戦が終わって三日。
 辺境の国には、静かな喧騒が戻っていた。折れた槍は鍬へ打ち直され、焼けた柵は土と石の壁に造り替えられる。
 井戸の傍で、ミラが薬草を束ねている。カイルは子どもたちに槍ではなく木杭の打ち方を教え、アレンは若者たちに輪番の見張りと緊急時の合図を決めさせた。

「戦は終わった。だが国づくりはこれからだ」
 アレンの声に、若者たちは真剣に頷く。

 広場では、リディアが即席の卓に羊皮紙を広げていた。
 税――といっても穀物の一割を共同倉へ入れるだけ――の取り決め、怪我人と孤児を優先する配給表、見張り番の交代記録、そして交易許可証。
 彼女の筆は疲れを知らぬように走る。

「文字が書ける者を募って。記録係を三人は置きたいわ」
「は、はい!」と手が上がる。
「それと、商人は必ず検め所を通す。酒樽は封蝋、乾物は毒見を義務に」
 毒の夜を思い出し、広場に小さなざわめきが起こったが、すぐに安堵の息が広がった。

 昼下がり、丘の段々畑でオルグが土を握る。
「水脈を少し上手へ回せば、干ばつにも強くなる。女王様、あんたの術でできるかね」
 リディアはコンパスを当て、微笑んだ。
「風下に新しい林帯も作りましょう。砂塵を防げるはず」
 彼女が呪を囁くと、地の流れがやわらかく曲がった。

 黄昏、追悼の鐘が二度鳴った。
 皆が火を囲み、亡くなった名を一つずつ呼び、黙して空を仰ぐ。
 涙は乾かない。だが、その涙を拭う手は明日の仕事を知っていた。

 その夜、旗の下で評議が開かれた。
 武の長にアレン、土と水の長にオルグ、治療と学びの長にミラ、記録と交易の長に若い書記エリアス。
 リディアは最後に言う。

「掟は三つ。互いを守る、働きは報われる、弱き者を守る――それを破る者がいれば、私が裁く。でもまずは、皆で正す」
 頷きが波のように広がった。

 やがて、東の街道に二騎の影が現れた。
 王都の紋章はない。粗衣の騎士と、灰外套の文官。
 文官は兜を脱ぎ、深く頭を下げる。

「我らは辺境の女王と、その民に敬意を。王都の一部は、もはやこの戦を望みません。――交易と不可侵の使者として参りました」
 広場がざわめき、アレンが一歩前に出る。
 リディアは息を整え、はっきりと応えた。

「剣ではなく言葉を携えて来た者は、皆、火の輪の内へ。ここは光の国です」

 火は高く揺れ、旗は静かにたなびいた。
 戦の後に残ったのは、焼け跡だけではない。
 ――国の形、その始まりであった。

終章「星を読む」

 夜の風はやわらかく、丘の上の草を撫でていく。
 リディアはひとり、星空の下に立っていた。胸元のコンパスは小さく光り、針は北へ、そしてわずかに明日へ傾いているように見えた。

「祖母。私はもう、侯爵家の娘でも、婚約者でもないわ」
 息を吐く。
「追放され、名を失って――代わりに、皆の“居場所”を手に入れた」

 背後で小さな足音。
 カイルが角笛を抱え、はにかんで立っている。
「女王様、明日の見張りは僕の番です。……怖くは、ありません」
「偉いわ。怖さは消えなくていい。消えないから、備えられるの」
 彼はうんとうなずき、駆けていった。

 少し遅れて、アレンが上ってくる。
「使者の宿は整えた。明日、条件を詰めよう」
「ええ。剣で勝ったあとに、言葉で負けるわけにはいかないもの」
 二人は短く笑った。

 見下ろせば、焚き火の輪がいくつも瞬き、歌がさざ波のように流れてくる。
 孤児の笑い声、織機の音、木槌の響き、夜警の合図。
 それは、この国の鼓動だった。

 リディアは旗へ視線を上げる。白地に金糸、星の印。
 あの夜、泣きながら掲げた布切れは、今や約束そのものだ。

「辺境の国は、今日も生きてる」
 胸の奥で言葉が灯る。

 ――追放と婚約破棄から始まった物語は、ここで一度、幕を閉じる。
 けれど、土は季節の巡りを知り、風は新しい旅人を連れてくる。
 王都の宮廷にも、未知の同盟にも、まだ続きは用意されているのだろう。

 リディアはコンパスの蓋をそっと閉じ、星に礼をした。
「さあ、明日を読もう。私たちの居場所を、これからも」

 旗が風を受け、夜空に小さく音を立てた。
 その音は、遠い昔に聞いた祖母の笑い声に、どこか似ていた。