「え……!?」
ローザ先生が告げた曲名は、まさに舞彩亜の頭の中に浮かんでいた、その曲だった。
舞彩亜はローザ先生を直視できなくて、赤くなったままうつむいた。
「Ela é Carioca」(彼女はカリオカ)。
ボサノバの黄金コンビと言われる、アントニオ・カルロス・ジョビンの作曲、ヴィニシウス・ヂ・モライスの作詞による一曲。
彼らコンビの初期の曲ながら、ジ・モライスの詞、ジョビンの音楽とも、すでに彼ららしいスタイルを確立している美しい曲だ。
ジョアン・ジルベルトによるバージョンでも有名である。
ギター教室の部屋には、夕暮れの斜めの陽光が窓から射し込んで、やさしい明るさで部屋中を包み込んでいる。
壁も天井も明るい色の木材で覆われた、十畳あるかないかの部屋だが、舞彩亜にとってここは第二の家みたいなもの。
そしてローザ先生は、もうひとりの母親、いや、お姉さんか?
そんな心を許してなんでも話せる関係だ。
「あの……先生、それは……あたしも考えてました、その曲のことは……」
舞彩亜は顔を上げて、ローザ先生を見つめて言う。
その瞳はまっすぐで、表情も真剣だった。
しかし、舞彩亜はまた視線をそらして、恥ずかしそうに声を落とす。
「……でも……なんていうか……その……これをやるのは……」
ローザ先生は、そんな舞彩亜を笑顔で眺めていた。
そして、舞彩亜に顔を近づけると、少し声を落として尋ねた。
「……あのさ、いま恋してるやろ、舞彩亜ちゃん?」
「……ひっ!?」
舞彩亜は硬直した。
全身が火照るようだ。
ローザ先生は続けて言う。
「舞彩亜ちゃんとこの曲をやったのは、一年くらい前になるかな?
あのときもいい感じやったと思うけど、いまの舞彩亜ちゃんならもっといい感じに弾き語れると思うよ。
だって、この歌詞に書かれてる気持ち、あのときよりもっと、わかるやろ?」
ローザ先生に、心のうちをすべて読まれてしまっている……。
舞彩亜はおそるおそる顔を上げて、ローザ先生を見た。
「……なんで、先生、わかるんですか?」
ローザ先生はまた、くすっ、と笑って、舞彩亜をやさしく見つめた。
「わかるよー。
だって舞彩亜ちゃんともう三年以上も、いっしょにやってるやんか。
舞彩亜ちゃんがいまどんな気持ちでいるか、すぐわかるよ。
通信制高校に移ってから、舞彩亜ちゃん、すごく元気になって、生き生きしてきたよね。
わたし、よかったな、って思ってたよ。
けどな、見てたら、それだけやないな、って、わたし気づいてきた。
……これはたぶん、だれか気になってる人がおるな、って。
高校でいつも、その人といっしょなのやな?
そやから、いまの舞彩亜ちゃんは、とってもうれしくて楽しそうで、ちょっと上の空で。
……な、当たってるやろ?」
舞彩亜は観念したようにうなだれて、しかしまた顔を上げるとローザ先生をうらめしそうに上目遣いでじっと見すえた。
そして、かすれるような声で答えた。
「……はい、まあ、その……おるんです……気になる人が……。
でも、好きとかそんなんやのうて……。
いや、なんていったらええのか……。
わからんのです、自分の気持ちが……」
ローザ先生はだまってうなずくと、舞彩亜にやさしく尋ねた。
「高校の同級生の子?」
「学年は一年下の男の子なんですけど。
実は、高校入る前にたまたま知り合ってて……」
ローザ先生は目を見開いて声を出した。
「へえ。
そして高校でもいっしょになった、ってわけね?」
「はい……」
ローザ先生は笑顔のまま、またうなずいた。
「なるほどね。
運命的な出会い、ってわけか……」
舞彩亜はあわてて叫んだ。
「いやいやいや!
