「あれ? お友達、まだいたんだ」
「あ……っ」
玄関から部屋の中に、女の人が入ってくる。その女性は、染めているのが玲とは違い明るい髪色をしていた。ソファーに座っていた俺は挨拶しようと立ち上がったけれど、お姉さんは荷物を置くと玄関の方に戻ってしまった。
「ごめーん! 送ってくれてありがとう〜!」
大きな声で、お姉さんが外に叫ぶ。
誰に言っているのだろうと俺が思っていると、玲はお姉さんの後を追って、急いで玄関へと向かった。
誰かがお姉さんを送ってきたのかな? と、俺が思っていると、どんっと重いものを床に置く音が聞こえた。それから、玲が誰かと話す声も。
「省二さん。すいません。いつもありがとうございます。お米まで運んでもらってしまって……」
「ここは少し物騒だからな。夜に、特に女は一人では歩かせられない」
玲のお姉さんの彼氏だろうか。玲が省二さん、と呼ぶ声は柔らかい。少しして車のドアが閉まる音がして、玲は米袋を抱えて部屋の中に戻ってきた。ちなみにお姉さんは、何も持たずに入ってきた。
「はじめまして。こんにちは、玲の姉の恵《めぐみ》です」
にこ、と玲のお姉さんが俺に笑いかける。俺は玲のお姉さんに、慌てて頭を下げた。
「こ、こんにちは。お邪魔してます。朝比奈紫苑です!」
俺は玲のお姉さんを見て、妙な既視感を覚えた。
誰かと似てる……? 誰だっけ。首を傾げた俺は、すぐにとある人物を思い出した。ああそうだ。この人は少し、ミナミさんと似ているのだ。
柔らかい雰囲気とか、話し方。ちょっと自由なお姉さんっぽい雰囲気も、うまく言えないけど何処か似てている。
「なるほど君が……」
「?」
「玲が言ってたとおり、可愛らしい子だね。それに――」
――玲が?
俺は、一瞬聞き間違いかと耳を疑った。だって、玲が俺のことを話すにしたって、『可愛い』はありえない。俺は兄さんとは違って、普通のモブなんだから。
そして玲のお姉さんは、なぜか俺の顔をじぃっと見て、すっと目を細めた。
「うん。これは、ちょっといじったらかなり化けそう」
「えっ」
髪から頬、それから顎。指先でなぞるように体に触れられて、俺はどきりとした。
――今俺は、年上のお姉さんに顔を撫でられている!?
女性に免疫のない俺が固まっていると、玲が俺たちの間に割って入った。
「……姉さんっ! 紫苑さんに、勝手に触らないで」
「仕事柄気になっちゃって。いつか私に切らせてほしいなあ。うん。イケる自信ある」
どうやらお姉さんは、俺の中に可能性を見出したらしい。美容師としての勘だろうか。でも、本当に……?
「すいません。紫苑さん」
「うん。俺は別いいけど……。お姉さん、美容師なんだっけ?」
「まあ……そうですけど」
玲は何故か、歯切れの悪い返事をした。
とりあえず、お姉さんが美容師なのは確定らしい。だとしたら、俺のイメチェンは本当に可能なのだろうか? 可能なら、一度やってみてほしくはある。
「でも、紫苑さんに勝手に触るのは違うじゃないですか」
玲は眉間に皺を作った。
なるほど。玲は、お姉さんが俺に触ったことが気に食わなかったらしい。もしかして――俺がこのことで怒るとでも思っているんだろうか。
「大丈夫。俺は怒ってないよ」
――だから、玲はお姉さんとは喧嘩しないで。
俺がそう言って笑うと、玲は少しの沈黙のあとに、「ならいいですけど」と小さく呟いた。
「ねぇねぇ、玲。このアイス食べていい? 残り一本なんだけど」
……が。俺たちがそんなやり取りをしている間、当のお姉さんは冷凍庫を漁っていた。
凍らせて半分に割って食べるタイプのチューブを手に取って、お姉さんはそれを玲に見せて左右に振った。
「食べてはいい。でも、姉さん。いつも言ってるだろ。帰ったらまずは手を洗ってって」
「はいはーい」
「全くもう……」
アイスを手に洗面台に向かったお姉さんの後ろ姿を確認してから、玲は黙々と冷蔵庫に商品を片付けていく。俺は黙って、その姿を後ろから眺めていた。
