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・追放された“雑用係”のスキルは、実は万能の土台。
・寄せ集めの仲間を、修繕と工夫で戦える隊へ。
・スローに暮らすはずが、気づけば国が先に頼ってくる。
〈読了目安〉約9分
・・・
第1話 追放と、ありふれた《補助》
 「――リオ、お前はもう要らない」
 火のはぜる音の向こう側で、勇者レオンは淡々と言った。焚き火の赤は甲冑の銀を照らし、その顔に影を落とす。彼の周りには、聖女、魔法使い、盾役。みんな、目を合わせようとしない。
 俺は唇の裏側を噛んだ。血の味が滲む。
 そうだろうな、とも思う。俺の職業は《補助》。攻撃も回復も中途半端、戦場の端で道具袋を支え、汚れ物を洗い、傷薬のキャップをねじ開ける。雑用係。便利屋。名ばかりの仲間。
 「魔王城は目前だ。余計な荷物は要らない」
 レオンの声に重なるように、聖女ミレイがため息を吐く。「リオ、
あなたの支えには感謝してるわ。でも、神託は四人で向かえと告げたの」
 盾役のガロが、気まずそうに視線を逸らす。魔法使いのアリスは本を閉じ、ためらいを振り払うみたいに言葉を継いだ。
 「道具と補助は、王都から選りすぐりを寄こしてもらえばいい」 こっちを見る目は、同情と、安堵と、軽蔑の混ざった色だった。
俺が抜ければ、隊は軽くなる。責任も、失敗の口実も、ひとつ減る。
 「わかった」
 俺は背負い袋を肩にかけ直し、焚き火の熱から一歩退いた。火の粉が夜に舞う。聞き慣れた足音の規則、剣の鍔の鳴る調子、湿った木の匂い。全部、今日で終わりだ。
最後にもう一度だけ、声を出した。
 「ひとつだけ、確認させてくれ。《補助》が無いと、明日の峠越えはきつい。霧が濃いはずだ。足場も崩れてる。俺が地図に落とした《目印糸》は――」
 「残していけ」
 レオンは即答した。「俺たちには、俺たちの道がある」
 言い争う理由も、もう、持ち合わせていなかった。
 俺は頷き、踵を返す。背中に「達者でな」の声がかからなかったことだけが、少し堪えた。
     ◇
 夜の森は、思っていたより明るかった。高い枝の合間から漏れる月明かりが、地表に長方形の小さな光の板をいくつも並べる。俺はその一枚一枚を踏まないように歩いた。踏んでしまうと、なぜだか負けた気がするからだ。
 肩の重さだけが現実で、胸の内は空っぽに近い。悔しさよりも、奇妙な安堵がある。あの火の輪から外れたら、寒さより先に、呼吸が楽になった。
 ――そうだ、元々俺は、誰かの影にならないと光の場所に立てない人間だ。
 腰の小袋に指を滑らせる。中には細い糸巻きと、針。俺の《補助》の中心道具。《目印糸》は、迷宮や戦場の空間の「地形情報」に糸を通し、触れた者の頭の中に簡略地図を描く。だがそれは世に溢れる補助技能の一つでしかない。誰でも訓練すれば、似たことはできる。
 ――はずだった。
 森を抜け、丘を越え、谷筋の小さな集落に辿り着いたのは、夜明け前だった。柱に霜が降り、屋根の藁は白く光る。戸口の隙間から、緊張した灯の色が漏れていた。

 「どなた」
 槍を構えた老婆が、戸を少し開けて俺を見た。目に恐怖が宿っている。
 「旅の者です。宿は……」
「今は誰も入れられないよ。狼が出た。いや、狼じゃない、もっと、いやなものだ。村の子が、一人、戻ってこない」
 老婆の声が震えた。その震え方が、俺の胸の古い傷に触れる。仲間に置いていかれるときの、あの、音。
 「探す。俺でよければ」
 口が先に動いた。もうパーティーはない。誰の指示もない。ならここで、俺は俺の価値を試せばいい。
 「金はないよ」
 「要りません」
 老婆はしばし俺を見、それから戸を開けた。「村長のとこへおいで」
     ◇
 村長は痩せた男だった。目の下のクマが深く、手は麦藁のように乾いている。
 「南の炭焼き小屋まで薬草を採りに行った子が、夕方になっても帰らない。明かりも、足跡も見当たらない」
 村長の机の上で、蝋燭が短く燃える。油も、余裕も、ここには少ない。
 俺は机端の灰を指先でなぞり、灰粒の流れ方を見た。北からの風が常に吹き込む。ならば南の谷は風の陰。霧が溜まる。
 「探す。夜明けを待つ間に準備をさせてください」
 俺は針に糸を通した。《補助》の基礎《縫合》で、破れた地図を繋ぐみたいに、村の道と谷道の「情報」を合わせる。世界の縁を、そっと寄せ合わせる作業だ。気づく者は少ないが、世界はほつれている。そこに細い糸を通せる者も、また少ない。
 「お前、ただの旅のもんじゃないな」
 声の主は、戸口にもたれる若い女だった。灰色の羽織、腰には短杖。瞳の奥に、淡い光。巫女か、術者か。
 「《風見》の巫、(かんなぎ)ユナだよ。村の護りが仕事。助かる」
 「リオです」
 視線が交わる。彼女はじっと俺の手元を見た。
 「その糸、ただの《目印》じゃないね」
 「ちょっと、工夫してるだけです」
 夜がほどけていく。東の空が淡く明るむころ、俺とユナは谷へ向かった。霧がひざの高さまで溜まり、鳥の声が消え、代わりに水の音が近い。炭焼き小屋へ続く踏み跡は、途中で二つに割れ、その片方が唐突に消えている。
「ここからが、無くなってる?」
 ユナが眉をひそめる。俺は頷き、足元の空間へ針を落とした。糸が宙でふわりと張り、見えない何かに引かれて斜め下へ伸びる。
 「空間の目地が、抜けてる。足を踏み外したんだ」
 「落とし穴?」
 「いや……自然じゃない」
 糸の震え方が、知っているものと違っていた。これは、人為。誰かが、谷の地形の縫い目を切り離して、別の場所に繋げた。
 ――《縫合》の応用。《接続》……。そんなまね、普通はできない。
 俺は深呼吸し、糸をもう一本、今度は逆向きに走らせた。二本の糸が互いに引き合い、周囲の霧に細い縞模様が浮かぶ。縞はやがて渦になり、小さな口の形を成した。見えない落とし穴の輪郭が、霧の表面に描かれる。
 「いた」
 渦の底に、青い布の袖が揺れた。子供だ。俺は腰に巻いた補助帯をユナに渡す。「支えてください」
 ユナが短杖を地に突き、風を生む。俺は糸を渦の中へ投げ、袖へ絡め、引いた。渦が抵抗する。空間の縫い目が、俺の糸を拒む。汗が背中を流れる。
 「がんばれ」
 ユナの声が近くにあった。俺は歯を食いしばり、糸を一本、また
一本と重ねていく。重ねるたびに、世界のほつれは俺の手に近づき、渦はほどけ、やがて――
 「……っは!」
 土の上に、軽い体が転がった。男の子が咳き込み、目を開く。ユナが抱き起こし、肩を撫でる。俺は糸を手繰り、渦の口を丁寧に縫い戻した。放置すれば、次の誰かが落ちる。
 「大丈夫か」
 「……うん」
 涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃのまま、子供は頷いた。袖が裂け、手首に薄い切り傷がある。俺は道具袋から薬草を取り出す。ここでも《補助》だ。傷の縁を寄せ、包帯を縫い合わせ、血の巡りを穏やかにする《循環》の糸を一本通す。
 ユナがじっと見つめる。「やっぱり、ただ者じゃない」
 「ただの、雑用係ですよ」
     ◇
 村は、俺を英雄のように迎えた。囲炉裏の湯気、炊きたての粥、粗末だが温かい毛布。子供の母親は泣きながら礼を言い、村長は古い酒を持ってきて、何度も頭を下げた。
 「礼はいりません」
 そう言いながら、俺の胸のどこかで、硬い氷が音を立てて崩れた気がした。役に立つという感覚が、こんなにもまっすぐに、体温をくれるものだったなんて。
 ユナは、囲炉裏の向こうで湯飲みを傾けながら俺を観察していた。
「ねえ、聞いてもいい?」
 「どうぞ」
 「あなたの《補助》、範囲が変だ。地形の縫い目なんて、見えない。私たち《風見》は匂いや流れで当たりをつけるけど、直接は触れない」
 「小さい頃から、糸遊びが好きで」
 「はぐらかさないで」
 真っ直ぐな眼差しに、俺は乾いた笑いをこぼした。「――わかった。ひとつだけ、見せる」
 俺は針を取り出す。細い銀の針。その柄には、古い時代の祈りの文字が刻まれている。持ち主の名は、もう無い。俺が拾ったときには、墓標の上で錆びていた。
 針の腹に、息を吹きかける。灯りが小さく揺れ、部屋の空気がきゅっと締まった感触がする。糸は、まだ出していない。が、見えない糸の束が、周囲の壁や床に勝手に繋がり始める。俺の意識の端で、世界が細く鳴る。
 「《全域補(オールレンジ)助》」
 俺はそっと、名前だけを置く。自分でつけた名だ。誰かが教えてくれたものではない。
 ユナが息を呑む。「範囲……村全部?」
 「もっと、広くできる。やろうと思えば、山ひとつ分くらい」
 自慢に聞こえないように、できるだけ事務的に言う。事実《補助
》は、範囲を広げるほど薄くなる。だが薄くても、十分な時がある。
例えば、峠の霧。例えば、足場の崩れ。例えば――魔王城の罠。 「あなた、どこから来たの?」
「勇者隊の、雑用係」
 部屋が静かになった。ユナは湯飲みを置き、少し目を伏せ、それから笑った。「追放、ね」
 「はい」
 「じゃあ、ここに居なよ」
 唐突な提案に、俺は目を瞬いた。
 「この村は小さくて、貧しい。けど、谷を通る商人もいるし、外れに鉱の(あらがね)火が眠ってる。鍛冶屋が欲しい。薬師も。護り手も。あなたは全部、少しずつできる」
 ユナは指を折って数え、最後に俺を真っ直ぐに見た。「そして何より――ありがとうって言える人が、ここにはいる」
 胸の奥で、何かが決まる音がした。俺は頷いた。「しばらく、世話になります」
 「うん」
 ユナの笑顔は、焚き火より暖かかった。
     ◇
 昼。村の外れ、黒く眠る岩肌に、細い赤が走った。ユナが言っていた「鉱の火」。地中の金属が、時折、空気へ火花を吐く。昔の人はそれを龍のため息と呼んだらしい。
 俺は、村の若者三人と、臨時の鍛冶場をこしらえた。吹子を踏み、火を起こし、古釘を炉に入れ、溶けた鉄を叩いて鍬の刃にする。ここでも《補助》は働く。熱の流れを均す《温度糸》。金属と金属の隙間を埋める《溝埋め》。硬さと粘りの配分を調整する《均衡》。
 若者たちが目を丸くする。「魔法みたいだ」
 「違うよ。段取りだ」
 俺は笑い、汗を拭いた。段取りを最適化すること。人と物と時間の縫い目を揃えること。それが俺の《補助》だ。戦場では誰も褒めなかったけれど、ここでは鍬一本で暮らしが変わる。
 午後、谷の向こうから、砂埃が上がった。数騎の馬. 先頭に見知った顔があり、俺の心臓がひとつ跳ねる。
 レオンと、聖女ミレイ、盾役ガロ、魔法使いアリス。勇者隊が、戻ってきた。
 「……何の用だろう」
 ユナが目を細める。俺は無意識に、糸を指に絡めかけて、やめた。震えを見せたくなかった。
 馬が止まり、レオンが鞍から軽やかに降りた。視線は俺を素通りし、鍛冶場と、若者たちの手元に向けられる。彼は短く周囲を見回し、ため息をひとつ。
 「村の者、用がある。峠の手前で、道を見失った。霧が、濃すぎる」
 俺は、ほんの少しだけ笑いそうになった。笑わずに済んだのは、ユナが一歩前に出たからだ。
 「用なら、村長へ」
 「いや、これは――」
 レオンの視線が、そこでようやく俺を捉えた。わずかに目が開く。
驚き。安堵。警戒。それから、逡巡。
 「リオ」
 名前を呼ぶ声は、思ったより柔らかかった。過去の夜が、少し揺らぐ。
 「峠の《目印糸》、残していっただろう。……貸してくれないか。ここを過ぎれば、もうお前の邪魔はしない」
 俺は答えなかった。代わりに、村の子供が、鍛冶場の陰から顔を出した。朝に助けた子だ。俺を見ると、小さく手を振る。その仕草が、答えを決めた。
 「峠は、もう塞ぎました」
 「塞いだ?」
 「崩れやすい箇所を縫って、霧の流れを変えました。村に入るなら大回りが必要です」
 レオンの表情に、焦りが走る。追い風に乗って、彼らの背後から、黒い旗がいくつも見えた。王都の追討隊か、魔王軍の亜種か。どちらにしても、時間はない。
 「頼む。迷っている暇はない」
 ミレイの声は切実だった。俺はユナと目を合わせる。ユナは小さく頷き、ただし、と続けた。
 「条件を」
 レオンが眉を上げる。「条件?」
 「この村の領分に、今後干渉しないこと。鉱の火も、水脈も、村のものだ。王都の収税官を連れてくるな」
 ガロが渋い顔をし、アリスが苛立ちを隠さない。レオンは短く考え、それから頷いた。「約束しよう。俺の名にかけて」
