町の掲示板から、赤が消えた。

 代わりに、ペールピンクの長方形が並ぶ。「本日は少々、雨が強まります」——丸いフォント、やわらかい語尾。

 導入から半年、《言語無害化フィルタ》は順調だ。道路で怒鳴る人は減り、苦情窓口の電話は短くなり、SNSの罵倒は「やや配慮に欠けます」に置換された。

 ぼく——三上は、防災デスクで禁止語リストを更新する。「緊急」「至急」「避難」は強すぎる。代わりに「ご移動」「おすすめ」「心穏やかに」。

 サイレンは条例に合わせて二デシベル下げられた。音の角が落ち、夜の通りは静かになった。静かすぎて、雨の音だけがよく通る。



無害化フィルタ運用指針 抜粋

第3条(強い表現の緩和):「危険」→「おすすめできません」/「直ちに」→「よければ」

第5条(色彩配慮):警告色は攻撃的であるため脱飽和を基本とする(赤→サーモンピンク)。

但し、例外時の定義は「一部不快感の恐れがある場合」を含まない。



 制度は丁寧に作られた。丁寧に作られたものは、だいたい丁寧に働く。

 導入会見では、市長が言った。「やさしい言葉は、やさしい社会を作ります」。

 拍手は長かった。拍手の音にも角はない。



     *



 雨雲レーダーは濃かった。上流の観測点が、少しずつ値を上げている。

 河川事務所から強い語が入ってきた。「危険」「直ちに避難」。

 フィルタは一秒未満で、文字を丸くする。「おすすめできません」「よければご移動を」。

 ディスプレイの端で、警告赤が薄まり、サーモンピンクに落ち着く。

 室内の照明は一定で、ぼくの椅子は静かに回った。



「“避難”がだめなら、“移動”でいいでしょう」

 係長は書式を直した。

「“高台へ”は?」

「“少し高めの場所へ”。高さという言葉も、恐怖を連想させます」

 係長は頷いた。頷きの角度はいつも通りだ。いつも通りの角度は、安心を連想させる。



市役所 通知課

件名:気象に関するやや気になるお知らせ

・少々まとまった雨が予想されます。

・場所を軽く変えることをおすすめします。

・大きな声や強い表現は、心身にご負担をおかけします。

・サイレン音は配慮のため控えめです。必要に応じてご想像ください。



 通知は飛んだ。

 反応は穏やかだった。穏やかな反応は、たいてい遅い。

 通りのパン屋は閉店時間を少し早めた。家々の窓は、いつも通りの光を灯し、テレビはいつも通りの天気予報を流した。

 画面の片隅で、アナウンサーが言った。「少々水が来ます」。

 アナウンサーは柔らかい声で、柔らかい言葉を読み上げた。柔らかい橋は、重さに弱い。



     *



 防災デスクの電話が鳴った。

 声は年配の男性だった。落ち着いていた。

「“おすすめできません”というのは、どういう意味ですか。おすすめでないということは、してもいいということですね」

「法的拘束力のない表現です」

「なるほど。では、私は家にいます」

 電話は切れた。切れたという表現は、尖っている。通話は終わった。終わったという表現は、丸い。



 午後、山沿いの小さな崩落があった。

 現場の担当者がメッセージを打った。「危険」

 文章は通過時に丸まった。「おすすめできません」

 現場の担当者は、携帯端末の設定に気づかなかった。

 気づかないことは、よくある。気づかないことが、条例に守られるのは珍しい。



 議会から資料の催促が来た。

「“危険”という単語が、直近30日の通知で何回出たか」

「ゼロです」

「素晴らしい。治安はよくなりました」

 議員は満足そうに頷いた。満足は、統計に乗りやすい。洪水は、統計に間に合わない。



     *



 夜、サイレンが鳴った。音圧は控えめで、窓ガラスは震えなかった。

 上流で越水。

 河川事務所からのメッセージは短い。

「危険」

 ぼくらの端末に届いた時、それは短く丸い文に変わった。

「おすすめできません」

 ぼくは文面を見つめた。

 文面はいつも通りで、天気はいつも通りではなかった。



「フィルタを切りませんか」

 ぼくは言った。

「切る、は乱暴です。“お休みいただく”で提案しましょう」

 係長は修正し、提案文を回した。

 回っているうちに、語尾はいくつか増え、形容詞はいくつか丸くなった。

 委員会の返事は早かった。

「一部の方を不快にする恐れがあるため、今回のご提案は見送らせていただきます」

 今回、という語は便利だ。次回を保証しない。



無害化フィルタ一時停止に関するご提案(修正前/修正後)

修正前:例外規定に基づき、緊急時はフィルタを停止する。

修正後:例外規定の運用について、必要に応じて無害化機能をお休みいただく場合があることをご検討ください。



 モニターの地色が揺れた。

 赤は攻撃的なので使わない。

 サーモンピンクは、海の色に似ている。

 川も、海も、水でできている。



     *



 市内一斉の案内を作ることになった。

 係長は慎重だった。慎重さは安全に似ているが、同じではない。

「“移動”で統一しよう。“避難”は強い」

「“至急”は?」

「“よければ”」

 ぼくは画面の空白を見た。

 空白は、よく読むと何も書いていない。



市民のみなさまへ(試案)

