王城の大広間は、金糸のタペストリーと磨き上げられた黒大理石の床で、夜会のざわめきを映していた。水晶のシャンデリアから滴る光が、舞い踊るように人々の肩口に散り、笑い声とワインの香りが渦を巻く。
 その中央――楽団の音が一瞬だけ切れた隙を、王太子アルベルトのよく通る声が裂いた。

「侯爵令嬢リディア=フォン=エルバート。――婚約を、ここに破棄する」

 糸を断ち切ったように、ざわ……と噂が走る。誰かの手から落ちたグラスが乾いた音を立て、音色は床に吸い込まれた。
 視線が一斉に、白いドレスの少女へと集まる。リディアは胸元のコサージュを指で押さえ、礼儀作法にかなった角度で首を傾けた。口元は穏やかだが、心臓は鼓動のたびに波打ち、足許の床がわずかに揺れた気がした。

「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか。殿下」

 王太子の傍らには、蜂蜜色の髪を垂らした少女――セリーヌが寄り添っている。彼女は侯爵家の庶子。人前が苦手なはずのその唇が、今は嗜虐的にわずかに反っていた。
 王太子はセリーヌの肩を抱き、声に冷たい甘さを含ませる。

「理由は明白だ。お前は嫉妬にかられ、セリーヌを幾度も辱め、妨害した。人の上に立つ徳なし。王妃の器に非ず」

 吐息混じりの驚嘆が、宝石のようにあちこちで弾けた。
 ――事実無根。リディアは喉まで出かかった言葉を呑み込む。言葉には重さがある。ここで焦って取り零せば、足元から砂のように信用が崩れる。そう教えたのはマナー教師であり、祖母でもあった。

 祖母の形見の銀の指輪が、指の上で心細く冷えた。

「誰か証があるのか?」と男爵夫人。
「侍女たちの証言があるそうよ」と伯爵令嬢。
「ほら見なさい、やっぱり」と、リディアを羨んでいた女たちは安堵と興奮を混ぜて囁く。

 リディアは一歩進み出て、王太子と広間の視線を真っ直ぐに受け止めた。

「殿下。侍女の証言と仰せなら、その侍女たちの名を挙げ、王家の法に則って対審を願います。わたくしは、セリーヌに対して非礼を働いてはおりません」

 静まり返る。
 王太子は眉をわずかに動かし、すぐに表情を整えた。「対審だと? 面白い。だが、傷ついた少女をこれ以上人前に晒す必要はない」
 セリーヌが袖を握り、震える声音で続ける。「リディア姉さまは、わたくしの部屋の本を捨て、侍女を叱責し、……あの、夜会に出るなと……」

 視線の海が波立つ。
 ――その逆よ。あなたに似合う本を選び、夜会で困らないように練習を重ねた。
 言い返せばよい。だがリディアは、冷水のような予感を背で感じていた。ここは王城。王太子が「婚約破棄」を宣言した瞬間から、場の物語はもう決められている。無実を証明する舞台は、今この場ではない。

 拍車をかけるように、壇の脇から低い声が落ちた。

「リディア」

 エルバート侯――彼女の父が歩み出る。白髪に近づいた灰の髪、薄い唇。いつもは執務室から出ない男だ。「我が家の名誉は、王家の信頼と共にある。お前が家名に泥を塗った以上、勘当だ。今日をもって、家から去れ」

 大広間は凍りついたように静まった。
 リディアは父の瞳の奥に、自分の姿が映っていないことを知る。――昔から、そうだった。彼にとってリディアは、家と政略の駒の一つでしかなかった。
 母は病床で、いつもリディアの手を握ってくれた。だが母はもういない。残された家族は、薄い氷の上に立つ他人のようだった。

「……承知いたしました」

 深く礼をする。髪が肩の前に落ち、祖母の指輪がかすかに鳴った。
 礼を解くと、壇上の王太子と視線がぶつかった。彼の目は勝利の色に濡れている。セリーヌは哀れっぽく睫毛を伏せ、それでも口元では笑んでいた。

(この場は、あなた方の勝ちでよろしいわ)

