玉座の間は、いつもより多くの人間が息を潜めていた。
 夏の光は高窓から斜めに差し、金糸の緞帳の縁だけを明るくした。
 私は片膝をつき、正面から降る視線の重さを静かに受け止める。

「侯爵令嬢エリシア・ヴェルノ。そなたとの婚約を、ここに破棄する」

 王太子ユリウスの声は澄んでいた。
 その右隣には、蜂蜜色の髪をゆるく波打たせた伯爵令嬢ミレイユ。涙で濡れた睫毛を震わせ、胸元に押し当てたレースが白く揺れている。

「理由は?」
 喉の奥で凍った言葉を、丁寧に砕いて出す。

「嫉妬からの妨害。ミレイユの舞踏会のガウンに硝子の粉を仕込み、毒を混ぜた菓子で侮辱した。証拠はここに」

 侍従が銀盆に載せた小瓶と、刺繍針。
 どれも私の所持品ではない。だが、筋書きに必要な小道具としては過不足ないだろう。

「無実です」
 それしか言えない言葉は、最も軽く響く。

 玉座より一段下、国王アルトリウスが目を細めた。
 灰色の瞳の奥は、冬の湖のように静かだ。
 若い王ではない。けれど、背筋の上に置かれた王冠の重みを軽々と運ぶ、そんな人だと、私はずっと思っていた。

「退廷を」
 ユリウスの指が横へ払う。
 人々の視線は砂嵐のように私を削った。

 その瞬間――椅子が軋む音。
 玉座が、ゆっくりと立ち上がった。

「――愚かだな、ユリウス」

 国王の声は低く、よく通った。
 ざわめきの中で、その声だけが真っ直ぐ伸びる。

「宝石を泥と思い、泥を宝石と信ずる目に、王冠を預けられるか」

 玉座の間の空気が止まった。
 ユリウスが凍る。ミレイユの指先が、レースを握り潰す。

「エリシア・ヴェルノ」
 王は私を名で呼んだ。「余の妃となれ」

 誰かが息を呑む音、誰かが膝を折りかけて躓く音。
 言葉は刃でも毒でもなく、扉だった。
 閉ざされたと思っていた行き止まりに、別の道が開く。

 私は深く、礼を取る。
 だが、返事は一拍置いた。

「身に余るお言葉にございます、陛下。……ただひとつ、伺っても?」

「申せ」

「私をお選びになるのは、“王太子への当てつけ”ではありませんか」

 大胆だとわかっていて、口にした。
 この問いに耐えられないのなら、どちらの扉を選んでも、行き先は行き止まりだからだ。

 王は薄く笑った。
「余は、当てつけのために人の一生を賭けぬよ。――三つ、理由がある」

「三つ」

「ひとつ。汝は感情で手順を崩さぬ。宮中の祭礼で火事が出た折、泣き叫ぶ群衆の流れを見て、正面ではなく脇の小扉を開けよと指示したな。あれで潰れる命がいくつか減った」

 私はあの夜の熱と煙を思い出す。
 恐怖より先に、扉の蝶番の位置と、床の傾斜と、人の足の方向を見てしまう自分を、薄情だと感じたことがある。けれど結果は命を救った。

「ふたつ。汝は“名誉”より“成果”を好む。去年、王宮庭園のバラをすべて咲かせるという馬鹿げた企画があった。咲かせたのは庭師の手腕だが、その裏で、咲かぬ株を見切って市場に回し、香油に換えて費用を半分戻したのは汝だ」

 誰が見ていたのだろう。
 私は横目で宰相が目を逸らすのを見た。
 功を横取りする気はなかった。ただ、王宮の出納帳に赤が増えるのが嫌いなだけだ。

「みっつ。汝は“無実です”と言いながら、相手を責めない。今もそうだ。――悪意に対し、怒りではなく手順で応じる女は、王の傍に必要だ」

 言葉が胸に置かれる。重さはあるが、痛みはない。
 私はゆっくり息を吐いた。

「……お受けいたします、陛下」

 王太子が一歩、踏み出した。「父上――」
「退け」
 短い言葉は、壁より固かった。
「ユリウス。ミレイユ嬢。――自室に戻れ。今日から一月、そなたらは政から外す」

「そんな、陛下!」ミレイユが泣き声で叫ぶ。「私は被害者ですのに――」
「被害者は、余の耳元で涙の量を計らせぬ」
 王の灰色の瞳が、真冬の湖から真昼の刃に変わった。「行け」

