初バイト、先輩バイトが同じ学校の後輩でした。

「……これでよし、と」 

 最後のCDの返却を終え、俺は口角を上げた。

 目標の時間より、早めに作業は終了した。それが俺は、心から嬉しかった。
 他人からすれば小さな一歩でも、俺からすれば大きな一歩だ。一番下っ端バイトの俺にとって、返却作業の作業スピードを上げるのが急務だったんだから。
 それには、覚えることと慣れが必要だった。例えば、ツキさんに前フォローしてもらった、高い位置の返却作業。
 比較的ケースに入れるコツを覚えたおかげで、作業時間の短縮に成功した。

 そして、返却するケースの場所について。
 新作はいいとして、人気や話題作は、印がないのに別の棚にあることがある。それに出くわすと時間がかかってしまうが、だいぶマシにはなったんじゃないかと思う。
 まあこれは、俺が覚えているというより、ツキさんやマツさんや店長が、レジ裏の棚での仕分け作業のときに、俺のためにかなり気をつけてくれているような気もするけれど。
 きっと気の所為だ。……うん。

 そして! ついに、というべきか、俺は返却の他にレジ対応も教えてもらえたので、やっと他の人が返却作業をする間のレジの対応も任せてもらえるようになった。 

 これはもう、成長と言っていいんじゃないだろうか。
 人生初のバイトだけれど、俺ってもしかして、接客のバイトに向いてるんじゃない? なんても思う。
 うん。俺は確かに成長している。そう言っていいはずだ。
 そんなことを考えて俺が一人感慨に浸っていると、電話のコール音が鳴り響いた。

「お電話ありがとうございます。レンタルビデオの――」

 ツキさんに教わった通りに、まずは感謝を述べて店名を名乗る。だが、マニュアル通りに対応しようとした俺の声を、電話越しの声が遮った。

『電話がかかっていたから折り返した。なんだ。用件を言え』

 年を取った、酒やタバコで喉を傷付けてしまったような、少し掠れた声だった。

「折り返しのお電話ありがとうございます。本日、当店で商品を借りられてまだご返却のない方に、お電話させていただきました。お名前を聞いても大丈夫でしょうか?」

 マツさんがかけた遅滞客のリストを見ながらそう尋ねる。
 正直なことをいうと、俺は敬語というものを、俺はこれまであまり使ったことがない。
 学校でも使うけれど、バイト先の先輩たちや、お客さんたちに対するものは、それ以上に気を張る必要がある気がした。

『ーー……だ』

 電話越しに、少しだけ不満そうな声が返ってくる。
 まあ、仕方ない。
 返却遅れてるよ、と言われたら、そういう反応もあり得るだろう。

「――……様、ですね。すいません。延滞料がかかるためお電話させていただいたのですが、本日はご来店いただけるでしょうか? 延滞料金が発生するので、返却の際は、返却ボックスではなくお会計の方に並んで精算を――」

 俺が、懸命に説明をしようとした時だった。
 俺の声を、下卑た男の声が遮った。

『なら、タイトルを読み上げてもらおうか』

「……えっ?」

 俺は、その言葉に頭が真っ白になった。
 何故なら男が借りていた商品は、俺が入れない、マツさんが代わりに返却してくれる、暖簾の向こう側の商品だったからである。
 
 あり得ないあり得ないあり得ない!
 まさかこの男、俺にこれを読ませる気か!? なんという悪趣味! こんなの、セクハラでありカスハラである!

「えっと……その……」

 俺は言葉に詰まった。
 こういう時、どういう対応をすべきなのか。――それを俺まだ、教わってはいない。

『なんだあ? ちゃんと言えねえのか!』
「……っ!」
『男だろうが。あ? ロクに仕事もできねえのか。お前ンとこの店はどういう教育してんだ。店長だせや! 店長!』

 電話越しの声が荒くなる。火がついたようなその声に、俺は電話を落としそうになった。
 理解が出来ない。なんでこの人は、こんなに怒ってるんだ? どこで俺は間違ったんだ?

 ――怖い。怖くて声がでない。

 こんな大人の男の声なんて、俺はこれまでの人生で聞いたことがなかった。年の近い不良のそれとも違う。
 ……俺にこんなふうに怒る人は、理不尽なことを言う人なんて、これまでいなかった。
 だって。だって俺はずっと――……。

「アサさん。――電話、俺が代わります」

 俺が、受話器を持ったまま動けずにいたその時だった。
 背後から声がしたかと思うと、ツキさんは一度俺の手首を軽く掴んで、それから俺から受話器をとった。

「大変申し訳ございません。新人が失礼しました。遅滞の折り返しご連絡でしょうか。説明にご不明点がございましたら、おうかがいできればと思います」

 ツキさんの声は、俺と違って落ち着いている。たぶん、マツさんよりツキさんのほうが声は大人なんじゃないだろうか。低い、というのもあるだろうけれど、少なくとも俺のような、頼りのない子どもの声じゃない。
 電話の男も、それがわかったんだろう。電話からは、先ほどのような怒鳴り声はもう聞こえなかった。
 ツキさんはいつものように、声の調子を変えることなく淡々と、電話越しの客と話をしていた。

「はい。……はい。かしこまりました。ありがとうございます。では、ご来店お待ちしております」

 ツキさんが、最後にそう締めくくって通話終了のボタンを押す。俺はその全てを、後ろから見ていることしかできなかった。

「……ありがとう、ございます」

 情けない。
 俺の頭に、最初に浮かんだ言葉はそれだった。
 何が成長だ。何が接客のバイトに向いている、だ。お客さんの対応もろくにできないくせに、俺はどれだけ浮かれていたんだろう。
 次の言葉が出ずに、下を向いて拳を握る。すると頭上から、心配するようなツキさんの声が降ってきた。

「大丈夫ですか」

 不思議とその声を聞くと、少しだけ心が落ち着く。
 俺の教育係。長い前髪に黒マスク。顔はよく見えないけれど、ツキさんが優しい人であることを、今の俺は知っている。

「すいません。俺……少し驚いてしまって」

 ツキさんに心配をかけたくなくて、一生懸命笑顔を作って返せば、ツキさんは少し考えたような間の後に、こう俺に話してくれた。

「…………大丈夫です。こういう相手は、相手の声によって態度を変えているんでしょう。アサさんのせいじゃありません」
「……はい」

 また庇われた。また守られてしまった。

「……ありがとう、ございます」

 ああ、やっぱりうまく笑えない。気持ちの切り替えができなくて、うまく声がでなかった。

「――……あの」
「?」

 すると、ツキさんはそんな俺に、また何かを話してくれるようだった。

「大丈夫ですよ。アサさんなら、ちゃんとできるようになりますから。それに、ああいう人は本当にイレギュラーなので。あまりにひどいなら、店長が出禁にするはずなので。今回のことは俺が伝えますし」
「……出禁?」
「はい。お客さまも大事ですけど、それで店員にやめられるほうが困るからって。そういう客は、うちにはいらないという考えらしいです」
「出禁……」

 言葉を繰り返して、俺はなんだか、少し面白くなって笑ってしまった。
 出禁。
 モンスタークレーマーが、出禁。

「ふふっ」
「これで、安心できましたか?」

 落ち着いた声音でツキさんが言う。その声があまりに優しかったから、俺はつい、バイトじゃない時のいつもの自分みたいに、コクンと頷いてしまった。

「…………うん」