 嘘かもしれない。でも、今は人が死ぬかもしれない状況だ。俺は糸を一本空へ投げた。糸は見えない峠へ伸び、風の流れを掴んで、霧を裂く。空が一瞬だけ明るく開く。
 「――行け」
 レオンは礼も言わず、馬を返した。勇者隊は砂煙を残し、峠の向こうへ消えた。俺は糸を手繰り寄せ、空を縫い戻す。風はまた、谷へ優しく降りた。
 ユナが横に立った。「優しいね」
 「恨みで糸はきれいに結べない」
 口にしてみて、自分でも驚いた。俺はそんな言葉を、いつ覚えたのだろう。多分、雑用係の夜に。誰かの寝息と甲冑のきしむ音の中で、糸を巻き、明日の段取りを、ひとりで整える時間に。
 ユナが笑った。「じゃあ、明日から本格的に働いてもらうよ。鍛冶に、畑に、道の整備に、子どもの読み書きに」 「最後のは、初めての仕事だ」
 「できるよ、あなたなら」
 不思議と、できそうな気がした。世界のほつれを縫うのと、人の暮らしのほつれを縫うことは、たぶん同じだ。
 夜。星は近く、火は小さく、村は静かだった。俺は糸巻きを枕元に置き、目を閉じる。
 ――《補助》は、万能だ。誰かがそれを認めなくても、世界は知っている。世界は、縫えば応える。
 明日も糸を通そう。村のために。俺のために。
 そして遠い山の向こう、黒い塔の上で、誰かがこちらを見ている予感がした。糸の震えに、微かな異音が混じる。魔王か、神か、それとも――。
 追放された雑用係の物語は、たしかに動き出したのだ。

第2話 村に根を張る
 翌朝、鶏の鳴き声と共に目が覚めた。毛布は藁の匂いがして、背中に柔らかい感触が残っている。勇者隊の天幕の冷たい床に比べれば、ここは天国だった。
 戸を開けると、白い霧が村を包んでいた。炊事場の煙が空へと吸い込まれていく。小さな村なのに、生きる音がどこか賑やかに感じられる。
 「おはよう、リオ」
 声をかけてきたのはユナだった。朝露に濡れた髪を後ろで束ね、腰の短杖を軽く叩いている。
 「今日から本格的に働いてもらうよ。鍛冶も畑も、教えることは山ほどある」
 「了解しました」
 自然に返事が出る。こんなに素直に頷けるのは、ここで初めてだった。
 ◇
 午前中は畑に出た。畝には小麦と豆。根は浅く、雑草が絡まっている。俺は膝をつき、糸を一本、土に差し込んだ。糸は根の伸び方を描き、肥料の薄い箇所を教えてくれる。
 「ここを掘って、堆肥を足すといい」
 村の若者が驚きの声を上げた。「見ただけで分かるのか?」
 「糸に訊いただけさ」
 俺は笑い、鍬を振る。土の匂いが新鮮で、汗が爽やかだった。 昼には鍛冶場へ移り、火を熾した。ユナの指導で若者たちが鉄を打ち、俺は《補助》で温度を均す。鋼が赤く輝き、槌の音が村に響く。
 「これなら刃こぼれしない」
 完成した鍬を見て、村人たちは歓声を上げた。俺の胸にも、不思議な誇らしさが湧いた。
 ◇
 だが、穏やかな時間は長く続かなかった。
 夕方、村の門に見知らぬ影が現れた。灰色の外套をまとった三人組。目深に被ったフードの下から、冷たい視線が覗いている。
 「商人か?」村長が出てきて問う。
 「……いや」
 声は低く、妙に湿っていた。「俺たちは《狩人》。獲物を追ってきた。昨夜、こちらに逃げ込んだはずだ」
 村人たちの表情が凍る。彼らの視線は、まっすぐ俺に向けられていた。
 ユナが前に立ち、短杖を握り締める。「この村は狩り場じゃない。
獲物って……誰のことだ?」
 三人の狩人はにやりと笑った。「糸を操る雑用だ」
 俺の背筋に冷たいものが走る。昨日の救助を、誰かが見ていたのか。
 「まさか……」
 俺は唇を噛んだ。《補助》の秘密は、まだ隠しておきたかったのに。
 狩人たちは一歩踏み出す。空気が重くなり、村の子供たちが泣き出す。
 俺は針を握った。背後には村人たち、前には謎の追手。
 ――ここで逃げれば、もう二度と居場所はない。
 胸の奥で決意が固まる。糸を空に走らせ、見えない網を編み始めた。
 「……この村は、俺が守る」 
第3話 狩人の罠、補助の陣
 門前に立つ三人の《狩人》は、影のように痩せていた。灰の外套は風に鳴り、胸元に縫い付けられた縁飾りは黒曜石めいて鈍く光る。
近づくほど、彼らの足音は薄くなり、村の土に吸い込まれるようだった。普通の賞金稼ぎではない。痕跡を消す術を心得ている。
 ユナが一歩進み、短杖で地面を軽く叩く。乾いた音が響いた。「この村は通行は拒まないが、脅しは許さない。名を」
 「名は捨てた」
 左の狩人がフードを外す。頬に細い切り傷、目は乾いた砂色だ。
「俺たちは《縫目潰し(シーム・ブレイカー)》――縫う者を狩る」
 視線が、俺の指先の針に絡む。
 逃げる選択肢は、最初に潰した。ここで退けば、村は狙われ続ける。俺は深く息を吸い、意識を糸に乗せる。
 「ユナ、合図を出したら風を。村の人は家の中へ」
「了解」
 ユナの声は短く、強かった。村長が腕を振り、子どもたちが抱き上げられていく。鍛冶場の火は消され、代わりに井戸のそばの鉦が鳴った。村全体が一つの身体になって、呼吸を整える気配。
 俺は針を構え、見えない布に初手を打った。《補助》は土台から積むのが基本だ。まずは足場――《基盤糸(ベースライン)》を村門前の広場いっぱいに水平に走らせる。目に見えないが、地表に薄い格子が生まれ、踏めばわずかな反発が返る。つぎに《導風糸(ガイドフロー)》を幹線に通し、風の道筋を設定。ユナの《風見》と同期すれば、衝撃も煙も一方向に流せる。 狩人の真ん中が、指を弾いた。乾いた「カッ」という音の直後、俺の頬を虫の羽音ほどの鋭利な何かがかすめた。空間の縁が切られ、切断面の光がチカチカと瞬く。ナイフではない。《空間断ち》の術式だ。
 「やっぱり、縫う側か」
 俺は《補助》の手を早める。格子の交点に《緩衝(バッファ)糸》を落とし、切断の衝撃を吸収する膜を張る。見えない刃がそこへ触れるたび、淡い水紋が広がって消えた。
 「連れていく」
 左の狩人が一歩。足首までの歩幅で、距離を詰める。右手の掌がこちらに向くたび、空気がへこむ。圧が寄る。俺は《偏重(モーメント)糸》を滑り込ませ、寄った圧を横に逃がす。見えない拳風が干し草の山を崩し、藁屑が舞った。
 ユナが足元を蹴るように杖を振る。「いまだ!」
 俺は合図と同時に《導風糸》の流路を切り替え、広場の右から左へ強い気流を作る。ユナの風術がそこへ乗り、狩人の外套を大きくはためかせた。フードがめくれ、砂色の目が一瞬だけ眩しげに細められる。視界の乱れ。そこへ――。
 「《張式・斜交網》」(ダイアゴナル・ネット)
 俺は斜めに走る糸を三重に交差させ、狩人の膝から腰へかけての動線を束ねる。網は捕らえず、誘導する。わずかな段差を膨らませ、重心をずらし、転ばせるのではなく「踏み替えざるを得ない場所」を作る。
 狩人は転ばなかった。だが、膝が半歩遅れる。その遅れを、ユナの風が叩く。短杖の先から、圧縮した空気の杭が打ち出され、狩人の胸を穿つ直前――空間がくるりと裏返り、杭は別の方角へ跳ねた。

裏返したのは真ん中の狩人。掌で空を裏表に撚り、進路をずらす。 俺は舌打ちを飲み込み、糸の層を一段深くする。《副経糸(サブ・ワープ)》を地下に通し、地盤の微振動を拾って狩人の踏み替えの癖を読む。左は踵から、真ん中は母趾球から、右はつま先を残す――よし。
 「ユナ、右に跳ぶ癖」
 「了解」
 ユナが地を滑るように回り込み、右の狩人の逃げ道を風の壁で塞ぐ。俺はその壁の縁を《吸い糸》で曖昧にし、壁と見せかけた穴にする。狩人が半身を預けた瞬間、足場が抜けたような錯覚に陥り、膝が落ちる。そこへユナの杖が肩口を叩き、外套の中の金具が鈍い音を立てた。
 「一人、止めた」
 ユナが息を吐く。右の狩人は肩を抑え、動きが鈍る。それでも致命傷は避けた。村で血を流すのは最終手段だ。
 残る二人は、距離を取った。真ん中の狩人の唇が薄く歪む。「《補助》で戦うのか。珍しい」
「雑用は、段取りで勝つんだ」
 挑発ではない。ただの事実。だがその事実が、彼らの眉間にわずかな皺を刻んだ。彼らはきっと、圧倒で物事を終わらせる術に慣れている。段取りに負ける経験は少ない。
 真ん中が指を鳴らすと、空の色が一段階暗くなった。雲ではない。
《光量調整》。広場の光が奪われ、影が濃くなる。濃い影は、切断の刃となる。地面に落ちた囲炉裏の鉄輪が、音もなく二つに割れた。
 「ユナ、影の濃度を下げる」
 「できる」
 ユナが歌うように風を呼び、広場全体に微細な乱流を生み出す。影の輪郭が揺れ、刃の連続性が崩れた。俺はそこへ《縫止め糸(タック)》を落とし、揺らぎを固定する。刃は刃でなくなり、ただの暗がりに変わる。
 「鬱陶しい」
 左の狩人が低く吐いた。
 俺は、あえて一歩前に出た。狩人たちの視線が俺を中心に寄る。その瞬間、広場の格子のいくつかを切り離し、彼らの足元から《起倒》の力を立ち上げる。外から押すのではない。足の中から、立ち上がる力を少しだけ狂わせる。人は自分の体内の段取りの破綻に弱い。
 左の狩人の膝が折れ、真ん中が腕を振るった。空間が二度、めくれた。俺の胸が冷たくなる。二重の《裏返し》。慣性が反転し、俺の踏み込みが逆方向へ引かれ――
 「《復位(リセット)糸》」
 予め自分の腰骨と踵に結んでおいた復位の糸を引き、内側の基準点を引き戻す。空間がどれだけ撚れても、身体の「中」の段取りは守れる。俺は滑るように体勢を戻し、針の腹で真ん中の手首を打った。打つといっても、実際に触れてはいない。手首と空気の間の「間」を薄く整え、腱の動きを一瞬止めたのだ。真ん中の指が止まる。指が鳴らない。術が遅れる。
 ユナの風杭が、今度は正しく胸板にめり込んだ。真ん中が大きく息を吐き、膝をつく。
 左の狩人だけが残る。彼は目を細め、俺とユナを見比べ、それから笑った。「退く」
 その笑みには余裕があった。退くというより、目的を果たした者の顔だ。
 「目的は俺を連れ去ることじゃないのか」
 「いや。お前の《糸》の匂いを嗅ぎ、印を付けることだ」
 左の狩人は外套の内側から、黒い薄紙を取り出した。紙には目に見えないはずの印が浮かび、次の瞬間には消えた。だが俺の「手」には、その消えたはずの印の感触が残る。糸に反応する符――。
 「追跡符か」
 「これで《上》が動く。俺たちの仕事はここまで」
 逃がすわけにはいかない。俺は《張式》をもう一段階上げ、広場の格子全体を《収縮》させた。網の目が一気に密になり、左の狩人の足首を絡め取る。彼は躊躇なく外套を切り落とし、素早く後退した。網は外套を締め上げ、布は粒子になって砕け、消えた。外套にも同じ《空間断ち》の織りが入っていたのだ。
 「上、とは?」
 問いは届かない。彼は自分の胸元を軽く叩き、そこに縫い込まれた小さな徽(しるし)を見せた。黒曜石の縁飾りの中心、八弁の花に似た形。
しかし花弁は矢じりで、中心は針孔。
 ユナが小さく息を呑む。「《黒紡会(こくぼうかい)》……」
 「知ってるのか」
 「糸と針の古いギルド。王都の登録から外れ、神前の誓約も捨てた。縫う者を“資源”扱いする連中」
 左の狩人は肩を竦め、踵を返した。足元の影が一瞬だけ深くなり、その中に身体が沈む。逃走用の簡易門だ。俺は《縫止め》を投げたが、門縁の織りは俺の糸を弾いた。逃げられた。
 残った二人は気絶していた。縄をかける間、広場の上空を、薄く震える気配が往復した。見えない鳥が、糸の上を試し歩きするように。符の印を辿る「上の目」かもしれない。
 「一旦、屋内へ。補助の網は残すけど、表の目印は全部消す」 「わかった」
 村人たちが散り、ユナが門の周りに結界を張る。俺は広場の格子のうち、目につきやすい節を解き、代わりに地中へ《潜在糸》を潜らせる。見えないが、踏めば反応する安全網。
 村長が深く頭を下げた。「助かった」
 「まだ途中です」
 俺は気絶した狩人の一人の袖口をめくった。刺繍糸で細かく縫い込まれた符が、汗でほつれ、文字の一部が読み取れる。《転写》《儀》《器》――嫌な語だ。人を器にする術。ユナが歯を噛みしめる。
 「《黒紡会》は縫う者を拾っては“織り機”にする。大規模儀式の礎だ(いしずえ)よ。王都では噂だけど、境界地帯では実話だ」
 「俺を狙った理由が、それか」
 「それだけじゃない」
 ユナは窓の外、遠い黒い塔の方角を見た。「昨日、あなたが村の広さ全域を一瞬で“触った”。あれは神域の術に近い。神殿に記録されている《補助》の最大範囲は町ひとつ分が限界――でも、あなたは山一つと言った。なら、あなたの糸は《神鋳(かみい)》。神前で鋳られた道具か、神代の技法を継ぐ者」