なんというか、主夫っぽい。
「もー。玲は本当に昔から口煩いんだから。ねー。紫苑くんもそう思わない?」
「俺ですか?」
玲に怒られて手を洗い終えたお姉さんは、暖簾をくぐって部屋に戻ってくるなり俺に尋ねた。
「……玲は、俺が気付けないところもよく気づいてくれて、いつもお世話になってます」
それは俺の、純粋な感情だった。
『ツキさん』としても『望月玲』としても――俺は、玲にはお世話になりっぱなしだ。
バイト先の他の先輩たちは確かに優しいけれど、俺が一番心を許せたのは教育係だった『ツキさん』だったわけで――人生初の試みを、仕事と精神面で玲が支えてくれたのは間違いない。
俺を学校の先輩とわかっていた玲が、どんな気持ちで俺をみていたかはわからないけれど、『困ったときは助けてくれる』って、そう思えて心強かった。
初めて会った時は、怖いと思ったのが今は懐かしい。俺が思い出してふふっと笑うと、お姉さんが玲の名前呼んだ。
「……玲」
「何?」
「決めた。この子、うちで飼おう」
お姉さんは、何故か俺の手を両手で包みこんんだ。
突然の行動に、俺は再び動けなくなってしまった。俺は驚くと(以下略)。
「やめて姉さん! 紫苑さんから手を離して!」
玲はそう言うと、無理やりお姉さんの手を俺から引き剥がした。
■
「はーー。今日はたくさん玲に怒られちゃった。特に何もしてないのに」
「何かしてるから怒られてるんだけど」
ソファーに座り、チューブのアイスをガリガリ噛むお姉さんは、俺がイメージしていた「年上の女性」とは少し違った。
なんというか、男っぽくて豪快? だ。
こういう時、俺はどういう表情をしているべきなんだろうか。姉弟の間にはいることもできず困っていると、お姉さんがちらっと壁にかかった時計を見て俺に尋ねた。
「それより、だけど。紫苑くん、時間大丈夫? もうだいぶ遅いけど、親御さん心配してない?」
「一応母さんには連絡はしていて――……って、もう9時!?」
あまりにも時間が経ちすぎている!
玲と過ごす時間が楽しくて、俺はすっかり時間を忘れてしまっていた。
「玲。ごめん、俺帰らなきゃ。すいません! お世話になりました!」
俺がお姉さんに頭を下げて玄関に向かい靴を履こうとすると、靴のなかには丸められた新聞紙が入っていた。たぶん、玲が入れておいてくれたんだろう。おかげで靴の中はだいぶ乾いていた。
「……」
俺は紙を取り出して、リュックの中からゴミ袋を取り出してそれを詰めた。流石に、お世話になってゴミまで捨てさせるわけには行かない。
俺がそんなことをしていると、玲が玄関にやってきた。
「送ります」
「いいよ。友達に、そこまでしてもらうのは悪いし」
夜はもう暗い。こんな時間に、俺のために友だちを家から出すわけにはいかない。
「すいません。このあたり、ちょっと良くない集まりというか、不良のたまり場みたいなところがあるので、そこは避けて送りたくて」
「……確かにそれなら、案内してもらったほうが助かる、かも?」
『不良のたまり場』。
流石にその言葉を聞いてしまっては、玲の申し出を聞き入れないわけにはいかなかった。
■
雨上がりの夜の道。駅までの道は少しだけ暗くて、アスファルトで舗装されたところと、そうでないところがある。
道の途中には水たまりができていて、俺は濡れないように、「よっよっ」などと言って避け、玲は大股でそれを越えた。
舗装された道は雨に濡れて、街灯の光を浴びてきらきらと輝いている。「夜は外に出るな」と言われて育ったから、なんだか少し不思議な感じだ。
思っていたより、意外と明るい。
「送ってくれてありがとう」
玲が案内してくれる道を、まるで冒険するような気持ちで俺が歩いていると、玲は俺の言葉を聞いて、少し下を向いて返事をした。
「ここらは家賃が比較的低いですから。それもあって、少し治安が悪くなるというか……」
――なるほど?