 だが、敗北ではない。
 リディアは踵を返し、広間の視線の中をまっすぐ歩いた。絨毯の端で、幼馴染の公爵家の次男エドマンドが動きかけたが、兄の視線に縫い止められている。助けは来ない――それは絶望ではなく、自由の鐘に似ていた。

 星明かりの冷たい庭へ出る頃には、噂は廊下にも溢れ出し、侍女たちが目を逸らす気配が背に刺さった。
 馬車寄せの軒で、家令が待っていた。冷たい顔つきの、幼い頃から家を取り仕切ってきた男だ。

「お嬢様。――いえ、リディア様。侯爵より申し付けがございます。屋敷の間借りは今夜限り、持ち出しは衣装二つ分と私物の限られた品のみ。明朝、王都南門から出発の手配をいたします。行き先は、辺境開拓地。王都より四日」

 あらかじめ用意していた口上の滑らかさに、リディアは目を伏せる。
 すべては、最初から決まっていたのだ。婚約破棄も、勘当も、追放も。セリーヌが侯爵家で居場所を広げた間に、侍女たちの口は切り揃えられ、父の耳には都合の良い歌だけが届いていたのだろう。

「部屋へ戻ります。荷をまとめたいの」

「承知いたしました。護衛は二人、夜明けまでは交代で見張りをつけます」

 見張り――逃げないように、か。
 リディアは小さく笑みをつくると、歩き出した。

 部屋の扉を閉めると、静寂が落ちた。
 机の上には、祖母の遺した家政の手引き、礼法の本、薬草の図譜、そして小さな木箱。木箱の蓋を開けると、古びた羊皮紙と銀の細工が入っている。羊皮紙には、褪せた文字でこう記されている。

『エルバートの娘へ。家があなたを守らぬ時、知があなたを守る。技と計りを忘れるな。土を整え、水を導き、火を制し、風を読む。四の術は、民を生かすためにある』

 祖母が語ってくれた昔話――それは貴族の嗜みとされた「四元素式の家政魔術」。上流の婦人は社交の芸として身につけるが、祖母はそれを実用にまで練り上げた稀有な人だった。
 銀の細工は、小さなコンパスのような形。中央に微細な魔術紋が刻まれている。これで地脈と水脈の「流れ」を読むのだ、と祖母は笑っていた。

 まさか、これを本当に使う日が来るなんて。

 衣装棚の奥から、動きやすい旅装を選ぶ。絹ではなく、麻のしっかりしたワンピースとマント。宝飾品は最低限、指輪は指から外さない。銀のコンパスは胸元の袋へ。
 窓から夜の王都を見下ろせば、灯りは蜂蜜のように甘く、しかしもう自分には関係のない遠い光に見えた。

(――終わり、か)

 胸に落ちた言葉を、リディアは自分で否定する。
 終わりではなく、ここが始まりだ。
 失ったのは、名と屋根と、あるはずだった未来の一つ。けれど呼吸はできる。歩ける。手は動く。知はある。祖母が遺した四の術も、机の上の本も、どれも奪われてはいない。

 扉が小さく叩かれた。
 入ってきたのは、長く仕える侍女のマリアンヌだ。彼女は目を赤くして、布袋を差し出した。

「お嬢……いえ、リディア様。これは私から。乾燥肉と、旅先で役立つ薬草です。少しばかりですが、銅貨も」

「マリアンヌ……あなたまで巻き込まれる」

「もう、巻き込まれていますよ。だって、ずっとあなた様のそばにおりましたから。――お気をつけて」

 彼女の掌は温かい。人に触れられる温度が、こんなに心に沁みるとは思わなかった。リディアは袋を受け取り、短く抱き合った。

「ありがとう。必ず、生きて戻るわ。戻る……というより、あなたが胸を張って『仕えていたのは私です』と言える人間になる」

「はい。私は、いつでもここで……いえ、どこにでも」

 互いに微笑んだあと、マリアンヌは頭を下げて部屋を出ていく。足音が遠ざかると、夜は再び濃さを増した。

 明け方。薄青い空の底で、王都南門は開き始める。
 荷馬車の轅が軋み、門番が通行手形を確かめる。リディアは外套のフードを目深に被り、小さな包みを抱えて列に並ぶ。
 門の外は土煙の匂い。遠くに連なる丘は、朝日にまだ染まらず、灰色の背を丸めている。そこに続く道は、王都の舗装を離れ、やがて誰も振り返らぬ荒れ地へと伸びるという。

