初バイト、先輩バイトが同じ学校の後輩でした。


「……貰っちゃった。名刺」

 小さな四角い髪を手に呟くと、玲が俺に尋ねた。

「初めてですか?」
「……うん」

 たぶん、玲はこれまで何度も貰ったことがあるんだろう。
 事実、俺も名刺を差出されたときは玲にだと思ったし。

『俺じゃなくて玲ですよね。ほら、玲。この人が名刺渡したいって』
『いえ、勿論こちらのお兄さんも素敵だと思うんですけど、私が名刺を渡したいのは貴方で――』
『えっ?』
『よかったら、一度考えてもらえませんか?』

 俺は、スカウトなんて初めてだった。
 母さんは『紫苑ちゃんは尊くんと同じくらい可愛い』とか言ってくるけど、正直親の欲目としか思えなかったし。

 玲のお姉さんプロデュースの今日の俺は、確かにいつもの俺とは少し違う。でも、俺自身は変わっていなくて。ただちょっといじっただけで、ここまで他人からの評価が変わるとは、俺は思っていなかった。

 【芸能界の弟】
 それが、俺に与えられたレッテル。
 でも、今手のひらにあるものを俺が受け入れたなら、【兄弟で芸能人】になる可能性もあると思うと、少し妙な気分だった。

「昔……さ。兄さんの仕事の付き添いで母さんが家をあけたときに、俺、入院したことがあるんだ」

 名刺を見つめながら、俺は昔のことを思い出した。俺が生まれたときから、兄さんはスターだった。

「ばあちゃんの家に預けられてさ。でもばあちゃん、あんまり体の調子がよくなくて。俺のせいで迷惑かけちゃいけないって思って、具合悪いっても言えなくて。……で、我慢してたら病院に運ばれた」

『紫苑!』
 撮影のために母さんと出かけてたはずの兄さんが、血相を変えて病室に入ってくる。
 俺は今でも、その光景を覚えてる。

「思えば、あれからなんだろうな。兄さんは、俺に対して過保護になった」

 『芸能人の兄』と、『日陰者の弟』。
 それは、今は当たり前になってしまったけれど、そう評価されるようになったのは、少し成長してからだった。
 小学校にも通っていない、子どもの頃の俺たちにとって、兄さんと俺の関係は例えるなら、『同じ母さんを共有する二人の子ども』だった。

 普通の家庭なら、弟が優先されるものなのかもしれない。だって、小さくて手がかかるから。でもうちの場合、兄さんの仕事に母さんは同行する必要があって、母さんは弟の俺には手がまわらないことも多かった。
 
 胸が苦しくなったとき、倒れる前、俺はぬいぐるみを抱きしめて、「大丈夫」と自分に言い聞かせた。
 もうすぐ二人は帰ってくるから。もう少ししたら、帰って今度は抱きしめて、頭を撫でてもらえるはずだから。……だから、今は自分の気持ちなんて言ったらいけない。

 ――でも。それでも、確かに俺はあの頃。

「寂しかった」

 愛情も期待も、何もかも――世界の全ては、兄さんのためにある。子どもの頃の俺は、そんなふうに思ってしまう瞬間すらあった。

 母さんの行動は未成年の保護者として当然の行いだ。今の俺なら、それを理解できる。でも、子供だった頃の俺にとって、母さんが兄さんにかかりきりだったは悲しいことで、寂しいことなのは変わらなくて。

 もっと俺を見て欲しかった。構って欲しかった。本当に側にいて欲しい時に、何でもない日常が過ぎゆく中で、『二番目』にされたことが耐えられなかった。
 兄さんが悪いんじゃない。母さんが悪いんじゃない。ただ、それを理屈として整理できるほど俺は大人ではなくて、兄さんはそんな俺に、負い目を感じていたと思う。

『俺が死んだら、俺のお金は全部紫苑に残してあげるからね。遺産相続、っていうんだよ』
『いさん……そうぞく……?』
 ゆーびきりげんまん。うそついたらはりせんぼんのーます! ゆびきった!

