朝の鐘が三度鳴ったころ、街を出立する荷車が通りを軋ませていく。王都へ向かう商隊は、護衛を数人つけて城門脇へ集合し、税の検めを受ける。俺たちもそれに混じって王都へ向かうつもりでいた。が、出立の朝——予定は唐突に狂った。

 最下層の石畳に、短い悲鳴が落ちたのだ。女の声。しかも子供ではない。少し低めの、矯めた教養の匂いがする声色——貴族の娘か、良家の令嬢だろう。

「——助けて、誰か!」

 反射で影に沈む。路地の曲がり角、軒下に伸びる細い影が幾筋も絡み合い、薄い膜のようになっている。俺はその膜を押し分けるようにして移動し、角の先の光に頬だけを出した。

 灰色の外套を着た二人組が、少女を挟むようにして腕を掴んでいる。少女は薄いクリーム色のワンピースに、細工の細かなケープを羽織り、真珠の耳飾りを揺らしていた。歳は十四、五。金の髪は、丁寧に梳かれて巻かれている——庶民の娘が持てる艶ではない。

「離しなさい! 私は……っ」

「名乗るな、お姫様。価値が上がっちまう」

 粗い声に、もう一人が笑う。「影の道具が要るんだ。あんたみてえな『鍵血』なら、きっと反応する」

 鍵血——聞き慣れない単語に眉が動く。リクが耳元にささやいた。

「鍵血(かぎち)ってのは、貴族の中でもごく一部、古い家に生まれる血のことだ。古の遺物に触れると封が解けたり、扉が開いたりする。王都の連中が好む神秘の玩具さ」

「つまり、その娘は『鍵』か」

「たぶんな。しかも——影に相性がいい血があるって噂もある」

 影、という語に、小さく心臓が鳴った。ルナが俺の袖をつかむ。

「たすける、よね?」

「もちろんだ」

 俺は影を二筋、少女の足元へ走らせた。まずは手荒な腕をほどく。外套の男が剣の柄に手を伸ばす前に、足首ごと影へ沈める。石畳に落ちる男の罵声。もう一人が少女を引きずろうとした瞬間、ルナの投げた小石が路地の明暗の境目に落ち、影が跳ねる。影の波が男の膝を絡め取り、体勢が崩れた。

 俺は影から飛び出し、男の肘を軽く弾く。嫌な音を立て、剣が手から滑る。リクが即座に刃の上に靴底を置いて固定し、喉元へ短剣を突きつけた。

「動くな。次に動いたら、影じゃなくて血が流れる」

 少女は俺を見上げ、確かめるように息を吸った。「あなた……冒険者?」

「影潜りだ。——立てるか?」

「ええ。ありがとう」

 彼女は裾を払って立ち上がると、外套の男たちをこわごわ振り返った。男の片方はなおも口の端で笑っている。目が笑っていない。獣の目だ。

「へへ。影潜りか。お前ら、王都行きだろう? なら覚えとけ。この街で鍵血を触ると、影が啼くぜ」

 意味ありげな言葉を残し、男は拘束を解かれるや否や、仲間の腕を引いて裏抜け道に消えた。追えなくはないが、路地は枝のように連なり、罠の匂いが濃い。俺は追撃を諦め、少女へ向き直る。

「怪我は?」

「平気よ。怖かったけれど……ありがとう。本当に」

 少女は胸に手を当て、恭しく会釈した。仕草に無駄がない。礼法を叩き込まれた身体だ。上等な布の袖口から覗いた手首に、薄い紐——印章の代わりらしき銀糸が巻かれている。紋章は月桂と鍵。家系が鍵と関わることを隠しもしない。

「私はエリシア・ヴァルデ。商人貴族ヴァルデ家の者よ。護衛とはぐれてしまって……」

 ヴァルデ。リクが小さく口笛を鳴らす。「王都じゃでかい顔の商人だ。金と印章で半分の門を開ける連中だな」

 エリシアはあどけない顔に、困ったような笑みを浮かべた。「『でかい顔』は父のことね。私はまだ修学中の身。ただ——この街に『影の合わせ箱』があると聞いて、見に来たの」

「影の……合わせ箱?」

「古い収蔵箱よ。二つでひとつ。片方はこの街、もう片方は王都の地下。どちらか一方の箱に品を入れると、もう一方に移る。鍵血の接触で一時だけ“影の道”が開く、と文書には」

 ルナが目を丸くした。「それって……おじさんの影と似てる」

「似てはいるが、違う。俺のは俺の意志で繋げる。箱は血で開く古道具だ」

 エリシアは頷いた。「父は『危ないから近づくな』と言ったわ。だから護衛を連れて下見のつもりだったのだけど……。狙われたのは——私の血ね」

 鍵血。影に相性のいい血。影の合わせ箱。点が線になる音が頭のどこかでした。王都からの召喚——影を使う賊の噂——そして、この街と王都を影で繋ぐ箱。王都の《影》は、ここから供給されているのかもしれない。