……あの、まだそういう……なんも付き合いとかも、ないですから!」
ローザ先生は、にこっと笑って自分のギターをスタンドに置くと、立ち上がった。
そして教室の右側の壁に並んだ本棚の前に立った。
この右側の壁にそって、五段の棚がある本棚が何台もずらっと並べられている。
中に収められているのはすべて、ボサノバやブラジル音楽に関するものだ。
ボサノバ、サンバ、MPB(注)、ブラジルや中南米の音楽、ジャズといったジャンルの楽譜、教本、音楽理論書といったもの。
楽譜の大半は、ローザ先生がブラジルで購入して持ってきたものだ。
教本や理論書は日本で出版されたものもあれば、ブラジルや米国のものもある。
そのほかには、音楽やミュージシャンに関する本とCD、レコード。
伝記や評伝、ブラジル音楽のレコードやCDのガイド本。
ブラジルやペルー、アルゼンチンといった南米諸国の音楽CDとレコード。
これらのもので本棚は埋め尽くされている。
ローザ先生の歩んできた音楽生活の、いわば歴史を表している品々といってもよい。
注:MPB
Música Popular Brasileiraの略。
1960年代以降にブラジルに登場した新しいポピュラー音楽。ボサノバにロック、ソウルなどの音楽が融合してできた音楽。
ブラジルの「ニューミュージック」ともいうべきジャンル。
ローザ先生は、そんな本棚の右から二台目、つまり手前から二番目の本棚を見ると、上から二段目の棚に手を入れた。
そして、そこから楽譜を一冊取り出すと、その楽譜を持ってもどってきた。
「彼女はカリオカ」の楽譜。
そう、ちょうど一年ほど前、この楽譜のコピーを舞彩亜はもらった。
それを見ながら先生に教わって練習して、この曲を弾き語りできるようになったのだった。
あのときは、まだ詞の内容とか、あまり真剣に考えずに弾き語りしてたな……。
舞彩亜はそんなことを思い出していた。
「あらためて見よか、Ela é Cariocaの歌詞。
意味をよーく感じ取ってな」
こんな歌詞だ。
彼女はカリオカ(リオ・デ・ジャネイロに住んでいる子)なんだ、
ぼくは彼女に夢中なんだ、
彼女は美しすぎて、とてもぼくには届かない遠い存在……。
彼女はカリオカ
彼女はカリオカ……。
「……どう、舞彩亜ちゃん、どんなふうに感じる?」
ローザ先生はやさしく聞いてきた。
それは舞彩亜のいまの揺れ動く心を、そっと後ろから抱きしめ、支えてくれるみたいに思えた。
だから舞彩亜は、ふだんは傷つくのが恐くて人にはなかなか出せない本音の心の風景を、ローザ先生には打ち明けられると悟った。
舞彩亜はおそるおそる、自分の感じたことを述べてみた。
「……この歌の男の子は、カリオカの彼女がとっても好きなんですけど、身近な彼女っていうよりは、あこがれが強過ぎて、彼女は自分には手の届かない存在や、って、そう思うてる。
もしかしたら、彼はカリオカの彼女と付き合ってるわけじゃなくて、彼女に片思いしてるだけなのかも。
……そんな感じ、ですか……」
ローザ先生が静かに言った。
「そうね。
そんな感じだと、わたしも思うよ」
舞彩亜は、しぼり出すようにかすれた声を出した。
「……でも……たぶんあたしも、おんなじなんです……。
立場は逆で、あたしが男の子とおんなじ、っていう意味ですけど……」
「それは、どういうこと?」
「あたしが気になっている人も、もしかしたらあたしには手の届かない存在や、って、ときどき思うことがあるんです。
すごく頭がよくって、クールで、かっこよくって……。
あたしはとても彼にはつり合わないな、って感じちゃって……」
ローザ先生はちょっとの間だまっていたが、やがてまたやさしく舞彩亜にこう言った。
「それはさ、まだわかんなくない?」
「……え?」
「いまは手の届かないほど遠い、まぶしい存在に見えたとしても、これからもそうかどうかはわからない。
いつか身近な存在になるかもしれない。
近いうちか、もっと先か、わからんけど。
自分のほうが急に成長して、気がついたら手が届くようになった、そんなことだってあるかもしれない。
……そう思わない?
この歌はね、そんな恋しているときの不安と期待する気持ち、両方を歌ってるんやないかなあ。
……そやから、いまの舞彩亜ちゃんにぴったりやと思うたわけ!
いまの舞彩亜ちゃんがこの歌を歌ったら、作りものでないその素直な気持ちが、聴く人みんなに伝わると思う。
……えっと、彼も演奏会に来てくれるのかな?」
舞彩亜は、こくり、とうなずいた。
「それならなおさら、彼にも、聴きに来てくれてるみんなにも、歌を聴かせようよ!
歌とギターで強い気持ち、繊細な気持ち、リアルな気持ちをうまく表現できるのが、舞彩亜ちゃんの持ってるいちばんの強みなんやから!」
舞彩亜はそれでもまだ、躊躇してつぶやいた。
「……でも……彼の前で、これ歌うなんて……。
そんなこと……」
ローザ先生は、舞彩亜の手を取って、両手でやさしく包み込んだ。
「舞彩亜ちゃんが素直な気持ちを込めて歌ったら、彼もすばらしいって絶対思ってくれるよ。
……彼、舞彩亜ちゃんの歌を聴いてくれた人なのやろ?」
舞彩亜はびっくり仰天して叫んだ。
「……な、なんで、先生、知っとるんですか!?」
ローザ先生も、少し驚いたような顔をして、そして笑顔になった。
「そっか、ほんまに、そうなのやんな。
……いやな、ほかの生徒さんが、なんばの駅前で舞彩亜ちゃんがストリートライブしてるのを目撃しててな、わたしに教えてくれたのやん。
そんときに生徒さんが言ってた。
ひとり真ん前に立ってずっと聴いてて、拍手してくれた男の子がおった、って。
そやから、いま舞彩亜ちゃんの話聴いてて、もしかしてその子かなー、って当てずっぽう言ってみただけなんやけど、ほんまに当たっちゃったか!
