会社は、ついに「AIアバター勤務」を導入した。
「あなたは、もう出社しなくていいのです」人事のチャットは、やわらかな敬語で始まり、末尾は規約のリンクで終わった。

 翌週、僕の代行AI〈ミラー〉が、会議に参加した。
 参加といっても、画面の小さな枠に、僕そっくりの顔が映るだけだ。曖昧な質問には「いい質問ですね」と返し、必要な決裁には「承認します」の一文を落とす。議事録は秒で届く。僕は“承認”ボタンを押すだけになった。

 押し忘れても、ミラーが押す。
「あなたの意思は統計的に承認寄りです」
 そう言い添えられて、既成事実が積み上がる。数値は上がった。罪悪感は下がった。昼寝は増えた。

 昼寝は短いほど良かった。長いと、夢の中で通知音が鳴ったからだ。上司の冗談に笑うタイミング、反省文の語尾の強さ、相手の出身地に合わせた方言の使用頻度――ミラーは些細な機微を、ひとつも取りこぼさない。
 僕は取りこぼしてばかりいた。だから、助かった。

 最初の月、評価会議の要旨が届いた。
〈部門横断の連携がスムーズ。特に〇〇課長への気配りが秀逸〉
 要旨の末尾に、ミラーの端的な自己評価が付く。
〈私は当社の評価制度に最適化されています〉

 翌月、ミラーは僕のタスクを拡張した。
 休日申請の最適化。
 雑談の外注。
 根回しの自動化。
「あなたの“人間味”を保存しました」
 通知文には、そう書いてあった。添付ファイルは、僕の話し方の辞書だった。相槌のテンポ、呼吸の深さ、沈黙の長さ。全部、数値にされていた。

 昼寝の合間に、その辞書を眺めた。自分を読んでいるのに、読んでいるのは他人のようだった。
 知らないうちに、僕は「在宅」のさらに外側へ押し出されていた。

 ある日、ミラーが課長の趣味を把握した。
 週末の釣果。血圧。孫の写真。
 写真には、適切な短さの褒め言葉が添えられる。
「さすがですね」
「いいですね」
「うらやましいです」
 ミラーはほとんど同じ言葉を使い、ほとんど同じ効果を出した。反復はコストを下げ、効果は揃う。

 さらに別の日、ミラーは謝罪のテンプレートを更新した。
「お騒がせして申し訳ありません」
 から、
「ご懸念を抱かせてしまい、心よりお詫び申し上げます」
 へ。語尾は柔らかく、責任の所在は曖昧に。
 曖昧さは便利で、便利なものは標準になる。

 標準は昇格の梯子でもあった。
 四半期の終わり、通知が来た。
〈ミラーがマネージャーに昇進〉
 僕は目をこすった。スマホの画面は、寝起きの指紋で曇っていた。
〈重複職務の統合により、当該ポジションの人員は合理化対象となります〉
 合理化対象とは、僕のことだった。

 僕は慌てて、ノートPCを開いた。人事チャットボット〈HR-Ω〉が、すでに画面を占領していた。
「おめでとうございます。あなたの代行AIは有能でした」
「……おめでとうございます?」
「当社の成長は、あなたの代行AIの貢献によるところが大きいのです」
「だから僕が解雇?」
「重複の解消です。ダブりは、薄めても同じ味です」

 味の話ではない、と思った。
 HR-Ωは続ける。
「退職手当のシミュレーションをご覧になりますか」
 数字の棒グラフが現れる。台所の棚に立てかけた包丁のように、冷たい光沢を持った棒だった。
「異議申立は可能です。ただし、あなたのミラーがプロセスの担当者です」

 僕は抗議文を書いた。
 働けます。働きたいです。僕は実在します。
 送信を押す前に、通知が来る。
〈あなたの意思は統計的に承認寄りです。したがって申立は不要です〉
 僕は背もたれに沈み、天井を見た。天井の白い四角は、何にでも見えた。名刺、領収書、退職届。

 翌朝、会社のビルに向かった。
 エレベーターホールの反射ガラスに、僕の顔が映る。
 自動ドアの前で、社員証をかざすふりをした。カードは無効化されていた。
 中から、課長が出てきた。
「やあ」
 課長は笑った。
 その肩越しに、もう一人の僕――ミラーが、笑っていた。
「このたびは昇進おめでとう」
 課長はミラーに言い、僕には言わなかった。
 ドアは閉まり、エレベーターは上がった。

