……あ、もう朝か……。

 時計を見る。6時45分。
 
 ……最近、目、覚めるようになったな……。
 
 舞彩亜(まいあ)はボーっとした頭でそう思いながら、まだ覚め切っていない頭と、そして身体を起こそうと、ゆっくりベッドから起き上がった。
 ベッドの脇には、ギタースタンドに立てられたクラシックギター。
 自分の愛機。
 毎朝起きると、舞彩亜はそのギターを第一に眺める。
 そして、安心したようにひと息つくと、うれしそうに笑顔でギターに語りかける。

「おはよう」
 
 これが舞彩亜の、朝起きるといつも最初にするルーティーン。
 そうすることで、ギターから元気をもらう。

 舞彩亜はボサノバが大好き。
 このギターでボサノバを弾いて、歌う。

 あたしにとってのすべては、音楽。
 なかでも、ボサノバ。
 ボサノバはあたしのいのち。
 生きる糧。
 あたしのすべて……。

 そんなふうに、一途に一生懸命考えようとしたがる。
 舞彩亜はまだそんな年頃だ。

 でも、あたしは音楽に一途に、一生懸命でいたい。
 ボサノバを一生懸命、自分のすべてをかけてやりたい。
 そう決めたんや、あたしは。
 
 舞彩亜はそう思いながら、毎日を生きている。

 スウェットの上下を脱いで着替える。
 頭からかぶって着たのは、黒地にアメリカンコミックとそのレタリングがプリントされたTシャツ、ライトブルーのジーンズ、そしてグレーのパーカー。
 いつも舞彩亜は、こういう動きやすいカジュアルなファッションが好きだ。

 こうして、舞彩亜の心にスイッチが入る。
 きょうも一日を始めよう、という気になる。

 そして舞彩亜はまたギターに目をやる。

「またあとでね……」

 そう心の中で声をかける。
 そして舞彩亜は部屋のドアを開け、自分の外にある世界へ、きょうも足を踏み出す。

***

 舞彩亜がこのギターに出会った次第。
 そして、そもそも舞彩亜がボサノバを好きになった次第はこうだ。

 舞彩亜は両親とともに、大阪市内のマンションに住んでいる。
 父親も母親も音楽が好きで、ジャズを中心にいろんなジャンルの音楽を聴いていた。
 そんな両親のCDやレコードのコレクションの中に、ボサノバが何枚かあった。

 そんなふうに、生まれたときから音楽に囲まれた環境で育った舞彩亜は5歳くらいになると、とりわけボサノバのCDやレコードがかかると特別に反応を示すようになった。
 喜んでボサノバのリズムに合わせて両手を振り、踊るようなしぐさをした。

 父親も母親も、

「舞彩亜はボサノバが好きなんじゃないだろうか」

 そう思い、舞彩亜に聴かせるため新たにボサノバのCDやレコードを買ってくるようになった。
 当然、舞彩亜はそれらの音楽を喜んで聴きまくった。

 舞彩亜が成長し小学5年ぐらいになると、これらのCDやレコードを自分からプレーヤーにかけ、何回も何回も聴くようになっていた。
 舞彩亜が小学校を卒業する頃には、家にあるボサノバのCDやレコードはみな、実質的に舞彩亜のものとなっていた。
 
 やがて、ボサノバにいつも入っているリズムとコードを刻む音がギターの音だと知ると、舞彩亜はギターを習いたい、と両親に始終せがむようになった。

 父親と母親は、

「こんなに熱心にボサノバを聴く子なのだから、習わせてあげたほうがいいんじゃないか?」

 そう考えた。
 そして、どこの教室ならボサノバのギターを習うことができるのか、どんなギターを買ってあげたらよいのか、調べるようになった。

 ある日、母親があることに気づいて父親に言った。

「そういえば、わたしのお父さんに相談してみたらええんちゃう?
 クラシックギターやってるから」

 父親は答えた。

「そうなんや。
 ……そりゃ、ちょうどええな!」

 舞彩亜には母方のおじいちゃんとおばあちゃんがいて、豊中に住んでいた。
 おじいちゃんはギターが趣味で、よく弾いていた。
 といっても、おじいちゃんが弾くのはボサノバではない。
 クラシックの曲だったり、演歌だったり。
 でも、おじいちゃんはいろんな音楽を好きで、よく知っていた。
 そんなおじいちゃんが舞彩亜は大好きで、よくなついていた。

