第1話 処刑された悪役令嬢、冥界にて目を覚ます
――冷たい風が頬を打った。
鐘が鳴る。
人々のざわめきが、まるで潮のように押し寄せてくる。
「エリス=フォルティア。お前は国王陛下に対する反逆罪、および王太子殿下への毒殺未遂の罪により――死をもってその罪を償え」
玉座の前でそう宣告され、私は静かに笑った。
「……殿下。あなたが愛したのは、私の“努力”ではなく、“都合のいい人形”だったのですね」
見上げる先。王太子の目は、まるで知らぬ他人を見るように冷たかった。
隣には、泣き真似をする令嬢。私を陥れた、彼の新しい婚約者だ。
「弁明の余地はないのですか?」
「ありませんわ。――どうせ、信じてもらえませんもの」
最後の礼を取ると、護衛に腕を掴まれ、石畳の階段を引きずられる。
空には雲一つなく、青が痛いほど澄んでいた。
(ああ、やっぱり……この国の青空は、いつも冷たい) 刃が振り下ろされる瞬間、私は確かに笑っていた。 涙ではなく、誇りの笑みを浮かべて。
――そして、世界が、闇に溶けた。
***
……冷たい。けれど、血の温度ではない。
頬をなでたのは、まるで夜の底のような風。
「……ここは……?」
瞼を開けると、白ではなく“黒”が広がっていた。
天井はなく、空は逆さまに星を散らしている。
そこに、漆黒の玉座があった。
玉座に座るのは、ひとりの男。
漆黒の髪と紅玉の瞳。長い外套は闇を編んだようで、空気が震えるほどの存在感を放っていた。
「ようやく目を覚ましたか、娘」
低く響く声に、胸が跳ねる。
その声音だけで、心臓が支配されるような感覚に陥る。
「……あなたは……誰……ですの?」
「我は“冥王”ルシフェル。この冥界を統べる存在だ。――そしてお前は、我の花嫁となる運命にある」
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
「……花嫁、ですって?」
「そうだ。人の国で理不尽に殺されたお前を、我が冥界に迎えた。
魂の色を見た。――お前の色は、真紅だった。強く、美しい。故に、我が后に相応しい」
「……処刑されたのに、今度は結婚、ですか」
「ふ。皮肉だな」
ルシフェルは微かに口角を上げる。その笑みは冷酷でありながら、どこか哀しげでもあった。
「……私に拒否権は?」
「冥界において、我の言葉は絶対だ。ただし――我はお前に“自由 ”を与える。花嫁としてでなくとも、己の意思でここに生きるがいい」
その一言に、胸の奥がわずかに震えた。
人間の世界では、誰も私の言葉を信じてくれなかった。
けれどこの魔王は、少なくとも“選択肢”を与えてくれる。
「……では、しばらくお世話になりますわ。冥王陛下」
「良い覚悟だ、エリス=フォルティア」
その名を呼ばれた瞬間、空気が弾けた。
闇の花が咲くように、黒い蝶が舞い上がる。「――ようこそ、冥界へ。我が花嫁」
その声は、死の世界での“再生”の鐘のように響いた。
***
冥界の空は、永遠の夜だった。
だが、不思議と怖くはない。
黒曜石のような地面を歩けば、魂の光が足元で淡く揺れる。
生者の理では測れぬ美しさが、ここにはあった。
「お早いお目覚めでございますね、エリス様」
声をかけてきたのは、銀髪の侍女――死霊のように静かだが、瞳は人間より温かい。
「ここは……冥王城と呼ばれる場所ですか?」
「はい。冥王陛下が千年に渡りお治めになられている城。……そして、陛下が初めて“花嫁”として迎えられた方が、あなた様です」
「初めて……?」
「陛下はこれまで、誰にも心を開かれませんでした。戦も、裁きも、
すべて冷徹にこなされて。――ですが、あなたを見た瞬間だけは、表情が違いました」
侍女の言葉に、胸がざわめく。
(なぜ、私なんかに……?)
処刑され、捨てられ、価値などないと思っていた自分を。 それでも、誰かが必要としてくれるというのなら。
「……ここで、もう一度、生き直せるのかもしれませんね」
そう呟くと、遠くから声が響いた。
「エリス。来い――夕餉を共にしよう」
振り向けば、玉座の上でこちらを見下ろすルシフェルの姿。
紅の瞳が、まるで“生者”のように熱を帯びていた。
「了解しました、冥王陛下」
ドレスの裾を持ち上げ、深く一礼する。
その姿はもう、“処刑台の亡霊”ではない。
――冥界に生まれ落ちた、新たな令嬢だった。
そして、この夜が、後に“二つの世界を変えた政略婚”の始まりになることを、私はまだ知らなかった。
第2話 冥界の晩餐と、嫉妬の宮廷
冥王城の大広間は、まるで夜そのものを閉じ込めたような場所だった。
黒曜石の壁、紫水晶の燭台、流れる炎は青く、光を放ちながらも熱を持たない。
その中央、長く伸びた晩餐の卓の端に、私は座らされていた。
「本日の献立は“冥火の鳥”と“魂花の蜜酒”でございます」
銀髪の侍女・リリアが恭しく告げる。皿に盛られた料理は美しく、どこか現実離れしている。
肉は光を帯び、香りは甘く、ひと口ごとに体の奥に力が満ちていくようだった。
「この冥界では、食は魂の強さを保つための儀式だ。味覚ではなく、意志で味わう」
対面の席に座るルシフェルが、ゆるやかにワインを傾けた。
「……なるほど。意志を喰らう世界、というわけですのね」
「ふ、理解が早いな。やはり“人の王都”の貴族教育は侮れぬ」
その声音には、皮肉ではなく純粋な感心が含まれていた。
けれど、その瞬間――扉の奥から、ざわめきが起きた。
「陛下、まことにそれは……!」
入ってきたのは、漆黒の鎧をまとった魔族たち。
彼らは私を見るなり、険しい顔をした。「なぜ、人間を晩餐に招くのですか。冥界の花嫁とはいえ、まだ正式な婚姻は――」
「黙れ」
ルシフェルの声が低く響いた。空気が凍る。
その一言で、誰もが息を飲んだ。
「この娘は“我の客”である。口を慎め」
「……は、はい」
彼らは一斉に頭を下げた。
けれど、冷たい視線は消えない。
“人間”である私が、彼らにとってどれほど異物か、痛いほど伝わった。
(なるほど……これが、“外交の場”というわけですね)
私はワイングラスを静かに持ち上げ、微笑んだ。
「陛下。もしお許しいただけるなら、少し話をしてもよろしいでしょうか?」
「構わぬ。お前の考えを聞こう」
その返事を得て、私は席を立った。
視線を集めながら、堂々と魔族たちを見渡す。
「皆さま。私は人間ですが、敵として来たわけではありません。むしろ――皆さまの王が治める“冥界”の繁栄を願う者として参りました」
「……繁栄、だと?」
「ええ。人間の世界では、冥界は“恐怖”の象徴とされています。けれど、こうして見ていると……実に整然と、美しく秩序立っている。
――恐怖ではなく、尊敬を抱くべき文明です」
沈黙が落ちた。
誰も予期していなかった言葉だったのだろう。
「貴族らしい口の巧さだな」
低くつぶやいた魔族のひとりが、私を値踏みするように見た。
「ええ。言葉で生き延びるのが、貴族の芸ですもの」
微笑を返す。挑発ではない。だが、“退かぬ”意思を込めた。
その瞬間、ルシフェルがわずかに目を細めた。
彼の瞳の奥に、わずかな愉悦が光る。
「見たか、アルバ。これが“人の言葉”の力だ」
「……陛下」
「我々が武で治めるなら、人間は“言葉”で世界を繋ぐ。――面白いだろう?」
魔族たちは顔を見合わせ、やがて沈黙した。
反発と理解の狭間で、揺れているのが見える。
(言葉ひとつで、空気は変わる。
人間の宮廷も、冥界の宮廷も、それは同じ) この場で下手に出れば、軽んじられる。
けれど、誇りを見せれば、敵意は“興味”へと変わる。
それは外交の鉄則だ。
「よい。――お前を我が宰相たちの前に正式に紹介しよう」
「え?」
「今日をもって、エリス=フォルティアを“冥界第一后候補”とする」
大広間がざわめきに満ちた。
魔族たちが一斉に顔を上げ、怒号と驚きが交錯する。
「ま、待ってください陛下! それはあまりにも――」
「反対するか?」
「い、いえ……!」
ルシフェルがゆっくりと立ち上がり、私のそばへ歩み寄る。
その紅い瞳が、まっすぐに私を射抜いた。
「エリス。お前は人間でありながら、冥界の者たちを言葉で動かした。
我に必要なのは、恐怖ではなく“対話”を知る花嫁だ。――お前以外に誰が相応しい?」
「……陛下」
その言葉に、胸が熱くなる。
誰も信じてくれなかった過去が、一瞬で塗り替えられていくようで。
けれど同時に、背後で感じた無数の視線が冷たく刺さった。
(なるほど……“嫉妬の宮廷”というやつですわね)
魔族の貴婦人たちの間から、明確な敵意が立ち上る。
これで、私は正式に“政敵”としても認識されたわけだ。
「ふふ、どうやら退屈はしなさそうです」
「退屈など、許さぬ」
ルシフェルは私の耳元で低く囁いた。
その声に、背筋が粟立つ。
「我が后となる者よ――冥界は、甘くはないぞ」
「望むところですわ、陛下」
微笑んだ瞬間、燭台の炎が揺れた。
青い光が二人を照らし、まるで“誓約の儀”のように静かに燃える。
その夜、冥界の歴史がわずかに軋みを上げた。
“人間の令嬢”が初めて宮廷の中心に立った夜だった。
次回予告(第3話)
「血の契約と、魔王の過去」
冥王が抱える“古き傷”と、“戦の理由”が初めて明かされる。
彼の優しさの裏にある絶望とは――。
第3話 血の契約と、魔王の過去
翌朝、冥界の空は、夜と同じ色をしていた。
けれど、私の胸の奥にはかすかな光があった。
――昨日、彼に“必要だ”と言われた。その事実だけで、生き返ったような気がしていた。
重厚な扉を開けると、廊下の先でリリアが待っていた。
「陛下がお呼びです。王の間へ」
私はうなずき、黒のドレスの裾を整える。
鏡に映る自分の顔は、もう“処刑された令嬢”ではない。
代わりに、冥界の光を纏った新しい私がいた。
***
王の間。
昨日の晩餐とは違う静謐な空間。壁には古い碑文が刻まれ、天井には血のような紅い紋章が描かれていた。
その中央、ルシフェルが立っていた。
「来たか、エリス」
「お呼びとのことでしたが……何かご用でしょうか?」
「お前を“正式な后候補”として、契約を結ぶ」
その言葉に、息が止まった。
「契約……とは?」「冥界では、婚姻は血の契約によって結ばれる。魂の一部を分け合い、互いの存在を証とする。――だが、強制ではない。拒むこともできる」
「拒まれたことも、ありますの?」
問いかけると、ルシフェルは一瞬だけ視線を逸らした。
その仕草が妙に人間らしく見えて、胸がざわめいた。
「……昔、一人だけいた。だが、その者は我を恐れ、契約の直前に逃げた。
――そして人間界で処刑された」
空気が凍りつく。
私の心臓が、ひとつ、大きく跳ねた。
「……それは、偶然では?」
「偶然ではない。冥界の力を恐れた人間の王が、その女を“魔王の間者”として処刑した。……お前の処刑理由と、酷く似ているだろう?」
私は息を呑んだ。
血の気が引いていく。
まるで自分の運命が、すでに彼の過去と絡み合っていたかのようだった。
「その方の……名は?」
「――セリア」
ルシフェルはゆっくりと目を閉じた。
彼の長い睫毛が、わずかに震える。
「彼女は、我を人として見てくれた唯一の人間だった。だが、我は守れなかった。
それ以来、人間とは交わらぬと誓った。……だが、お前を見た瞬間、我はまた誓いを破った」
静寂。
その言葉に込められた痛みが、空気を震わせる。
私は思わず前に出た。
「陛下。……貴方はまだ、その誓いに縛られているのですね」
「そうかもしれぬ。
だが同時に――我は、お前を失いたくない」
その声音は、魔王のものではなかった。
ひとりの“男”としての切実な響きだった。
「……契約は、痛みますか?」
「痛みは一瞬だ。だが、心は永遠に繋がる」
ルシフェルは小さな短剣を取り出した。
黒曜石でできたそれは、光を吸い込むように鈍く輝いている。
「この刃で互いの指を傷つけ、血を交わす。それが冥界の契約儀式だ」
「……いいでしょう。やりましょう、陛下」
「よいのか?」
「ええ。私も誓いたいのです。
“過去に負けない”と。――貴方と共に、未来を変えると」
ルシフェルの紅い瞳が、ゆるやかに見開かれた。
次の瞬間、彼の唇がわずかに笑みに歪む。
「お前という女は……本当に、予想を裏切ってばかりだ」
「褒め言葉として、受け取っておきますわ」
互いに指を差し出す。
刃が触れ、赤い滴が流れた。
その血が混じり合う瞬間、部屋の紋章が淡く光を放った。
――ドクン。
熱が、身体を貫いた。
心臓の奥が焼けるように痛い。
けれど、同時に、心のどこかが安らいでいた。
「これで、契約は完了だ」
ルシフェルの声が遠くに聞こえる。
けれど、その目は近かった。
紅の光が、私の瞳に映る。
「……陛下。これで私は、貴方のものですか?」
「違う。――我の“半身”だ」
そう言って、彼は私の手を取った。
その手のひらから、熱が伝わる。
指先から、何かが流れ込むようだった。「これで、お前の中には我の力が宿った。
同時に、お前が傷つけば、我も傷つく」
「……つまり、共倒れの契約ですわね」
「ふ、そういう言い方もできる」
ふと、笑いがこぼれる。
この冥界で、笑うことがあるなんて思わなかった。
けれど、彼もまた同じように、静かに微笑んでいた。
***
儀式を終えたあと、城の外に出ると、青白い光の花々が咲き乱れていた。
それは“魂花”と呼ばれる、冥界にしか咲かぬ花だ。
死した魂が安らぎを得たとき、その形で姿を現すという。
「綺麗……」
「お前が冥界に来てから、花の数が増えた」
「え……?」
「冥界は、感情に呼応する。お前が笑えば、花が咲く」
その言葉に、胸が熱くなる。
死の国で、命が芽吹く――なんて、皮肉で、そして美しい。
「陛下。……この花がもっと咲くように、私、努力しますね」
「努力?」
「ええ。“生きる努力”ですわ。ここでも、もう一度」
ルシフェルは何も言わなかった。
ただ、手を伸ばして私の髪を撫でた。
「エリス。――冥界に光をもたらしたのは、千年ぶりだ」
その声には、確かに“希望”が宿っていた。
***
けれどその夜。
私は城の廊下で、ひそやかな声を耳にした。
「……人間など、陛下を滅ぼすだけだ」
「“契約”の血は呪いに変わる。――あの女が、冥界を崩す」
闇の奥で、二つの影が蠢いていた。
その声は、嫉妬か、あるいは忠誠か。 私には、まだ分からなかった。
ただ、胸の奥で冷たい予感が囁いていた。
“契約”とは、絆であり、同時に“呪い”でもあるのだと。
次回予告(第4話)
「黒き予言と、裏切りの香り」冥界に忍び寄る“崩壊の兆し”。
エリスの契約がもたらす“光と影”が、次なる運命を揺るがす――。
第4話 黒き予言と、裏切りの香り
――血の契約を交わしてから、三日。
冥界の空は相変わらず夜のままだったが、城の空気はわずかにざわついていた。
「……陛下が、力を削がれた?」
リリアの言葉に、私は思わず振り返った。
「契約の影響でしょうか?」
「はい。冥界の均衡は陛下の魔力により保たれております。血を分け与えた今、その一部が貴女様に流れているのです」
「つまり、私が陛下の力を奪っている……?」
「正確には“分かち合っている”のです。けれど、魔族の中にはそれを“呪い”と見る者も少なくありません」
リリアの声は慎重だった。
だが、廊下を吹き抜ける風の冷たさが、予感を告げていた。
(契約――それは絆と同時に、弱点でもある)
私は唇を噛み、胸の奥に灯る小さな不安を押し込めた。
***
その夜。
玉座の間には、数名の側近が集まっていた。
黒鎧の将軍アルバ、知略に長けた魔導卿ヴァーミル。
そして、琥珀の瞳を持つ女魔族、セレーネ。
彼女だけが、私に視線を向けようとしなかった。
「陛下。人間との契約など前代未聞。冥界の秩序に亀裂が入る恐れがあります」
「ヴァーミル。秩序とは変わるためにある。変化を拒むことこそ腐敗だ」
「……しかし、すでに西方の領では魂流が乱れ始めております」
魂流――冥界の“生命の川”。
その流れが乱れるということは、死者の魂が迷い始めた証だ。
ルシフェルはゆるやかに玉座の肘掛けを指で叩いた。
「我の力が一時的に弱まっているのは確かだ。だが、いずれ戻る」
「……戻らなかったら?」
ヴァーミルの声が冷たく響く。
空気が張りつめた。
私が息を呑んだ瞬間、ルシフェルが立ち上がる。
「そのときは――我を殺せ。冥界を守るためにな」
その静かな宣言に、誰も言葉を失った。
私は拳を握りしめる。
(そんな……。陛下が……)
だが、その沈黙の中で、ひとりだけ口角を上げた者がいた。
セレーネ――冥界の外交顧問であり、かつて魔王の“側近以上の関係”と噂された女。
