋の外」
「誰が追い出す」
「皆だ」
屋台の主が鍋の蓋で台を叩いた。歌い手が短い節を入れる。粉挽きが手を止めずに頷く。塔番が杖で三度、石を叩いた。合図は揃った。
爪男は笑った。薄く、蛇のように。
「夜王。お前の秩序は脆い。紙だ。雨で破れる」
「だから灯りがいる。乾かすための」
爪男は顔の筋を引きつらせ、肩をすくめた。「よろしい。今日は乗ってやる」
彼は手を打ち、取り立てを引いた。若いのが悔しそうに舌打ちしたが、爪男は首を振るだけだ。群れは引く。引き際を知っている。 秤の前に静けさが戻った瞬間、塔番の鐘が四度鳴った。夜の真ん中。境目をもう一度越える音だ。老人が涙をこらえ、若い男が深く頭を下げる。印が紙からまた別の重さに変わる。俺の胸の針が、またひとつ動いた。
◇
祭りは続いたが、完全な勝ちではない。爪は引っ込めただけ。牙は削れていない。王都の犬も見ていた。黒外套――エルンストは屋台の影から短く手を上げ、去った。彼は結果を持ち帰る。俺は夜を回す。
片づけが終わる頃、ルゥナが駆けてきた。頬が上気している。
「レオン!」
「どうした」
「おかあ、笑った。粉のパン、食べた。……それと、これ」
彼女が差し出したのは、小さな包み。上等な布に包まれ、結び目は丁寧。中から出てきたのは、乾かした薬草の束と、小瓶。見覚えのある調合――王都の薬房でしか手に入らないもの。
「誰からだ」
「わかんない。扉の前にあった。紙、ついてた」
紙を広げる。文字は短く、整っている。癖が少ない。王宮の書記の字か、女の字か、判断はつきにくい。だが、最後の一行だけで十分だ。
――《もう少しだけ、そちらで生き延びてください》
握りつぶしそうになった手を、意識して緩める。紙は紙だ。信は重い。エリナの名はない。名がないから、なお重い。
「誰のだ?」
シルヴィアが背後から覗き込む。半面の奥の目が、俺の横顔の筋肉を見ているのがわかる。
「薬だ。効く」
「ふうん。――王都の匂い」
「匂いだけだ」
俺は包みをルゥナに返した。「母さんに。三滴。朝と夜」
「うん!」
ルゥナは走り去る。足音が軽い。灯りが彼女を拾う。俺は息を吐き、空を見た。星は薄い。雲が低い。雪が近い。
橋の端でバルトが立っていた。静かに言う。
「犬は帰った。爪も引いた。……が、影が残った」
「影?」
「屋根の上。王都の影。足音が広い。手が軽い。殺しの匂い」
暗殺者。王都の“影”部隊。追放者や反逆者を夜に消すための手。
兄の治世が短気なら、影は早い。
「狙いは?」
「殿下……いや、レオンだろう。だが、今夜は動かない。人が多かった。祭りで刃は映える」
「明日、動く」
「動く」
俺は頷いた。「なら、こちらも先に動く」
◇
深夜、橋の灯りを半分に落とし、秤の前にだけ明るい輪を残した。
周囲は暗い。暗い場所は影の居場所だが、影は光に寄る。光が輪になっていれば、入る瞬間が見える。
塔番が塔の上で待つ。鈴を持った子どもが三人、屋根を渡る。バルトは橋脚の陰に、折れ剣たちは縄梯子の近くに。シルヴィアは診療所で待機。血の匂いが出たら、すぐ走る。 空気が一度、沈んだ。足音が消える種類の静けさ。風が方向を変え、布がわずかに鳴る。俺は秤の横に立ち、目で夜を測る。
一歩。二歩。屋根の縁に影。三つ。速い。狙いは真ん中――秤の前に立つ“夜王”。矢か、投げ刃か。
鈴が一つ。塔番の合図。上からだ。矢が来る。弦の鳴る前の空気の引きつり。俺は半歩左にずれた。矢が石に刺さる代わりに――
矢は板に刺さった。新しく立てた《夜市掟板》の一番上、太い字の“一”の右側。羽根は白。矢尻は鋭い。柄の根元に、王家の薄い刻印。王都の影の矢だ。
塔番が鐘を一度、強く打つ。鈴が二度。集まれ。――影は引いた。
今日は“見せる”夜だったのだろう。『届く』という合図。灯りの下で掟板を狙う、正確な矢。
俺は矢を抜かずに残した。抜くより、刺さっている方が“見える ”。朝になれば街が見る。『王都は見ている』『矢は届く』『だが掟は折れない』――全部まとめて一枚の絵になる。
「始まったな」
バルトが呟いた。
「ああ。ここからだ」
俺は掟板に手を置いた。木は冷たいが、矢は熱を持っている。夜の間に、熱は冷め、木は固くなる。朝になれば、塔番が四度、鐘を打つ。犬は来る。爪も来る。影も来る。
だが、灯りがある。秤がある。印がある。鈴がある。走る子どもがいる。笑う医者がいる。折れた剣が立っている。塔が鳴る。 夜王の仕事は増える一方だ。いい。増えろ。掟の行を増やし、人の“戻れる道”を増やし、灯りの数を増やす。増えたぶんだけ、矢も増える。なら、板を増やせばいい。
俺は矢の羽根を見た。白い。王家の色。あの玉座の白い冷たさと同じ色。そこに、今は灯りの反射が小さく乗っている。
「――生き延びるだけじゃない。奪い返す」
声に出すと、胸の針がまた一つ、中央に寄った。夜は深い。だが色がある。次は“昼を奪う”。王都の言い訳より早く、ここに“結果”を積む。
鐘が遠くで、四度鳴った気がした。風が変わった。雪の前の匂い。
俺は矢の刺さった掟板を振り返り、短く告げた。
「第4話は、“昼を奪う”。」
第4話 昼を奪う
夜が明けると同時に、矢が刺さった《掟板》を見に来る者が絶えなかった。
老人も、子どもも、商人も、皆が言葉を交わす。
「王都の矢が刺さっても、板は折れねえ」
「矢より板が強いなら、ここも生き残れる」
誰かがそう言い、笑いが起きる。
矢は抜かずに残した。威嚇のためではなく、街の“印”として。
――昼を奪う。
王都の監視が日中に強いなら、昼をこちらの手に変える。
それが今日の目標だ。
◇
昼前、橋の下で粉を挽く音が止まった。
軸が折れたのではない。止めたのだ。
粉を挽くよりも先にやるべきことがある。
「昼の市を開く」
俺が言うと、バルトが片眉を上げた。
「夜市だけじゃ足りないか」
「王都の税吏は昼に動く。昼に人がいれば、奴らは無視できない。
“秩序がある”と王都に思わせる。それが第一歩だ」
ルゥナが手を挙げる。
「昼の市って……夜みたいに灯りはないよ?」「灯りはいらない。音と匂いを使う」
「音?」
「鐘と太鼓。昼を“鳴らす”。」
塔番の塔に登り、昼の鐘を三度打たせた。
その響きが街に広がり、子どもたちが太鼓を叩き始める。
屋台が開く。粉の匂い、肉の匂い、酒の匂い。
昼のノクティスが初めて息をした。
◇
昼市の中央に秤を据え、俺は板を一枚立てた。
《昼の掟》――
一、昼の鐘三度の間、売買に刃を抜くな。 二、昼の取引は“夜王印”で良しとする。
三、昼市で決めた約束は、夜にも通す。
ルゥナが印を配り、ミコが記録を取る。
バルトが警備し、シルヴィアは医務棚を出して簡易診療所を開く。
昼の街が初めて“形”になった。
「昼に商いが立つとはな」
声をかけたのは爪の男――灰貴会の使い。
だが今日は爪を磨いていない。
「お前の掟板、王都の矢が刺さってるぞ」
「見た」
「折れなかったな」
「折らせない」
男は鼻で笑い、昼市の人混みを見回す。「面白い。夜王。昼まで奪うつもりか」
「昼も夜も、人のものだ」
「なら、夜の商売はどうする」
「掟を守る者には開く。破る者は閉じる」
「なるほど。……覚悟はあるな」
「ある」
爪男は短く笑い、背を向けた。
背中に陽光が落ち、灰貴会の紋が一瞬、光を返した。
◇
昼市が終わりかけた頃、塔番が駆け下りてきた。
「王都の使いが来たぞ!」
馬の蹄の音。砂煙。
旗は黒、王都の紋章。
先頭に立つのは、昨日のエルンストだった。
「夜王。王都から“命”だ」
彼は馬を降り、巻物を差し出す。
封蝋はまだ熱い。
「『罪人街ノクティスにおける自治行為の一時停止』――陛下の名だ」
周囲がざわつく。
ルゥナが怯え、ミコが筆を止める。
「だが」
エルンストが声を落とした。
「この命は“王都に届く前”の写しだ。お前が持つ掟板を見せろ」 俺は板を指差す。矢が刺さったままの《夜市掟板》。 エルンストはそれを見上げ、微かに笑った。
「……いい。矢の届くところに立てたまま、生き残れ。
それが、今のところの“命”だ」
王都は止めに入った。
だが、まだ手を伸ばすだけだ。
次は掴みにくる。
◇
夜。
塔番が四度、鐘を鳴らした。
橋の灯りの下、矢の影がまだ掟板に伸びている。
俺は板の下に新しい行を書き足した。
《六、昼と夜を選ぶのは、王ではなく街》
バルトがその字を見て頷く。
シルヴィアが肩を叩く。
ルゥナが笑う。
エルンストの黒外套は、遠く塔の影の中に消えた。
夜王の手が、昼を掴んだ。
次は――王都の“心臓”だ。
第5話 心臓に針
王都――白い大広間は暖かいようで冷たい。壁に掛かる毛皮は厚いが、隙間風が言葉の端を凍らせる。
「ノクティスが“昼の市”を開いた?」
兄王は短く笑った。笑いは薄い金箔のように剝がれやすい。
「罪人どもが商人の真似か。よかろう、玩具が増えたと思えばいい」
側に控える宰相が目だけ動かす。「陛下、徴発の名目が弱くなります。『無秩序の鎮圧』が使えぬ」
「なら作れ。火事でも賊でも巫女の呪いでもいい」
兄は軽く言った。軽い言葉ほど重い血を呼ぶことを、彼は知らない。
そのとき、扉の影でエリナは睫毛を伏せた。祭服の白は静かに揺れ、指先は紙を挟んでいる。調薬帳から切り取った、小さな空白。文字はない。ただ白い。白は罪の色にも赦しの色にもなる。彼女は胸の奥で短く祈り、微笑を作った。
「陛下。ノクティスの“自治行為の一時停止”――命は?」
「書いた。今夜、伝令を出す」
「そう」
彼女は窓に目をやる。遠く、冬の光は薄い。「夜でなく、昼に届きますように」
「何だ」
「いえ、何でも」
彼女は頭を下げ、退いた。背を向ける間だけ、祈りの形をほどき、掌に小さく“印”の字を書く。約束の形。届かない祈りでも、手は覚えている。
◇
ノクティス――昼の市を畳み、夜の灯りを半分点す前に、バルトが低く言った。
「混じった」
「どこに」
「列の中。手つきが違う。金の握りに迷いがない」
シルヴィアが半面を傾ける。「王都の風?」
「いや、灰の風だ。灰貴会の“針差し”」
針差し――噂だけ聞いていた。相手の懐に入って小さな穴を開け、時間をかけて腑を漏らす。毒でも刃でもなく、穴。習慣に紛れる“ 単純さ”で崩す。
「どこから入る」
「秤の裏。印の書記の机」
俺はミコを見る。少年は黙って頷いた。
「紙が減る。数字がずれる。列が荒れる。それから“掟板は嘘だ” って噂が走る。――それが奴らの手筋」
「対策」
俺が言うと、ミコは手を上げた。
「秤の横で書く。紙は“穴開き”。夜結びは、僕とルゥナしかほどけない」
「もう一つ」
シルヴィアが顔を近づける。「“嘘の机”を作る。針差しを吸う場所。数字はわざとズラす。拾いに来た手を、掴む」
「罠だ」
「医者のやり方よ。血を引きたがってる静脈に、わざと針を置く」
決めた。秤の裏に“嘘の机”。紙は綺麗、印は薄い。数字は甘い。ここに食いつく指を“見る”。本物の机は橋脚の影、縄梯子の上。
ミコとルゥナと俺だけが行き来できるように、鈴を一本、梁に結ぶ。 日が傾く。塔番が四度、鐘を鳴らした。人が集まる。歌が始まる。
鍋が沸く。秤の前に、灰色の影はまだ来ない。だが“針の指”は来る。静かに、息のように。
ルゥナが袖を引いた。小さな囁き。「後ろ」
嘘の机に影が落ちた。薄い指先。爪は短く、皮膚は硬い。置いた紙を一枚抜く。筆を落とす。夜結びを真似た結びを作る。速い。上手い。
俺は支える男になり、鍋を運ぶふりで背中をすり抜ける。ミコは視線を落として書き続ける。ルゥナは鈴を指先でつまみ、音を殺す。
針差しは次の穴に進む。金箱の留め具。外して、戻す。数字を一つ、増やす。列の最後に“偶然の喧嘩”が起きる。二人が肩をぶつけ、皿が割れ、誰かが怒鳴る。――美しい流れだ。崩しの美学。俺は感心しつつ、心で舌を鳴らす。
“止まれ”の鈴を鳴らすわけにはいかない。まだ早い。人の流れは掴めている。掴んだまま、指を定位置に誘導する必要がある。
「鍋、足りない」
俺は大声で言い、屋台の主に印を二枚渡した。「秤前に二つ追加。無料。“掟に拍手”の鍋だ」
人が秤に寄る。拍手が起きる。針差しは一瞬だけ顔を上げ、視線をずらした。鼻の穴が小さく広がる。汗の匂い、油の匂い、粉の匂いが混ざる。指は再び動く――嘘の机の下、板の継ぎ目。そこで止まる。板が“ない”。空洞。俺が昼間に抜いておいた。 指が空を掴んだ一瞬、ルゥナの鈴が“二”と“半”の曖昧な音を鳴らす。合図は“見ろ”。バルトが柱の影を動き、シルヴィアが半面の奥で目を細める。ミコが筆を止め、俺が前へ一歩。
肩が触れる。針差しは反射で半歩下がり、背中を梁に当てた。梁から落ちる細い縄が、彼の肩甲骨に沿って落ち、腕に絡み――“夜結び”。解こうとすれば、肘が締まる。暴れれば、結びが深く沈む。
「……っ」
短い息。声を上げない訓練が行き届いている。良い手だ。惜しいくらいに。
「穴開けは嫌いじゃないが、場所を選べ」
俺は小声で言い、彼の手元から薄い針を抜いた。指先が震えない。
訓練の種類が見える。灰貴会の針差し。しかも“修道院上がり”。
祈りの呼吸で痛みを流す型。
「誰に言われた」
針差しは目を逸らす。俺は頷き、ミコに顎をしゃくった。ミコが静かに金箱を開け、欠けた数字を指でなぞる。列の最後の喧嘩は、屋台の主が笑い話に変えている。崩れない。壊れない。灯りは揺れるが消えない。
縄を解かないまま、俺は針差しの背を通路の端に寄せた。「“掟板”の前へ。座らせる」
「晒すの?」
シルヴィアの声には皮肉があったが、目は冷静だ。
「晒さない。喋らせる。――“戻れる道”を示す」
掟板の前、証言席。針差しを座らせると、人の輪の温度が一度下がる。恐れと好奇の混合。俺は手を上げた。
「この男は“針差し”。数字をずらし、金を漏らし、街を穴だらけにする手だ。だが今は、座っている。誰も殴るな。殴れば二倍。刃は五倍。血は十倍」
静けさが厚くなる。針差しの喉仏が一度上下する。俺は続けた。
「掟に“六”がある。『戻れる道は必ず示す』。――針差し。お前が穴を覚えてきたように、“塞ぐ”方法も覚えられる。塞げ。十夜。
秤の下、橋脚、屋根。全部の穴を見つけて塞げ。夜王印は“働き” で支払う。逃げたら、橋の外だ」
ざわめき。誰かが「甘い」と言い、誰かが「それでこそ」と言う。塔番が杖で石を一度叩く。統一の合図。街の呼吸が揃う。
針差しは沈黙したまま、やがて小さく頷いた。祈りの呼吸。諦めではなく、受け入れの動きだ。
「名前は?」
「……デイル」
「デイル。十夜で穴を塞げ。塞いだ数だけ、印に刻む。――お前の
“戻り道”だ」
人の輪が少し緩む。張り詰めた糸が返る音がする。シルヴィアが肩をすくめた。「医者いらずなら助かるけど?」
「針は手袋を貫く。油断はしない」
バルトが短く頷いた。「見張る」
◇
夜更け、エルンストが橋の影に現れた。黒外套は灯りを嫌い、境目を歩く。
「針差しを捕ったと聞いた」
「“塞ぐほう”に回した」
エルンストは一瞬だけ目を細め、次に柔らかく息を吐いた。「そのほうが証拠が残る。穴の位置、手順、指示系統」「王都に持っていくのか」
「持っていく。……それと、王都から伝令。『自治行為の一時停止』は――明日の昼に“届く予定”だ」
「予定?」
「伝令は馬が遅れる。路が凍る。橋が落ちる。塔の鐘が迷う。いろいろある」
彼は肩をすくめた。笑いは相変わらず口元で止まる。
「それと、王城から書付が一枚。お前の“婚約者の部屋”で見つかった走り書きだ。正式な文ではない」
差し出された薄紙には、短い線だけがあった。直線が二本、平行に引かれ、その間に小さな“点”。下に小さく“L”の文字。―― レオンの頭文字。
「これは?」
「道の印だ。王城の裏廊の、二本の廊下と渡り廊下の位置。『点』は隠し扉。そこに“遺書の原紙”があるという示唆かもしれない。あるいは罠。だが、書いた手はおそらく――」
エリナ。言われなくてもわかる。癖の少ない筆圧、余白の取り方、紙の選び方。王宮で学んだ“きれいな手”の書だ。
「僕は犬だ。王城の裏廊に勝手に入れない。――夜王。君の手のほうが届くかもしれない」
「どうやって」
「灯りで。塔番に鐘を三度鳴らせ。昼に。犬と爪の耳は昼に曇る。君は夜に動け」
彼は身を翻し、半歩だけ戻って囁く。「明日、王都の“影”が動く。矢ではなく手。掟板は狙わない。君を狙う。橋の下、右側。水の流れが緩いほう」
「ありがとう」
「礼はいらない。結果だ」
エルンストは闇に溶けた。犬は犬らしく吠えず、走った。
◇
星は薄い。風は雪前の匂いを運ぶ。橋の下の水音は控えめで、右側の流れは確かに緩い。影はそこを選ぶ。塔番に昼の鐘を三度打たせ、街の視線を“上”に引き付けている間に、俺は“下”に落ちる。