父さんと兄さんが建てた家に住む俺にはよくわからないけれど、家賃というものはそういうものなのか。俺は、お姉さんが彼氏さんに送ってもらっていた理由を改めて理解した。
お姉さん、といえば――。
「面白いお姉さんだったな」
『よかったら、これからも弟と仲良してやってね』
俺がアパートを出る前、お姉さんは最後にそう言った。予測が出来なくて、玲を振り回して自由に生きていると感じたお姉さんだったけれど、その言葉だけは、まるでお姉さんというよりはお母さんみたいだと俺は思った。
「玲は、ここに住んでるんだな」
「……はい」
呟くようにいえば、玲は静かに頷いた。
今日一日で、わかったこと。
友達でも、学校で一緒に過ごすだけでは絶対にわからないものというのはあるらしい。
どこに住んでいるのか、どういうものが好きで、家族の前ではどう振る舞うのか。細かく例をあげたら多すぎて数える自信はないけれど、『玲が生きてる世界の空気感』みたいなものが、俺は今日、少し分かったような気がした。
俺はそれを見て、まるで合わせ鏡みたいに、その背中に自分の影を見た。
俺は――家に帰ったら必ず母さんがいて、温かいご飯がいつでも出てくる。父さんは仕事があるから朝は一緒にご飯は食べられないけれど、夕飯はたまに一緒に食べる。
それはたぶん当たり前のことじゃなくて――きっと、『幸せだ』って思うべきことで。でも、それが当たり前だと思っていたら、『もっとこうなればいいのに』という、気持ちはわいてくる。
もしかしたらこれまでの俺は、少し欲張りな人間だったのかもしれない。
そして、もう一つ。
玲についても、俺は今日強く思ったことがある。
玲はしっかりものだし優しいけれど、それは玲が、これまで自分が置かれた環境のなかで、ちゃんと前を向いて生きてきたからなんだろう。
それを不幸だとか幸せだとか比較するわけじゃないけれど、俺はただ、純粋に玲がすごいと思った。
玲は俺の一つ下だけど、きっと玲は、俺とは違うことをたくさん見て生きてきたんだろう。だから俺より、玲はできることが多いのだ。
そういうところ、年齢関係なしに、俺は人として尊敬する。
二人で歩く雨あがりの夜の空は、とても澄んで俺には見えた。
そして、俺は次に足元を見て――。
「タバコが落ちてる」
と、つぶやいてゴミを拾った。
玲が治安が悪いとは言っていたけれど――確かに俺の家の周りに、こんなゴミは落ちてはいない。
「ここらで拾ってたらきりがありませんよ」
「いいの! 俺のこれは、割れ窓理論だから」
割れた窓をそのままにしていたら、このタバコをそのままにしていたら、玲が住む場所の治安がさらに悪くなってしまう!
俺は、そう思ってせっせとそれを拾った。玲は、俺が止めてもやめないので途、中から手伝ってくれた。
「でもほんと、なんでこんなとこに捨てるかなあ……」
ポツリ俺が呟けば、玲が苦笑いして俺に尋ねた。
「すいません。ここ、夜はいないんですけど昼間は人がいて。紫苑さんは、不良は嫌いですか?」
「嫌いっていうか、昔兄さ……家族に怒られたことあって。関わるなって」
「……」
あれは確か、俺が高一の時の話だ。
兄さんと二人で出かけた帰り、俺は怪我をした不良と出くわした。
身長は、今の俺より少し高いくらい。雨の中地面に座り込んで、頭から血を流したその人を、道行く人々は素通りして行った。
「いやでも、ほんと偶然で! 喧嘩の後? なのか、怪我してるとこに出くわしてさ」
兄さんは、「関わるな」と俺に言った。でも俺は、兄さんの言葉を無視してその人に近付いた。
「血が出てたから、大丈夫かなって思って。雨降ってたし」
あの瞬間、俺は兄さんの言葉を聞いちゃいけないと思った。
「……まあ、危ないことには、関わらないほうがいいのが確かです」
「え? 玲まで兄さんみたいなこと言うの?」
勿論、兄さんが俺を心配しての言葉だってことは分かってた。でも――……でも。
「でもさあ! 目の前で怪我してるやつ無視するほうが無理だろ!? それに、なんか顔も殴られてたし……。なのにみんな、全然気にしてないみたいでっ! だから。だから俺は……」
結局、あの人と逢ったのはあれが一度きり。
あの日は雨で、兄さんは傘をさすときは帽子をとるから、顔を見られていた可能性は高いけれど、結局彼からその後連絡はなかった。