「陛下は本当にお優しい。……ですが、それゆえに利用されるのですわ」
彼女の声は甘く、毒を含んでいた。
「“人間の娘”を守るために、冥界を危うくするおつもりですか?」
視線が私に突き刺さる。
その一瞥で、背筋が凍った。
「……エリス様。契約とは、冥王陛下の魂を縛る鎖。もし本当に陛下を想うのなら――その血を返上なさってはいかが?」
周囲の空気がざわめいた。
まるで“毒”が滴り落ちるような提案。
だが、私は静かに笑った。
「まあ。……お優しい忠告をありがとうございます、セレーネ様」
「……何ですって?」
「でも、それは“あなたが陛下を心配している”のではなく、“陛下が誰を見ているかが気に入らない”からでしょう?」 沈黙。
セレーネの瞳が、凍る。
ルシフェルの唇がわずかに動いたが、何も言わなかった。
「私が陛下に選ばれた理由は、血ではなく意志です。
――陛下が冥界を変えようとされるその覚悟に、共鳴しただけです」
「共鳴……? 笑わせますわ。人間の感情が、千年の冥界を揺るがせるとでも?」
「ええ、揺るがせます。だって、私が今、こうしてここにいることがその証拠ですもの」
場の空気が一瞬にして変わる。
ヴァーミルが眉をひそめ、アルバが笑いをこらえるように咳払いした。
「……なるほど、口では誰にも負けんようだな」
「それしか取り柄がありませんから」
冗談めかして言うと、ルシフェルの唇がかすかに動いた。
――それは、わずかな笑みだった。
「……退室せよ。全員だ」
低く響く声に、誰も逆らえなかった。
側近たちは一斉に跪き、静かに去っていく。
最後に残ったのは、ルシフェルと私だけ。
***
「……すまぬ、エリス。お前を危険な場に晒した」「お気になさらないでください。
むしろ、彼らの反応を見て“冥界の構造”が少し分かりましたわ」
「構造、だと?」
「ええ。陛下が王として立つ以上、周囲は“恐怖”で支配されている。
けれど、その恐怖の裏で皆が求めているのは、“理解されること
”なんです」
「……理解、か」
「はい。だから、恐怖を少しずつ“信頼”に変えられれば、冥界は戦わずして強くなるはずです」
言葉を重ねると、ルシフェルは沈黙したまま私を見つめた。
その瞳は、かすかに揺れている。
「……まるで、セリアのようだ」
小さく漏れたその名に、胸が痛んだ。
けれど、私は微笑んで答える。
「なら、私が“彼女の続きを生きる者”になりましょう」
「お前は……怖くはないのか?」
「怖いですよ。冥界も、陛下も、自分の運命も。
でも――“怖い”という感情があるうちは、まだ生きている証拠です」
その瞬間、ルシフェルの表情がわずかに緩んだ。
そして、指先が私の頬をなぞる。
「……お前の言葉は、不思議と心をほどく」
「そう言ってもらえるなら、外交官冥利に尽きますわ」
冗談めかして言ったそのとき――。
城の外で、鐘の音が鳴り響いた。
だが、それは“報せ”ではなく、“警鐘”の音だった。
「……陛下! 南方の魂流が、完全に断たれました!」
駆け込んできた魔族の報告に、ルシフェルが眉をひそめる。
「……断たれた? まさか、魂狩りの徒(と)どもか……!」
ヴァーミルが追うように入ってくる。
「確認されました。人間界の“聖教会”が、冥界の門を破った形跡が――」
「聖教会……!」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が締め付けられた。
あの、私を断罪した宗派。
私を“悪女”と呼び、処刑した連中だ。
「……冥界への侵攻、ですのね」「おそらく。“神の浄化”を名目にしてな」
ルシフェルの声が低くなる。
その瞳が紅く輝き、空気が震える。
――しかし、同時にその光は、わずかに揺らいでいた。
(やはり、契約の影響……)
私は息を呑み、彼の隣に歩み寄った。
「陛下。今こそ、“言葉の力”をお使いください」
「言葉の……力?」
「冥界と人間界を繋ぐ“通訳”として、私をお使いください。
私なら、聖教会の考え方を知っています。彼らの思考も、恐怖も、利用できる」
「だが危険すぎる。お前を再び人間の前に立たせるなど――」
「私が望んでいます。
――もう一度、あの世界に立ち向かうために」
ルシフェルは目を閉じた。
そして、ゆっくりと頷く。
「……分かった。ただし、我の許しなく一歩でも離れるな。
お前の命は、我の半身なのだから」 その言葉に、微笑が零れる。 彼の瞳の奥に、迷いと誇り、そして何より“信頼”が宿っていた。
***
だがその夜。
暗闇の中で、セレーネは別の誰かと密会していた。
「……聖教会は動いた。あとは“人間の女”を餌にすればいい」
「陛下を堕とすのは、愛ではなく――裏切りだ」
彼女の唇が、闇の中で妖しく笑った。
香のような甘い匂いが漂い、空気を濁らせる。
「――冥界の夜に、裏切りの花を咲かせましょう」
その声が、静かに消えた瞬間、
魂花の一輪が音もなく――黒く染まった。
次回予告(第5話)
「堕ちた花と、ふたりの密約」聖教会との“外交戦”が始まる。魔王と令嬢、そして裏切り者。
――三つの誓いが、運命を裂く。
第5話 堕ちた花と、ふたりの密約
冥界の夜は、ますます深くなっていた。
魂花の光が、風に流されるように揺れている。
その中に、ひときわ黒く染まった一輪があった。
それが何を意味するか、まだ誰も知らなかった。
***
「――聖教会の使者が来た。」
報告を受けた瞬間、玉座の間の空気が張り詰めた。
ルシフェルは立ち上がり、紅の瞳で私を見た。
「彼らは“対話”を求めている。だが実際は、冥界の門を封じるための“査問”だ」
「……つまり、外交という名の戦争、ですね」
「そうだ。お前を同行させることに、反対の声は多い。だが、我は譲らぬ」
私の胸が熱くなった。
あの冷たい王が、迷いなくそう言ってくれることが、ただ嬉しかった。
「では、準備を整えましょう。――陛下。聖教会の者たちは、“清らか”という言葉を武器にします。
その信仰に“理”を与えてやれば、心は揺らぎます」「“理”で信仰を壊すか。皮肉なものだな」
「ええ。私はもう、人間を信じない。けれど、彼らの理屈は知っています。だから利用できる」
ルシフェルの目が、わずかに揺れた。
その光は、哀しみと誇りが混ざり合った色をしていた。
「……お前の覚悟、確かに見た。」
***
会談は、冥王城の外縁――“無明の庭”で行われた。
黒い霧が渦巻き、空気そのものが重い。
だが、その中央に立つ聖教会の使者たちは、白銀の鎧をまとい、まるで光の像のようだった。
「我ら聖教の使徒は、“神の名”のもとに、冥界の魂の流れを正すために来た」
「神の名のもとに、か」
ルシフェルの声は低く、雷のように響いた。
私が一歩前に出る。
背筋を伸ばし、微笑む。
「聖教会の皆さま。私は元・王国侯爵家の令嬢、エリス=フォルティア。
そして今は、冥王陛下の外交顧問として、貴方たちを歓迎いたします」
「……処刑された女が、まだ口を利くか」
使者のひとりが、あざ笑うように言った。
私は静かにその目を見る。
「そうですね。けれど、私の死を命じたのは“神”ではなく、“人
”です。
貴方たちもまた、神の名を語りながら、“人の罪”を隠しているだけでは?」
「なっ……!」
使者たちの顔が一斉に紅潮した。
その中で、ルシフェルがゆるやかに笑う。
「エリス。やはりお前は戦の才がある」
「外交とは言葉の剣術ですもの。切れ味は、少し鋭い方がよろしいかと」
「ふ……気に入った」
ルシフェルが一歩前へ出る。
紅の瞳が、光の鎧を映した。
「聖教の者よ。我は冥界を侵すつもりはない。だが、これ以上魂を奪うならば――貴様らを“地上から消す”」
「陛下……!」
思わず声が漏れる。 彼の魔力が空気を震わせ、光の者たちが怯んだ。
その瞬間、使者のひとりが剣を抜いた。
「異端を赦すな! 神の御名の下に、冥王を――」
叫びは最後まで続かなかった。
黒い風が走り、彼の剣を飲み込む。
風がやみ、残ったのは――光が消えた刃だけ。
「これが冥界の“呼吸”だ。次は命を奪うぞ」
ルシフェルの声に、誰も動けなかった。
「退け。今は帰るがいい。――次に門を越えれば、光の神とて我を止められぬ」
使者たちは震えながら後退した。
白の列が闇に溶けていく。
***
会談が終わったあと。
私は、城の塔で風にあたっていた。
背後から、静かな足音。
「よくやったな、エリス」
「ありがとうございます。……でも、陛下。
あの言葉、“神とて止められぬ”――あれは、少し危うすぎます」「危うさは、恐怖の形でもある。だが、我は恐れられてきた王。 恐怖で保つ均衡もある」
「ええ。けれど、恐怖は一度でも崩れたら、もう戻りません。
“信頼”は、恐怖よりも強い武器です」
ルシフェルが、驚いたように目を細めた。
そして、わずかに笑う。
「……お前は、我に“人間の心”を教えるつもりか?」
「はい。陛下が私に“冥界の生き方”を教えてくださったように」
「ふ。大胆な女だ」
風が吹く。
黒い外套が彼の肩で揺れ、月光の代わりに魂花の光が二人を照らした。
「陛下。私たちの契約は、運命ではなく選択です。
選んだのは、“共に生きる”という未来。――どうか、戦でその未来を壊さないで」
「……分かった。約束しよう、エリス」
その言葉に、胸が満たされる。
ルシフェルの手が、私の頬を包み――その額に唇が触れた。
「この誓いが破られぬよう、我が力で護る」 心臓が跳ねた。 それは恋という名の鼓動だった。
だが、同時に、冥界全土に響く“異変”の鼓動でもあった。
***
「……やはり、彼女は陛下を変えてしまうのね」
遠くの塔からその光景を見下ろす影がひとつ。
セレーネは細い指で黒い花弁を撫でた。
「だが、王は“愛”で滅ぶ。
私がその証明をしてあげるわ」
指先から闇が滴り落ちる。
その闇は地面に落ち、音もなく花の根を黒く染めた。
「――この冥界の花が、すべて黒く染まるころ。
愛も信頼も、等しく消えるのよ」
その声は風に溶け、どこまでも静かに広がっていった。
***
その夜。
ルシフェルの寝所にて、私は再び呼ばれた。
窓の外の魂花が、ひときわ鮮やかに揺れている。
「エリス」
「はい、陛下」
「これから戦が始まる。……だが、お前を前線には出さぬ」「それでは意味がありませんわ。私は――」
「違う。お前には別の役目がある」
ルシフェルが指を鳴らすと、床の魔法陣が淡く光った。
そこには、冥界と人間界を結ぶ“門”の地図が浮かび上がる。
「この“聖断の門”を守れ。お前の知恵があれば、彼らの罠を解ける」
「……わかりました」
「そしてもうひとつ――」
ルシフェルは私の手を取り、ゆっくりと唇を重ねた。
紅い瞳が、すぐ近くで揺れる。
「これが、我らの“密約”だ。どんな裏切りがあろうと、必ずお前を信じる」
「陛下……」
「我らの契約は、血ではなく信頼だ。――それだけは、忘れるな」
その言葉を胸に刻みながら、私は静かに頷いた。
(この夜が、永遠に続けばいい――)
そう思った瞬間。
窓の外で、黒い花弁が一枚、音もなく散った。 それが“裏切り”の始まりだった。
次回予告(第6話)
「聖断の門と、最初の裏切り」
人間界との門が開かれ、戦火が冥界に及ぶ。
――そして、エリスのすぐ傍に潜んでいた“裏切り者”の刃が、静かに動き出す。
第6話 聖断の門と、最初の裏切り
――冥界と人間界を繋ぐ唯一の通路、「聖断の門」。
かつて神々がこの世界を二つに分けた際、ただひとつ残された“ 境界の門”であり、
魂の流れを往復させる唯一の路でもあった。
だが今、その門は不穏に脈動していた。
青白い光が不規則に明滅し、まるで“何かを吐き出そう”としているようだった。
***
「門の周囲で、異常反応が観測されました」
報告するのは、冥界の魔導卿ヴァーミル。
その顔には焦燥がにじんでいる。
「“聖教会”が、こちらに神聖魔法を放っている可能性があります」
「神聖魔法……?」
私の背筋が凍る。
あの光は、かつて私を焼いた“処刑の光”と同じ色だった。
「エリス。ここを守ると言ったのはお前だな」
「はい、陛下」
ルシフェルが隣に立つ。その紅の瞳は揺るぎなく、しかし奥に微かな痛みが見える。
「我は主力を北方の防衛に向ける。……お前にはこの門の監視を任せる」
「お任せください。必ず守り抜きます」
「よい。だが――信じる者を選べ」
「え?」
ルシフェルは一瞬だけ視線を伏せた。
「冥界の中にも、“人間に通じる者”がいる。……裏切りは、内から始まる」
「……了解しました」
その忠告が、後に命を救うとは、このときの私はまだ知らなかった。
***
聖断の門の前――。
黒い石造りの地面の上に、複雑な魔法陣が浮かび上がっていた。
門の中央には、揺れる光の裂け目。
その向こうに、かつての王都の尖塔がぼんやりと映る。
(あの場所……私が処刑された、広場) 息が詰まった。 過去が、形を持って再び迫ってくるようだった。
「……大丈夫ですか、エリス様」
リリアが心配そうに覗き込む。
いつも静かな侍女の目に、珍しく揺らぎがあった。
「ええ。……私は、もう過去に怯えません」
そう言って、魔法陣の中心に手をかざす。
契約の証――指の紅い痕が光を放つ。
冥王の魔力と繋がる感覚が、胸の奥に蘇る。
(陛下……必ず守ってみせます)
その瞬間、風が変わった。
「――来るぞ!」
リリアの声。
門の光が激しく脈動し、外側から何かが叩きつけられる。
轟音。
黒い大地が裂け、衝撃波が城壁を震わせた。
空気の中に、聖句のような響きが満ちる。
「汝、冥界の闇を鎮めよ――“神の剣”!」(ディウス・ブレイド)
白銀の槍が、光の門から突き抜けた。
その瞬間、リリアが前に出て、私を庇う。
「リリア!」
彼女の腕に、光が突き刺さった。
しかし――血は流れない。
代わりに、彼女の瞳が、一瞬だけ“金色”に輝いた。
「……っ、う……」
「リリア? どうしたの!」
「……私、は……」
リリアの口元が、ゆっくりと笑った。
それは、見たことのない、冷たい笑みだった。
「ようやく……この身体、動かしやすくなりましたわ」
「――え?」
「初めまして、と言うべきかしら。エリス様。……いえ、“人間の娘”」
声の調子が変わる。
目の奥に、あの女――セレーネの光が宿っていた。
「あなた、まさか……!」
「そう。リリアの身体は借りただけ。
陛下の目の届かぬ場所で、あなたに“真実”を伝えに来たの」「真実……?」
「あなたの契約が、冥界を滅ぼすの。
“血の契約”は、千年前――神が封じた禁忌。
冥王がそれを破った今、冥界はゆっくりと崩壊する」
「……嘘よ」
「信じたくないだけでしょ? でも、見なさい」
セレーネの指先が門を指す。
そこでは、魂花が次々と枯れていく。
青白い光が黒に染まり、風が泣くように鳴っていた。
「陛下の力は、あなたを守るたびに削れていく。
このままでは、彼は“冥王”であることすら保てなくなるの」
「そんな……。陛下は、そんなこと……!」
「知らないの? 彼はあなたの命を守るために、“冥界の根源”を切り離したのよ。
もうすぐ――あなたが生きれば、彼が死ぬ。
あなたが死ねば、冥界が生き残る。……どちらを選ぶの?」
心臓が掴まれたように痛い。
息が詰まる。
だが、私は震える声で言い返した。
「……私は、誰も死なせません。陛下も、冥界も」「できるものなら、やってごらんなさい。
――もっとも、それを阻むのは、“あなたの愛”そのものよ」
その言葉とともに、セレーネは光の中へ消えた。
残されたリリアの身体が崩れ落ちる。
「リリア! しっかりして!」
彼女の目がわずかに開いた。
「……すみません、エリス様……。私……止められ……な……」
手が冷たくなっていく。
光が消え、静寂だけが残った。
***
「――エリス!」
駆けつけたルシフェルの声。
その姿を見た瞬間、張りつめていた感情が決壊した。
「陛下……リリアが……セレーネが……!」
ルシフェルは彼女の身体を抱き上げ、眉をひそめる。
「……“憑依の術”か。セレーネ、貴様……!」
その声には怒りと、わずかな悲しみが混ざっていた。
「エリス。聞け。――セレーネは、かつて我の右腕だった。 冥界と人間界の境を守るために創られた“半魔”。
だが、彼女はいつしか、“神”を崇めるようになった」
「神を……?」
「彼女は信じたのだ。冥界を滅ぼせば、神に許されると。
それが、千年前の“堕天”の記録だ」
「つまり……」
「彼女は、我を愛し、同時に神に憎まれた女。
そして今、再び“愛”を利用して、冥界を滅ぼそうとしている」
沈黙。
すべてが絡み合い、痛みに変わる。
「陛下……彼女の言葉、本当なんですか?