「——箱の場所は?」

「古い聖具倉の地下だと聞いたわ。聖堂の裏手。昼間は見張りがいる。夜は鍵がかかる。鍵血があれば開くけれど、護衛と引き離された今の私一人では危険すぎる」

 リクが肩をすくめた。「そりゃそうだ。鍵を持った相手を誘き出す罠にしか見えねえ」

 エリシアは不意に、潤んだ眼でこちらを見た。作り物ではない、必死の眼差しだった。「お願いがあるの。私を——箱へ連れていって。王都への道が、そこにあるかもしれない」

 ルナが俺を見上げる。迷うように揺れた瞳は、すぐに静まった。「いこう。たすけよう」

 俺は息を吸い、吐いた。決めるべき時はいつも突然だ。逃げれば楽だが、逃げるほど、影は冷たくなる。あの夜、盗賊団からルナを救った時に決めた。守る、と。影を、生の側に使うと。

「わかった。夜に動く。日没までに準備を——」

 言い切る前、聖堂の方角で鐘が不意に鳴り狂った。午の鐘ではない。警鐘だ。石畳に人の足がばらばらと走り出し、叫び声があちこちの路地に散った。

「火事か?」「いや違う! 聖堂の地下で、誰かが——!」

 俺はエリシアと視線を合わせ、短く頷いた。「間に合わない。今行く」

「危険だよ」とルナが袖を握る。俺はその小さな手を包み、うなずいた。「危険は俺が持つ。お前は——影の合図を頼む」

「うん」

 俺たちは走った。聖堂は白い石で築かれ、王都へ向かう巡礼路の要でもある。祭壇の裏、倉庫の扉は既に半開きで、中から埃と古布の匂いが流れ出ていた。薄暗い階段へ足を踏み入れると、地の底へ冷気が降りていく。

 影は豊かだ。階段の踊り場ごとに灯されたランプが、床へ楕円を落とし、その狭間の黒を厚くする。俺は黒目のような濃い影を撫で、下方へ意識を押し出した。動く影——いる。二、三……いや、四。人の影。待ち伏せている。

 リクが顎で合図した。「曲がり角、二十歩先だ」

「わかった。——三つ数えたら、灯りを消す」

 ルナが持っている小瓶には、炭粉を混ぜた油と、影を濃くする草の煮出しが入っている。灯りに投げれば一時的に光がくすむ。俺の影が濃くなる。

「いち」「に——」「さん!」

 小瓶が飛ぶ。灯りが煙を上げて黒ずみ、階段の陰影が一気に深くなった。俺は影に沈み、曲がり角の先、待ち伏せの足元から現れる。膝を払って喉に手刀、脇腹に拳。リクが別の影から滑り出て、柄頭で後頭部を殴打。静かに落ちる肉の気配。

 さらに二人。短剣が逆手で閃き、俺の胸に向かう。壁の影に肩を押し込み、刃の軌道をずらす。石に火花。肩に浅い焼ける痛み。血の匂いが立ち、影がざわりと揺れた——俺の血に、影が反応する。影は生き物だ。持ち主の痛みに敏い。

「大丈夫?」とエリシア。

「擦り傷だ。進む」

 地下の奥は、薄い苔の匂いと古紙の乾いた匂いが混じっている。やがて狭い回廊は小さな広間に開け、その中央に、黒い木箱が静かに座していた。磨り減った縁に銀の縁取り、四隅は鋲で補強。箱は二つ——片割れを失った空虚のように、互い違いに、少しずれた位置に置かれている。表面には細い文字列。古王朝の文だ。エリシアが息を呑む。

「——合わせ箱」

 近づく。箱の片側には鍵穴、もう片側には円い皿のような窪み。エリシアは手袋を外し、指先を震わせながら窪みに触れようとする。俺は手で制した。

「待て。見張りがいる」

 柱の影に、ふっと冷たい気配が立った。言葉になるより早く、影が伸びて俺の足首を掴みにくる。俺と同じ——いや、俺以上に滑らかな動き。影は窪地に溜まった雨水のように低いところに集まるが、いまここでは逆だ。天井に吊られた灯りの影が、蛇のように下りてくる。

 声が、広間の反響で複数に割れて響いた。

「鍵血に触れさせろ。扉が開く。——あとは、引きずり込むだけだ」

 柱の陰から三つの影が剥がれた。外套の男——いや、さきほどの二人とは違う。もっと統制された身のこなし、声の調子に訓練の匂いがある。王都の兵か、それに準じる私兵。影術は粗くない。指先で影をつまみ、紙のように折り重ねる動きは、素人では身につかない。

