拍手は短く、確信は長かった。

 ステージ背面のスクリーンに、新しいロゴが浮かぶ——つもり貯金局。

「買った“つもり”の瞬間に、同額をあなたの貯金へ」

 説明は簡単だった。カートに入れる前、ため息の手前、視線と脳波と履歴を束ね、予定支出を家計に回す。買い物はしない。幸福だけが、記録される。



 ぼく——杉浦は運用班。初日の曲線は、期待どおり滑らかに伸びた。衝動買いが衝動貯金に置換され、満足度は上がり、苦情は少ない。

 商店街の古い時計店の主が言った。「その“満足”は、どこで使えるんだい」

 ぼくは答えを持たなかった。

 帰り道、喫茶店の看板が消えていた。欲しいは貯まったが、コーヒーは出なかった。



つもり貯金局(家計省外局)

件名:つもり貯金 開始のお知らせ

・対象:EC閲覧、実店舗回遊、脳波・視線・位置×履歴で推定

・積立:予定支出額をご本人名義口座へ自動積立

・付与:主観的満足度ログ(0.00〜1.00)

・注意:実購買は行われません。所有は発生しません。



 実装二週目、広告が切り替わった。

 「欲しかったね、貯まったね。」

 「買わずに叶う、あなたらしさ。」

 ショーウィンドウは空いたまま、スクリーンだけが輝いた。

 商店主たちは、**“つもり無効デー”**を始めた。現金のみ。値札は手書き。電波は遮断。

 紙の値札は、風でめくれた。

 来客は増えず、満足度ログだけが増えた。



 運用ダッシュボードは、いい顔をしていた。家計貯蓄率、過去最高。

 同時に、別の色の曲線も上がる。凍結レポート——商店街の体温を色で示すヒートマップ。青色が広がり、赤色は点だった。

 ぼくはモニターに手を近づけ、温度が変わらないことを確かめた。変わらないものは、だいたい正しい。街の温度に関しては、正しくない。



 夜、運用フロアに資料が回る。所有なき満足の安全性評価。

 “所有は不安を伴う。保管・維持・盗難のリスク。満足だけを残す本局の設計は、倫理的に望ましい”

 文は整っていた。整っている文は、呼吸に似ている。意識しないと止められない。



つもり無効デー(店舗掲示)

本日は、つもり貯金機能をお休みいただいております。

・現金のみ

・手書き値札

・電波遮断

※“欲しい”は貯まりません。商品は手元に残ります。



 三週目、満足度ログの平均が0.82に達した。

 街角の大型ビジョンは、ほほえみを映し続ける。

 ビジョンの足元で、給電ケーブルが露出し、雨に濡れていた。

 ぼくは総務に連絡した。総務は頷いた。頷きは、実行とは別の動作だ。



 午前、商工会議所から来客があった。背の高い男が、両手を広げて言う。

「在庫が動かない。ウィンドウは景色になった」

「“欲しかったつもり”は、貯まっています」

「それは金か」

「金です」

「なら買わせろ」

「買わせる機能は、ございません」

「誰のための貯金だ」

「家計のためです」

 男は笑った。短く、乾いていた。

「家計に使い道がない場合は?」

「検討中です」

 検討は、よく使われる。検討が終わることは、あまりない。



 月が替わる。

 国庫の統計が発表され、ニュースが“史上最高の家計健全性”を讃えた。

 同じニュースが、小売の倒産件数を読み上げた。

 数値は上下に揺れ、テロップは平らだった。



 運用会議で、消費代行のスライドが出た。

 「家計の眠る残高を、経済の血流へ」

 「個人残高の一部をプール化し、国家が代理購買」

 「所有権は国に帰属。必要に応じ貸与」

 誰も反対しなかった。反対の言葉は、画面の外に落ちた。



消費代行 実施要領(抜粋)

