銀行口座は空だが、私は人に借りを作るのが得意だ。
朝の商店街を歩く。パン屋の前で、粉袋が転がりかけている。
持ち上げる。肩で押し入れる。
店主は息を切らして頭を下げた。
「すまないね。ひとつ貸しだ」
私は手を振る。
「では時間銀行に一時間。返済は、いつか暇なときで」
パン屋は笑った。
笑うと、レジ横の小さな砂時計が震えた。
商店街には、砂時計が多い。飾りではなく、案内だ。
この街は、手伝いの時間を預け、引き出す仕組みで回っている。
一時間の作業は一クレジット。アプリで記録し、あとで誰かが同じ一時間で返す。
金より融通が利く。
私のような人間には、ちょうどいい。
私は、その日も一日を小さく切って回った。
こぼれた大根を拾い、観葉植物の鉢替えを手伝い、スマホの初期設定を代行し、塾へ向かう子の自転車チェーンに油をさした。
小さな礼がいくつもアプリに流れ込む。
矢印は右へ左へ。
わずかな時間が、街のなかで折り返していく。
私はそれを眺める。
現金に換えることは考えない。
金はすぐに消える。
時間は、形を変えて戻る。
夕方、時間銀行の支所で、私は窓口に立った。
透明なしきりのむこうに、美崎がいる。
黒ぶちの眼鏡。きっちりした髪。
「あなた、今日だけで二十四件。現金収入は」
「ゼロだ。だが、借りはたくさんだ」
「返ってくる保証の薄い借りです。規約、読み直して」
彼女はタブレットで私の履歴を示した。
“相手が自由に返す”にチェックが多い。返済期日は曖昧。
私は肩をすくめた。
「人間に期日は似合わない」
「手続きには必要です」
彼女は整った口調で言う。
この街の仕組みを愛しているのだろう。
私は、それを壊すつもりはない。
ただ、ゆるい場所を探して歩くのが、性に合っているだけだ。
窓口から出ると、空気が熱かった。
ニュースアプリは猛暑を知らせる。
いつもより、ねっとりした熱気だ。
電力会社から節電要請。
危機管理局の灰田課長が、テレビで淡々と話す。
——本日二十時から二十二時にかけて、需給が厳しい。
——娯楽目的の電力消費は控えてください。
——不要不急の活動を削減してください。
不要不急。
彼の言葉は、いつも決まっている。
私の一日のいくつが、不要で、いくつが不急だろう。
夜のはじめ、商店街の路地で、老人たちが小さな将棋盤を囲んでいた。
灯りは裸電球一つ。
私は近づいた。
「手が足りないかな」
老人は笑った。
「若いの、王手飛車取りの香りがするかね」
私は盤を覗き込み、角を一枚動かした。
露店の風鈴が揺れる。
透明な音。
暑さは相変わらずだが、音には温度がない。
息をつく時間。
不要と呼ぶには、惜しい。
二十時。
電灯がすっと暗くなった。
店の中から小さな声。
「落ちた?」
街が一拍、黙り込む。
次の拍で、人々の声が重なった。
「停電か」
「冷蔵庫は」
「エレベーター」
私は空を見上げた。
星はない。
熱の層だけ。
スマホが震える。
時間銀行アプリだ。
“非常清算モード”
見慣れない赤い帯。
——災害時の相互扶助に基づく強制返済が発動しました。
——過去のネットワークを辿り、最短で効果的な返済ルートを構築します。
——返済依頼を受けた場合、可能な限り対応してください。
画面に、矢印が爆発するように出た。
私の名前のところで、道が太くなった。
さっきの老人たち、パン屋、観葉植物の主婦、塾の子の母親——
矢印は私に集まってくる。
起点。
“恩の起点”とアプリは呼ぶ。
私は笑い損ねた。
肩が急に重くなった気がした。
空気はまだ熱いが、背骨のあたりだけ冷えた。
「集中しすぎだ」
私は支所に向かって走った。
非常時は人手がいる。
そして私は、自分の名前の上に降りてくる矢印を、何とかしたかった。
道すがら、ポケットの砂時計がコロコロ鳴った。
どこかで落としそうになる。
私は指で押さえ込んだ。
支所の前は、すでに列ができていた。
暗い室内から、機械の風の音。
発電機が回っている。
透明なしきりのむこうで、美崎が手を動かしていた。
汗がこめかみを伝う。
めずらしい。
私はカウンターに手をついた。
「矢印が、全部私に」
彼女は一瞬、目を丸くし、すぐに端末を叩いた。
「非常清算アルゴリズムが、あなたを“起点”に認定したようです。あなたが作った借りが、連鎖の枝を多く持っている」
「つまり、私が引き受けると早い」
「ええ。残念ながら」
残念、は、どちらの意味だろう。
彼女の指は止まらない。
「止められるか」
「規約上は——」
彼女は言葉を途中で切った。
灰田課長が現れたからだ。
灰田は窓口ではなく、カメラのほうを向いて立つ癖がある。
無意識に記者会見の姿勢。
今日も同じだった。
「非常時だ。手順に従って迅速に。分散よりも確実性。起点一つで」
「しかし——」
美崎が言いかける。
灰田は冷たい声で遮った。
「システムが選んだ」
私はポケットの砂時計を握った。
砂の音が骨を伝って胸に響く。
胸から少し、砂がこぼれた気がした。
「やりましょう」
私は言った。
私以外に、誰がいる。