「ルナ、後ろへ。エリシアは俺の影の中——合図まで出るな」

 二人がすっと俺の足元の影に滑り込む。影は狭く、冷たく、しかし俺にだけは柔らかい。俺はゆっくりと息を吐く。影は呼吸だ。影は鼓動だ。影は臓腑の裏を流れる黒い川だ。

「合図って?」とルナの声。

「灯りだ。全部、落とす」

 リクが頷いた。「合図をくれ」

 男たちが一斉に動いた。影が床を剥ぎ、蛇の舌のように舐める。俺は自分の影を床に貼りつけ、箱の影と柱の影を縫い合わせる。男の一人が驚いたように舌打ちした。影を縫う、という発想は、影術の手引書には載っていないはずだ。影は繋ぐもの。縫うのは手芸だ。だが、影は布でもある。

「今だ、リク」

 リクが柱に飛び乗り、灯りの鎖を蹴る。鉄が悲鳴をあげ、ランプが一つ、また一つと落ち、火が消え、油が石に広がる。広間の光が痩せ、影の層が厚く重なる——黒い海。俺はその海を一気に撫でた。波が立つ。男たちの影が足首から膝へ、膝から腰へと重く絡み、動きを鈍らせる。

「バカな、視えない……!」

「視えなくていい。感じろ」

 俺は影から飛び出し、最も近い男の手首をつかんで捻る。刃が落ちる。蹴りで顎を跳ね上げ、影に沈める。次の男は影を鞭にして振るってきた。俺は壁の影を棘のように尖らせて受け、絡めとる。鞭と棘は相殺し、黒い火花が散る——いや、火花のように見える感覚のせめぎ合い。目に映るものは暗黒の縞、耳に届くのは呼吸と布擦れと、影が砂をこするような音だけ。

 三人目は動きが違った。低く滑り、背後に回り、無音で短剣を下から突き上げる。避けきれない——そう認識した瞬間、俺の足元の影から、小さな手が伸びた。ルナだ。影の中から俺の腰帯を引き、半歩分後ろへずらす。刃先が服の端を裂き、皮膚に浅く触れて止まる。そのまま俺は反転し、男の手首を掴んで影に押し込む。掌に伝わるのは冷たい骨の細さ——迷いのない動きの男の骨は、軽い。

 男の息が一つ乱れた。そこへエリシアの声。「——今よ!」

 箱の前の窪みへ、エリシアの指が触れる。音はしない。だが、空気が変わった。乾いた地下室に、見えない潮が満ちる。合わせ箱の蓋が、音もなく半寸ほど浮き、内側の闇が揺れた。俺の影が、その闇に触れる。感じた。向こう側——遠く、深く、冷たい、別の影。王都の地下は、俺の知らない深度を持っている。

 男たちが焦る。「閉じろ、閉じろ! まだだ!」

 俺は箱の縁に影を縫い付け、蓋の開きを維持した。向こうからも影が伸びてくる。迎えにくる誰かの影。見えない掌が、こちら側の闇を撫でた。ぞっとするほど整っている。訓練ではない。体系だ。影を階段にし、段差にし、梁にする。美しいが、生き物の温かみがない。

「お前は——誰だ」

 問いは闇に溶けた。返答の代わりに、箱の向こうから黒いひもが伸び、俺の手首を狙った。冷たく、獣の牙のない咬みつき。俺は引かれながらも、逆に結び目をねじり、ほどく。影は結べる。ほどける。俺の指は長年の敗北で覚えた癖で、ほどく方に強い。

「退け!」と誰かが叫ぶ。王都側の影が一瞬しりぞき、箱の縁が鳴った。エリシアの指が震える。「維持するわ。持っていて」

「無理はするな。血が吸われる」

 エリシアの額に汗が滲む。鍵血は扉を開ける代わりに、触れた何かに少しずつ“支払う”。それが影なら、支払いは熱か、記憶だ。どちらにせよ、長く続ければ戻らない。

 こちら側の男たちは、すでに二人が動けない。一人はリクが縛り、もう一人は影に半身を沈めている。最後の男が、箱を蹴った。重い板が低い音を立て、蓋がわずかに閉じる。その隙に王都の影が、箱の縁からこちら側へ跳ねた。細く、鋭い——針の束のような影の穂先。狙いは、エリシアの指。

 間に合う距離ではない。俺はためらわず、手の甲を差し出した。針が皮を貫き、熱が走る。影が血を飲む音は、砂利に雨が落ちる音に似ている。俺は影の針束を掴み、握り潰すように結び、きしむようにほどいた。ほどかれる痛みに、向こう側の“何か”が小さく上擦った。人かどうかもわからない無感情の揺れ。