縄梯子。濡れた石。冷たい藻。足場は悪い。だが、足音は吸われる。灯りは上にある。下は目に入らない。――影の動線が見える。
王城で何度も見た。礼の裏の行進。静寂の手順。
背後に気配。水の跳ね。刃が寝かされ、息が殺される。
「夜王」
ささやきは風の音と混ざり、意味を隠す。俺は返事をしない。体を半歩ずらす。刃が通り過ぎる。肘で手首を抑え、膝で踏む。水音を上げない角度。影はもう一人。縄。夜結び。足首。引く。石に当てず、藻に沈める。
「……訓練を受けてる」
バルトの声が上から降る。いつのまにか橋脚の陰にいた。折れ剣が二人、左右を塞ぐ。影は多くない。三。矢の夜ではない。手の夜。
掟板ではなく喉を狙う夜。
「殿下」
「レオンだ」
「――レオン」
影の一人が息を取り戻し、低く言う。「命は“連れ帰れ”だった。
生かして、連れ帰れ」
「誰の命だ」
「言えない」
「なら、戻れ」
縄を強く引き、脈を確かめる。死なせない締め方。戻れる道。ここでも同じだ。敵にも戻り道を作る。戻る場所が腐っていれば、戻っても腐るだけだが――腐りは匂う。犬が嗅げば、掘り返せる。
影を縛めて橋上に上げると、塔番の鐘が四度鳴った。昼と夜の境。雪が降り始める。白い点が灯りに落ち、溶け、また落ちる。
掟板の前で、俺は新しい行を刻む。凍る前に、息を吹きかけ、指で温め、刻む。
《七、影もまた人。縛めるは刃に非ず、掟にて》
シルヴィアが半面の奥で苦笑する。「きれいに書いたね」
「汚く書けば、読めない」
「読ませたいのは誰?」
「街。――そして、王都の“影”」
バルトが短く頷いた。「心臓に針を刺すなら、先に自分の鼓動を整えろ、だ」
「そうだ」
俺は板の木目に掌を当てる。木は冷たいのに、内側に熱がある。街の心臓の熱。灯り、秤、鈴、走る足、笑う声、鐘の音。全部が鼓動だ。
夜はさらに深くなる。だが、矢よりも針よりも、深く通るものがある。掟の行、印の紙、そして“戻れる道”。それが、王都の白い冷たさに穴を開ける。“小さな穴”は、いずれ大きな亀裂になる。
――心臓に針を。だが折らない針を。
刺して、血ではなく、鼓動を思い出させる針を。
雪の匂いが濃くなる。塔番が杖で石を一度叩いた。合図。明日は “裏廊”。王都の心臓に、別の針を。
第6話 裏廊の灯
雪は、夜の王都を静かに覆っていた。
塔番の鐘が三度鳴り、ノクティスでは昼を告げるその音が、王城では“裏の刻”を意味する。
誰もが食事を終え、廊下を行く足音だけが響く――そのわずかな隙に、俺は動いた。
◇
エルンストから渡された図を思い出す。
二本の平行な廊下、その間に小さな点。
点は「隠し扉」――そして、エリナが書き残した“L”の印。
灯りを持たず、壁の蝋燭に映る影の角度だけで進む。
指先で石壁を撫でると、指の腹に違和のある箇所があった。
押す。
わずかな空気の揺れ。
音もなく、壁が横に滑る。
中は狭い。乾いた空気。
机と、棚。
机の上には一枚の書類があった――羊皮紙、王家の封蝋。
“副長の遺書”と書かれた題。
震える指で封を切る。
そこに書かれていたのは―― 『レオン殿下の命により、糧倉を移送した』
『証人として王女エリナが確認した』
だが、文字の流れが不自然だ。 筆圧が三行目で変わっている。
書いた者が変わった。
筆跡を追う。
後半の行は、見覚えのある形だった。
王女の字ではない。彼女の侍女の手、ナナ。
字を整える練習を手伝ったことがある。
――なら、この遺書は途中から“書き換えられた”。
「やっぱり、来たのね」
背後から声。
ゆっくりと振り向く。
薄布のベール、金糸の髪。
エリナだった。
「王都の影は?」
「外で待たせたわ」
彼女は一歩近づき、机の上の書を見た。
「あなたが無実だと、誰にも言えなかった。
兄上に逆らえば、王家が割れる。……それでも、あなたに届く道が欲しかったの」
「届いた」
「ええ。でも、遅かった」
彼女の手が、机に残る封蝋を握り潰す。
薄く涙が光った。
「ノクティスで、あなたは“王”になったそうね」
「王じゃない。掟を作っただけだ」
「掟は王より強いわ」
彼女は微笑む。
その笑みが、記憶の塔を一瞬で崩した。
「……この文書を持ち出せば、あなたを罪人にした証拠になる。
でも、それだけじゃ王を倒せない」
「だから、これを“灯り”にする。
真実は燃やすものじゃない。照らすものだ」
彼女は頷き、懐から小瓶を取り出す。
淡い青の液体――見覚えがある。ノクティスで母子を救った薬。「あなたの街へ、これをもっと送りたい。けれど、私の立場ではもう……」
「俺が取りに行く」
「無茶をしないで」
「無茶しかしてない」
ふっと、彼女が笑う。
その瞬間、外の石廊で金属音が鳴った。
刃の交わる音。
「見つかった!」
エリナが声を詰まらせる。
扉の外で、影の男たちが動く気配。
エルンストの警告が脳裏をよぎる――“矢ではなく手”が来る、と。
「行って、レオン!」
彼女が机を押し、壁の反対側の出口を開く。
「これは私が持っていると怪しまれる。……あなたが、外で証にして」
俺は遺書を懐に入れ、彼女を見た。
「必ず戻る」
「そのときは、昼の鐘を聞かせて」
壁を抜けると、冷たい風が頬を打った。
外は雪。
城壁の下を走り、石段を駆け下りる。
背後で鉄の扉が閉まる音がした。
胸の中で、紙の端が汗に濡れ、重くなった。
◇
ノクティスの塔に戻ると、鐘が四度鳴った。
街はまだ眠らない。
ルゥナが走ってきて、息を切らす。
「レオン! 王都の犬が……!」
「知ってる。準備を」
俺は懐の文書を出し、塔番に預けた。
「塔の最上段、矢が届かぬところに保管を」
「守ろう。命よりも堅く」
外では、雪の音がまた強くなる。
夜の底に、灯りの輪がひとつ、ふたつと増えていく。
矢も針も届かないその輪が、確かに街の“心臓”を動かしていた。 ――掟板の次は、王座だ。
それを奪うのは、剣ではなく“信”。
俺は拳を握り、雪を掴んだ。
指の中で溶けた水が、熱を伝える。
夜王が、再び歩き出す。
(続く)
第7話 雪の告示
雪は止まない。屋根の縁から白が垂れ、橋の欄干に指の跡がつく。
塔番は最上段で書付の箱を抱いたまま、鐘の縄に手をかけている。
中の羊皮紙――王都が偽った“遺書の原紙”は、まだ温い。
「どうする、レオン」
シルヴィアが半面の裏で目を細める。バルトは橋脚の陰で縄を点検している。ルゥナは走る準備で靴紐を固く結んだ。
「晒す。だが“燃やすため”じゃない。街に“読ませる”」
「王都の文言を?」
「要約して、掟板の横に『雪告(ゆきごくじ)示』として貼る。全文は塔で保管、写しは三枚。ミコ、書けるか」
「書ける」
ミコは凍えた指を擦り、板に紙を固定した。俺は短く区切った文を口にする。嘘の継ぎ目、筆圧の変化、証人名の捏造――地の文でなく、誰にでも分かる言葉で。
「『三の行より筆が変わる』『副長の死後の証言』『王女の侍女の筆跡』……」
「『王都は焦っている』も書いとく?」
シルヴィアが茶化す。俺は首を振った。
「感情は要らない。事実だけ。読む者に“考えさせる”」
「はい、王子先生」
彼女は半面の口元を上げ、薬棚から墨の凍り止めを出してミコに渡した。
塔番が鐘を四度鳴らす。昼と夜の境目。雪の粒が揺れ、街の視線が掟板へ集まる。俺は新しい行を刻んだ。 《八、証は灯り。声でなく、目で示す》
刻み終えると、ミコが写しの一枚を掲げる。文字は大きく、歪みがない。ルゥナがそれを胸に抱え、橋の向こうへ走る。二枚目は礼拝堂の前、三枚目は水車の脇。塔には原紙と共に、写しの裏に“印 ”。
「雪告示だ!」
誰かが叫び、輪ができる。読める者が声に出し、読めない者が耳で追う。疑いは“怒り”より遅いが、深く潜る。沈黙が厚くなり、鍋の湯気に塩の匂いが混じった。
――その匂いに、灰貴会は牙を見せる。
橋の端、昨日とは別の“爪”が現れた。背が低く、手が太い。火薬袋を二つ提げ、笑うと歯茎が赤い。
「灯りは見た。次は粉を見せろ」
彼が火打石をかざす。合わせて三人が水車の根に油を撒く。風は弱い。火事には最適な夜だ。
「撒くな」
俺が言った瞬間、塔番が鐘を一度だけ強く打った。合図。橋の下の堰板が外れ、溜めた水が噴き出す。水車が唸り、根元から白い飛沫が立つ。油の筋に塩水布が飛び、ルゥナと子どもたちが濡れ布を投げる。炎が上がる前に“重さ”で潰された。
「っ……!」
爪が火打石を落とす。バルトが棒で軽く払って彼の手首を“鳴らす”。派手さはないが、痛みは深い。取り巻きが一歩引く。群れは温度で動く。雪は冷たい。彼らの勢いはそこで止まった。「掟を読め」
俺は指さす。八の行が雪を吸って黒く濃い。爪は顔を歪め、唾を吐こうとして、吐けない。人の目が多すぎる。“証”を目の前にして嘘はつきにくい。
「夜王。読み書きできねえ魚にも“証”が食えるのか」
「食える。粉になるまで擦る。そうやって“消化”する」
「上手いこと言う」
「上手いことじゃない。やることだ」
爪は肩をすくめ、気配を消した。「今夜は寒い。……凍る前に引く」
奴らは雪の網に紛れる。追わない。追えば流れが乱れる。秩序は
“見る側の時間”で固まる。
雪告示の輪が一段落した頃、黒外套が現れた。エルンストは雪を払わず、そのままの姿で秤の前に立つ。
「王都から正式に来た。命の写しと、もう一通」
彼は巻物を二本掲げ、一つを俺に渡す。封蝋は王の紋、もう一つは法務院の印。
「『自治行為一時停止』と、『公開尋問の許可』」
周囲がざわつく。エルンストは肩をわずかにすくめた。
「前者は陛下、後者は院長。相反する。だから“現地裁量”だ。―
―王都の言い訳が足りないうちは、秤をこちらに任せたい」
「公開尋問、どこで」
「ここで。掟板と秤の前。証人は三人まで。質問は十五まで。王都の人間が“立会い”」
「犬が見てる間に、王の嘘を“目で示す”」
「そうだ」
エルンストは声を落とす。「だが、お前を連れ帰れという命も生きている。誰かが“手柄”を欲しがっている」
「来るのは誰だ」「黒い帷の馬車。雪を裂いて走る。……宰相の使いか、あるいは“ 金庫番”」
金庫番――王都の裏金の主。糧倉の鍵の本当の行き先を知っている男か。
塔番が鐘を三度鳴らす。昼の合図だが、雪の夜に鳴ると音の輪郭が違う。耳が冷たく、音は遠くへ滑る。俺は頷き、声を張った。
「明日、昼の鐘《三》の後、『公開尋問』をここで行う。証人は塔番、近衛“折れ剣”のバルト、灰貴会の“針差し”デイル。――王都の立会いのもと、“雪告示”の真偽を秤にかける」
人の輪が膨らみ、音が街路に広がっていく。誰かが歌いだし、鍋の蓋が二度叩かれる。沈黙ではなく“待ち”の音だ。
「……で、殿下」
バルトが低く言う。俺は目だけで制す。「レオンだ」
「レオン。黒い帷が来た」
雪の幕の向こう、灯りの端に、闇を切り裂く尖った影が現れた。車輪は大きく、幌は分厚い。馬具は黒い革。御者台の男は顔を布で覆い、背筋がまっすぐだ。後ろに二騎。いずれも剣を高く持たないが、動きが軽い。王都の“動く金庫”の匂いがする。
馬車は橋の手前で止まり、帷が内側から開いた。ふくらんだ毛皮の襟、細い指、乾いた目。降りてきたのは、宰相でも将でもない。
細身の男で、髪に雪が似合わない顔。だが歩き方に隙がない。
「夜王殿。……初めまして」
声はやわらかいが、温かくはない。男は薄く笑い、握手を求めるでもなく、秤の石台に視線を落とした。
「私は王都金庫局・主計頭、(しゅけいのかしら)カーデン。糧倉の勘定は、私の責任だ」
ざわめきが走る。エルンストの視線が鋭くなった。シルヴィアは半面の裏で舌を打ち、ルゥナは印の束を握り直す。バルトは一歩、間合いを詰めた。
「公開尋問の“立会い”に参った。――それと、もう一つ」
カーデンは雪告示の紙に目を通し、ゆっくりと首を傾けた。
「この“証”。面白い。だが、紙は風で破れる」
「だから板に刻む」
「板は火で焼ける」
彼は笑っていない目で笑い、指を鳴らした。後ろの騎が箱を降ろす。金ではない。秤の分銅と、鋼の印板。王都式の“公印”の道具だ。
「王都の秤で、王都の印で、“ここで”測ろう」
挑発か、賭けか、あるいは“握り”。俺は一拍置き、頷いた。
「秤は歓迎する。印も。――ただし、『問』は俺が選ぶ」
「よろしい」
カーデンは分銅を石台に置き、雪を払った。「明日、昼の鐘の後。嘘が重ければ、沈む」
風が強くなる。雪片が灯りを踊らせ、影を伸ばす。塔番が夜の鐘を四度鳴らした。境目。俺は掟板に手を置き、新しい行の位置を探る。今は刻まない。明日の“問”のあとに刻む。
その夜――灰貴会の爪は影に潜り、王都の犬は遠巻きに輪を作り、主計頭の馬車は塔の見える距離で止まった。誰も寝ない。鍋だけが静かに音を立て、ルゥナの足音だけが路地から路地へ“印”を運ぶ。
ミコがふいに顔を上げる。「レオン。字は、どこまで大きくする
?」
「一番遠い屋根から読める大きさで」
「屋根の雪が邪魔だ」
「なら、声も用意する。読む者を三人立てる。塔番、歌い手、それと――」
「エリナの声があれば一番通るんだけどね」
シルヴィアの不用意な一言に、胸がひやりとした。だが、否定はしない。彼女はもう、自分の声の置き場所を選べない。だから俺たちが“置き場”を作る。
雪はさらに深くなった。夜王の街は白に塗られていく。白は罪の色にも赦しの色にもなる。俺は灯りの輪を一つ増やし、塔に向かって短く告げた。
「明日の問は十五。嘘は五、事実は十。――沈むのはどちらだ」
塔番が杖で石を二度、軽く叩いた。合図。“聞いた”。
バルトが棒を肩に担ぎ、見張りの位置を変える。
シルヴィアが薬と布を整え、ルゥナが最後の印束をポケットにねじ込む。
エルンストは黒外套の襟を立て、主計頭の馬車を横目に、見えない犬歯を隠した。
雪は止まない。だが、灯りは増えた。
掟板の八の行が、白の上で黒く、強く、静かに立っている。
――明日、秤の上で“王都”を量る。
夜王は、深く息を吸った。
第8話 秤の前の問い
昼の鐘が三度鳴る。
雪の光を弾いた塔の影が、掟板の前に落ちる。
その下に、三人の証人と一人の王都使、そして俺。
街のすべてが“見る者”になった。
◇
塔番が杖を鳴らした。「これより、公開尋問を始める!」
声が雪の反響で広がる。
秤の台には、王都から持ち込まれた鋼の分銅と印板が並ぶ。
主計頭カーデンが静かに手を上げた。
「では、夜王レオン。あなたの罪と称された“糧倉移送事件”について、
まず、あなた自身の言葉で説明していただきましょう」
俺は一歩前へ出た。
「俺は、腐った糧を民に食わせたくなかった。
だから、寒村に回るはずだった穀を、別の倉へ移した。
王都はそれを“横領”と呼んだ」
ざわめき。
カーデンは冷笑を浮かべ、次の巻物を開く。
「王都法務院に記録がある。“副長の遺書”によれば、あなたの命で移送が行われたと」
俺は懐から紙を取り出した。
羊皮紙の、筆跡が途中で変わる“原紙”。
塔番が前に出て受け取り、秤の右皿に置く。
左皿には、カーデンが持ち込んだ王都の写し。
分銅が置かれる。
秤は、わずかに左へ傾いた。
「王都の写しのほうが重いようだ」
カーデンが勝ち誇るように言う。
だが塔番は眉をひそめた。
「封蝋の中身が違う。蝋に“砂鉄”を混ぜて重くしてある」
ざわり、と人々が息を呑む。
俺は言った。
「“重さ”は真実の証じゃない。
けれど、混ぜものをすれば、どんな秤でも傾く。
それを俺に向けて作ったのが、この“遺書”だ」
ルゥナが紙の端を掲げる。
「見て! 三行目の筆が変わってる!」
ミコが読み上げる。
「“副長の死後の証言”――死んだあとに証言できるの?」
笑いが起こる。だが、それは嘲笑ではなく“納得”の音だった。
◇
カーデンの頬が引きつる。
「筆跡など、子どもの遊びにすぎない。証人を出せ」
「なら、出そう」
俺は橋の向こうを見た。
雪を踏みしめ、黒外套が一歩ずつ近づく。
――エルンスト。
彼は立会い人として出ることを許された、ただ一人の王都人だ。
「この遺書を届けた使者を、覚えているか」
「覚えている」
「誰だ」
「主計頭カーデンの書吏、《ナナ》――王女エリナの侍女でもある」
群衆がどよめく。
カーデンが一瞬、視線を逸らす。その目に、初めて“焦り”が見えた。
「その侍女は二日前、王都で“失踪”しました。
――死体は見つかっていない」
エルンストの声は低いが、雪より鋭い。
「遺書の後半を書き換えた手が、その侍女のものなら、
彼女を消したのは“遺書の中身”を隠したい者だ」
◇
カーデンは叫ぶように笑った。
「夜王! これはただの見世物だ!