 俺は針を見た。柄の古い祈り文字。墓標の上で拾った時、理由のわからない鳥肌が立ったのを覚えている。
 「神、ね」
 遠くで、糸がわずかに鳴った。薄紙の印がどこかで燃やされ、煙が空間の目地へ吸い込まれていくイメージが走る。時間はない。
 「準備する」
 俺は決めた声で言った。「村を“畳む”」
 ユナが目を丸くする。「畳む?」
「生活はそのままに、構造を畳む。道、畑、家、井戸、鍛冶場―― 全部を《縮地縫い》で最短連結し、外からは“迷う”村にする。目的地だけが遠ざかる構造だ。追う者は歩くほど元の場所に戻る」
 ユナの目が輝いた。「いける?」
 「いける。段取りは重いが、村が協力してくれれば一晩で仮構築くらいは」
 「協力するとも!」
 村長が即座に言い、若者たちが頷いた。年寄りも、子どもも、藁縄を運び、杭を打つ。俺は中心点を広場の井戸に置き、四方へ基準糸を伸ばした。
 夕焼けが藁屋根を赤く染める。俺は《畳縫い》の基本手順を呼吸と同期させ、一つ一つの交点に「暮らしの重さ」を結び付ける。重さは数ではなく、人の手の跡、鍋底の煤、子どもの笑い声。そういうものを媒にすると、縫いは強くなる。ユナが風の層を重ね、香と音を導く。香りは人の道標だ。
 日が落ちるころ、村は一枚の見えない織物になっていた。外から見れば普通の地形。だが一歩入れば、足はやわらかく方向を誤り、追跡符の「線」は曲げられる。
 完成の合図を出そうとしたとき、空が低く鳴った。地平の向こう、黒い塔の上に、線のような雷が走る。雷は音を立てず、ただ世界の目地を焼く光だけを残した。
 「来る」
 ユナが囁いた。俺の糸が、塔の方角から伸びる別の巨大な糸に触れ、きしむ。こちらへ向かう、太い縫いの気配。人の手ではない。
ギルドの「上」――そのさらに上。
 「神官級?」
 ユナが自分の胸元の護符を確かめる。俺は針を握る。
 「段取りを上げる」 俺は井戸の縁に針を立て、静かに宣言した。「《全域補(オールレンジ)助》―― 村規模、展開」
 風が、一瞬止まった。次の瞬間、村中の戸が微かに鳴り、鍛冶場の鎚が震え、畑の麦の穂が揃って首を垂れた。糸は家々の梁を渡り、道を跨ぎ、井戸の深みへ降り、鉱の火の層を撫で、山肌の苔の呼吸と結び合う。村が、ひとつの身体になる。
 俺の声は、もう囁く必要がなかった。糸が村に“声”を配ったからだ。「――みんな、静かにしていて。来客だ」
 夜の始まりと同時に、門の外に“それ”は現れた。人の形に似ているが、関節の角度が逆で、歩幅が一定だ。外套は白、胸の徽は黒。
八弁の花の周りに、光の糸がゆっくり回っている。
 ユナが息を飲む。「《使徒(アポスル)機》……機械の神官」
 俺は針を握り直し、村の織物の端を軽く引いた。井戸水の温度が上がり、鍛冶場の火が自ずと強くなり、家々の屋根が一枚の盾の角度に変わる。段取りは整った。
 「いらっしゃい」
 俺は門前へ歩み出た。使徒機の視線――いや、センサーが俺に向く。胸の徽が微かに回転を速め、俺の糸の周波数に合わせて侵入を試みる。甘い。ここはもう、雑用係の職場じゃない。俺の現場だ。
 「この村は、俺の作業場だ」
 針先が、夜気に小さく光った。

第4話 村を畳む夜
 空を渡る稲光は、星々を押しのけるほど鋭かった。雷鳴は届かない。音を持たぬ光は、ただ空間の縫い目を焦がしていく。俺の《糸》が微かにきしみ、指先がしびれた。
 「来るぞ」
 ユナの声は震えていたが、決して怯えてはいなかった。彼女もまた、村を護る覚悟を決めている。
 ◇
 村を《畳む》作業は続いていた。
 俺は井戸を中心に放射状の糸を走らせ、それぞれの家、畑、倉を結んでいく。結び目ごとに村人が立ち、縄を握り、杭を打ち、呼吸を合わせて「重さ」を与える。
 《畳縫い》は単なる幻術ではない。暮らしの痕跡そのものを糸に縫い込み、外部からの追跡や侵入を“迷い”へ変える技法だ。
 村人が薪を運ぶ音、鍋をかき混ぜる匂い、子どもの笑い声――それら全部が糸の強度になる。
 「本当にこれで、村が隠れるのか?」
 若者の一人が額の汗を拭いながら問う。
 「隠すんじゃない。畳むんだ」
 俺は答える。
 「外からは普通に見える。でも歩けば歩くほど、同じ場所に戻る。
辿り着けない。……それが俺のやり方だ」 村人たちは頷き、再び手を動かした。
 ◇
 だが、その時だった。
 門の外に、白い影が立った。関節の逆な人影――《使徒機》。
 「人の形を真似ているのに、歩き方が均一すぎる……」
 ユナが息を呑む。
 俺の糸が触れた瞬間、理解した。あれは生身ではない。祈りと機械を掛け合わせ、命令だけで動く“神官機”だ。
 「《黒紡会》の本命か」
 俺は針を握る。
 使徒機は無言のまま一歩踏み出した。大地の糸がざわつく。存在そのものが縫い目を汚している。
 「ユナ、風の層を二重に。村人は全員家の中へ!」
 「了解!」
 短杖が鳴り、空気が厚みを持った。
 俺は《全域補助》を展開する。村全体を一枚の織物に見立て、畑の根、井戸の水脈、屋根の梁までを一本の糸で束ねた。
 村が俺の体になり、俺が村の神経になった。
 ◇
 使徒機の胸の徽が回転を速める。八弁の矢じり花が光を放ち、空気を裂いた。見えない圧が糸を断とうと迫る。
 「……強い」
 俺は即座に《緩衝糸》を張り巡らせ、力を分散させる。だが圧は止まらない。村の家々が軋み、窓が割れ、井戸水が跳ねた。
 「リオ!」
 ユナの声に応え、俺は新たな糸を紡ぐ。《代替経路》――圧を村の周囲に流し、森の奥へ逸らす。木々が爆ぜる音が轟き、鳥が一斉に飛び立った。
 「次は、こちらからだ」
 俺は《張式・連鎖網》を展開。村の家々を結ぶ糸をねじり合わせ、巨大な網として使徒機へ叩きつける。
 白い外套が絡め取られ、一瞬動きが止まった。だがすぐに徽が輝き、糸は焼き切られる。焦げた匂いが夜に漂う。
 「効かないのか……!」
 「まだ!」
 ユナが風杭を打ち込む。使徒機は片腕を失いながらも、平然と立ち続けた。
 ◇
 その瞬間、俺の中で直感が閃いた。
 ――あれは“本体”じゃない。糸に触れた感覚が薄い。偽物だ。
 「ユナ、あれは囮だ。本命は――」
 言いかけたとき、井戸の底から不気味な音が響いた。水が逆巻き、黒い糸が数本、地上へと伸びてくる。
 「……下か」
 俺は針を井戸へ突き立てた。《封縫い》を発動。黒糸を縫い止める。
 だが黒糸は俺の補助糸を食い破り、逆に絡みついてくる。まるで飢えた獣のように。
 「これは……《捕縫(とりぬい)》だ」
 ユナの声が震える。「縫う者を縛り、力を吸い尽くす術!」
 俺の腕に重みがかかる。糸が引かれ、視界が暗くなりかけた。
 「リオ!」
 ユナが必死に風で黒糸を裂こうとする。だが切っても切っても、井戸から無限に湧き出してくる。
 ――ここで負ければ、村は飲まれる。
 俺は奥歯を噛み、最後の手を打った。
 《全域補助》の糸を一度すべて解き、村の織物を畳み直す。村人の暮らしの重さを束ねて、一点へ集中させる。
 「ここが、俺の現場だ……!」
 針を深く突き立てると、井戸水が光に変わった。村全体の“重さ ”が一点に凝縮し、黒糸を押し返す。轟音と共に井戸が裂け、白い蒸気が噴き上がった。
 黒糸は悲鳴のような音を残し、煙となって消えた。残された使徒機は糸を失い、空虚な殻となって倒れ込む。
 ◇
 静寂。
 村人たちが家々から顔を出す。子どもが泣き、母親が抱きしめる。
鍛冶場の若者が拳を握りしめる。
 「勝ったのか……?」 「いや」俺は答える。
 「これは始まりにすぎない。《黒紡会》は俺を“資源”として狙っている。必ず次が来る」
 ユナが短杖を杖にして立ち、俺の隣に並んだ。
 「なら、私も一緒に戦う。村も協力する。あなた一人に背負わせない」
 「……ありがとう」
 夜空を見上げると、稲光は消えていた。だが俺の糸はまだ震えている。
 遠くの塔から、次の“縫い手”がこちらを見ている気配。
 追放された雑用係は、村を守る盾となった。
 だが戦いは、まだ序章にすぎない。

第5話 再縫、灯をともす朝
 夜が明けると、村中が細い筋肉痛のような沈黙に包まれていた。《畳縫い》を一晩でやりきったのだ。家々の梁はわずかに鳴り、井戸の縁石は新しい重さを得たように落ち着いている。鍛冶場の煙突からは細い煙が上がり、麦畑の露は、糸に導かれて畝の低い方へ素直に集まっていく。
 「生きてるな」
 自分でも驚くほど、素っ気ない声が口から出た。村が“身体”だった時間の余韻が残っている。寝不足のくせに頭は妙に冴えて、世界の目地がいつもより近く見えた。
 「おはよう、リオ」
 ユナが湯気の立つ木椀を差し出してくる。塩気の強い粥に刻んだ野草が浮かび、香が優しい。
 「井戸の水、さっきまで湯みたいに温かったよ。あなたが集中させた“重さ”が、まだ余熱になってる」
 「昼までには抜ける。抜けたら井戸の内壁を縫い直す。昨夜の《捕縫》の爪痕が残ってる」
 「手伝う」
 粥をすすり終えるより早く、村の一日が動き出した。男たちは畝を見回り、女たちは裂けた窓紙を張り替える。子どもたちは……俺の後ろにくっついた。朝の光に目を細めて、俺の針の動きを、息を止めるみたいな顔で見ている。
 「字を、教えて」 昨日助けた少年――ルオが、おずおずと手を上げた。手首の傷は、糸の《循環》が効いてうっすら桃色だ。
 「文字?」
 「ユナ姉ちゃんが言った。リオは何でも“段取り”から教えるって。ぼく、字が読めれば、村の印を間違えないで運べる」
 ユナが肩をすくめた。「昨日、井戸端で言っただけだよ。村の重さを文字で縫えたら、もっと強いって」
 「……いいな」
 俺は思わず笑った。「じゃあ“学校”だ。読み書きと、織りと、鍛冶と、畑。段取りの授業」
 広場の端、日当たりのいい壁の前に板を立て、煤で大きな円を描く。円の中心に小さく井戸、四方に道。簡単な村の図だ。
 「文字は《結び目》だ。音や形や重さを結ぶ結び目。ほどけないように、順番に覚える」
 子どもたちが頷き、石炭で真似する。ユナは少し後ろで腕を組み、目尻に笑い皺を寄せていた。
 授業の最中、門の方で物音がした。見張りの若者が駆けてくる。
 「旅人! ひとりです!」
 ユナと目を合わせる。俺は針を袖に隠し、子どもたちを家の方へ寄せる合図を出した。
 門に現れたのは、茶色のローブをまとった女だった。肩で切り揃えた黒髪、片目に浅い傷の跡。腰には革袋、手には杖ではなく、薄い板の束――羊皮紙を束ねたものだ。
 「神殿の者か」
 ユナが警戒して言うと、女はローブの内側から古い紋章を出した。白地に銀の針と糸――神殿書記の印。
 「元、だよ」女は乾いた笑いを漏らす。「名前はシアラ。王都の神殿で《織り文》(オリブミ)を管理していた。追われてる。……道中、黒い外套の連中を何組も見た」
 《黒紡会》のことだ。俺はローブの裾の縫い目に目をやる。旅慣れ、だが昨夜の雨の染みはない。畳んだ道を、迷いなく来られたのか。
 「この村へたどり着けたの、変だと思わない?」
 ユナが小声で問う。俺は頷く。「《畳縫い》にかかった外からの道は輪になる。普通は辿り着けない」
 シアラは、こちらの囁きを聞いてか聞かずか、ふらつく足で広場まで来ると、膝をついた。「水を少し」
 木椀に汲んだ井戸水を渡す。彼女は一息に飲み、息を整えた。「
……あなたが、糸を巻く人ね」
 「旅の雑用係だ」
 「雑用係が《神鋳》の針を、墓標から拾うものかしら」
 視線が俺の袖をひと撫でし、そこで止まる。袖越しの針が、見られている気配に微かに鳴いた。
 ユナが間に入る。「用件を」
 「逃げてきた。ただ、それだけじゃない」シアラは羊皮紙の束を開く。びっしりと細い文字、そして細密な図。糸の織り、針の目、結びの式。
 「王都の大聖堂の地下。封印庫の奥――《黒紡会》が数年前から
出入りしてた。名目は古織物の修復。でも実際は《織り機(ルーム)》の復元」
 「織り機?」
 「人を枠にして、神前の術式を動かす機械のこと。儀式の中核。
古文書には“百人を縫い付けよ”ってあった。糸は血で、油は涙で」
 ルオが小さく息を呑んだ。俺は彼の肩をそっと押して家の陰へ戻す。シアラは続ける。
 「昨夜、王都から使徒が動いたって鳥便で回ってきた。あなたたちの村で、囮と罠が失敗したことも、今朝には知られてる。次は― ―《収穫期》」