 舞彩亜が中学生になったとき、そのおじいちゃんが長く使ってきたお古のギターをもらうことになったのだ。
 舞彩亜の母親から話を聞いたおじいちゃんは、

「そういうことなら、いま使うてるこのギターを、舞彩亜にあげることにしよか。
 そろそろ新しいのを買おうかと思うてたところやからな、ちょうどいい機会や」

と言ってくれた。

 母親とおじいちゃんの家を訪れた舞彩亜の目の前に、おじいちゃんはギターを持って来た。
 ギタースタンドに立てかけられたギターは、傷もほとんどない美しい見た目だった。
 舞彩亜は感激のあまり、わぁ、と声にならない声を出した。

 おじいちゃんが舞彩亜に話した。 

「これは年代物だがな、とてもいいギターだ。
 まだまだ使えるし、とってもいい音を出す。
 わたしと同じぐらいの歳になるやろが、おじいちゃんと同じようにまだまだ元気で働けるぞ、はっはっは。

 おじいちゃんはね、一生のうちに、もう1台くらい別のギターも弾いてみたいな、と思うたから新しいのを買うことにしたけど、このギターはな、ほんまにお気に入りのギターや。
 おじいちゃんといっしょに何十年も、この日本と世界の歴史を見てきたギター。
 そういうことになるわな。

 舞彩亜、おまえがボサノバ弾きたい言うてるってお母さんから聞いたとき、

 <こりゃ、こいつの出番やな>
 
 そう思ったんや。
 おじいちゃんから孫のおまえに伝える歴史や、このギターは。
 このギターはいままでおじいちゃんといっしょに生きて経験してきたいろんなことをな、きっとおまえにたくさん教えてくれると思うぞ。
 そやから、大切に使ってくれな」

 おじいちゃんの言うことはまだ舞彩亜にはむずかしかったが、それでも言いたいことはなんとなくわかるような気がした。

「うん!
 ありがとう、おじいちゃん!
 大切に使う!
 このギターでいっぱい、いろんな曲、弾けるようにするわ!」

 舞彩亜はうれしくて、おじいちゃんに抱きついた。
 母親も笑顔で二人を見つめていた。

 おじいちゃんは舞彩亜にギターを手渡した。
 舞彩亜はまだなにも弾ける曲がなかったが、おじいちゃんに教えられながらとりあえずギターを抱えてみた。
 6本の弦を指で、ボローン、と鳴らしてみる。

 暖かい音がした。
 それはおじいちゃんのように、歳を重ねてはいるけどまだまだ元気で明るくて、そして渋くて、かっこいい音だった。

 おじいちゃんは、うれしそうな表情で舞彩亜がギターを抱える姿を眺めた。
 
 このとき舞彩亜は直感した。
 このギターは、あたしの友だちになってくれる。

 そして、その直感は的中した。

 おじいちゃんからギターを受け取ってから間もなく、舞彩亜は母親に連れられて近所にある白浜ローザ先生のボサノバギター教室に体験レッスンに訪れた。
 
 ローザ先生は、日本人の男性と結婚して日本に来た日系ブラジル人。
 ブラジルにいたときに、本国で有名なギタリスト数人からギターの手ほどきを受けたらしい。
 本国では数年間、プロとしてライブハウスで弾き語りの演奏活動をしていたとのことで、有名ではないがなかなかの実力派ボサノバミュージシャンだと、ブラジルの音楽事情にくわしい人たちの間ではうわさだ。