秤など、雪の上では役に立たない!」
「そうだな」
俺はゆっくりと秤の台に手をかけた。
「だからこそ、王都の秤を“ここに持ち込ませた”んだ」 俺は右の皿に、王都の分銅ではなく――ノクティスの印石を置いた。
街の者が作った、ただの石に“印”を刻んだだけのもの。
けれど、それは“働いた手”が押した重みだ。
秤は、中央で静止した。
どちらも沈まない。どちらも浮かない。
――真実の針は、止まった。
「これが“秤”だ。
王都の印も、街の印も、どちらかが上でも下でもない。
ただ、針が揺れないところに“正しさ”を置く」
塔番が鐘を鳴らした。
雪の中に、澄んだ音が広がる。
群衆の中で、誰かが拍手をした。
ひとり、またひとりと音が増え、白い夜に波のような響きが生まれる。
◇
カーデンは歯を噛み、拳を握った。
「このままでは終わらん。陛下は黙っていないぞ!」
「黙らせる。――次は“心臓”に針を打つ」
俺の言葉に、彼の表情が止まった。
その瞬間、塔番の上で赤い閃光。
王都の旗の色。
――矢だ。
だが狙いは俺ではなく、掟板の“八の行”。 火矢が突き刺さり、墨が焼ける。
ルゥナが叫び、子どもたちが布で覆う。
だが、焼け残った一文字が、雪の中で黒く浮かんでいた。
《目》――証は“灯り”。
カーデンが顔を背ける間に、エルンストが俺に囁いた。
「撃たせたのは宰相か、兄王か。……だが、これで分かった」
「何が」
「矢が届くってことは、城壁の内側に“味方”がいる。
王都も、割れ始めた」
◇
夜、雪はさらに深くなった。
掟板は半分焦げて黒いが、立っている。
塔の鐘は四度。
俺は焼け残った部分に、新しい行を刻んだ。
《九、針が止まるところに、真実を置く》
バルトが肩をすくめる。「ずいぶんと簡潔だな」
「簡潔じゃなきゃ、覚えられない」
「次はどうする」
「王都の“心臓”を奪う」
「どうやって」
「灯りで。――城の中にもう一度、光を点す」 雪の夜。 黒外套の犬は月を見上げ、街の子どもたちは鈴を鳴らす。
その音が王都まで届くことを、俺は知っている。
矢も針も届くなら、灯りだって届く。
ノクティスの空に、灯りが三十、四十と増えていく。
雪を透かして、王都の白壁に映える。
そして――遠く離れた王城の窓で、
一つの蝋燭が、同じ時に灯った。
エリナが灯した小さな炎だった。
(続く)
第9話 王の影
夜の王城は、音を立てずに息をしていた。
雪明かりが薄く差し込む廊下の奥、ひとつの蝋燭が微かに揺れる。
その前に、白い指先を組んで座る影。
「……燃えぬものなど、ないのだな」
兄王――アーネスト・アルヴェインは、掌の上で小さな紙片を燃やした。
燃え残ったのは“L”の一文字。
彼は灰を払うように指を振り、窓越しに雪を見下ろした。
下界の遠い光――ノクティスの灯火が見える。
それはまるで、王都の底に浮かぶ星の群れのようだった。
「弟のくせに、ずいぶん騒がしい」
彼の背後に立つのは、宰相オズリック。
長身で、声が低い。
アーネストはグラスの中の酒を軽く揺らした。
「“夜王”だと。愚民はすぐ名前を欲しがる。
秩序を作る者には、いずれ神話がつく。――厄介なことだ」
「処置を?」
「するさ。だが、剣ではなく、針だ。痛みを遅らせて、見せしめにする」
「例の主計頭カーデンを?」
「奴は使い捨てだ。王都の秤が傾いた時、真っ先に落とす重りになる」
アーネストは微笑んだ。
笑みは氷の表面に映る光のように薄く、冷たい。
「それより、エリナだ。……彼女の部屋から、あの走り書きが見つかったと聞いた」
「確認済みです。扉には鍵を」
「いや、閉じるな」
王はゆっくりと立ち上がり、窓辺に近づいた。
「光は閉じ込めるほど強くなる。
どうせなら、彼女の灯りで“夜王”を呼び寄せるほうが早い」
その声には、かすかに狂気が混じっていた。
◇
ノクティス。
雪明けの朝は白く、静かで、そして重い。
塔番が鐘を鳴らす前に、俺は橋の上で冷気を吸い込んだ。 夜明け前に届いた報せは一つ――「王都の宰相、動く」。
エルンストの暗号だ。
犬が吠えれば、爪も動く。今日中に、必ず報復がある。
「レオン!」
ルゥナが駆けてくる。頬が真っ赤だ。
「さっき、北の道で王都の旗を見た! 二十騎!」
「堂々と来るか……」
バルトが背の剣を確かめ、うなった。
「戦支度は?」
「させない。これを“戦”にしたら、終わりだ」
俺は橋の端を見渡した。
雪に濡れた掟板はまだ立っている。焦げた八の行の下に、昨日刻んだ九の行が輝いていた。 ――針が止まるところに、真実を置く。
「バルト、秤を動かせ。ミコ、記録を。ルゥナ、鈴を三度鳴らせ」
命じると同時に、鐘の音が重なる。
塔番の鐘が空を裂き、街が動いた。
◇
午前。
黒帷の馬車が再び現れた。
昨日の主計頭カーデンが、今日は鎧をまとっている。
肩の紋章は王家の双竜。
つまり――「王の直接命令」だ。
「夜王レオン。陛下の命により、貴殿を拘束する」
「罪状は?」
「国家反逆。秩序の簒奪。そして、王女への接触」
最後の一文に、群衆がざわめく。
ルゥナが歯を食いしばる。
「“接触”って……!」
俺は手を上げて制した。
「俺は逃げない。秤を使え。証で測る」
「秤など不要。――これが“王の秤”だ」
カーデンが剣を抜く。刃が日光を弾く。
その瞬間、橋の下から鐘の音。
鈴の三度鳴る音。
「“集まれ”だ!」 ルゥナが叫ぶ。 街が動いた。
粉屋が袋を抱え、医師が布を掲げ、塔番が旗を振る。
橋の両側から人が集まり、秤の周囲に輪を作る。
それは兵でも軍でもない。
――市。
カーデンが唇を歪める。
「民を盾にするつもりか」
「盾じゃない。“目”だ」
俺は一歩前に出る。
「昨日も言った。“証は灯り”。
今ここで俺を斬れば、王の刃が“証”を焼く光景を、
この街の全ての目が見ることになる」
カーデンは息を詰めた。
彼の背後に控えていた騎士たちが、一瞬だけ目を泳がせる。
その隙に、エルンストが黒外套のまま前に出た。
「主計頭殿。陛下の命を受けているなら、文を見せろ」
「……口頭命令だ」
「なら、秤にかけるまでもない」
エルンストは短く笑い、雪を踏みつけた。
「王が“秤”を持たぬなら、ここが国の秤になる」
◇
沈黙が走った。
雪の粒が舞い、空気の色が変わる。
俺は掟板の前に立ち、手を広げる。
「――問う。
王とは何だ。剣を持つ者か、秩序を作る者か」
塔番が鐘を鳴らす。
街の屋根が震えるほどの音。
ルゥナが泣きながら鈴を振る。
雪告示の紙が風に舞い、焦げた行の上に貼りついた。
《証は灯り》
その下に、新しい行を刻む。
《十、秤を奪う者は、王に非ず》
ミコが震える手でそれを書き写す。
街の人々が息を詰める。
その時――
黒帷の馬車の中から、細い手が見えた。
白く、震えている。
その指が、帷をわずかに開く。
見えたのは、金糸の髪と、涙の瞳。
「レオン……」
エリナだった。
王女自ら、馬車の中に監禁され、連れて来られていたのだ。
彼女の唇が動く。
「逃げて……兄上が、ここに……!」 その瞬間、空気が裂けた。 遠く王都の方角――高台の上で、
“白い旗”が燃え上がる。
王の紋章が、炎に飲まれた。
「――やつが来る!」
エルンストが叫ぶ。
◇
轟音。
雪の空を裂いて、馬群が降りてくる。
白銀の鎧、紅のマント。
その先頭に立つ男――兄王アーネストが、剣を掲げていた。
「夜王レオン・アルヴェイン!
我が血に逆らう者よ――その灯り、今ここで断つ!」
剣に纏う光が白く輝く。
雪を弾き、氷を割り、空の色を変える。
俺は掟板を振り返り、最後の行を見つめた。
針が止まるところに、真実を置く。
ならば――その針を、王都ごと止めてやる。
塔番の鐘が五度鳴った。
昼でも夜でもない、“決戦”の鐘だ。
夜王と王。
兄弟の秤が、今、雪の上で揺れ始めた。
(続く)
第10話 兄弟の秤
風が鳴いた。雪の粒が一斉に吹き上げられ、視界が白に溶ける。
その真ん中で、二人の影が向かい合った。
――兄王アーネスト。
王の冠の下の瞳は、血のように赤かった。
俺は、掟板の前に立つ。背後には街の灯、前には玉座を背負った男。
夜と昼が、秤の上でつり合う。
「レオン。まだ間に合う」
兄の声は静かだった。
「膝を折れ。夜王ごっこは終わりだ。お前はこの国の“飾り”に戻ればいい」
「……飾りで済むなら、民は寒さで死ななかった」
俺の言葉に、兄の眉がわずかに動く。
「理屈を語るか。弟らしい」
「理屈を捨てた王に、誰がついていく」
アーネストは笑った。
その笑みは、雪を焦がすほど冷たい。
「誰がついてくるか? 全ての“秩序”がだ」
剣を抜く。白光が雪を裂く。
「王の命は、法。お前の掟など、紙の遊びに過ぎぬ」
◇
轟音が走った。
王の剣から放たれた光が、掟板をかすめ、雪を蒸発させた。
板が一瞬で焦げ、黒煙を上げる。
だが倒れない。塔番が縄を引き、後ろで支えていた。
バルトが叫ぶ。「殿下、下がれ!」
「レオンだ!」
「――レオン!」
俺は兄の剣先を見据えた。
刃の光の奥、ほんの僅かに震える手首。
そこに迷いがあった。
「兄上。あなたは、俺を憎んでいない」
「……黙れ」
「憎めないのは、王の血よりも、人の血を知ってるからだ」
「黙れ!」
アーネストが踏み込み、刃が閃いた。
地面の雪が爆ぜ、俺の頬を掠める。
冷たい血が一滴、雪を染めた。 だがその瞬間、矢が一閃した。
――王都の方角から。
黒外套の犬、エルンストの放った矢が、王の剣を弾いた。
金属の音が空を裂く。
「兄弟喧嘩にしては、やりすぎだ」
エルンストが歩み出る。
黒い外套の裾が雪を払う。
「王都の犬が、弟に尻尾を振るのか」 アーネストが吐き捨てる。「犬は“針”の匂いを嗅ぐ。……王の心臓に刺さった針を、嗅いでるだけだ」
◇
風が止んだ。
雪の向こう、エリナが馬車から降りた。
手を震わせながら、兄と弟の間に立つ。
「兄上、もうやめて。――この国は、もう血で温まらない」
「下がれ、エリナ!」
「嫌です!」
彼女の声が雪を貫いた。
その細い腕が掟板の焦げ跡を撫でる。
「見てください。
レオンは“秩序”を作ってる。あなたは“恐れ”を作ってる。
どちらが王ですか?」
アーネストの剣が、僅かに下がった。
だが、その瞬間――
背後の兵が叫ぶ。「陛下、危険です!」
誰かが引き金を引いた。
矢が、空を裂いた。
「――エリナ!」
俺は叫び、身体が勝手に動いた。
矢が白い線を描き、王女の胸元へ。
俺は腕を伸ばし、彼女を抱き寄せた。
熱が走った。
肩口に痛み。血の匂い。
矢が俺の肩を貫いていた。
◇
「……兄上。これが、あなたの秩序か」
息を乱しながら、俺は笑った。
兄は凍りついたように動かない。
やがて、ゆっくりと剣を下ろした。
「違う……違うんだ、レオン……」
「なら、秤にかけろ。王の剣と、民の灯りを」
アーネストは足元の雪を見た。
白の上に、血と墨が混じる。
焦げた掟板が、倒れずに立っている。
その九の行が、風に揺れた。
《針が止まるところに、真実を置く》
彼は剣を投げた。
剣が雪に突き刺さり、音を立てて止まる。
「……お前の勝ちだ」
その言葉に、街が一斉に息を吐いた。
誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが鐘を鳴らした。
雪が、まるで拍手のように降る。
◇
俺はその場に膝をついた。 エリナの腕の中で、傷口から血が流れる。
「……泣くな。俺は、まだ終わってない」
「でも――」
「掟板を、もう一度立てる。今度は、王都の真ん中に」
彼女の涙が頬に落ちた。
それは血よりも熱く、雪よりも透明だった。
◇
夜。
王都の玉座の間に、火は灯らなかった。
アーネストは冠を外し、塔番に渡した。
「秤は壊れた。……だが、針はまだ動く」
その言葉は、雪のように静かに沈んだ。
ノクティスでは、塔番が鐘を鳴らす。
十度の音が、夜空に広がる。
掟板の最下行に、ルゥナが新しい文字を刻んだ。
《十一、王は一人ではなく、街にある》
風が吹く。
塔の灯りが、王都とノクティスをひとつに繋いだ。
夜王と王の秤――
その針は、静かに中央で止まっていた。
(終章へつづく)
終章 光の秤
雪はもう、降っていなかった。
ノクティスの朝は静かで、澄んでいて、まるで何もなかったかのように穏やかだった。
だが、街の輪郭は昨日までと違っていた。
――灯りが増えていた。
掟板は塔のふもとに移された。焦げた跡も、そのまま残して。
塔番が磨き、ルゥナが花を飾り、ミコが紙の写しを束ねて掲げた。
そこには、最後に刻まれた十一の行が黒々と光っている。
《王は一人ではなく、街にある》
読めない子どもたちは、字の形を指でなぞり、意味を覚えようとしていた。
その様子を見て、シルヴィアが微笑む。
「立派な“処方箋”ね」
「薬でも毒でもない、ただの文字だ」
俺は答える。
「けれど、人を立たせる力になる。なら、それでいい」
◇
王都は、血を流さずに変わった。
兄王アーネストは冠を置き、王位を「暫定評議」に委ねた。
塔番が議席に座り、王城の門は誰にでも開かれた。
初めて王都とノクティスの商人たちが同じ秤を使い、同じ印で取引を始めた。
昼の鐘が鳴るたびに、人々は顔を上げ、どこか誇らしげに笑った。
エルンストは王都に残り、「秤局」と呼ばれる新しい部署を任された。
犬はもう、鎖をつけられていない。
その代わりに、塔番の杖の音が“法”を鳴らす。
針差しのデイルは街の職人になった。
小さな指で、壊れた水路や塔の機械を直して歩く。
子どもたちは彼を「穴塞ぎ」と呼び、鈴を鳴らして追いかけた。
バルトは橋の番人として残った。
剣を抜くことはもうない。
代わりに、行商人の荷車の秤を見ては、重さを確かめている。
◇
俺は、王都には戻らなかった。
戻れなかったというより、もうその必要がなかった。
ノクティスが“国”になった。
王城は、街の一角にある市場と変わらない。
塔は灯りを保つだけの場所で、誰のものでもない。
エリナは――塔の診療所で働いている。
夜は病人の手を握り、昼は粉を分ける。
時折、塔の上から街を見下ろして笑う姿が、どんな鐘よりもまぶしい。
「灯り、綺麗ね」
「お前がつけた火だ」
「いいえ。あなたが“消さなかった”だけ」
彼女はそう言って、俺の左肩にそっと触れた。
矢傷の跡はもう癒えている。だが、その痛みだけはまだ消えていなかった。
「レオン」「なんだ」
「この街、あなたが王様じゃないの?」
「王は一人じゃないだろ」
俺は笑った。
「秤の針が動く限り、誰のものでもない」
◇
夕暮れ。
塔番が鐘を鳴らす。
――一度、二度、三度。
昼を告げる鐘ではない。
新しい刻の始まりを告げる音。
街のあちこちで灯りがともる。
粉屋の軒、医師の窓、橋の欄干、子どもたちの手。
光が線になって繋がり、やがて大きな輪を描く。
塔の上から見下ろすと、それはまるで“秤”の形をしていた。
「ほら、できた」
ルゥナが両手を広げて笑う。
「灯りの秤!」
「きれい……」
ミコが呟く。
「王都にも見えるかな」
「見えるさ。風は西へ吹いてる」
空を仰ぐと、雲が切れ、夜の星がいくつも光っていた。
星もまた、秤のように並んでいた。
重さではなく、輝きで均衡を取る。
――人も、国も、そうであればいい。
◇
俺は、焦げた掟板の前に立った。
雪の代わりに、夜風が頬を撫でた。
板の最後の空白に、指でゆっくりと線を刻む。
《十二、針の止まる場所が“国”である》
音もなく刻み終えると、塔の鐘が最後の一度を鳴らした。
音が空に溶け、街の灯が一斉に揺れた。
もう、夜と昼の区別はなかった。
王と民の境も、罪と赦しの境も。
ただ、ひとつの光の秤が、世界の真ん中で揺れずに立っていた。
俺はその光の下で、静かに目を閉じた。
風の中で誰かが笑う声がした。
――たぶん、あの夜に失った人たちの声だ。
鐘が鳴る。
そして、すべてが、静かに針の中央で止まった。
(了)
玉座の間には、雪が降る前の冷たさがあった。壁面の大理石は磨かれ、燭台は過剰なほど灯されているのに、どこか夜の底みたいに寒い。人はこれを「儀礼」と呼ぶのだろうが、俺にはただの見世物に思えた。
「第二王子レオン・アルヴェイン。汝の罪は反逆」
兄の、即位したばかりの王が宣告する。だが、その声に王の品位はない。勝ち誇った少年の、つまらない悪戯の種明かしのような響きだけがあった。
「……反逆?」
俺は笑ったのだと思う。笑ってしまうくらい、出来の悪い話だったからだ。
「兄上。証をお示しください」
「証ならある。お前が王都の糧倉の鍵を偽造し、兵糧を移した記録がある。更に近衛副長が証言した。――ここに」
侍従が差し出した羊皮紙は、俺の筆跡に似せてある。近衛副長の名も、確かに見える。だが副長は一月前、毒で死んだ。兄に忠誠を誓い、王家の台所事情を知りすぎた男だった。
「副長は、亡くなっている。死人の証言を、誰が書き取った?」
「彼の遺書に記されていた――そうだ、エリナ」
兄が顎をしゃくる。その視線の先に、俺の婚約者――エリナ・ヴァルグレアが立っていた。薄青のドレスは氷を思わせ、芯の通った灰色の瞳は、いつかの柔らかさを欠いている。
彼女は一歩、前に出た。
「レオン殿下。わたくしは……あなたの行為を、許せません」 知らない声だった。冷ややかで、刃の裏だけを見せる声。「あなたはこの国を裏切り、戦を望んだ。民を飢えさせ、兵に反旗を勧めた。――わたくしは、そうした方と婚約を続けられません」 婚約破棄の言葉は、静かに、正確に、俺の胸に落ちた。音はしなかった。ただ、温度だけが消えた。