 「なにそれ」
 「畳まれた村を、丸ごと“刈る”術よ。畳んであるから、余計にね。布を一枚引き抜くみたいに簡単になる。畳縫いは守りにもなるけど、“収穫”の条件を満たす形にもなるの」
 ユナの顔色が変わった。「そんな……」
 「止める方法は?」
 俺の声は落ち着いていた。怖いほどに。
 「二つ。ひとつは畳みを解く。村を通常の地形に戻す。そうすれば“収穫”の効率は落ちる。でも追手は来る」
 「もうひとつは?」
 「畳んだまま、畳みを“裏返す”。《返縫(かえしぬい)》って古いやり方。収穫の鎌が入ってきた瞬間、逆に持ち主の手首に糸を絡めて引き込む。
相手が大勢だと危険。でも成功すれば、向こう側の“手”を切り落とせる」
 ユナの視線が俺を探る。「できる?」
 できなくはない。だが失敗したとき、村にかかる負荷は昨夜の比ではない。大人が数人、立っていられないほどの反動が一斉に来るだろう。
 「やるなら、段取りが要る」
 俺は広場に簡単な図を描いた。井戸を中心に、四隅に《返し》の楔(くさび)。楔ごとに一人“繋ぎ手”が必要で、呼吸を合わせて糸を引く。
ユナが風で外圧を削ぎ、シアラが式文で節を固定する。
 「私もやる」
 シアラはためらわない。「神殿で字だけ書いてた罪滅ぼし。動かない手に、動いてもらう」
 図を描きながら、別の糸が指先を撫でた。遠い峠の方角――あの日、俺が一度だけ霧を裂いた場所。そこに、弱々しく、よく知った周波数が引っ掛かる。レオンたちの隊の《目印糸》。
 ユナが眉根を寄せた。「知り合い?」
 「峠で一度助けた。勇者隊だ」
 「……どうするの」
 どうもしない、という選択肢は簡単だ。だが峠が破れ、あいつらが村に雪崩れ込めば、段取りは崩れる。救うことが恩返しではなく、段取りの維持になるなら――。
 「最短で抜ける“溝”だけ作る」
 俺は針を軽く弾き、遠隔で山肌の糸を一本撫でた。霧が一筋だけ裂け、石の出っ張りの角度が変わる。そこを見つけられるかどうかは、向こうの“段取り”次第だ。甘やかしすぎない。けれど無駄に殺さない。
 「見逃すんだ」
 ユナはそれ以上、何も言わなかった。ただ、胸の前で短杖を握りしめる手に力がこもる。
 準備に入る。村長が楔の場所へ人を配し、若者が縄と杭を運ぶ。子どもたちは家の中で、俺が書いた簡単な祈り文を唱える練習をする。音の“重さ”もまた、糸の強度になる。
 「シアラ、式文の“節”はどうする」
 「古語のままは危ういから、音だけ借りる。村の言葉で書き換える」
 紙の上で文字が走る。神殿書記の手は、迷いがない。彼女は俺の描いた糸の節目を見て、必要な言葉を短く置いていく。言葉の重さを知っている手だ。
 夕刻、空の色が冷え、黒い塔の上に細い閃光が立った。昨日と同じ、音のない稲光。今度は三筋。一筋は村へ、二筋は谷の奥へ。
 「来る」 ユナが風の層を三重に重ね、俺は楔の糸を張る。シアラが式文の最後の一字を置いた。
 「――返すよ」
 俺は息を吸い、村の“呼吸”に合わせて吐く。まず井戸の糸を半歩緩め、《収穫》の鎌を誘う。見えない刃が畳みの布へ触れる瞬間を、指先で待つ。刃は布を舐め、音もなく滑り――触れた。
 「いまだ」
 俺は四隅の楔を同時に引く。《返縫》の糸が裏側から表へ跳ね上がり、刃の柄に絡む。刃は抵抗し、背後の《手》が引く。こちらも引く。綱引き。だが俺には村の重さがある。鍋の煤、針の錆、子どもの笑い。向こうには、命令と機械の均一な重み。
 勝てる。
 「――ッ!」
 胸の奥が焼けた。柄の向こうにある《手》は、人ではない。均一のさらに向こう、空虚な中心に結ばれた巨大な“束”。糸の束が、俺の糸を食う。昨夜の黒糸の親玉。《織り機》そのものか、それに近いもの。
 「ユナ!」
 「削る!」
 風が唸りを上げ、刃の輪郭を削る。シアラの声が節を叩き、言葉の楔が刃の付け根に刺さる。俺は《復位》の糸を踵に結び直し、村の四隅に重さを再配分――
 「――返れっ」
 針を井戸に叩きつけた瞬間、世界が裏返った。井戸の水が空へ落ち、屋根が地平に滑り、藁が星をかすめる。反動で膝が抜け、楔の一つが悲鳴を上げた。村の老人が踏ん張り、若者が二人、代わりに縫い手に入る。息が合う。糸が鳴く。
 「切れ!」
 最後の一押しで、柄の向こうの《手》が弾けた。刃は持ち主を失い、こちら側に転がり込む。見えない金属音が広場に弾け、夜空の稲光が三筋とも消えた。
 沈黙。耳の奥に、自分の心臓の音だけが残る。
 「成功……した?」
 ユナが息を切らし、杖を支えにして屈む。シアラは膝をつき、両手で胸を押さえていた。「手首を落とした。向こう、しばらくは“ 掴めない”」
「けど、こっちは腕が震えてる」
 俺は笑い、地面に手をついた。ほんの少し笑いすぎたせいで、涙がひと粒、土に落ちた。恥ずかしいほどの解放感と、遅れてきた恐怖が混ざっている。
 村が、息を吹き返した。窓が開き、子どもたちが「うた」をやめて「わー」という声に変える。村長が井戸に触れ、温度を確かめ、頷く。
 「生き延びた!」
 その時、広場の端で、柔らかい光が生まれた。糸が集まる節の上に、小さな白い獣が丸くなっている。子犬ほどの大きさ、しっぽは糸束みたいにふわふわと揺れ、瞳は透き通る青。
 ユナが目を丸くする。「神獣……?」
 白い獣は俺を見て、首を傾げた。次に、俺の針の柄に小さく鼻先を触れる。柄の古い祈り文字がかすかに光り、獣の首もとに細い首飾りのような光の輪が現れる。
 「“主と縫い結ぶ”」
 シアラが囁いた。「神殿の記録で読んだことがある。神獣は、ときどき《神鋳》の道具と“結ぶ”。それは契約じゃなく、“継ぎ”」 白い獣は「くぅ」と鳴き、俺の足元で丸くなった。糸の震えが、
少し穏やかになる。針の“向こう側”にあった冷たさが、柔らいだ。
 「名前、つけていい?」
 広場の陰からルオが顔を出す。さっきまで震えていたのに、今は目がきらきらしている。
 「……うん」
 「じゃあ、“しらたま”」
 白い獣――しらたまは、満足そうに尻尾を一度だけ振った。
 笑い声の輪が広がっていく。ユナが小声で言う。「このタイミングで神獣。神殿は黙ってない」
 「《黒紡会》も、だ」
 シアラが顔を上げた。「でも、いま《返縫》で“手首”を落とした。向こうは混乱してる。数日は猶予がある。その間に、王都へ知らせを送って、神殿の中の真っ当な人間を動かす」
 「動く人間が、残ってるか」
 「残ってる。……そう信じたい」
 シアラの視線は強かった。書記の眼。文字で戦ってきた人間の眼。
 「知らせは俺の糸で送る。山の郵便小屋までは一跳びだ」
 俺は針を構え、空へ細い糸を投げた。糸は《畳縫い》の縁をすり抜け、峠の上空を渡り、山背の向こうの小屋の鈴にそっと触れる。鈴が一度だけ鳴り、眠っていた伝令鳥が目を開けた気配がした。シアラが書いた短い文を糸に結び、そのまま鈴へ流す。文字は音になり、音は方向を得て飛ぶ。段取りは、道になる。
 陽が傾き、藁屋根が金色になる。今日だけで、いろんなことが起きすぎた。だが村は立っている。井戸は水をくみ上げ、鍛冶場は火を吐き、畑は風を受けて波打つ。子どもたちは板の前に戻り、円の中に新しく“小さな白い丸”を描き足した。
 「しらたまの家」
 ルオが照れ臭そうに笑う。俺は頷き、円の端にもうひとつ、小さく印をつけた。
 「“学校”」
 夜。囲炉裏の火に手をかざしながら、ユナがぽつりと言った。
 「追放された雑用係が、村を守って、学校を作って、神獣と縫い結ぶなんて――物語みたい」
 「物語は、段取りが九割だ」
 「じゃあ、この先の段取りは?」
 火のはぜる音の間で、しらたまが薄く鳴く。俺は火に針先をかざし、柄の祈り文字の擦り減った部分を指で撫でた。
 「王都から“真っ当”を引き寄せる。黒紡会の“織り機”を潰す。
村の畳縫いは維持しつつ、収穫の逆手に取り続ける。商人の道を細く繋ぎ、鍛冶を増やす。畑の水路を明日、一本引き直す」
 「忙しいね」
 「雑用係だから」
 ユナが笑って、湯飲みを差し出す。「じゃあ、雑用係長」
 「役職が勝手に上がった」
 「上げたのは村。あなたはもう、ここで“要らない”って言われないよ」
 火が小さく爆ぜ、囲炉裏の上で湯が一度だけ大きく揺れた。俺は湯飲みを受け取り、熱い湯を一口、喉に通す。胸の中の冷えは、もうどこにもなかった。
 遠く、黒い塔の周囲で異様な気配がわだかまっている。切り落とされた“手首”の場所が血に濡れ、誰かがそれを拾うために近づいている。物語の次の頁が、風にめくられる音がした。
 けれどその風は、もう冷たくない。しらたまが足首に頬をすり寄せる。ユナの笑い声が低く響く。シアラの筆の音が隣の部屋で続く。
 段取りは、揃っている。

第6話 黒い塔からの呼び声
 翌朝の村は、奇妙な静けさに包まれていた。昨日の《返縫》で切り落とした“手首”の余波がまだ残っているのだろう。空気が少し澱んで、音の届き方が鈍い。鳥の声も遠くにしか聞こえない。
 「村が呼吸をしてないみたいだな」
 井戸の縁に腰をかけ、俺はそうつぶやいた。指先に絡ませた糸は、普段なら小川の流れのように穏やかだが、今日はざわつきが強い。
 「返した衝撃は、向こうだけじゃなく、こっちにも残ってる」
 ユナが風を読んで言う。「だから、今日は静かなんだと思う」
 広場の真ん中では、子どもたちが板に文字を書いている。昨日始めた“学校”の続きだ。ルオが「しらたま」と大きく書き、白い獣が得意げに尻尾を振ると、子どもたちの笑い声が響いた。村の重さが少し和らぐ。
 ◇
 昼過ぎ、シアラが羊皮紙を抱えて駆けてきた。
 「鳥便から返答が来た!」
 広げられた紙には、王都の印章が押されている。しかし内容は短く、冷たい。
 《報告感謝。黒紡会の件は確認中。村の守りは各自に任せる》
 「……それだけ?」
 ユナの声は怒りを含んでいた。
 「王都は本気で動く気がない」シアラは肩を落とした。「神殿の中も、もう黒紡会に食われてるのかもしれない」
 俺は紙を丸め、糸で結び、火にくべた。白い煙が昇り、すぐに風に散る。
 「なら、俺たちで段取りを作るしかない」
 ◇
 その夜、俺は夢を見た。
 黒い塔の頂に、巨大な織り機がそびえている。人の姿をした糸が無数に縫い込まれ、うめき声を上げていた。塔の奥から低い声が響く。
 《雑用の糸。お前は戻れ。墓標に眠るはずの針を返せ》
 声に呼応するように、俺の針が熱を帯びた。しらたまが枕元で低く唸り、針の光を抑え込む。
 「俺は……もう戻らない」
 夢の中でそう答えると、塔の影が裂け、無数の黒い糸が俺に伸びてきた。
 ――目が覚めたとき、指先に細い切り傷が走っていた。
 ◇
 翌朝。ユナとシアラに夢のことを話すと、二人は顔を見合わせた。
 「呼ばれてる」ユナが言う。 「黒紡会は、あなたを“織り機”の核にしたいんだ」シアラが続ける。「だから夢に糸を送り込んだ。普通は受け取れないけど…… あなたは《神鋳》だから」
 俺は針を見つめた。柄の文字がうっすらと赤く光っている。
 「呼ばれたなら、逆に近づける」
 「行くつもり?」ユナの声に驚きが混じる。
 「いずれ村ごと刈られるなら、先に段取りを仕掛けるしかない」
 沈黙。やがてユナが息を吐いた。「なら、私も行く」
 「わたしも」シアラが羊皮紙を抱き締める。「神殿の裏切りを、記録として残す」
 しらたまが尻尾で俺の手首を軽く叩いた。まるで「俺もだ」と言うように。
 ◇
 夕暮れ。村の広場に人が集まる。村長が前に立ち、深く頭を下げた。
 「リオ。お前が来てから、この村は変わった。鍬も、畑も、子どもたちも。だから……必ず戻ってこい」
 「戻るさ。雑用は、途中で投げ出さない」
 村人たちの声が重なり、夜風に乗って広場を包む。その“重さ” を背に受けながら、俺は針を握りしめた。
 黒い塔へ。
 追放された雑用係が、今度は自分の段取りで物語を縫うために。

第7話 峠を越えて
 夜明け前、村の門は静かに開かれた。
 俺とユナ、シアラ、そしてしらたま。小さな一行だが、背中には村の声と重さが宿っている。
 「峠を越えれば王都への道が開ける。でも黒紡会の目も強い」
 シアラが地図を広げる。羊皮紙に描かれた線は何度も書き直されていて、手垢で黒ずんでいる。
 「だからこそ《補助》で切り拓く」
 俺は針を弾いた。糸が宙に伸び、まだ薄暗い森の中で光の筋を描く。
 ◇
 峠道は、霧が濃かった。