――私が生きる限り、貴方が……」
「馬鹿なことを言うな」
ルシフェルの声が低く響く。
その手が、私の頬を包む。
「お前が生きることが、我の力だ。
死など、運命に許さぬ」
「でも……!」
「信じろ。契約の本質は“呪い”ではない。
――お前と我が信頼こそが、それを超える鍵だ」 その瞳に、迷いはなかった。
私は、ただ頷くしかできなかった。
外では、聖断の門が再び光を放つ。
白い閃光が空を裂き、戦いの幕が上がろうとしていた。
***
(これは、“戦”ではなく“選択”の物語だ)
――そう気づいたのは、ルシフェルが最後に言った言葉を思い出したときだった。
「我らの契約は、血ではなく信頼だ」
その信頼が、世界を救うのか。
それとも、冥界を滅ぼすのか。
答えは、まだ夜の闇の中にあった。
次回予告(第7話)
「堕天の女王と、冥界の決断」
冥王VSセレーネ――千年の愛憎が火を吹く。
そして、エリスが選ぶのは“誰かを救う”ではなく、“何を信じるか”。
冥界編、急展開。
第7話 堕天の女王と、冥界の決断
冥界の空が裂けた。
それは、夜に雷が走るような衝撃だった。
空間の亀裂から、黄金の光が滲み出し、黒と白が混じる。
聖断の門が、完全に“開いた”のだ。
「……ついに来たか」
ルシフェルの低い声が、静かに響く。
彼の周囲に黒い羽が舞う。
それは炎でも霧でもない――“魔王の本質”が形を取ったものだった。
そして、その光の中から、彼女は現れた。
「――お久しぶりね、ルシフェル」
白と黒の翼を背に持つ女。
セレーネ。
かつて冥王に仕え、愛し、そして堕ちた女。
その美貌は凍てつくように整い、瞳は狂気と慈悲の狭間で揺れていた。
「……セレーネ。なぜ帰った」
「帰った? 違うわ、“戻った”のよ。神々が作った秩序を壊すために」「秩序を壊してどうする。お前が願ったのは、救いではなかったのか」
「救い? あの神に、救いなどなかった!」
セレーネの声が響いた。
その瞬間、空が悲鳴を上げるように歪む。
光の破片が舞い、黒い城壁が軋んだ。
「神は言ったの。『愛は罪だ』と。
――あなたを愛した、その事実が“冥界の汚点”だと。
ならば私は、愛の名で世界を壊すわ!」
「……やはり狂ったか」
ルシフェルの声は冷たく、それでいてどこか哀しかった。
私は震える声で問う。
「セレーネ……。あなたが憎んでいるのは、神ですか? それとも
――陛下ですか?」
その言葉に、彼女の唇が歪んだ。
「面白い質問ね、人間の娘。……答えは、両方よ」
次の瞬間、セレーネの手から光が放たれる。 眩い閃光が空気を裂き、冥王の影を貫いた。
轟音。
大地が震え、魂花が一斉に散った。
「陛下――!」
私は駆け寄ろうとするが、強風に弾かれる。 黒い羽が舞い、炎が渦巻く。
ルシフェルが腕を広げ、炎の壁を張った。
「近寄るな! ――こいつは我が罪、我が手で決着をつける!」
「罪……?」
「千年前、我は彼女を救えなかった。だから今度こそ、救うために斬る!」
剣が光る。
闇の力を凝縮した“魔王剣ルグナス”。
その刃が、黒き光をまとって唸る。
セレーネもまた、天より奪った“神剣ミュール”を構えた。
「かつて愛した男と女が、世界を割る――皮肉ね」
「……愛とは、赦しではなく、選択だ」
交わる視線。
刃がぶつかり、音が爆ぜる。
闇と光が拮抗し、空が割れる。
それは神話の再演のようだった。
***
(止めなきゃ……! このままじゃ、冥界も人間界も――)
私は立ち上がり、血の契約の印を押さえた。
ルシフェルの力の一部が、自分の中で燃え上がる。 この痛みを使えば――“二人を繋げる”ことができる。
「エリス、何を――」
「黙って見ていられるほど、弱くありません!」
叫びと同時に、私は両手を広げ、魔法陣を描いた。
冥界と人間界の文字を融合させた、禁断の陣。
“通訳の言霊”――外交官としての最後の力。
「〈交信術式・二界共鳴〉!」
光が爆発し、闇と光の刃の間に割り込む。
衝撃が走り、耳鳴りがする。
それでも、私は叫んだ。
「セレーネ! あなたの中にある“怒り”は理解できる!
でも、それを愛の形だと言うのなら――誰かを壊すために使っちゃいけない!」
「黙れ、人間!」
「黙りません!」
声が重なり、雷鳴が轟いた。
次の瞬間、ルシフェルの剣が、セレーネの光を弾き返す。
「……お前が言う“愛”は呪いだ、セレーネ。
だが、我が知る“愛”は――解放だ!」
ルシフェルが叫ぶと同時に、黒い剣が輝きを増した。
その刃は光を吸い込み、やがて白と黒が混ざり合う。「冥界の闇よ――今、我と共に、輪廻を閉じよ!」
刃が振り下ろされ、閃光が世界を裂く。
セレーネの翼が砕け、空に散る。
彼女の体がゆっくりと崩れ落ちた。
「……終わり……なのね」
彼女の唇が微かに動いた。
その声は、怒りでも呪詛でもなかった。
ただ――哀しみ。
「ルシフェル。……やっと、あなたの目で“私”を見てくれた」
そのまま、光となって消える。
風が静まり、冥界が深く息をついた。
***
すべてが終わった後。
静かな廊下で、私はルシフェルの肩に寄りかかっていた。
彼の左腕には、深い傷が残っている。
その血は黒く輝き、地面に落ちるたびに花が咲いた。
「……彼女を殺した気はない。
むしろ、“還した”のだ。
あの魂は、ようやく神の束縛を離れ、自由になれた」
「陛下……」「だが、この代償は重い。冥界の力が半分失われた」
「それでも――あなたは生きている」
「お前が信じてくれたからな」
彼の瞳が穏やかに揺れた。
その光が、初めて“人”の色をしていた。
「エリス。お前は何者だと思う?」
「……人間ですわ。少なくとも、そうだったはずです」
「違う。お前の中に流れるのは、“神と魔の境”の血。
お前こそ、“二界の子”だ」
「……え?」
「セレーネが言っていた“千年前の娘”――
その魂の欠片が、お前の中に宿っている」
息が止まる。
記憶の奥で、誰かの泣き声が蘇る。
処刑台の上、空を見上げたときの既視感。
すべてが、一つに繋がる。
「私が……セレーネの……?」
「血ではなく、魂の継承者だ。
だが、同じ道を歩くな。お前は“希望”の名で世界を繋ぐ者」 ルシフェルの手が、私の頬を包む。 その指先は、かすかに震えていた。
けれど、温かかった。
「我はもう一度、世界を選ぶ。
戦ではなく、“共存”の道を。
お前がいる限り、冥界は変わる」
「陛下……」
私はその手を握り返した。
遠くで、魂花が咲く音がした。
白と黒が混じる、初めて見る色の花。
――それは、冥界の“新しい朝”の象徴だった。
***
(私の運命は、処刑で終わったはずだった。
でも、本当の始まりは、ここからだったのかもしれない)
冥界と人間界の境で、私は立つ。
もう一度、選ぶために。
この世界を、愛するために。
次回予告(第8話)
「再誓の花と、冥界の暁」
セレーネの残した“堕天の残響”が再び動き出す。
エリスの正体、そして新たな使命。 ――“二界の子”として、真の外交が始まる。
第8話 再誓の花と、冥界の暁
――夜が、終わらなかった冥界に。
初めて、朝が訪れた。
それは陽光ではなく、無数の魂花が咲き誇る光だった。
黒の大地が青白く輝き、空の亀裂から漏れる柔らかな光が、世界を包む。
その色は、かつて誰も見たことのない“黎明”の色だった。
***
「……静かですね」
私は城のバルコニーに立ち、果ての光を見つめていた。
風が頬を撫で、遠くで魂花が揺れている。
その光景は、まるで戦火の痕を包み込む祈りのようだった。
背後から、足音が近づく。
ルシフェルが、長い外套を翻しながら現れた。
傷ついた左腕には、まだ包帯が巻かれている。
「戦が終わっても、世界はすぐには変わらぬ」
「けれど、確かに“始まり”は訪れました」
ルシフェルは頷き、視線を遠くへ向けた。
「……千年ぶりの“暁”だ。
冥界の夜が終わるとは、我すら思わなかった」「陛下が変わろうとしたから、冥界も応えたんです」
「変わったのは、我ではない。――お前が来たからだ」
その言葉に、胸が熱くなる。
けれど同時に、指先が微かに痛んだ。
血の契約の印が、淡く光を放っていた。
「……この印、最近少しずつ色が変わってきているんです」
「我の魔力が、完全には戻っていない証だろう」
「それでも、痛みではなく、温かさを感じるんです」
「それは、“信頼”が定着している証だ。
血の呪いではなく、心の絆に変わっている」
ルシフェルはそう言って、私の手を取った。
彼の掌はまだ冷たかったが、その奥に確かな熱を感じた。
「エリス。……この世界をどう思う?」
「綺麗です。悲しみのあとに咲く花ほど、美しいものはありません」
「だが、美しさは儚い。――守る術を考えねばならぬ」
「だからこそ、私たちがいるのでしょう?
剣でなく、言葉で守るために」
「ふ……また“外交官”の顔になったな」
「ええ。これから本格的に、“二界の会談”を開きますから」
「二界の会談……?」「人間界と冥界。互いに敵ではなく、隣人として歩む第一歩です。
聖教会の残党も、もう完全な敵ではありません。
対話でしか、未来は築けませんから」
ルシフェルは目を細めた。
その視線は、どこか誇らしげで、そして優しかった。
「お前のような者を、神々は恐れたのだろうな」
「私を?」
「“血も、運命も、秩序も”越えていく者。
神でも悪魔でもない、“人”そのものの可能性だ」
その言葉が胸に染みた。
私は静かに微笑んだ。
「陛下。……この世界で生きていいんですね、私」
「許しなど要らぬ。お前はすでに、冥界に光を植えた」
「光を……?」
「見ろ」
ルシフェルが指を伸ばす。
遠くの地平線で、一輪の花が開いていた。
それは、白でも黒でもない、淡い金色の花。
“二界の子”――私の誓いが咲かせた花だった。
「この花は、“再誓(さいせいか)花”と呼ぶ。
冥界と人間界が和解するとき、咲くと伝わる幻の花だ」
「……まさか、伝承が本当だったなんて」「伝承ではない。――お前が証明した」
風が吹き、金の花弁が空に舞う。
それは朝焼けのような光を放ち、冥界の闇に溶けていった。
***
その夜。
私は書庫の中で、一枚の古文書を開いていた。
そこには、ルシフェルの過去――そして“再誓の儀”についての記述があった。
『冥王が再び誓いを結ぶとき、その力は分かたれ、魂の均衡が失われる。
冥界の光を永遠に灯すには、“片方が消えねばならぬ”』
「……片方、が……?」
その文字が、胸に突き刺さった。
この再誓花は、“犠牲と再生”の象徴。
つまり、誰かがこの光の代償を払っているということ。
「陛下……」
胸の奥に、冷たい痛みが走る。
もし、ルシフェルが――。
そのとき、背後で声がした。
「……見つけてしまったか、エリス」
「陛下……」
振り返ると、彼が立っていた。
夜の光の中に、その姿は儚く映る。
包帯の下、左腕の傷から、淡い黒い光が漏れていた。
「隠すつもりはなかった。
だが、まだ“完全には戻らぬ”と伝えたのは、そのせいだ」
「陛下……まさか、“再誓の代償”が……」
「我の生命力を、花に注いでいる。
この世界が夜を越えるためにな」
「そんなの、駄目です!」
思わず叫んだ。
自分でも驚くほど強い声だった。
「陛下がいなければ、この冥界はまた闇に戻る。
光なんて、意味がなくなります!」
「いや、違う。光は受け継がれる。
我ではなく、“お前”が、それを継ぐのだ」
沈黙。
彼の声は静かで、どこか優しかった。
その瞳に、恐れも絶望もなかった。
「……エリス。 我はお前を花嫁としてではなく、“後継者”として選んだ」
「後継者……?」
「冥界の王は、永遠ではない。
だが、“理を繋ぐ者”がいれば、世界は滅びぬ。
――その役目を、お前に託す」
「そんな……私なんかに……!」
「我の力の半分はすでにお前の中にある。
あとは、心だ。
恐れるな、エリス。お前は“夜を越える者”だ」
涙がこぼれた。
それは悲しみではなく、祈りのような涙だった。
私は彼の手を握り、誓う。
「陛下。……私が、この世界を繋ぎます。
冥界と人間界、光と闇、愛と理。
全部を、手放しません」
「ふ……やはり、お前は我より強い」
ルシフェルが微笑んだ。
その笑顔が、あまりにも穏やかで、胸が痛くなる。
その瞬間、再誓花が一斉に咲き誇り、冥界全土を照らした。
空の闇が金色に染まり、 その光が、彼の体をやわらかく包み込む。
「これが……“暁”か……」
「ええ。――冥界の暁です」
光の中で、ルシフェルが静かに目を閉じる。
その姿は、まるで眠るようだった。
***
私は光の中で祈った。
冥界の王としてではなく、ひとりの女として。
この世界に生きる者すべてが、いつか“選ぶ勇気”を持てるように。
光が消えたあと――そこに立っていたのは、私ひとりだった。
けれど、空に残った金の花弁が、確かに囁いていた。
――「我は、お前を見ている」――
私は空を見上げた。
冥界に朝が訪れたのは、千年ぶりのことだった。
次回予告(第9話)
「王なき冥界と、使徒の影」
ルシフェルの消失後、冥界は動揺に包まれる。
エリスは“暁の王女”として立ち上がり、
二界会談の初陣に臨むが――人間界から、“新たな使徒”が現れる。
第9話 王なき冥界と、使徒の影
冥界に、朝が根づいてから七日が経った。
千年の闇を越えた世界は、今もまだ戸惑っている。
夜の国に“時間”という概念が生まれ、人々はようやく「朝」と
「夕暮れ」を口にし始めた。
けれど――。
「……陛下の玉座が、空のままなのです」
リリアが、静かに報告を終えた。
彼女の腕にはまだ傷が残っている。セレーネの憑依の痕跡だ。
それでも、彼女は迷いなく立ち、冥界の文官たちを導いていた。
「玉座を継ぐ者が現れぬ限り、冥界の統治は宙に浮きます。
……エリス様、どうか“暁の王女”として即位を」
「……その名、まだ慣れませんね」
私は微笑んで、ルシフェルの残した印章を手の中で転がした。
黒曜石の指輪――血の契約の象徴。
それが今、私の右手に収まっている。
「私は王にはなれません。
でも、“繋ぐ者”としての責任は果たします。
それが、陛下との約束です」
「……はい」
リリアは深く頷いた。
その目には、かつての侍女の従順ではなく、同志の決意が宿っていた。
***
会議の間には、冥界の貴族と長老たちが集まっていた。
以前ならルシフェルの影に怯えていた者たちも、今は別の緊張に包まれている。
「冥王亡き今、誰がこの国を導くというのだ」
「光の民が攻めてこぬ保証などない」
「“人間の女”を王女に据えるなど、我々の伝統が――!」
ざわめく声。
私は一歩前に出て、冷静に告げた。
「静粛にお願いします。
――冥界は、もう“恐怖”で動く時代ではありません。
今必要なのは、“対話”と“信頼”です」
「信頼? そんなもの、過去に何度裏切られたことか」
「ならば、今度こそ成功させます」
その言葉に、一瞬ざわめきが止んだ。
「私の使命は、冥界を守ることではありません。
――“冥界と人間界、両方を生かすこと”です」
「……何を言っている?」「どちらかが滅ぶ平和は、真の平和ではありません。
戦争を止めるのではなく、“続かせない仕組み”を作る。
それが私の戦いです」
沈黙。
空気が、わずかに変わった。
彼らの表情が、困惑から興味へと揺れる。
人は未知を恐れるが、同時に“希望”にも惹かれる。
「……言葉だけなら、誰にでも言える」
「ええ。だから、行動で示します」
私は指輪を掲げた。
黒い石が光を放ち、宙に紋章が浮かぶ。
それは――冥王ルシフェルの“王印”。
そして、その中央には、金色の再誓花が重ねられていた。
「陛下の意志は、ここにあります。
私がそれを“理”(ことわり)として形にします」
その瞬間、空気が静まった。
長老たちが、ゆっくりと頭を下げた。
――冥界に、新たな王が生まれた瞬間だった。
***
夜。
私は、塔の上から地平を見下ろしていた。
魂花の灯りが街を照らし、人々がその下で話している。
冥界に“生活”という温もりが戻ってきていた。「……ルシフェル。見ていますか」
呟いたそのとき、背後で風が揺れた。
「まさか、もう“王女”になってしまうとはね」
――その声。
振り返ると、フードをかぶった青年が立っていた。
銀の髪、灰色の瞳。
その肌は光を帯び、背中から淡い光の羽が伸びていた。
「……あなたは?」
「地上より来たりし、“使徒”だ。
神の意を伝える者――だが、安心して。剣を持ってきたわけじゃない」
「使徒……。聖教会の者?」
「“元”だ。
今の教会は、信仰ではなく権力に仕える。
俺はそれを嫌って、“落ちた”。――いや、“降りた”の方が正しいか」
彼は皮肉めいた笑みを浮かべた。
だがその目には、冷たい知性があった。
「あなたの名は?」
「カイン。……皮肉だろう? “最初の裏切り者”の名だ」「ふふ。なら、私は“再誓の女”です。お似合いですね」
「ほう、冗談が言えるとは思わなかった」
ふたりの間に、静かな風が流れる。
「冥王が消えた今、神々は動く。
“再誓の花”の誕生は、天界への“反逆”と見なされている。
だから、俺が来た。――あなたを護るために」
「護る? あなたが?」
「誤解しないでくれ。
俺は神に背いた。だから、天界に戻れない。
――だが、あなたを見て確信した。
“あの人”が守りたかったのは、きっとこの光だ」
「……“あの人”?」
「冥王ルシフェル。
彼は、堕天前の俺の師だった」
時が止まったようだった。
この青年の中に、ルシフェルの影が重なった。
「……陛下の、弟子……?」
「そう。俺はかつて、“光の戦士”として彼に仕えた。
だが、彼が堕ちたとき、俺は神の側についた。
その選択を、今も悔いている」「だから今度は、違う道を選んだのですね」