あの夜の、彼女の横顔を思い出す。王城の塔の上、風に髪をほどきながら笑ったエリナは、世界が好きだと言った。人がパンを買って並ぶのを見るのも、兵士が酒場で歌うのを聴くのも、好きだと。
俺もそうだ、と答えた。――それは、幻だったのだろうか。
「……兄上。俺が偽造をする理由は?」
「王位が欲しかったからだろう。第二王子の分際で」
幼い。彼は幼い。だがその幼さの背に、数多の大臣と貴族の影が揺れる。彼らは知っているのだ。糧倉の鍵の本当の行方を。冬越しの予算がどこに消えたのかを。だから、俺を貼り付ける。同意した視線が、燭台の炎に揺れた。
「判決を言い渡す。第二王子レオン・アルヴェインは王籍を剥奪、婚約を破棄し、王都より永久追放。――罪人の街へ(ノクティス)の流送」
どよめき。誰かが息を呑む音。しばし沈黙。
エリナの睫毛が微かに震えた。ほんのわずかに。俺はそれを見逃さなかった。けれど彼女は、唇を結び直しただけだった。
儀礼は、終わった。
◇
鉄の車輪は、凍った土の上を容赦なく跳ねる。護送馬車の木板は薄く、風は刃に等しかった。手首の枷はきついが、抵抗は無意味だ。扉の隙間から覗けば、灰色の空が、終わりの見えない平野を覆って
いる。
ノクティス。王国の地図の端に小さく記されたその名は、書庫の地誌によれば、鉱脈が枯れて以降、罪人と流民が流れ着く“沈殿地 ”だ。王都から見れば捨て石。冬の荒風と、古い水路と、壊れた街路灯。そんなものしかない。
寒い。だが、頭のどこかは異様に静かだった。
――反逆。偽造。婚約破棄。追放。
用意のいい台詞だ。誰かが前もって書いた脚本を、王が読み上げ、観客が頷いた。俺の役は、よくできた悪役だったのだろう。ならば、幕が下りたあとに残るのは、舞台裏だ。表の王道が腐っているなら、裏に回るしかない。
馬車が大きく揺れ、車輪が泥に取られた。やがて止まる。扉が開いた瞬間、刺すような風が顔を打つ。護送兵が枷を外し、無言で背を押した。
「ここから先は、お前の足だ」
王都から持ち出せたものは、冬衣と短剣ひとつ。腰に残ったそれは、辛うじて俺が俺である証のようだった。
見下ろす谷間が、ノクティスだった。斜面に貼り付いた家屋は、瓦が風にめくれ、壁は煤に染まっている。煙突から上がる煙は細く、冬の空に吸い込まれて消える。遠くで犬が吠え、鐘が死んだような音で三度鳴った。
足を踏み入れた途端、腐った藁と古い油の匂いが鼻を刺す。石畳は割れ、下水の蓋は半分沈み、壁の影に、目だけがこちらを見ている。子どもの目、老婆の目、警戒と飢えの色。
「兄上、ここを知っているか」
独り言は煙のように消えた。知るはずがない。地図の色の外にある街だ。けれど――歩けばわかる。ここには、王都にない“律”がある。生きるために編まれた即席の規則、黙契。誰も守らない王令よりよほど堅い約束が、足音の間にある。
路地の先で、短い悲鳴が弾けた。
反射で走っていた。細い横道を抜けると、朽ちた倉庫の前で、三人のならず者が少女を取り囲んでいる。少女は十にも満たない。煤けたマントの裾を握り、歯を食いしばっていた。
「いいから寄越せ。手を離せば楽になる」
男の一人が掴んでいるのは、小さな革袋。触れただけで乾いた音がした。硬貨だ。少女は首を振る。
「これは、薬の、代金だよ……おかあの……」
「母親か。ならお利口だ。金は俺たちが預かる」
笑い声。肋骨の隙間を針でつつかれたみたいな感覚がした。体が勝手に動く。
俺は男の手首を掴み、逆方向に捻った。鈍い音がして、革袋が宙に舞う。落ちる前に拾い、少女の手に押し戻す。
「その子の用事だ。邪魔をするな」
間近で腐敗した酒の匂いがした。男が睨み、刃を抜く。短いナイフ。二人目も、鉄棒を持ち上げる。
「貴族様ごっこか? ここは王都じゃねえ」
「王都でも、俺は王じゃない」
吐いた言葉が、自分でも意外に平坦だった。刃が振り上がる。踏み込みは浅い。右肩で躱し、手首を打つ。短剣が落ちる。鉄棒が振り下ろされる前に膝で相手の脛を蹴り、体重で肩を押し込む。二人が転がり、三人目が逃げ腰になった瞬間、路地の陰から投げ縄のように何かが伸び、男の足に絡みついた。
「ほいっと」 乾いた声。視線を向けると、路地の上、壊れた庇の上に女が座っていた。狐の仮面――いや、道化の白い半面だ。亜麻色の髪が肩で切りそろえられ、指には薬草の汁が染みている。
「三匹、捕獲完了。ノクティスへようこそ、見知らぬお兄さん」
半面の女は軽やかに飛び降り、鉄棒男の後頭部に指先で触れた。
ふっと力が抜け、男はその場に崩れ落ちる。
「……毒?」
「薬。点で眠るやつ。起きたとき、ちょっと頭が痛いくらい」
女は肩をすくめ、仮面の裏から、じっとこちらを見た。俺の短剣の柄、手の皮、立ち位置。観察眼が鋭い。
「その子は?」
少女は革袋を胸に抱きしめ、俺を見る。瞳は黒曜石の欠片みたいに硬いのに、内側は震えていた。
「ありがと……。ルゥナ。わたし、ルゥナ。薬を、買いに」
「母さんの、だね」
半面の女が優しい声に変える。ルゥナはこくりと頷いた。
「行こう。案内するよ。――お兄さんも来る?」
問われ、俺は一瞬迷った。王都の王子としての常識なら、関わるべきではない。だが、王子ではない俺は、もういない。
「行く」
そう答えると、半面の女は口元で笑った気配を見せた。
「名は?」
「レオン」
「いい名前。私はシルヴィア。街医者。偽でも裏でもなく、いちおう正規の」
「正規?」
「この街の、ね」
◇ シルヴィアの診療所は、崩れかけた礼拝堂の隣にあった。床はきしみ、窓枠には古いステンドグラスの破片が残っている。けれど台は磨かれ、器具は清潔に並び、湯気の立つ薬鍋の匂いには、かすかな甘さがあった。
ベッドには、痩せた女が横たわっている。ルゥナの母だ。咳が硬く、血の匂いが混じる。
「鉱夫の肺だね。粉塵と寒さ。王都からの補助は途絶え、坑道は崩れていく。――はい、これ飲ませて」
シルヴィアが杯を渡し、ルゥナが母の口元に当てる。女の喉がかすかに動き、色が戻るわけではないが、咳は少し柔らいだ。
「ありがとう、ルゥナ。ありがとう、お医者さま」
掠れた声に、ルゥナの目が潤む。俺は壁に背を預け、その光景を見ていた。王都では滅多に見ない、まっすぐな“ありがとう”だ。
「で、レオン。外の三匹は勝手に転んだってことでいい?」
「問題ない」
「よし。じゃあ質問を一つ。――あんた、何者?」
半面越しの視線が、笑っていない。
俺は息を吐いた。偽名を食むのは簡単だ。だが、この街に来て最初に引き金を引いたのは、目の前の医者だ。嘘をつけば、たぶん見抜かれる。
「王都からの、追放者だ」
「ふうん。王都の匂いはする。言葉の角でわかる。で、戻る気は?」
「ない」
その一言が、自分の中で音を立てて固定された。ない。戻らない。
戻れないのではなく、戻らない。
「愚かね」
シルヴィアの声は冷たく、それでいてどこか楽しげだった。
「ここは、食べ物が勝手には来ない街。薬も、火も、秩序も。欲しいなら、自分でこしらえる。あんたは、こしらえられる?」「――こしらえ方は知っている。けれど、俺ひとりの手じゃ足りない」
言葉が、口に出てから自分でも驚くほど適温だった。王城の会議室で何百回も飲み込んだ文の、言い直しのようだ。
「なら、手を集めなきゃね」
シルヴィアは仮面に指をかけた。外すのかと思ったが、外さない。
代わりに、壊れかけた窓の向こう――礼拝堂の影を顎で示す。
「バルト、聞いてたでしょ」
影の中から、重い靴音が一歩、二歩。現れた男は、厚い胸板と、折れた近衛章の布片を肩に残していた。髪は短く刈られ、顎には古傷。目は狼のように静かだ。
「近衛……?」
「元、だ」
男は短く答え、俺の腰の短剣と立ち姿を測る。
「王都で、名前を聞いたことがある。レオン殿下」
ルゥナが目を丸くする。シルヴィアは肩をすくめた。
「やっぱり。――で、殿下。何をしたい?」
何を、したいか。
王都では、答えに千の前置きが必要だった。立場、派閥、財務。誰の顔を立て、誰の恨みを買うか。だがここは、ノクティスだ。答えは、短くていい。
「街を、守る」
自分でも驚くほど、言い切るのは容易かった。
「まずは、食べさせる。寒さを凌ぐ。病を減らす。治安を、表のものにする。――そのために、俺は、裏に立つ」
「裏?」
「表は腐っている。王令は届かない。なら、夜に王が要る」
沈黙。薬鍋の泡が一つ弾ける音がした。ルゥナが真っ直ぐ俺を見上げ、シルヴィアが鼻で笑い、バルトがわずかに口角を上げた。「夜王、ね。気障だけど、嫌いじゃない」
シルヴィアが言う。
「必要なものは?」
「人材、拠点、資金。それと、信」
「信?」
「信じる、の信だ。約束が約束であるための土台。――俺は王都で、それが欠け落ちる音を聞いた」
兄の笑い。大臣の沈黙。エリナの睫毛の震え。あの場にいた誰も、信に重みを置かなかった。置ける場所がなかった。なら、ここで作る。
「資金は?」
現実的な問いが、すぐ飛ぶ。ありがたい。王都では誰も、最初にそれを口にしない。
「鉱山は死んだが、水路が生きている。古い地図を見た。地下に網がある。――水を流し、粉を挽き、灯りをつける。夜に灯りがあれば、人は集まり、金が落ちる」
言いながら、礼拝堂の割れたステンドに視線が行った。欠けた赤と青が冬の光で曖昧に混ざっている。あの光を、夜に灯したいと思った。
「治安は?」
「表の番は買収されやすい。だから、裏の番を立てる。夜の市場を管理し、借金の利率を固定する。暴力の価格を上げ、暴力以外の稼ぎを下げないようにする」
「やるじゃない。王子の勉強は伊達じゃないって顔ね」
シルヴィアが笑い、バルトが短く頷いた。
「力は出す。殿下の旗のもとに、俺みたいな折れた剣は集まる」
剣。旗。言葉の重みが、体温を持って戻ってくる。
「……ルゥナ」
俺は少女に向き直る。彼女は小さな拳を握っていた。
「何」
「母さんを助けたいだろう」
「うん」
「そのために、君の足がいる。走れるか」
ルゥナは考え、頷いた。黒曜石の瞳に、硬さの下の芯が灯る。
「走る。なんどでも」
「よし。じゃあ最初の仕事だ。――この街で、一番人が集まる場所を教えてくれ」
「夜市。水路の上の橋。灯りがつくところ」
「そこに、灯りを足す」
言葉にした瞬間、胸の奥で、何かが“カチリ”と音を立てた。玉座の間で凍っていた針が、わずかに動く。白い部屋の温度が、端から色づき始める。
「夜に王が要るなら――俺がなる」
シルヴィアの半面の奥で、目が笑う。バルトが拳を胸に当てる。
ルゥナが、空になりかけた革袋をぎゅっと握る。
「ようこそ、夜へ。殿下」
「レオンでいい」
「じゃあ、レオン。今日からここは、あなたの“王都”よ」
扉が開き、冬の風が流れ込む。冷たいのに、どこか澄んだ匂いがした。遠くで鐘が四度鳴る。昼と夜の境目に、足を踏み入れる音がする。
――俺は、ここで王になる。
玉座はもう、必要ない。必要なのは、灯りと、手と、信。夜の街を歩く靴音が、確かにそれを告げていた。
第2話 夜市に灯を
ノクティスは夜に生きる街だ。昼は腹が鳴り、陽が傾くと人が現れる。橋の上、廃水路のふち、崩れた城壁の陰。売られるのは細いパン、古い釘、濁った酒、噂、嘘、そして暴力。
「夜に王が要るなら、最初にやるのは灯りだ」
俺は橋のたもとに立ち、凍える水面を見下ろした。石のアーチの下には古い水車跡がある。軸は曲がり、羽根は半分折れていたが― ―流れはまだ死んでいない。
「バルト、軸を起こせるか」
「材料が要る。楢か樫の丸太、鉄の楔。釘は足りん」
「釘は私がどうにかする。納屋の裏に壊れた柵が山ほどある」
シルヴィアが半面越しに眉を上げる。薬屋の棚からどこに釘が出るのかと思えば、彼女は路地の端に合図を送った。隠れていた少年が二人、駆け出す。足は細いが、身のこなしは猫だ。
「“ネジ屋のイヌア”に言って。曲がった釘でもいいから全部、今日。支払いは夜王印で」
「夜王印?」
「作る。――ルゥナ、来てくれ」
少女は革袋を抱えたまま駆け寄る。頬は赤く、目は相変わらず硬い。
「走れるか」
「走る」
「これから“印”を配る。紙切れだが、俺の約束の代わりだ。裏市(アンダー)の店に“印”の価値を通す。今日だけでいい、最初の灯りを点けるまでは」
少女は何度か瞬きをして、頷いた。「約束の紙」――それが意味を持つと感じたのだろう。
俺は診療所に戻り、壊れた礼拝堂の古い聖句の裏に書いた。粗い紙に、印し。王都では封蝋と紋章が必要だ。ここでは、裏の信用が印になる。だから、名でなく原則を書く。
一、夜市の暴力は“高くつく”。殴れば二倍。刃を抜けば五倍。
血を流せば十倍。
二、借金の上限は元金の二倍。取り立ては夜明け後に。
三、夜市の灯り代は“夜王印”で払える。印は紙でも、約束は鉄。
四、裏切りに罰。保護に利。
字は大きく、短く、誰にでもわかるように。紙を十枚、二十枚。
ルゥナが胸に抱え、仲間の子に配る。「夜王印だ!」という叫びが、路地から路地へ走った。
日が傾くと、バルトが水路に降りた。上衣を脱いだ背中に古傷が走り、腕に縄を巻き付ける。元近衛は無駄に動かない。石と木を組み、曲がった軸を外す。水車の羽根を一本ずつ、捨て、再び打ち直す。俺も手を貸した。王都で学んだのは政略と数と法だが、手を汚すのは嫌いじゃない。手がかじかんでも、脳は温かい。
「よし、回る」
バルトが合図を出すと、少年たちがロープを引いた。水が唸り、羽根が鈍く回った。軸が軋み、声を上げ、それでも止まらない。
俺は橋の上に戻り、シルヴィアに頷く。
「灯せ」
彼女は油壺から芯の太い燈を取り出し、火を移す。最初の灯りが、橋の欄干に灯った。二つ、三つ、四つ。風が抜けても消えず、夜の底に柔らかい円を描く。人が集まり、足音が増えた。屋台木枠が開き、煮込みの鉢が置かれ、パンの香りが増幅される。
「――あ」 ルゥナの声が震えた。橋の下の水面に、小さな光が揺れて映る。
母の咳はまだ止まらないだろう。明日も明後日も薬が要る。けれど、灯りがある。帰る場所の目印がある。
「夜王印、通るのか?」
「通す」
俺は一番強欲そうな屋台の主に近づき、印の紙を差し出す。男の目が薄く笑い、紙を透かし、周りを伺う。
「紙だ」
「紙だ。だが、約束は鉄だ。通せば客が増える。通さなければ―― 橋に立てない」
男の喉が動いた。周囲の目が、俺でも紙でもなく、灯りに集まっている。商売人は温度に敏い。男は肩をすくめ、紙を受け取り、銅貨の代わりにそれを箱に滑らせた。
「最初の一枚、受けた」
声が、夜市の空気に沁みた。二軒目、三軒目。紙は増え、湯気も増えた。印は信用に変わり、信用は食い物に変わる。人は灯りに寄ってくる。灯りは金になる。
――ただ、金の匂いは、別のものも呼ぶ。
「レオン。来たよ、最初の“税吏”」
シルヴィアが肩で示す。橋の向こうから、灰色の外套を羽織った男たちが三人、ゆっくり近づいてくる。外套の留め具に妙な意匠― ―『灰貴会(グレイ・ギルド)』。ノクティスの徴税を“代行”している裏組織だとシルヴィアは言っていた。代行の意味は、強盗に近い。
「おやおや、おやつの匂い。橋に灯りが戻るとは、殊勝なことだ」
先頭の男が歯を見せる。太い指に指輪。目は笑っていない。
「ギルドの許可状、見せな」
返事の代わりに、俺は紙を差し出した。夜王印。男は鼻で笑う。「紙遊びか。ここに立つなら、通行料。灯り一つにつき銅貨三枚」
「高い」
「灰の火事は見たくねえだろ。灯りは燃えやすい」
男が手を広げ、後ろの二人が橋の灯りに近づく。その瞬間、俺は木杭の影に設置した細い縄を引いた。灯りの根本に括りつけた小さな鉄鈴が一斉に鳴る。夜市の端、路地の陰、屋台の下――あちこちから小さな鈴の音が返る。約束の合図。目が一斉にこっちを見る。
「通行料は、夜王印で払った」
俺は夜市の端から端まで見回し、はっきり言った。
「ここは夜王の保護下にある。暴力の値段は上がった。殴れば二倍。刃は五倍。血は十倍――払えるか?」
男の顔から笑いが消える。彼は一歩寄る。俺も一歩踏み出す。距離は近い。互いの息がかかる。背後でバルトの足音が近づき、彼の重みが空気を変える。橋の欄干にいた数人の若い連中――さっき印を受け取った屋台の主も――が、手元の棒や鍋を握り直す。
男は舌打ちをひとつ。「よかろう」
言葉ほど良くはない顔で、彼は踵を返した。「今夜は祝ってやる。
祭りの初日は客の顔を立てるのが礼儀だ。だが――」
「明日は違う?」
「明日も祭りならいいがな」
三人は去った。残された空気は硬く、だが割れなかった。鈴の音がまた一つ、軽く鳴り、湯気が夜を満たす。
「荒い真似は避けたいが、避けられない夜もある」
俺の言葉に、バルトが短く頷く。
「奴らは戻る。だが、今日は通した。――橋の灯りは、彼らの灯りじゃない」
夜市は回った。印は十、二十、三十。小麦粉が流れ、炭が売れ、古布が新しい包帯に変わる。ルゥナは走り続け、足を止めない。母の息はまだ浅いが、顔の色はさっきより良い。 シルヴィアは半面の裏で目を細めた。
「印は明日には紙切れに戻るかもね」
「戻さない」
「どうやって」
「二日目の灯りを、“昼”に作る」
彼女の指が止まる。俺は水車の軸から引いた細い縄を指差した。