ただいま、少々まとまった雨が続いております。

ご負担のない範囲で、場所を軽く変えていただくことをおすすめいたします。

大げさな行動は必要ありません。心穏やかにお過ごしください。

※サイレン等は配慮のため控えめです。必要に応じてご想像ください。



 ぼくはカーソルを止めた。

 必要に応じてご想像ください、という文は、想像力への依存だ。

 想像力は、普段から鍛えられていると、間に合う。あまり鍛えられていないと、間に合わない。

 洪水は、筋力の話を聞かない。



     *



 夜半、雨脚が強くなった。

 上流から緊急の連絡が入った。「直ちに」

 直ちに、は鋭い。フィルタは、それを丸める。

「よければ」

 よければ、は緩い。緩い言葉は、滑る。

 川面が街灯を逆さにし、逆さの光が増える。

 家々の窓は、まだ穏やかだ。

 穏やかさは、居心地がいい。流速は、居心地を気にしない。



 ぼくは最後の案内文を開いた。

 禁止語リストをすべて避け、実質だけを残す。

 言葉を選ぶとき、指先が少し冷えた。

 冷えは、緊張ではない。空調の設定だ。



市役所 通知課(最終案内)

件名:本日の雨について

・上流の状況により、川の水位がやや上がっています。

・少々水が来ます。

・気持ちの負担にならない形で、場所を軽く変えていただけると助かります。

・慌てることはありません。心穏やかに、ご判断ください。



 送信ボタンは角が取れていて、押し心地がよかった。

 押し心地と押すべき時は、関係がない。



     *



 町はやさしかった。

 やさしい町は、やさしい言葉で人を包む。

 包まれた人は、安心する。

 安心は、体温を下げる。

 体温が下がると、歩幅が小さくなる。

 歩幅が小さくても、時間をかければ、遠くへ行ける。

 時間は、川の都合で短くなる。



 窓の外で車の音が途切れた。

 携帯の緊急速報は、条例に合わせて音量が下げられている。

 震えは弱く、文面は丸い。

 丸いものは転がる。

 転がる先に、川があった。



     *



 翌朝、通勤路の橋は一本、通れなかった。

 通れないことは、想像より静かだ。

 迂回路を示す看板はピンクで、矢印は柔らかかった。

 人々は片側に寄り、互いに道を譲った。譲り合いは、うまくいった。

 譲り合いと流れは、同じ言葉で言い換えられない。



 防災デスクの窓から、川面が見えた。

 色はいつもと同じだった。

 濁りは、いつもより多かった。

 報告の数字は、夜の間に増えた。

 数字は角ばっている。角ばったものは、丸められない。



 会議室で、短い報告会があった。

 課長は言った。「結果として、過度な不安は発生しませんでした」

 係長は頷いた。

 ぼくも頷いた。

 頷くことは、便利だ。言葉を使わずに、合意が動く。



 議会の臨時会が開かれた。

 議員は言った。「不安を煽らない権利は守られた」

 次の議員は言った。「無害化は都市の品位を保った」

 拍手は控えめだった。

 控えめな拍手は、よく響く。

 外の水音は、もっとよく響いた。



     *



 昼すぎ、庁舎に来客があった。

 泥のついた靴。

 濡れた帽子。

 濡れた顔。

 住民は言った。

「危険、って言ってくれ」

 声は小さかった。

 小さい声は、無害化されない。

 ぼくは黙っていた。

 黙ることは、丸い。



 帰り道、掲示板の前に立った。

 ペールピンクの長方形が並ぶ。

 空は高く、風は湿っている。

 指で画面をスクロールすると、昨日の文が出てきた。

 読み返すと、文字はやはり穏やかだった。

 穏やかさは、語尾に住む。

 語尾は、責任を軽くする。



     *



 夜、ぼくは机に新しい案を開いた。

 例外規定を広げる文面。

 緊急時に限る処置。

 強い語の限定的使用。

 文は短く、角を戻す。

 戻した角は、怪我の原因になる。



 文案の最後に、一行を添えた。

 硬い言葉は、ひさしぶりだった。

 キーの音は、軽かった。

 軽い音は、伝わりにくい。



例外条項(案)

次の場合、フィルタの停止または緩和を行う。



地震・津波・洪水・土砂災害等、即時の行動が生命を左右する事態



医療・消防等、専門職からの要請



上記に準ずるものとして、市長が認めた場合

※表現の強度は、必要最小限とする。



 送信。

 返事は早かった。

「今回のご提案は、時期尚早という声が一定数あり、いったん見送らせていただきます」

 ぼくは画面を閉じた。

 閉じる、は簡単だ。

 開ける、はむずかしい。



     *



 雨は過ぎた。

 ニュースは、柔らかい言葉で被害を数えた。

 数えられないものは、数えられなかった。

 取材に答える人々は、穏やかに話した。

 穏やかに話すことは、大人の振る舞いに似ている。

 大人の振る舞いは、子どもにも見やすい。



 ぼくの机の上に、新しい指示が来た。

 通知のテンプレートを増やす。

 語彙を整える。

 色を薄くする。

 音を丸める。

 丸め終わったら、保存する。

 保存したら、配布する。

 配布したら、安心する。



     *



 町は、今日もやさしい。

 やさしい町は、やさしい言葉を増やす。

 やさしい言葉は、やさしい行動を増やす。

 やさしい行動は、やさしい結果を運ぶ。

 やさしい結果は、ほめられる。

 ほめられると、制度は続く。

 制度が続くと、例外は減る。

 例外が減ると、例外は増える。



 防災デスクの表示に、小さな通知が現れた。

 フォントは丸い。

 色は薄い。

 文は短い。

 短い文は、よく通る。

 よく通る文は、遠くで届く。



市民のみなさまへ

少々水が来ます。



 ぼくはモニターを見つめた。

 モニターは、ぼくを見つめない。

 通りの向こうから、かすかな音がした。

 サイレンではない。

 水の音だった。

 水は言葉を選ばない。



 「少々水が来ます」——洪水。