初バイト、先輩バイトが同じ学校の後輩でした。

 玲と別れて家に帰宅したとき、兄さんはまだ、家にはいなかった。
 仕事で遅くになると母さんに教えてもらった俺は、兄さんが帰るまで、一人リビングで待つことにした。

「……紫苑?」

 帰宅した兄さんは、俺を見て少し動揺したように見えた。
 
 兄さんなりに、あの後考えてやりすぎたという自覚はあったのかもしれない。
 長椅子に座っていた俺が立ち上がると、兄さんはいつもとは違い、一歩後ろに足を下げた。

 ――何やってんだか。
 
 今話題のアーティスト様が形無しだ。
 ステージ上ではかっこよく、たくさんの人に歌声を披露しても少しも動揺の色なんて見せないくせに、弟の行動一つでここまで慌てるなんて。

「逃げないで」

 俺は、そんな兄さんに言った。

「俺さ、兄さんにずっと言いたいことがあったんだ」

 ずっとずっと言えなかったこと。
 心の奥底にしまってきたこと。
 大きく息を吸い込んで――俺はやっと、それを兄さんに口にした。

「俺、母さんが兄さんの仕事についていくの、本当はずっと嫌だった」

 兄さんは、赤ん坊の頃に芸能界に入った人だ。
 だから年がそこまで変わらない俺は、子どもの頃から家に残されることが多かった。

「兄さんが仕事のとき、ばあちゃんの家に預けられるのも嫌だった。だってばあちゃん、俺が知らないメーカーの和菓子とか出して『食べなさい』って言ってくるし。コーラは俺しかのまないから、正直炭酸抜けてて甘いだけだし」

 ゼリーに砂糖をまぶしたみたいなカラフルなお菓子、ちょっとしけった煎餅。ばあちゃんに悪気はなかったとしても、子どもの頃の俺はそれがうっすら嫌で。
 だって、周りの他の子どもなら、美味しいケーキやデザートを与えてもらえるものだと思っていたから。

「父さんは仕事で夜遅いことも多いのに、母さんを兄さんが独り占めしてるみたいで、嫌だった」

 両親がいて、祖母がいて、兄がいる。
 世間的に見れば俺は子どもの頃から幸せ者だったのかもしれないけれど、子どもの俺にとって、俺は『ちょっと不幸な奴』で。
 いつも心の何処かで、『なんで俺だけ』なんて思っていた。

「……」
 言いたい放題の俺を、兄さんは責めはしなかった。ただ黙って、今日の兄さんは俺の話を聞いてくれた。

「でも、兄さんと母さんが悪くなかったのも、俺はちゃんと知ってる」

 これも本心。
 子どもの頃から、「寂しい」と思うことはあったけれど、だからといって二人を嫌いになったことはない。

「……子どもの頃は、心が追いつかなくて倒れて、心配かけたこともあったけど。でも、兄さんのせいじゃないって、ちゃんとわかってる」

 それに、今の俺はもう子どもではないから。昔みたいに気持ちを抱え込みすぎて、体調を崩すこともないはずだ。

「……紫苑」

 兄さんは、震える声で俺の名前を呼んだ。

「だから、もう大丈夫」

 俺は、そんな兄さんに笑った。

「兄さんのなかで俺はあの頃と変わらないかもしれないけど、俺だってもう高校二年だし。来年は三年。その次は――一応、大学にも通うつもり。俺はもう、昔ほどまでは子どもじゃない」

 ここまでは、これまでの俺の言葉。
 そしてこれは、バイトをはじめた今の俺の言葉だ。

「自分のことは自分でできる。バイト、は――教えてもらったことなら、ちゃんと出来る。教わったばかりのことはすぐにはまだ出来ないけど、そういう時は頼っていいって、そう教えてもらったから」

 バイトを始めて、人と出会った。自分とは違う年齢の人と働く中で、見えたことがあった。あの場所で――俺は、もう一度玲と出会えたから。今なら言える言葉が、今の俺にはある。

「だから、兄さん。俺が踏み出すことを、変わろうって、頑張ってること。今は見守っていてほしい。だって、俺は」

 今なら。真っ直ぐに貴方に言える。

「『朝比奈尊』の――兄さんの弟なんだから」

「……っ!」
 俺の言葉に、兄さんが息をのむ。

 玲が俺に教えてくれた、ミナミさんに見せてもらったという兄さんのインタビュー記事。
 家に帰った俺は、母さんにその記事を見せてもらった。
 昔兄さんは、雑誌のインタビューでこう答えていた。

『貴方が一番大切な人は誰ですか? その理由は?』
『弟です。理由は、俺が頑張れる理由だからです。昔、これからも芸能界でちゃんとやれるかって不安になっていた時期があって。その時に、お兄ちゃんなら絶対出来るよって――俺なら出来るって、弟が言ってくれたのが嬉しくて。だから俺に、朝比奈尊に、できないことはありません。』

 俺にとって、【朝比奈尊】は完璧で。
 スーパースターで、誰にも傷つけられないような宝石みたいな人で。
 でもその心の真ん中に、本当の意味で俺がいたことを、俺はずっと知らなかった。