「水の流れは夜だけじゃない。昼のうちに粉を挽かせる。挽いた粉を、印と交換する。印は粉になり、粉はパンになる。紙切れがパンになれば、紙ではない」
「なるほど。紙からパンへ、パンから信へ」
「その間に、橋の下に“番”を置く。バルト、夜だけでなく昼も回せるか」
「できる。折れた剣は昼も立つ」
短い会話で足場ができる。王都では十人が二十の反対を言い、会議が夜明けに終わる。ここでは三人で、夜が変わる。
夜更け、屋台が片づき始めた頃、橋の端に黒い影が立った。ボロをまとい、背は曲がり、杖をつく。顔は見えない。ルゥナが一歩踏み出しかけ、俺が手で制した。
「何者だ」
影は顔を上げた。皺だらけの男。目は澄んでいないが、濁り切ってもいない。井戸の底の水のような光がある。
「夜王を、見に来た」
「ここにいる」
「さっきの印。読んだ。字がまっすぐだ。裏の字だ」
男は杖で橋の石を叩き、ゆっくり笑った。
「昔、ノクティスには“掟板”があった。冬に炭の値、春に水の値、
夏に塩の値。王都から来た役人が壊していった。掟板がなければ、誰も守らんと」「掟板を戻す」
「戻せるか?」
「戻す。紙でも木でも石でもいい。守るものがあるなら、守る」
男は長く息を吐いた。白い煙が、星のない空に溶ける。
「名前は?」
「レオン」
「よい。――わしは塔の番。名は塔番と呼ばれておる」
塔などノクティスに残っていたか? 男は杖で橋の向こう、崩れた城壁に空いた黒い穴を指す。
「あそこに古い見張り塔がある。物好きしか上らん。だが夜風はよく通る。お前の灯りを、遠くまで見せてやろう」
「頼む」
塔番はこくりと頷き、闇に消えた。ルゥナが袖を引っ張る。
「本当に、王になるの」
「王都の王じゃない。夜の王だ。――灯りと約束の王」
◇
翌朝、俺たちは橋の下で粉を挽いた。軸は悲鳴を上げ、それでも回る。昼の光は弱く、冷たい。だが粉の匂いは温かい。印と粉を交換する列ができ、短い言葉が飛び交う。印がただの紙でないと、手が覚える。
昼過ぎ、バルトが眉をひそめた。
「尾がついた」
「どこから」
「王都の匂い。靴の泥が違う。歩幅が違う。剣の重みが違う」
視線の先、橋の向こうに黒い外套が二つ、平然と立っていた。貴族の黒でも、灰貴会の灰でもない。布は質が良く、肩の縫い目が堅い。腰の革が柔らかい。剣は短く、細い。
「査問官だ」
シルヴィアが低く言った。「王都法務院の犬。汚れ仕事は自分で手を汚さないから、タチが悪い」
黒外套の一人が一歩前に出る。顔は整っている。皮肉を言う前の口元だ。目だけが笑っていない。
「第二王子レオン・アルヴェイン。王籍剥奪と追放令状に基づき、所在を確認した。――我々と来てもらおう」
ルゥナが俺の袖を握る。シルヴィアの半面の奥で目が細くなる。
バルトは一歩、身を寄せ、いつでも動ける距離を詰めた。
「拒むなら?」
「罪人(ノクティス)街の治安維持のため、やむを得ず拘束する。抵抗すれば――」
「血の値段は十倍だ」
俺は遮った。黒外套の眉がわずかに動く。
「何の話だ」
「ここでは、暴力の価格が決まった。夜王印は王令に代わる。お前たちの剣は王都の法で光るが、ここでは灯りで影になる」
「夜王、ね。――噂は聞いたよ」
男は笑わない口元で笑い、肩をすくめた。
「だが、我々は仕事をする。今日は確認だけだ。明日は違うかもしれない。王都は、待たない」
「ノクティスも、待たない」
小さな沈黙。彼はその沈黙を計り、背を向けた。
「灯りを楽しめ。長くはない」
黒外套が去ると同時に、橋の陰から別の影が現れた。灰貴会の男だ。昨夜の男ではない。背が高く、爪が長い。笑い方が蛇に似ている。
「王都の犬に尾を振る気はないが、夜王に尻尾を巻く気もない」
男は橋の欄干を指でなぞり、灯りをじろりと舐める目で見た。
「明晩、“試し”をする。夜市の真ん中、貸しだ。うちの取り立てに口を出すな。邪魔をすれば、灯りを消す」
「取り立ての限度は元金の二倍だ」
「誰が決めた」
「俺だ」
「はは。王様ごっこは楽しいか?」
「ごっこじゃない」
男はわずかに身を乗り出した。爪が光り、舌が歯に当たる。
「夜王。お前の印がどれだけの血を吸えるか、見てやる」
爪の男は去った。橋の上に残った空気は、雪の前の重さに似ている。遠くで咳。粉の匂い。鈴の音は鳴らない。鳴らさない。
シルヴィアが言う。「明晩、ぶつかるよ」
「避けられない」
「怪我人が出る。死ぬかもしれない」
「死ぬのは嫌だ」
「じゃあどうする」
「“値段”を上げる」
俺は橋の中央に立ち、粉で白くなった手を握った。
「奴らが取り立てをする場所に、灯りを二倍置く。人を四倍集める。
歌を歌わせ、鍋を増やす。暴力のコストを、最大にする」
「人が多いと、誰かが殴られる」
「だから、殴った瞬間、十倍の“罰”を皆が見る。印を破った者にはパンがない。水もない。夜市の橋に立てない」
「追放?」
「一時の、だ。戻る道も示す。働きを見せ、印を稼ぎ直せば戻れる」
バルトが静かに頷いた。「見せしめと道を、同時に作る」
「そう。俺たちの秩序は、戻れる秩序だ」
シルヴィアは半面の裏で口角を上げた。「ええ、王子。あんた、やっぱり好きよ。血を見たいんじゃなくて、灯りを見たい」
その夜、塔番の塔に上った。崩れた階段は冷たく、風は骨を抜く。最上段に着くと、街が見えた。壊れかけの屋根、曲がった煙突、細い路地、黒い水。橋の灯りが線となり、薄い金の糸で街を縫っている。
「灯りは、敵も呼ぶ」
塔番が低く言う。風に紛れて、声は遠い。「だが、灯りのない街は死ぬ。夜王、灯りを増やせ。儂は鐘を打つ」
「鐘?」
「昔、夜盗が出るときは三度。火事のときは五度。よい知らせは七度。夜王の灯りは何度だ?」
俺は迷わず答えた。「四度」
「境目か。昼と夜の」
「そうだ。明日の四度、橋に人を集めたい」
「打とう」
塔番は杖のかわりに古い木槌を持ち上げた。鐘の縁は欠けているが、音は生きている。遠くまで届くだろう。夜に、合図が要る。
塔から降りると、足元に小さな影が待っていた。
「レオン」
「ルゥナ、眠ったか」
「半分。おかあ、笑った。灯り見て」
少女は少しだけ笑った。硬い瞳の奥で、芯が灯っている。彼女は間を置いて、ぽつりと言った。
「わたし、走るの得意。走って、印を、運ぶ。橋と、路地と、家のなか。なんでも走る」
「頼む」
「うん。約束したから」
彼女は革袋を抱き直し、走り去った。小さな背中が夜に吸われ、足音が鈴の音に混じる。
翌日の昼、粉は足りなくなり、印は足りなくなり、灯りの油も足りなくなった。足りないものを数えると、やるべきことが明らかになる。俺は印の束を抱え、橋の下に降り、木箱に座った。
「王子」
バルトが呼ぶ。「灰貴会の“試し”、場所が決まった。夜市の真ん中、秤のある石台の前だ」
「秤?」
「借金を量る台。昔は皆が目の前で重さを確かめた。今は誰も使わん」
「使う。――皆の前で、重さを見せる」
シルヴィアが来る。「血止め、包帯、薬、全部準備済み。なるべく使わないで済むよう祈るけどね」
「ありがとう」
「礼は灯りで返して」
彼女の半面が、光を跳ね返した。
日が沈む。塔番の鐘が四度鳴る。昼と夜の境目だ。橋の灯りが一斉に点き、人が集まる。屋台が並び、歌が始まり、鍋が煮える。秤の前に、灰の外套。爪の男がゆっくりと上がる。隣には、痩せた女。目が座り、手には古い借用書。背後に二人の取り立て。
「この女は元金銅貨二十。利は十。今日で四十。払えないなら――」
「二倍までだ」
俺は秤の反対側に立つ。周囲の目が、灯りの輪の中で固まる。シルヴィアが少し離れた場所で臨戦の姿勢を崩さず、バルトが陰に立つ。ルゥナは人の隙間を縫うように動き、合図を運ぶ。
「二倍まで。四十は越えた。――賭けよう」
「賭け?」
「秤に“信”を乗せる」
俺は印の束を置いた。紙は軽い。だが、目は重い。人が見ている。重さが変わる。
「この印は粉になる。粉はパンになる。女は働く。印は返る。二ヶ月、毎週この秤に“返す”ところを、皆で見る。灰貴会は“見せる ”。夜王は“守る”。――遊びじゃない。街の掟だ」
爪の男の目が細くなる。「誰が裁く」
「皆だ」
俺は周りを指差した。屋台の主、歌い手、粉挽き、子ども、塔番。目が目を見る。夜市は静かになり、灯りが小さく揺れる。爪の男は舌を鳴らし、借用書を秤に乗せた。紙が重くなる。印が重さを“見せる”。秤は傾き、爪の男は笑うのをやめた。
「いいだろう。――試しだ」
男は取り立てに顎をしゃくった。取り立てが女の肩に手をかけかけた瞬間、鈴が鳴った。ルゥナの鈴だ。バルトが一歩出て、取り立ての手首を軽く押さえる。力は最小、姿勢は最大。男の足が止まる。
周りの視線が、刃ではなく“手”に集まる。
「殴れば二倍。刃は五倍。血は十倍」
俺の声は大きくしない。夜市が聞く距離にする。
「払えるか?」
取り立ては肩をすくめ、手を離した。爪の男は小さく笑った。「今日は祭りだ。――王都の犬も来る」
言った瞬間、橋の端に黒外套が現れた。昨日の男だ。彼は秤の前に来ると、静かに周囲を見渡した。鈴の音が止む。彼は秤を見、印を見、人を見、灯りを見た。
「面白い遊びだ」
「遊びじゃない」
「そうだろうな」
彼は懐から細い羊皮紙を取り出し、秤の間に差し込んだ。「王都法務院・査問官エルンスト。――証拠保全のため、ここでの取り立てを一時停止する」
ざわつき。灰貴会の男が舌打ちを飲み込む。エルンストと名乗った男の目が、ほんの僅かに俺を見る。
「夜王。明日、話をしよう」
「今日ではなく?」
「今日は灯りを見たい」
彼は背を向け、橋の上の灯りを一つひとつ確かめるように歩いた。爪の男は彼の背を睨み、俺を睨み、それから秤の上の借用書を乱暴に引き抜こうとして、手を止めた。周囲の目が重い。重さは刃より鈍いが、深い。
「二ヶ月だ。二ヶ月で返せ。返せなきゃ――橋の外だ」
「返す」
痩せた女の声が、細く、だが折れずに響いた。ルゥナが小さく拳を握る。シルヴィアが息を吐き、バルトが姿勢を緩める。塔番の塔が遠くで軋み、鐘が一つだけ鳴った。四度ではない。だが、境目は越えた。
夜は続いた。歌が戻り、鍋の蓋が開閉し、印が紙からパンに変わる。俺は灯りの下を歩き、目を合わせ、短く頷き、同じ言葉を繰り返した。
「約束は鉄だ」
その言葉は俺自身にも向けられている。玉座の間で空になった胸に、鉄の重さを戻すために。
終わり際、石台の影でエリナの名を囁く声を聞いた。振り向くと誰もいない。風だけが下り、橋の灯りが揺れた。胸の奥で何かが疼く。彼女の睫毛の震え、兄の笑い、王都の冷たさ。全部、ここに連れてきてしまったのかもしれない。
だが、足元に光がある。ルゥナが走っている。バルトが立っている。シルヴィアが笑っている。塔番が鐘を打つ準備をしている。灰貴会が牙を研ぎ、王都の犬が鼻を利かせている。
なら、やることは決まっている。
――夜に王が要るなら、灯りと掟と人の重さで、王をやる。 翌朝、俺は新しい板を用意した。橋のたもと、石台の横。荒い木肌に、太い字で刻む。
《夜市掟板》
一、夜に刃を抜くな。抜いた者は夜に立つ資格を失う。
二、借金は元金の二倍まで。超えた分は“働き”で払う。
三、夜王印は粉と油に換えられる。値は毎朝、秤の前で告げる。
四、争いは秤の前で。隠した争いは、三倍で返す。
五、戻れる道は必ず示す。戻らぬ者は“凍土”へ。
刻み終えた瞬間、塔番の鐘が四度鳴った。昼と夜の境目に、街が息を吸う音がする。俺は刻み跡に指を当て、冷たさを確かめた。
夜王の一歩は、まだ浅い。だが、足跡は残る。灯りと、掟と、信の重さで。
その足跡を消そうとする影は、もう動いている。王都と灰と、そして――俺が一度、愛した名とともに。
第3話 犬と爪と秤の夜
朝一番の橋は白かった。霜が石に薄く張り、吐く息がすぐ形になる。粉挽きの軸は夜のうちに休ませて油を差した。回る音が軽い。
印と粉を交換する列が、昨日より長い。
「レオン、印が増えたぶん、偽造も増える」
シルヴィアが半面の裏で目を細めた。
「番号を振る。一本の紐で通す」
俺は印束をひもで綴じた。左上に穴。綴じ紐に通し、端に小さな結び目――“夜結び”。解けばわかる。戻せない。
「書き手が要るな」
「いる」
返事したのはルゥナではなく、路地の陰から出てきた痩せた少年だ。指が細く、目が速い。
「ミコ。鼠のミコ。字を写すのが得意」
「印書き、やるか」
「粉と、母の薬」
「契約だ」
俺は短く告げ、木箱を机にして“印の書記”を一人増やした。ミコの筆は速い。数字を飛ばさない。目が一枚一枚の紙の重さを覚える。
鐘が三度鳴った頃、黒外套が来た。昨日の査問官――エルンスト。
今日は剣も杖も持たず、片手に湯気の立つカップだけだ。屋台の茶を買ったらしい。俺の前に立ち、カップを差し出した。
「熱い。持つか?」
「いらない」
「なら僕が飲む」
彼は唇を火傷しないように慎重にすすった。目だけ動く。秤、印、粉、列、鈴。全部チェックしている。
「話をしよう、夜王。立ったままでいい」
「座る椅子はない」
「よろしい」
「王都は、お前を捕まえたい」
「知ってる」
「だが、僕は、今日すぐにお前を縄で引きずりたくはない」
「珍しい犬だ」
エルンストは笑わない。「王はいつでも“結果”が欲しい。王都の冬越しのために必要なものは何だ?」
「兵糧、秩序、言い訳」
「そう。言い訳だ。『罪人街が荒れているから手を入れた』――陛下の言い訳になる火種が、ここに必要だ」
「だから今すぐ火をつけたくはない」
「理解が早くて助かる。僕は証拠が欲しい。お前に対するではない。
お前を追放に追い込んだ連中の『偽の手』が欲しい」
エルンストはカップを置き、低い声で続けた。
「糧倉の鍵。副長の“遺書”。お前の筆跡。……全部、雑だ。雑で、
誰かが急いだ跡がある。急いでいた理由は一つ。今冬の糧の消え方が、王都の帳簿と合わない」
「隠したい穴が、多すぎる」
「だから僕は、ここで“秩序”を見せろと言う。今日、灰貴会とやり合うだろう。血を出すな。出すなら、値段を払わせろ。――それを僕は“王都に出す”。『罪人街は秩序を取り戻しつつある。今、手を出せば逆効果』」
「時間を買う」
「そう。時間を買う代わりに、僕は証拠を狩る。協力者がいる」「誰だ」
「言えない。だが、ヒントはやる。――お前の元婚約者は愚かじゃない」
心臓が一拍、乱れた。エリナ。睫毛の震えが、冬の空気に差し込む。
「彼女は“王女”であり続けたい。王の玩具でいたいわけじゃない。
お前が灯りを点けたと聞いて、薬を送った。自分の名を隠して」
「証拠は?」
エルンストは肩をすくめた。「王都の薬房に『夜の痰』に効く調合が一つだけある。彼女の部屋の帳簿に、材料が“消えて”いた。
言うだけだ。信じるとも信じないとも、お前の自由」
彼は湯を飲み干し、空のカップを指先で回した。
「犬は犬らしく吠える。明日、お前を連れて来いと王都は言うだろう。僕はうまく“聞き違える”。だから、夜はお前のものにしろ」
「礼は言わない」
「いらない。僕は結果が欲しい」
エルンストは去った。犬の足音は軽く、影は薄い。だが爪は鋭い。
灰貴会の爪とどちらが早いか、今夜で決まる。
◇
準備に入った。やることは多いが、やるべき順は見えている。
一、灯りを増やす。橋だけでなく水路沿いの細道、秤の周り、塔番が鐘を見渡せる場所。油は足りない。代わりに“塩水布”を用意する。火が走ったら覆う。水だけでは油火は消えない。塩水の重さで抑える。
二、鈴の合図を増やす。ルゥナに“二つ鳴らし”と“三つ鳴らし”を教える。二つは“集まれ”。三つは“止まれ”。子どもに覚えさせる。 三、秤の前に板を並べ、椅子を用意。見物席じゃない。“証言席
”だ。誰でも座れる。誰でも喋れる。喋ったら嘘をつけない。
四、逃げ道。裏水路沿いに濡れた縄梯子を垂らす。万が一のため。
バルトと“折れ剣”三人に任せる。彼らは剣を抜かない。棒と縄だ。
日が落ちる。塔番の鐘が四度鳴った。夜の境目。橋の灯りが息を合わせるようにつき、湯気が立ち、人の声が重なる。秤の前は空けた。灰貴会は時間に来る。律儀だ。爪の男は今日も爪をといでいる。
後ろに五人。顔が変わった。昨日より若い。血の匂いを嗅ぎたい連中だ。
「貸しだ」
爪男が秤の前に立つ。薄い笑い。俺は一歩も引かない。
「今日の借り手は?」
押し出されるように二人が前に出た。片方は背の曲がった老人、片方は若い男。老人は“水路守”の古い腕章をボロの袖に縫い付けている。若い男の手は真新しい血豆。働いている手だ。
「元金は?」
老人の借用書は銅貨十五。若い男は十。灰貴会の書き込みはひどい。利の計算が毎週増えている。重ねて、重ねて、沈めるやり方だ。
「二倍までだ」
「うるさい」
爪男が吐き捨てるように言い、取り立てが老人の肩に手を置いた。その瞬間――鈴が二度鳴る。集まれ。人の輪が締まり、秤の周りが “見える場所”になる。屋台の鍋も歌い手も、視線をこちらに寄せる。
「水を」
俺の合図で桶が前に来る。中身は塩水。布がひたひたに濡れている。誰かが火打石を隠している気配があったからだ。火は祭りを壊す最短の手段だ。壊し屋はどこにもいる。「まず“重さ”を見る」
借用書を秤に乗せる。印を乗せる。粉袋をひとつ、ふたつ。目が見る。沈む。浮く。嘘が嘘でいられない場所。
「元金十五、返済済み五、残り十。利は十。二倍は二十。越えた十は“働き”で払う。――水路の泥上げ、夜三度、十日」
「誰が決めた」
爪男が舌を鳴らす。俺は老人を見た。
「やれるか」