もしかしたら芸能人に興味がなくて、兄さんを知らなかったのかもしれないけれど。
「でも、救急車呼ぼうとしたら止められて。ホント大丈夫だったかなぁ? あの後」
別に、感謝してほしかったなんて思ってない。ただ彼が、無事だったかどうかくらいは、教えてほしかったと思っただけで。
そもそも俺は、タオルと絆創膏と傘を渡しただけだ。その後、俺はその場を去った(因みに帰りは、俺は兄さんの傘に入れてもらった)。
「……ごめん。今する話じゃないよな」
昔のことを思い出して、つい余計なことを話してしまった。
俺が謝罪すると、玲は何故か俺を見て優しい目をして――ゆっくり静かにその目を閉じた。
「いえ。……話してくれて、ありがとうございます」
■
「……着いた!」
清掃活動(タバコ)と昔の話のせいで少し時間がかかったけれど、無事駅に着いた俺は、すぐに改札をくぐった。
「じゃあ、また明日バイトで」
「はい、また」
ばいばいと玲に手を振ると、玲も俺に返してくれた。それが少し嬉しくて、駅のホームに向かおうとしていたら、玲が突然大声で俺の名前を叫んだ。
「――……紫苑さん!」
「?」
俺が振り返ると、玲は拳をぎゅっと握って、何かを決意したような顔をして――俺にこう言った。
「ずっと……俺、紫苑さんに言えてなかったんですけど。俺たち本当は――同じ学校になる前に、昔会ったことがあるんです」
強く澄んだ声が、雨上がりの夜の駅に響く。玲はそれだけ言うと、俺を残してさっと背を向けてしまった。
「え? えええっ???」
俺は、反応するのに時間がかかった。本当に本当に――驚いたら、うまく反応できないのを自分はやめたい。
「ちょ……っ。待って! 玲!」
いつ? どこで?
俺には見当もつかなかった。だって俺は――玲のことを覚えてない。
「えっと……! とりあえずスマホスマホ」
話を聞こうと俺が慌ててスマホを見ると、兄さんから鬼のように大量の連絡が来ていた。
【尊 今どこにいる?】
【尊 帰りが遅すぎるだろ。今何時だかわかってる?】
【尊 返事をしなさい。紫苑。】
【着信履歴53件】
「あ……っ」
玄関から部屋の中に、女の人が入ってくる。その女性は、染めているのが玲とは違い明るい髪色をしていた。ソファーに座っていた俺は挨拶しようと立ち上がったけれど、お姉さんは荷物を置くと玄関の方に戻ってしまった。
「ごめーん! 送ってくれてありがとう〜!」
大きな声で、お姉さんが外に叫ぶ。
誰に言っているのだろうと俺が思っていると、玲はお姉さんの後を追って、急いで玄関へと向かった。
誰かがお姉さんを送ってきたのかな? と、俺が思っていると、どんっと重いものを床に置く音が聞こえた。それから、玲が誰かと話す声も。
「省二さん。すいません。いつもありがとうございます。お米まで運んでもらってしまって……」
「ここは少し物騒だからな。夜に、特に女は一人では歩かせられない」
玲のお姉さんの彼氏だろうか。玲が省二さん、と呼ぶ声は柔らかい。少しして車のドアが閉まる音がして、玲は米袋を抱えて部屋の中に戻ってきた。ちなみにお姉さんは、何も持たずに入ってきた。
「はじめまして。こんにちは、玲の姉の恵《めぐみ》です」
にこ、と玲のお姉さんが俺に笑いかける。俺は玲のお姉さんに、慌てて頭を下げた。
「こ、こんにちは。お邪魔してます。朝比奈紫苑です!」
俺は玲のお姉さんを見て、妙な既視感を覚えた。
誰かと似てる……? 誰だっけ。首を傾げた俺は、すぐにとある人物を思い出した。ああそうだ。この人は少し、ミナミさんと似ているのだ。
柔らかい雰囲気とか、話し方。ちょっと自由なお姉さんっぽい雰囲気も、うまく言えないけど何処か似てている。
「なるほど君が……」
「?」
「玲が言ってたとおり、可愛らしい子だね。それに――」
――玲が?
俺は、一瞬聞き間違いかと耳を疑った。だって、玲が俺のことを話すにしたって、『可愛い』はありえない。俺は兄さんとは違って、普通のモブなんだから。
そして玲のお姉さんは、なぜか俺の顔をじぃっと見て、すっと目を細めた。
「うん。これは、ちょっといじったらかなり化けそう」
「えっ」
髪から頬、それから顎。指先でなぞるように体に触れられて、俺はどきりとした。
――今俺は、年上のお姉さんに顔を撫でられている!?