「——引く」

 王都の影が、すうっと退いた。箱の闇が静まり、エリシアの指先の震えが止まる。俺は息を吐き、手の甲の血を影に落として封をする。血に濡れた影は、黒々として、少しだけ甘い匂いがした。俺の影だ。俺の血の匂いだ。俺の生の匂いだ。

 短い静寂。やがて、縛られた男が呻き声を漏らした。「……化け物め」

「人間だ」と俺は答えた。「お前らと同じ——いや、違う。俺は影を、守るために使う」

 リクが肩をすくめる。「こいつら、王都の紐付きだろ。箱を開けさせて、向こうの連中を通すつもりだった。鍵血を囮にしてな」

 エリシアは静かに頷いた。「たぶん、そうね。父も箱の存在を知っている。王都の商人たちは皆、少しずつ触れている。……でも、今の影は、商人のものじゃないわ。もっと冷たい」

「兵か、それとも——神殿か」

 その名を口に出すと、影が微かに波だった。神殿。神の名のもと、加護や祈祷を司るはずの場所。だがこの世界では、神殿は政治の手でもある。神が人に与えた“スキル”を記録し、序列を印章に刻む。俺に「無能」を下した声の主が、神かどうか知らない。だが、人の手の届く場所から、俺を切り捨てたのは確かだ。

 ルナが影から顔を出し、小さく息をついた。「こわかった……でも、勝てたね」

「ああ。勝ったのは——逃がしたからだ」

 ルナが首をかしげる。俺は箱を見て言った。「向こうは、俺たちを『測った』。本気で奪いに来てはいない。今日の目的は、鍵血と影潜りの相性を確かめること。俺の手の血を舐めたのも、そうだ」

 エリシアがぎゅっと拳を握る。「悔しい。私たちは、試されただけ」

「試されたなら、返せばいい。次はこちらが測る番だ」

 縛られた男たちを聖堂の見張りへ引き渡す手筈を整え、俺たちは地上へ戻った。昼の光が刺すように白い。空の青がいつもより硬く見える。影の合わせ箱のことを知ったことで、光の輪郭が鋭くなったのかもしれない。

 聖堂の前で、エリシアが深く頭を下げた。「ありがとう。命を救ってくれて、それに……箱を守ってくれて」

「礼は王都で聞く。俺たちは召喚されている。君の家も王都にある。なら、先で話そう」

 エリシアは一瞬迷い、うなずいた。「同行してもいい? 護衛は……途中で合流できるはず」

 リクが俺を見た。俺はルナを見る。ルナはにこりと笑い、エリシアの手を取った。「いっしょにいこう」

 小さな手と白い手が結ばれる。影がその輪郭をなぞる。俺は胸の奥で、何かが確かに“整う”音を聞いた。仲間が増える音だ。旅の形が決まっていく音だ。

 宿に戻る途中、ギルドの掲示板の前に人だかりができていた。「見ろよ、王都の告示が増えた」「影に関する情報提供の報奨だってよ」「影に関与した者は、出頭を求む、か」

 紙片の端に、黒い印。神殿印。予想通りだ。神殿が表へ出てきた。王都は急ぐ。影を掌握したい。そのために、鍵血と影潜りを“集める”。

 ならば、こちらも急ごう。神殿の速度に飲まれないために。

 夕方、荷車の列が西門に並ぶ。門番が印章を検める間、俺は拳を握り、手の甲の薄い痛みを確かめた。王都の影が噛みついた跡は、もう黒い痣に変わっている。痣に触れると、影が応える——深く、頼りになる、低い唸りで。

「行こう」と俺は言った。「王都へ」

 ルナがうなずく。「うん」

 リクが笑う。「派手な旅になりそうだ」

 エリシアが裾を持ち上げ、小さく礼をする。「よろしくね、影の人」

 俺は首を振った。「影は俺のものじゃない。——俺が、影のものでもない」

 言葉に、夕陽の赤がゆっくり沈む。門が開く。車輪が軋み、人の列が動き出す。俺たちはその列の影に寄り添い、第一歩を踏み出した。

 神に無能と切り捨てられた俺は、影を手にした。影は世界の裏側の地図だ。王都は、その地図の中心に穴を空けた。ならば、行って確かめよう。穴の向こうにいる“誰か”が、何者なのかを。影を“使う”のか、“生きる”のかを。

 影は、俺の背中を押した。冷たく、しかし温かく。矛盾のようでいて、これほど確かな感触はない。影は俺にとって、もはや罰でも祝福でもない。選択だ。俺が選び続ける限り、影は道になる。

 王都の塔が、遠い空に針のように立っている。その針先から落ちる影は、もうこの街の端をかすめていた。

 俺たちは、その影へ歩いていった。