「そうだ。今度は、信じてみたい。
“愛と理”が両立できる世界を」
風が吹き、彼の羽が揺れた。
その羽は白ではなく、淡く金に染まっていた。
「――あなたに会いに来たのは、警告でも、命令でもない。
“盟約”を結ぶためだ」
「盟約……?」
「冥界と天界の架け橋として。
“暁の王女エリス”と、“堕天の使徒カイン”。
――二人で、世界を再構築する」
言葉が空気を震わせる。
まるで、ルシフェルの誓いが再び形を持ったかのように。
「……いいでしょう。あなたの誓い、受け取ります。
ただし、一つだけ条件があります」
「条件?」
「――裏切らないこと。それだけです」
カインは少し笑い、手を差し出した。
「誓おう。光にも闇にも縛られず、ただ“人”としてあなたに仕える」
その瞬間、二人の手の間に光が生まれた。
再誓花の金の花弁が舞い、空に散っていく。
その光は、まるで“新しい神話”の始まりを告げる鐘のようだった。
***
――こうして、“冥界と天界の交渉使”が誕生した。
ルシフェルの遺した空位の玉座の下で、
エリスとカインは、世界の理を再び描き始める。
けれど、この夜明けの光の裏で、
まだ誰も知らぬ“第三の影”が動き始めていた。
次回予告(第10話)
「光の教団と、裏界の囁き」
地上で再編される“聖教会”が冥界への新たな侵攻を画策。
カインの過去と、エリスの“二界の血”が再び試される。
――そのとき、冥界の奥底から“禁じられた王”が目を覚ます。
第10話 光の教団と、裏界の囁き
冥界に暁が満ちてから、ひと月が経った。
黒曜石の街には市が立ち、魂花を織り込んだ布を売る声が響く。 長き闇の中では想像すらできなかった“日常”が、今では誰の手の中にもあった。
けれど――その平穏を、遠くから見つめる目があった。
***
地上、人間界・聖都アステリア。
白銀の尖塔が並ぶ大聖堂の奥、地下の聖堂会議室。
そこに集うのは、聖教会の最高幹部たち。
彼らの前で、一人の青年が跪いていた。
「報告いたします。“堕天の使徒カイン”が、冥界の王女と接触しました」
「……やはり裏切ったか、カインめ」
低く響く声。
教皇に次ぐ第二の席、“枢機卿レグナ”。
神聖魔法を操る老魔導師にして、聖教会の実質的な最高権力者。
「冥界は再び力を蓄えつつあります。
――そして、冥王の後継者が現れました。名は“エリス”」
「処刑されたはずの女か」「はい。ですが、蘇り、冥界を統べております。
現在、“人間界との会談”を準備中とのこと」
ざわめきが起こる。
老枢機卿は、静かに手を上げた。
「ならば、我々が先に動く。
“光の教団”を再編し、冥界を正す“神の審判”を下すのだ」
「しかし、彼女は和平を――」
「和平? 違う。あれは“堕落”だ。
神の理に背き、魔と手を取り合うなど、許されぬ罪。
その芽を摘むのが、我らの使命だ」
老枢機卿の背後の聖像が、淡く光る。
その瞬間、地下に響いたのは――神ではなく、何か別のものの囁きだった。
「……滅ビハ、光カラ来ル……」
「今のは……?」
「気にするな。――神の啓示だ」
だが、その声は確かに冷たく笑っていた。
***
一方その頃、冥界の王城・暁の間。
エリスとカインは、聖教会の使節団の動きを監視していた。「聖都アステリアに、“光の教団”が再結成されたそうです」
リリアが報告書を差し出す。
カインはそれを受け取り、眉をひそめた。
「……早いな。
俺が抜けてから半年も経っていないのに、もう“新生聖教”が動くとは」
「陛下が消えたことで、神の威光が強まっているのかもしれません」
「いや、違う」
カインが低く呟く。
その瞳が、光の奥に潜む“影”を見据えていた。
「この再結成の背後に、“別の存在”がいる。
俺が天界にいたころから感じていた……“裏界”の気配が」
「裏界……?」
エリスが眉を寄せる。
カインはゆっくりと説明を始めた。
「天界でも冥界でもない、第三の層。
“神と魔の狭間”に棲む、名もなき存在たち。
天使にも悪魔にもなれず、理の外に弾かれた魂の集合体だ」
「そんな存在が……?」
「彼らは、神々が捨てた“残響”のようなもの。
だが今、“理の継承者”――つまりお前の誕生によって、再び目を覚ましつつある」「まるで……ルシフェルの喪失を、狙っていたように」
「そうだ。あの戦いは、偶然じゃなかった。
セレーネでさえ、“裏界”の囁きに操られていた可能性がある」
エリスの手が震える。
再誓花が淡く光り、指輪の中の刻印が熱を帯びた。
「もしその存在が、“神の声”を装っていたとしたら……?」
「聖教会が、それを“啓示”だと信じても不思議はない」
「つまり、“光の教団”の背後にいるのは、“神”ではなく――」
「“裏界”だ」
沈黙。
空気が重く沈む。
エリスは深く息を吸い、顔を上げた。
「……なら、もう一度“外交”を行うしかありません」
「何?」
「彼らが何を信じているのか、確かめる必要があります。
敵としてではなく、“同じ理を求める者”として」
「危険すぎる。向こうは“異端”と見なすだろう」
「だからこそ、私が行くんです。
この世界を“理”で繋ぐために」
カインが目を細めた。
その表情には、怒りでも呆れでもなく、どこか誇らしさがあった。「……まったく。あなたという人は、王に似てきた」
「陛下に?」
「ああ。信じることに、愚直なほど正直だ」
エリスは小さく笑った。
そして、静かに言った。
「私が“愚か”でいられるのは、信じる人がいたからです。
陛下も、あなたも」
「……困ったな。そんなふうに言われたら、護るしかない」
カインが指先で彼女の髪をすくった。
光の羽が静かに広がり、柔らかな光が二人を包む。
それは戦の誓いではなく、“信頼の誓約”のようだった。
***
その夜。
冥界の最深部、“忘却の谷”にて。
崩れた石碑の上で、ひとつの影が動いた。
「……目覚メノ刻、来タリ」
声は、風と共に広がる。
地面が震え、闇の中から、黒い蔦が這い出した。
それは魂花を呑み込み、光を奪っていく。
「神ニ捨テラレ、魔ニ拒マレシ我ラ…… 今コソ、“第三ノ理”ヲ示サン――」 その中心に、ひとりの男が立っていた。
褐色の肌、金の眼、そして背に黒と白の混ざった翼。
その名を、誰もまだ知らない。
だが彼こそ、“裏界の王”だっ(キング・オブ・ネザ)た。
「――光も闇も、我が糧。
神も魔も、我が遊戯。
……理ノ外ニ、新シキ理ヲ創ラントス」
その笑みは、静かな破滅の始まりだった。
***
翌朝。
エリスは執務室で、一通の封書を受け取った。
それは、地上の聖都からの正式な文書だった。
『冥界代表、エリス=フォルティア殿。
貴殿の提案する“二界会談”を承認する。ただし、会談の場は“聖断の門”とする。
光の神の御前にて、真理を語れ。』
「……罠、ですね」
「確実にな」
カインが書簡を読みながら呟く。
「でも――行きます」
「予想してた」
彼女は微笑んだ。
恐怖よりも、信念の光の方が強かった。
「陛下が選んだ“未来”を、私が完成させます。
もう、逃げません」
「なら、俺も行く。……二人で行こう、暁の王女」
エリスが頷く。
再誓花の花弁が、再び光を帯びた。
その光は、まるで“門”の方角を指し示しているかのようだった。
次回予告(第11話)
「聖断の門、再び」
二界会談がついに開幕。
だが、光の教団の背後には“裏界王”の影。
――信仰と理性、愛と裏切りが交錯する、世界再編の第一歩。
第11話(最終話) 再誓の果て、光と闇の詩
――聖断の門が、再び開いた。
そこはかつて、私が処刑された場所。
そして、冥王と出会い、冥界が生まれ変わった場所でもある。
時は巡り、今、私は“暁の王女”として、再びその門の前に立っていた。
空は白と黒が混ざり合う曙光の色。
門の向こうには、光の教団の使者たちが整列し、
その中央に、かつて神に仕えた青年――カインが立っていた。
けれどその背後、地の底から、微かなざわめきが聞こえる。
“裏界”が、目を覚まそうとしていた。
***
「エリス=フォルティア。貴殿が冥界を統べる者か」
聖教会の枢機卿・レグナが前に出る。
その瞳には、信仰の名を借りた憎悪の光が宿っていた。
「はい。……そして、あなたに会いに来ました」
「神に背いた者が、我らに何を求める」
「理です。――滅びではなく、共存の理を」
「理? 滑稽だな。
神の法を越える理など、存在しない」「あるのです。私たちが“選び続ける限り”」
静かな空気が流れた。
けれどそのとき、門の奥から、黒い蔦が這い出してきた。
大地が震え、光の兵たちが叫び声を上げる。
「……裏界だ!」
カインの声が響く。
蔦は聖なる光を呑み込み、空を覆った。
それは“第三の理”を求める者――裏界の王の出現だった。
「神ハ欺キ、魔ハ縛ル。
我ラハ自由ヲ求ム。
二界ノ王女ヨ、汝ノ光ヲ寄越セ――」
低く響く声が、心臓を揺らす。
レグナの目が狂気に染まり、両手を広げた。
「神の御言葉が……我が中に! これぞ救済だ!」
「違う!」
私は叫んだ。
その声は雷鳴のように空を裂いた。
「それは“神”ではない。あなたの恐怖が形を取った“闇”です!」
「黙れ! 神は光だ! 我らが信じたものだ!」
「いいえ――光も闇も、どちらも“生”の一部です。
だから私は、そのどちらも否定しない!」 私は門の中心に歩み出た。
血の契約の印が光を放ち、再誓花の金の花弁が風に舞う。
「――ルシフェル、聞こえていますか」
空に向けて囁く。
指輪の中から、懐かしい声が響いた。
『我は常に、お前の中にある』
その声と共に、光が広がる。
冥界と人間界、そして裏界を繋ぐ三重の魔法陣が浮かび上がった。
カインが隣に立つ。彼の羽は金に染まり、背後で風が唸る。
「行くぞ、エリス」
「ええ。一緒に――終わらせましょう」
二人は両手を合わせ、声を重ねた。
「我ら、血と理を超え、“新たな誓い”を結ばん――!」
光が爆ぜる。
裏界の蔦が焼け、闇が砕け、
レグナの叫びが風に消える。
そして――静寂。
***
気がつけば、私は地に倒れていた。 門の光は消え、空には澄んだ青が広がっていた。
初めて見る、本物の“空の色”だった。
「……終わったのね」
隣で、カインが座り込んでいた。
彼の羽は片方だけになっていたが、微笑んでいた。
「世界は……続いた。お前のおかげだ」
「貴方のおかげでもあります」
「いや。俺は、あの人と同じだ。
――信じる者に、救われたんだ」
カインはゆっくりと立ち上がり、光を仰いだ。
その背に、淡い光が差し込む。
白と黒の羽が混じり合い、金の光に変わる。
「神も魔も越えて、“人”として生きる。
それが、俺たちの理だな」
「ええ。きっとそれが、“愛の形”なんだと思います」
風が吹き、再誓花の花弁が空に舞った。
どこかで、ルシフェルの声が微かに笑う。
『よくやった、エリス。
この光の果てで、また会おう――』
涙がこぼれた。
それでも、笑っていた。
もう悲しみではない。
この涙は、世界の始まりに捧げる祈りのようだった。
***
その後。
冥界は再び秩序を取り戻した。
魂花は絶えることなく咲き、光と闇は穏やかに混ざり合った。
地上では、聖教会が解体され、新たな信仰共同体“再誓の庵”が生まれた。
人々は戦ではなく、言葉で理を語る時代を選んだ。
そして――暁の王女エリスは、冥界と地上を往復しながら、
“理の外交官”として世界の均衡を見守る存在となった。
誰もが問う。
「魔王は本当に死んだのか」と。
そのたび、彼女は微笑むだけだった。
「いいえ。彼は、今もこの光の中にいます。
――だって、私たちが“信じ続ける限り”」
風が吹く。
再誓花が咲き乱れ、光と闇が混ざる空の下。
その中心で、エリスは静かに目を閉じた。
(世界は、ようやく始まったのね――) 冥界の空がゆっくりと淡く染まり、
その色は、人間界の朝焼けと同じだった。
エピローグタイトル
「暁、永久に。」
かつて“断罪された悪役令嬢”は、世界の理を繋ぐ“最初の王”となった。
その名を、人々はこう呼ぶ。
――《再誓の女王エリス》。
あとがき
――『断罪され処刑された悪役令嬢、気づけば冥界で魔王の花嫁になっていました』
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。
本作は、最初は「悪役令嬢×魔王」という王道の組み合わせから始まりました。
けれど書き進めるうちに、それは“恋”の物語ではなく、“信頼と選択”の物語へと変わっていきました。
エリスという少女は、「断罪され、処刑され、すべてを失った」ところから始まります。
ですが、彼女はその“終わり”を“始まり”に変えました。
誰かを憎む代わりに、誰かを信じた。
奪うためではなく、“繋ぐため”に手を伸ばした。
そんな彼女の姿を、最後まで見届けてくださった皆さまに、心から感謝します。
冥王ルシフェルは、力の象徴でした。
でも、彼もまた「愛する勇気を取り戻したひとりの男」です。
彼が消えたあとも、その“信頼”はエリスの中に生き続けます。
それは血の契約ではなく、“心の契約”。
この作品全体のテーマでもあります。 最後に描いた再誓(さいせいか)花の花言葉は、
「滅びを越えて、信じ合うこと」。
これは、どんな世界でも、どんな時代でも通じる“希望”の象徴です。
エリスが見上げた空の色――あの金と白が混ざる朝焼けは、
きっと今この瞬間、あなたのいる場所にも繋がっていると信じています。
もしこの作品が少しでも、
「信じること」や「赦すこと」の美しさを思い出すきっかけになれたなら、
それが作者としての何よりの幸せです。
そして、いつかまた。
別の時代、別の世界で――彼女たちが再び笑い合う物語を紡げたらと思っています。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
どうか、あなたの明日にも“暁”が訪れますように。
作者よりひとこと
「誰かを信じることは、時に愚かで、時に奇跡です。
けれど、それでも信じてしまう――そんな物語を書きたかった。」
――冷たい風が頬を打った。
鐘が鳴る。
人々のざわめきが、まるで潮のように押し寄せてくる。
「エリス=フォルティア。お前は国王陛下に対する反逆罪、および王太子殿下への毒殺未遂の罪により――死をもってその罪を償え」
玉座の前でそう宣告され、私は静かに笑った。
「……殿下。あなたが愛したのは、私の“努力”ではなく、“都合のいい人形”だったのですね」
見上げる先。王太子の目は、まるで知らぬ他人を見るように冷たかった。
隣には、泣き真似をする令嬢。私を陥れた、彼の新しい婚約者だ。
「弁明の余地はないのですか?」
「ありませんわ。――どうせ、信じてもらえませんもの」
最後の礼を取ると、護衛に腕を掴まれ、石畳の階段を引きずられる。
空には雲一つなく、青が痛いほど澄んでいた。
(ああ、やっぱり……この国の青空は、いつも冷たい) 刃が振り下ろされる瞬間、私は確かに笑っていた。 涙ではなく、誇りの笑みを浮かべて。
――そして、世界が、闇に溶けた。
***
……冷たい。けれど、血の温度ではない。
頬をなでたのは、まるで夜の底のような風。
「……ここは……?」
瞼を開けると、白ではなく“黒”が広がっていた。
天井はなく、空は逆さまに星を散らしている。
そこに、漆黒の玉座があった。
玉座に座るのは、ひとりの男。
漆黒の髪と紅玉の瞳。長い外套は闇を編んだようで、空気が震えるほどの存在感を放っていた。
「ようやく目を覚ましたか、娘」
低く響く声に、胸が跳ねる。
その声音だけで、心臓が支配されるような感覚に陥る。
「……あなたは……誰……ですの?」
「我は“冥王”ルシフェル。この冥界を統べる存在だ。――そしてお前は、我の花嫁となる運命にある」
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
「……花嫁、ですって?」
「そうだ。人の国で理不尽に殺されたお前を、我が冥界に迎えた。
魂の色を見た。――お前の色は、真紅だった。強く、美しい。故に、我が后に相応しい」
「……処刑されたのに、今度は結婚、ですか」
「ふ。皮肉だな」
ルシフェルは微かに口角を上げる。その笑みは冷酷でありながら、どこか哀しげでもあった。
「……私に拒否権は?」
「冥界において、我の言葉は絶対だ。ただし――我はお前に“自由 ”を与える。花嫁としてでなくとも、己の意思でここに生きるがいい」
その一言に、胸の奥がわずかに震えた。
人間の世界では、誰も私の言葉を信じてくれなかった。
けれどこの魔王は、少なくとも“選択肢”を与えてくれる。
「……では、しばらくお世話になりますわ。冥王陛下」
「良い覚悟だ、エリス=フォルティア」
その名を呼ばれた瞬間、空気が弾けた。
闇の花が咲くように、黒い蝶が舞い上がる。「――ようこそ、冥界へ。我が花嫁」
その声は、死の世界での“再生”の鐘のように響いた。
***
冥界の空は、永遠の夜だった。
だが、不思議と怖くはない。
黒曜石のような地面を歩けば、魂の光が足元で淡く揺れる。
生者の理では測れぬ美しさが、ここにはあった。
「お早いお目覚めでございますね、エリス様」
声をかけてきたのは、銀髪の侍女――死霊のように静かだが、瞳は人間より温かい。
「ここは……冥王城と呼ばれる場所ですか?」
「はい。冥王陛下が千年に渡りお治めになられている城。……そして、陛下が初めて“花嫁”として迎えられた方が、あなた様です」
「初めて……?」
「陛下はこれまで、誰にも心を開かれませんでした。戦も、裁きも、
すべて冷徹にこなされて。――ですが、あなたを見た瞬間だけは、表情が違いました」
侍女の言葉に、胸がざわめく。
(なぜ、私なんかに……?)