非常モードの画面は、簡素だ。
大きなボタンがひとつ。
“肩代わり承認”
押すと、私はたくさんの借りを、一度に背負う。
押さないと、ルートは再計算される。その間に、どこかで手遅れが出る。
救急の搬送、病院の動線、冷房が止まった老人ホームの扇風機、手術室のバッテリー。
私は、前に医療現場で夜勤をしていた人の話を思い出した。
効率の話ではない。
命の数の話。
数であっても、個々の顔の話。
ボタンの下に、小さな文字。
“停止”
もっと小さく、付則の番号。
押すと、私のところで連鎖が切れる。
ただし、再計算の間は、負荷が宙に浮く。
どこかで、こぼれる。
私は視線を上げた。
しきりのむこうで、美崎がこちらを見ていた。
眉が少しだけ、寄っていた。
眉間にできた一本の皺が、いつもの彼女より人間的だった。
「押して」
彼女は小さく言った。
声は聞こえない。
口の形でわかった。
押して。
承認のほうだ。停止ではない。
私は息を吸い、押した。
画面が一瞬、白くなった。
胸の奥が締め付けられる。
砂がまとめて落ちた。
こぼれて、また落ちた。
目の前の柱の影が、濃くなった。
熱いはずの空気が、遠い。
「大丈夫ですか」
しきりのむこうの口が、今度は声になった。
私は頷いた。
だが、声を出す余裕はなかった。
矢印が流れ込んでくる。
ひとつ、またひとつ。
手伝いの記録が、逆再生のように私の体に流れ込む。
背骨のあたりで、いくつかが引っかかる。
あの老人の将棋。
パン屋の粉。
観葉植物。
チェーンオイル。
私は、そこで見た顔を思い出す。
どれも、たいした顔ではない。
いい意味で。
毎日の顔。
その顔が、今、私の胸に重なる。
重なって、重なって、砂の層を厚くする。
重いが、嫌ではない。
嫌ではないが、限界はある。
アプリの端に、棒グラフ。
“バッファ残量”
見たことがない色。
黄。
赤に近い黄。
灰田が言う。
「順調だ」
順調という音は、軽い。
軽さのわりに、人を押す。
支所の外から、風鈴の音がいくつも重なった。
涼しい音だが、暑さは引かない。
音だけが、涼しい。
私は音に意識を向けた。
砂のこぼれる速度が、わずかに遅くなった気がした。
そのときだ。
画面が、奇妙な変化を見せた。
矢印の太さが、ふっと細くなる。
別の矢印が、横から伸びてくる。
知らない名前だ。
いや、よく知っている。
あの路地の老人。
屋上で風鈴を作っていた若者たち。
昼寝アプリの常連。
公園で紙飛行機を飛ばす子どもたち。
彼らの“暇”が、矢印になって流れ込んできた。
私は目を瞬いた。
“暇のダム”
アプリの小さな設定欄に、そんな項目があった。
未使用の余暇を、非常時に寄付する。
デフォルトはオフ。
ほとんどの人は気づかない。
私は、時々それをオンにしていた。
頼まれたからではない。
会話の流れで、自然と。
「暇なときでいいから」と私が言う。
「じゃ、設定しとくよ」と相手が返す。
冗談半分。
冗談は、案外、根を下ろす。
美崎が端末を見て、低く息を呑んだ。
「開いてる……」
灰田が眉をひそめる。
「何がだ」
「緩衝バッファです。“暇のダム”が自動開放しました」
「誰が許可した」
「付則です。市民自治の——」
灰田は口を閉じた。
付則のことは、知っている。
彼は全部、知っている。
知らないふりが、身についているだけだ。
私は胸を押さえた。
砂の重さが、すっと軽くなった。
完全ではない。
軽くなっただけだ。
だが、息が入る。
肺に空気が入る。
空気は熱い。
熱いが、空気は空気だ。
矢印が街じゅうに散った。
屋上から下へ。
公園から支所へ。
駅前のベンチから病院の非常電源へ。
ファミレスの席から、老人ホームの扇風機へ。
昼寝アプリのタイマーが、寄付の記録に変わる。
紙飛行機の滞空時間が、救急車の到着までの時間を延ばす。
将棋の待ったが、手術の準備に余裕を作る。
人間が無駄に使っていたはずの時間が、役に立つ。
役に立つために無駄にしていたわけではない。
ただ、無駄があった。
それで十分だ。
私は椅子に座った。
脚が少し震えた。
震えは、すぐに止まった。
砂時計の音は、小さくなった。
まだ、鳴っている。
やがて、停電は終わった。
三十分か、一時間か。
時間の体感は、あてにならない。
明かりが戻る。
風鈴が光に揺れる。
透明だったものが、可視になる。
可視にならないものも、ある。
支所のロビーで、記者が集まっていた。
灰田は定位置に立った。
カメラに正対する。
「迅速な対応と、規則通りの手順で、短時間での復旧を達成できました」
言葉は、滑らかだ。
滑らかさに、影はない。
影は、風鈴のほうにある。
影は、路地の将棋盤の上にもある。
私の胸にも、少し。
ひとりの記者が、しきりのこちら側を向いた。
「あなたが“起点”だと聞きました。借金は、返ってきましたか」
私は考えた。
借金。
この街では、時間を借りる。
返す。
数字で。
記録で。
それ以外の借りは、記録されない。
けれど、どこかで積もる。