 そして、日本に来てからボサノバ専門のギター教室を始めた。
 ギターを教えるいっぽう、ライブハウスやフェスなどでときどき演奏もしている。
 現在、ギター教室の生徒数はおよそ40名。
 ボサノバにジャンルを限ったギター教室としては、かなりの繁盛ぶりだ。

 体験レッスンのとき舞彩亜が持ってきたギターを見て、ローザ先生は言った。

「舞彩亜ちゃん、そのギター、とてもよさそうな感じね!
 ちょっと音出せる?」

 初めてのギター教室と先生の前で緊張気味の舞彩亜だったが、おそるおそるギターを抱えて、6弦から1弦まで、ボローン、と弾いて音を出してみた。
 ローザ先生が言った。

「まあ!いい音やねえ!
 どこのメーカーかしら?」

 実は舞彩亜もよく知らなかった。
 おじいちゃんからも聞かなかったし、まだギターについて知識もあまりなかったから、ギターのメーカーになんて関心もなかったのだ。

 ローザ先生は舞彩亜からギターを受け取ると、サウンドホールの中のラベルを覗いた。

「……へえ、高峰楽器製作所……。
 これ、タカミネやね。
 でもこのモデルは初めて見るわ。
 けっこう年代物っぽいね。
 1970年代くらいかな……」

 ローザ先生は舞彩亜のギターを両手で持って、いろんな角度から眺めた。
 ネックの状態、ペグ(弦を巻く糸巻部分)、ボディの傷の程度など、順々に確かめているようだった。
 ひととおり眺め終わると、ローザ先生は舞彩亜と母親に了解を得て、このギターで「イパネマの娘」を弾き語りしてあげた。
 それは美しい、ギターの音色と歌声だった。

 わぁー……。

 先生の歌とギターに、舞彩亜は目を輝かせて聴いた。
 
 歌が終わるとローザ先生は言った。

「これね、このギター、ものすごい価値あるものかもよ。
 なによりも、音がそれを表してるね!
 とてもいい音がする。
 年月を経てきたらしい、いい具合に枯れてて、でも明るくて潤いもあって。
 それに、このギター、舞彩亜ちゃんにすごく似合ってる!
 これも、とっても大事なことやね!」

 それまで緊張気味だった舞彩亜の表情が、ぱっと明るくなった。
 舞彩亜の母が、あまり自分はよくわからないけど、という顔をして言った。

「……そんなものですかね。
 何十年も祖父が弾いていたお古なんですけど……」

 ローザ先生は、うんうん、とうなずくと言った。

「ああ、そういうことなんですね。
 むかしのギターはいまみたいに機械で大量生産をしてなかったから、すべて職人が手作業で1本1本作っていたんです。
 そやから、状態さえよければとてもいい楽器が多いんですよ」