女性に免疫のない俺が固まっていると、玲が俺たちの間に割って入った。
「……姉さんっ! 紫苑さんに、勝手に触らないで」
「仕事柄気になっちゃって。いつか私に切らせてほしいなあ。うん。イケる自信ある」
どうやらお姉さんは、俺の中に可能性を見出したらしい。美容師としての勘だろうか。でも、本当に……?
「すいません。紫苑さん」
「うん。俺は別いいけど……。お姉さん、美容師なんだっけ?」
「まあ……そうですけど」
玲は何故か、歯切れの悪い返事をした。
とりあえず、お姉さんが美容師なのは確定らしい。だとしたら、俺のイメチェンは本当に可能なのだろうか? 可能なら、一度やってみてほしくはある。
「でも、紫苑さんに勝手に触るのは違うじゃないですか」
玲は眉間に皺を作った。
なるほど。玲は、お姉さんが俺に触ったことが気に食わなかったらしい。もしかして――俺がこのことで怒るとでも思っているんだろうか。
「大丈夫。俺は怒ってないよ」
――だから、玲はお姉さんとは喧嘩しないで。
俺がそう言って笑うと、玲は少しの沈黙のあとに、「ならいいですけど」と小さく呟いた。
「ねぇねぇ、玲。このアイス食べていい? 残り一本なんだけど」
……が。俺たちがそんなやり取りをしている間、当のお姉さんは冷凍庫を漁っていた。
凍らせて半分に割って食べるタイプのチューブを手に取って、お姉さんはそれを玲に見せて左右に振った。
「食べてはいい。でも、姉さん。いつも言ってるだろ。帰ったらまずは手を洗ってって」
「はいはーい」
「全くもう……」
アイスを手に洗面台に向かったお姉さんの後ろ姿を確認してから、玲は黙々と冷蔵庫に商品を片付けていく。俺は黙って、その姿を後ろから眺めていた。
なんというか、主夫っぽい。
「もー。玲は本当に昔から口煩いんだから。ねー。紫苑くんもそう思わない?」
「俺ですか?」
玲に怒られて手を洗い終えたお姉さんは、暖簾をくぐって部屋に戻ってくるなり俺に尋ねた。
「……玲は、俺が気付けないところもよく気づいてくれて、いつもお世話になってます」
それは俺の、純粋な感情だった。
『ツキさん』としても『望月玲』としても――俺は、玲にはお世話になりっぱなしだ。
バイト先の他の先輩たちは確かに優しいけれど、俺が一番心を許せたのは教育係だった『ツキさん』だったわけで――人生初の試みを、仕事と精神面で玲が支えてくれたのは間違いない。
俺を学校の先輩とわかっていた玲が、どんな気持ちで俺をみていたかはわからないけれど、『困ったときは助けてくれる』って、そう思えて心強かった。
初めて会った時は、怖いと思ったのが今は懐かしい。俺が思い出してふふっと笑うと、お姉さんが玲の名前呼んだ。
「……玲」
「何?」
「決めた。この子、うちで飼おう」
お姉さんは、何故か俺の手を両手で包みこんんだ。
突然の行動に、俺は再び動けなくなってしまった。俺は驚くと(以下略)。
「やめて姉さん! 紫苑さんから手を離して!」
玲はそう言うと、無理やりお姉さんの手を俺から引き剥がした。
■
「はーー。今日はたくさん玲に怒られちゃった。特に何もしてないのに」
「何かしてるから怒られてるんだけど」
ソファーに座り、チューブのアイスをガリガリ噛むお姉さんは、俺がイメージしていた「年上の女性」とは少し違った。
なんというか、男っぽくて豪快? だ。
こういう時、俺はどういう表情をしているべきなんだろうか。姉弟の間にはいることもできず困っていると、お姉さんがちらっと壁にかかった時計を見て俺に尋ねた。
「それより、だけど。紫苑くん、時間大丈夫? もうだいぶ遅いけど、親御さん心配してない?」
「一応母さんには連絡はしていて――……って、もう9時!?」
あまりにも時間が経ちすぎている!