「やる」
声は弱いが折れていない。水路守の腕章が薄く光る。塔番が遠くで杖を鳴らした。彼も“同意”の音を出す。
「若い者は?」
「元金十、返済三、残り七。利は七。二倍は十四。越えたなし。―
―七を返すために“働き”を乗せるか?」
若い男は頷く。「橋脚の修繕、縄編み、毎晩二刻」
「受ける」
秤がコトリと鳴る。重さが決まる。
「茶番はいい」
爪男が手を払った。「取り立てだ。――おい」
取り立てが老人の腕を強く引いた。鈴が三度。止まれ。俺は塩水布を掴み、灯りの根元に足をかける。火花が跳ねた。誰かが油を撒いた。布をかぶせ、一気に押さえ込む。火は空気を失って消えた。
周囲がどよめく。爪男の口元に歪みが走る。
「火遊びは高くつく」
俺は布を片手で押さえたまま、もう片手を上げた。バルトが棒を水平に構え、取り立ての手首に軽く当てる。関節が抜ける音が小さく鳴る。悲鳴は上がらない。上げさせない。音は夜を壊す。「殴れば二倍。刃は五倍。血は十倍。――払えるか?」
俺の声は静かで速い。爪男の目が細くなり、後ろの若い連中がわずかに足を引く。群れは空気の温度に敏い。彼らは血が高くつく夜を嫌う。
「灰貴会の掟は?」
俺は反撃に移る。「昔は“掟板”を守っていたんだろう。塔番が言っていた。冬の炭の値、春の水の値。――お前ら、いつそれをやめた」
爪男が返せない。返せない場所に連れてきた。秤の前、灯りの下、鈴が鳴る場所。
「試しは終わりだ。二ヶ月、秤の前で返す。灰貴会は“見せる”。
見せない取り立ては“凍土”。橋の外」
「誰が追い出す」
「皆だ」
屋台の主が鍋の蓋で台を叩いた。歌い手が短い節を入れる。粉挽きが手を止めずに頷く。塔番が杖で三度、石を叩いた。合図は揃った。
爪男は笑った。薄く、蛇のように。
「夜王。お前の秩序は脆い。紙だ。雨で破れる」
「だから灯りがいる。乾かすための」
爪男は顔の筋を引きつらせ、肩をすくめた。「よろしい。今日は乗ってやる」
彼は手を打ち、取り立てを引いた。若いのが悔しそうに舌打ちしたが、爪男は首を振るだけだ。群れは引く。引き際を知っている。 秤の前に静けさが戻った瞬間、塔番の鐘が四度鳴った。夜の真ん中。境目をもう一度越える音だ。老人が涙をこらえ、若い男が深く頭を下げる。印が紙からまた別の重さに変わる。俺の胸の針が、またひとつ動いた。
◇
祭りは続いたが、完全な勝ちではない。爪は引っ込めただけ。牙は削れていない。王都の犬も見ていた。黒外套――エルンストは屋台の影から短く手を上げ、去った。彼は結果を持ち帰る。俺は夜を回す。
片づけが終わる頃、ルゥナが駆けてきた。頬が上気している。
「レオン!」
「どうした」
「おかあ、笑った。粉のパン、食べた。……それと、これ」
彼女が差し出したのは、小さな包み。上等な布に包まれ、結び目は丁寧。中から出てきたのは、乾かした薬草の束と、小瓶。見覚えのある調合――王都の薬房でしか手に入らないもの。
「誰からだ」
「わかんない。扉の前にあった。紙、ついてた」
紙を広げる。文字は短く、整っている。癖が少ない。王宮の書記の字か、女の字か、判断はつきにくい。だが、最後の一行だけで十分だ。
――《もう少しだけ、そちらで生き延びてください》
握りつぶしそうになった手を、意識して緩める。紙は紙だ。信は重い。エリナの名はない。名がないから、なお重い。
「誰のだ?」
シルヴィアが背後から覗き込む。半面の奥の目が、俺の横顔の筋肉を見ているのがわかる。
「薬だ。効く」
「ふうん。――王都の匂い」
「匂いだけだ」
俺は包みをルゥナに返した。「母さんに。三滴。朝と夜」
「うん!」
ルゥナは走り去る。足音が軽い。灯りが彼女を拾う。俺は息を吐き、空を見た。星は薄い。雲が低い。雪が近い。
橋の端でバルトが立っていた。静かに言う。
「犬は帰った。爪も引いた。……が、影が残った」
「影?」
「屋根の上。王都の影。足音が広い。手が軽い。殺しの匂い」
暗殺者。王都の“影”部隊。追放者や反逆者を夜に消すための手。
兄の治世が短気なら、影は早い。
「狙いは?」
「殿下……いや、レオンだろう。だが、今夜は動かない。人が多かった。祭りで刃は映える」
「明日、動く」
「動く」
俺は頷いた。「なら、こちらも先に動く」
◇
深夜、橋の灯りを半分に落とし、秤の前にだけ明るい輪を残した。
周囲は暗い。暗い場所は影の居場所だが、影は光に寄る。光が輪になっていれば、入る瞬間が見える。
塔番が塔の上で待つ。鈴を持った子どもが三人、屋根を渡る。バルトは橋脚の陰に、折れ剣たちは縄梯子の近くに。シルヴィアは診療所で待機。血の匂いが出たら、すぐ走る。 空気が一度、沈んだ。足音が消える種類の静けさ。風が方向を変え、布がわずかに鳴る。俺は秤の横に立ち、目で夜を測る。
一歩。二歩。屋根の縁に影。三つ。速い。狙いは真ん中――秤の前に立つ“夜王”。矢か、投げ刃か。
鈴が一つ。塔番の合図。上からだ。矢が来る。弦の鳴る前の空気の引きつり。俺は半歩左にずれた。矢が石に刺さる代わりに――
矢は板に刺さった。新しく立てた《夜市掟板》の一番上、太い字の“一”の右側。羽根は白。矢尻は鋭い。柄の根元に、王家の薄い刻印。王都の影の矢だ。
塔番が鐘を一度、強く打つ。鈴が二度。集まれ。――影は引いた。
今日は“見せる”夜だったのだろう。『届く』という合図。灯りの下で掟板を狙う、正確な矢。
俺は矢を抜かずに残した。抜くより、刺さっている方が“見える ”。朝になれば街が見る。『王都は見ている』『矢は届く』『だが掟は折れない』――全部まとめて一枚の絵になる。
「始まったな」
バルトが呟いた。
「ああ。ここからだ」
俺は掟板に手を置いた。木は冷たいが、矢は熱を持っている。夜の間に、熱は冷め、木は固くなる。朝になれば、塔番が四度、鐘を打つ。犬は来る。爪も来る。影も来る。
だが、灯りがある。秤がある。印がある。鈴がある。走る子どもがいる。笑う医者がいる。折れた剣が立っている。塔が鳴る。 夜王の仕事は増える一方だ。いい。増えろ。掟の行を増やし、人の“戻れる道”を増やし、灯りの数を増やす。増えたぶんだけ、矢も増える。なら、板を増やせばいい。
俺は矢の羽根を見た。白い。王家の色。あの玉座の白い冷たさと同じ色。そこに、今は灯りの反射が小さく乗っている。
「――生き延びるだけじゃない。奪い返す」
声に出すと、胸の針がまた一つ、中央に寄った。夜は深い。だが色がある。次は“昼を奪う”。王都の言い訳より早く、ここに“結果”を積む。
鐘が遠くで、四度鳴った気がした。風が変わった。雪の前の匂い。
俺は矢の刺さった掟板を振り返り、短く告げた。
「第4話は、“昼を奪う”。」
第4話 昼を奪う
夜が明けると同時に、矢が刺さった《掟板》を見に来る者が絶えなかった。
老人も、子どもも、商人も、皆が言葉を交わす。
「王都の矢が刺さっても、板は折れねえ」
「矢より板が強いなら、ここも生き残れる」
誰かがそう言い、笑いが起きる。
矢は抜かずに残した。威嚇のためではなく、街の“印”として。
――昼を奪う。
王都の監視が日中に強いなら、昼をこちらの手に変える。
それが今日の目標だ。
◇
昼前、橋の下で粉を挽く音が止まった。
軸が折れたのではない。止めたのだ。
粉を挽くよりも先にやるべきことがある。
「昼の市を開く」
俺が言うと、バルトが片眉を上げた。
「夜市だけじゃ足りないか」
「王都の税吏は昼に動く。昼に人がいれば、奴らは無視できない。
“秩序がある”と王都に思わせる。それが第一歩だ」
ルゥナが手を挙げる。
「昼の市って……夜みたいに灯りはないよ?」「灯りはいらない。音と匂いを使う」
「音?」
「鐘と太鼓。昼を“鳴らす”。」
塔番の塔に登り、昼の鐘を三度打たせた。
その響きが街に広がり、子どもたちが太鼓を叩き始める。
屋台が開く。粉の匂い、肉の匂い、酒の匂い。
昼のノクティスが初めて息をした。
◇
昼市の中央に秤を据え、俺は板を一枚立てた。
《昼の掟》――
一、昼の鐘三度の間、売買に刃を抜くな。 二、昼の取引は“夜王印”で良しとする。
三、昼市で決めた約束は、夜にも通す。
ルゥナが印を配り、ミコが記録を取る。
バルトが警備し、シルヴィアは医務棚を出して簡易診療所を開く。
昼の街が初めて“形”になった。
「昼に商いが立つとはな」
声をかけたのは爪の男――灰貴会の使い。
だが今日は爪を磨いていない。
「お前の掟板、王都の矢が刺さってるぞ」
「見た」
「折れなかったな」
「折らせない」
男は鼻で笑い、昼市の人混みを見回す。「面白い。夜王。昼まで奪うつもりか」
「昼も夜も、人のものだ」
「なら、夜の商売はどうする」
「掟を守る者には開く。破る者は閉じる」
「なるほど。……覚悟はあるな」
「ある」
爪男は短く笑い、背を向けた。
背中に陽光が落ち、灰貴会の紋が一瞬、光を返した。
◇
昼市が終わりかけた頃、塔番が駆け下りてきた。
「王都の使いが来たぞ!」
馬の蹄の音。砂煙。
旗は黒、王都の紋章。
先頭に立つのは、昨日のエルンストだった。
「夜王。王都から“命”だ」
彼は馬を降り、巻物を差し出す。
封蝋はまだ熱い。
「『罪人街ノクティスにおける自治行為の一時停止』――陛下の名だ」
周囲がざわつく。
ルゥナが怯え、ミコが筆を止める。
「だが」
エルンストが声を落とした。
「この命は“王都に届く前”の写しだ。お前が持つ掟板を見せろ」 俺は板を指差す。矢が刺さったままの《夜市掟板》。 エルンストはそれを見上げ、微かに笑った。
「……いい。矢の届くところに立てたまま、生き残れ。
それが、今のところの“命”だ」
王都は止めに入った。
だが、まだ手を伸ばすだけだ。
次は掴みにくる。
◇
夜。
塔番が四度、鐘を鳴らした。
橋の灯りの下、矢の影がまだ掟板に伸びている。
俺は板の下に新しい行を書き足した。
《六、昼と夜を選ぶのは、王ではなく街》
バルトがその字を見て頷く。
シルヴィアが肩を叩く。
ルゥナが笑う。
エルンストの黒外套は、遠く塔の影の中に消えた。
夜王の手が、昼を掴んだ。
次は――王都の“心臓”だ。
第5話 心臓に針
王都――白い大広間は暖かいようで冷たい。壁に掛かる毛皮は厚いが、隙間風が言葉の端を凍らせる。
「ノクティスが“昼の市”を開いた?」
兄王は短く笑った。笑いは薄い金箔のように剝がれやすい。
「罪人どもが商人の真似か。よかろう、玩具が増えたと思えばいい」
側に控える宰相が目だけ動かす。「陛下、徴発の名目が弱くなります。『無秩序の鎮圧』が使えぬ」
「なら作れ。火事でも賊でも巫女の呪いでもいい」
兄は軽く言った。軽い言葉ほど重い血を呼ぶことを、彼は知らない。
そのとき、扉の影でエリナは睫毛を伏せた。祭服の白は静かに揺れ、指先は紙を挟んでいる。調薬帳から切り取った、小さな空白。文字はない。ただ白い。白は罪の色にも赦しの色にもなる。彼女は胸の奥で短く祈り、微笑を作った。
「陛下。ノクティスの“自治行為の一時停止”――命は?」
「書いた。今夜、伝令を出す」
「そう」
彼女は窓に目をやる。遠く、冬の光は薄い。「夜でなく、昼に届きますように」
「何だ」
「いえ、何でも」
彼女は頭を下げ、退いた。背を向ける間だけ、祈りの形をほどき、掌に小さく“印”の字を書く。約束の形。届かない祈りでも、手は覚えている。
◇
ノクティス――昼の市を畳み、夜の灯りを半分点す前に、バルトが低く言った。
「混じった」
「どこに」
「列の中。手つきが違う。金の握りに迷いがない」
シルヴィアが半面を傾ける。「王都の風?」
「いや、灰の風だ。灰貴会の“針差し”」
針差し――噂だけ聞いていた。相手の懐に入って小さな穴を開け、時間をかけて腑を漏らす。毒でも刃でもなく、穴。習慣に紛れる“ 単純さ”で崩す。
「どこから入る」
「秤の裏。印の書記の机」
俺はミコを見る。少年は黙って頷いた。
「紙が減る。数字がずれる。列が荒れる。それから“掟板は嘘だ” って噂が走る。――それが奴らの手筋」
「対策」
俺が言うと、ミコは手を上げた。
「秤の横で書く。紙は“穴開き”。夜結びは、僕とルゥナしかほどけない」
「もう一つ」
シルヴィアが顔を近づける。「“嘘の机”を作る。針差しを吸う場所。数字はわざとズラす。拾いに来た手を、掴む」
「罠だ」
「医者のやり方よ。血を引きたがってる静脈に、わざと針を置く」
決めた。秤の裏に“嘘の机”。紙は綺麗、印は薄い。数字は甘い。ここに食いつく指を“見る”。本物の机は橋脚の影、縄梯子の上。
ミコとルゥナと俺だけが行き来できるように、鈴を一本、梁に結ぶ。 日が傾く。塔番が四度、鐘を鳴らした。人が集まる。歌が始まる。
鍋が沸く。秤の前に、灰色の影はまだ来ない。だが“針の指”は来る。静かに、息のように。
ルゥナが袖を引いた。小さな囁き。「後ろ」
嘘の机に影が落ちた。薄い指先。爪は短く、皮膚は硬い。置いた紙を一枚抜く。筆を落とす。夜結びを真似た結びを作る。速い。上手い。
俺は支える男になり、鍋を運ぶふりで背中をすり抜ける。ミコは視線を落として書き続ける。ルゥナは鈴を指先でつまみ、音を殺す。
針差しは次の穴に進む。金箱の留め具。外して、戻す。数字を一つ、増やす。列の最後に“偶然の喧嘩”が起きる。二人が肩をぶつけ、皿が割れ、誰かが怒鳴る。――美しい流れだ。崩しの美学。俺は感心しつつ、心で舌を鳴らす。
“止まれ”の鈴を鳴らすわけにはいかない。まだ早い。人の流れは掴めている。掴んだまま、指を定位置に誘導する必要がある。
「鍋、足りない」
俺は大声で言い、屋台の主に印を二枚渡した。「秤前に二つ追加。無料。“掟に拍手”の鍋だ」
人が秤に寄る。拍手が起きる。針差しは一瞬だけ顔を上げ、視線をずらした。鼻の穴が小さく広がる。汗の匂い、油の匂い、粉の匂いが混ざる。指は再び動く――嘘の机の下、板の継ぎ目。そこで止まる。板が“ない”。空洞。俺が昼間に抜いておいた。 指が空を掴んだ一瞬、ルゥナの鈴が“二”と“半”の曖昧な音を鳴らす。合図は“見ろ”。バルトが柱の影を動き、シルヴィアが半面の奥で目を細める。ミコが筆を止め、俺が前へ一歩。
肩が触れる。針差しは反射で半歩下がり、背中を梁に当てた。梁から落ちる細い縄が、彼の肩甲骨に沿って落ち、腕に絡み――“夜結び”。解こうとすれば、肘が締まる。暴れれば、結びが深く沈む。
「……っ」
短い息。声を上げない訓練が行き届いている。良い手だ。惜しいくらいに。
「穴開けは嫌いじゃないが、場所を選べ」
俺は小声で言い、彼の手元から薄い針を抜いた。指先が震えない。
訓練の種類が見える。灰貴会の針差し。しかも“修道院上がり”。
祈りの呼吸で痛みを流す型。
「誰に言われた」
針差しは目を逸らす。俺は頷き、ミコに顎をしゃくった。ミコが静かに金箱を開け、欠けた数字を指でなぞる。列の最後の喧嘩は、屋台の主が笑い話に変えている。崩れない。壊れない。灯りは揺れるが消えない。
縄を解かないまま、俺は針差しの背を通路の端に寄せた。「“掟板”の前へ。座らせる」
「晒すの?」
シルヴィアの声には皮肉があったが、目は冷静だ。
「晒さない。喋らせる。――“戻れる道”を示す」
掟板の前、証言席。針差しを座らせると、人の輪の温度が一度下がる。恐れと好奇の混合。俺は手を上げた。
「この男は“針差し”。数字をずらし、金を漏らし、街を穴だらけにする手だ。だが今は、座っている。誰も殴るな。殴れば二倍。刃は五倍。血は十倍」
静けさが厚くなる。針差しの喉仏が一度上下する。俺は続けた。
「掟に“六”がある。『戻れる道は必ず示す』。――針差し。お前が穴を覚えてきたように、“塞ぐ”方法も覚えられる。塞げ。十夜。
秤の下、橋脚、屋根。全部の穴を見つけて塞げ。夜王印は“働き” で支払う。逃げたら、橋の外だ」
ざわめき。誰かが「甘い」と言い、誰かが「それでこそ」と言う。塔番が杖で石を一度叩く。統一の合図。街の呼吸が揃う。
針差しは沈黙したまま、やがて小さく頷いた。祈りの呼吸。諦めではなく、受け入れの動きだ。
「名前は?」
「……デイル」
「デイル。十夜で穴を塞げ。塞いだ数だけ、印に刻む。――お前の
“戻り道”だ」
人の輪が少し緩む。張り詰めた糸が返る音がする。シルヴィアが肩をすくめた。「医者いらずなら助かるけど?」
「針は手袋を貫く。油断はしない」
バルトが短く頷いた。「見張る」
◇
夜更け、エルンストが橋の影に現れた。黒外套は灯りを嫌い、境目を歩く。
「針差しを捕ったと聞いた」
「“塞ぐほう”に回した」
エルンストは一瞬だけ目を細め、次に柔らかく息を吐いた。「そのほうが証拠が残る。穴の位置、手順、指示系統」「王都に持っていくのか」
「持っていく。……それと、王都から伝令。『自治行為の一時停止』は――明日の昼に“届く予定”だ」
「予定?」
「伝令は馬が遅れる。路が凍る。橋が落ちる。塔の鐘が迷う。いろいろある」
彼は肩をすくめた。笑いは相変わらず口元で止まる。
「それと、王城から書付が一枚。お前の“婚約者の部屋”で見つかった走り書きだ。正式な文ではない」
差し出された薄紙には、短い線だけがあった。直線が二本、平行に引かれ、その間に小さな“点”。下に小さく“L”の文字。―― レオンの頭文字。
「これは?」
「道の印だ。王城の裏廊の、二本の廊下と渡り廊下の位置。『点』は隠し扉。そこに“遺書の原紙”があるという示唆かもしれない。あるいは罠。だが、書いた手はおそらく――」