 二人は、ようやく“王命”の意味を思い出したかのように、衛兵に伴われて去っていく。
 砂嵐の視線は引き、玉座の間に、風が通った。

     ◆

 即日、私の立場は「王妃候補」とされた。
 それは婚姻までの猶予期間であり、王は私に三つの仕事を与えた。

 一つ目は、王都の穀物倉の再配置。
 二つ目は、王立孤児院の出費見直し。
 三つ目は、宮廷舞踏会の順路の改定――緊急時の避難経路を、礼法を損ねずに埋め込むこと。

 どれも、花嫁修業とは呼び難い。
 だが、王の傍に立つ“妻”が飾りでないと示すには、これ以上ない課題だった。

 穀物倉は、地図を広げる前に靴を汚した。
 川筋、石畳の継ぎ目、車軸の音、荷車の影。
 紙の上の距離より、人の足の距離。
 倉庫番のヒゲの向きより、彼の昼寝の位置。
 私は帳面と人の顔を並べて、余剰と不足の矢印を引き直した。

「……王妃様は、数字に鬼ですな」
 倉庫番の老人が笑って頭を掻いた。「いや、悪い意味じゃない。腹が鳴る時間をなくす鬼だ」

「腹が鳴る音は、王宮の音楽より響きますから」
 私は笑い、領収書の余白に、次の季節風の向きを殴り書いた。

 孤児院の出費は、節約ではなく再投資に切り替えた。
 寄付の礼状に刺繍を加え、縫い子の仕事を増やし、売り物にする。
 医師の往診の費用は、王立大学の研修枠と組み合わせ、学生に実地訓練の場として提供する代わりに、費用を軽くした。
 「情けではなく、仕組みで残す」。それが私の習い性だ。

 舞踏会の順路は、礼儀作法の師範と衝突した。
 伝統は、理より頑固だ。
 私は真正面から理屈で叩くのではなく、伝統そのものを少しだけ“活かした”。

「昔の記録を拝見しました。百年前の舞踏会では、王妃が先導して花道を二度折れにしています」
「そうじゃった。王妃の裳裾を美しく見せるためにな」
「――その折れを、あと一度増やしても、裳裾の流れは損なわれません。代わりに、折れのたびに開く扉の近くを通る。緊急時にはそこが避難口になります」

 師範は、固かった眉を少しだけ解いた。「理屈に礼を着せるとは。……小癪な」

「褒め言葉として受け取ります」

 王は報告のたびに、多くを言わなかった。
 ただ、私の地図を覗き込み、矢印の方向を一本ずつ指で辿る。
 彼の指は傷だらけで、爪は短かった。
 剣よりも長く持ったものの形が残っているような――王冠ではなく、国そのものの重さの跡。

「よくやった」
 それだけで足りた。
 誉め言葉が多いと、人は自分の足音を聞かなくなる。

     ◆

 祈祷日。王宮礼拝堂の奥で、王は私に問うた。
「後悔はないか」

「陛下が仰った三つの理由に、私も三つ返します」
「聞こう」

「ひとつ。私は“王妃”になりたいのではなく、“陛下の隣”にいたいのです。隣に立てるのが私でないなら、王妃の椅子は別の方へ譲ればいいと思っていました」

「ふむ」

「ふたつ。私は怒りを忘れません。けれど、怒りで手順を壊さない自信はあります。
 みっつ。――私を宝と認めたのが陛下である限り、私も陛下の宝を守る努力を怠りません。宝とは、国であり、人です」

 王は目を閉じ、一気に笑ったわけではないのに、顔全体が明るくなった。
「良い。……良いな」

 祈祷堂の蝋燭が小さく爆ぜる。
 年上の男の笑い方には、若い男のそれにはない静けさが宿る。
 燃やすのではなく、温める火。

「式を急ぐべきでしょうか」
「余は急がぬ。――だが、急ぐ者が来るやもしれぬ」

 まさにそのとき、扉外にざわめき。
 侍従が血相を変えて駆け込む。「ユリウス殿下が、参内を」

 王の灰眼が一瞬で冬に戻った。
 私は呼吸を整える。胸の鼓動に手順を与える。吸って、止めて、吐く。

     ◆

 対面の間。
 ユリウスは、あの澄んだ声を、少しだけ濁らせていた。

「父上。……そして、エリシア」

 名を呼ぶ声に、未練と自尊と混乱が同居している。
 人は、自分の正しさを疑い始めたとき、声が一番迷う。

「私はミレイユを退けました。証言の捏造が露見した。彼女は国外追放に処しました。――だから、エリシア、婚約を――」

「ユリウス」
 王が遮る。「何を戻す」

「俺は間違った。だから正す。エリシアは俺の――」
「所有物ではない」
 灰色の視線が、刃をひと振りする。「間違いは、次の正しい手順で贖え。手順とは、謝罪と、再発防止と、被害の回復であって、過去に縋ることではない」