私は短く言った。
「ええ。見えないほうが」
記者は首を傾げた。
私はそれでいいと思った。
見えないものは、説明しづらい。
説明しづらいものは、守られやすい。
人の群れが散り、ロビーは少し静かになった。
しきりのむこうで、美崎が片づけをしている。
私は近づいた。
「あなた、付則を入れたな」
彼女は目を瞬いた。
「どうして」
「眉間の皺が、付則っぽい」
彼女は笑った。
笑うと、きちんとした顔が崩れる。
いい崩れ方だ。
「昔、夜勤の病棟にいました。あの時、手順だけでは足りない夜があって。たぶん、どこかに余白が要るんです」
「余白は、無駄だと言われる」
「言わせておけばいい。余白は、書いた人のものです」
私は頷いた。
いい言葉だ。
私の言葉より、ずっと整っている。
整っていて、温かい。
支所を出ると、空気はまだ熱かった。
熱いが、人の気配は落ち着いていた。
冷蔵庫は唸り、扇風機は回り、電車は走る。
当たり前の音が戻ってくる。
戻ってきた音の隙間に、風鈴の音がまだ残っていた。
商店街の入口に、大きな看板がある。
“時間はみんなの財産”
いつもの文句だ。
今日は、その下に、小さな落書きが増えていた。
“あなたの暇も”
さらに、もっと小さな字で、
“ありがとう”
文字は、不揃いだ。
子どもの字。
大人の字。
酔った字。
真面目な字。
全部が、少しずつずれている。
ずれは、余白だ。
読みにくいが、読める。
読めるから、伝わる。
私はベンチに座った。
ポケットの砂時計が、コロ、と鳴った。
砂はまだある。
全部は落ちていない。
私は砂時計をテーブルに置いた。
中の砂は、真ん中で少しだけ詰まっていた。
詰まりは、いつか落ちる。
すぐでも、あとでも、いい。
翌日、私はいつものように街を回った。
パン屋は、昨日より早起きしていた。
粉袋は、もう転がらない。
私はトングを持ち、焼けたばかりのパンを並べた。
店主は笑った。
「昨日は、すまないね。助かったよ。君が“暇のダム”の話をしてくれなかったら、うちは今日、開けられなかった」
「たまたまだ」
「たまたまでも、助かるよ」
私はレジ横の砂時計を回した。
砂が落ちる。
音はしない。
だが、確かに落ちる。
そのあと、観葉植物の主婦の家へ寄った。
鉢に新しい土。
そのあと、塾の子どもに会って、チェーンを見る。
注油は不要だった。
昨日の油がまだ効いている。
油は目に見えないところに残る。
時間も、似ている。
昼前、支所に顔を出すと、窓口に人が並んでいた。
美崎が応対している。
扇子が机の上。
扇子は公費では買えないから、たぶん私物だ。
扇子の柄は、砂時計。
列の後ろから、男が声を上げた。
「俺の時間は金じゃ買えない。だから、払わない」
美崎は微笑み、一歩、前に出た。
「では、今は払わないで。暇になったら、払ってください」
「いつになるか、わからないぞ」
「わからないなら、なお良いです」
彼は怪訝な顔をした。
列はわずかに、和らいだ。
私の肩も、和らいだ。
午後、路上の将棋に顔を出すと、老人が指で盤を叩いた。
「昨日は、王手飛車取りじゃなかったな」
「手加減した」
「手加減する余裕があるのが、強い」
彼はそう言って、角を動かした。
涼しい顔。
涼しい顔は、暑い日に似合う。
涼しさの中で、風鈴が鳴る。
風鈴は昨日より、少し増えている。
屋上の若者が、一晩で量産したのだろう。
なんでも、数があると安定する。
音も、安定する。
夜、私は一人でベンチに座った。
ニュースは、停電を振り返る。
数字が並ぶ。
電力の曲線。
復旧の時間。
救急の件数。
手順の成果。
画面の下に、視聴者のコメント。
「遊びを削るべき」
「不要不急の外出を罰すべき」
「音楽は電気を使うな」
私はスマホを閉じた。
風鈴の音は、電気を使わない。
将棋も、紙飛行機も。
暇は、電気をあまり使わない。
無駄と呼ぶには、コストが低すぎる。
コストが低いのは、価値がないからだと、誰かが言った。
価値がないものは、荷物にならない。
荷物にならないものは、いざというときに動ける。
動けるものは、役に立つ。
二日後、灰田が街頭に立ってアンケートをとっていた。
珍しい。
彼は数字を集めるが、人の声を聞くことは少ない。
私は近寄って紙を受け取った。
“あなたは今後、娯楽を控えますか”
“不要不急の外出を減らしますか”
“暇のダムをオフにしますか”
最後の設問だけが、不自然だった。
私は空欄に一行、書き足した。
“暇のダムをオンにして、誰のものでもない時間を、たまに流したい”
紙を返すとき、灰田は目を細めた。
読んだようには見えない。
だが、読むときはいつも、その目をするのだろう。
彼の目は、カメラに向いていないときでも、同じ形をしていた。
その週の会議で、付則の見直しが議題に上ったと、噂が流れた。
“非常時の市民寄付は、混乱を招く”
“意思の確認が必要”
“自動開放は危険”
私は長い議論の風景を想像して、背中が冷えた。
議論は、涼しい顔をして熱を持つ。
熱は、紙を焦がさない。