処刑され、捨てられ、価値などないと思っていた自分を。 それでも、誰かが必要としてくれるというのなら。
「……ここで、もう一度、生き直せるのかもしれませんね」
そう呟くと、遠くから声が響いた。
「エリス。来い――夕餉を共にしよう」
振り向けば、玉座の上でこちらを見下ろすルシフェルの姿。
紅の瞳が、まるで“生者”のように熱を帯びていた。
「了解しました、冥王陛下」
ドレスの裾を持ち上げ、深く一礼する。
その姿はもう、“処刑台の亡霊”ではない。
――冥界に生まれ落ちた、新たな令嬢だった。
そして、この夜が、後に“二つの世界を変えた政略婚”の始まりになることを、私はまだ知らなかった。
第2話 冥界の晩餐と、嫉妬の宮廷
冥王城の大広間は、まるで夜そのものを閉じ込めたような場所だった。
黒曜石の壁、紫水晶の燭台、流れる炎は青く、光を放ちながらも熱を持たない。
その中央、長く伸びた晩餐の卓の端に、私は座らされていた。
「本日の献立は“冥火の鳥”と“魂花の蜜酒”でございます」
銀髪の侍女・リリアが恭しく告げる。皿に盛られた料理は美しく、どこか現実離れしている。
肉は光を帯び、香りは甘く、ひと口ごとに体の奥に力が満ちていくようだった。
「この冥界では、食は魂の強さを保つための儀式だ。味覚ではなく、意志で味わう」
対面の席に座るルシフェルが、ゆるやかにワインを傾けた。
「……なるほど。意志を喰らう世界、というわけですのね」
「ふ、理解が早いな。やはり“人の王都”の貴族教育は侮れぬ」
その声音には、皮肉ではなく純粋な感心が含まれていた。
けれど、その瞬間――扉の奥から、ざわめきが起きた。
「陛下、まことにそれは……!」
入ってきたのは、漆黒の鎧をまとった魔族たち。
彼らは私を見るなり、険しい顔をした。「なぜ、人間を晩餐に招くのですか。冥界の花嫁とはいえ、まだ正式な婚姻は――」
「黙れ」
ルシフェルの声が低く響いた。空気が凍る。
その一言で、誰もが息を飲んだ。
「この娘は“我の客”である。口を慎め」
「……は、はい」
彼らは一斉に頭を下げた。
けれど、冷たい視線は消えない。
“人間”である私が、彼らにとってどれほど異物か、痛いほど伝わった。
(なるほど……これが、“外交の場”というわけですね)
私はワイングラスを静かに持ち上げ、微笑んだ。
「陛下。もしお許しいただけるなら、少し話をしてもよろしいでしょうか?」
「構わぬ。お前の考えを聞こう」
その返事を得て、私は席を立った。
視線を集めながら、堂々と魔族たちを見渡す。
「皆さま。私は人間ですが、敵として来たわけではありません。むしろ――皆さまの王が治める“冥界”の繁栄を願う者として参りました」
「……繁栄、だと?」
「ええ。人間の世界では、冥界は“恐怖”の象徴とされています。けれど、こうして見ていると……実に整然と、美しく秩序立っている。
――恐怖ではなく、尊敬を抱くべき文明です」
沈黙が落ちた。
誰も予期していなかった言葉だったのだろう。
「貴族らしい口の巧さだな」
低くつぶやいた魔族のひとりが、私を値踏みするように見た。
「ええ。言葉で生き延びるのが、貴族の芸ですもの」
微笑を返す。挑発ではない。だが、“退かぬ”意思を込めた。
その瞬間、ルシフェルがわずかに目を細めた。
彼の瞳の奥に、わずかな愉悦が光る。
「見たか、アルバ。これが“人の言葉”の力だ」
「……陛下」
「我々が武で治めるなら、人間は“言葉”で世界を繋ぐ。――面白いだろう?」
魔族たちは顔を見合わせ、やがて沈黙した。
反発と理解の狭間で、揺れているのが見える。
(言葉ひとつで、空気は変わる。
人間の宮廷も、冥界の宮廷も、それは同じ) この場で下手に出れば、軽んじられる。
けれど、誇りを見せれば、敵意は“興味”へと変わる。
それは外交の鉄則だ。
「よい。――お前を我が宰相たちの前に正式に紹介しよう」
「え?」
「今日をもって、エリス=フォルティアを“冥界第一后候補”とする」
大広間がざわめきに満ちた。
魔族たちが一斉に顔を上げ、怒号と驚きが交錯する。
「ま、待ってください陛下! それはあまりにも――」
「反対するか?」
「い、いえ……!」
ルシフェルがゆっくりと立ち上がり、私のそばへ歩み寄る。
その紅い瞳が、まっすぐに私を射抜いた。
「エリス。お前は人間でありながら、冥界の者たちを言葉で動かした。
我に必要なのは、恐怖ではなく“対話”を知る花嫁だ。――お前以外に誰が相応しい?」
「……陛下」
その言葉に、胸が熱くなる。
誰も信じてくれなかった過去が、一瞬で塗り替えられていくようで。
けれど同時に、背後で感じた無数の視線が冷たく刺さった。
(なるほど……“嫉妬の宮廷”というやつですわね)
魔族の貴婦人たちの間から、明確な敵意が立ち上る。
これで、私は正式に“政敵”としても認識されたわけだ。
「ふふ、どうやら退屈はしなさそうです」
「退屈など、許さぬ」
ルシフェルは私の耳元で低く囁いた。
その声に、背筋が粟立つ。
「我が后となる者よ――冥界は、甘くはないぞ」
「望むところですわ、陛下」
微笑んだ瞬間、燭台の炎が揺れた。
青い光が二人を照らし、まるで“誓約の儀”のように静かに燃える。
その夜、冥界の歴史がわずかに軋みを上げた。
“人間の令嬢”が初めて宮廷の中心に立った夜だった。
次回予告(第3話)
「血の契約と、魔王の過去」
冥王が抱える“古き傷”と、“戦の理由”が初めて明かされる。
彼の優しさの裏にある絶望とは――。
第3話 血の契約と、魔王の過去
翌朝、冥界の空は、夜と同じ色をしていた。
けれど、私の胸の奥にはかすかな光があった。
――昨日、彼に“必要だ”と言われた。その事実だけで、生き返ったような気がしていた。
重厚な扉を開けると、廊下の先でリリアが待っていた。
「陛下がお呼びです。王の間へ」
私はうなずき、黒のドレスの裾を整える。
鏡に映る自分の顔は、もう“処刑された令嬢”ではない。
代わりに、冥界の光を纏った新しい私がいた。
***
王の間。
昨日の晩餐とは違う静謐な空間。壁には古い碑文が刻まれ、天井には血のような紅い紋章が描かれていた。
その中央、ルシフェルが立っていた。
「来たか、エリス」
「お呼びとのことでしたが……何かご用でしょうか?」
「お前を“正式な后候補”として、契約を結ぶ」
その言葉に、息が止まった。
「契約……とは?」「冥界では、婚姻は血の契約によって結ばれる。魂の一部を分け合い、互いの存在を証とする。――だが、強制ではない。拒むこともできる」
「拒まれたことも、ありますの?」
問いかけると、ルシフェルは一瞬だけ視線を逸らした。
その仕草が妙に人間らしく見えて、胸がざわめいた。
「……昔、一人だけいた。だが、その者は我を恐れ、契約の直前に逃げた。
――そして人間界で処刑された」
空気が凍りつく。
私の心臓が、ひとつ、大きく跳ねた。
「……それは、偶然では?」
「偶然ではない。冥界の力を恐れた人間の王が、その女を“魔王の間者”として処刑した。……お前の処刑理由と、酷く似ているだろう?」
私は息を呑んだ。
血の気が引いていく。
まるで自分の運命が、すでに彼の過去と絡み合っていたかのようだった。
「その方の……名は?」
「――セリア」
ルシフェルはゆっくりと目を閉じた。
彼の長い睫毛が、わずかに震える。
「彼女は、我を人として見てくれた唯一の人間だった。だが、我は守れなかった。
それ以来、人間とは交わらぬと誓った。……だが、お前を見た瞬間、我はまた誓いを破った」
静寂。
その言葉に込められた痛みが、空気を震わせる。
私は思わず前に出た。
「陛下。……貴方はまだ、その誓いに縛られているのですね」
「そうかもしれぬ。
だが同時に――我は、お前を失いたくない」
その声音は、魔王のものではなかった。
ひとりの“男”としての切実な響きだった。
「……契約は、痛みますか?」
「痛みは一瞬だ。だが、心は永遠に繋がる」
ルシフェルは小さな短剣を取り出した。
黒曜石でできたそれは、光を吸い込むように鈍く輝いている。
「この刃で互いの指を傷つけ、血を交わす。それが冥界の契約儀式だ」
「……いいでしょう。やりましょう、陛下」
「よいのか?」
「ええ。私も誓いたいのです。
“過去に負けない”と。――貴方と共に、未来を変えると」
ルシフェルの紅い瞳が、ゆるやかに見開かれた。
次の瞬間、彼の唇がわずかに笑みに歪む。
「お前という女は……本当に、予想を裏切ってばかりだ」
「褒め言葉として、受け取っておきますわ」
互いに指を差し出す。
刃が触れ、赤い滴が流れた。
その血が混じり合う瞬間、部屋の紋章が淡く光を放った。
――ドクン。
熱が、身体を貫いた。
心臓の奥が焼けるように痛い。
けれど、同時に、心のどこかが安らいでいた。
「これで、契約は完了だ」
ルシフェルの声が遠くに聞こえる。
けれど、その目は近かった。
紅の光が、私の瞳に映る。
「……陛下。これで私は、貴方のものですか?」
「違う。――我の“半身”だ」
そう言って、彼は私の手を取った。
その手のひらから、熱が伝わる。
指先から、何かが流れ込むようだった。「これで、お前の中には我の力が宿った。
同時に、お前が傷つけば、我も傷つく」
「……つまり、共倒れの契約ですわね」
「ふ、そういう言い方もできる」
ふと、笑いがこぼれる。
この冥界で、笑うことがあるなんて思わなかった。
けれど、彼もまた同じように、静かに微笑んでいた。
***
儀式を終えたあと、城の外に出ると、青白い光の花々が咲き乱れていた。
それは“魂花”と呼ばれる、冥界にしか咲かぬ花だ。
死した魂が安らぎを得たとき、その形で姿を現すという。
「綺麗……」
「お前が冥界に来てから、花の数が増えた」
「え……?」
「冥界は、感情に呼応する。お前が笑えば、花が咲く」
その言葉に、胸が熱くなる。
死の国で、命が芽吹く――なんて、皮肉で、そして美しい。
「陛下。……この花がもっと咲くように、私、努力しますね」
「努力?」
「ええ。“生きる努力”ですわ。ここでも、もう一度」
ルシフェルは何も言わなかった。
ただ、手を伸ばして私の髪を撫でた。
「エリス。――冥界に光をもたらしたのは、千年ぶりだ」
その声には、確かに“希望”が宿っていた。
***
けれどその夜。
私は城の廊下で、ひそやかな声を耳にした。
「……人間など、陛下を滅ぼすだけだ」
「“契約”の血は呪いに変わる。――あの女が、冥界を崩す」
闇の奥で、二つの影が蠢いていた。
その声は、嫉妬か、あるいは忠誠か。 私には、まだ分からなかった。
ただ、胸の奥で冷たい予感が囁いていた。
“契約”とは、絆であり、同時に“呪い”でもあるのだと。
次回予告(第4話)
「黒き予言と、裏切りの香り」冥界に忍び寄る“崩壊の兆し”。
エリスの契約がもたらす“光と影”が、次なる運命を揺るがす――。
第4話 黒き予言と、裏切りの香り
――血の契約を交わしてから、三日。
冥界の空は相変わらず夜のままだったが、城の空気はわずかにざわついていた。
「……陛下が、力を削がれた?」
リリアの言葉に、私は思わず振り返った。
「契約の影響でしょうか?」
「はい。冥界の均衡は陛下の魔力により保たれております。血を分け与えた今、その一部が貴女様に流れているのです」
「つまり、私が陛下の力を奪っている……?」
「正確には“分かち合っている”のです。けれど、魔族の中にはそれを“呪い”と見る者も少なくありません」
リリアの声は慎重だった。
だが、廊下を吹き抜ける風の冷たさが、予感を告げていた。
(契約――それは絆と同時に、弱点でもある)
私は唇を噛み、胸の奥に灯る小さな不安を押し込めた。
***
その夜。
玉座の間には、数名の側近が集まっていた。
黒鎧の将軍アルバ、知略に長けた魔導卿ヴァーミル。
そして、琥珀の瞳を持つ女魔族、セレーネ。
彼女だけが、私に視線を向けようとしなかった。
「陛下。人間との契約など前代未聞。冥界の秩序に亀裂が入る恐れがあります」
「ヴァーミル。秩序とは変わるためにある。変化を拒むことこそ腐敗だ」
「……しかし、すでに西方の領では魂流が乱れ始めております」
魂流――冥界の“生命の川”。
その流れが乱れるということは、死者の魂が迷い始めた証だ。
ルシフェルはゆるやかに玉座の肘掛けを指で叩いた。
「我の力が一時的に弱まっているのは確かだ。だが、いずれ戻る」
「……戻らなかったら?」
ヴァーミルの声が冷たく響く。
空気が張りつめた。
私が息を呑んだ瞬間、ルシフェルが立ち上がる。
「そのときは――我を殺せ。冥界を守るためにな」
その静かな宣言に、誰も言葉を失った。
私は拳を握りしめる。
(そんな……。陛下が……)
だが、その沈黙の中で、ひとりだけ口角を上げた者がいた。
セレーネ――冥界の外交顧問であり、かつて魔王の“側近以上の関係”と噂された女。
「陛下は本当にお優しい。……ですが、それゆえに利用されるのですわ」
彼女の声は甘く、毒を含んでいた。
「“人間の娘”を守るために、冥界を危うくするおつもりですか?」
視線が私に突き刺さる。
その一瞥で、背筋が凍った。
「……エリス様。契約とは、冥王陛下の魂を縛る鎖。もし本当に陛下を想うのなら――その血を返上なさってはいかが?」
周囲の空気がざわめいた。
まるで“毒”が滴り落ちるような提案。
だが、私は静かに笑った。
「まあ。……お優しい忠告をありがとうございます、セレーネ様」
「……何ですって?」
「でも、それは“あなたが陛下を心配している”のではなく、“陛下が誰を見ているかが気に入らない”からでしょう?」 沈黙。
セレーネの瞳が、凍る。
ルシフェルの唇がわずかに動いたが、何も言わなかった。
「私が陛下に選ばれた理由は、血ではなく意志です。
――陛下が冥界を変えようとされるその覚悟に、共鳴しただけです」
「共鳴……? 笑わせますわ。人間の感情が、千年の冥界を揺るがせるとでも?」
「ええ、揺るがせます。だって、私が今、こうしてここにいることがその証拠ですもの」
場の空気が一瞬にして変わる。
ヴァーミルが眉をひそめ、アルバが笑いをこらえるように咳払いした。
「……なるほど、口では誰にも負けんようだな」
「それしか取り柄がありませんから」
冗談めかして言うと、ルシフェルの唇がかすかに動いた。
――それは、わずかな笑みだった。
「……退室せよ。全員だ」
低く響く声に、誰も逆らえなかった。
側近たちは一斉に跪き、静かに去っていく。
最後に残ったのは、ルシフェルと私だけ。
***
「……すまぬ、エリス。お前を危険な場に晒した」「お気になさらないでください。
むしろ、彼らの反応を見て“冥界の構造”が少し分かりましたわ」
「構造、だと?」
