月が天に昇り、戦場は赤黒く染まっていた。
 炎の明かりと血の匂いが入り混じり、叫び声と剣戟の音が夜を裂く。

 辺境の民は必死に踏みとどまっていた。
 農夫は槍を、孤児は石を、女は薬草を、老人は歌を――それぞれの手に武器を持ち、この国を守ろうとしていた。

 リディアは胸元のコンパスを握りしめ、最後の力を振り絞って叫んだ。
「皆、ここが正念場よ! 絶対に退かないで!」

 針が光を放ち、大地が震える。
 地脈が呼応し、土の壁が隆起して敵兵の進軍を阻んだ。

 しかし、王都軍の数はなお圧倒的だった。
 次々と押し寄せる兵に、柵は裂け、仲間の悲鳴が響く。
 アレンは剣を振るいながらリディアに叫んだ。

「長くは持たん! 策はあるか!」

 リディアは荒い息を吐き、夜空を仰いだ。
 星々が瞬く――その瞬間、彼女の脳裏に祖母の言葉がよみがえる。

『大地と風と星をひとつに繋げば、道は開ける』

 リディアは震える手でコンパスを掲げ、星空に向かって呪を紡いだ。

「風よ、大地よ、星々よ――我らの国を護れ!」

 光が弾け、突風と地響きが同時に起こった。
 炎は竜のように渦を巻き、敵兵の列を飲み込んだ。

「な、何だこれは……!」
 王都軍の指揮官が狼狽し、兵の列は乱れた。

 その隙を逃さず、アレンが声を張り上げる。
「今だ! 押し返せ!」

 農夫たちが槍を突き、カイルが角笛を吹き鳴らし、少年たちが雄叫びを上げた。
 民は一丸となって突撃し、敵兵を後退させる。

 王都軍の士気が崩れ、ついに退却の号令が響いた。
 鉄の波は崩れ、森の向こうへと退いていく。

 辺境は……勝ったのだ。

 広場に戻った時、人々は疲れ果てながらも歓声を上げた。
 抱き合い、涙を流し、互いの無事を確かめ合う。

 リディアは崩れ落ちそうな体を支えられながら、胸元のコンパスを見つめた。
「……これで……私たちは証明した。追放された者でも、国を守れると」

 その声に、人々の歓声が重なった。
 「辺境の女王万歳!」「辺境の国万歳!」

 一方その頃、王都。
 敗北の報を聞いたアルベルトは激昂し、玉座の間で剣を叩きつけた。

「三度も……三度も女に敗れたというのか! 恥だ! 許されぬ!」

 重臣たちは顔を伏せ、誰も声を上げられない。
 国王すら沈黙し、重苦しい空気が宮殿を包んだ。

 ただ一人、セリーヌだけが窓辺に立ち、月を見上げていた。
(姉さま……あなたは本当に、国を作ってしまった。殿下をも、王都すらも凌ぐ力を……)

 嫉妬は恐怖に変わり、恐怖はやがて羨望に変わりつつあった。
 彼女の胸に芽生えた感情は、もはや「敵」だけでは説明できなかった。

 夜。
 リディアは丘の上でひとり星空を見上げていた。
 疲労で膝が震えていたが、瞳は揺らぎなかった。

「この国はもう揺るがない。王都が何をしようとも……私たちは生き抜く」

 コンパスが淡い光を放ち、針が北を指す。
 星々はその誓いを祝福するように、凛と輝いていた。