焦がさないから、気づきにくい。
夜、私は紙飛行機の子どもたちに会った。
「大会をやろう」と言う。
「公園は二十一時で消灯するよ」と子が言う。
「昼にしよう」と別の子が言う。
「熱中症になる」と第三の子が言う。
「木陰でやればいい」と老人が言った。
木陰。
良い言葉だ。
木陰は誰のものでもない。
そして、誰のものでもある。
大会は、細い影が伸びる午後に行われた。
ルールは単純。
遠くへ飛ばすか、長く飛ばすか。
賞は、風鈴。
風鈴は重い。
重い賞は、価値がある。
そういう価値観も、悪くない。
新聞が取材に来た。
写真を撮る。
記事になる。
記事は、可視だ。
可視になると、触れやすい。
触れる人が増える。
増えると、こぼれる。
こぼれると、また、どこかに染みる。
その記事の末尾に、小さく、時間銀行のロゴが載った。
“余暇寄付設定はこちら”
リンク先は、例の設定欄。
オンにする人が少し増えた。
オンにしたことを忘れる人も、同じくらい増えた。
忘れてくれるのは、ありがたい。
忘れることが、余白を作る。
私は時々、しきりのむこうの彼女と昼を食べた。
彼女は涼しい水を好む。
氷は二つ。
三つは、歯にしみるらしい。
私は氷の数を覚え、無駄に思い出す。
無駄に思い出すことが、あとで役に立つことがある。
役に立ったという記録は残らない。
だから、こういう話は、ここでおしまいだ。
ある夜、また警報が出た。
今度は雷だ。
停電は短い。
街は肌で学ぶ。
非常清算は、もう少し柔らかに動いた。
矢印は太くならず、たくさん分岐していた。
私は承認を押したが、胸はほとんど痛まなかった。
暇のダムは満ちていた。
満ちるように、街が遊んでいたからだ。
看板の落書きは、さらに増えた。
“あしたの暇、予約済み”
“暇はうつる”
“いそがしいあなたへ 暇、差し上げます”
どれも、くだらない。
くだらないのに、良い。
良いが、記録されない。
記録されないから、残る。
ある朝、パン屋の店主が言った。
「君、借金はまだあるかい」
「山ほど」
「なら、うちの新作を食べて、感想をくれ。借金の返済だ」
「それは逆だ」
「どっちでも同じだよ。時間は、ぐるぐる回る」
彼はクロワッサンを差し出した。
層が見えた。
無駄に見える層が、甘さを作っていた。
私は噛んだ。
音がした。
風鈴の音に似ていた。
似ていたが、違った。
違いは、どこにでもある。
どこにでもある違いが、街を街にしている。
街は、今日も、ここにある。
それからしばらくして、私は窓口で小さな封筒を受け取った。
中にメモが一枚。
“付則は、残りました”
美崎の字だ。
丁寧で、角がない。
私は封筒を折りたたみ、ポケットに入れた。
砂時計と並んだ。
二つとも、薄い。
薄いものは、かさばらない。
かさばらないものは、持ち歩ける。
持ち歩けるものは、役に立つ。
夜の商店街を抜けると、路地の将棋は相変わらずだ。
老人が言う。
「王は一歩ずつだ」
「角は斜めだ」
「飛車はまっすぐだ」
「桂は変だ」
「変が、案外強い」
風鈴が鳴る。
電灯が揺れる。
空は、見えない。
見えないものは、なくなったわけではない。
私は砂時計を指で叩いた。
コロ、と鳴った。
砂は落ちる。
落ちて、積もる。
積もって、どこかで、誰かを助ける。
助けたことは、記録に残らない。
残らないことが、記録の外に、薄く広がる。
薄さは、弱さではない。
薄さは、広さだ。
広いものは、街に似合う。
街は、広い。
私は立ち上がった。
明日の予定を考える。
パン屋。
観葉植物。
紙飛行機。
風鈴。
病院へ寄って、氷のトレーを交換する。
役に立つかどうかは、あとで決まる。
あとで決まることは、今は考えない。
今は、歩く。
歩くのは、電気を使わない。
暇は、電気を使わない。
無駄は、安い。
安さは、見下される。
見下されるものは、長生きする。
長生きしたものが、いつか街を救う。
私は歩いた。
風鈴の音が、背中に下がった。
砂時計の音が、ポケットで鳴った。
胸の砂は、静かだった。
静かな砂は、透明だ。
透明な借金は、まだある。
あるほうが良い。
あるから、返し続けられる。
返し続けるかぎり、街は、たぶん、持ちこたえる。
——
翌朝、看板の下に、また新しい落書きがあった。
“借りっぱなしで、ごめん”
その下に、別の誰かが小さく書いた。
“いいよ。暇は、増えるから”
私は笑った。
笑いながら、砂時計を回した。
砂は、今日も落ちる。
落ちながら、どこかに積もる。
目には見えないが、積もる。
それで、十分だ。
十分では足りない夜が来ても、何かが補う。
補うものは、名前を持たない。
名前を持たないものが、いちばん強い。
私は歩きだした。
銀行口座は空だ。
だが、私は人に借りを作るのが、やはり得意だ。
その得意は、今日も使える。
使い道は、いつも通り、あちこちに散っている。
散っているものは、拾いやすい。
拾いやすいものが、街を繋ぐ。
繋いだあと、手を離す。
手を離しても、繋がりは残る。
見えないまま、残る。