「ええ。陛下が王として立つ以上、周囲は“恐怖”で支配されている。
けれど、その恐怖の裏で皆が求めているのは、“理解されること
”なんです」
「……理解、か」
「はい。だから、恐怖を少しずつ“信頼”に変えられれば、冥界は戦わずして強くなるはずです」
言葉を重ねると、ルシフェルは沈黙したまま私を見つめた。
その瞳は、かすかに揺れている。
「……まるで、セリアのようだ」
小さく漏れたその名に、胸が痛んだ。
けれど、私は微笑んで答える。
「なら、私が“彼女の続きを生きる者”になりましょう」
「お前は……怖くはないのか?」
「怖いですよ。冥界も、陛下も、自分の運命も。
でも――“怖い”という感情があるうちは、まだ生きている証拠です」
その瞬間、ルシフェルの表情がわずかに緩んだ。
そして、指先が私の頬をなぞる。
「……お前の言葉は、不思議と心をほどく」
「そう言ってもらえるなら、外交官冥利に尽きますわ」
冗談めかして言ったそのとき――。
城の外で、鐘の音が鳴り響いた。
だが、それは“報せ”ではなく、“警鐘”の音だった。
「……陛下! 南方の魂流が、完全に断たれました!」
駆け込んできた魔族の報告に、ルシフェルが眉をひそめる。
「……断たれた? まさか、魂狩りの徒(と)どもか……!」
ヴァーミルが追うように入ってくる。
「確認されました。人間界の“聖教会”が、冥界の門を破った形跡が――」
「聖教会……!」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が締め付けられた。
あの、私を断罪した宗派。
私を“悪女”と呼び、処刑した連中だ。
「……冥界への侵攻、ですのね」「おそらく。“神の浄化”を名目にしてな」
ルシフェルの声が低くなる。
その瞳が紅く輝き、空気が震える。
――しかし、同時にその光は、わずかに揺らいでいた。
(やはり、契約の影響……)
私は息を呑み、彼の隣に歩み寄った。
「陛下。今こそ、“言葉の力”をお使いください」
「言葉の……力?」
「冥界と人間界を繋ぐ“通訳”として、私をお使いください。
私なら、聖教会の考え方を知っています。彼らの思考も、恐怖も、利用できる」
「だが危険すぎる。お前を再び人間の前に立たせるなど――」
「私が望んでいます。
――もう一度、あの世界に立ち向かうために」
ルシフェルは目を閉じた。
そして、ゆっくりと頷く。
「……分かった。ただし、我の許しなく一歩でも離れるな。
お前の命は、我の半身なのだから」 その言葉に、微笑が零れる。 彼の瞳の奥に、迷いと誇り、そして何より“信頼”が宿っていた。
***
だがその夜。
暗闇の中で、セレーネは別の誰かと密会していた。
「……聖教会は動いた。あとは“人間の女”を餌にすればいい」
「陛下を堕とすのは、愛ではなく――裏切りだ」
彼女の唇が、闇の中で妖しく笑った。
香のような甘い匂いが漂い、空気を濁らせる。
「――冥界の夜に、裏切りの花を咲かせましょう」
その声が、静かに消えた瞬間、
魂花の一輪が音もなく――黒く染まった。
次回予告(第5話)
「堕ちた花と、ふたりの密約」聖教会との“外交戦”が始まる。魔王と令嬢、そして裏切り者。
――三つの誓いが、運命を裂く。
第5話 堕ちた花と、ふたりの密約
冥界の夜は、ますます深くなっていた。
魂花の光が、風に流されるように揺れている。
その中に、ひときわ黒く染まった一輪があった。
それが何を意味するか、まだ誰も知らなかった。
***
「――聖教会の使者が来た。」
報告を受けた瞬間、玉座の間の空気が張り詰めた。
ルシフェルは立ち上がり、紅の瞳で私を見た。
「彼らは“対話”を求めている。だが実際は、冥界の門を封じるための“査問”だ」
「……つまり、外交という名の戦争、ですね」
「そうだ。お前を同行させることに、反対の声は多い。だが、我は譲らぬ」
私の胸が熱くなった。
あの冷たい王が、迷いなくそう言ってくれることが、ただ嬉しかった。
「では、準備を整えましょう。――陛下。聖教会の者たちは、“清らか”という言葉を武器にします。
その信仰に“理”を与えてやれば、心は揺らぎます」「“理”で信仰を壊すか。皮肉なものだな」
「ええ。私はもう、人間を信じない。けれど、彼らの理屈は知っています。だから利用できる」
ルシフェルの目が、わずかに揺れた。
その光は、哀しみと誇りが混ざり合った色をしていた。
「……お前の覚悟、確かに見た。」
***
会談は、冥王城の外縁――“無明の庭”で行われた。
黒い霧が渦巻き、空気そのものが重い。
だが、その中央に立つ聖教会の使者たちは、白銀の鎧をまとい、まるで光の像のようだった。
「我ら聖教の使徒は、“神の名”のもとに、冥界の魂の流れを正すために来た」
「神の名のもとに、か」
ルシフェルの声は低く、雷のように響いた。
私が一歩前に出る。
背筋を伸ばし、微笑む。
「聖教会の皆さま。私は元・王国侯爵家の令嬢、エリス=フォルティア。
そして今は、冥王陛下の外交顧問として、貴方たちを歓迎いたします」
「……処刑された女が、まだ口を利くか」
使者のひとりが、あざ笑うように言った。
私は静かにその目を見る。
「そうですね。けれど、私の死を命じたのは“神”ではなく、“人
”です。
貴方たちもまた、神の名を語りながら、“人の罪”を隠しているだけでは?」
「なっ……!」
使者たちの顔が一斉に紅潮した。
その中で、ルシフェルがゆるやかに笑う。
「エリス。やはりお前は戦の才がある」
「外交とは言葉の剣術ですもの。切れ味は、少し鋭い方がよろしいかと」
「ふ……気に入った」
ルシフェルが一歩前へ出る。
紅の瞳が、光の鎧を映した。
「聖教の者よ。我は冥界を侵すつもりはない。だが、これ以上魂を奪うならば――貴様らを“地上から消す”」
「陛下……!」
思わず声が漏れる。 彼の魔力が空気を震わせ、光の者たちが怯んだ。
その瞬間、使者のひとりが剣を抜いた。
「異端を赦すな! 神の御名の下に、冥王を――」
叫びは最後まで続かなかった。
黒い風が走り、彼の剣を飲み込む。
風がやみ、残ったのは――光が消えた刃だけ。
「これが冥界の“呼吸”だ。次は命を奪うぞ」
ルシフェルの声に、誰も動けなかった。
「退け。今は帰るがいい。――次に門を越えれば、光の神とて我を止められぬ」
使者たちは震えながら後退した。
白の列が闇に溶けていく。
***
会談が終わったあと。
私は、城の塔で風にあたっていた。
背後から、静かな足音。
「よくやったな、エリス」
「ありがとうございます。……でも、陛下。
あの言葉、“神とて止められぬ”――あれは、少し危うすぎます」「危うさは、恐怖の形でもある。だが、我は恐れられてきた王。 恐怖で保つ均衡もある」
「ええ。けれど、恐怖は一度でも崩れたら、もう戻りません。
“信頼”は、恐怖よりも強い武器です」
ルシフェルが、驚いたように目を細めた。
そして、わずかに笑う。
「……お前は、我に“人間の心”を教えるつもりか?」
「はい。陛下が私に“冥界の生き方”を教えてくださったように」
「ふ。大胆な女だ」
風が吹く。
黒い外套が彼の肩で揺れ、月光の代わりに魂花の光が二人を照らした。
「陛下。私たちの契約は、運命ではなく選択です。
選んだのは、“共に生きる”という未来。――どうか、戦でその未来を壊さないで」
「……分かった。約束しよう、エリス」
その言葉に、胸が満たされる。
ルシフェルの手が、私の頬を包み――その額に唇が触れた。
「この誓いが破られぬよう、我が力で護る」 心臓が跳ねた。 それは恋という名の鼓動だった。
だが、同時に、冥界全土に響く“異変”の鼓動でもあった。
***
「……やはり、彼女は陛下を変えてしまうのね」
遠くの塔からその光景を見下ろす影がひとつ。
セレーネは細い指で黒い花弁を撫でた。
「だが、王は“愛”で滅ぶ。
私がその証明をしてあげるわ」
指先から闇が滴り落ちる。
その闇は地面に落ち、音もなく花の根を黒く染めた。
「――この冥界の花が、すべて黒く染まるころ。
愛も信頼も、等しく消えるのよ」
その声は風に溶け、どこまでも静かに広がっていった。
***
その夜。
ルシフェルの寝所にて、私は再び呼ばれた。
窓の外の魂花が、ひときわ鮮やかに揺れている。
「エリス」
「はい、陛下」
「これから戦が始まる。……だが、お前を前線には出さぬ」「それでは意味がありませんわ。私は――」
「違う。お前には別の役目がある」
ルシフェルが指を鳴らすと、床の魔法陣が淡く光った。
そこには、冥界と人間界を結ぶ“門”の地図が浮かび上がる。
「この“聖断の門”を守れ。お前の知恵があれば、彼らの罠を解ける」
「……わかりました」
「そしてもうひとつ――」
ルシフェルは私の手を取り、ゆっくりと唇を重ねた。
紅い瞳が、すぐ近くで揺れる。
「これが、我らの“密約”だ。どんな裏切りがあろうと、必ずお前を信じる」
「陛下……」
「我らの契約は、血ではなく信頼だ。――それだけは、忘れるな」
その言葉を胸に刻みながら、私は静かに頷いた。
(この夜が、永遠に続けばいい――)
そう思った瞬間。
窓の外で、黒い花弁が一枚、音もなく散った。 それが“裏切り”の始まりだった。
次回予告(第6話)
「聖断の門と、最初の裏切り」
人間界との門が開かれ、戦火が冥界に及ぶ。
――そして、エリスのすぐ傍に潜んでいた“裏切り者”の刃が、静かに動き出す。
第6話 聖断の門と、最初の裏切り
――冥界と人間界を繋ぐ唯一の通路、「聖断の門」。
かつて神々がこの世界を二つに分けた際、ただひとつ残された“ 境界の門”であり、
魂の流れを往復させる唯一の路でもあった。
だが今、その門は不穏に脈動していた。
青白い光が不規則に明滅し、まるで“何かを吐き出そう”としているようだった。
***
「門の周囲で、異常反応が観測されました」
報告するのは、冥界の魔導卿ヴァーミル。
その顔には焦燥がにじんでいる。
「“聖教会”が、こちらに神聖魔法を放っている可能性があります」
「神聖魔法……?」
私の背筋が凍る。
あの光は、かつて私を焼いた“処刑の光”と同じ色だった。
「エリス。ここを守ると言ったのはお前だな」
「はい、陛下」
ルシフェルが隣に立つ。その紅の瞳は揺るぎなく、しかし奥に微かな痛みが見える。
「我は主力を北方の防衛に向ける。……お前にはこの門の監視を任せる」
「お任せください。必ず守り抜きます」
「よい。だが――信じる者を選べ」
「え?」
ルシフェルは一瞬だけ視線を伏せた。
「冥界の中にも、“人間に通じる者”がいる。……裏切りは、内から始まる」
「……了解しました」
その忠告が、後に命を救うとは、このときの私はまだ知らなかった。
***
聖断の門の前――。
黒い石造りの地面の上に、複雑な魔法陣が浮かび上がっていた。
門の中央には、揺れる光の裂け目。
その向こうに、かつての王都の尖塔がぼんやりと映る。
(あの場所……私が処刑された、広場) 息が詰まった。 過去が、形を持って再び迫ってくるようだった。
「……大丈夫ですか、エリス様」
リリアが心配そうに覗き込む。
いつも静かな侍女の目に、珍しく揺らぎがあった。
「ええ。……私は、もう過去に怯えません」
そう言って、魔法陣の中心に手をかざす。
契約の証――指の紅い痕が光を放つ。
冥王の魔力と繋がる感覚が、胸の奥に蘇る。
(陛下……必ず守ってみせます)
その瞬間、風が変わった。
「――来るぞ!」
リリアの声。
門の光が激しく脈動し、外側から何かが叩きつけられる。
轟音。
黒い大地が裂け、衝撃波が城壁を震わせた。
空気の中に、聖句のような響きが満ちる。
「汝、冥界の闇を鎮めよ――“神の剣”!」(ディウス・ブレイド)
白銀の槍が、光の門から突き抜けた。
その瞬間、リリアが前に出て、私を庇う。
「リリア!」
彼女の腕に、光が突き刺さった。
しかし――血は流れない。
代わりに、彼女の瞳が、一瞬だけ“金色”に輝いた。
「……っ、う……」
「リリア? どうしたの!」
「……私、は……」
リリアの口元が、ゆっくりと笑った。
それは、見たことのない、冷たい笑みだった。
「ようやく……この身体、動かしやすくなりましたわ」
「――え?」
「初めまして、と言うべきかしら。エリス様。……いえ、“人間の娘”」
声の調子が変わる。
目の奥に、あの女――セレーネの光が宿っていた。
「あなた、まさか……!」
「そう。リリアの身体は借りただけ。
陛下の目の届かぬ場所で、あなたに“真実”を伝えに来たの」「真実……?」
「あなたの契約が、冥界を滅ぼすの。
“血の契約”は、千年前――神が封じた禁忌。
冥王がそれを破った今、冥界はゆっくりと崩壊する」
「……嘘よ」
「信じたくないだけでしょ? でも、見なさい」
セレーネの指先が門を指す。
そこでは、魂花が次々と枯れていく。
青白い光が黒に染まり、風が泣くように鳴っていた。
「陛下の力は、あなたを守るたびに削れていく。
このままでは、彼は“冥王”であることすら保てなくなるの」
「そんな……。陛下は、そんなこと……!」
「知らないの? 彼はあなたの命を守るために、“冥界の根源”を切り離したのよ。
もうすぐ――あなたが生きれば、彼が死ぬ。
あなたが死ねば、冥界が生き残る。……どちらを選ぶの?」
心臓が掴まれたように痛い。
息が詰まる。
だが、私は震える声で言い返した。
「……私は、誰も死なせません。陛下も、冥界も」「できるものなら、やってごらんなさい。
――もっとも、それを阻むのは、“あなたの愛”そのものよ」
その言葉とともに、セレーネは光の中へ消えた。
残されたリリアの身体が崩れ落ちる。
「リリア! しっかりして!」
彼女の目がわずかに開いた。
「……すみません、エリス様……。私……止められ……な……」
手が冷たくなっていく。
光が消え、静寂だけが残った。
***
「――エリス!」
駆けつけたルシフェルの声。
その姿を見た瞬間、張りつめていた感情が決壊した。
「陛下……リリアが……セレーネが……!」
ルシフェルは彼女の身体を抱き上げ、眉をひそめる。
「……“憑依の術”か。セレーネ、貴様……!」
その声には怒りと、わずかな悲しみが混ざっていた。
「エリス。聞け。――セレーネは、かつて我の右腕だった。 冥界と人間界の境を守るために創られた“半魔”。
だが、彼女はいつしか、“神”を崇めるようになった」
「神を……?」
「彼女は信じたのだ。冥界を滅ぼせば、神に許されると。
それが、千年前の“堕天”の記録だ」
「つまり……」
「彼女は、我を愛し、同時に神に憎まれた女。
そして今、再び“愛”を利用して、冥界を滅ぼそうとしている」
沈黙。
すべてが絡み合い、痛みに変わる。
「陛下……彼女の言葉、本当なんですか?