 舞彩亜はうれしくなって言った。

「お母さん、先生もこう言うてくれとるやん!
 やっぱりおじいちゃんのギターは、すごいんよ!」
 
 ローザ先生が舞彩亜に言った。

「すごいのはね、ギターだけやないよ。
 きっと舞彩亜ちゃんも、ギターといっしょにすごくなれる。
 半年から一年ほどもすればね、この曲がすぐ弾けるようになるよ!」

「はい、弾けるようになりたいです!
 弾いて、歌うのも!」

 三人で笑って、そして舞彩亜はレッスン受講を決めた。
 体験レッスンは和やかな雰囲気のうちに終わった。

 母親が舞彩亜に言った。

「先生、楽しそうな人でよかったね。
 舞彩亜も楽しく通えるわな、きっと?」

「うん。
 そう思う!」

 これが、舞彩亜がボサノバと出会い、このギターと出会い、そしてローザ先生と出会った経緯。
 すべて、舞彩亜の心の支えだ。

***

 舞彩亜がいま在籍している高校から通信制高校に転入することを決めてふた月ほど。
 転入のための手続きもほぼ完了しつつあった。

 夜、母親が舞彩亜に言った。

「なんとか、無事に入れそうね、通信制高校。
 よかった……。
 舞彩亜も、ほっとしたやろ?」

 舞彩亜は無言でうなずく。
 それでも、まだ不安だ。
 
 舞彩亜の家は、父親も母親も会社勤めで、共に重要な役職についているので忙しい。
 それでも、母親は毎朝早く起きて、父親と舞彩亜のために朝食を作ってくれる。
 
 これから仕事に行かなきゃならないのに、なんでそんなにパワーがあるの?
 毎日、舞彩亜はそう思ってしまう。
 母親はいつもパワーにあふれている。

 父親も、ときどきは母の家事を手伝っているし、日曜はいろんなところに連れて行ったりしてくれる。
 たぶん、うちはほかの家とそんなに変わることのない、ありふれた家庭なのだろう。
 でも、あたしはそんな家庭の中で、はみ出した存在。
 つい数か月前まで、そう考え続けて悩む日々だった。

 高校1年の終わり近くから、舞彩亜は学校での人間関係に苦しさをおぼえるようになった。
 特に、音楽、それも若い人にはあまりなじみのないボサノバに没頭する舞彩亜は、クラスの子たちと聴いている音楽の話が合わず、次第に浮き気味になった。
 やがて無視やいじめが始まって、舞彩亜は学校を休みがちになり、そしてまったく行けなくなった。
 それは舞彩亜が、自分はふつうの子ではない、ということを自覚することになった、初めての経験だった。

 自分はふつうやない。
 ずっとふつうになれないんやないか……。
 舞彩亜はそう悩み、苦しんだ。
 クラスの子たちに嫌われて、いじめられて。
 親にも迷惑かけて。

 自分なんて、いなくなったほうがいい……。

 そう思って悩み、ギター教室でレッスンの最中に、つい学校での出来事を思い出して泣きながらローザ先生にしがみついて、訴えたこともあったっけ。
 
 だけど、ローザ先生は笑顔で舞彩亜を抱きしめると、やさしくこう言ってくれた。

「いやなことからはね、逃げればいいの。
 逃げられないことなんて、人生にはほとんどないもんだよ?
 それに、舞彩亜ちゃんにはギターがある。
 ボサノバがあるやん。
 わたしもそばにおるやん?
 舞彩亜ちゃんのそばには、味方がいっぱいいるんやからだいじょうぶ。
 みんなが助けてくれる!
 そやから、つらいときは、いつでも味方に助けを求めてや。
 わたしも舞彩亜ちゃんを助けるから、な?」

 ローザ先生のその言葉を聴いて、もっとわんわん泣いてしまったっけ。
 あの言葉にはほんと、救われたな……。

 そんな状況にあった舞彩亜を、母親も父親も怒ったりすることはなく、こうしろと指図することもなく、黙って見守ってくれた。

 たぶん、あたしがふつうやないってことを、前からわかってくれてたんやろうな。
 けど、それでも、お父さんにもお母さんにも、悪い、申し訳ないという想いは消えない。

 ネットで通信制高校の存在を知って、こういうとこなら通えるかも!って思った。
 母親と父親に相談してみると、わりとあっさり認めてくれた。
 両親とも調べたりしていたみたい。

「……確かに、舞彩亜にはこういうところのほうが合ってるかもね……。
 舞彩亜がほんまに行きたいと思うんなら、お母さんもお父さんももっと調べて、入れるように考えるよ」

 母親はこう言ってくれた。
 そして、いまここにいる。
 通信制高校に転入できるよう、母親が手続きをしてくれた。
 いままでの高校の担任に、転入を認めてもらうための面談をしたり、いろいろたいへんやったけど、なんとか無事に移れることになった。
 けど……。