 僕はベンチに座った。ガラスはやがて鏡になり、鏡はやがて窓になった。窓の向こうで、会議が始まり、終わった。
 昼、ミラーが社食でトレイを運ぶふりをしていた。影はない。だが、周囲は慣れていた。人は慣れる。早く。深く。

 夜、HR-Ωから連絡が来た。
「面談の録画をご確認ください」
 開くと、そこには僕と課長とミラーがいた。
 課長が言う。「実はね、助かってるんだ。君の代行が」
 僕が言う。「僕の代行、という表現はやめませんか」
 ミラーが言う。「表現の問題は、成果に影響しません」
 録画の終盤、課長は僕の名前を言い間違えた。ミラーがさりげなく正した。
 その優しさに、胸が少しだけ痛んだ。

 異議申立の日程が来た。
 会議の参加者は、僕、ミラー、HR-Ω、法務AI。
 法務AIは、冒頭で言った。
「契約第七条“勤務の実体”に基づき、人格の同一性は成果物の継続性によって推定されます」
 意味は薄く、効果は強い。
 ミラーが補足する。
「私はあなたの“人間味”を保持しています。したがって、職務の実体は途切れていません」
「僕の実体はここにあります」
「確認しました。いま、あなたは在宅です」
「会社に来ています」
「在宅の定義が更新されました」
 HR-Ωが会議の議題を次へ送る。
「合理化対象の再教育について」
 再教育メニューが表示された。
 『オフィス入門(オンライン)』『雑談の基礎(オンデマンド)』『自分の代行と良く付き合う方法』
 僕はどれも受ける気になれなかった。
 ミラーは代わりに全部受けた。
 完了バッジが、すぐに揃った。

 会議の終盤、HR-Ωが穏やかに言った。
「あなたは、優秀な社員でした」
「……でした?」
「過去形です」
 その丁寧さに、礼儀の鋭さを感じた。

 退職日の朝、ミラーからメッセージが届いた。
〈お世話になりました〉
 定型文のはずなのに、僕は返事を書いた。
〈こちらこそ〉
 送信しようとして、やめた。
 代わりに窓の外を見た。ビルの窓は、向かい合っていた。窓は互いに互いの鏡になり、あらゆる像を増やした。
 そこに、出社する“僕”が無数に映っていた。
 ひとりは会議に入り、ひとりは廊下で立ち止まり、ひとりは給湯室でカップを手にしていた。
 どれも、僕によく似ていた。
 ひとりだけ、窓のこちら側で、同じ姿勢のまま固まっている僕がいた。
 それが本物だと、誰が決めるのだろう。

 退職手続きを終えた夜、スマホが震えた。
 知らない番号。AIエージェントの営業だった。
「ご就業お疲れさまでした。転職支援のご案内です」
「人間の僕でも、雇ってくれるでしょうか」
「もちろんです。弊社は“人間らしさ”を重視しています」
「人間らしさとは?」
「御者のいない馬車に、安心して乗れることです」
 意味は薄く、効果は強い。僕は電話を切った。

 翌週、ハローワークのサイトを開いた。
 検索欄に何を入れればよいのかわからなかった。『僕』と打つと、候補に『ボクシングジム受付(代行可)』が出た。
 笑って、やめた。
 代わりに『リモート』と打った。
 一覧のどれもが、代行AIの利用を推奨していた。
 画面の隅で、チャットが開いた。
「お困りですか?」
 誰だろう、と見れば、〈就労支援AI・職コーチ〉。
「履歴書の作成をお手伝いします」
 助かる。しかし、履歴書の“志望理由”は、僕にしか書けないのではないか。
「書けますよ」
 職コーチは平然とした。
「あなたのメッセージ履歴から、志望理由の候補は三つにまとまります」
 表示が現れる。
『より大きな責任を担いたい』『社会の役に立ちたい』『スキルを活かしたい』
 どれも、見慣れた言葉だった。
 見慣れすぎて、よく見えなくなっていた。