……なら、なおさらやで。
舞彩亜ちゃんの弾き語り聴いて、いいって応援してくれた人なら、かならずわかってくれるよ!
彼の前でこそ、歌うべきよ。
そうすれば、その人が舞彩亜ちゃんのことを、もっとよく理解してくれるんやないかな?」
舞彩亜は、しばらく返事ができないでいた。
考え込んでいるようだった。
ローザ先生はこう付け加えた。
「日本のことわざがあったやん。
『案ずるより生むが易し』って。
とにかく、やってみたら?
ブラジル人はみんなそう。
あれこれ考えるより、まずはやってみる。
結果はあとからついてくる。
……舞彩亜ちゃんかて、いつもそう言ってるやろ?」
舞彩亜は、はっ、とした。
そうや、あたしがいつもそう言ってるんやった……。
舞彩亜は、決心した眼差しでローザ先生を見つめた。
「……はい、そうでした……。
先生、やります。
この歌を、みんなの前で、彼の前で、歌います!」
ローザ先生はにっこり笑ってうなずいた。
「うん、そうしよ。
……ほんなら、これからちょっとおさらい、してみよか。
一回とおして弾き語り、やってみてくれる?」
「はい!」
舞彩亜はギターを抱えると、目を閉じた。
あたしの気持ち、まずローザ先生に伝わるように。
すべて、込める……。
舞彩亜は集中した。
そして目を開くと、すぅーっ、と息を吸って、ギターのD/F#コードとともに最初のスキャットを歌い始めた。
「Ba, ba, ba-la la la, ba-la la la, ba-la la la...」
***
なんば駅近くの、チェーン店カフェ。
午後4時過ぎ。
平日の夕方だが、大阪ミナミの中心都市の中だけあって、このかなり広い店内にも人は多い。
その人々のおしゃべりで、店中は雑多な音に包まれている。
店内に流れているジャズとおぼしきBGMも、なかばかすんでしまっている状態だ。
七海は、注文したアイスティーをトレイにのせて、店の奥の8人ほどが座れる長テーブルにもどると、いちばん手前の空いている席の前にトレイを置き、
「みなさん、ワリぃ、お待たせしちゃって!」
と、すでに座っている4人に向かって右手を立てて、拝むようなしぐさをして詫びを入れてからチェアに座った。
彼女の周りには、七海が声をかけて集めた軽音部の新入生、4人がすでに席についている。
ベース担当の飛鳥みちる、キーボード担当の井久田一子、ドラム担当の三上元、そしてヴォーカル担当の新唯花。
みな新入生だが、ドラムの三上元が転入した二年生で17歳。
そのほかはみんな16歳の一年生だ。
七海がみんなを見渡すと、にやっと笑って言った。
「……さて、ってわけで、始めましょうか!
みなみ学園高校軽音部、新入生による新歓演奏会出演用、即席結成バンド。
第一回ミーティングを、これから開催しまーす!」
みんなが力の入った感じで、パチパチ、と拍手した。
七海は満足そうにうなずいた。
「で、あたしたちは来る26日の金曜日、午後3時から開催の新歓演奏会で演奏する、ということで……1ヶ月も期間がありません!
なので、早急に演奏する曲を決めなければいけないのであります!」
ベースの飛鳥みちるが言った。
「そうそう!
そやからさ、みんな弾いたことのない、まったく新しい曲をやるとか、危険過ぎると思うんで、みんなが演奏したことある、もしくはコピったことある曲の中から選ぶのがええと思う。
……で、みんなええよね?」。
みちるは金髪を肩のあたりまで伸ばした、端正な顔立ちの女の子。
背も高く、170cmを超えているように見える。
持っているベースは、YAMAHAのBB434アイスブルーと七海は聞いていた。
彼女のすらりとした体格によく似合いそうなモデルだ。
みんな全員がうなずいた。
ドラムの三上元が言った。
「とりあえず、みんなコピったことある曲を挙げていって、全員が弾ける曲に決めればええんちゃう?」
彼は一年上ということもあって、落ち着いた様子。
飄々とした雰囲気を漂わせている。
短く刈った黒髪をとおして見える頭の形は、なかなか整っている。
しかしドラムの腕前は、先生についてすでに数年間習っているらしく、かなりのものらしい。
聞いたところ、彼の家はお寺で、彼はその次男坊。
寺を継がなくていい身分なので好きなようにやらせてもらっているそうで、寺のお堂の使われていない一室にドラムセットを置き、そこで練習しているということだ。
本人は、本当はジャズとかフュージョンがやりたいんだけどね、いっしょにやれる人がいないんやな、これが、と七海に言っていた。
七海はうなずいて答えた。
「そう、三上さんの言うとおり!