エリナ。言われなくてもわかる。癖の少ない筆圧、余白の取り方、紙の選び方。王宮で学んだ“きれいな手”の書だ。
「僕は犬だ。王城の裏廊に勝手に入れない。――夜王。君の手のほうが届くかもしれない」
「どうやって」
「灯りで。塔番に鐘を三度鳴らせ。昼に。犬と爪の耳は昼に曇る。君は夜に動け」
彼は身を翻し、半歩だけ戻って囁く。「明日、王都の“影”が動く。矢ではなく手。掟板は狙わない。君を狙う。橋の下、右側。水の流れが緩いほう」
「ありがとう」
「礼はいらない。結果だ」
エルンストは闇に溶けた。犬は犬らしく吠えず、走った。
◇
星は薄い。風は雪前の匂いを運ぶ。橋の下の水音は控えめで、右側の流れは確かに緩い。影はそこを選ぶ。塔番に昼の鐘を三度打たせ、街の視線を“上”に引き付けている間に、俺は“下”に落ちる。
縄梯子。濡れた石。冷たい藻。足場は悪い。だが、足音は吸われる。灯りは上にある。下は目に入らない。――影の動線が見える。
王城で何度も見た。礼の裏の行進。静寂の手順。
背後に気配。水の跳ね。刃が寝かされ、息が殺される。
「夜王」
ささやきは風の音と混ざり、意味を隠す。俺は返事をしない。体を半歩ずらす。刃が通り過ぎる。肘で手首を抑え、膝で踏む。水音を上げない角度。影はもう一人。縄。夜結び。足首。引く。石に当てず、藻に沈める。
「……訓練を受けてる」
バルトの声が上から降る。いつのまにか橋脚の陰にいた。折れ剣が二人、左右を塞ぐ。影は多くない。三。矢の夜ではない。手の夜。
掟板ではなく喉を狙う夜。
「殿下」
「レオンだ」
「――レオン」
影の一人が息を取り戻し、低く言う。「命は“連れ帰れ”だった。
生かして、連れ帰れ」
「誰の命だ」
「言えない」
「なら、戻れ」
縄を強く引き、脈を確かめる。死なせない締め方。戻れる道。ここでも同じだ。敵にも戻り道を作る。戻る場所が腐っていれば、戻っても腐るだけだが――腐りは匂う。犬が嗅げば、掘り返せる。
影を縛めて橋上に上げると、塔番の鐘が四度鳴った。昼と夜の境。雪が降り始める。白い点が灯りに落ち、溶け、また落ちる。
掟板の前で、俺は新しい行を刻む。凍る前に、息を吹きかけ、指で温め、刻む。
《七、影もまた人。縛めるは刃に非ず、掟にて》
シルヴィアが半面の奥で苦笑する。「きれいに書いたね」
「汚く書けば、読めない」
「読ませたいのは誰?」
「街。――そして、王都の“影”」
バルトが短く頷いた。「心臓に針を刺すなら、先に自分の鼓動を整えろ、だ」
「そうだ」
俺は板の木目に掌を当てる。木は冷たいのに、内側に熱がある。街の心臓の熱。灯り、秤、鈴、走る足、笑う声、鐘の音。全部が鼓動だ。
夜はさらに深くなる。だが、矢よりも針よりも、深く通るものがある。掟の行、印の紙、そして“戻れる道”。それが、王都の白い冷たさに穴を開ける。“小さな穴”は、いずれ大きな亀裂になる。
――心臓に針を。だが折らない針を。
刺して、血ではなく、鼓動を思い出させる針を。
雪の匂いが濃くなる。塔番が杖で石を一度叩いた。合図。明日は “裏廊”。王都の心臓に、別の針を。
第6話 裏廊の灯
雪は、夜の王都を静かに覆っていた。
塔番の鐘が三度鳴り、ノクティスでは昼を告げるその音が、王城では“裏の刻”を意味する。
誰もが食事を終え、廊下を行く足音だけが響く――そのわずかな隙に、俺は動いた。
◇
エルンストから渡された図を思い出す。
二本の平行な廊下、その間に小さな点。
点は「隠し扉」――そして、エリナが書き残した“L”の印。
灯りを持たず、壁の蝋燭に映る影の角度だけで進む。
指先で石壁を撫でると、指の腹に違和のある箇所があった。
押す。
わずかな空気の揺れ。
音もなく、壁が横に滑る。
中は狭い。乾いた空気。
机と、棚。
机の上には一枚の書類があった――羊皮紙、王家の封蝋。
“副長の遺書”と書かれた題。
震える指で封を切る。
そこに書かれていたのは―― 『レオン殿下の命により、糧倉を移送した』
『証人として王女エリナが確認した』
だが、文字の流れが不自然だ。 筆圧が三行目で変わっている。
書いた者が変わった。
筆跡を追う。
後半の行は、見覚えのある形だった。
王女の字ではない。彼女の侍女の手、ナナ。
字を整える練習を手伝ったことがある。
――なら、この遺書は途中から“書き換えられた”。
「やっぱり、来たのね」
背後から声。
ゆっくりと振り向く。
薄布のベール、金糸の髪。
エリナだった。
「王都の影は?」
「外で待たせたわ」
彼女は一歩近づき、机の上の書を見た。
「あなたが無実だと、誰にも言えなかった。
兄上に逆らえば、王家が割れる。……それでも、あなたに届く道が欲しかったの」
「届いた」
「ええ。でも、遅かった」
彼女の手が、机に残る封蝋を握り潰す。
薄く涙が光った。
「ノクティスで、あなたは“王”になったそうね」
「王じゃない。掟を作っただけだ」
「掟は王より強いわ」
彼女は微笑む。
その笑みが、記憶の塔を一瞬で崩した。
「……この文書を持ち出せば、あなたを罪人にした証拠になる。
でも、それだけじゃ王を倒せない」
「だから、これを“灯り”にする。
真実は燃やすものじゃない。照らすものだ」
彼女は頷き、懐から小瓶を取り出す。
淡い青の液体――見覚えがある。ノクティスで母子を救った薬。「あなたの街へ、これをもっと送りたい。けれど、私の立場ではもう……」
「俺が取りに行く」
「無茶をしないで」
「無茶しかしてない」
ふっと、彼女が笑う。
その瞬間、外の石廊で金属音が鳴った。
刃の交わる音。
「見つかった!」
エリナが声を詰まらせる。
扉の外で、影の男たちが動く気配。
エルンストの警告が脳裏をよぎる――“矢ではなく手”が来る、と。
「行って、レオン!」
彼女が机を押し、壁の反対側の出口を開く。
「これは私が持っていると怪しまれる。……あなたが、外で証にして」
俺は遺書を懐に入れ、彼女を見た。
「必ず戻る」
「そのときは、昼の鐘を聞かせて」
壁を抜けると、冷たい風が頬を打った。
外は雪。
城壁の下を走り、石段を駆け下りる。
背後で鉄の扉が閉まる音がした。
胸の中で、紙の端が汗に濡れ、重くなった。
◇
ノクティスの塔に戻ると、鐘が四度鳴った。
街はまだ眠らない。
ルゥナが走ってきて、息を切らす。
「レオン! 王都の犬が……!」
「知ってる。準備を」
俺は懐の文書を出し、塔番に預けた。
「塔の最上段、矢が届かぬところに保管を」
「守ろう。命よりも堅く」
外では、雪の音がまた強くなる。
夜の底に、灯りの輪がひとつ、ふたつと増えていく。
矢も針も届かないその輪が、確かに街の“心臓”を動かしていた。 ――掟板の次は、王座だ。
それを奪うのは、剣ではなく“信”。
俺は拳を握り、雪を掴んだ。
指の中で溶けた水が、熱を伝える。
夜王が、再び歩き出す。
(続く)
第7話 雪の告示
雪は止まない。屋根の縁から白が垂れ、橋の欄干に指の跡がつく。
塔番は最上段で書付の箱を抱いたまま、鐘の縄に手をかけている。
中の羊皮紙――王都が偽った“遺書の原紙”は、まだ温い。
「どうする、レオン」
シルヴィアが半面の裏で目を細める。バルトは橋脚の陰で縄を点検している。ルゥナは走る準備で靴紐を固く結んだ。
「晒す。だが“燃やすため”じゃない。街に“読ませる”」
「王都の文言を?」
「要約して、掟板の横に『雪告(ゆきごくじ)示』として貼る。全文は塔で保管、写しは三枚。ミコ、書けるか」
「書ける」
ミコは凍えた指を擦り、板に紙を固定した。俺は短く区切った文を口にする。嘘の継ぎ目、筆圧の変化、証人名の捏造――地の文でなく、誰にでも分かる言葉で。
「『三の行より筆が変わる』『副長の死後の証言』『王女の侍女の筆跡』……」
「『王都は焦っている』も書いとく?」
シルヴィアが茶化す。俺は首を振った。
「感情は要らない。事実だけ。読む者に“考えさせる”」
「はい、王子先生」
彼女は半面の口元を上げ、薬棚から墨の凍り止めを出してミコに渡した。
塔番が鐘を四度鳴らす。昼と夜の境目。雪の粒が揺れ、街の視線が掟板へ集まる。俺は新しい行を刻んだ。 《八、証は灯り。声でなく、目で示す》
刻み終えると、ミコが写しの一枚を掲げる。文字は大きく、歪みがない。ルゥナがそれを胸に抱え、橋の向こうへ走る。二枚目は礼拝堂の前、三枚目は水車の脇。塔には原紙と共に、写しの裏に“印 ”。
「雪告示だ!」
誰かが叫び、輪ができる。読める者が声に出し、読めない者が耳で追う。疑いは“怒り”より遅いが、深く潜る。沈黙が厚くなり、鍋の湯気に塩の匂いが混じった。
――その匂いに、灰貴会は牙を見せる。
橋の端、昨日とは別の“爪”が現れた。背が低く、手が太い。火薬袋を二つ提げ、笑うと歯茎が赤い。
「灯りは見た。次は粉を見せろ」
彼が火打石をかざす。合わせて三人が水車の根に油を撒く。風は弱い。火事には最適な夜だ。
「撒くな」
俺が言った瞬間、塔番が鐘を一度だけ強く打った。合図。橋の下の堰板が外れ、溜めた水が噴き出す。水車が唸り、根元から白い飛沫が立つ。油の筋に塩水布が飛び、ルゥナと子どもたちが濡れ布を投げる。炎が上がる前に“重さ”で潰された。
「っ……!」
爪が火打石を落とす。バルトが棒で軽く払って彼の手首を“鳴らす”。派手さはないが、痛みは深い。取り巻きが一歩引く。群れは温度で動く。雪は冷たい。彼らの勢いはそこで止まった。「掟を読め」
俺は指さす。八の行が雪を吸って黒く濃い。爪は顔を歪め、唾を吐こうとして、吐けない。人の目が多すぎる。“証”を目の前にして嘘はつきにくい。
「夜王。読み書きできねえ魚にも“証”が食えるのか」
「食える。粉になるまで擦る。そうやって“消化”する」
「上手いこと言う」
「上手いことじゃない。やることだ」
爪は肩をすくめ、気配を消した。「今夜は寒い。……凍る前に引く」
奴らは雪の網に紛れる。追わない。追えば流れが乱れる。秩序は
“見る側の時間”で固まる。
雪告示の輪が一段落した頃、黒外套が現れた。エルンストは雪を払わず、そのままの姿で秤の前に立つ。
「王都から正式に来た。命の写しと、もう一通」
彼は巻物を二本掲げ、一つを俺に渡す。封蝋は王の紋、もう一つは法務院の印。
「『自治行為一時停止』と、『公開尋問の許可』」
周囲がざわつく。エルンストは肩をわずかにすくめた。
「前者は陛下、後者は院長。相反する。だから“現地裁量”だ。―
―王都の言い訳が足りないうちは、秤をこちらに任せたい」
「公開尋問、どこで」
「ここで。掟板と秤の前。証人は三人まで。質問は十五まで。王都の人間が“立会い”」
「犬が見てる間に、王の嘘を“目で示す”」
「そうだ」
エルンストは声を落とす。「だが、お前を連れ帰れという命も生きている。誰かが“手柄”を欲しがっている」
「来るのは誰だ」「黒い帷の馬車。雪を裂いて走る。……宰相の使いか、あるいは“ 金庫番”」
金庫番――王都の裏金の主。糧倉の鍵の本当の行き先を知っている男か。
塔番が鐘を三度鳴らす。昼の合図だが、雪の夜に鳴ると音の輪郭が違う。耳が冷たく、音は遠くへ滑る。俺は頷き、声を張った。
「明日、昼の鐘《三》の後、『公開尋問』をここで行う。証人は塔番、近衛“折れ剣”のバルト、灰貴会の“針差し”デイル。――王都の立会いのもと、“雪告示”の真偽を秤にかける」
人の輪が膨らみ、音が街路に広がっていく。誰かが歌いだし、鍋の蓋が二度叩かれる。沈黙ではなく“待ち”の音だ。
「……で、殿下」
バルトが低く言う。俺は目だけで制す。「レオンだ」
「レオン。黒い帷が来た」
雪の幕の向こう、灯りの端に、闇を切り裂く尖った影が現れた。車輪は大きく、幌は分厚い。馬具は黒い革。御者台の男は顔を布で覆い、背筋がまっすぐだ。後ろに二騎。いずれも剣を高く持たないが、動きが軽い。王都の“動く金庫”の匂いがする。
馬車は橋の手前で止まり、帷が内側から開いた。ふくらんだ毛皮の襟、細い指、乾いた目。降りてきたのは、宰相でも将でもない。
細身の男で、髪に雪が似合わない顔。だが歩き方に隙がない。
「夜王殿。……初めまして」
声はやわらかいが、温かくはない。男は薄く笑い、握手を求めるでもなく、秤の石台に視線を落とした。
「私は王都金庫局・主計頭、(しゅけいのかしら)カーデン。糧倉の勘定は、私の責任だ」
ざわめきが走る。エルンストの視線が鋭くなった。シルヴィアは半面の裏で舌を打ち、ルゥナは印の束を握り直す。バルトは一歩、間合いを詰めた。
「公開尋問の“立会い”に参った。――それと、もう一つ」
カーデンは雪告示の紙に目を通し、ゆっくりと首を傾けた。
「この“証”。面白い。だが、紙は風で破れる」
「だから板に刻む」
「板は火で焼ける」
彼は笑っていない目で笑い、指を鳴らした。後ろの騎が箱を降ろす。金ではない。秤の分銅と、鋼の印板。王都式の“公印”の道具だ。
「王都の秤で、王都の印で、“ここで”測ろう」
挑発か、賭けか、あるいは“握り”。俺は一拍置き、頷いた。
「秤は歓迎する。印も。――ただし、『問』は俺が選ぶ」
「よろしい」
カーデンは分銅を石台に置き、雪を払った。「明日、昼の鐘の後。嘘が重ければ、沈む」
風が強くなる。雪片が灯りを踊らせ、影を伸ばす。塔番が夜の鐘を四度鳴らした。境目。俺は掟板に手を置き、新しい行の位置を探る。今は刻まない。明日の“問”のあとに刻む。
その夜――灰貴会の爪は影に潜り、王都の犬は遠巻きに輪を作り、主計頭の馬車は塔の見える距離で止まった。誰も寝ない。鍋だけが静かに音を立て、ルゥナの足音だけが路地から路地へ“印”を運ぶ。
ミコがふいに顔を上げる。「レオン。字は、どこまで大きくする
?」
「一番遠い屋根から読める大きさで」
「屋根の雪が邪魔だ」
「なら、声も用意する。読む者を三人立てる。塔番、歌い手、それと――」
「エリナの声があれば一番通るんだけどね」
シルヴィアの不用意な一言に、胸がひやりとした。だが、否定はしない。彼女はもう、自分の声の置き場所を選べない。だから俺たちが“置き場”を作る。
雪はさらに深くなった。夜王の街は白に塗られていく。白は罪の色にも赦しの色にもなる。俺は灯りの輪を一つ増やし、塔に向かって短く告げた。
「明日の問は十五。嘘は五、事実は十。――沈むのはどちらだ」
塔番が杖で石を二度、軽く叩いた。合図。“聞いた”。
バルトが棒を肩に担ぎ、見張りの位置を変える。
シルヴィアが薬と布を整え、ルゥナが最後の印束をポケットにねじ込む。
エルンストは黒外套の襟を立て、主計頭の馬車を横目に、見えない犬歯を隠した。
雪は止まない。だが、灯りは増えた。
掟板の八の行が、白の上で黒く、強く、静かに立っている。
――明日、秤の上で“王都”を量る。
夜王は、深く息を吸った。
第8話 秤の前の問い
昼の鐘が三度鳴る。
雪の光を弾いた塔の影が、掟板の前に落ちる。
その下に、三人の証人と一人の王都使、そして俺。
街のすべてが“見る者”になった。
◇
塔番が杖を鳴らした。「これより、公開尋問を始める!」
声が雪の反響で広がる。
秤の台には、王都から持ち込まれた鋼の分銅と印板が並ぶ。
主計頭カーデンが静かに手を上げた。
「では、夜王レオン。あなたの罪と称された“糧倉移送事件”について、
まず、あなた自身の言葉で説明していただきましょう」
俺は一歩前へ出た。
「俺は、腐った糧を民に食わせたくなかった。
だから、寒村に回るはずだった穀を、別の倉へ移した。
王都はそれを“横領”と呼んだ」
ざわめき。
カーデンは冷笑を浮かべ、次の巻物を開く。
「王都法務院に記録がある。“副長の遺書”によれば、あなたの命で移送が行われたと」
俺は懐から紙を取り出した。
羊皮紙の、筆跡が途中で変わる“原紙”。
塔番が前に出て受け取り、秤の右皿に置く。
左皿には、カーデンが持ち込んだ王都の写し。
分銅が置かれる。
秤は、わずかに左へ傾いた。
「王都の写しのほうが重いようだ」
カーデンが勝ち誇るように言う。
だが塔番は眉をひそめた。
「封蝋の中身が違う。蝋に“砂鉄”を混ぜて重くしてある」
ざわり、と人々が息を呑む。
俺は言った。
「“重さ”は真実の証じゃない。
けれど、混ぜものをすれば、どんな秤でも傾く。
それを俺に向けて作ったのが、この“遺書”だ」
ルゥナが紙の端を掲げる。
「見て! 三行目の筆が変わってる!」
ミコが読み上げる。
「“副長の死後の証言”――死んだあとに証言できるの?」
笑いが起こる。だが、それは嘲笑ではなく“納得”の音だった。
◇
カーデンの頬が引きつる。
「筆跡など、子どもの遊びにすぎない。証人を出せ」
「なら、出そう」
俺は橋の向こうを見た。
雪を踏みしめ、黒外套が一歩ずつ近づく。
――エルンスト。
彼は立会い人として出ることを許された、ただ一人の王都人だ。
「この遺書を届けた使者を、覚えているか」
「覚えている」
「誰だ」
「主計頭カーデンの書吏、《ナナ》――王女エリナの侍女でもある」
群衆がどよめく。
カーデンが一瞬、視線を逸らす。その目に、初めて“焦り”が見えた。
「その侍女は二日前、王都で“失踪”しました。
――死体は見つかっていない」
エルンストの声は低いが、雪より鋭い。
「遺書の後半を書き換えた手が、その侍女のものなら、
彼女を消したのは“遺書の中身”を隠したい者だ」
◇
カーデンは叫ぶように笑った。
「夜王! これはただの見世物だ!