第3条:家計累積残高の一定割合をプール化し、国家が代理購買する。

第6条:代理購買の対象は、生活関連物資・文化財・不動産・株式等を含む。

第7条:代理購買品の所有権は国に帰属。必要に応じ、貸与・展示・体験提供を行う。

但書:地域活性に配慮する(倉庫は新設する)。



 倉庫が建った。

 高速道路の脇、かつて畑だった場所に、白い箱がいくつも並んだ。

 **“代理購買・調達庫”**の看板は、夜も控えめに光る。

 中に、家具、家電、衣類、書籍、玩具。新品。タグ付き。

 稼働初日、内覧会があり、職員だけが拍手した。



 倉庫の鍵は重く、空気は乾いていた。

 ぼくは在庫リストの数字を確認した。購買は回復。

 倉庫の外で、シャッター街の音がした。開く音ではなく、閉まる音。

 音は短く、正確だった。



 同僚の綾瀬が言う。

「代理購買、楽になったね。クリックすれば、買われる」

「買うのは誰だ」

「国」

「持つのは」

「国」

 綾瀬は肩をすくめた。

「貸し出せばいい。体験を与えればいい。“所有の重み”は不要だって、講師が言ってた」

「所有は、不安だ」

「そう。不安は、減らせる」

 不安は減り、空室は増えた。



 商店街の凍死マップが、更新される。

 青が濃くなり、端だけが薄い。

 端の薄い場所に、現金のみの八百屋が残っていた。

 八百屋の息は白く、手は赤い。

 現金の音は、軽かった。

 軽い音は、忘れやすい。



 ぼくは、おでんを買った。

 湯気が出た。

 レシートは、温かかった。

 この温度は、満足度ログに載らない。



 四半期末、満足度0.90を超えた。

 国は記者会見で、笑わずに成功を述べた。

 同時に、消費代行の拡充を告げた。

 国民の残高は、静かにプールに流れ込み、静かに購買へ変わった。

 買うのは国。所有するのも国。

 街のショーウィンドウは、展示会のポスターになった。

 「体験提供・申込はこちら」

 申込は、よく集まる。

 体験は、よく終わる。



 ぼくの画面に、代理購買品の貸与予約が表示された。

 ベビーカー、電動工具、コーヒーメーカー。

 予約は順調で、倉庫の回転率は上がった。

 商店街の回転は、止まっていた。



 その週末、母から電話があった。

「商店街の靴屋、閉めたよ」

「そう」

「注文してた、父さんの靴、どうなるの」

「倉庫に、似たのがある」

「倉庫」

「代理購買の」

 少し間があった。

「誰が買ったの」

「国」

「誰の足に合うの」

「分からない」

 電話は切れた。受話器の温度は消え、耳に冷たさが残った。



 月曜、窓口に年配の男性が来た。

 手のひらに紙が一枚。

「この店、閉めるそうで」

 紙には、感謝と閉店の挨拶。

 男性は続ける。

「買わないでも、貯まるのは楽でね。楽にしてもらって、すまないと思って。だから、最後に買いに来た」

「買えましたか」

「“つもり”になってしまって」

 男性は笑った。

 ぼくは、倉庫の貸与案内を渡した。

 男性は首を振った。

「誰の物でもない物は、軽くていい。軽い物は、風で飛ぶ」

 風は大きくなり、紙は揺れた。



 運用班に、消費代行 第二段の設計図が落ちてきた。

 文化代行——ライブ・映画・旅行の代理予約。

 満足度ログは跳ね、消費統計は持ち直す。

 ぼくはスクロールを止めた。

 “欲望の計上が先/生活の現物は後”