……で、みんな、順々にやりたい曲、挙げてってよ!」
みちるが言った。
「クイーン『地獄へ道連れ』とか……どうかな?」
ヴォーカルの新唯花が言った。
「え、それ知らなーい」
唯花は黒髪をショートカットにして、学校でもいつもTシャツやデニムジャケット、ぴったりとした黒のパンツなどといったシンプルな服装でいる子。
一見ふつうによくいる感じの見た目に感じられるが、歌声はすごい。
七海はちょっと聞かせてもらったが、高音域もなんなくこなす。
力強さもある、なかなか魅力的な声質の持ち主だ。
みちるはがくっと肩を落とした。
「なんや、やりたかったのにぃ……」
元が手を挙げた。
「ビートルズの『Come Together』、どう?」
キーボードの井久田一子が手を挙げた。
「あたしは、それやったことないんで……。
……緑黄色社会とか、みんなやったことあるかな?
『花になって』とか……」
ほかのみんなが、うーん、と言って、コピー経験のないことを示した。
一子は、長い黒髪を腰近くまで伸ばした、大和撫子風の子。
学校でも、いつも制服を模範的にきちっと着こなしている。
七海が聞くところによると、家が資産家らしく、かなり裕福のようだ。
ピアノを3歳のころから習っており、技術的にはなんら問題なさそうだ。
まあだいたいなんでも弾けると思います、と言っていたし。
シンセも、まあまあいいものを所有しているみたいだ。
みちるが困った顔をして、七海に言った。
「……こりゃ、このままじゃ決まらんわ。
七海ちゃん、七海ちゃんはやれる曲でみんなもやれそうな曲、なんかある?」
七海も腕を組んで考え込んだ。
「……うーん、なくはないんやけど……」
そう言って、みんなを上目遣いに見回して、
「……あたし、やってみたいとずっと思ってる曲があって。
でも、はたしてこれ、やったことある人おるんかな。
……イエスの『ラウンドアバウト』(注)」
注:ラウンドアバウト(Roundabout)
UKのプログレッシブロックバンド、イエス(Yes)の曲。
彼らを代表する人気曲で、技術的にも非常に難度が高いことでも知られる。
アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」のエンディングテーマにも使われ、プログレロックファンを超えて知名度も高い。
すると元が、狂喜したように叫んだ。
「あ、オレそれ完コピしてる!
できるよ!」
え、と七海が声をもらしかけた瞬間、みちるも声を上げた。
「あたしもできる!
ひとりでコピーしてた!
やりたい!」
七海が驚いて、思わず口走った。
「マジか、きみら!」
すると、一子も恥ずかしそうにおずおずと言った。
「……実はあたしも、その曲は完コピしてまして……。
演奏にはシンセ2台、必要になりそうですけど、どなたか運ぶの手伝ってくださるなら用意できます」
みんながどよめいた。
七海があわてて尋ねた。
「え、一子ちゃん、シンセ2台持ってんの?
マジ!?」
「はい、うちにいちおう3台あります。
NORDのGrand 2がメインで、YAMAHAのMONTAGE M8Xと、RolandのFANTOM 6がサブで」
「マジか……スーパーリッチ……」
みちるが期待にはじけ笑った。
「唯花ちゃんは、どう?」
唯花がきっぱりと言った。
「あたし、ジョン・アンダーソン(注)、好きです。
正直言うと、ファンです。
なので歌えます。
当然です!」
注:ジョン・アンダーソン(John Anderson)
イエスの全盛期に在籍していたヴォーカル。
高音域で歌う独特の声質で人気も高い。
みんな一斉に、あっははは、と笑い出した。
みちるが笑って言った。
「マジかよ、全員ができる曲が『ラウンドアバウト』とか!
どういうメンツだよ、このメンバー!」
七海は、喜びに両手を震わせていた。
そして、ひとりごとのように小さくつぶやいた。
「こんなこと、あるか……!?
これは神様の啓示か、悪魔の誘惑か……」
そして顔を上げると、みんなに向かって声を上げた。
「……これは……これは……。
みんな!