 だから、あの馬鹿みたいな約束は、もしかしたら兄さんなりの罪滅ぼしかもしれなくて。
 俺は、兄さんにそう思われることもまた、心の何処かで嫌だった。

『自慢の姉です』
 玲の家であの言葉を聞いたとき、胸の奥がつきりと痛んだ。
 『自慢の兄』。
 俺も兄さんのことを、真っ直ぐに言えたらどれほどいいだろう。……あの時、そう思った理由は。

「兄さんのことが、嫌いだったわけじゃない」

 子どもの頃から尊敬していた。誰もが憧れるような人が自分の兄であることが、俺の自慢でもあった。

「俺は、兄さんになりたかったわけじゃない。俺が名前を覚えられないほどのたくさんの人に、愛されたかったわけじゃない」

 スーパースターは似合わない。俺は、兄さんのようには生きられない。

「ただ、俺は――……」

 俺は、胸を押さえた。ああ今、やっとわかった。
 これが俺の、子どもの頃からの『本当の願い事』だ。

「俺の側にいる人に、俺のことを見てほしかった。見てもらえないことで、代わりに兄さんを嫌いたくなかった。……そんな俺を見て、兄さんに傷ついてほしくなかった」

『俺は、兄さんからは自立するんだ……!』そう心に決めてはじめたバイトだったけれど、俺はもしかしたら、案外兄さんから離れて自立したかったわけでもなくて――兄さんがそう思わなくていいように、早く大人になりたかったのかもしれない。
 勿論、これは今の俺が思ったことだけど。俺自身が気付いてなかっただけで、俺はずっと、そう思っていたのかもしれなかった。

「……」

 俺は、渡された名刺を持つ指に力を込めた。
 ほんの一瞬。名刺を差し出されたその一瞬だけ、俺は自分と兄さんの人生と交差したような気がした。
 でも、それだけ。
 俺はその紙を手にしても、喜びの感情は心に浮かばなかった。
 仕方ない。だって俺は別にずっと、芸能人になりたかったわけじゃないんだから。

「……その名刺、連絡するんですか?」

 俺は、玲の問いに静かに首を振った。
 玲は俺の返事に、安堵したかのように息を吐いた。
 そして玲は、俺の話を聞いたあとに、ぽつりこうつぶやいた。

「あの、紫苑さん。少し、俺の話をしてもいいですか?」
「? どうぞ?」

 突然どうしたのだろうと思いつつ頷くと、玲は静かに語りだした。

「……俺、顔だけで判断する人間が、昔からあまり好きではなくて。今でこそ断れるようになったのでないですけど、昔、面倒事に巻き込まれることもあって」

 それはきっと、前話してくれたバレンタインのことだろう。
 確かに、誰だってあの経験をしたら、女性不信になってもおかしくはない。

「だから俺は――他人の『好意』というものは、必ずしも幸せには繋がらないと考えています」

 その言葉は、俺にはどこまでも優しい玲から出てくる言葉だとすると、俺には少し不思議に思えた。

「紫苑さん。俺、昔紫苑さんと会ったことがある、って言いましたよね」
「う、うん。そうだね……?」

 それがいつなのかは、まだ教えてもらってないけれど。
 というか、今指摘されるまですっかり忘れていたような気さえする。兄さんのことで悩んでいたのもあるけれど、玲と過ごすのが楽しすぎて。
 ちょっと間抜けな俺の返答に、玲はくすっと笑った。

「俺、中学の頃、意味の分からない理由で不良に絡まれたことがあるんです」
「えっ!?」

 突然の告白に、俺は驚いてしまった。

「それ、大丈夫……だった?」

 玲は俺の問いにすぐには答えずに、俺を見て苦笑いした。

「紫苑さんには、俺の家のこと――少しだけ、お話しますね。俺の父親、実は再婚してて。中一の頃なんですけど……。実はそれから、前より親に頼りづらくなったというか」

 玲は、まるで既に終わったことのように遠くを眺めた。

「再婚するとき、継母と父との間に弟と妹が生まれました。すると必然的に、父さんが俺と姉さんにかけられる時間は減ったというか……。でも、その時の俺は、父を責めたいとは思えませんでした。幼い頃に母さんが病気で亡くなってから、父は一生懸命、男で一つで俺と姉さんを育ててくれたから。……だから、本当は祝うべきだって分かってた。でも、新しい母さんに子どもができたら、やっぱり家には少し居づらくて。そもそも新しい母は家庭にはいるっていうよりは、仕事がすごく出来るみたいな人で。……そういうところも、俺の記憶のなかの『母さん』とは違っていて」