秤など、雪の上では役に立たない!」
「そうだな」
俺はゆっくりと秤の台に手をかけた。
「だからこそ、王都の秤を“ここに持ち込ませた”んだ」 俺は右の皿に、王都の分銅ではなく――ノクティスの印石を置いた。
街の者が作った、ただの石に“印”を刻んだだけのもの。
けれど、それは“働いた手”が押した重みだ。
秤は、中央で静止した。
どちらも沈まない。どちらも浮かない。
――真実の針は、止まった。
「これが“秤”だ。
王都の印も、街の印も、どちらかが上でも下でもない。
ただ、針が揺れないところに“正しさ”を置く」
塔番が鐘を鳴らした。
雪の中に、澄んだ音が広がる。
群衆の中で、誰かが拍手をした。
ひとり、またひとりと音が増え、白い夜に波のような響きが生まれる。
◇
カーデンは歯を噛み、拳を握った。
「このままでは終わらん。陛下は黙っていないぞ!」
「黙らせる。――次は“心臓”に針を打つ」
俺の言葉に、彼の表情が止まった。
その瞬間、塔番の上で赤い閃光。
王都の旗の色。
――矢だ。
だが狙いは俺ではなく、掟板の“八の行”。 火矢が突き刺さり、墨が焼ける。
ルゥナが叫び、子どもたちが布で覆う。
だが、焼け残った一文字が、雪の中で黒く浮かんでいた。
《目》――証は“灯り”。
カーデンが顔を背ける間に、エルンストが俺に囁いた。
「撃たせたのは宰相か、兄王か。……だが、これで分かった」
「何が」
「矢が届くってことは、城壁の内側に“味方”がいる。
王都も、割れ始めた」
◇
夜、雪はさらに深くなった。
掟板は半分焦げて黒いが、立っている。
塔の鐘は四度。
俺は焼け残った部分に、新しい行を刻んだ。
《九、針が止まるところに、真実を置く》
バルトが肩をすくめる。「ずいぶんと簡潔だな」
「簡潔じゃなきゃ、覚えられない」
「次はどうする」
「王都の“心臓”を奪う」
「どうやって」
「灯りで。――城の中にもう一度、光を点す」 雪の夜。 黒外套の犬は月を見上げ、街の子どもたちは鈴を鳴らす。
その音が王都まで届くことを、俺は知っている。
矢も針も届くなら、灯りだって届く。
ノクティスの空に、灯りが三十、四十と増えていく。
雪を透かして、王都の白壁に映える。
そして――遠く離れた王城の窓で、
一つの蝋燭が、同じ時に灯った。
エリナが灯した小さな炎だった。
(続く)
第9話 王の影
夜の王城は、音を立てずに息をしていた。
雪明かりが薄く差し込む廊下の奥、ひとつの蝋燭が微かに揺れる。
その前に、白い指先を組んで座る影。
「……燃えぬものなど、ないのだな」
兄王――アーネスト・アルヴェインは、掌の上で小さな紙片を燃やした。
燃え残ったのは“L”の一文字。
彼は灰を払うように指を振り、窓越しに雪を見下ろした。
下界の遠い光――ノクティスの灯火が見える。
それはまるで、王都の底に浮かぶ星の群れのようだった。
「弟のくせに、ずいぶん騒がしい」
彼の背後に立つのは、宰相オズリック。
長身で、声が低い。
アーネストはグラスの中の酒を軽く揺らした。
「“夜王”だと。愚民はすぐ名前を欲しがる。
秩序を作る者には、いずれ神話がつく。――厄介なことだ」
「処置を?」
「するさ。だが、剣ではなく、針だ。痛みを遅らせて、見せしめにする」
「例の主計頭カーデンを?」
「奴は使い捨てだ。王都の秤が傾いた時、真っ先に落とす重りになる」
アーネストは微笑んだ。
笑みは氷の表面に映る光のように薄く、冷たい。
「それより、エリナだ。……彼女の部屋から、あの走り書きが見つかったと聞いた」
「確認済みです。扉には鍵を」
「いや、閉じるな」
王はゆっくりと立ち上がり、窓辺に近づいた。
「光は閉じ込めるほど強くなる。
どうせなら、彼女の灯りで“夜王”を呼び寄せるほうが早い」
その声には、かすかに狂気が混じっていた。
◇
ノクティス。
雪明けの朝は白く、静かで、そして重い。
塔番が鐘を鳴らす前に、俺は橋の上で冷気を吸い込んだ。 夜明け前に届いた報せは一つ――「王都の宰相、動く」。
エルンストの暗号だ。
犬が吠えれば、爪も動く。今日中に、必ず報復がある。
「レオン!」
ルゥナが駆けてくる。頬が真っ赤だ。
「さっき、北の道で王都の旗を見た! 二十騎!」
「堂々と来るか……」
バルトが背の剣を確かめ、うなった。
「戦支度は?」
「させない。これを“戦”にしたら、終わりだ」
俺は橋の端を見渡した。
雪に濡れた掟板はまだ立っている。焦げた八の行の下に、昨日刻んだ九の行が輝いていた。 ――針が止まるところに、真実を置く。
「バルト、秤を動かせ。ミコ、記録を。ルゥナ、鈴を三度鳴らせ」
命じると同時に、鐘の音が重なる。
塔番の鐘が空を裂き、街が動いた。
◇
午前。
黒帷の馬車が再び現れた。
昨日の主計頭カーデンが、今日は鎧をまとっている。
肩の紋章は王家の双竜。
つまり――「王の直接命令」だ。
「夜王レオン。陛下の命により、貴殿を拘束する」
「罪状は?」
「国家反逆。秩序の簒奪。そして、王女への接触」
最後の一文に、群衆がざわめく。
ルゥナが歯を食いしばる。
「“接触”って……!」
俺は手を上げて制した。
「俺は逃げない。秤を使え。証で測る」
「秤など不要。――これが“王の秤”だ」
カーデンが剣を抜く。刃が日光を弾く。
その瞬間、橋の下から鐘の音。
鈴の三度鳴る音。
「“集まれ”だ!」 ルゥナが叫ぶ。 街が動いた。
粉屋が袋を抱え、医師が布を掲げ、塔番が旗を振る。
橋の両側から人が集まり、秤の周囲に輪を作る。
それは兵でも軍でもない。
――市。
カーデンが唇を歪める。
「民を盾にするつもりか」
「盾じゃない。“目”だ」
俺は一歩前に出る。
「昨日も言った。“証は灯り”。
今ここで俺を斬れば、王の刃が“証”を焼く光景を、
この街の全ての目が見ることになる」
カーデンは息を詰めた。
彼の背後に控えていた騎士たちが、一瞬だけ目を泳がせる。
その隙に、エルンストが黒外套のまま前に出た。
「主計頭殿。陛下の命を受けているなら、文を見せろ」
「……口頭命令だ」
「なら、秤にかけるまでもない」
エルンストは短く笑い、雪を踏みつけた。
「王が“秤”を持たぬなら、ここが国の秤になる」
◇
沈黙が走った。
雪の粒が舞い、空気の色が変わる。
俺は掟板の前に立ち、手を広げる。
「――問う。
王とは何だ。剣を持つ者か、秩序を作る者か」
塔番が鐘を鳴らす。
街の屋根が震えるほどの音。
ルゥナが泣きながら鈴を振る。
雪告示の紙が風に舞い、焦げた行の上に貼りついた。
《証は灯り》
その下に、新しい行を刻む。
《十、秤を奪う者は、王に非ず》
ミコが震える手でそれを書き写す。
街の人々が息を詰める。
その時――
黒帷の馬車の中から、細い手が見えた。
白く、震えている。
その指が、帷をわずかに開く。
見えたのは、金糸の髪と、涙の瞳。
「レオン……」
エリナだった。
王女自ら、馬車の中に監禁され、連れて来られていたのだ。
彼女の唇が動く。
「逃げて……兄上が、ここに……!」 その瞬間、空気が裂けた。 遠く王都の方角――高台の上で、
“白い旗”が燃え上がる。
王の紋章が、炎に飲まれた。
「――やつが来る!」
エルンストが叫ぶ。
◇
轟音。
雪の空を裂いて、馬群が降りてくる。
白銀の鎧、紅のマント。
その先頭に立つ男――兄王アーネストが、剣を掲げていた。
「夜王レオン・アルヴェイン!
我が血に逆らう者よ――その灯り、今ここで断つ!」
剣に纏う光が白く輝く。
雪を弾き、氷を割り、空の色を変える。
俺は掟板を振り返り、最後の行を見つめた。
針が止まるところに、真実を置く。
ならば――その針を、王都ごと止めてやる。
塔番の鐘が五度鳴った。
昼でも夜でもない、“決戦”の鐘だ。
夜王と王。
兄弟の秤が、今、雪の上で揺れ始めた。
(続く)
第10話 兄弟の秤
風が鳴いた。雪の粒が一斉に吹き上げられ、視界が白に溶ける。
その真ん中で、二人の影が向かい合った。
――兄王アーネスト。
王の冠の下の瞳は、血のように赤かった。
俺は、掟板の前に立つ。背後には街の灯、前には玉座を背負った男。
夜と昼が、秤の上でつり合う。
「レオン。まだ間に合う」
兄の声は静かだった。
「膝を折れ。夜王ごっこは終わりだ。お前はこの国の“飾り”に戻ればいい」
「……飾りで済むなら、民は寒さで死ななかった」
俺の言葉に、兄の眉がわずかに動く。
「理屈を語るか。弟らしい」
「理屈を捨てた王に、誰がついていく」
アーネストは笑った。
その笑みは、雪を焦がすほど冷たい。
「誰がついてくるか? 全ての“秩序”がだ」
剣を抜く。白光が雪を裂く。
「王の命は、法。お前の掟など、紙の遊びに過ぎぬ」
◇
轟音が走った。
王の剣から放たれた光が、掟板をかすめ、雪を蒸発させた。
板が一瞬で焦げ、黒煙を上げる。
だが倒れない。塔番が縄を引き、後ろで支えていた。
バルトが叫ぶ。「殿下、下がれ!」
「レオンだ!」
「――レオン!」
俺は兄の剣先を見据えた。
刃の光の奥、ほんの僅かに震える手首。
そこに迷いがあった。
「兄上。あなたは、俺を憎んでいない」
「……黙れ」
「憎めないのは、王の血よりも、人の血を知ってるからだ」
「黙れ!」
アーネストが踏み込み、刃が閃いた。
地面の雪が爆ぜ、俺の頬を掠める。
冷たい血が一滴、雪を染めた。 だがその瞬間、矢が一閃した。
――王都の方角から。
黒外套の犬、エルンストの放った矢が、王の剣を弾いた。
金属の音が空を裂く。
「兄弟喧嘩にしては、やりすぎだ」
エルンストが歩み出る。
黒い外套の裾が雪を払う。
「王都の犬が、弟に尻尾を振るのか」 アーネストが吐き捨てる。「犬は“針”の匂いを嗅ぐ。……王の心臓に刺さった針を、嗅いでるだけだ」
◇
風が止んだ。
雪の向こう、エリナが馬車から降りた。
手を震わせながら、兄と弟の間に立つ。
「兄上、もうやめて。――この国は、もう血で温まらない」
「下がれ、エリナ!」
「嫌です!」
彼女の声が雪を貫いた。
その細い腕が掟板の焦げ跡を撫でる。
「見てください。
レオンは“秩序”を作ってる。あなたは“恐れ”を作ってる。
どちらが王ですか?」
アーネストの剣が、僅かに下がった。
だが、その瞬間――
背後の兵が叫ぶ。「陛下、危険です!」
誰かが引き金を引いた。
矢が、空を裂いた。
「――エリナ!」
俺は叫び、身体が勝手に動いた。
矢が白い線を描き、王女の胸元へ。
俺は腕を伸ばし、彼女を抱き寄せた。
熱が走った。
肩口に痛み。血の匂い。
矢が俺の肩を貫いていた。
◇
「……兄上。これが、あなたの秩序か」
息を乱しながら、俺は笑った。
兄は凍りついたように動かない。
やがて、ゆっくりと剣を下ろした。
「違う……違うんだ、レオン……」
「なら、秤にかけろ。王の剣と、民の灯りを」
アーネストは足元の雪を見た。
白の上に、血と墨が混じる。
焦げた掟板が、倒れずに立っている。
その九の行が、風に揺れた。
《針が止まるところに、真実を置く》
彼は剣を投げた。
剣が雪に突き刺さり、音を立てて止まる。
「……お前の勝ちだ」
その言葉に、街が一斉に息を吐いた。
誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが鐘を鳴らした。
雪が、まるで拍手のように降る。
◇
俺はその場に膝をついた。 エリナの腕の中で、傷口から血が流れる。
「……泣くな。俺は、まだ終わってない」
「でも――」
「掟板を、もう一度立てる。今度は、王都の真ん中に」
彼女の涙が頬に落ちた。
それは血よりも熱く、雪よりも透明だった。
◇
夜。
王都の玉座の間に、火は灯らなかった。
アーネストは冠を外し、塔番に渡した。
「秤は壊れた。……だが、針はまだ動く」
その言葉は、雪のように静かに沈んだ。
ノクティスでは、塔番が鐘を鳴らす。
十度の音が、夜空に広がる。
掟板の最下行に、ルゥナが新しい文字を刻んだ。
《十一、王は一人ではなく、街にある》
風が吹く。
塔の灯りが、王都とノクティスをひとつに繋いだ。
夜王と王の秤――
その針は、静かに中央で止まっていた。
(終章へつづく)
終章 光の秤
雪はもう、降っていなかった。
ノクティスの朝は静かで、澄んでいて、まるで何もなかったかのように穏やかだった。
だが、街の輪郭は昨日までと違っていた。
――灯りが増えていた。
掟板は塔のふもとに移された。焦げた跡も、そのまま残して。
塔番が磨き、ルゥナが花を飾り、ミコが紙の写しを束ねて掲げた。
そこには、最後に刻まれた十一の行が黒々と光っている。
《王は一人ではなく、街にある》
読めない子どもたちは、字の形を指でなぞり、意味を覚えようとしていた。
その様子を見て、シルヴィアが微笑む。
「立派な“処方箋”ね」
「薬でも毒でもない、ただの文字だ」
俺は答える。
「けれど、人を立たせる力になる。なら、それでいい」
◇
王都は、血を流さずに変わった。
兄王アーネストは冠を置き、王位を「暫定評議」に委ねた。
塔番が議席に座り、王城の門は誰にでも開かれた。
初めて王都とノクティスの商人たちが同じ秤を使い、同じ印で取引を始めた。
昼の鐘が鳴るたびに、人々は顔を上げ、どこか誇らしげに笑った。
エルンストは王都に残り、「秤局」と呼ばれる新しい部署を任された。
犬はもう、鎖をつけられていない。
その代わりに、塔番の杖の音が“法”を鳴らす。
針差しのデイルは街の職人になった。
小さな指で、壊れた水路や塔の機械を直して歩く。
子どもたちは彼を「穴塞ぎ」と呼び、鈴を鳴らして追いかけた。
バルトは橋の番人として残った。
剣を抜くことはもうない。
代わりに、行商人の荷車の秤を見ては、重さを確かめている。
◇
俺は、王都には戻らなかった。
戻れなかったというより、もうその必要がなかった。
ノクティスが“国”になった。
王城は、街の一角にある市場と変わらない。
塔は灯りを保つだけの場所で、誰のものでもない。
エリナは――塔の診療所で働いている。
夜は病人の手を握り、昼は粉を分ける。
時折、塔の上から街を見下ろして笑う姿が、どんな鐘よりもまぶしい。
「灯り、綺麗ね」
「お前がつけた火だ」
「いいえ。あなたが“消さなかった”だけ」
彼女はそう言って、俺の左肩にそっと触れた。
矢傷の跡はもう癒えている。だが、その痛みだけはまだ消えていなかった。
「レオン」「なんだ」
「この街、あなたが王様じゃないの?」
「王は一人じゃないだろ」
俺は笑った。
「秤の針が動く限り、誰のものでもない」
◇
夕暮れ。
塔番が鐘を鳴らす。
――一度、二度、三度。
昼を告げる鐘ではない。
新しい刻の始まりを告げる音。
街のあちこちで灯りがともる。
粉屋の軒、医師の窓、橋の欄干、子どもたちの手。
光が線になって繋がり、やがて大きな輪を描く。
塔の上から見下ろすと、それはまるで“秤”の形をしていた。
「ほら、できた」
ルゥナが両手を広げて笑う。
「灯りの秤!」
「きれい……」
ミコが呟く。
「王都にも見えるかな」
「見えるさ。風は西へ吹いてる」
空を仰ぐと、雲が切れ、夜の星がいくつも光っていた。
星もまた、秤のように並んでいた。
重さではなく、輝きで均衡を取る。
――人も、国も、そうであればいい。
◇
俺は、焦げた掟板の前に立った。
雪の代わりに、夜風が頬を撫でた。
板の最後の空白に、指でゆっくりと線を刻む。
《十二、針の止まる場所が“国”である》
音もなく刻み終えると、塔の鐘が最後の一度を鳴らした。
音が空に溶け、街の灯が一斉に揺れた。
もう、夜と昼の区別はなかった。
王と民の境も、罪と赦しの境も。
ただ、ひとつの光の秤が、世界の真ん中で揺れずに立っていた。
俺はその光の下で、静かに目を閉じた。
風の中で誰かが笑う声がした。
――たぶん、あの夜に失った人たちの声だ。
鐘が鳴る。
そして、すべてが、静かに針の中央で止まった。
(了)