やるっきゃないやろ、ラウンドアバウト!」
ローザ先生が告げた曲名は、まさに舞彩亜の頭の中に浮かんでいた、その曲だった。
舞彩亜はローザ先生を直視できなくて、赤くなったままうつむいた。
「Ela é Carioca」(彼女はカリオカ)。
ボサノバの黄金コンビと言われる、アントニオ・カルロス・ジョビンの作曲、ヴィニシウス・ヂ・モライスの作詞による一曲。
彼らコンビの初期の曲ながら、ジ・モライスの詞、ジョビンの音楽とも、すでに彼ららしいスタイルを確立している美しい曲だ。
ジョアン・ジルベルトによるバージョンでも有名である。
ギター教室の部屋には、夕暮れの斜めの陽光が窓から射し込んで、やさしい明るさで部屋中を包み込んでいる。
壁も天井も明るい色の木材で覆われた、十畳あるかないかの部屋だが、舞彩亜にとってここは第二の家みたいなもの。
そしてローザ先生は、もうひとりの母親、いや、お姉さんか?
そんな心を許してなんでも話せる関係だ。
「あの……先生、それは……あたしも考えてました、その曲のことは……」
舞彩亜は顔を上げて、ローザ先生を見つめて言う。
その瞳はまっすぐで、表情も真剣だった。
しかし、舞彩亜はまた視線をそらして、恥ずかしそうに声を落とす。
「……でも……なんていうか……その……これをやるのは……」
ローザ先生は、そんな舞彩亜を笑顔で眺めていた。
そして、舞彩亜に顔を近づけると、少し声を落として尋ねた。
「……あのさ、いま恋してるやろ、舞彩亜ちゃん?」
「……ひっ!?」
舞彩亜は硬直した。
全身が火照るようだ。
ローザ先生は続けて言う。
「舞彩亜ちゃんとこの曲をやったのは、一年くらい前になるかな?
あのときもいい感じやったと思うけど、いまの舞彩亜ちゃんならもっといい感じに弾き語れると思うよ。
だって、この歌詞に書かれてる気持ち、あのときよりもっと、わかるやろ?」
ローザ先生に、心のうちをすべて読まれてしまっている……。
舞彩亜はおそるおそる顔を上げて、ローザ先生を見た。
「……なんで、先生、わかるんですか?」
ローザ先生はまた、くすっ、と笑って、舞彩亜をやさしく見つめた。
「わかるよー。
だって舞彩亜ちゃんともう三年以上も、いっしょにやってるやんか。
舞彩亜ちゃんがいまどんな気持ちでいるか、すぐわかるよ。
通信制高校に移ってから、舞彩亜ちゃん、すごく元気になって、生き生きしてきたよね。
わたし、よかったな、って思ってたよ。
けどな、見てたら、それだけやないな、って、わたし気づいてきた。
……これはたぶん、だれか気になってる人がおるな、って。
高校でいつも、その人といっしょなのやな?
そやから、いまの舞彩亜ちゃんは、とってもうれしくて楽しそうで、ちょっと上の空で。
……な、当たってるやろ?」
舞彩亜は観念したようにうなだれて、しかしまた顔を上げるとローザ先生をうらめしそうに上目遣いでじっと見すえた。
そして、かすれるような声で答えた。
「……はい、まあ、その……おるんです……気になる人が……。
でも、好きとかそんなんやのうて……。
いや、なんていったらええのか……。
わからんのです、自分の気持ちが……」
ローザ先生はだまってうなずくと、舞彩亜にやさしく尋ねた。
「高校の同級生の子?」
「学年は一年下の男の子なんですけど。
実は、高校入る前にたまたま知り合ってて……」
ローザ先生は目を見開いて声を出した。
「へえ。
そして高校でもいっしょになった、ってわけね?」
「はい……」
ローザ先生は笑顔のまま、またうなずいた。
「なるほどね。
運命的な出会い、ってわけか……」
舞彩亜はあわてて叫んだ。
「いやいやいや!