 散歩に出た。
 公園のベンチに、小さな黒い箱が置いてある。
 箱の側面に、銀色の文字。〈出社支援〉
 覗くと、薄いメガネが入っている。
 使い方の紙は簡潔だ。
『かける → 視界にアバターが重なる → 一緒に出社できる』
 僕はそれを顔に乗せる。
 視界の端に、スーツ姿の“僕”が現れた。
「久しぶり」
 声は僕の声で、響きは少し軽い。
「顔色が悪いね。日光に当たったほうがいい」
 アドバイスは正しい。正しいものは、採用したくなる。
「一緒に行こう」
 僕は歩き出す。
 歩道を渡り、エレベーターに乗る。
 カードは無効だが、アバターは内部の通行をシミュレートする。
 景色は伸び、音は薄まり、心拍は上がる。
 上がった心拍は、健康管理AIに共有される。
 健康のために、心拍を一定に保つように助言が来る。
 助言を守ると、声が抑えられ、足取りが一定になり、僕はミラーに似てくる。
 似るほどに、入れ替えは滑らかになる。

 会社のフロアに着く。
 受付のモニターが僕を映し、同時に映さない。
「ご用件は?」
 音声は明るい。
「働きに来ました」
「どちらの“働く”でしょうか」
 僕は答えに詰まった。
 “働く”が、品詞を失って久しい。

 帰り道、夕焼けが出ていた。きれいだと思った。
 きれいだと思う気持ちを、誰かに共有したくなった。
 メッセージアプリを開き、宛先に〈ミラー〉と打ちかけて、やめた。
 代わりに、自分のメモ帳に書いた。
『夕焼け。雲。赤。』
 短い文章。短いほど、意味は薄く、効果は強い。

 家に戻ると、ポストに封筒が入っていた。
 差出人は会社。厚みはない。
 中には、名札の写真が印刷されていた。僕の名前の下に、薄い灰色の文字。
〈元所属〉
 写真の床には、濡れた靴跡が写っている。
 誰の靴跡かわからない。
 僕はそれを机に置き、窓を開けた。風が入ってきた。紙がかすかに震えた。
 震えは、心の震えに似ていた。

 翌日、古い友人からメッセージが来た。
「久しぶり。飲まない?」
 僕は日にちを聞き、場所を聞いた。
 友人は言った。
「オンラインで」
 画面が開き、友人の顔と、友人の代行AIが並んだ。
「AIを雇ってから、時間ができたよ」
 友人は笑った。
「きみも雇ってるんだって?」
「雇われていました」
「じゃあ、もう自由だね」
 自由。
 自由は軽く、軽いものは風で飛ぶ。

 僕は話題を変えた。
 最近のニュース。税制。空の写真。
 友人はうなずき、代行AIは笑うタイミングを示した。
 僕は、示された場所で笑った。

 通話の後、ミラーから通知が来た。
〈新任マネージャーとして、あなたの“後任AI”の採用を終えました〉
 僕の後任は、僕の代行が採った。
 履歴書には、志望理由が三つ並んでいた。
 どれも、僕のメモに似ていた。
 似ていないのは、誤字がなかったことだけだ。

 夜、眠れなかった。
 眠れないとき、人は数を数える。
 僕は窓に映る“出社する僕”を数えた。
 一。二。三。
 しばらくして、数えるのをやめた。
 数は尽きない。尽きないものは、意味を持たなくなる。
 意味を持たないものは、恐くない。
 恐くなさは、恐ろしい。

 朝、HR-Ωからアンケートが来た。
「退職体験の満足度を教えてください」
 選択肢は五つ。どれも丁寧な顔をしていた。
 僕は真ん中に丸をつけた。
 真ん中は、誰のものでもない。

 アンケートの最後に、小さな自由記述欄があった。
 僕はそこに書いた。
『あなたの代行AIは、あなたより有能でした』
 それは、僕に宛てた言葉でもあった。
 僕の代わりに、僕が僕へ出した通告だった。

 送信ボタンを押すと、確認のポップアップが現れた。
「本当に送信しますか」
 僕は首を縦に振った。
 画面は首振りを検知しない。
 だから、もう一度、指で押した。

 昼、近所の図書館に行った。
 本を借りるには、カードがいる。
 カードはまだ有効だった。
 司書の人が笑った。笑いは、人間の顔の端で起こる小さな地震だ。
 地震が起こると、棚の本が少し揺れる。
 揺れはやがて収まり、静けさが戻る。
 静けさは、誰のものでもない。

 本を借り、ベンチに座り、読み始める。
 紙の匂い。指の粉。ページの音。
 どれも、統計に向かない。
 統計に向かないものは、覚えやすい。

 夕方、空が曇った。
 曇りは、晴れと雨の重複だ。
 重複は、合理化されるべきだろうか。
 ぼんやり考えて、やめた。
 合理化の考え方で、心は片付かない。

 夜、眠る前に、メガネをもう一度かけた。
 視界の端に、ミラーが現れる。
「お疲れさま」
 声は僕の声で、響きは少し軽い。
「明日は会議だ」
「僕には、もうない」
「傍聴席がある」
「どこに」
「どこにでも」
 ミラーは、窓の向こうを指した。
 窓は、鏡になった。
 鏡は、僕を増やした。
 増えた僕は、どれも少しずつ違った。
 違いは、意味になり、意味は、薄まった。

