初バイト、先輩バイトが同じ学校の後輩でした。

「あらまあ。また、豪快に落ちたわね」

 それから俺と望月くんは、二人で保健室に行くことになった。保健室の先生は、彼の制服をまくって、背中などを確認しているようだった。幸い骨は折れていなさそうだけど、ところどころ内出血が起きていそうで、先生が軽く触診するように触れた時に、彼の顔が少し曇ったように俺には見えた。

「すいません」
「意識ははっきりしているようだけど、一応病院にだけ行ってね。頭を打ってるかもしれないし」
「はい。わかりました」

 俺は二人のやり取りを、黙ってそばで聞いていた。

「これから病院行く? ご両親に電話しようか」
「いえ、大丈夫です。共働きですし、どうせ親は来れないので」
「じゃあ、先生が病院に連れて行こうか? 足が必要でしょ?」
「担任の先生が、今日はそのまま帰っていいと言ったので。車は、姉が手配してくれることになりました」

 彼にはお姉さんがいるらしい。
 意外だ。年の割に落ち着いているし、てっきり兄弟がいたとしても、彼は兄のほうだと思っていた。

「じゃあ、ここのベッド使ってていいから」

 先生はそういうと、俺と彼を残して、カーテンを閉めてしまった。
 半密室(?)の空間に二人きりになった俺は、ずっと言えなかった言葉を、ようやく口にすることができた。

「ほんっとうにごめんっ!」

 勢いよく頭を下げる。

「俺、ぼうっとしてて。それで、目ぇ擦ってたら、階段から落ちてて……!」

 ベッドの上の彼を見て、俺は胸が苦しくなった。

「こんな怪我、させるつもりじゃ……!」

 申し訳なくて、声が震えそうになる。ただでさえ、いつも『ツキさん』には迷惑をかけてばかりなのに。
 頭を下げることしかできない俺に、彼は、静かに笑って言った。

「朝比奈先輩に、怪我がなくてよかった」

 自分は怪我をしているのに、これから病院に行くっていうのに、あくまで俺を心配する言葉に、胸がつきりと痛む。

 『朝比奈先輩』
 そして、『やっぱり』と思う。そう呼ぶのなら、彼は俺のことは、最初から知ってたんだろう。

「俺のこと、知ってたんだ」
「はい」
「……そっか」

 短い返答。別に、噓をつかれたかったわけじゃない。でも、やっと兄さんを知らない人と縁ができたと思ったのに、結局抜け出せていない自分に気付いて、胸の奥がむかむかする。

「でも別に、先輩のお兄さんに特に俺は興味はないので。ただ朝比奈先輩がバイト先に来た時に、同じ学校の先輩だってことは知ってました」
「……」

 嘘偽りのない言葉。嘘はつかれていないことは、声を聞けばすぐにわかった。
 でも。……でも。
 彼が知った最初の俺が、『兄さんの弟』だったことが、なぜか俺は嫌だった。
 
 彼は何も悪くない。俺が先に質問したっていうのに、その時俺は、どう返せばいいかわからなかった。そして、自分がそう思う理由も上手く言語化できない。
 そんな俺に『望月くん』は、俺が全く予測していなかったことを口にして謝った。

「……ミナミさん目当てだったのに、俺が教育担当になってすいませんでした」
「えっ!?」

 なんだ、それは。
 俺は、その言葉の意味がわからなかった。そりゃあ、最初にバイトを始めたのはミナミさんが理由だったけども! 

「ち、違うし。お、俺があの店でバイト始めたのはそんな理由じゃ……」
「俺が教育担当だって紹介された時、露骨に嫌そうだったの今でも覚えてます」
「うっ」

 サラッと追い打ちを掛けられて、俺は胸を押さえた。確かに! 店長に『ツキさん』を紹介されたときは、距離感があったのは確かだけれども!