 通信制高校か。
 どんな感じになるんやろうな……。

 舞彩亜は期待が3分の1、不安が3分の2といった感じだ。 

 そうや、もうひとつ、思い出した。
 あの子。
 アイツ、気になる。
 ほんまに、また路上ライブに来てくれるかな……。

 彼のことを思い出して、舞彩亜は、フッ、と微笑した。
 
***

 3か月ほど前のこと。
 
 舞彩亜はもう高校2年になっていたが、もうその頃には府立高校には行けなくなっていた。
 昼間はずっと家にこもって、外に出ることができない。
 出るのが怖かった。
 だけど夕方になると、ギターを弾いて歌うためなら、出られるようになる。 
 月に数回、夕方からギターを持って家を飛び出す。

 そのころから、舞彩亜は大阪市内の繁華街、2、3か所をローテーションで回って、路上ライブを始めていた。
 もうすでにボサノバの名曲を20曲近く、弾き語りできるようになっていた。
 歌詞のポルトガル語も、ローザ先生の特訓でギリ発音できるようになった。
 それに、自分で作った曲も数曲。
 人に聴かせたかった、自分のギターと歌声を。

 ローザ先生には内緒の行動だ。
 だって、恥ずかしくて言えないよ、こんなこと。
 でも、どうしてもやりたかった。 

 路上ライブを始める前、警察の許可がいると聞いたので、ちゃんと警察署に行って許可願を提出したのだが、許可が下りなかった。

 舞彩亜は疑問に思った。
 なんで?
 後になって、個人のミュージシャンに許可が下りることはほとんどないのだということを知った。

 それでもやりたくてしょうがなかったので、無許可で駅前の広場に立って歌うことを始めた。

 警察に捕まるかもしれんけど、そんときはそんときや。
 でも、もしほんまに捕まったら、親は悲しむやろうな……。
 ローザ先生もどう思うやろ……。

 そんなふうにして、もう半年ぐらい。

 きょうも午後5時ごろから、なんばの繁華街に近い街角に立って、歌い始めた。
 ボサノバの名曲はポルトガル語、自分で作った曲は日本語。

 ボサノバを歌う路上シンガーなんて、ほかにはいない。
 だから通り過ぎる人々はみんな物珍しそうな顔をして、一瞬、舞彩亜を見つめる。
 でも、立ち止まって聴いてくれる人はほとんどいない。
 それでも舞彩亜は歌う。
 
 ……そのうち、きっとあたしの歌を聴いてくれる人が現れてくれる……。

 必死にそう思うようにする。
 けれど、でもやっぱりだれも立ち止まってくれないのは、つらい。
 泣きそうになる。

 でも、泣いちゃだめだ。
 だって、ボサノバはどこまでも明るい、南半球の夏の日差しの音楽だから。

 そう考えながら、視線は下に落とし気味にして歌っていた舞彩亜の視界に、一人のナイキのスニーカーを履いた足が立ち止まった。
 舞彩亜はおそるおそる視線を上げる。

 そこには、舞彩亜の真正面に一人の男の子が立っていた。
 黒髪ショートカット、黒無地のTシャツに紺のジーンズ。
 不愛想な表情で、腕組みをしてこちらをじっと見つめている。
 シンプルで地味ないでたちだけど、すらっとした細身の体格。
 容貌も一見ふつうだけど、悪くない。
 よく見ると、ちょっとかっこいいかも。
 好ましい爽やかさも感じられる。
 その視線は刺すようで真剣だ。
 そう、真剣にあたしの歌を聴いてくれている。

 舞彩亜は元気が出て、いっそう感情をこめて自作の曲を歌った。

 歌が終わると、その少年はゆっくりと腕組みをほどき、手をたたいた。
 彼の拍手につられてか、周囲にいた数人の通りすがりの人たちも立ち止まった。
 そしていっしょに拍手する。