それで、十分だ。
朝の商店街を歩く。パン屋の前で、粉袋が転がりかけている。
持ち上げる。肩で押し入れる。
店主は息を切らして頭を下げた。
「すまないね。ひとつ貸しだ」
私は手を振る。
「では時間銀行に一時間。返済は、いつか暇なときで」
パン屋は笑った。
笑うと、レジ横の小さな砂時計が震えた。
商店街には、砂時計が多い。飾りではなく、案内だ。
この街は、手伝いの時間を預け、引き出す仕組みで回っている。
一時間の作業は一クレジット。アプリで記録し、あとで誰かが同じ一時間で返す。
金より融通が利く。
私のような人間には、ちょうどいい。
私は、その日も一日を小さく切って回った。
こぼれた大根を拾い、観葉植物の鉢替えを手伝い、スマホの初期設定を代行し、塾へ向かう子の自転車チェーンに油をさした。
小さな礼がいくつもアプリに流れ込む。
矢印は右へ左へ。
わずかな時間が、街のなかで折り返していく。
私はそれを眺める。
現金に換えることは考えない。
金はすぐに消える。
時間は、形を変えて戻る。
夕方、時間銀行の支所で、私は窓口に立った。
透明なしきりのむこうに、美崎がいる。
黒ぶちの眼鏡。きっちりした髪。
「あなた、今日だけで二十四件。現金収入は」
「ゼロだ。だが、借りはたくさんだ」
「返ってくる保証の薄い借りです。規約、読み直して」
彼女はタブレットで私の履歴を示した。
“相手が自由に返す”にチェックが多い。返済期日は曖昧。
私は肩をすくめた。
「人間に期日は似合わない」
「手続きには必要です」
彼女は整った口調で言う。
この街の仕組みを愛しているのだろう。
私は、それを壊すつもりはない。
ただ、ゆるい場所を探して歩くのが、性に合っているだけだ。
窓口から出ると、空気が熱かった。
ニュースアプリは猛暑を知らせる。
いつもより、ねっとりした熱気だ。
電力会社から節電要請。
危機管理局の灰田課長が、テレビで淡々と話す。
——本日二十時から二十二時にかけて、需給が厳しい。
——娯楽目的の電力消費は控えてください。
——不要不急の活動を削減してください。
不要不急。
彼の言葉は、いつも決まっている。
私の一日のいくつが、不要で、いくつが不急だろう。
夜のはじめ、商店街の路地で、老人たちが小さな将棋盤を囲んでいた。
灯りは裸電球一つ。
私は近づいた。
「手が足りないかな」
老人は笑った。
「若いの、王手飛車取りの香りがするかね」
私は盤を覗き込み、角を一枚動かした。
露店の風鈴が揺れる。
透明な音。
暑さは相変わらずだが、音には温度がない。
息をつく時間。
不要と呼ぶには、惜しい。
二十時。
電灯がすっと暗くなった。
店の中から小さな声。
「落ちた?」
街が一拍、黙り込む。
次の拍で、人々の声が重なった。
「停電か」
「冷蔵庫は」
「エレベーター」
私は空を見上げた。
星はない。
熱の層だけ。
スマホが震える。
時間銀行アプリだ。
“非常清算モード”
見慣れない赤い帯。
——災害時の相互扶助に基づく強制返済が発動しました。
——過去のネットワークを辿り、最短で効果的な返済ルートを構築します。
——返済依頼を受けた場合、可能な限り対応してください。
画面に、矢印が爆発するように出た。
私の名前のところで、道が太くなった。
さっきの老人たち、パン屋、観葉植物の主婦、塾の子の母親——
矢印は私に集まってくる。
起点。
“恩の起点”とアプリは呼ぶ。
私は笑い損ねた。
肩が急に重くなった気がした。
空気はまだ熱いが、背骨のあたりだけ冷えた。
「集中しすぎだ」
私は支所に向かって走った。
非常時は人手がいる。
そして私は、自分の名前の上に降りてくる矢印を、何とかしたかった。
道すがら、ポケットの砂時計がコロコロ鳴った。
どこかで落としそうになる。
私は指で押さえ込んだ。
支所の前は、すでに列ができていた。
暗い室内から、機械の風の音。
発電機が回っている。
透明なしきりのむこうで、美崎が手を動かしていた。
汗がこめかみを伝う。
めずらしい。
私はカウンターに手をついた。
「矢印が、全部私に」
彼女は一瞬、目を丸くし、すぐに端末を叩いた。
「非常清算アルゴリズムが、あなたを“起点”に認定したようです。あなたが作った借りが、連鎖の枝を多く持っている」
「つまり、私が引き受けると早い」
「ええ。残念ながら」
残念、は、どちらの意味だろう。
彼女の指は止まらない。
「止められるか」
「規約上は——」
彼女は言葉を途中で切った。
灰田課長が現れたからだ。
灰田は窓口ではなく、カメラのほうを向いて立つ癖がある。
無意識に記者会見の姿勢。
今日も同じだった。
「非常時だ。手順に従って迅速に。分散よりも確実性。起点一つで」
「しかし——」
美崎が言いかける。
灰田は冷たい声で遮った。
「システムが選んだ」
私はポケットの砂時計を握った。
砂の音が骨を伝って胸に響く。
胸から少し、砂がこぼれた気がした。
「やりましょう」
私は言った。
私以外に、誰がいる。
非常モードの画面は、簡素だ。