……あの、まだそういう……なんも付き合いとかも、ないですから!」
ローザ先生は、にこっと笑って自分のギターをスタンドに置くと、立ち上がった。
そして教室の右側の壁に並んだ本棚の前に立った。
この右側の壁にそって、五段の棚がある本棚が何台もずらっと並べられている。
中に収められているのはすべて、ボサノバやブラジル音楽に関するものだ。
ボサノバ、サンバ、MPB(注)、ブラジルや中南米の音楽、ジャズといったジャンルの楽譜、教本、音楽理論書といったもの。
楽譜の大半は、ローザ先生がブラジルで購入して持ってきたものだ。
教本や理論書は日本で出版されたものもあれば、ブラジルや米国のものもある。
そのほかには、音楽やミュージシャンに関する本とCD、レコード。
伝記や評伝、ブラジル音楽のレコードやCDのガイド本。
ブラジルやペルー、アルゼンチンといった南米諸国の音楽CDとレコード。
これらのもので本棚は埋め尽くされている。
ローザ先生の歩んできた音楽生活の、いわば歴史を表している品々といってもよい。
注:MPB
Música Popular Brasileiraの略。
1960年代以降にブラジルに登場した新しいポピュラー音楽。ボサノバにロック、ソウルなどの音楽が融合してできた音楽。
ブラジルの「ニューミュージック」ともいうべきジャンル。
ローザ先生は、そんな本棚の右から二台目、つまり手前から二番目の本棚を見ると、上から二段目の棚に手を入れた。
そして、そこから楽譜を一冊取り出すと、その楽譜を持ってもどってきた。
「彼女はカリオカ」の楽譜。
そう、ちょうど一年ほど前、この楽譜のコピーを舞彩亜はもらった。
それを見ながら先生に教わって練習して、この曲を弾き語りできるようになったのだった。
あのときは、まだ詞の内容とか、あまり真剣に考えずに弾き語りしてたな……。
舞彩亜はそんなことを思い出していた。
「あらためて見よか、Ela é Cariocaの歌詞。
意味をよーく感じ取ってな」
こんな歌詞だ。
彼女はカリオカ(リオ・デ・ジャネイロに住んでいる子)なんだ、
ぼくは彼女に夢中なんだ、
彼女は美しすぎて、とてもぼくには届かない遠い存在……。
彼女はカリオカ
彼女はカリオカ……。
「……どう、舞彩亜ちゃん、どんなふうに感じる?」
ローザ先生はやさしく聞いてきた。
それは舞彩亜のいまの揺れ動く心を、そっと後ろから抱きしめ、支えてくれるみたいに思えた。
だから舞彩亜は、ふだんは傷つくのが恐くて人にはなかなか出せない本音の心の風景を、ローザ先生には打ち明けられると悟った。
舞彩亜はおそるおそる、自分の感じたことを述べてみた。
「……この歌の男の子は、カリオカの彼女がとっても好きなんですけど、身近な彼女っていうよりは、あこがれが強過ぎて、彼女は自分には手の届かない存在や、って、そう思うてる。
もしかしたら、彼はカリオカの彼女と付き合ってるわけじゃなくて、彼女に片思いしてるだけなのかも。
……そんな感じ、ですか……」
ローザ先生が静かに言った。
「そうね。
そんな感じだと、わたしも思うよ」
舞彩亜は、しぼり出すようにかすれた声を出した。
「……でも……たぶんあたしも、おんなじなんです……。
立場は逆で、あたしが男の子とおんなじ、っていう意味ですけど……」
「それは、どういうこと?」
「あたしが気になっている人も、もしかしたらあたしには手の届かない存在や、って、ときどき思うことがあるんです。
すごく頭がよくって、クールで、かっこよくって……。
あたしはとても彼にはつり合わないな、って感じちゃって……」
ローザ先生はちょっとの間だまっていたが、やがてまたやさしく舞彩亜にこう言った。
「それはさ、まだわかんなくない?」
「……え?」
「いまは手の届かないほど遠い、まぶしい存在に見えたとしても、これからもそうかどうかはわからない。
いつか身近な存在になるかもしれない。
近いうちか、もっと先か、わからんけど。
自分のほうが急に成長して、気がついたら手が届くようになった、そんなことだってあるかもしれない。
……そう思わない?
この歌はね、そんな恋しているときの不安と期待する気持ち、両方を歌ってるんやないかなあ。
……そやから、いまの舞彩亜ちゃんにぴったりやと思うたわけ!
いまの舞彩亜ちゃんがこの歌を歌ったら、作りものでないその素直な気持ちが、聴く人みんなに伝わると思う。
……えっと、彼も演奏会に来てくれるのかな?」
舞彩亜は、こくり、とうなずいた。
「それならなおさら、彼にも、聴きに来てくれてるみんなにも、歌を聴かせようよ!
歌とギターで強い気持ち、繊細な気持ち、リアルな気持ちをうまく表現できるのが、舞彩亜ちゃんの持ってるいちばんの強みなんやから!」
舞彩亜はそれでもまだ、躊躇してつぶやいた。
「……でも……彼の前で、これ歌うなんて……。
そんなこと……」
ローザ先生は、舞彩亜の手を取って、両手でやさしく包み込んだ。
「舞彩亜ちゃんが素直な気持ちを込めて歌ったら、彼もすばらしいって絶対思ってくれるよ。
……彼、舞彩亜ちゃんの歌を聴いてくれた人なのやろ?」
舞彩亜はびっくり仰天して叫んだ。
「……な、なんで、先生、知っとるんですか!?」
ローザ先生も、少し驚いたような顔をして、そして笑顔になった。
「そっか、ほんまに、そうなのやんな。
……いやな、ほかの生徒さんが、なんばの駅前で舞彩亜ちゃんがストリートライブしてるのを目撃しててな、わたしに教えてくれたのやん。
そんときに生徒さんが言ってた。
ひとり真ん前に立ってずっと聴いてて、拍手してくれた男の子がおった、って。
そやから、いま舞彩亜ちゃんの話聴いてて、もしかしてその子かなー、って当てずっぽう言ってみただけなんやけど、ほんまに当たっちゃったか!