『お兄ちゃんなら絶対できるよ』

 俺はもう、覚えてもいないような言葉。
 今よりも子どもの頃の俺の言葉。

 兄さんにと比べたら、俺は今も昔も社会を知らない。芸能界なんて全然わからないし、俺の自信は無知から生まれるもので、正直テキトウもいいところだ。
 でも、兄さんにとってそれが救いになっていたのなら――俺は少しだけ、自分の無知さも許せるような気がした。

 玲と出会ったあの日も同じ。
 『俺が俺であること』が、誰かの人生にとって意味があったというのなら。
 俺は、俺が心の何処かで嫌っていた自分のことを、好きになってもいいかなと思えた。

「……もう、本当に大丈夫なのか」

 兄さんが、確かめるように俺に尋ねる。

「うん」

「……昔みたいに、なったりしない?」

 相変わらずの心配性だ。
 面倒だと思うこともあるけれど、別に、心配されること自体は嫌ではない。

「うん」

「本当に?」

「くどい。……ていうか、あれはそもそもイレギュラーだし。そもそも母さん、今はもう兄さんについて回ってないだろ」

 だが、何度も繰り返さえたら少しうざい。そもそも、昔と今は前提が違うわけだし。

「だから、俺は大丈夫だよ。バイトも始めたし、今は、頼れる人も増えたから」 

「そうか。……わかった。紫苑」

 兄さんは、俺を見て静かに目を細めた。

「お前も、大人になったんだな」

 子ども扱いするとこの瞳じゃない。ちゃんと、一人の人間として俺を見つめるようなその瞳に、俺は心が満たされると同時に、少し居心地が悪いというか、むず痒い気持ちになった。
 真面目なときは真面目だけれど、馬鹿みたいなやりとりのほうが多い俺たち兄弟の間に、そういう『兄弟の絆』みたいなシーンは、やっぱりちょっと気持ち悪い。

「うん。じゃあ、兄さんも納得した、なら――」

 俺は、ずいっとスマホを兄さんの顔の前につきだした。

「?」
「とりあえず、俺のスマホからGPSは消してね?」

 兄さんは、突然の俺のかわりように、理解が追いついていないようだった。

「……なんで?」
 兄さんは、ちょっと間抜けな顔をして言った。

「『なんで?』じゃない。何勝手に弟のスマホに変なシステム入れてるんだよ。おかしいだろ」
「いや、でも……何かあったら怖いし。父さんお母さんはお互いにいれてるし」
「あの二人はちゃんと話し合って入れてるだろ! 兄さんは勝手に入れてるだけじゃん。いい? 兄さん。俺はもう高校生なの。いつまでたっても俺のこと、全部兄さんの思いどおりにできると思うなよ」

「……」
 年下の下剋上だ。
 子どもの頃は年の差は大きな壁になるかもしれないけれど、大人になればなるほど、僅かな年の差で生まれる絶対的な壁は崩壊する。
 だから、いつまで経っても兄貴ヅラできると思っていたなら大間違いだ!

「ああ。あと、玲のこと悪く言ったのも許してないから。弟の友達悪くいうとか、兄として終わってるだろ」

 吐き捨てるように俺が言えば、兄さんの眉がピクリと動いた。

「……『玲』? ……誰だ。その、『玲』って」

「教えない」

 『大切な友だち』。
 俺と玲の関係は、それとは少し違うのかもしれないとも俺は思った。
 それよりも、もっと深い。
 玲は俺が玲の人生を変えたような口ぶりだったけれど、ある意味俺から見ても、玲は俺の人生を変えてくれた人だった。

 前に進む勇気をくれた。
 玲がいたから、俺は兄さんに本当のことを話すことができた。

 悲しかったことも嬉しかったことも、胸の奥に抱えていた全てを、一回全部ぶつけてもいいんだってそう思えた。
 だって兄さんと俺は家族だから。同じ家のなかにいるのに、俺一人が相談も出来ずに気持ちを抱えていたのが、そもそも間違いだったのだ。
 玲は俺に、それを気づかせてくれた。
 
 だから玲は、俺にとって『大切な人』だ。ただの友達より、そちらのほうがしっくりくる。

 玲は、『いい奴』だ。この世界で、他の誰かが玲のことを蔑んだら、俺は世界中を敵に回してだって、玲の味方でありたいと思った。
 玲は、俺に優しい。
 俺が俺でいいことを、もしかしたらこの世界で誰よりも、尊重してくれる奴だと思う。

 だから俺は――そんな玲と、これからも一緒にいたいと思った。

 苦しい時も悲しい時も。これからの俺たちの人生がどうなるかなんて分からないけれど、これから長く続くかもしれない俺の人生に、玲には側にいて欲しかった。
 そして、一緒に笑っていたい。
 俺が笑うと玲が笑ってくれるみたいに、玲が幸せなら、俺は幸せだと思うから。

「教えなさい。紫苑!」

 兄さんが、俺に向かって叫ぶ。でも俺は首を振って、はあとため息を吐いた。

「だから嫌だって。もういい大人なんだから、弟の交友関係に口出してくるなよな」