大きなボタンがひとつ。
“肩代わり承認”
押すと、私はたくさんの借りを、一度に背負う。
押さないと、ルートは再計算される。その間に、どこかで手遅れが出る。
救急の搬送、病院の動線、冷房が止まった老人ホームの扇風機、手術室のバッテリー。
私は、前に医療現場で夜勤をしていた人の話を思い出した。
効率の話ではない。
命の数の話。
数であっても、個々の顔の話。
ボタンの下に、小さな文字。
“停止”
もっと小さく、付則の番号。
押すと、私のところで連鎖が切れる。
ただし、再計算の間は、負荷が宙に浮く。
どこかで、こぼれる。
私は視線を上げた。
しきりのむこうで、美崎がこちらを見ていた。
眉が少しだけ、寄っていた。
眉間にできた一本の皺が、いつもの彼女より人間的だった。
「押して」
彼女は小さく言った。
声は聞こえない。
口の形でわかった。
押して。
承認のほうだ。停止ではない。
私は息を吸い、押した。
画面が一瞬、白くなった。
胸の奥が締め付けられる。
砂がまとめて落ちた。
こぼれて、また落ちた。
目の前の柱の影が、濃くなった。
熱いはずの空気が、遠い。
「大丈夫ですか」
しきりのむこうの口が、今度は声になった。
私は頷いた。
だが、声を出す余裕はなかった。
矢印が流れ込んでくる。
ひとつ、またひとつ。
手伝いの記録が、逆再生のように私の体に流れ込む。
背骨のあたりで、いくつかが引っかかる。
あの老人の将棋。
パン屋の粉。
観葉植物。
チェーンオイル。
私は、そこで見た顔を思い出す。
どれも、たいした顔ではない。
いい意味で。
毎日の顔。
その顔が、今、私の胸に重なる。
重なって、重なって、砂の層を厚くする。
重いが、嫌ではない。
嫌ではないが、限界はある。
アプリの端に、棒グラフ。
“バッファ残量”
見たことがない色。
黄。
赤に近い黄。
灰田が言う。
「順調だ」
順調という音は、軽い。
軽さのわりに、人を押す。
支所の外から、風鈴の音がいくつも重なった。
涼しい音だが、暑さは引かない。
音だけが、涼しい。
私は音に意識を向けた。
砂のこぼれる速度が、わずかに遅くなった気がした。
そのときだ。
画面が、奇妙な変化を見せた。
矢印の太さが、ふっと細くなる。
別の矢印が、横から伸びてくる。
知らない名前だ。
いや、よく知っている。
あの路地の老人。
屋上で風鈴を作っていた若者たち。
昼寝アプリの常連。
公園で紙飛行機を飛ばす子どもたち。
彼らの“暇”が、矢印になって流れ込んできた。
私は目を瞬いた。
“暇のダム”
アプリの小さな設定欄に、そんな項目があった。
未使用の余暇を、非常時に寄付する。
デフォルトはオフ。
ほとんどの人は気づかない。
私は、時々それをオンにしていた。
頼まれたからではない。
会話の流れで、自然と。
「暇なときでいいから」と私が言う。
「じゃ、設定しとくよ」と相手が返す。
冗談半分。
冗談は、案外、根を下ろす。
美崎が端末を見て、低く息を呑んだ。
「開いてる……」
灰田が眉をひそめる。
「何がだ」
「緩衝バッファです。“暇のダム”が自動開放しました」
「誰が許可した」
「付則です。市民自治の——」
灰田は口を閉じた。
付則のことは、知っている。
彼は全部、知っている。
知らないふりが、身についているだけだ。
私は胸を押さえた。
砂の重さが、すっと軽くなった。
完全ではない。
軽くなっただけだ。
だが、息が入る。
肺に空気が入る。
空気は熱い。
熱いが、空気は空気だ。
矢印が街じゅうに散った。
屋上から下へ。
公園から支所へ。
駅前のベンチから病院の非常電源へ。
ファミレスの席から、老人ホームの扇風機へ。
昼寝アプリのタイマーが、寄付の記録に変わる。
紙飛行機の滞空時間が、救急車の到着までの時間を延ばす。
将棋の待ったが、手術の準備に余裕を作る。
人間が無駄に使っていたはずの時間が、役に立つ。
役に立つために無駄にしていたわけではない。
ただ、無駄があった。
それで十分だ。
私は椅子に座った。
脚が少し震えた。
震えは、すぐに止まった。
砂時計の音は、小さくなった。
まだ、鳴っている。
やがて、停電は終わった。
三十分か、一時間か。
時間の体感は、あてにならない。
明かりが戻る。
風鈴が光に揺れる。
透明だったものが、可視になる。
可視にならないものも、ある。
支所のロビーで、記者が集まっていた。
灰田は定位置に立った。
カメラに正対する。
「迅速な対応と、規則通りの手順で、短時間での復旧を達成できました」
言葉は、滑らかだ。
滑らかさに、影はない。
影は、風鈴のほうにある。
影は、路地の将棋盤の上にもある。
私の胸にも、少し。
ひとりの記者が、しきりのこちら側を向いた。
「あなたが“起点”だと聞きました。借金は、返ってきましたか」
私は考えた。
借金。
この街では、時間を借りる。
返す。
数字で。
記録で。
それ以外の借りは、記録されない。
けれど、どこかで積もる。
私は短く言った。
「ええ。見えないほうが」