玲と過ごす時間が楽しくて、俺はすっかり時間を忘れてしまっていた。
「玲。ごめん、俺帰らなきゃ。すいません! お世話になりました!」
俺がお姉さんに頭を下げて玄関に向かい靴を履こうとすると、靴のなかには丸められた新聞紙が入っていた。たぶん、玲が入れておいてくれたんだろう。おかげで靴の中はだいぶ乾いていた。
「……」
俺は紙を取り出して、リュックの中からゴミ袋を取り出してそれを詰めた。流石に、お世話になってゴミまで捨てさせるわけには行かない。
俺がそんなことをしていると、玲が玄関にやってきた。
「送ります」
「いいよ。友達に、そこまでしてもらうのは悪いし」
夜はもう暗い。こんな時間に、俺のために友だちを家から出すわけにはいかない。
「すいません。このあたり、ちょっと良くない集まりというか、不良のたまり場みたいなところがあるので、そこは避けて送りたくて」
「……確かにそれなら、案内してもらったほうが助かる、かも?」
『不良のたまり場』。
流石にその言葉を聞いてしまっては、玲の申し出を聞き入れないわけにはいかなかった。
■
雨上がりの夜の道。駅までの道は少しだけ暗くて、アスファルトで舗装されたところと、そうでないところがある。
道の途中には水たまりができていて、俺は濡れないように、「よっよっ」などと言って避け、玲は大股でそれを越えた。
舗装された道は雨に濡れて、街灯の光を浴びてきらきらと輝いている。「夜は外に出るな」と言われて育ったから、なんだか少し不思議な感じだ。
思っていたより、意外と明るい。
「送ってくれてありがとう」
玲が案内してくれる道を、まるで冒険するような気持ちで俺が歩いていると、玲は俺の言葉を聞いて、少し下を向いて返事をした。
「ここらは家賃が比較的低いですから。それもあって、少し治安が悪くなるというか……」
――なるほど?
父さんと兄さんが建てた家に住む俺にはよくわからないけれど、家賃というものはそういうものなのか。俺は、お姉さんが彼氏さんに送ってもらっていた理由を改めて理解した。
お姉さん、といえば――。
「面白いお姉さんだったな」
『よかったら、これからも弟と仲良してやってね』
俺がアパートを出る前、お姉さんは最後にそう言った。予測が出来なくて、玲を振り回して自由に生きていると感じたお姉さんだったけれど、その言葉だけは、まるでお姉さんというよりはお母さんみたいだと俺は思った。
「玲は、ここに住んでるんだな」
「……はい」
呟くようにいえば、玲は静かに頷いた。
今日一日で、わかったこと。
友達でも、学校で一緒に過ごすだけでは絶対にわからないものというのはあるらしい。
どこに住んでいるのか、どういうものが好きで、家族の前ではどう振る舞うのか。細かく例をあげたら多すぎて数える自信はないけれど、『玲が生きてる世界の空気感』みたいなものが、俺は今日、少し分かったような気がした。
俺はそれを見て、まるで合わせ鏡みたいに、その背中に自分の影を見た。
俺は――家に帰ったら必ず母さんがいて、温かいご飯がいつでも出てくる。父さんは仕事があるから朝は一緒にご飯は食べられないけれど、夕飯はたまに一緒に食べる。
それはたぶん当たり前のことじゃなくて――きっと、『幸せだ』って思うべきことで。でも、それが当たり前だと思っていたら、『もっとこうなればいいのに』という、気持ちはわいてくる。
もしかしたらこれまでの俺は、少し欲張りな人間だったのかもしれない。
そして、もう一つ。
玲についても、俺は今日強く思ったことがある。
玲はしっかりものだし優しいけれど、それは玲が、これまで自分が置かれた環境のなかで、ちゃんと前を向いて生きてきたからなんだろう。
それを不幸だとか幸せだとか比較するわけじゃないけれど、俺はただ、純粋に玲がすごいと思った。
玲は俺の一つ下だけど、きっと玲は、俺とは違うことをたくさん見て生きてきたんだろう。だから俺より、玲はできることが多いのだ。
そういうところ、年齢関係なしに、俺は人として尊敬する。
二人で歩く雨あがりの夜の空は、とても澄んで俺には見えた。
そして、俺は次に足元を見て――。
「タバコが落ちてる」
と、つぶやいてゴミを拾った。
玲が治安が悪いとは言っていたけれど――確かに俺の家の周りに、こんなゴミは落ちてはいない。
「ここらで拾ってたらきりがありませんよ」
「いいの! 俺のこれは、割れ窓理論だから」
割れた窓をそのままにしていたら、このタバコをそのままにしていたら、玲が住む場所の治安がさらに悪くなってしまう!