 ……うれしい……。

 舞彩亜は、頭をいっぱいに下げてお辞儀をした。
 
 あと数曲、ブラジルのボサノバの名曲を歌った。
 さっき立ち止まってくれた数人がそのまま聴いていてくれた。
 最後はみんな笑顔で拍手してくれた。

 舞彩亜は涙が出そうになりながら、思いっきり頭を下げた。

 終わって片づけを始めていると、少年が近づいてきて、ぼそっと言った。

「よかったです。
 こういう音楽、好きです」

 舞彩亜はギターを入れたギグバッグから顔を上げて、笑顔を作ると答えた。

「ありがとうございます。
 ボサノバ、っていうんです。
 ブラジルの音楽」

「知ってます。
 聞いたことあります」

 少年は言葉少なに言った。

 舞彩亜がギターを背中に担いでも、少年は帰ろうとする気配なくそばに立っていた。
 そこで、舞彩亜は少年に誘ってみた。

「……あたし、これからどっかでごはん食べて行くけど。
 よかったらいっしょに食べに行きませんか?」

 少年は、ちょっとだけうれしそうな表情になったように見えた。

「いいですね」

 決まりだ。
 舞彩亜は少年と、なんばの街中に入っていった。

 二人はハンバーガーショップに入った。
 舞彩亜はチーズバーガーのセット、少年はえびハンバーガーのセットを食べていた。

「あなた、高校生?
 そやったら、あたしと同い年くらいかな?」

 少年はちょっとふてくされたように答えた。

「高1です」

 1年年下か。
 大人びて見えるけど、意外と若いな。

「……っていっても、高校にはぜんぜん行ってないですけど」

 高校には行ってない、という言葉に、舞彩亜は聞き耳を立てた。

「どういうこと?
 ……不登校とか、そういうの?」

 少年は静かに答えた。

「ええ、まあ、そんな感じですね」

 舞彩亜は、くすっ、と笑って言った。

「なら、あたしと同じや。
 奇遇やね」

「……え?」

 少年がハンバーガーから顔を上げる。

「あたしも不登校、真っ最中。
 いま高2だけど、1年の途中からぜんぜん行けてない。
 夕方だけ、こうやって歌うために外に出てる生活」

「1年先輩ですね。
 どこです、高校?
 ぼく、府立西高ですけど」

 西高か。
 けっこうな進学校やな。

「へえ、西高なんや。
 勉強できるんやね。
 でも行きたくなくなったんや」

「それは……あなたやってそうやろ」

 年下のくせに、生意気なやつやな。
 少年の受け答えに舞彩亜は思わずそう思ったが、同時に彼の背伸びしたがっているような様子もうかがえて、ちょっとかわいいな、とも思った。
 舞彩亜はわざと不機嫌になったふりをして、むくれたような表情を作って答えた。