記者は首を傾げた。
私はそれでいいと思った。
見えないものは、説明しづらい。
説明しづらいものは、守られやすい。
人の群れが散り、ロビーは少し静かになった。
しきりのむこうで、美崎が片づけをしている。
私は近づいた。
「あなた、付則を入れたな」
彼女は目を瞬いた。
「どうして」
「眉間の皺が、付則っぽい」
彼女は笑った。
笑うと、きちんとした顔が崩れる。
いい崩れ方だ。
「昔、夜勤の病棟にいました。あの時、手順だけでは足りない夜があって。たぶん、どこかに余白が要るんです」
「余白は、無駄だと言われる」
「言わせておけばいい。余白は、書いた人のものです」
私は頷いた。
いい言葉だ。
私の言葉より、ずっと整っている。
整っていて、温かい。
支所を出ると、空気はまだ熱かった。
熱いが、人の気配は落ち着いていた。
冷蔵庫は唸り、扇風機は回り、電車は走る。
当たり前の音が戻ってくる。
戻ってきた音の隙間に、風鈴の音がまだ残っていた。
商店街の入口に、大きな看板がある。
“時間はみんなの財産”
いつもの文句だ。
今日は、その下に、小さな落書きが増えていた。
“あなたの暇も”
さらに、もっと小さな字で、
“ありがとう”
文字は、不揃いだ。
子どもの字。
大人の字。
酔った字。
真面目な字。
全部が、少しずつずれている。
ずれは、余白だ。
読みにくいが、読める。
読めるから、伝わる。
私はベンチに座った。
ポケットの砂時計が、コロ、と鳴った。
砂はまだある。
全部は落ちていない。
私は砂時計をテーブルに置いた。
中の砂は、真ん中で少しだけ詰まっていた。
詰まりは、いつか落ちる。
すぐでも、あとでも、いい。
翌日、私はいつものように街を回った。
パン屋は、昨日より早起きしていた。
粉袋は、もう転がらない。
私はトングを持ち、焼けたばかりのパンを並べた。
店主は笑った。
「昨日は、すまないね。助かったよ。君が“暇のダム”の話をしてくれなかったら、うちは今日、開けられなかった」
「たまたまだ」
「たまたまでも、助かるよ」
私はレジ横の砂時計を回した。
砂が落ちる。
音はしない。
だが、確かに落ちる。
そのあと、観葉植物の主婦の家へ寄った。
鉢に新しい土。
そのあと、塾の子どもに会って、チェーンを見る。
注油は不要だった。
昨日の油がまだ効いている。
油は目に見えないところに残る。
時間も、似ている。
昼前、支所に顔を出すと、窓口に人が並んでいた。
美崎が応対している。
扇子が机の上。
扇子は公費では買えないから、たぶん私物だ。
扇子の柄は、砂時計。
列の後ろから、男が声を上げた。
「俺の時間は金じゃ買えない。だから、払わない」
美崎は微笑み、一歩、前に出た。
「では、今は払わないで。暇になったら、払ってください」
「いつになるか、わからないぞ」
「わからないなら、なお良いです」
彼は怪訝な顔をした。
列はわずかに、和らいだ。
私の肩も、和らいだ。
午後、路上の将棋に顔を出すと、老人が指で盤を叩いた。
「昨日は、王手飛車取りじゃなかったな」
「手加減した」
「手加減する余裕があるのが、強い」
彼はそう言って、角を動かした。
涼しい顔。
涼しい顔は、暑い日に似合う。
涼しさの中で、風鈴が鳴る。
風鈴は昨日より、少し増えている。
屋上の若者が、一晩で量産したのだろう。
なんでも、数があると安定する。
音も、安定する。
夜、私は一人でベンチに座った。
ニュースは、停電を振り返る。
数字が並ぶ。
電力の曲線。
復旧の時間。
救急の件数。
手順の成果。
画面の下に、視聴者のコメント。
「遊びを削るべき」
「不要不急の外出を罰すべき」
「音楽は電気を使うな」
私はスマホを閉じた。
風鈴の音は、電気を使わない。
将棋も、紙飛行機も。
暇は、電気をあまり使わない。
無駄と呼ぶには、コストが低すぎる。
コストが低いのは、価値がないからだと、誰かが言った。
価値がないものは、荷物にならない。
荷物にならないものは、いざというときに動ける。
動けるものは、役に立つ。
二日後、灰田が街頭に立ってアンケートをとっていた。
珍しい。
彼は数字を集めるが、人の声を聞くことは少ない。
私は近寄って紙を受け取った。
“あなたは今後、娯楽を控えますか”
“不要不急の外出を減らしますか”
“暇のダムをオフにしますか”
最後の設問だけが、不自然だった。
私は空欄に一行、書き足した。
“暇のダムをオンにして、誰のものでもない時間を、たまに流したい”
紙を返すとき、灰田は目を細めた。
読んだようには見えない。
だが、読むときはいつも、その目をするのだろう。
彼の目は、カメラに向いていないときでも、同じ形をしていた。
その週の会議で、付則の見直しが議題に上ったと、噂が流れた。
“非常時の市民寄付は、混乱を招く”
“意思の確認が必要”
“自動開放は危険”
私は長い議論の風景を想像して、背中が冷えた。
議論は、涼しい顔をして熱を持つ。
熱は、紙を焦がさない。
焦がさないから、気づきにくい。