俺は、そう思ってせっせとそれを拾った。玲は、俺が止めてもやめないので途、中から手伝ってくれた。
「でもほんと、なんでこんなとこに捨てるかなあ……」
ポツリ俺が呟けば、玲が苦笑いして俺に尋ねた。
「すいません。ここ、夜はいないんですけど昼間は人がいて。紫苑さんは、不良は嫌いですか?」
「嫌いっていうか、昔兄さ……家族に怒られたことあって。関わるなって」
「……」
あれは確か、俺が高一の時の話だ。
兄さんと二人で出かけた帰り、俺は怪我をした不良と出くわした。
身長は、今の俺より少し高いくらい。雨の中地面に座り込んで、頭から血を流したその人を、道行く人々は素通りして行った。
「いやでも、ほんと偶然で! 喧嘩の後? なのか、怪我してるとこに出くわしてさ」
兄さんは、「関わるな」と俺に言った。でも俺は、兄さんの言葉を無視してその人に近付いた。
「血が出てたから、大丈夫かなって思って。雨降ってたし」
あの瞬間、俺は兄さんの言葉を聞いちゃいけないと思った。
「……まあ、危ないことには、関わらないほうがいいのが確かです」
「え? 玲まで兄さんみたいなこと言うの?」
勿論、兄さんが俺を心配しての言葉だってことは分かってた。でも――……でも。
「でもさあ! 目の前で怪我してるやつ無視するほうが無理だろ!? それに、なんか顔も殴られてたし……。なのにみんな、全然気にしてないみたいでっ! だから。だから俺は……」
結局、あの人と逢ったのはあれが一度きり。
あの日は雨で、兄さんは傘をさすときは帽子をとるから、顔を見られていた可能性は高いけれど、結局彼からその後連絡はなかった。
もしかしたら芸能人に興味がなくて、兄さんを知らなかったのかもしれないけれど。
「でも、救急車呼ぼうとしたら止められて。ホント大丈夫だったかなぁ? あの後」
別に、感謝してほしかったなんて思ってない。ただ彼が、無事だったかどうかくらいは、教えてほしかったと思っただけで。
そもそも俺は、タオルと絆創膏と傘を渡しただけだ。その後、俺はその場を去った(因みに帰りは、俺は兄さんの傘に入れてもらった)。
「……ごめん。今する話じゃないよな」
昔のことを思い出して、つい余計なことを話してしまった。
俺が謝罪すると、玲は何故か俺を見て優しい目をして――ゆっくり静かにその目を閉じた。
「いえ。……話してくれて、ありがとうございます」
■
「……着いた!」
清掃活動(タバコ)と昔の話のせいで少し時間がかかったけれど、無事駅に着いた俺は、すぐに改札をくぐった。
「じゃあ、また明日バイトで」
「はい、また」
ばいばいと玲に手を振ると、玲も俺に返してくれた。それが少し嬉しくて、駅のホームに向かおうとしていたら、玲が突然大声で俺の名前を叫んだ。
「――……紫苑さん!」
「?」
俺が振り返ると、玲は拳をぎゅっと握って、何かを決意したような顔をして――俺にこう言った。
「ずっと……俺、紫苑さんに言えてなかったんですけど。俺たち本当は――同じ学校になる前に、昔会ったことがあるんです」
強く澄んだ声が、雨上がりの夜の駅に響く。玲はそれだけ言うと、俺を残してさっと背を向けてしまった。
「え? えええっ???」
俺は、反応するのに時間がかかった。本当に本当に――驚いたら、うまく反応できないのを自分はやめたい。
「ちょ……っ。待って! 玲!」
いつ? どこで?
俺には見当もつかなかった。だって俺は――玲のことを覚えてない。
「えっと……! とりあえずスマホスマホ」
話を聞こうと俺が慌ててスマホを見ると、兄さんから鬼のように大量の連絡が来ていた。
【尊 今どこにいる?】
【尊 帰りが遅すぎるだろ。今何時だかわかってる?】
【尊 返事をしなさい。紫苑。】
【着信履歴53件】