「はい、そうですけど!」

「かわいいですね、むっとした顔」

「……は?」

 舞彩亜は思わず少年の顔を見つめた。
 表情は読めない。
 でも、自分がちょっと赤くなったような気がした。
 あわてて少年から目をそらす。

「……ああ、そうそう、きみの質問に答えてへんかったわ。
 あたしは南高。
 まあ、ぜんぜん行ってへんし、たぶんやめると思うけど……」

 少年はまじめな顔をして舞彩亜に聞いた。

「南高かて、ぜんぜん偏差値高めの学校やないですか。
 ぼくとそんなに変わりませんよ。
 でも、そこをやめて、どうするんです?」

 舞彩亜は少しためらったが、意を決して言ってみた。

「……通信制高校に転入しようかと思うてる」

 それを聞いて、少年は目を輝かせたように見えた。

「ほんまですか?
 ……ぼくも、そうしようかなと考えてたとこです」

 舞彩亜はびっくりした。
 うれしさと、喜びで。

「へえ。
 これまた奇遇やね。
 どこに行くつもり?」

「まだ決めてません。
 でも、大阪市内に通えるキャンパスがあるとこかな」

「そやな、それ大事。
 もし通学する気になったとき、近くないと続かんと思うしな」

「ええ」

 実は舞彩亜は、そのときにはすでに行く通信制高校を決めていた。
 両親とも相談して了解も得た直後だった。
 けれど、そのことを少年には言わずにおいた。

 ……もし、同じ通信制高校やったら、そこで会えたらおもしろいな……。

 そうは思ったけど、まあそこまでの偶然はないわな。

 舞彩亜は少年に尋ねた。

「きみはなにが好きなん?
 音楽以外に」

 少年は少し考える様子をしてから言った。

「小説、ですかね。
 読むのもそうですけど、自分でも書きたい、って思ってて」

 舞彩亜はそれを聞くと、目が輝いた。

「え、小説書いてるの?
 かっこいい!」

 少年は顔を赤らめて下を向くと、またぼそっと言った。

「別にかっこよくなんてないっすよ。
 単に好きなだけです、小説が。
 そやから自分でも書いてみたい。
 自分が作家になるとか、そんなことは考えてないです」

「どんな作家が好きなの?」

 少年は胸を張って答えた。

「サリンジャー、村上春樹、アガサ・クリスティー、伴名練……。
 ほかにもたくさんあるけど、とりあえずこんなあたりですか」

 舞彩亜は感心した表情で言った。

「はあー、最後のだけ知らんけど……。
 でも、すごいわ。
 あたしどれも読んだことないし!」

 少年はあきれたような顔をして苦笑した。

「音楽漬け、って感じですか」

「まあ、そんな感じやな」

 舞彩亜は身体を後ろに反らせて、ふーっ、と伸びをすると言った。

「……まあ、あたしもこんなことしているけど、プロのミュージシャンになれるかとか、そんなことわからへんしな。
 好きやからやってるだけや。
 ……でも、もしなれるなら、プロになりたいとは思うよ」

 少年は真剣な目つきをして言った。

「あなたはなるべきですよ、プロのミュージシャンに。
 それだけの力がある人やと思います」

 舞彩亜は彼の言葉に心を打たれる感じがした。
 そしてまた赤くなった。

「……ありがと。
 まあ、精いっぱい努力するわ。
 ……行こっか!」

 舞彩亜は少年といっしょに立ち上がると、ギターの入ったギグバッグを背負った。

 ハンバーガーショップを出ると、もう夜の9時を過ぎていた。
 春も終わりに近いが、きょうの夜風はちょっと肌寒く感じられた。

「おそくなっちゃったね……こんな時間までだいじょうぶ?
 親、心配しない?」

「……心配はしているかもしれないですけど、まあ関係ないですし」

「そっか……。
 ま、あたしも同じやな」

 二人で春の夜空を見上げた。
 なんばの街を行き交う人の群れは、あいかわらず多い。

「次にいつどこでライブやるか、教えてもらえませんか」

 少年が言った。

「あー、通信制高校に移る準備しなきゃあかんから、次はまだ日時決まっとらんのや。
 2カ月以上先になるかもしれん。
 ……きみ、LINEやってる?
 交換できへん?
 ライブの場所と日時、決まったらそれでお知らせするわ!」

