辺境の国の旗が掲げられてから、村は新たな活気に包まれていた。
 畑は順調に育ち、交易に訪れる商人も増えた。
 だが、リディアの胸には重苦しい予感があった。王都が軍を退けられたまま黙っているはずがない。

 その予感は、静かに現実となろうとしていた。

 ある夜更け。
 村の見張りが焚き火の明かりに眠気を誘われ、瞬きした刹那、闇に紛れた影が柵を越えた。
 全身を黒布で覆い、音を立てぬよう砂を撒きながら進む。
 腰には短剣、背には毒を仕込んだ吹き矢。――王都の密偵である。

「辺境の女王……。今宵、命を絶たせてもらう」

 低い囁きとともに、影は廃屋の屋根へと忍び上がった。そこにリディアの住まいがある。

 その頃、リディアは灯火の下で文をしたためていた。
 交易を求める商人や、流れ着いた人々の名簿。国を治めるということは、剣だけでなく記録や約束にも責任を持つことだと知ったからだ。

「眠れませんか、リディア様」
 声をかけたのはアレンだった。剣を腰に下げ、夜警を終えて戻ってきたところだ。

「ええ。国を名乗った以上、怠けられないもの」

 微笑んだ瞬間、窓の外で風が揺れた。
 コンパスが微かに震え、針が狂うように震動する。

「……っ、来る!」

 リディアが叫んだ刹那、窓ガラスを破って黒布の影が飛び込んできた。

 短剣が閃き、アレンが即座に剣で受ける。火花が散り、狭い室内に金属音が響いた。
 刺客は素早く身を翻し、リディアへ迫る。
 だがリディアは机を蹴り倒し、コンパスを掲げて呪句を紡ぐ。

「風よ――!」

 突風が巻き起こり、短剣の軌道を逸らした。刺客は壁に叩きつけられ、低く唸る。

「女にしてはやる……だが、逃しはせぬ」

 刺客は吹き矢を構えた。アレンが飛び込もうとしたその瞬間――カイルが扉を蹴破って飛び込んできた。

「リディア様!」

 少年の叫びとともに石が放たれ、吹き矢が弾かれる。
 刺客は舌打ちし、窓から再び闇へ飛び去った。

 静寂が戻り、リディアは荒い息を吐いた。
 机の上には散らばった文と、割れたガラス片。
 アレンは剣を納め、険しい表情で言う。

「……やはり来たか。軍で倒せぬなら、闇に刃を忍ばせる。王都のやり口だ」

 カイルは震える手で石を握りしめていた。
「僕……役に立てましたか?」

 リディアは彼を抱きしめ、強く頷いた。
「ええ。あなたがいなければ、今頃私は……。ありがとう、カイル」

 その言葉に、少年の瞳が誇りに光った。

 翌朝、村人たちに事の顛末が伝えられると、広場に怒りの声が渦巻いた。
「王都は兵を退けられたら、今度は暗殺か!」
「俺たちを虫けら扱いしているのか!」

 リディアは皆の前に立ち、声を張り上げた。

「王都は私たちを恐れている。だからこそ卑劣な手段に出たのです。――ですが、私は屈しません。この国は必ず守る。皆で、光の下で生き抜きましょう!」

 歓声と怒号が混ざり合い、村の士気は一層高まった。

 その頃、王都の密室。
 任務を果たせず戻った刺客が跪いていた。
 王太子アルベルトは冷たい瞳で彼を見下ろし、低く呟いた。

「女ごときに二度も恥をかかされたか……。次は軍でも刃でもない。“毒”で葬り去る」

 その言葉を聞きながら、セリーヌは心の奥で凍りつくような予感を覚えていた。

(姉さま……あなたは王都を敵に回しながら、どうして輝き続けるの……?)

 嫉妬と恐怖が胸に渦巻き、セリーヌの指先は震えて止まらなかった。