「でも、だって! 黒マスクだし顔よく見えないし、背が高いとか普通に怖いだろ!?」

 俺だけが悪いわけじゃないはずだ!
 俺は、そう思って叫んでいた。
 すると、声を荒げた俺を見て、ふ、と、目の前のイケメンが柔らかく笑った。

「それはすいません」

 ――あ。
 その笑顔を見た時に、俺の中での『ツキさん』と、『望月くん』の輪郭が綺麗に重なったように感じた。
 どう表現していいかはわからない。ただとりあえず、バイトのときの二人(同一人物だけれども!)のイメージにはだいぶ差があって、そのせいで俺の中で噛み合わなかった二つのピースが、やっとぴったり嵌ったような感覚があった。

 バイトの時とは違って、長い前髪もない。ツヤツヤした綺麗な黒髪はセットされていて、漸くちゃんと見ることのできた瞳は、少し下を向いた長い睫に覆われている。年の割におとなびた、知性を感じさせる夜みたいな黒い瞳は、静かに俺を見つめていた。

 『ツキさん』こと、『望月くん』。
 俺が『朝比奈』で『アサ』なのだから、偽名としては案外普通なのかもしれない。
 でも、やはり一つだけまだ慣れないことがある。
 『望月くん』が、俺の知る『ツキさん』だというなら。

「……まさかツキさんが年下とか、思ってなかった」

 それは、正直な思いだった。だってツキさんは、大学生であるマツさんよりも落ち着いているようにすら見えていたから。

「がっかりしました?」
「がっかりとかっ! そういうんじゃなくて!」

 『ツキさん』の正体が年下だとわかって初めて自覚したけれど、兄さんの下で弟をやってきた俺は、どうやら年上と年下で、これまで無意識に接し方を変えていたところがあるらしい。
 ツキさんは自分よりは大人っぽいから、頼ってもいいと思っていたこれまでの自分。甘えていた自分に気づいて、感情と感覚がうまく処理できない。

「ただ、どう呼んだらいいか、わかんなくて」

 ただ精一杯の言葉を、自分の中で繋いでいく。

「年下相手に丁寧に話すのあんまり慣れてないし。俺の中では、年上と年下だと……っ! なんかこう、うまく言えないけど感覚が違って……! ……だから」

 学校で話すなら、俺が敬語を使うのはおかしい。どういう関係? と思われるかもしれないし、彼は真面目でちゃんとした人なのに、先輩に敬語を使わせているなんて周囲に思われるのも駄目だろう。

「……これから俺、どう接したらいい? なんて呼べばいい? 今こうやってタメで話してるけど、本当は、どうしたらいいかよくわかんなくて」

 俺がそう言うと、彼はふわっと笑って言った。

「望月玲、です」

 彼の名前は、見た目と内面にぴったりな、澄んだ響きをしていた。
 少しポエマーかもしれないけれど、夜空に浮かぶ月に滲む光、そんな幻想的なものがある。

「だから俺のことは、玲って呼んでください。あと、話し方はタメでいいです。年は俺が下なので」

 タメ口と名前呼びを許可されて、俺は少し緊張しながら、彼の名前を読んでみた。嘘じゃない、本当の名前で。
 
「れ……玲」

 何故だが少しむず痒い。
 
「はい」

 俺が呼ぶと、玲は嬉しそうに頷いて、返事をしてくれた。まるでずっと、俺にそう呼ばれたかったみたいに――。

「もう知ってると思うけど! これからは、俺のことも紫苑でいいから!」

 ――なんていうのは、俺の気のせいだと思うけれど。

 一瞬、俺の頭に再び女子みたいな言葉が浮かんで、俺は頭を振った。
 何考えているんだ俺は。玲が俺に名前を呼ばれたがってたなんて、そんなことありえないのに。どう考えても、顔面偏差値が高すぎる玲のせいで、俺の思考が鈍っているとしか思えない。
 そう、これは月――望月ならぬ、月の魔力なのだ。

「はい。紫苑さん」

 マスク越しではない玲の声は、俺には何故か甘く聞こえた。いつもは遮るものがあるせいで、だいぶマイナス補正がかかっているのかもしれない。なるほど、それなら納得だ。この外見に正確にこの声。女子が玲を放って置かないのも頷ける。

「バイトでは俺が可能な限りフォローするから!」

 雑念を頭から取り払うために、俺が語気強めに言うと、玲は「はて」とでも言いたげな表情《かお》をした。

「紫苑さんが、俺をフォロー……?」

 そこに、茶化すような意図を感じて、俺は年上としてちょっと玲の態度がムカついた。
 確かにずっと助けられてきてたけど! 庇ってもらったりして安心してしまっていたけれど! 一つ学年下の後輩に、自分より子ども扱いされるのはちょっと嫌だ。

「馬鹿にするなよ。これでも、俺のほうが歳上なんだからっ! ……だから、俺にもできること、させてほしい」

 怒り半分、謝罪半分。それから、伝えたかった感謝の気持ちを込めて。
 その言葉に、玲は目を瞬かせてから、静かに目潰って頷いた。

「わかりました。紫苑さんが、そう言うなら」