――私が生きる限り、貴方が……」
「馬鹿なことを言うな」
ルシフェルの声が低く響く。
その手が、私の頬を包む。
「お前が生きることが、我の力だ。
死など、運命に許さぬ」
「でも……!」
「信じろ。契約の本質は“呪い”ではない。
――お前と我が信頼こそが、それを超える鍵だ」 その瞳に、迷いはなかった。
私は、ただ頷くしかできなかった。
外では、聖断の門が再び光を放つ。
白い閃光が空を裂き、戦いの幕が上がろうとしていた。
***
(これは、“戦”ではなく“選択”の物語だ)
――そう気づいたのは、ルシフェルが最後に言った言葉を思い出したときだった。
「我らの契約は、血ではなく信頼だ」
その信頼が、世界を救うのか。
それとも、冥界を滅ぼすのか。
答えは、まだ夜の闇の中にあった。
次回予告(第7話)
「堕天の女王と、冥界の決断」
冥王VSセレーネ――千年の愛憎が火を吹く。
そして、エリスが選ぶのは“誰かを救う”ではなく、“何を信じるか”。
冥界編、急展開。
第7話 堕天の女王と、冥界の決断
冥界の空が裂けた。
それは、夜に雷が走るような衝撃だった。
空間の亀裂から、黄金の光が滲み出し、黒と白が混じる。
聖断の門が、完全に“開いた”のだ。
「……ついに来たか」
ルシフェルの低い声が、静かに響く。
彼の周囲に黒い羽が舞う。
それは炎でも霧でもない――“魔王の本質”が形を取ったものだった。
そして、その光の中から、彼女は現れた。
「――お久しぶりね、ルシフェル」
白と黒の翼を背に持つ女。
セレーネ。
かつて冥王に仕え、愛し、そして堕ちた女。
その美貌は凍てつくように整い、瞳は狂気と慈悲の狭間で揺れていた。
「……セレーネ。なぜ帰った」
「帰った? 違うわ、“戻った”のよ。神々が作った秩序を壊すために」「秩序を壊してどうする。お前が願ったのは、救いではなかったのか」
「救い? あの神に、救いなどなかった!」
セレーネの声が響いた。
その瞬間、空が悲鳴を上げるように歪む。
光の破片が舞い、黒い城壁が軋んだ。
「神は言ったの。『愛は罪だ』と。
――あなたを愛した、その事実が“冥界の汚点”だと。
ならば私は、愛の名で世界を壊すわ!」
「……やはり狂ったか」
ルシフェルの声は冷たく、それでいてどこか哀しかった。
私は震える声で問う。
「セレーネ……。あなたが憎んでいるのは、神ですか? それとも
――陛下ですか?」
その言葉に、彼女の唇が歪んだ。
「面白い質問ね、人間の娘。……答えは、両方よ」
次の瞬間、セレーネの手から光が放たれる。 眩い閃光が空気を裂き、冥王の影を貫いた。
轟音。
大地が震え、魂花が一斉に散った。
「陛下――!」
私は駆け寄ろうとするが、強風に弾かれる。 黒い羽が舞い、炎が渦巻く。
ルシフェルが腕を広げ、炎の壁を張った。
「近寄るな! ――こいつは我が罪、我が手で決着をつける!」
「罪……?」
「千年前、我は彼女を救えなかった。だから今度こそ、救うために斬る!」
剣が光る。
闇の力を凝縮した“魔王剣ルグナス”。
その刃が、黒き光をまとって唸る。
セレーネもまた、天より奪った“神剣ミュール”を構えた。
「かつて愛した男と女が、世界を割る――皮肉ね」
「……愛とは、赦しではなく、選択だ」
交わる視線。
刃がぶつかり、音が爆ぜる。
闇と光が拮抗し、空が割れる。
それは神話の再演のようだった。
***
(止めなきゃ……! このままじゃ、冥界も人間界も――)
私は立ち上がり、血の契約の印を押さえた。
ルシフェルの力の一部が、自分の中で燃え上がる。 この痛みを使えば――“二人を繋げる”ことができる。
「エリス、何を――」
「黙って見ていられるほど、弱くありません!」
叫びと同時に、私は両手を広げ、魔法陣を描いた。
冥界と人間界の文字を融合させた、禁断の陣。
“通訳の言霊”――外交官としての最後の力。
「〈交信術式・二界共鳴〉!」
光が爆発し、闇と光の刃の間に割り込む。
衝撃が走り、耳鳴りがする。
それでも、私は叫んだ。
「セレーネ! あなたの中にある“怒り”は理解できる!
でも、それを愛の形だと言うのなら――誰かを壊すために使っちゃいけない!」
「黙れ、人間!」
「黙りません!」
声が重なり、雷鳴が轟いた。
次の瞬間、ルシフェルの剣が、セレーネの光を弾き返す。
「……お前が言う“愛”は呪いだ、セレーネ。
だが、我が知る“愛”は――解放だ!」
ルシフェルが叫ぶと同時に、黒い剣が輝きを増した。
その刃は光を吸い込み、やがて白と黒が混ざり合う。「冥界の闇よ――今、我と共に、輪廻を閉じよ!」
刃が振り下ろされ、閃光が世界を裂く。
セレーネの翼が砕け、空に散る。
彼女の体がゆっくりと崩れ落ちた。
「……終わり……なのね」
彼女の唇が微かに動いた。
その声は、怒りでも呪詛でもなかった。
ただ――哀しみ。
「ルシフェル。……やっと、あなたの目で“私”を見てくれた」
そのまま、光となって消える。
風が静まり、冥界が深く息をついた。
***
すべてが終わった後。
静かな廊下で、私はルシフェルの肩に寄りかかっていた。
彼の左腕には、深い傷が残っている。
その血は黒く輝き、地面に落ちるたびに花が咲いた。
「……彼女を殺した気はない。
むしろ、“還した”のだ。
あの魂は、ようやく神の束縛を離れ、自由になれた」
「陛下……」「だが、この代償は重い。冥界の力が半分失われた」
「それでも――あなたは生きている」
「お前が信じてくれたからな」
彼の瞳が穏やかに揺れた。
その光が、初めて“人”の色をしていた。
「エリス。お前は何者だと思う?」
「……人間ですわ。少なくとも、そうだったはずです」
「違う。お前の中に流れるのは、“神と魔の境”の血。
お前こそ、“二界の子”だ」
「……え?」
「セレーネが言っていた“千年前の娘”――
その魂の欠片が、お前の中に宿っている」
息が止まる。
記憶の奥で、誰かの泣き声が蘇る。
処刑台の上、空を見上げたときの既視感。
すべてが、一つに繋がる。
「私が……セレーネの……?」
「血ではなく、魂の継承者だ。
だが、同じ道を歩くな。お前は“希望”の名で世界を繋ぐ者」 ルシフェルの手が、私の頬を包む。 その指先は、かすかに震えていた。
けれど、温かかった。
「我はもう一度、世界を選ぶ。
戦ではなく、“共存”の道を。
お前がいる限り、冥界は変わる」
「陛下……」
私はその手を握り返した。
遠くで、魂花が咲く音がした。
白と黒が混じる、初めて見る色の花。
――それは、冥界の“新しい朝”の象徴だった。
***
(私の運命は、処刑で終わったはずだった。
でも、本当の始まりは、ここからだったのかもしれない)
冥界と人間界の境で、私は立つ。
もう一度、選ぶために。
この世界を、愛するために。
次回予告(第8話)
「再誓の花と、冥界の暁」
セレーネの残した“堕天の残響”が再び動き出す。
エリスの正体、そして新たな使命。 ――“二界の子”として、真の外交が始まる。
第8話 再誓の花と、冥界の暁
――夜が、終わらなかった冥界に。
初めて、朝が訪れた。
それは陽光ではなく、無数の魂花が咲き誇る光だった。
黒の大地が青白く輝き、空の亀裂から漏れる柔らかな光が、世界を包む。
その色は、かつて誰も見たことのない“黎明”の色だった。
***
「……静かですね」
私は城のバルコニーに立ち、果ての光を見つめていた。
風が頬を撫で、遠くで魂花が揺れている。
その光景は、まるで戦火の痕を包み込む祈りのようだった。
背後から、足音が近づく。
ルシフェルが、長い外套を翻しながら現れた。
傷ついた左腕には、まだ包帯が巻かれている。
「戦が終わっても、世界はすぐには変わらぬ」
「けれど、確かに“始まり”は訪れました」
ルシフェルは頷き、視線を遠くへ向けた。
「……千年ぶりの“暁”だ。
冥界の夜が終わるとは、我すら思わなかった」「陛下が変わろうとしたから、冥界も応えたんです」
「変わったのは、我ではない。――お前が来たからだ」
その言葉に、胸が熱くなる。
けれど同時に、指先が微かに痛んだ。
血の契約の印が、淡く光を放っていた。
「……この印、最近少しずつ色が変わってきているんです」
「我の魔力が、完全には戻っていない証だろう」
「それでも、痛みではなく、温かさを感じるんです」
「それは、“信頼”が定着している証だ。
血の呪いではなく、心の絆に変わっている」
ルシフェルはそう言って、私の手を取った。
彼の掌はまだ冷たかったが、その奥に確かな熱を感じた。
「エリス。……この世界をどう思う?」
「綺麗です。悲しみのあとに咲く花ほど、美しいものはありません」
「だが、美しさは儚い。――守る術を考えねばならぬ」
「だからこそ、私たちがいるのでしょう?
剣でなく、言葉で守るために」
「ふ……また“外交官”の顔になったな」
「ええ。これから本格的に、“二界の会談”を開きますから」
「二界の会談……?」「人間界と冥界。互いに敵ではなく、隣人として歩む第一歩です。
聖教会の残党も、もう完全な敵ではありません。
対話でしか、未来は築けませんから」
ルシフェルは目を細めた。
その視線は、どこか誇らしげで、そして優しかった。
「お前のような者を、神々は恐れたのだろうな」
「私を?」
「“血も、運命も、秩序も”越えていく者。
神でも悪魔でもない、“人”そのものの可能性だ」
その言葉が胸に染みた。
私は静かに微笑んだ。
「陛下。……この世界で生きていいんですね、私」
「許しなど要らぬ。お前はすでに、冥界に光を植えた」
「光を……?」
「見ろ」
ルシフェルが指を伸ばす。
遠くの地平線で、一輪の花が開いていた。
それは、白でも黒でもない、淡い金色の花。
“二界の子”――私の誓いが咲かせた花だった。
「この花は、“再誓(さいせいか)花”と呼ぶ。
冥界と人間界が和解するとき、咲くと伝わる幻の花だ」
「……まさか、伝承が本当だったなんて」「伝承ではない。――お前が証明した」
風が吹き、金の花弁が空に舞う。
それは朝焼けのような光を放ち、冥界の闇に溶けていった。
***
その夜。
私は書庫の中で、一枚の古文書を開いていた。
そこには、ルシフェルの過去――そして“再誓の儀”についての記述があった。
『冥王が再び誓いを結ぶとき、その力は分かたれ、魂の均衡が失われる。
冥界の光を永遠に灯すには、“片方が消えねばならぬ”』
「……片方、が……?」
その文字が、胸に突き刺さった。
この再誓花は、“犠牲と再生”の象徴。
つまり、誰かがこの光の代償を払っているということ。
「陛下……」
胸の奥に、冷たい痛みが走る。
もし、ルシフェルが――。
そのとき、背後で声がした。
「……見つけてしまったか、エリス」
「陛下……」
振り返ると、彼が立っていた。
夜の光の中に、その姿は儚く映る。
包帯の下、左腕の傷から、淡い黒い光が漏れていた。
「隠すつもりはなかった。
だが、まだ“完全には戻らぬ”と伝えたのは、そのせいだ」
「陛下……まさか、“再誓の代償”が……」
「我の生命力を、花に注いでいる。
この世界が夜を越えるためにな」
「そんなの、駄目です!」
思わず叫んだ。
自分でも驚くほど強い声だった。
「陛下がいなければ、この冥界はまた闇に戻る。
光なんて、意味がなくなります!」
「いや、違う。光は受け継がれる。
我ではなく、“お前”が、それを継ぐのだ」
沈黙。
彼の声は静かで、どこか優しかった。
その瞳に、恐れも絶望もなかった。
「……エリス。 我はお前を花嫁としてではなく、“後継者”として選んだ」
「後継者……?」
「冥界の王は、永遠ではない。
だが、“理を繋ぐ者”がいれば、世界は滅びぬ。
――その役目を、お前に託す」
「そんな……私なんかに……!」
「我の力の半分はすでにお前の中にある。
あとは、心だ。
恐れるな、エリス。お前は“夜を越える者”だ」
涙がこぼれた。
それは悲しみではなく、祈りのような涙だった。
私は彼の手を握り、誓う。
「陛下。……私が、この世界を繋ぎます。
冥界と人間界、光と闇、愛と理。
全部を、手放しません」
「ふ……やはり、お前は我より強い」
ルシフェルが微笑んだ。
その笑顔が、あまりにも穏やかで、胸が痛くなる。
その瞬間、再誓花が一斉に咲き誇り、冥界全土を照らした。
空の闇が金色に染まり、 その光が、彼の体をやわらかく包み込む。
「これが……“暁”か……」
「ええ。――冥界の暁です」
光の中で、ルシフェルが静かに目を閉じる。
その姿は、まるで眠るようだった。
***
私は光の中で祈った。
冥界の王としてではなく、ひとりの女として。
この世界に生きる者すべてが、いつか“選ぶ勇気”を持てるように。
光が消えたあと――そこに立っていたのは、私ひとりだった。
けれど、空に残った金の花弁が、確かに囁いていた。
――「我は、お前を見ている」――
私は空を見上げた。
冥界に朝が訪れたのは、千年ぶりのことだった。
次回予告(第9話)
「王なき冥界と、使徒の影」
ルシフェルの消失後、冥界は動揺に包まれる。
エリスは“暁の王女”として立ち上がり、
二界会談の初陣に臨むが――人間界から、“新たな使徒”が現れる。
第9話 王なき冥界と、使徒の影
冥界に、朝が根づいてから七日が経った。
千年の闇を越えた世界は、今もまだ戸惑っている。
夜の国に“時間”という概念が生まれ、人々はようやく「朝」と
「夕暮れ」を口にし始めた。
けれど――。
「……陛下の玉座が、空のままなのです」
リリアが、静かに報告を終えた。
彼女の腕にはまだ傷が残っている。セレーネの憑依の痕跡だ。
それでも、彼女は迷いなく立ち、冥界の文官たちを導いていた。
「玉座を継ぐ者が現れぬ限り、冥界の統治は宙に浮きます。
……エリス様、どうか“暁の王女”として即位を」
「……その名、まだ慣れませんね」
私は微笑んで、ルシフェルの残した印章を手の中で転がした。
黒曜石の指輪――血の契約の象徴。
それが今、私の右手に収まっている。
「私は王にはなれません。
でも、“繋ぐ者”としての責任は果たします。
それが、陛下との約束です」
「……はい」
リリアは深く頷いた。
その目には、かつての侍女の従順ではなく、同志の決意が宿っていた。
***
会議の間には、冥界の貴族と長老たちが集まっていた。
以前ならルシフェルの影に怯えていた者たちも、今は別の緊張に包まれている。
「冥王亡き今、誰がこの国を導くというのだ」
「光の民が攻めてこぬ保証などない」
「“人間の女”を王女に据えるなど、我々の伝統が――!」
ざわめく声。
私は一歩前に出て、冷静に告げた。
「静粛にお願いします。
――冥界は、もう“恐怖”で動く時代ではありません。
今必要なのは、“対話”と“信頼”です」
「信頼? そんなもの、過去に何度裏切られたことか」
「ならば、今度こそ成功させます」
その言葉に、一瞬ざわめきが止んだ。
「私の使命は、冥界を守ることではありません。
――“冥界と人間界、両方を生かすこと”です」
「……何を言っている?」「どちらかが滅ぶ平和は、真の平和ではありません。
戦争を止めるのではなく、“続かせない仕組み”を作る。
それが私の戦いです」
沈黙。
空気が、わずかに変わった。
彼らの表情が、困惑から興味へと揺れる。
人は未知を恐れるが、同時に“希望”にも惹かれる。
「……言葉だけなら、誰にでも言える」
「ええ。だから、行動で示します」
私は指輪を掲げた。
黒い石が光を放ち、宙に紋章が浮かぶ。
それは――冥王ルシフェルの“王印”。
そして、その中央には、金色の再誓花が重ねられていた。
「陛下の意志は、ここにあります。
私がそれを“理”(ことわり)として形にします」
その瞬間、空気が静まった。
長老たちが、ゆっくりと頭を下げた。
――冥界に、新たな王が生まれた瞬間だった。
***
夜。
私は、塔の上から地平を見下ろしていた。