 順序が入れ替わり、誰も転ばなかった。ただ、立っている場所が変わった。



 夜、古い時計店へ行った。

 店主はシャッターを半分だけ開け、作業台に光を集めていた。

「動くか」

 店主はぼくの腕時計を手に取り、耳に近づけた。

「動いてる」

 店内の壁時計は止まっていた。

「売り物じゃない。部品もない。時間はある」

 店主は笑った。

「“つもり”を止める紙、貼ったのに、止まるのは時計だけだ」

 ぼくは頷いた。

 頷きは、何も修理しない。



 ある雨の日、倉庫へ出向した。

 フォークリフトの音が、静かなリズムで続く。

 新品のベッドが並び、ソファが並び、靴が並ぶ。

 ラベルに、“代理購買:家計プール第3号”。

 綾瀬が言う。

「ここに来ると、達成感がある」

「あるのか」

「数字が動くから」

 倉庫の隅に、段ボールの山があった。

 手書きで寄贈とある。

 綾瀬が肩をすくめる。

「“つもり無効デー”の店からだって」

「買われたのか」

「買われなかったから、寄贈」

 寄贈は、よく積まれた。

 積まれた山は、よく崩れた。



家計省・広報

件名:家計健全化と文化代行について

・満足度ログは過去最高

・消費代行・文化代行の供給力は十分

・地域活性のため、倉庫の見学会を実施します

※現地での購買は発生しません



 夕方、八百屋の前を通ると、**“現金のみ”**の紙が、雨でふやけていた。

 店主は手を振り、棚を拭いた。

「買っていきな」

 ぼくは人参を二本買い、袋に入れた。

 レシートの角は、濡れて丸くなった。

 袋の中の人参は、重かった。

 重い物は、手に残る。



 季節がまた変わり、満足度0.94。

 ニュースは、**“買わない国民、誇らしい貯蓄”**を見出しにした。

 別のニュースは、空き店舗のアート化を紹介した。

 アートは美しく、空き店舗は空き店舗だった。



 帰路、倉庫の外で、若い二人が写真を撮っていた。

 キャプションを考える声が聞こえた。

「“いつか使う、わたしたちの物たち”は?」

「いいね」

 いいね、は軽かった。

 軽い言葉は、遠くまで飛ぶ。



 夜、自宅で通知が鳴る。

 月次の**“欲望の棚卸し”**。

 未使用の予約、未体験の体験、未装着の服。

 画面に、“代理返納”のボタンがあった。

 押すと、倉庫へ戻る。

 戻ったものは、誰かに貸される。

 貸されたものは、いつか返る。

 返る先は、国だ。



 ぼくは画面を閉じ、棚に手を置いた。

 棚は空いて、埃は薄かった。

 空は、整頓に似ている。

 整頓は、生活とは別の動詞だ。



 週明け、課へ一通の手紙が届いた。

 封筒は古く、切手は記念の絵柄。

 中に、手書きの文字。

 > “欲しい”は貯まりました。待っているうちに、要らなくなりました。

 > 店は閉めます。残高は立派です。

 > 何を讃えればいいのか、分かりません。

 ぼくは上司へ手紙を渡した。

 上司は頷いた。

 頷きは、配布の合図になった。

 配布された紙は、読まれて、しまわれた。



 その日の午後、運用班に最終告知の草案が落ちてきた。

 残高が一定額を超え、使い道が“未設定”の家計へ向けたもの。

 文面は、短く、やさしかった。

 ぼくは赤字で修正し、角を少し戻した。

 角は、指に当たった。



家計省・つもり貯金局

件名:残高活用に関するお知らせ

いつもご協力ありがとうございます。

現在、みなさまのつもり貯金残高が所定額を超え、未設定となっております。

経済の血流維持と公共利益のため、下記のとおり実施いたします。



残高の一部を公共プールへ移し、代理購買に充当します。



購買品は公共倉庫にて保管し、貸与・展示・体験提供を行います。



手続不要です。詳細は追ってご案内します。

どうぞ、安心してお過ごしください。



 送信の前、ぼくは一度だけ窓の外を見た。

 商店街の端で、八百屋の灯りが弱く瞬いた。

 風が吹き、現金のみの紙がはがれかけた。

 紙は舞い、路上で回転し、溝に落ちた。

 拾う人は、いなかった。

 拾うべき時間は、過ぎていた。



 送信ボタンは四角く、押し心地は軽かった。

 軽い動作は、重い結果を運ぶ。

 ぼくは押した。

 画面の最上段に、送信完了が燈った。



 遠くで倉庫のフォークリフトが動き、

 近くでシャッターがゆっくり降り、

 ニュースが予定調和の言葉を並べた。



 そして、その夜——



 あなたの代わりに——国が買いました。