初バイト、先輩バイトが同じ学校の後輩でした。

 六月の爽やかな朝、その日俺はやっと、ずっと秘密にしていたことを兄さんに告げることができた。

「じゃあ、今日はバイトで遅くなるから。先に夕飯食べててね」

 それは、今日から始まる俺のバイトについて。

 過保護な兄さんにバレたら止められるのは予想済みだったから、今日まで内緒にしていたのだ。
 一年間の高校生活で少しだけ傷のついた鞄を手に言うと、まだ朝食を食べていた兄さんが、あからさまに顔をしかめた。

「は? なにそれ聞いてないんだけど」
「別に兄さんに報告する義務はないだろ。俺、もう高校二年だよ?」

 今日も無駄に顔が良い。
 寝癖さえも、そういうヘアスタイルみたいな表情《かお》していた兄さんが、朝食のパンを手に立ち上がる。でもその時、野菜が皿から落ちそうになって、兄さんは母さんに肩を掴まれて無理矢理椅子に戻された。

「尊くん。朝ご飯を食べ終わるまで、席は立っちゃ駄目でしょ? 紫苑ちゃんはもう高校生なんだから、お兄ちゃんだからって口出さないの」
「でも、母さん!」

 母は強し。体を押さえつけられた兄さんを視界にうつしながら、俺はそそくさと玄関の扉に手をかけた。

「じゃ、学校行ってきます」
「いってらっしゃーい」

 母さんが明るい声で俺を見送る中、扉が閉じるまで、俺は俺を引き留める兄の声が聞こえていた。

「待ちなさい! 説明しなさい。紫苑! 紫苑~~!」



「はあ……。なんであの人は、昔から俺にああなんだ」

 思わず溜め息を吐く。
 自転車を漕いで駅につくと、俺は駅で兄の姿を見つけて俺はため息を吐いた。

「うわ。この広告、兄さんだ」

 とは言っても、先ほどまで俺を引き留めていたリアルの兄ではない。芸能人としての、広告に映る写真の中の兄さんの姿だ。

「この曲、本当にいいよね。最近の私の一番の推しなの」

 そして、道を歩く女の子のスマホから兄さんの歌声が聞こえてきて、俺は思わず耳を塞いだ。何が楽しくて、登校中まで兄の歌を聞かないといけないのか。

「……しかも、まさかのラブソングだし」

 兄さんは最近、昔から親交のあった芸能人の一人と歌を出した。
 それが売れに売れ、休日に訪れた店で流れているのを聞いたときは、俺は頭痛がして蹲ってしまった。何が楽しくて、兄の歌を買い物しなければ聞かないといけないのか(二度目)!

 俺にとって、兄さんという存在は、祝福であり呪いだった。
 何故なら俺――朝比奈紫苑の人生はまさに、朝比奈尊という人間の、日陰そのものだったから。

 【朝比奈尊《あさひなみこと》】
 それが、俺の兄の名前だ。
 二つ年上の兄さんは、幼い頃から優秀で美しかった。

 兄さんの『伝説』は、昔からとどまることをしらない。
 まず、赤ん坊の頃。母さんが幼い兄さんをベビーカーに乗せて道を歩いていたら、芸能事務所の人に声をかけられ、そのまま芸能界デビュー。
 赤ちゃん用品のテレビCMに抜擢され、そのまま子どもモデルとして活躍、幼い頃から大人びていた兄さんは演技も難なくこなし、そのまま高い好感度を維持したまま大学生へ。そして、兄さんの昔からのモデルとしての知り合い(この人は音楽方面でも知名度があったらしい)と歌を歌い、デビュー曲は新人だと言うのに全国のランキングに入るという快挙を遂げた。
 ちなみにこれだけ活躍していた兄さんだが、ずっと俺と同じ学校に通っていた。

 これまではモデルとしての活動ばかりだったかもしれないけれど――まあ、理由は明白。
 俺の兄、朝比奈尊という人間は、超がつくほどの弟バカだったからだ。
 それを表すものとして、昔兄さんが俺の手をとって言った言葉を、俺は今でも鮮明に覚えている。
 俺を溺愛する兄さんは、芸能人としてデビューして、朝比奈家に入ってきたお金についてこう言ったのだ。

『俺が死んだら、俺のお金は全部紫苑に残してあげるからね。遺産相続、っていうんだよ』
『いさん……そうぞく……?』
 ゆーびきりげんまん。うそついたらはりせんぼんのーます! ゆびきった!