 私は王の横顔に感謝した。
 けれど、ここで王の言葉の影に隠れてはいけない。

「殿下」
 私は一歩、前に出る。「私の言葉でも、お伝えします」

「……エリシア」

「私は捨てられたのではありません。殿下が手放したのです。殿下の迷いと、誰かの涙のために。
 そして私は、私を拾い上げました。手順で。――王の傍で」

 ユリウスの瞳が揺れる。「戻っては、くれないのか」
「戻るのは“後退”と呼びます」
 ほんの少しだけ微笑んだ。「私は前に進みます」

 沈黙。
 彼は何かを言いかけ、結局、何も言わなかった。
 それで良い、と思った。
 言葉はときに、沈黙で終わるのが正しい。

 ユリウスが退出すると、王は小さく肩を回した。
「老骨には、叱るのも骨が折れる」

「陛下は叱るより、定義し直しておいでです」
「定義し直す?」
「“謝罪とは何か”“正すとは何か”。――言葉の手順を」

 王は愉快そうに笑った。「妻に先に褒められたな」

「まだ“候補”にございます」
「余は急がぬと言ったが、心変わりした」

「どちらに?」

「急ぐほうにな」

     ◆

 婚礼の日取りは、秋至祭に合わせた。
 百年前の記録をなぞりながら、折れ目をひとつ増やした行列を作る。
 花道は二度折れ、三度目の折れで扉の金具が外しやすく調整されている。
 誰も気づかぬように。けれど、いざというとき、誰でも開けられるように。

 私が鏡台の前でヴェールの縁を整えていると、侍女がそっと囁いた。
「王妃様。……ユリウス殿下から、お手紙が」

 封蝋は割れていない。
 私は一度だけ指でその赤を撫で、侍女に返した。

「保管して。――開けません」

 侍女は何も訊かなかった。
 私も何も説明しなかった。
 説明の代わりに、扉の蝶番の油を指で確かめた。

 式の音楽が始まる。
 私は一歩、通路に出た。
 人々の視線は今度、砂ではなかった。
 陽に温められた石の匂い、人の息の温度、花の水気。
 世界は、何一つ私を許さないでいて、同時に、何一つ私を拒まない。

 祭壇の前に、王が立っている。
 灰色の瞳は、湖でも刃でもなく、春の空の色だった。

「エリシア・ヴェルノ」
「アルトリウス・レーン」

 名と名を交換する。
 この国では、愛の言葉より先に、名を交わす。

「余は、汝を飾らぬ。隣に置く」
「私は、陛下を飾らせない。――隣に立ちます」

 誓いは、どちらも短かった。
 短い言葉は、長い手順に耐える。
 それで良い。

 指輪が嵌る。
 重さは、王冠の重さではない。
 人差し指の小さな傷に触れないように、王は気をつけた。
 私はそれに気づいたふりをせず、祝詞の音の数を黙って数えた。

     ◆

 婚礼の直後、王宮の倉から穀物が市場へ出された。
 孤児院の新しい帳簿には、刺繍の糸色が一色増え、医学生の出席簿に小さな丸が並ぶ。
 舞踏会の行列は、誰も気づかぬまま、予定通りに折れ、扉は最後まで閉じられたままだった。

 夜更け。
 王の執務室で、私は地図を広げていた。
 王は私の向かいで書簡に署名し、ときどき、こちらの矢印を瞥見する。

「こうして並んでいると、私たちはずっと前から、こうであった気がします」
「そうだな。――だが、余はあの日を忘れぬ。余が立った日、汝が問いを投げた日」

「当てつけではないか、と」
「うむ。あれで目が覚めた。余は王である前に、人である、と」

 窓の外で、秋虫が細く鳴く。
 王は羽根ペンを置き、指先で机を軽く叩いた。

「エリシア」
「はい」
「余は、余の国を愛している。汝も、そうか」
「はい」
「ならば――これから先の“間違い”は、互いに定義し直そう。怒りではなく手順で。涙ではなく実行で」

「約束します」
 私はペン先に新しい墨を含ませ、矢印を一本、足した。
「陛下」
「なんだ」
「扉の蝶番は、来年の春にもう一度見直しましょう。油は冬の間に固まります」

「任せる」

 言葉は短く、夜は長い。
 私たちは、火ではなく湯で温まる。
 湯気は音を立てず、けれど確かに部屋を満たす。

 扉の向こうで、世界はまだ誰かを砂で削るだろう。
 それでも、私たちは扉の場所を増やす。
 名誉ではなく成果で、怒りではなく手順で。
 王冠の煌めきではなく、指輪の丸さで。

 ――あの日、婚約は破棄された。
 けれど、私の人生は破棄されなかった。
 新しい道に、扉が開いた。
 開けたのは、王の言葉と、私の問いと、そして小さな蝋燭の火。

 この国が眠りにつくまで、私は地図の上に線を引く。
 倉から口へ、口から力へ、力から明日へ。
 王は黙って署名を重ね、時折、私の線を指で辿る。
 指先は傷だらけで、温かい。

 婚約破棄の瞬間に、私の世界は終わらなかった。
 ――始まったのだ。王と、隣で。