 昨日の返縫の余波がまだ漂っているのか、道そのものがねじれ、足跡がすぐに見えなくなる。
 「これじゃ普通の旅人は一歩も進めないな」
 ユナが杖で地面を叩く。石が浮き、まるで水面の波のように揺れた。
 「縫い目がほどけかけてる。だが、それなら繋ぎ直せばいい」
 俺は針を刺し、糸を走らせる。霧が割れ、石畳の道が浮かび上がった。
 「さすが雑用係長」ユナがにやりと笑う。
 「勝手に昇格させたのはお前だ」 くだらないやり取りに、少し緊張が解けた。
 ◇
 峠の半ばで、見覚えのある旗が立っていた。
 ――勇者隊。
 焚き火の残り火のそばに、鎧を脱いだレオンが座っている。ミレイは疲れ切った顔で祈りを捧げ、ガロは剣を研ぎ、アリスは目を閉じて休んでいた。
 「リオ……!」
 ミレイが最初に俺に気づいた。驚きと安堵が入り混じった声。
 「無事だったんだな」
 レオンが立ち上がる。目の下に隈ができ、以前の自信に満ちた光は薄れている。
 「お前たち、どうしてここに?」
 「王都へ向かう。黒紡会を止めるために」
 俺の答えに、アリスが鼻で笑った。
 「雑用係が、か?」
 「……」
 言い返す必要はなかった。俺の足元でしらたまが鳴き、針の柄がかすかに光った。その光だけで十分だ。
 「俺たちも王都へ戻る。魔王城へ進むどころか、峠を越えるのも命がけだ。黒紡会の刺客に追われている」
 レオンの声には疲弊と、かすかな後悔が滲んでいた。
 「なら、しばらく行動を共にするか?」
 俺の提案に、勇者隊の面々は顔を見合わせた。 「必要なら……力を借りる」
 短い沈黙のあと、レオンが頷いた。
 ◇
 峠の夜。焚き火を囲んで、久しぶりにかつての仲間と肩を並べる。
だが空気は昔のようには戻らない。
 「リオ。なぜそこまでして戦う?」
 ガロの問いに、俺は少し考えてから答えた。
 「雑用を投げ出したくないだけだ。村を守る段取りを始めた。だから最後までやる」
 誰も笑わなかった。代わりに、炎の音だけが静かに続いた。
 ◇
 翌朝、峠を越えた先に広がったのは、焼け落ちた村の跡だった。
 家々は炭と化し、井戸は塞がれ、畑は黒い灰に覆われている。
 「黒紡会が……収穫を」
 シアラの声がかすれた。
 しらたまが低く唸り、針が震える。
 俺たちは視線を交わした。ここから先は、もう猶予はない。
 王都を目指す旅が、本格的に始まった。
第8話 灰の村に残る糸
 峠を越えた先に広がる焼け跡は、言葉を失わせる光景だった。
 炭と化した柱が風にきしみ、地面はまだ赤黒く燻っている。畑の跡は灰の海で、井戸は黒い石を詰め込まれ、口を閉ざしていた。
 「遅かった……」
 シアラが膝をつき、灰を掴んだ。その掌からさらさらと崩れ落ちる粒は、ただの灰ではない。糸のように細く絡み、触れた指に絡みついて離れない。
 「《収穫》の後……“人”が燃やされて糸にされた」
 ユナが顔をしかめ、短杖を握り締める。「ひどい……」
 俺は針を取り出し、灰に糸を走らせた。すると、見えない残響が広がる。悲鳴、祈り、途切れた言葉。村全体の暮らしが、最後の瞬間で布を裂かれたように消えた痕跡。
 「黒紡会は、ここを“織り機”の材料にしたんだ」
 声に力が入る。胸の奥で怒りが糸を震わせる。
 ◇
 勇者隊の面々も沈黙していた。
 「魔王よりも……人間の方が恐ろしいことをするのか」
 レオンが吐き捨てるように言った。剣の柄を握る手は、血が滲むほど強く。
 「昨日の俺たちなら“信じない”って言い張っただろう。でも今は……」 ミレイが唇を噛む。「祈りを捧げるべき場所すら、灰にされている」
 アリスは黙ったまま、黒焦げの本を拾い上げた。焼け残った数枚のページに、奇妙な紋様が残っている。
 「見ろ、これ」
 紙の縁に縫い込まれた符が、まだかすかに熱を持っていた。
 「《転写式》だ。焼かれた命を向こうへ移すための……」
 俺は針を差し込み、符の残滓を引き抜いた。指先に黒い痺れが走り、しらたまが鋭く吠える。
 「まだ繋がってる。塔の“織り機”に直結だ」
 ◇
 灰の村を抜けた先に、小さな祠が残っていた。屋根は半壊していたが、中の石像だけは崩れていない。
 「神獣の祠……?」
 ユナが囁く。石像は狐にも犬にも似て、首元には輪を刻んだ模様。
しらたまが尻尾を振り、像の足元に丸く座った。
 「ここにも……結ばれた“縫い”があったんだな」
 針を当てると、微かな光が広がり、石像の輪が淡く輝いた。すると、祠の奥から小さな木箱が現れる。
 「何だこれ……」
 箱を開けると、中には古びた羊皮紙。そこには一行だけ文字が刻まれていた。
 《返縫のさらに先、“解縫(ほどきぬい)”を行え》

 シアラが震える声で読む。「解縫……縫われたものを解き放つ術」
 「つまり、《織り機》に縫われた人を、解き放てる?」
 ユナの瞳に希望の光が灯る。
 だが同時に、胸に重さが落ちた。もし失敗すれば、縫われた命は完全に裂ける。戻る場所もなく。
 「どちらにせよ……俺たちがやるしかない」
 針を握る手が震える。だが逃げる気はなかった。
 ◇
 村を後にする前、勇者隊と進む道を決めた。
 「俺たちは王都へ」
 「なら、共に」
 レオンが迷わず言った。昨日までの彼なら、俺を“無能”と切り捨てただろう。でも今は違う。仲間として認められた――そう思いたかった。
 焼け跡に残った灰が風に舞い、遠くの空へ消えていく。俺たちはその灰を背に、塔を目指して歩き出した。
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第9話 王都手前の影
 王都へ続く街道は、かつてならば行商人や巡礼で賑わっていた道だった。けれど今は、車輪の跡すら見えない。風が砂を運び、石畳の隙間に草が伸び放題に生えている。
 「王都がこんなに静かなんて……」
 ユナの声は低く、不安を含んでいた。
 「黒紡会が道を封じたんだろうな」
 俺は糸を走らせ、遠くの地形を探る。だがすぐに指先にざらつきが伝わった。どこかに“縫い目潰し”が仕込まれている。
 「気をつけろ。先で待ち伏せだ」
 ◇
 半刻ほど歩いたところで、それは現れた。
 崩れた橋の上に、三つの影。黒い外套、灰色の縁取り。見覚えのある徽が胸に光る。《黒紡会》の狩人だ。
 「またお前らか……」
 針を構える俺に、真ん中の狩人が笑った。以前峠で逃げた男だ。 「よくも仲間を倒してくれたな。だが今日は違う。俺たちには《器》がある」
 狩人の背後から、鎖に繋がれた人影が引き出された。顔を布で覆われ、両腕は糸で吊られている。体は震えていたが、呼吸はまだある。
 「まさか……人間を?」
 シアラが蒼白になる。
 「そうだ。《器》に縫い込めば、術は倍になる」
 狩人が鎖を引くと、人影の背に刻まれた符が淡く光った。
 「やめろ!」
 ユナが叫び、風の壁を作ろうとする。だがすぐに狩人が指を鳴らし、空間が裏返る。風は逆流し、俺たちの足元に叩きつけられた。
 ◇
 「リオ!」
 しらたまの鳴き声に支えられ、俺は立ち上がる。針を走らせ、地形の目地をつなぐ。
 「《偏重糸》!」
 地面の傾きを操作し、狩人の立ち位置を崩す。だが彼らは即座に影へ飛び退いた。
 「無駄だ。お前の糸は全部、器を通してこっちに流れる」
 鎖に繋がれた人影の符が強く輝き、俺の糸が吸い込まれる。まるで黒い井戸に針ごと飲み込まれる感覚。
 「なら……吸い込ませてやる」
 俺は全域補助を広げ、あえて大量の糸を“器”へ流し込んだ。
 狩人が勝ち誇る笑みを浮かべた瞬間――器の背に縫い込まれた符が破裂する。
 「なっ……!」
 「お前らは知らないだろう。雑用係は、縫い目の“裏側”まで確認するんだよ!」
 符の縫い目は粗かった。吸い込ませすぎれば、耐え切れず崩れる。
それが“段取り”の穴。
 爆ぜた符から光が溢れ、人影を縛っていた糸が解けていく。
 「今だ、ユナ!」
 「《裂風》!」
 ユナの風杭が狩人の外套を裂き、シアラの声が式文を響かせる。
「《封縫》!」
 三人の狩人は糸に絡まれ、橋の上で倒れ込んだ。
 ◇
 鎖から解放された人影の布を外すと、まだ若い青年の顔が現れた。
蒼白で気を失っていたが、呼吸は安定している。
 「黒紡会に……攫われたんだな」
 俺は彼の腕に補助糸を通し、循環を整える。命は繋がった。
 「リオ……やっぱりお前は雑用じゃない」
 レオンが呟くように言った。その顔に、昔にはなかった尊敬の色がわずかに浮かんでいた。
 橋の向こうに、王都の城壁が霞んで見える。黒い塔の影が、その上に覆いかぶさるように聳えていた。
 「次は……本丸だな」
 針を握る手に、力を込めた。
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第10話 王都の裂け目
 街道の先にそびえる王都は、俺の記憶にあるものとはまるで違っていた。
 高く積まれた城壁は黒い煤に覆われ、門には誰の姿もない。見張りの兵の槍が無造作に転がっていて、風に錆の匂いが漂っていた。
 「静かすぎる……」
 ユナが杖を握り、慎重に周囲を探る。
 「人の気配は……確かにある。でも、みんな奥に引き込まれてる」
 俺は糸を走らせた。壁に沿って目地を探ると、そこには数え切れない“縫い目”が張り巡らされている。人の動きではなく、儀式の痕跡。
 「王都そのものが……織り込まれてる」
 声に自分で震えを感じた。
 ◇
 市門をくぐると、街はまるで抜け殻だった。
 市場の屋根は落ち、店先には干からびた野菜が散らばっている。
だが道の真ん中には、薄い糸が格子のように走っていた。
 「踏むな!」
 咄嗟にユナの腕を引いた。糸は見た目ただの蜘蛛の巣だが、実際には《捕縫》。触れた瞬間に縛られる。
 「……罠だらけだ」
 アリスが小声で呟く。「まるで獲物を待つ蜘蛛の腹の中みたい」 勇者隊も顔を強張らせる。ガロは剣を抜いたまま前を睨み、ミレイは祈りを繰り返していた。
 「王都の人々はどこに行ったんだ」
 レオンの声は低く押し殺されている。
 「塔だろうな」俺は答えた。「みんな、織り込まれてる」
 ◇
 奥へ進むほど、街の景色は歪んでいった。
 同じ路地を二度、三度と通る。はずなのに、看板の文字が少しずつ違う。人の気配はなく、けれど窓の奥から微かな呻きが聞こえる。
 「収穫の途中……」
 シアラが羊皮紙に記録を走らせながら言う。「まだ完全には終わってない。だから逆に、解ける可能性がある」
 「やるしかないな」
 俺は針を抜き、糸を一筋、路地の奥へ走らせた。すぐに反応があった。硬い手応え。向こうからも糸が伸びてきて、俺の針に絡む。
 「待っていたぞ、雑用」
 声が響いた。影の中から現れたのは、白銀の外套を纏った人物。
顔は仮面で隠されている。
 「……黒紡会の幹部」ユナが唇を噛む。
 仮面の奥から、笑うような声。
 「王都はすでに織り機の枠となった。だが核がまだ足りぬ。―― お前だ、雑用の糸」 背筋に冷たいものが走る。呼ばれている。墓標から拾ったこの針を、奴らは知っている。
 「断る」
 俺は短く言い、糸を叩きつけた。仮面の幹部も同時に糸を走らせ、街の縫い目が激しく軋む。
 ◇
 戦いは街全体を巻き込んだ。
 俺の糸は屋根瓦を落とし、幹部の糸は路地を裏返す。勇者隊が剣と魔法で隙を作り、ユナの風が流れを制御する。シアラの式文が節を固定し、しらたまが吠えて光を散らす。
 「リオ! 押し返せる!」
 ユナの声に頷き、俺は《返縫》を発動した。街の格子に溜まっていた重さが一斉に逆流し、仮面の幹部の糸を絡め取る。
 「雑用が……この私を……!」
 幹部の声が揺らぎ、仮面に亀裂が走った。
 だが次の瞬間、街全体が震えた。塔の方角から、無数の黒い糸が奔流のように押し寄せてくる。
 「まだ早い! 王都全体が動き出した!」
 シアラが叫ぶ。
 幹部は仮面を割ったまま、影に溶けて消えた。残されたのは、震える街と、俺たちの荒い呼吸だけ。
 ◇
 「黒紡会の本当の狙いは……」
 俺は針を握り直した。塔の頂きに揺れる巨大な糸束が、夜空に不気味な光を放っている。
 「――王都ごと、織り機にすることだ」
 誰も言葉を返せなかった。だが全員の目に、同じ決意が宿っていた。
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次回はいよいよ塔の核心へ。ぜひお付き合いください! 