 幼い弟に、笑顔で告げる内容でもなければ縁起でもないのだが、昔から兄さんの俺への溺愛ぶりはとどまることをしらなかった。

 俺が小学生の頃、学校に入学したら休み時間ごとに教室にやってきては世話を焼こうとした。どんなに忙しくても俺が宿題で分からない事があれば俺が分かるまで教えてくれたし、俺が好きそうなものを見つけたら、必ずお土産に買ってきてくれた。
 ここで一つ情報を整理すると、俺に対する兄さんの重すぎるほどの愛情は、周囲の女子からすると『弟思いの優しい兄』に見えるらしかった。

 結果、何が起きたかというと――。

 これは俺がまだ、小学三年生だったのころの話である。
 当時の俺には、好きな女の子がいた。
 同じクラスの学級委員。真面目で清楚。少し目尻の下がった優しそうな目で、俺なんかにも柔らかく微笑んでくれる彼女に淡い恋心を抱いていた俺は、バレンタインの日、彼女に呼び出されて当然胸を高鳴らせていた。

 放課後の呼び出し。告白されるものだと思ってどきどきしながら学校近くの公園で待っていたら、顔を真っ赤にした彼女がやってきて俺に言ったのだ。

『このチョコレート、尊様に渡してください!』

 初恋の相手に、兄にチョコを渡してほしいと頼まれて、完全に俺の心は折れた。そしてその日、俺は理解したのだ。
 兄が側に居る限り、自分が兄の弟だと知る人間には勝てないのだと。

 だからこそ――だからこそ、である。
 兄が大学生になり、芸能活動の幅を広げ、歌を出したせいで忙しくなった今こそ、俺が兄離れするチャンスなのだ!

「俺は、兄さんからは自立するんだ……!」

 過保護で芸能人の兄がいる限り、恋愛も自立も無理なのだ。
 そのためには、兄と自分のことを知らない場所に身を置くしかない。これこそが、俺がバイトを始めることを決めた一番の理由だった。



「ふっふふーん♪」

 放課後。
 学校を終えた帰宅部の俺は、いつもとは違う駅で降りて心臓の鼓動を速くした。今日降りた駅は、俺の家からは三つ離れた場所にある。

「今日から『ミナミ』さんと同じ職場かあ……」

 本屋を併設するレンタルビデオ店。
 好きな漫画の発売日、偶然訪れた店で本を探していると、声をかけてくれた女性店員さんに、俺は一目で恋をした。

 彼女は俺に、『朝比奈尊』の弟だと知らないのに優しく接してくれた女性《ひと》だ。

 「惚れっぽい」――そう言われるかもしれないけれど、俺のような普通の人間に打算なしで優しくしてくれるだけで、俺からすれば女神と同義だ。
 なんたって、これまで何度も「実はお兄さんが好きで……」と裏切られてきたわけで。リアルの兄・俺が兄さんの弟であることを知らない女性というだけで、俺からすれば好感度百億万点プラスである。

 因みに、この『ミナミ』というのは、彼女がつけていたネームプレートに書かれた名前だ。
 明るめの、ゆるく巻かれた茶髪の長い髪。店に入り、制服を着たミナミさんをカウンターで見つけた俺は、高鳴る鼓動に思わず胸を押さえた。

「は……はじめましてっ! きょ、今日からここで働かせていただく朝比奈紫苑ですっ!」

 しっかり90度に頭を下げると、ミナミさんは一瞬驚いたような顔をして、それからくすっと笑った。

「君が新人ちゃんかあ! ちょっと待っててね。店長から話は聞いてるよ」

 初めて会ったときと同じ、穏やかなのにハキハキとした口調のミナミさん。
 でもその反応に、俺は少し寂しくなった。この反応からすると、ミナミさんは俺のことを覚えてはいないのだろう。片思いの相手に覚えられてすらいないという現実。まあ、仕方ないとは思うけれど……。

「新人ちゃん、こっちにおいで。事務所に一緒に行こう」

 でも、それでもいい。俺は、ぐっと拳を握って頷いた。同じバイト先なら、話す機会もあるだろうし――そうなれば、おのずのチャンスはできるはずだ!