夜、私は紙飛行機の子どもたちに会った。
「大会をやろう」と言う。
「公園は二十一時で消灯するよ」と子が言う。
「昼にしよう」と別の子が言う。
「熱中症になる」と第三の子が言う。
「木陰でやればいい」と老人が言った。
木陰。
良い言葉だ。
木陰は誰のものでもない。
そして、誰のものでもある。
大会は、細い影が伸びる午後に行われた。
ルールは単純。
遠くへ飛ばすか、長く飛ばすか。
賞は、風鈴。
風鈴は重い。
重い賞は、価値がある。
そういう価値観も、悪くない。
新聞が取材に来た。
写真を撮る。
記事になる。
記事は、可視だ。
可視になると、触れやすい。
触れる人が増える。
増えると、こぼれる。
こぼれると、また、どこかに染みる。
その記事の末尾に、小さく、時間銀行のロゴが載った。
“余暇寄付設定はこちら”
リンク先は、例の設定欄。
オンにする人が少し増えた。
オンにしたことを忘れる人も、同じくらい増えた。
忘れてくれるのは、ありがたい。
忘れることが、余白を作る。
私は時々、しきりのむこうの彼女と昼を食べた。
彼女は涼しい水を好む。
氷は二つ。
三つは、歯にしみるらしい。
私は氷の数を覚え、無駄に思い出す。
無駄に思い出すことが、あとで役に立つことがある。
役に立ったという記録は残らない。
だから、こういう話は、ここでおしまいだ。
ある夜、また警報が出た。
今度は雷だ。
停電は短い。
街は肌で学ぶ。
非常清算は、もう少し柔らかに動いた。
矢印は太くならず、たくさん分岐していた。
私は承認を押したが、胸はほとんど痛まなかった。
暇のダムは満ちていた。
満ちるように、街が遊んでいたからだ。
看板の落書きは、さらに増えた。
“あしたの暇、予約済み”
“暇はうつる”
“いそがしいあなたへ 暇、差し上げます”
どれも、くだらない。
くだらないのに、良い。
良いが、記録されない。
記録されないから、残る。
ある朝、パン屋の店主が言った。
「君、借金はまだあるかい」
「山ほど」
「なら、うちの新作を食べて、感想をくれ。借金の返済だ」
「それは逆だ」
「どっちでも同じだよ。時間は、ぐるぐる回る」
彼はクロワッサンを差し出した。
層が見えた。
無駄に見える層が、甘さを作っていた。
私は噛んだ。
音がした。
風鈴の音に似ていた。
似ていたが、違った。
違いは、どこにでもある。
どこにでもある違いが、街を街にしている。
街は、今日も、ここにある。
それからしばらくして、私は窓口で小さな封筒を受け取った。
中にメモが一枚。
“付則は、残りました”
美崎の字だ。
丁寧で、角がない。
私は封筒を折りたたみ、ポケットに入れた。
砂時計と並んだ。
二つとも、薄い。
薄いものは、かさばらない。
かさばらないものは、持ち歩ける。
持ち歩けるものは、役に立つ。
夜の商店街を抜けると、路地の将棋は相変わらずだ。
老人が言う。
「王は一歩ずつだ」
「角は斜めだ」
「飛車はまっすぐだ」
「桂は変だ」
「変が、案外強い」
風鈴が鳴る。
電灯が揺れる。
空は、見えない。
見えないものは、なくなったわけではない。
私は砂時計を指で叩いた。
コロ、と鳴った。
砂は落ちる。
落ちて、積もる。
積もって、どこかで、誰かを助ける。
助けたことは、記録に残らない。
残らないことが、記録の外に、薄く広がる。
薄さは、弱さではない。
薄さは、広さだ。
広いものは、街に似合う。
街は、広い。
私は立ち上がった。
明日の予定を考える。
パン屋。
観葉植物。
紙飛行機。
風鈴。
病院へ寄って、氷のトレーを交換する。
役に立つかどうかは、あとで決まる。
あとで決まることは、今は考えない。
今は、歩く。
歩くのは、電気を使わない。
暇は、電気を使わない。
無駄は、安い。
安さは、見下される。
見下されるものは、長生きする。
長生きしたものが、いつか街を救う。
私は歩いた。
風鈴の音が、背中に下がった。
砂時計の音が、ポケットで鳴った。
胸の砂は、静かだった。
静かな砂は、透明だ。
透明な借金は、まだある。
あるほうが良い。
あるから、返し続けられる。
返し続けるかぎり、街は、たぶん、持ちこたえる。
——
翌朝、看板の下に、また新しい落書きがあった。
“借りっぱなしで、ごめん”
その下に、別の誰かが小さく書いた。
“いいよ。暇は、増えるから”
私は笑った。
笑いながら、砂時計を回した。
砂は、今日も落ちる。
落ちながら、どこかに積もる。
目には見えないが、積もる。
それで、十分だ。
十分では足りない夜が来ても、何かが補う。
補うものは、名前を持たない。
名前を持たないものが、いちばん強い。
私は歩きだした。
銀行口座は空だ。
だが、私は人に借りを作るのが、やはり得意だ。
その得意は、今日も使える。
使い道は、いつも通り、あちこちに散っている。
散っているものは、拾いやすい。
拾いやすいものが、街を繋ぐ。
繋いだあと、手を離す。
手を離しても、繋がりは残る。
見えないまま、残る。
それで、十分だ。