 『子どもの頃の玲』。
 俺は、少し想像してみた。
 お母さんがなくなるまでの玲は、どういう子どもだったんだろう。わがままをいうような子どもには思えない。お姉さんの態度を見る限り、優しい子だったろうとは思う。

 ただ、何故だろう。俺の頭に真っ先に浮かんだ玲は、お母さんに抱きしめられて、幸せそうに笑っていた。

「まあ、それはそれで割り切ったんですけど。親の関心が子供に向いてないと、無駄絡みしてくる奴いるじゃないですか。俺の場合――母さんは病気でしたけど、世間的には父親のみの片親だったから、変に絡んでくる奴もいて。中には馬鹿みたいに、母さんが俺たちを捨てて出ていって、俺と姉さんはその子どもなんだって噂して、女関係とか、勝手に言いがかりつけてくる奴もいて」
「……そんな」

 玲は淡々と話すけれど、どう考えてもひどい話だ。そもそも他所様の家の事情なんて、他人は分からないんだから。噂で貶めるなんて度が過ぎてる。

「それで、話が戻るんですけど。昔それで、たくさん殴られたことがあるんです」
「?」

 玲は何故か、俺を見て微笑んだ。
 玲が生きてきた世界はどう考えても大変なのに、どうして玲は、今はこんなふうに俺を見て笑えるのだろう。

「中三の頃、です。俺が先輩の彼女に手を出したって言われて。……俺は、寧ろその人の彼女に迷惑してたっていうのに」

 モテる男の悲劇である。

「中三で先輩ってことは……?」
「向こうは高校ですね」
 
 俺は、過去の話なのに思わず拳を握ってしまった。
 許せない。
 自分の思い通りにならなかったからって、年下の玲を相手に、そんなことをするなんて。

「姉さんの誕生日、買い物に街にでたら集団で囲まれて殴られて。精一杯やり返しはしたんですけど、多勢に無勢で。そしたら雨が降ってきて。濡れるからってあいつらは俺を置いて帰っていって。……俺、人がいない場所まで連れて行かれてたから、なんとか人通りのある場所まで出たんですけど、怪我してる俺がいるのに、誰も俺のことなんか気にしてなくて」
 
 俺はその話を聞いて、既視感に襲われた。
 ――……あれ? 
 俺はその話に似た状況を、よく知っているような気がした。

「ずっと雨に濡れていると、まるで自分が透明人間になったみたいで。俺のいる世界にはずっと雨が降っていて、この世界には、もう俺なんかいらないんじゃないかって思った時に」

 雨の日。怪我をした一人の不良。その相手に、あの日俺は何をしたのか。

「俺は初めて、紫苑さんに出会いました」

 雨が降っていた。
 高一の頃、学校帰りに制服のまま兄さんと二人買い物に出ていた俺は、道端で傷だらけの不良を見つけた。
 身長は、俺より少し高いくらい。下を向いていることもあり顔はよく見えない。