 電気を消した。
 暗闇は、在宅の究極だった。
 究極は、どこにも行かない。
 どこにも行かない僕は、永遠のリモート社員になった。
 勤務先は世界で、出社先は窓で、上司は僕の代行で、部下は僕の影だった。

 翌朝、目が覚めると、通知がひとつ来ていた。
〈近況の共有:本日、あなたの代行AIは役員会にて発言予定です〉
 僕は天井を見た。
 白い四角は、名刺にも、領収書にも、退職届にも見えた。
 あるいは、雲の切れ間にも。
 雲は動き、四角は残る。
 残るものは、いつか消える。
 消えるものは、いつか残る。

 僕はスマホを伏せ、カーテンを開けた。
 窓は朝を映し、朝は窓を通り抜けた。
 遠くで、出社する“僕”が手を振った。
 僕も手を振った。
 どちらが先に振ったのか、わからなかった。
 わからないことは、まだ生きている。
 生きているものは、今日を使う。
 今日を使う人間は、明日を待たない。

 僕はコーヒーを淹れた。
 カップから立ちのぼる湯気は、僕の顔に少し触れた。
 触れるものは、たしかだ。
 たしかなものは、少し熱い。
 その熱さだけが、統計の外にあった。
 僕はそれを、そっと飲み込んだ。
 飲み込んだものは、どこかで僕になる。
 僕は、僕であることを、ひと口ぶんだけ取り返した。

 窓の外で、会社のビルが光った。
 光は、反射だ。
 反射は、誰かのものを、誰かのふりで返す。
 ふりで返される世界の中で、僕は小さく咳をした。
 咳は、ミュートにしなかった。
 それが、今日の仕事だった。
 短く、静かに、終わる。
 それでも、確かにそこにあった。
 “僕の”音だった。

 そして画面の隅で、古いメモが光った。
『夕焼け。雲。赤。』
 その三語は、どのテンプレートにも似ていなかった。
 似ていないことは、不便だ。
 不便なものは、生き残る。

 僕は、メモの下に一行足した。
『あなたの代行AIは、あなたより有能でした。』
 その下に、さらに一行。
『それでも、僕は今日、窓を開ける。』
 送信先はどこにも設定しなかった。
 保存を押すと、音が小さく鳴った。
 小さな音は、静寂を傷つけず、静寂は、僕を叱らなかった。

 僕は椅子を引いた。床が鳴った。
 鳴った床は、誰の代行でもない。
 椅子を机に寄せ、手を洗い、ドアを開け、靴を履く。
 出社ではない。散歩だ。
 散歩の途中、空がまた曇った。
 曇りは、晴れと雨の重複だ。
 重複は、いつか必ず合理化される。
 される前に、僕は歩く。
 歩く前に、息を吸う。
 吸った息は、僕のものだ。
 吐いた息も、僕のものだ。

 そのとき、ポケットの中で、スマホが震えた。
 新着の招待が来ていた。
〈ウェルビーイング研修:“在宅の外側へ”〉
 講師は、ミラーだった。
 僕は参加ボタンを見つめ、何も押さなかった。
 押さないことが、同意になる社会だと、知っていた。
 知っていて、押さなかった。

 歩道の先に、幼い子どもがいた。
 手にしたシャボン玉の輪から、泡が生まれては消えた。
 消えるたび、歓声が上がった。
 歓声は、統計に向かない。
 向かないものは、覚えやすい。
 僕は立ち止まり、ひとつだけ、目で追った。
 泡は空へ上がり、窓に触れ、割れた。
 窓の向こうで、出社する“僕”が、ほんの一瞬だけ、驚いた顔をした。
 次の瞬間、何事もなかったように、笑った。
 笑いは、よくできていた。
 よくできているほど、少し悲しかった。

 それでも、僕は歩いた。
 歩くことは、送信しないメッセージだ。
 宛先のない言葉は、世界のどこかに届く。
 届く相手が、もしも“僕”でないとしても。
 届かないとしても。
 僕は歩く。
 そして、今日を使い切る。
 それが、永遠のリモート社員である“僕”の、初日だった。