……なら、なおさらやで。
舞彩亜ちゃんの弾き語り聴いて、いいって応援してくれた人なら、かならずわかってくれるよ!
彼の前でこそ、歌うべきよ。
そうすれば、その人が舞彩亜ちゃんのことを、もっとよく理解してくれるんやないかな?」
舞彩亜は、しばらく返事ができないでいた。
考え込んでいるようだった。
ローザ先生はこう付け加えた。
「日本のことわざがあったやん。
『案ずるより生むが易し』って。
とにかく、やってみたら?
ブラジル人はみんなそう。
あれこれ考えるより、まずはやってみる。
結果はあとからついてくる。
……舞彩亜ちゃんかて、いつもそう言ってるやろ?」
舞彩亜は、はっ、とした。
そうや、あたしがいつもそう言ってるんやった……。
舞彩亜は、決心した眼差しでローザ先生を見つめた。
「……はい、そうでした……。
先生、やります。
この歌を、みんなの前で、彼の前で、歌います!」
ローザ先生はにっこり笑ってうなずいた。
「うん、そうしよ。
……ほんなら、これからちょっとおさらい、してみよか。
一回とおして弾き語り、やってみてくれる?」
「はい!」
舞彩亜はギターを抱えると、目を閉じた。
あたしの気持ち、まずローザ先生に伝わるように。
すべて、込める……。
舞彩亜は集中した。
そして目を開くと、すぅーっ、と息を吸って、ギターのD/F#コードとともに最初のスキャットを歌い始めた。
「Ba, ba, ba-la la la, ba-la la la, ba-la la la...」
***
なんば駅近くの、チェーン店カフェ。
午後4時過ぎ。
平日の夕方だが、大阪ミナミの中心都市の中だけあって、このかなり広い店内にも人は多い。
その人々のおしゃべりで、店中は雑多な音に包まれている。
店内に流れているジャズとおぼしきBGMも、なかばかすんでしまっている状態だ。
七海は、注文したアイスティーをトレイにのせて、店の奥の8人ほどが座れる長テーブルにもどると、いちばん手前の空いている席の前にトレイを置き、
「みなさん、ワリぃ、お待たせしちゃって!」
と、すでに座っている4人に向かって右手を立てて、拝むようなしぐさをして詫びを入れてからチェアに座った。
彼女の周りには、七海が声をかけて集めた軽音部の新入生、4人がすでに席についている。
ベース担当の飛鳥みちる、キーボード担当の井久田一子、ドラム担当の三上元、そしてヴォーカル担当の新唯花。
みな新入生だが、ドラムの三上元が転入した二年生で17歳。
そのほかはみんな16歳の一年生だ。
七海がみんなを見渡すと、にやっと笑って言った。
「……さて、ってわけで、始めましょうか!
みなみ学園高校軽音部、新入生による新歓演奏会出演用、即席結成バンド。
第一回ミーティングを、これから開催しまーす!」
みんなが力の入った感じで、パチパチ、と拍手した。
七海は満足そうにうなずいた。
「で、あたしたちは来る26日の金曜日、午後3時から開催の新歓演奏会で演奏する、ということで……1ヶ月も期間がありません!
なので、早急に演奏する曲を決めなければいけないのであります!」
ベースの飛鳥みちるが言った。
「そうそう!
そやからさ、みんな弾いたことのない、まったく新しい曲をやるとか、危険過ぎると思うんで、みんなが演奏したことある、もしくはコピったことある曲の中から選ぶのがええと思う。
……で、みんなええよね?」。
みちるは金髪を肩のあたりまで伸ばした、端正な顔立ちの女の子。
背も高く、170cmを超えているように見える。
持っているベースは、YAMAHAのBB434アイスブルーと七海は聞いていた。
彼女のすらりとした体格によく似合いそうなモデルだ。
みんな全員がうなずいた。
ドラムの三上元が言った。
「とりあえず、みんなコピったことある曲を挙げていって、全員が弾ける曲に決めればええんちゃう?」
彼は一年上ということもあって、落ち着いた様子。
飄々とした雰囲気を漂わせている。
短く刈った黒髪をとおして見える頭の形は、なかなか整っている。
しかしドラムの腕前は、先生についてすでに数年間習っているらしく、かなりのものらしい。
聞いたところ、彼の家はお寺で、彼はその次男坊。
寺を継がなくていい身分なので好きなようにやらせてもらっているそうで、寺のお堂の使われていない一室にドラムセットを置き、そこで練習しているということだ。
本人は、本当はジャズとかフュージョンがやりたいんだけどね、いっしょにやれる人がいないんやな、これが、と七海に言っていた。
七海はうなずいて答えた。
「そう、三上さんの言うとおり!