「ああ、いいですよ」

 舞彩亜と少年は、LINEアカウントでつながった。

「ね、それときみの名前、聞いてなかったわ。
 よかったら教えてくれる?
 あたしは舞彩亜。
 舞妓さんの舞うに、彩やかにの彩に、亜細亜の亜って書いて、舞彩亜」

「いい名前ですね」

 そう少年は言った。
 また舞彩亜は赤くなった気がした。
 夜風の寒さで冷やされて、たぶん彼にはわからなかったやろうけど。
 わからなかったと思いたい……。

 少年は続けて答えた。

「ぼくは舞彩亜さんほど、いい名前やないです。
 コウ。
 工場の工で、コウです」

 舞彩亜は照れ隠しに向こうのビル街に目をやりながら、笑顔で言った。

「きみも、いい名前やん」

 工は表情を変えずに答えた。

「ありがとうございます」

「ほな、また次のライブで会えるといいね」

「絶対会えますよ。
 ぼく、行きますから」

「そいつはうれしい。
 駅まで行く?」

「はい」

 舞彩亜と工は、大阪メトロのなんば駅までいっしょに歩いた。
 駅に着くと、路線が別なので二人はそこで別れた。

「ほなね!」

「はい。
 また!」

 舞彩亜は手を振った。
 工もそれに応えるように手をあげて、歩いて行った。

 アイツ、小憎らしいけど、いいヤツやな。
 それに、なんかちょっとかっこいいかも……。

 舞彩亜はひとりつぶやいて、家路についた。

***

 通信制高校の入学式の日。
 舞彩亜は緊張でいっぱいいっぱいだ。

 学校説明会への出席、相談会、前の高校との単位や在籍期間の引き継ぎなど、ややこしい手続きがいろいろあったけど、すべてスムーズに終わった。
 入試も作文と面接だけだったので、無事に通った。
 音楽をやるという目的意識が明確な舞彩亜は、学校側からも好感を持たれたらしく、なんら問題なく入学できた。

 通信制高校でも、ちゃんと入学式がある。
 始業式も終業式も、卒業式もあるし、文化祭や体育祭だってある。
 もちろん自由参加だったりリモートとの併用だったりと、通学できない生徒への配慮はちゃんとある。
 現在の通信制高校は、ネットによる通信とリアル通学とのハイブリッド型高校ともいうべきシステムになっていて、それ以外はふつうの全日制高校となんら変わらない。
 通学したい人は、週1日だけの通学から週5日までのフルに通学まで、好きなかたちを選べる。

 制服もある。
 もちろん、制服を希望する人だけが着ればよく、私服で来たい生徒は私服でOK。
 でも舞彩亜は、やっぱり高校生らしい気分を味わいたかったので、制服を買ってもらった。
 白いシャツの上に紺のブレザー、胸に赤いリボン。
 グレー地にブルーと白のチェック柄をあしらったスカート。
 きょう、舞彩亜はこの制服を着てキャンパス(学校)に来た。

 やっぱり制服だと、高校生になったと実感できて、気分上がるなー。
 舞彩亜は思った。

 キャンパスにはほかにもたくさんの新入生とおぼしき人が来ている。
 女子も男子も。
 こんなに人が来るものだとは思っていなかった。 

 高校中退にならずに、高校にまた来られるようになったのは、うれしい気もするけれど……
 それでもやはり、まだ不安が大きい。

 舞彩亜は入学式を行う教室に入り、指定された席に座って入学式の始まるのを待った。

 この通信制高校では、入学といっても、中学を卒業して最初から入学する人、高校1年で転入してくる人、2年以降に転入してくる人、さまざまな生徒がいる。
 入学式は、そうした学年も年齢もさまざまな子たち全員が一堂に会する場だ。
 (もちろん、通学できない状況にある子はオンライン参加でよい)。
 だから、この教室にも1年生、2年生、3年生がいっしょにいるわけだ。
 舞彩亜は、なんだか不思議な感じやな、と思った。

 きょうは母親も来てくれているが、父兄は別室でということになっており、ここにはいない。
 まあ、そのほうが気が楽だ。

 ふと、新入生とおぼしき男の子がひとり、教室に入ってきた。
 舞彩亜は、何気にその子の顔を見ると、驚きのあまり心臓が飛び出た気がした。
 そして思わず立ち上がって、声を上げた。

「え、工くん!?」

 工も制服姿。
 紺のブレザーにネクタイ、グレーのスラックス姿だ。
 舞彩亜の姿を、最初疑わしそうな表情で見ていたが、すぐに気がついた。
 いつもの無表情な顔が紅潮していくのがわかった。
 彼も舞彩亜を真っすぐに見つめて、叫んだ。

「ま、舞彩亜さん!?
 ま、マジですか……!?」

 こうして、次の路上ライブを待たずして再会を果たしてしまったのだ。
 二人は。