第11話 塔の門を縫う
 王都の奥にそびえる黒い塔は、近づくほどに異様さを増していった。
 石ではない。布でもない。金属でもない。まるで“縫い目”だけを積み上げたような、不定形の質感。表面は常に震えていて、夜風が触れると低い唸りを返す。
 「ここが……」
 ユナが杖を強く握る。「人を織り込むための織り機そのもの」
 「中に入らなきゃならない」
 俺は針を抜き、門の前に張られた無数の糸を確かめた。触れるだけで指先が痺れる。これが王都中から吸い上げられた“暮らし”の断片だ。泣き声や笑い声、祭りの足音。全部が塔の布に編み込まれている。
 「無理矢理切れば、王都全体が崩れる」
 シアラが顔をしかめる。
 「だから、縫い目をほどく」
 俺は深呼吸して針を構えた。
 ◇
 《解縫》――祠で示された術。
 やり方は、縫われたものを“返す”のではなく、“ほどく”。ただしほどき方を間違えば、編まれた人々の記憶や命は裂けて消える。 「本当にやるのか?」
 レオンが問う。
 「やらなきゃ、誰も戻らない」
 俺の答えに、勇者隊は黙って頷いた。
 針を門に差し込み、糸を一本ずつほどいていく。
 最初は呻き声。次は歌声。最後に、幼子の笑い。
 ほどかれた声は空へ散り、塔の震えが少しだけ弱まった。
 「……まだ続けろ」
 ユナが肩を貸してくれる。俺は汗を流しながら、さらに糸を解き続けた。
 ◇
 突然、塔の中から轟音が響いた。
 「気づかれた!」
 アリスが叫んだ瞬間、門の裂け目から黒い影が滲み出た。
 ――使徒機。
 今まで見たものよりも大きく、鎧武者のような姿。胸の徽は八弁の花ではなく、十二弁に増えている。
 「強化型……!」
 シアラが絶望の声を上げる。
 俺は針を構え、解きかけの糸を一気に繋ぎ直した。《暫定封縫》。
 「ユナ、風で抑えろ! 勇者隊は正面だ!」
 ◇
 戦いは苛烈だった。
 使徒機の剣が振り下ろされるたび、石畳が抉れ、塔の壁が鳴動する。
 ガロが盾で受け、レオンが斬り込み、ミレイが光で回復する。アリスの魔法が火花を散らす。
 「リオ、早く!」
 ユナの叫びに頷き、俺は解縫を再開した。
 針で縫い目をなぞるたび、声が返る。老婆の祈り、農夫の歌、兵士の誓い。
 「みんな……まだ生きてる!」
 だがその分、使徒機も凶暴さを増していく。塔の力を引き出しながら襲いかかる。
 「――ここで終わらせる!」
 俺は針を最後の縫い目に突き立て、糸を一気に引いた。
 ◇
 轟音と共に門の布が裂け、白い光があふれ出した。
 使徒機が悲鳴のような音を上げ、糸がほどけて崩れ落ちる。
 「入れる!」
 シアラが叫ぶ。
 俺たちは門の裂け目を駆け抜けた。
 そこは、果てしなく広い織り機の内部。空中に無数の糸が張り巡らされ、人々の姿が繭のように吊るされていた。 「これが……黒紡会の織り機……!」
 ユナの声が震える。
 塔の奥、糸の中心に仮面の幹部が立っていた。
 「やはり来たな、雑用。お前こそ、最後の“糸”だ」
 ◇
 針を握る手に力がこもる。
 ここでほどけなければ、すべてが終わる。
 「雑用係じゃない。――段取りで、世界を縫い直す!」
 塔の奥へ進む俺の前で、無数の糸が震えた。
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第12話 織り機の心臓
 門を越えた先の空間は、常識を拒むように歪んでいた。
 床も天井もなく、ただ無数の糸が縦横に走り、無数の繭が吊られている。繭の中には人々の影。口を開けて叫んでいるのに、声は聞こえない。ただ糸に吸われている。
 「これが……王都の人たち」
 ユナの目が見開かれる。
 「まだ息がある。完全に織り込まれる前に、解縫で――」
 シアラの言葉を遮るように、奥から重い声が響いた。
 「雑用の糸。やはりここまで来たか」
 仮面の幹部が現れた。
 白銀の外套は糸で編まれ、仮面の奥には光の瞳。両手には縫い針のような長剣を握り、背後の糸と直結している。
 「お前の針こそ、この織り機の最後の欠片。差し出せば王都は完全に織り上がる。拒めば――」
 幹部が長剣を振ると、繭が一斉に揺れた。中の人々の影が痙攣し、呻き声が空気に滲む。
 「やめろ!」
 ユナが風で糸を切ろうとするが、切られた部分はすぐに再生した。
 ◇
 「俺の針は渡さない。渡したら、もう誰も戻れない」
 俺は針を構えた。背中に、勇者隊と仲間の気配を感じる。
 「ならば力ずくで奪うまで」
 幹部が一歩踏み出すと、空間そのものが震えた。
 ◇
 戦いは織り機全体を舞台に始まった。
 幹部の長剣は糸を媒介にして伸縮し、どこからでも襲いかかる。俺は針で受け流し、ユナの風で軌道を逸らす。
 ガロが盾で前を守り、レオンが斬り込み、アリスの魔法が閃光を放つ。ミレイは後方で祈りを続け、吊るされた繭に光を送る。
 「リオ! 糸を操れるのはお前しかいない!」
 シアラの声に頷き、俺は繭の縫い目を見極めた。
 《解縫》――一筋解くだけで、中の人が息を吹き返す。だがその分、幹部の力も削がれる。
 俺は針を突き立て、糸を引いた。
 「……帰れ!」
 繭が破れ、中から老いた商人が転げ出る。息は弱いが生きている。
 「一人目……!」
 ユナが笑みを浮かべる。だが幹部は怒声を上げ、長剣を振るった。
 「雑用がぁ!」
 剣が俺を狙う。咄嗟にしらたまが飛び出し、光の尾を残して防いだ。衝撃で壁の糸が弾け、空間全体が揺れる。

 ◇
 「リオ、次!」
 レオンが叫ぶ。ガロが剣を受け止め、その隙に俺は二つ目の繭を解いた。
 若い女が息を吹き返し、地面に倒れ込む。
 「二人目!」
 アリスの火球が幹部を牽制し、ユナの風が舞台を広げる。
 「おのれ……! ならば、まとめて織り込んでやる!」
 幹部が両手を広げた瞬間、繭が一斉に震え、黒い糸が俺たちに襲いかかる。
 ◇
 「ここだ……!」
 俺は針を地面に突き立て、《返縫》と《解縫》を同時に展開した。
 王都の暮らしの重さが逆流し、黒い糸を押し返す。その中でさらに三つ、繭をほどく。
 「五人……!」
 シアラが記録を走らせる。「生きている!」
 幹部が仮面を震わせた。「雑用……貴様ぁ!」
 だがもう俺の手は止まらなかった。針が次々と繭を解き、人々の声が空へ帰っていく。
 ◇
 「俺は――雑用じゃない!」
 叫びと共に最後の糸を引く。
 塔の内部が白く輝き、織り込まれていた人々が次々と落ちていく。
ユナが風で受け止め、勇者隊が抱え、シアラが祈りを結ぶ。
 幹部の長剣が砕け、仮面に亀裂が走った。
 「まだ……終わらぬ……織り機は……完成する……!」
 幹部の身体は黒い糸に呑まれ、奥の心臓部へ消えていった。
 ◇
 残されたのは無数の人々と、まだ震える塔の心臓。
 「終わってない……これからが本当の戦いだ」
 俺は針を握り直し、奥を睨んだ。
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第13話 心臓部の鼓動
 塔のさらに奥――心臓部へ続く通路は、まるで血管の中を歩いているようだった。
 壁も床も天井も、赤黒い糸で脈打っている。歩くたびに足裏に柔らかい震えが伝わり、心臓の鼓動と重なって聞こえた。
 「これが……織り機の中心」
 ユナが低く呟く。額には汗が滲んでいる。
 「王都の人々を織り込んだ結果、塔そのものが生命になったんだ」
 シアラが羊皮紙に記録を走らせる。
 俺は針を握り直した。ここで糸を解かなければ、全部が飲み込まれる。
 ◇
 心臓部の間は広大だった。
 空間の中央に、巨大な繭が浮かんでいる。繭の表面には無数の人影が浮かび上がり、悲鳴の形で止まったまま。
 その前に、あの仮面の幹部が立っていた。だが姿は変わっている。
 仮面は割れ、顔は糸で縫い合わせられ、腕は完全に長剣と融合していた。背中からは塔の糸が直結し、もはや人の形を保っていない。
 「見ろ……これが完成に近い織り手の姿だ」
 幹部の声は二重三重に重なり、塔そのものが喋っているようだった。
 「雑用。お前の針を加えれば、この世界は完璧に織り直される!」 「そんな世界は要らない!」
 俺は叫び、針を構えた。
 ◇
 戦いが始まった。
 幹部の剣は塔中の糸を操り、空間そのものを縫い替える。床が裏返り、天井が崩れ、仲間を飲み込もうとする。
 ユナが風で裂け目を閉じ、ガロとレオンが剣で道を切り開く。アリスの魔法が糸を焼き、ミレイの祈りが人々の呻きを和らげる。シアラは式文を唱え、俺の糸を補強する。
 「リオ! 解縫を!」
 ユナの声に頷き、俺は繭の表面に針を突き立てた。
 一本、二本……糸をほどくたび、人の声が返ってくる。幼子の泣き声、母の呼びかけ、兵士の誓い。
 「まだ間に合う!」
 だが幹部が剣を振ると、ほどいた糸が再び縫い戻される。
 「無駄だ! この心臓は王都そのもの! お前の力ごと喰らい尽くす!」
 ◇
 俺は歯を食いしばり、仲間たちに叫んだ。
 「分散する! 一斉に糸を断て!」
 レオンとガロが左右から斬り込み、アリスの炎が上から覆いかぶさる。ユナの風が舞台を整え、ミレイの光が繭を保護する。
 その一瞬の隙に、俺は針を深く突き立てた。
 「解縫――全開!」
 針先から奔流のように光が溢れ、繭の糸が一斉にほどけていく。
人々の姿が次々と落ち、仲間たちが受け止める。
 「バカな……!」
 幹部の身体が軋み、背中の糸が弾けた。
 「雑用じゃない。――段取りで世界を解く!」
 針を最後まで引き抜いた瞬間、繭は破裂し、光が心臓部を満たした。
 ◇
 幹部の叫びは光に飲まれ、塔の糸が一斉に切れる。
 崩れ落ちる空間の中、俺たちは互いの手を取り合った。
 ――戦いは、まだ終わっていない。だが確かに、一つの命綱を解き放ったのだ。
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第14話 崩れ落ちる塔
 光が弾けた直後、塔全体が低くうなった。
 糸で編まれた壁が解け、空間が軋みながら裂けていく。足元が揺れ、俺たちは思わず膝をついた。
 「塔が……崩れる!」
 ユナが叫び、風の層を展開して崩れ落ちる天井の破片を弾く。
 「急げ! 人々を連れて外へ!」
 レオンの指示に、勇者隊は動いた。
 ガロが倒れた商人を抱え、ミレイが光で弱った者の足を支え、アリスが火で道を切り開く。
 俺は針を走らせ、床の糸を繋ぎ直し、崩落の速度を遅らせた。だが、長くは保たない。
 ◇
 「リオ、こっち!」
 シアラが指さした先に、外へ続く縫い目の道があった。塔の糸がほどける際に生まれた一筋の裂け目だ。
 「ここなら出口へ繋がる!」
 俺たちは人々を導きながら進む。だがその途中、背後から不気味な気配が迫った。
 「……まだ終わっていない」 黒い影が、塔の心臓の残骸から立ち上がった。
 先ほどの幹部――だが姿は完全に崩壊し、糸の塊となって蠢いている。顔の仮面は砕け、無数の目がそこに生えていた。
 「我らは一人ではない。黒紡会は“縫い手”の総意。お前がほどいた命は、すぐにまた縫い直される」
 その声は、幹部だけではなく、塔の奥に潜む無数の声が重なったものだった。
 ◇
 「しつこい奴だな……!」
 ユナが杖を振り、烈風を放つ。だが黒い影は形を変え、風をすり抜けて迫ってくる。
 「リオ、出口を塞がれる!」
 シアラの声に振り向くと、裂け目の糸が黒い塊に飲み込まれようとしていた。
 「なら……今ここで断つしかない」
 俺は針を構え、仲間たちを見た。
 「リオ!」
 レオンが剣を掲げる。「俺たちも共に戦う!」
 ◇
 戦いは混沌とした。 黒い影は無数の触手を生み出し、人々を再び繭に閉じ込めようとする。勇者隊が剣と魔法でそれを切り裂き、ユナが風で道を守る。
 シアラは式文を唱え、俺の針に補助を加えた。
 「リオ、最後の解縫を!」
 俺は頷き、針を黒い影の中心に突き立てた。
 「――解け!」
 白い光が溢れ、黒い糸が次々にほどけていく。無数の声が叫び、やがて静かになった。
 影は完全に崩れ、塔の心臓部は光に包まれる。
 ◇
 俺たちは裂け目を駆け抜け、外へ飛び出した。
 振り返ると、黒い塔が轟音と共に崩れ落ちていく。
 夜空に光が舞い上がり、王都の空気がようやく澄んだ。
 「……終わった、のか?」
 ユナが息をつき、杖を下ろす。
 だが俺の針は震えていた。
 塔は崩れた。だが黒紡会の“声”はまだ消えていない。糸の奥で、誰かがこちらを見ている。