……で、みんな、順々にやりたい曲、挙げてってよ!」
みちるが言った。
「クイーン『地獄へ道連れ』とか……どうかな?」
ヴォーカルの新唯花が言った。
「え、それ知らなーい」
唯花は黒髪をショートカットにして、学校でもいつもTシャツやデニムジャケット、ぴったりとした黒のパンツなどといったシンプルな服装でいる子。
一見ふつうによくいる感じの見た目に感じられるが、歌声はすごい。
七海はちょっと聞かせてもらったが、高音域もなんなくこなす。
力強さもある、なかなか魅力的な声質の持ち主だ。
みちるはがくっと肩を落とした。
「なんや、やりたかったのにぃ……」
元が手を挙げた。
「ビートルズの『Come Together』、どう?」
キーボードの井久田一子が手を挙げた。
「あたしは、それやったことないんで……。
……緑黄色社会とか、みんなやったことあるかな?
『花になって』とか……」
ほかのみんなが、うーん、と言って、コピー経験のないことを示した。
一子は、長い黒髪を腰近くまで伸ばした、大和撫子風の子。
学校でも、いつも制服を模範的にきちっと着こなしている。
七海が聞くところによると、家が資産家らしく、かなり裕福のようだ。
ピアノを3歳のころから習っており、技術的にはなんら問題なさそうだ。
まあだいたいなんでも弾けると思います、と言っていたし。
シンセも、まあまあいいものを所有しているみたいだ。
みちるが困った顔をして、七海に言った。
「……こりゃ、このままじゃ決まらんわ。
七海ちゃん、七海ちゃんはやれる曲でみんなもやれそうな曲、なんかある?」
七海も腕を組んで考え込んだ。
「……うーん、なくはないんやけど……」
そう言って、みんなを上目遣いに見回して、
「……あたし、やってみたいとずっと思ってる曲があって。
でも、はたしてこれ、やったことある人おるんかな。
……イエスの『ラウンドアバウト』(注)」
注:ラウンドアバウト(Roundabout)
UKのプログレッシブロックバンド、イエス(Yes)の曲。
彼らを代表する人気曲で、技術的にも非常に難度が高いことでも知られる。
アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」のエンディングテーマにも使われ、プログレロックファンを超えて知名度も高い。
すると元が、狂喜したように叫んだ。
「あ、オレそれ完コピしてる!
できるよ!」
え、と七海が声をもらしかけた瞬間、みちるも声を上げた。
「あたしもできる!
ひとりでコピーしてた!
やりたい!」
七海が驚いて、思わず口走った。
「マジか、きみら!」
すると、一子も恥ずかしそうにおずおずと言った。
「……実はあたしも、その曲は完コピしてまして……。
演奏にはシンセ2台、必要になりそうですけど、どなたか運ぶの手伝ってくださるなら用意できます」
みんながどよめいた。
七海があわてて尋ねた。
「え、一子ちゃん、シンセ2台持ってんの?
マジ!?」
「はい、うちにいちおう3台あります。
NORDのGrand 2がメインで、YAMAHAのMONTAGE M8Xと、RolandのFANTOM 6がサブで」
「マジか……スーパーリッチ……」
みちるが期待にはじけ笑った。
「唯花ちゃんは、どう?」
唯花がきっぱりと言った。
「あたし、ジョン・アンダーソン(注)、好きです。
正直言うと、ファンです。
なので歌えます。
当然です!」
注:ジョン・アンダーソン(John Anderson)
イエスの全盛期に在籍していたヴォーカル。
高音域で歌う独特の声質で人気も高い。
みんな一斉に、あっははは、と笑い出した。
みちるが笑って言った。
「マジかよ、全員ができる曲が『ラウンドアバウト』とか!
どういうメンツだよ、このメンバー!」
七海は、喜びに両手を震わせていた。
そして、ひとりごとのように小さくつぶやいた。
「こんなこと、あるか……!?
これは神様の啓示か、悪魔の誘惑か……」
そして顔を上げると、みんなに向かって声を上げた。
「……これは……これは……。
みんな!
やるっきゃないやろ、ラウンドアバウト!」