「あ、ありがとうございます!」
「うん。いい返事だね」
「はい!」

 ミナミさんに褒められた! 
 俺は、顔が熱を持つのを悟られないように少し下を向いて、事務所のある二階への階段を登った。



「店長〜。新人ちゃん、連れてきました」
「ありがとう。今日は6時までだよね?」

 【STAFF ONLY】と書かれた二階の事務所に入ると、面接をしてくれた店長さんが椅子に座って資料を見ていた。

「はい。これであがります。更衣室使うので鍵かけますね」
「はーい」

 優しいそうな声音で、店長さんが返事をする。店長さんは、身長はあるけれど細身で温和そうな人だ。少し下がった目尻が俺に安堵感を与えてくれる。

「今日から働いてくれる朝比奈くんだよね? 改めまして、店長の荒川です。今日からどうぞよろしくね」
「は、はい!」
「制服は、ウチはエプロンと上だけだから……とりあえず、エムサイズ用意してみたから、これを着てみてね」

 段ボールの中から制服を渡された俺は、受け取ってからじーんと感慨深い気持ちになってしまった。いうなれば、新しい門出、みたいな。物語の始まり、みたいな。これまでの日常から、一歩踏み出せたような――。

「ありがとうございます」

 俺がそう言うと、店長さんはくすっと笑った。何故だが、俺を見る目が優しい。気のせいだろうか?

「何か質問はあるかな?」
「えっと……研修のこととか、聞きたいです。あと、これからのシフトのこととか。一ヶ月前くらいに組むってお話だったので」

 できれば、ミナミさんと同じがいい!
 不純な動機を悟られないために、少しだけ視線をそらして言うと、店長さんはニコッと笑った。

「ああそれね。研修は、君と同じ時間帯によく入る子がいるから、その子に任せる予定だよ。同性のほうが質問しやすいだろうし、しっかりしてる子のほうが安心だしね。シフトについては、もうすぐ来月のシフトは確定させようと思ってるから――詳しくは、今日の帰りにでもまた話そうか」
「はい! わかりました!」

 俺が期待に胸を膨らませていると、更衣室から出てきたミナミさんに、店長さんが振り向いた。

「お疲れ様でーす!」
「皆川さん、本当に、今日までありがとうね。引っ越しもあるのにひきとめちゃって……」
「いえいえ! 無事私の代わりの子が見つかってよかったです!」

 店長さんは、そう言うとミナミさんにお花を手渡した。それはまるで、卒業式の一場面だ。

「え……? 今日でやめられるんですか?!」

 その光景を前に、俺はつい叫んでしまった。
 そして、今日はいったばかりの部外者なのに、駄目な発言だったとすぐに己の口を塞ぐ。
 ミナミさんは、そんな失礼な俺にもニコッと笑って答えてくれた。

「うん。そうなんだよ〜。彼氏と同棲することになってね。ここ、遠くなっちゃったから。系列店でお世話になることになって。今日から無事この店にも新人ちゃんも入ってきたしね!」

 ミナミさんは花を片手に、ポンと俺の肩を叩いた。

「これからはここで、私のかわりに頑張ってね! 新人ちゃん!」

  嘘だ。そんな。高校生活、年上のお姉さんとバイトして、青春を謳歌するつもりだったのに!
 一瞬で青い春が終わった! 今。今!!!!

 呆然とする俺を置いて、ミナミさんはさっさと帰ってしまった。灰となった俺に、店長さんが気遣うように声をかける。

「大丈夫? だいぶ落ち込んでない?」
「だ、大丈夫です。へいきです……」

 そうはこたえるものの、ダメージが大きすぎた。そもそもこの店は、大通りから少し外れた場所にある。働いている人の年齢層は分からないけれど、ミナミさん無き今、若くて可愛い女の子(できれば年上が好き)がいるとは思えない。

「あ」

 俺が一人うなだれていると、事務所の扉が開く音と店長さんの声が聞こえて、俺はゆっくり顔を上げた。

「おはようございます」

 落ち着いた低い声。
 身長180はゆうにありそうな、黒髪長身の男に、俺は思わず一歩後退って、ゴクリつばを飲み込んだ。 

「紹介するね。彼が、君の教育係だよ」
「宜しくお願いします」

 兄さんと変わらないくらいの身長かもしれないけれど、外見のせいで威圧感のあるその男は、律儀に俺に頭を下げた。
 意外と真面目な人なのかもしれない――けれど。外見から受け取れる印象は、そう簡単には変わらない。

 長身に長い前髪に黒マスクって、接客業でアリなのか!? こえーよ!