 「いいや……これで終わりじゃない」
 俺は針を握り直し、崩れゆく塔を睨んだ。
第15話 崩壊のあとに
 塔が完全に崩れ落ちたあと、王都には奇妙な静けさが広がった。 夜空に舞い上がった光はゆっくりと消え、代わりに冷たい星々が現れる。風は澄み、血と煤の匂いが洗い流されたようだった。
 「……生き残った人たちを集めろ!」
 レオンの声が街に響き、勇者隊が散って人々を導く。
 繭から解き放たれた者たちは地面に横たわり、意識を取り戻したり、ただ泣き崩れたりしていた。
 俺は針を走らせ、彼らの呼吸と脈を繋ぎ直す。
 「循環、戻った……大丈夫だ」
 ユナが頷き、次の人へと駆け寄る。
 ◇
 「リオ!」
 駆け寄ってきたのはルオだった。村から連れてきたわけではない。
いつの間にか、王都の群衆の中に混じっていた。
 「父さんと母さん、ここにいたんだ!」
 少年の声に導かれるように、夫婦が現れた。やせ細っていたが、生きていた。ルオは飛び込んで泣き、両親が抱きしめる。
 胸の奥が温かくなる。これこそ俺が守りたかったもの。
 ◇
 だが安堵は長く続かなかった。
 「リオ……これを見て」
 シアラが震える手で羊皮紙を差し出した。崩れた塔の残骸から拾ったものだ。
 そこには簡潔な文が記されていた。
 《この塔は“試作機”。真の織り機は北方の聖域に在り》
 「試作機……」
 ユナの顔が蒼白になる。「じゃあ……今までのは、ほんの一部」
 「黒紡会の本拠は、まだ別にある」
 シアラが言葉を継ぐ。「しかも“聖域”……王都よりも古い、国の根幹に関わる場所よ」
 針が震えた。塔を崩した今も、遠くから黒い糸が呼んでいる。
 ◇
 「リオ」
 レオンが近づき、剣を下ろした。「俺たちは……お前を見誤っていた。雑用だなんて、とんでもない」
 彼の目は真剣だった。かつて俺を追放した勇者隊の長。その声に偽りはなかった。
 「俺たちも共に行く。黒紡会の本拠を叩くまで」
 「……勝手にしろ」
 短く答えたが、胸の奥は不思議に軽くなった。
 ◇  王都の広場で焚き火が焚かれ、人々が寄り添って夜を過ごした。 ルオは両親の腕に抱かれて眠り、シアラは記録をまとめ、ユナは俺の隣で黙って星を見上げていた。
 「これから先、もっと大きな糸に立ち向かわなきゃならない」
 俺の言葉に、ユナが微笑む。
 「それでも一緒に行くよ。だって私は、あなたの段取りを信じてるから」
 針を見下ろす。古びた祈りの文字はひび割れていたが、その隙間から新しい光が漏れていた。
 ――まだ続く。黒紡会の真の核心へ。 
第16話 北方への途
 王都の広場に仮の焚き火が燃える頃、俺たちは次の段取りを整えていた。
 塔は崩れ落ちたが、人々を守るためには王都に留まる者が必要だ。
勇者隊と村の人々で話し合い、残る者と進む者を決めていく。
 「俺たちは行く」
 レオンが真っ先に名乗り出た。「王都を守る兵はまだ残っている。
俺たちが北へ進まなければ、黒紡会の核心は止められない」
 ミレイも頷く。「祈りが届く場所があるなら、行かなくちゃ」
 アリスは短く笑った。「面倒だけど、やりがいはある」
 ガロは黙って頷き、盾を磨いた。
 ◇
 夜明け前。
 俺は針を握り、王都の地面に糸を走らせた。縫い目を整え、崩壊の余波を封じる。
 「これでしばらくは持つ」
 ユナが横で息をついた。「本当に……雑用係の仕事みたい」
 「雑用は、やるべきことを一つずつ片づけるだけだ」
 俺の言葉にユナが笑う。肩の力が少し抜けた。
 ◇
 北へ続く街道は荒れ果てていた。
 草に覆われ、石畳の隙間には黒い糸の残骸が残っている。踏むたびに足元が軋み、塔の残響がまだ生きていることを思わせた。
 「ここから先が“聖域”への道か」
 シアラが羊皮紙をめくる。「古い文献では《白縫の地》と呼ばれている。神々が最初に布を織った場所。だから黒紡会にとっても、特別な意味を持つ」
 「なら、待ち構えているな」
 針を弾くと、遠くで薄い震えが返った。敵の糸だ。
 ◇
 街道の途中で、小さな村に辿り着いた。
 だがそこには誰もいない。井戸は涸れ、畑は放置され、家々の壁には黒い縫い目が走っていた。
 「ここも……収穫されたのか」
 ユナが顔をしかめる。
 「いや」俺は首を振った。「まだ途中だ」
 針を走らせると、家の中から微かな呻きが響いた。
 扉を開けると、中には人影が横たわっていた。糸で体を縫い止められ、半ば繭になっている。まだ息はある。
 「助けられるか?」
 レオンが問う。
 「やってみる」
 俺は針を突き立て、《解縫》を行う。糸がほどけ、男の目がゆっくりと開いた。

 「……生きてる!」
 ミレイが祈りを捧げ、男の呼吸が整っていく。
 ◇
 男は弱い声で語った。
 「北の聖域……“織り手の都”が復活しつつある。黒紡会はそこへ人々を運び込み、巨大な織り機を作ろうとしている」
 「やはり……」シアラが呟く。
 「でも……一人だけ、抗っている者がいる。黒紡会にいたが、逃げ出して……“白糸の女”と呼ばれている」
 男の目にわずかな光が宿る。
 「彼女を……探せ」
 ◇
 村を後にして再び街道を進む。北方の空は曇り、風は冷たい。
 俺は針を握り、遠くに走る糸を感じた。黒と白、二つの流れがぶつかり合い、聖域の方角で激しく震えている。
 「白糸の女……か」
 ユナが俺を見る。「リオ、どうする?」
 「会うしかない。段取りを進めるためには」
 仲間たちが頷く。
 北への旅は始まったばかりだ。
第17話 白糸の女
 北方の森は、王都周辺の荒れた大地とは違い、異様なほど静かだった。
 木々は枯れてはいない。だが葉の一枚一枚が糸のように細長く、風に揺れるとさやさやではなく、微かな“縫い音”を立てた。
 「ここ……普通の森じゃない」
 ユナが杖を握る。
 「聖域の境目に入った証拠だ」
 シアラが羊皮紙をめくりながら答える。「記録にもある。聖域に近づくと、自然そのものが糸の形を帯びる、と」
 俺は針を走らせ、糸の流れを探った。黒い流れと白い流れ。互いに絡み合い、森の奥で激しく衝突している。
 「行くぞ。そこに“白糸の女”がいる」
 ◇
 森を抜けた先に、小さな清流があった。水面は銀糸のように輝き、岩の間から白い糸が漂っていた。
 その中央に、ひとりの女が座っていた。
 髪は雪のように白く、瞳は淡い灰色。衣は粗末な布を巻いただけだが、全身から漂う気配は強烈だった。
 彼女の周囲では黒い糸が迫り、白い糸がそれを押し返している。 「来たのね」
 女は振り返り、俺を見た。声は澄んでいるのに、どこか掠れていた。
 「あなたが……雑用の糸を持つ者」
 「白糸の女か」
 「かつては黒紡会の縫い手。けれど、あの道は間違っていた」
 女は自嘲気味に笑う。「私は織り機の“枠”にされかけた。命ごと布にされる前に、逃げてきたの」
 ◇
 レオンが一歩前に出る。「黒紡会の本拠はどこだ。お前なら知っているはずだ」
 女はゆっくり首を振った。
 「正確な場所は私も知らない。ただ、聖域の最奥――“白縫の壇
”に繋がる道がある。そこが本拠」
 「案内してもらえるか?」
 俺の問いに、女は目を伏せた。
 「案内はできる。でも……一つだけ条件がある」
 「条件?」
 「私を――縫い直してほしい」
 ◇
 女は右腕の袖をまくった。そこには黒い縫い目が刻まれていた。生きた糸が脈打ち、皮膚に食い込んでいる。
 「逃げたときに刻まれた《捕縫》。黒紡会と繋がったままだから、

私は常に追われる。これを解けるのは……あなたの針だけ」
 俺は息を呑んだ。
 《捕縫》をほどくのは難しい。下手をすれば命そのものが裂ける。
 「リオ、やるの?」ユナが心配そうに見つめる。
 「やるしかない」
 ◇
 俺は針を構え、女の腕に触れた。黒い糸は唸りを上げ、俺の指を噛むように絡んでくる。
 「大丈夫だ。深呼吸しろ」
 女は小さく頷き、目を閉じた。
 ――《解縫》
 針を差し込み、一筋ずつ解いていく。黒い糸は抵抗し、皮膚を裂こうとする。俺は補助糸を走らせ、代わりに繋ぎを作った。
 ユナの風が血を止め、ミレイの祈りが痛みを和らげる。
 最後の一筋を抜いた瞬間、女の腕から黒い糸が弾け飛び、空に消えた。
 「……これで、自由になれた」
 女は深く息をつき、涙を零した。
 ◇
 「助けてくれてありがとう」
 女は俺の手を取った。「名を隠す必要はない。私はセレス。これからは、あなたたちと共に戦う」
 仲間たちが頷く。
 黒紡会の本拠、“白縫の壇”へ――新たな同行者と共に。 
第18話 セレスの記憶
 焚き火の光に照らされ、白糸の女――セレスは静かに語り始めた。
 「黒紡会に拾われたのは十歳のときだった。家族も村も、収穫で失った。泣き叫ぶ声が布に変わるのを、ただ見ているしかなかった」
 彼女の声は淡々としているのに、炎が揺れるたびに影が震えて見えた。
 「“縫い手”として育てられ、私は誰よりも速く糸を操った。だがある日、気づいたの。編んでいる布が人の悲鳴でできていることに」
 ユナが拳を握る。「じゃあ、あなたは……」
 「はい。私は黒紡会で数多の命を織り込んだ。――逃げるまで」
 ◇
 セレスは腕の包帯を握りしめた。黒い捕縫を解かれた跡はまだ赤く腫れている。
 「逃げたのは臆病だからじゃない。王都の織り機を“試作機”と呼んでいたのを聞いたから。あれ以上に大きなものを作る計画を知ったから」
 「それが……白縫の壇」
 シアラが低く呟いた。
 セレスの瞳に一瞬、恐怖がよぎる。
 「聖域は、私たち縫い手にとっても禁忌だった。神々が最初に糸を垂らした場所。そこに眠る織り機は、世界そのものを縫い替える力を持つと言われている」
 ◇
 「世界を縫い替える……?」
 レオンが剣を握りしめる。
 「魔王を討つよりも、よほど危険だな」
 「魔王など比べ物にならない」セレスは首を振る。「黒紡会の狙いは、世界の“現実”そのものを織り直すこと」
 俺は針を見下ろした。柄に刻まれた祈りの文字が微かに光っている。
 「なら……その糸をほどくのが、俺の役目だ」
 ◇
 翌朝、俺たちは聖域への準備を整えた。
 村で救った人々の一部が同行を願ったが、レオンは首を振った。 「お前たちはここに残って、逃れてきた者を守れ。聖域は俺たちが行く」
 セレスは白い布を裂き、俺の針に巻きつけた。
 「この布は“始まりの糸”の欠片。かつて聖域から持ち出されたもの。あなたの針と結べば、織り機に干渉できる」
 針先に巻かれた白布は柔らかく光り、震えが穏やかになった。
 ◇
 その夜、焚き火の周囲でユナがぽつりと呟く。

 「リオ。あなたが段取りを重ねるたび、世界は少しずつほどけて、でも繋がっていく。……不思議だね」
 「雑用だからな。一つひとつ、片づけるだけだ」
 俺は笑った。けれど胸の奥では、迫りくる聖域の気配に糸が震えていた。
 ――次の段取りは、世界の根幹を解くことになる。 
第19話 聖域の入口
 北方の空は厚い雲に覆われ、昼でも薄暗かった。
 俺たちが進んだ先に現れたのは、山肌を削り取ったような巨大な断崖。その中央にぽっかりと口を開けた洞。まるで世界そのものが縫い目を隠したような入口だった。
 「ここが……白縫の壇への道」
 セレスが声を震わせる。「聖域の入口」
 洞の周囲には白と黒の糸が幾重にも交錯していた。白はかすかに光り、黒は濁った影を放つ。互いが押し合い、火花のように裂け目を生んでいる。
 「自然の縫い目じゃない。誰かが意図的に織っている」
 俺は針を走らせ、流れを確かめた。「中に“守護者”がいる」
 ◇
 洞へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
 音がすべて吸い込まれ、靴音さえ響かない。壁には人の姿を模した織物が並び、糸の眼がこちらを追う。
 「気をつけろ」
 ユナが短杖を握る。レオンは剣を構え、ガロが盾を前に出した。
 その時――洞の奥から揺らめく影が現れた。
 四本の腕を持つ巨人。その身体は白と黒の糸で編まれており、顔は仮面に覆われている。
 「……《双糸の守護者》」
 セレスの声が硬直する。「黒紡会と聖域の両方に仕える存在」
 ◇
 守護者が咆哮を上げた瞬間、洞全体が揺れ、天井から糸の束が降り注いだ。
 俺は針を走らせ、《偏重糸》で進路を逸らす。ユナが風で散らし、アリスの炎が燃やす。しかし黒い糸は燃え残り、再び襲いかかる。
 「しつこい……!」