 列の途中で、名を呼ぶ声がした。
 振り向くと、エドマンドが駆けてくる。顎に汗を光らせ、息を切らし、だが瞳はまっすぐだった。

「リディア!」

 門番が怪訝そうに目を細める。リディアは首を振る。「来てはだめ。あなたが困るわ」

「困ったって――」エドマンドは口を引き結び、外套の内から小さな包みを出した。「地図と、手紙だ。東の古い軍道を使えば、四日が三日になる。途中で古井戸を目印にしてくれ。……あと、これは、兄貴には内緒だ」

 包みの中には、堅焼きのパンと干した果物、そして徽章を外した短剣。
 リディアは笑い、短剣を腰に結わえた。「ありがとう。恩は、必ず返す」

「返さなくていい。――生きて、それでいい」

 短い沈黙。
 隊列が動き、リディアは一歩、また一歩と門へ進む。門番がそっと視線を逸らし、何も言わずに通した。彼らも噂を聞いているのだろう。王都の流儀では、敗者は見ないふりをされる。

 門の外、土の道に最初の足跡を落とした瞬間、王都のざわめきが背中から剥がれ落ちた。
 朝の風は冷たい。けれど、その冷たさは痛みではなく、眠った感覚を目覚めさせるものだった。
 リディアはマントを握り、東へと歩き出す。荷馬車は先へ、彼女は地図の示す古い軍道を選んだ。祖母のコンパスを取り出し、そっと蓋を開ける。針の代わりに刻まれた魔術紋が、薄い朝光の中でかすかに光を返す。
 地の流れは、南から北へ緩やかに走っていた。丘の合間で水脈が近い場所がある。――彼女は、そこで最初の畑を起こすつもりでいた。

(私を追放した人たちは、知らない。土に眠る力も、人に宿るしぶとさも)

 丘を越えるごとに、王都の尖塔は低くなり、代わりに空が大きく広がった。
 鳥の声。風に運ばれる草の匂い。足下の土は、夜露を吸ってしっとりと重い。祖母の教えが掌に蘇る。土を崩しすぎない。水は流しすぎない。風は通し、火は囲え。
 ――四の術は、民を生かすためにある。

 午下がり。古井戸に辿り着くと、石組みは崩れ、蔓が絡みついていた。リディアは袖をまくり、手をかざす。小声で呪句を綴ると、銀のコンパスの紋が微かに震え、井戸の底に眠る水が応えるように冷気を上げた。
 桶を降ろし、重さに身を預けながら引き上げる。口を湿らせ、頬を濡らす。生き返るようだ。

「――行ける」

 小さく呟く。
 婚約破棄も、勘当も、追放も。王都の礼儀作法では、確かに彼女は「敗者」だった。
 けれど土と水は、そんな書き付けを知らない。手を伸ばす者に応えるのみだ。

 夕暮れ。斜陽が丘を斜めに切る頃、彼女は標の木を見つけた。古い境界標。そこから先は、地図にも薄くしか描かれない、誰も振り向かない土地――辺境。
 風が、遠い草原の匂いと、見知らぬ花の香りを運んできた。

 リディアは足を止めず、ただ一度だけ振り返る。
 王都は薄い紫に沈み、尖塔が指の先ほどに小さく見えた。そこに置いてきたものは多い。けれど、これから手に入れるものの重みを、彼女はまだ知らない。

 胸元の袋の中、銀のコンパスが微かな音を立てた。まるで、新しい地図の上で、針が最初の方角を指し示すように。

 ――追放の先で、物語が始まる。
 リディアは歩みを速めた。次に止まるのは、地脈が交わる小さな凹地。そこに火を起こし、夜を越え、明日の朝には最初の穴を掘る。
 水を呼び、土を起こし、風を通し、火で囲う。
 祖母の言葉を胸の奥で繰り返しながら、彼女は辺境へと踏み入っていった。