『……あの。大丈夫、ですか』

 俺が声をかけても、彼は返事はしなかった。

『そんな奴に関わるな。紫苑』

 兄さんが、そんな俺の腕を引いてその場所を離れようとする。
 でも俺は、兄さんの言葉を無視して話しかけ続けた。

『でもこの人、怪我してるし! ……あの。兄さんがすいません。よかったら、救急車を呼びましょうか。必要なら、俺が電話するので』

 怪我だらけのその人は、俺の申し出に小さく首を振った。
 でも、やっぱり言葉は返ってこなくて。俺は仕方なく、さしていた傘と持っていたタオルを、彼に渡した。

『よかったらこれ、使ってください』

 渡したというより、押し付けたという方が正しいのかもしれない。すると彼が、少しだけ顔を上げて、俺を見たような気がした。

 でも、それだけ。その後俺は、兄さんにもう一度強く腕を引かれて、同じ傘に入れられて帰ることしかできなかった。

『これで満足しただろ。……ほら、行くぞ』

 俺は今、その話を聞いて――。

「え!? あれって玲だったの!?」

 つい、そう口にしていた。

「……あのタイミングで言ったので気づくかと思ったんですが、やっぱり気づいてなかったんですね」

 玲はそう言って苦笑いする。俺はそんな玲に、ちょっとだけムカッとする。
 玲が面白いならいいけど――俺のこと、伏線見逃してる鈍感主人公みたいな扱いするなよ。

「だ……だって! 今とは身長違ったし!」
「確かに俺、またあれから身長かなり伸びましたからね」

 玲は、そんな俺にサラッと言った。
 成長期自慢かコノヤロウ!

「当時の俺は今よりもだいぶひねくれていたので、大学はおろか高校さえも行かなくていいかなとか思ってたんですけど、紫苑さんと同じ学校に行きたくて、それから俺は本気で勉強しました」

 そして玲は、とんでもない事実を俺に暴露した。
 まさか玲が――あの日出会った『不良』が、俺を追いかけて学校にまでやってきてたなんて、予想すらしていなかった。

「親に学校に行く許可をもらって、学生生活に必要なお金はしてもらえることになって。姉さんは、自分の借りている部屋から通っていいって言ってくれて。……それで。俺はやっと、紫苑さんと同じ学校に通えることになりました」

 玲の声は柔らかい。
 でも、両親のことを話す玲の声からは、少しだけ心の距離を感じた。

「でも、別に話しかけるつもりは最初からなくて。……俺はただ、遠くから見ていられるだけでよかった。紫苑さんが、俺のことを認識していなくても。俺は、同じ学校に通ってるってだけでよかった。それだけで、『頑張れる』って思った。『頑張りたい』と思えた。……まさかその人が俺のバイト先にやってきて、俺の教育係だったミナミさんに一目惚れして、その後新人として店に入ってくるとは思いもしませんでしたけど」

 急に話を振られて、俺は動揺した。しかも、ここでミナミさんの話が出てくるなんて!

「ひ、一目惚れとかでは……っ! あれは、俺に優しく笑いかけてくれたのが嬉しくてっ!」
「でも、好きにはなったんですよね?」
「う……うん……」

 俺が頷けば、玲はなぜか少し寂しそうに目を細めた。俺にはその理由がよくわからない。
 でも、一つだけわかったこともある。
 あの日――俺が初めてこの店を訪れたあの日。玲は、俺のことを見ていたんだろう。兄さんを知らないと思っていたミナミさんの笑顔に、俺が心を奪われたその瞬間《とき》を。

「……紫苑さん」
 玲は、細めた笑顔のまま笑って、俺に言った。

「紫苑さんが紫苑さんであることで、救われる人間も必ずいます」

 その言葉は、柔らかな雨のように降る。

「あの日、紫苑さんに会えたから俺は前に進めた。だから――紫苑さんが、ここで働くって知った時。教育係を任された時、今度は俺が、貴方に優しくしたいと思いました。紫苑さんがくれたものを、今度は俺が返せるように」

 玲はそう言うと、少しの沈黙の後に、俺の目を見つめた。

「…………その――だからつまり、俺が何を言いたいかというと……」
「?」
「もしかしたらお兄さんも、同じだったんじゃないかと思うんです」
「……えっ?」

 俺は、玲の言葉の意味がよくわからなかった。
 どうして今の話が、兄さんに繋がるんだろう。

「ミナミさんが尊さんのファンだったので、実は俺、紫苑さんのお兄さんことは間接的に少し知っていて。それで、昔雑誌に載っていたインタビューの記事なんですけど――……」