 ガロが盾で受け止めると、衝撃で洞の床が裂けた。
 守護者の四本の腕が同時に振り下ろされる。レオンが剣で一撃を受け、ミレイが光で支援する。だが圧力は凄まじく、勇者隊全員が押し込まれていく。
 ◇
 「リオ! 白の糸を!」
 セレスが叫ぶ。
 俺は針を突き立て、白い流れを掬い上げた。白布で補強された針先が光を放ち、守護者の腕の一つを縫い止める。
 「今だ!」
 ユナの風が隙を作り、レオンの剣が仮面に斬り込む。亀裂が走り、中から呻きが漏れた。
 「……人間?」
 仮面の下で光る瞳は確かに人のものだった。
 セレスが顔を歪める。「縫い手……かつて私の仲間だった者よ」
 ◇
 守護者の身体が震え、黒と白の糸が剥がれ落ちる。
 「まだ助けられる!」
 俺は針を突き立て、《解縫》を施した。
 一筋、また一筋。黒い糸がほどけるたびに、呻き声が弱まり、白い光が滲み出す。
 やがて糸の束が崩れ、巨人の姿は人間の女へと戻った。
 彼女は膝をつき、涙を流した。
 「……ありがとう……」
 言葉を残すと、力尽きて眠りについた。
 ◇
 「彼女を聖域の外へ運ぼう。まだ息はある」
 俺は針で循環を整えながら言った。
 セレスは唇を噛み、拳を握った。「彼女も、私と同じ……犠牲者だった」
 洞の奥から、さらに深い震えが響いた。
 「守護者は一人じゃない」 俺は針を握り直す。聖域はまだ始まりにすぎなかった。 
第20話 深部への糸道
 俺たちは眠りについた元守護者を洞の入口へ運び、仮の寝床に横たえた。セレスが白い布で包み、祈りを添える。
 「彼女は時間をかければ戻れる。黒紡会に縫い込まれた痕は深いけれど、解縫の光がまだ残っている」
 「なら、ここで置いていこう」
 レオンが剣を腰に収める。「先へ進む俺たちまで足を止めるわけにはいかない」
 頷いた。――時間はもう残されていない。
 ◇
 洞の奥へ足を進めると、糸の色は次第に白から黒へと傾いていった。
 「流れが逆転してる」
 俺は針を弾き、震えを確かめる。「聖域の中心は、黒紡会の制御下にある」
 「じゃあ白糸の力は?」
 ユナが不安げに問う。
 「まだ残ってる。けど、奥へ行くほど押し潰されてる」
 俺の返事に、セレスは唇を噛んだ。
 ◇
 深部に近づくと、壁一面に巨大な織物が広がっていた。
 そこには歴代の王や戦士、聖女たちの姿が糸で織られている。だがみな黒に侵食され、顔は醜く歪んでいた。 「……記憶そのものを縫い替えてる」
 シアラが震える声で言う。「歴史すら、布にして」
 「許せないな」
 レオンが剣を抜いた。だがその瞬間、織物が蠢き、壁から人影が抜け出した。
 ◇
 現れたのは、三体の守護者だった。
 一体は槍を構えた兵士、一体は杖を掲げた賢者、もう一体は王冠を戴いた王の姿。
 全て黒と白の糸で編まれており、かつては実在した人物であることが直感で分かる。
 「過去の偉人たちを、縫い直して兵にしたのか……!」
 ユナが目を見開く。
 ◇
 戦闘が始まった。
 槍兵の突きが地面を貫き、黒糸が突き上がる。ガロが盾で受け止め、アリスが炎で糸を焼く。
 賢者は杖を振り、黒い雷を落とす。ミレイの祈りの光が防ぎ、シアラが式文で結界を張る。
 王は剣を掲げ、空間そのものを裂く。レオンが正面から受け止め、俺が針で裂け目を縫い塞ぐ。
 「リオ、解ける?」
 ユナが叫ぶ。
 「やってみる!」
 ◇
 俺は槍兵の縫い目に針を突き立てた。
 《解縫》――一本ずつ、糸を解いていく。抵抗は激しかったが、声が返ってきた。
 「……私は……王の盾だった……!」
 黒い糸がほどけ、兵士の姿が消える。残されたのは、安らかな影だけ。
 「一体目……!」
 続いて賢者に針を向ける。雷が襲いかかるが、ユナの風が逸らす。
俺は糸を掴み、強引にほどいた。
 「知を……民に……返してくれ……」
 賢者の影も消え、白い光が残った。
 「二体……!」
 最後の王が剣を振り下ろす。レオンが必死に受け止める。
 「リオ! 早く!」
 俺は針を突き立て、叫んだ。
 「お前の王冠は、人を縛るものじゃない!」
 縫い目が裂け、王の姿が崩れる。
 「民を……頼む……」
 その声を残して、王も光に変わった。
 ◇
 洞の奥で、白い糸が一瞬だけ優勢になった。
 「道が開いた……!」
 セレスの声に全員が顔を上げる。
 深部の扉が現れた。黒と白の糸で編まれ、震えながらも確かに入口を形作っている。
 「この先が……聖域の核心」 俺は針を握り直した。 
第21話 核心の扉
 深部の扉は黒と白の糸で編まれていた。
 黒は濁った闇のように重く、白は淡く震えていた。互いがせめぎ合い、今にもほどけそうでありながら、決して開かない。
 「ここが……聖域の核心」
 セレスが囁いた。声はかすれている。「黒紡会が求める織り機は、この奥にある」
 俺は針を握り、扉に近づいた。近づくほどに糸の震えが心臓に響き、息が苦しくなる。
 「リオ、大丈夫?」
 ユナが肩に手を置く。
 「……ああ。だけど、この扉を解くには……」
 「君しかいない」
 シアラが記録を閉じて言った。
 ◇
 俺は針先を扉に突き当てた。
 ――瞬間、世界が裏返る。
 視界が白黒に分かれ、扉の中へ吸い込まれる。気がつけば、俺は糸だけでできた広間に立っていた。
 空も地もなく、ただ無数の糸が縦横に走り、そこに無数の「人影」が吊られている。
 「……ここは?」
 声に答えるように、広間の中央で糸が集まり、ひとつの影を形作った。
 「よく来たな、雑用の糸」
 現れたのは、黒衣をまとった男。
 顔は仮面に覆われ、だが瞳だけが異様に光っていた。
 「お前が……黒紡会の首魁」
 「名は不要。我らは“総意”。無数の縫い手の声を束ね、この世を織り直す者だ」
 ◇
 男の背後で、人影が震えた。
 吊られているのは王侯、勇者、民衆、子供、老人……ありとあらゆる人々。全てが糸で繋がれ、布のように折り重なっていた。
 「見ろ。これが人の歴史だ。無秩序に流れる記憶と声を、一枚の布に縫い上げれば、世界は完全になる」
 男の声は低く、だが奇妙に甘やかだった。
 「だが、そこにお前の糸はない。だから邪魔をする。違うか?」
 「違う」
 俺は針を構える。「俺の糸は――人を縛るためじゃない。解くためにある」
 ◇
 男が手を振ると、吊られていた人々の糸が一斉に動いた。
 兵士が剣を振り、学者が杖を掲げ、子供すら糸で操られ獣のように襲いかかる。
 「やめろ!」
 俺の声に応えるように、背後から仲間たちが駆け込んできた。
 ユナの風が舞い、レオンの剣が火花を散らし、ガロの盾が壁を作る。アリスの炎、ミレイの祈り、シアラの記録が次々と重なった。
セレスの白糸が走り、黒い糸と衝突する。
 「リオ! 奴を止められるのはお前だ!」
 ◇
 俺は針を突き立て、吊られた人々の縫い目を解き始めた。
 一筋ごとに声が返る。「助けて」「戻りたい」「生きたい」
 だが解けば解くほど、男の瞳が強く光る。
 「無駄だ。お前の針は解くだけ。織り直すことはできない。永遠に破壊者のままだ」
 「違う。俺は――段取りを繋ぐ!」
 針が光を放ち、ほどいた糸同士を結び直す。
 吊られた人々が倒れるのではなく、大地に立ち戻るように足をつけていく。
 ◇
 「馬鹿な……!」
 男の仮面がひび割れた。「解くだけでなく、繋ぎ直す……そんな段取りが……!」
 だが俺はまだ終わっていなかった。
 針は震え続け、広間全体の糸を掴み始める。
 「黒紡会――お前たちの織り目ごと、解いてやる!」 光と闇の糸が激しくぶつかり、広間が震えた。 
第22話 糸を断つ者
 光と闇の糸が広間全体を覆い、天地の境界さえ揺らぐ。
 黒紡会の首魁は仮面を砕き、正体を露わにした。
 顔は無数の縫い目で覆われ、誰のものとも言えない。無数の縫い手の記憶と声をひとつに束ねた存在――“総意”。
 「雑用の糸よ。お前が解こうと繋ごうと、我らは消えぬ。人が生きる限り、声は布となる!」
 「なら、声を布にせず、そのまま響かせろ!」
 俺は針を突き立てた。
 ◇
 仲間たちが一斉に動く。
 ユナの風が黒糸を裂き、レオンの剣が隙を作る。ガロの盾が前を守り、アリスの炎が道を照らす。ミレイの祈りが揺らぎを鎮め、シアラの式文が針を補強する。セレスの白糸が最後の力を振り絞り、黒紡会の流れを押し返す。
 「今だ、リオ!」
 針先から白い光が奔り、黒糸の網を解きほどいていく。
 束ねられた人々の記憶が一人一人、解かれ、個の声を取り戻していく。
 「俺は戦士だ――!」
 「私は母だ!」
 「俺はただの農夫だ!」
 声が広間を満たし、黒い縫い目が崩れていった。
 ◇
 首魁が咆哮した。
 「おのれ……無数の声を繋ぎとめられるはずがない!」
 「雑用をなめるな」
 俺は針を最後まで引き抜いた。「一つ一つ、片づけるだけだ!」
 ――解縫、そして結縫。
 黒紡会の糸は完全に解け、広間が白い光に包まれた。
 首魁の身体は縫い目ごと裂け、無数の声となって消え去った。
 ◇
 光が収まったとき、俺たちは聖域の大地に立っていた。
 黒い糸は消え、白い糸が風に揺れていた。
 仲間たちは傷だらけだったが、皆、生きている。
 「……終わった、のか」
 ユナが震える声で言う。
 「いや。終わりじゃない」
 俺は針を見つめる。白布は静かに光り、もう震えてはいなかった。
 「でも、段取りはついた。これからは、人が自分で声を紡いでい

ける」
最終話 糸の果て、日常へ
 王都に戻った俺たちを、人々は歓声で迎えた。
 繭から解かれた者たちが次々と立ち上がり、街は再び息を吹き返した。
 「リオ殿! いや、リオ様!」
 誰かが叫ぶ。その声に人々が続いた。
 俺は首を振る。「俺は雑用だ。ただの段取り屋だ」
 だがユナが笑って言った。
 「雑用が世界を救ったんだよ」
 ◇
 セレスは旅立つ決意をした。
 「私は残りの縫い手を探して解き放つ。罪を少しでも償うために」
 彼女の瞳には、もう恐怖ではなく決意が宿っていた。
 勇者隊は王都の再建に取り掛かる。
 レオンは剣を掲げ、兵を率い、ミレイの祈りが人々を癒す。アリスとガロもそれぞれの役目を果たしていた。
 ◇
 俺とユナは、しばらく辺境に戻ることにした。
 静かな生活の中で針を動かし、畑を耕し、時折訪れる人々の服を繕った。
 「ねえ、リオ」
 ユナが縫い物を手伝いながら言う。「次はどんな段取りをする?」
 「まずは畑の草むしり。それから――飯の支度」
 「やっぱり雑用だね」
 ふたりで笑った。
 ◇
 夜。
 星空の下で針を手にすると、遠い空気が震えた。
 黒紡会は消えた。だが、人の声はこれからも布になる。喜びも悲しみも。
 俺は針を握り直す。
 ――その声を、決して縛らぬように。いつでも解けるように。
 「段取りは終わらない」
 小さく呟き、星に針をかざした。
 雑用の糸は、今日も静かに光っていた。
番外編
番外編1 辺境の食卓
 王都から戻ったあと、俺とユナの暮らしは驚くほど静かだった。 朝は畑に出て草をむしり、昼は川で洗濯をし、夜は縫い物と簡単な料理。世界を救った英雄の生活としては拍子抜けするほどだが、俺にはこれが一番性に合っていた。
 「リオ、今日のスープはどう?」
 ユナが鍋をかき回し、味見の匙を差し出す。
 「……うまい。けど塩がちょっと足りないな」
 「やっぱり雑用っぽい指摘だよね」
 笑い合う声が小屋に響く。
 扉を叩く音がした。訪ねてきたのは、かつて救った村の少年ルオだった。
 「リオさん、父さんたちが布を織り直したいって。手伝ってくれませんか?」
 俺は針を手に取り、笑った。
 「よし、段取りしよう」
番外編2 王都の再建
 レオン率いる勇者隊は王都の広場で新たな布を掲げた。
 「これは雑用の糸――リオが繋いだ証だ」 民衆が歓声を上げ、旗が風にたなびく。 アリスは笑いながら火を灯し、ミレイの祈りが光を添える。ガロは相変わらず寡黙に盾を磨いていた。
 「雑用に任せきりにはできないからな。俺たちも、ここから繋ぐ番だ」
 レオンの言葉に、人々の瞳が輝いた。
番外編3 セレスの旅
 白糸の女セレスは、ひとり北へ向かっていた。
 彼女の目的は残された縫い手たちを探し出し、解縫で自由にすること。
 「リオ、あなたの段取りを見習うわ」
 小さく呟き、白糸を指に結ぶ。
 遠くで黒い残滓が揺らいだ。黒紡会は消えた。だが人の悲しみから生まれる糸は、まだ世界に残っている。
 セレスは針を構え、夜の森へと進んでいった。