魂花の灯りが街を照らし、人々がその下で話している。
冥界に“生活”という温もりが戻ってきていた。「……ルシフェル。見ていますか」
呟いたそのとき、背後で風が揺れた。
「まさか、もう“王女”になってしまうとはね」
――その声。
振り返ると、フードをかぶった青年が立っていた。
銀の髪、灰色の瞳。
その肌は光を帯び、背中から淡い光の羽が伸びていた。
「……あなたは?」
「地上より来たりし、“使徒”だ。
神の意を伝える者――だが、安心して。剣を持ってきたわけじゃない」
「使徒……。聖教会の者?」
「“元”だ。
今の教会は、信仰ではなく権力に仕える。
俺はそれを嫌って、“落ちた”。――いや、“降りた”の方が正しいか」
彼は皮肉めいた笑みを浮かべた。
だがその目には、冷たい知性があった。
「あなたの名は?」
「カイン。……皮肉だろう? “最初の裏切り者”の名だ」「ふふ。なら、私は“再誓の女”です。お似合いですね」
「ほう、冗談が言えるとは思わなかった」
ふたりの間に、静かな風が流れる。
「冥王が消えた今、神々は動く。
“再誓の花”の誕生は、天界への“反逆”と見なされている。
だから、俺が来た。――あなたを護るために」
「護る? あなたが?」
「誤解しないでくれ。
俺は神に背いた。だから、天界に戻れない。
――だが、あなたを見て確信した。
“あの人”が守りたかったのは、きっとこの光だ」
「……“あの人”?」
「冥王ルシフェル。
彼は、堕天前の俺の師だった」
時が止まったようだった。
この青年の中に、ルシフェルの影が重なった。
「……陛下の、弟子……?」
「そう。俺はかつて、“光の戦士”として彼に仕えた。
だが、彼が堕ちたとき、俺は神の側についた。
その選択を、今も悔いている」「だから今度は、違う道を選んだのですね」
「そうだ。今度は、信じてみたい。
“愛と理”が両立できる世界を」
風が吹き、彼の羽が揺れた。
その羽は白ではなく、淡く金に染まっていた。
「――あなたに会いに来たのは、警告でも、命令でもない。
“盟約”を結ぶためだ」
「盟約……?」
「冥界と天界の架け橋として。
“暁の王女エリス”と、“堕天の使徒カイン”。
――二人で、世界を再構築する」
言葉が空気を震わせる。
まるで、ルシフェルの誓いが再び形を持ったかのように。
「……いいでしょう。あなたの誓い、受け取ります。
ただし、一つだけ条件があります」
「条件?」
「――裏切らないこと。それだけです」
カインは少し笑い、手を差し出した。
「誓おう。光にも闇にも縛られず、ただ“人”としてあなたに仕える」
その瞬間、二人の手の間に光が生まれた。
再誓花の金の花弁が舞い、空に散っていく。
その光は、まるで“新しい神話”の始まりを告げる鐘のようだった。
***
――こうして、“冥界と天界の交渉使”が誕生した。
ルシフェルの遺した空位の玉座の下で、
エリスとカインは、世界の理を再び描き始める。
けれど、この夜明けの光の裏で、
まだ誰も知らぬ“第三の影”が動き始めていた。
次回予告(第10話)
「光の教団と、裏界の囁き」
地上で再編される“聖教会”が冥界への新たな侵攻を画策。
カインの過去と、エリスの“二界の血”が再び試される。
――そのとき、冥界の奥底から“禁じられた王”が目を覚ます。
第10話 光の教団と、裏界の囁き
冥界に暁が満ちてから、ひと月が経った。
黒曜石の街には市が立ち、魂花を織り込んだ布を売る声が響く。 長き闇の中では想像すらできなかった“日常”が、今では誰の手の中にもあった。
けれど――その平穏を、遠くから見つめる目があった。
***
地上、人間界・聖都アステリア。
白銀の尖塔が並ぶ大聖堂の奥、地下の聖堂会議室。
そこに集うのは、聖教会の最高幹部たち。
彼らの前で、一人の青年が跪いていた。
「報告いたします。“堕天の使徒カイン”が、冥界の王女と接触しました」
「……やはり裏切ったか、カインめ」
低く響く声。
教皇に次ぐ第二の席、“枢機卿レグナ”。
神聖魔法を操る老魔導師にして、聖教会の実質的な最高権力者。
「冥界は再び力を蓄えつつあります。
――そして、冥王の後継者が現れました。名は“エリス”」
「処刑されたはずの女か」「はい。ですが、蘇り、冥界を統べております。
現在、“人間界との会談”を準備中とのこと」
ざわめきが起こる。
老枢機卿は、静かに手を上げた。
「ならば、我々が先に動く。
“光の教団”を再編し、冥界を正す“神の審判”を下すのだ」
「しかし、彼女は和平を――」
「和平? 違う。あれは“堕落”だ。
神の理に背き、魔と手を取り合うなど、許されぬ罪。
その芽を摘むのが、我らの使命だ」
老枢機卿の背後の聖像が、淡く光る。
その瞬間、地下に響いたのは――神ではなく、何か別のものの囁きだった。
「……滅ビハ、光カラ来ル……」
「今のは……?」
「気にするな。――神の啓示だ」
だが、その声は確かに冷たく笑っていた。
***
一方その頃、冥界の王城・暁の間。
エリスとカインは、聖教会の使節団の動きを監視していた。「聖都アステリアに、“光の教団”が再結成されたそうです」
リリアが報告書を差し出す。
カインはそれを受け取り、眉をひそめた。
「……早いな。
俺が抜けてから半年も経っていないのに、もう“新生聖教”が動くとは」
「陛下が消えたことで、神の威光が強まっているのかもしれません」
「いや、違う」
カインが低く呟く。
その瞳が、光の奥に潜む“影”を見据えていた。
「この再結成の背後に、“別の存在”がいる。
俺が天界にいたころから感じていた……“裏界”の気配が」
「裏界……?」
エリスが眉を寄せる。
カインはゆっくりと説明を始めた。
「天界でも冥界でもない、第三の層。
“神と魔の狭間”に棲む、名もなき存在たち。
天使にも悪魔にもなれず、理の外に弾かれた魂の集合体だ」
「そんな存在が……?」
「彼らは、神々が捨てた“残響”のようなもの。
だが今、“理の継承者”――つまりお前の誕生によって、再び目を覚ましつつある」「まるで……ルシフェルの喪失を、狙っていたように」
「そうだ。あの戦いは、偶然じゃなかった。
セレーネでさえ、“裏界”の囁きに操られていた可能性がある」
エリスの手が震える。
再誓花が淡く光り、指輪の中の刻印が熱を帯びた。
「もしその存在が、“神の声”を装っていたとしたら……?」
「聖教会が、それを“啓示”だと信じても不思議はない」
「つまり、“光の教団”の背後にいるのは、“神”ではなく――」
「“裏界”だ」
沈黙。
空気が重く沈む。
エリスは深く息を吸い、顔を上げた。
「……なら、もう一度“外交”を行うしかありません」
「何?」
「彼らが何を信じているのか、確かめる必要があります。
敵としてではなく、“同じ理を求める者”として」
「危険すぎる。向こうは“異端”と見なすだろう」
「だからこそ、私が行くんです。
この世界を“理”で繋ぐために」
カインが目を細めた。
その表情には、怒りでも呆れでもなく、どこか誇らしさがあった。「……まったく。あなたという人は、王に似てきた」
「陛下に?」
「ああ。信じることに、愚直なほど正直だ」
エリスは小さく笑った。
そして、静かに言った。
「私が“愚か”でいられるのは、信じる人がいたからです。
陛下も、あなたも」
「……困ったな。そんなふうに言われたら、護るしかない」
カインが指先で彼女の髪をすくった。
光の羽が静かに広がり、柔らかな光が二人を包む。
それは戦の誓いではなく、“信頼の誓約”のようだった。
***
その夜。
冥界の最深部、“忘却の谷”にて。
崩れた石碑の上で、ひとつの影が動いた。
「……目覚メノ刻、来タリ」
声は、風と共に広がる。
地面が震え、闇の中から、黒い蔦が這い出した。
それは魂花を呑み込み、光を奪っていく。
「神ニ捨テラレ、魔ニ拒マレシ我ラ…… 今コソ、“第三ノ理”ヲ示サン――」 その中心に、ひとりの男が立っていた。
褐色の肌、金の眼、そして背に黒と白の混ざった翼。
その名を、誰もまだ知らない。
だが彼こそ、“裏界の王”だっ(キング・オブ・ネザ)た。
「――光も闇も、我が糧。
神も魔も、我が遊戯。
……理ノ外ニ、新シキ理ヲ創ラントス」
その笑みは、静かな破滅の始まりだった。
***
翌朝。
エリスは執務室で、一通の封書を受け取った。
それは、地上の聖都からの正式な文書だった。
『冥界代表、エリス=フォルティア殿。
貴殿の提案する“二界会談”を承認する。ただし、会談の場は“聖断の門”とする。
光の神の御前にて、真理を語れ。』
「……罠、ですね」
「確実にな」
カインが書簡を読みながら呟く。
「でも――行きます」
「予想してた」
彼女は微笑んだ。
恐怖よりも、信念の光の方が強かった。
「陛下が選んだ“未来”を、私が完成させます。
もう、逃げません」
「なら、俺も行く。……二人で行こう、暁の王女」
エリスが頷く。
再誓花の花弁が、再び光を帯びた。
その光は、まるで“門”の方角を指し示しているかのようだった。
次回予告(第11話)
「聖断の門、再び」
二界会談がついに開幕。
だが、光の教団の背後には“裏界王”の影。
――信仰と理性、愛と裏切りが交錯する、世界再編の第一歩。
第11話(最終話) 再誓の果て、光と闇の詩
――聖断の門が、再び開いた。
そこはかつて、私が処刑された場所。
そして、冥王と出会い、冥界が生まれ変わった場所でもある。
時は巡り、今、私は“暁の王女”として、再びその門の前に立っていた。
空は白と黒が混ざり合う曙光の色。
門の向こうには、光の教団の使者たちが整列し、
その中央に、かつて神に仕えた青年――カインが立っていた。
けれどその背後、地の底から、微かなざわめきが聞こえる。
“裏界”が、目を覚まそうとしていた。
***
「エリス=フォルティア。貴殿が冥界を統べる者か」
聖教会の枢機卿・レグナが前に出る。
その瞳には、信仰の名を借りた憎悪の光が宿っていた。
「はい。……そして、あなたに会いに来ました」
「神に背いた者が、我らに何を求める」
「理です。――滅びではなく、共存の理を」
「理? 滑稽だな。
神の法を越える理など、存在しない」「あるのです。私たちが“選び続ける限り”」
静かな空気が流れた。
けれどそのとき、門の奥から、黒い蔦が這い出してきた。
大地が震え、光の兵たちが叫び声を上げる。
「……裏界だ!」
カインの声が響く。
蔦は聖なる光を呑み込み、空を覆った。
それは“第三の理”を求める者――裏界の王の出現だった。
「神ハ欺キ、魔ハ縛ル。
我ラハ自由ヲ求ム。
二界ノ王女ヨ、汝ノ光ヲ寄越セ――」
低く響く声が、心臓を揺らす。
レグナの目が狂気に染まり、両手を広げた。
「神の御言葉が……我が中に! これぞ救済だ!」
「違う!」
私は叫んだ。
その声は雷鳴のように空を裂いた。
「それは“神”ではない。あなたの恐怖が形を取った“闇”です!」
「黙れ! 神は光だ! 我らが信じたものだ!」
「いいえ――光も闇も、どちらも“生”の一部です。
だから私は、そのどちらも否定しない!」 私は門の中心に歩み出た。
血の契約の印が光を放ち、再誓花の金の花弁が風に舞う。
「――ルシフェル、聞こえていますか」
空に向けて囁く。
指輪の中から、懐かしい声が響いた。
『我は常に、お前の中にある』
その声と共に、光が広がる。
冥界と人間界、そして裏界を繋ぐ三重の魔法陣が浮かび上がった。
カインが隣に立つ。彼の羽は金に染まり、背後で風が唸る。
「行くぞ、エリス」
「ええ。一緒に――終わらせましょう」
二人は両手を合わせ、声を重ねた。
「我ら、血と理を超え、“新たな誓い”を結ばん――!」
光が爆ぜる。
裏界の蔦が焼け、闇が砕け、
レグナの叫びが風に消える。
そして――静寂。
***
気がつけば、私は地に倒れていた。 門の光は消え、空には澄んだ青が広がっていた。
初めて見る、本物の“空の色”だった。
「……終わったのね」
隣で、カインが座り込んでいた。
彼の羽は片方だけになっていたが、微笑んでいた。
「世界は……続いた。お前のおかげだ」
「貴方のおかげでもあります」
「いや。俺は、あの人と同じだ。
――信じる者に、救われたんだ」
カインはゆっくりと立ち上がり、光を仰いだ。
その背に、淡い光が差し込む。
白と黒の羽が混じり合い、金の光に変わる。
「神も魔も越えて、“人”として生きる。
それが、俺たちの理だな」
「ええ。きっとそれが、“愛の形”なんだと思います」
風が吹き、再誓花の花弁が空に舞った。
どこかで、ルシフェルの声が微かに笑う。
『よくやった、エリス。
この光の果てで、また会おう――』
涙がこぼれた。
それでも、笑っていた。
もう悲しみではない。
この涙は、世界の始まりに捧げる祈りのようだった。
***
その後。
冥界は再び秩序を取り戻した。
魂花は絶えることなく咲き、光と闇は穏やかに混ざり合った。
地上では、聖教会が解体され、新たな信仰共同体“再誓の庵”が生まれた。
人々は戦ではなく、言葉で理を語る時代を選んだ。
そして――暁の王女エリスは、冥界と地上を往復しながら、
“理の外交官”として世界の均衡を見守る存在となった。
誰もが問う。
「魔王は本当に死んだのか」と。
そのたび、彼女は微笑むだけだった。
「いいえ。彼は、今もこの光の中にいます。
――だって、私たちが“信じ続ける限り”」
風が吹く。
再誓花が咲き乱れ、光と闇が混ざる空の下。
その中心で、エリスは静かに目を閉じた。
(世界は、ようやく始まったのね――) 冥界の空がゆっくりと淡く染まり、
その色は、人間界の朝焼けと同じだった。
エピローグタイトル
「暁、永久に。」
かつて“断罪された悪役令嬢”は、世界の理を繋ぐ“最初の王”となった。
その名を、人々はこう呼ぶ。
――《再誓の女王エリス》。
あとがき
――『断罪され処刑された悪役令嬢、気づけば冥界で魔王の花嫁になっていました』
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。
本作は、最初は「悪役令嬢×魔王」という王道の組み合わせから始まりました。
けれど書き進めるうちに、それは“恋”の物語ではなく、“信頼と選択”の物語へと変わっていきました。
エリスという少女は、「断罪され、処刑され、すべてを失った」ところから始まります。
ですが、彼女はその“終わり”を“始まり”に変えました。
誰かを憎む代わりに、誰かを信じた。
奪うためではなく、“繋ぐため”に手を伸ばした。
そんな彼女の姿を、最後まで見届けてくださった皆さまに、心から感謝します。
冥王ルシフェルは、力の象徴でした。
でも、彼もまた「愛する勇気を取り戻したひとりの男」です。
彼が消えたあとも、その“信頼”はエリスの中に生き続けます。
それは血の契約ではなく、“心の契約”。
この作品全体のテーマでもあります。 最後に描いた再誓(さいせいか)花の花言葉は、
「滅びを越えて、信じ合うこと」。
これは、どんな世界でも、どんな時代でも通じる“希望”の象徴です。
エリスが見上げた空の色――あの金と白が混ざる朝焼けは、
きっと今この瞬間、あなたのいる場所にも繋がっていると信じています。
もしこの作品が少しでも、
「信じること」や「赦すこと」の美しさを思い出すきっかけになれたなら、
それが作者としての何よりの幸せです。
そして、いつかまた。
別の時代、別の世界で――彼女たちが再び笑い合う物語を紡げたらと思っています。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
どうか、あなたの明日にも“暁”が訪れますように。
作者よりひとこと
「誰かを信じることは、時に愚かで、時に奇跡です。
けれど、それでも信じてしまう――そんな物語を書きたかった。」



