最下層の街は常に不穏だった。
 昼間は市場の喧騒にかき消されているが、夜になると路地裏に獣じみた声が響く。
 それは酔っぱらいの笑い声だったり、賭け事で負けた男の怒鳴り声だったり、あるいは女の泣き声だったりする。

 そんな街で、盗賊団は「支配者」だった。
 衛兵は表通りしか守らない。裏路地は事実上、盗賊の縄張りだ。
 だから彼らに逆らえばどうなるか……この街の誰もが知っている。

「おい、聞いたか? 昨日、俺らの仲間を影から引きずり込んだ奴がいるらしい」
「ガキを守ったとか? 冗談じゃねえ。路地裏の乞食風情がよ」

 盗賊団の噂は瞬く間に広がった。
 そして標的は俺に定められた。

 その夜。
 ルナと眠っていた寝床の前に、足音がいくつも近づいてくる。

「……っ、来たか」

 俺はルナに耳打ちした。
「影に潜ってろ。絶対に出てくるな」
 彼女は怯えた目で頷き、俺の影の中に隠れた。影は確かに狭いが、呼吸はできる。俺と繋がっている限り、彼女は無事だ。

 やがて、五人の盗賊が姿を現した。刃こぼれした剣や棍棒を手に、にやにやと笑う。

「お前か。仲間をやった影潜りってのは」
「へぇ、噂通り影に潜れるって? 見せてみろよ」

 挑発する声。
 俺は黙って立ち上がり、拳を握った。

 最初に飛びかかってきた男を、影に沈めた。
 腰まで飲み込まれた男は絶叫する。

「うわああ!? 足が抜けねぇ!」

 次の瞬間、俺は背後から現れ、その顎に膝蹴りを叩き込んだ。
 男は泡を吹いて崩れ落ちる。

「な……! 消えた!? どこに行きやがった!」

 仲間が辺りを見回す。
 俺は石壁の影から顔を出し、棍棒を振り上げた男の手首を掴んだ。
 そのまま影に引き込み、腕をねじり上げる。

 骨がきしむ音。
 男は悲鳴を上げ、棍棒を落とした。

 だが三人目が背後から剣を振るった。
 鋭い光が目をかすめる。

「ちぃっ!」

 咄嗟に影へ潜る。剣は空を切り、火花が散った。
 影から飛び出して相手の膝裏を蹴り飛ばす。

「ぐっ……!」

 男が崩れ落ち、顔を地面に叩きつけた。

 残り二人。
 彼らは怯えて後ずさった。

「ば、化け物だ……」
「もうやめようぜ! こいつは人間じゃねえ!」

 だが背後から声が飛んだ。

「腰抜けが……退くな!」

 路地の奥から現れたのは、大柄の男。
 肩に斧を担ぎ、胸に傷だらけの革鎧をまとっている。
 周囲がざわめいた。盗賊団の頭――バルゴだ。

「へえ……お前が噂の影潜りか」
「……そうだとしたら?」
「いい度胸だな。だが、俺の縄張りで勝手に力を振るう奴は許さねぇ」

 バルゴが斧を振り上げる。
 空気が裂け、石畳が震えた。

 俺は影へ沈み込む。だが――

「遅ぇ!」

 振り下ろされた斧が影の出口を叩き割った。
 衝撃が全身を突き抜け、吐き気が込み上げる。

 バルゴは獰猛な笑みを浮かべた。

「影から出る場所が読めるんだよ。ガキの遊びじゃ俺には勝てねぇ!」

 ――確かに、正面からは敵わない。
 だが、俺には守るものがある。

 ルナを隠した影の奥から、小さな手が震えているのを感じた。

(ここで負けるわけにはいかない……!)

 俺は影に潜り直し、壁の影から飛び出す。
 バルゴの背後に回り込んで拳を叩き込むが、分厚い鎧に弾かれた。

「ははっ! 効かねぇ!」

 バルゴの斧が迫る。
 ギリギリで影に逃げ込む。だが、このままではジリ貧だ。

 息を切らしながら考える。
 影は“繋げる”。
 ならば――。

 俺は自分の影と、バルゴの足元の影を強引に繋げた。
 その瞬間、重い感覚が走る。
 斧が振り下ろされる前に、俺は両手を影に突っ込み、バルゴの足を掴んだ。

「なっ……!?」

 ずぶり、とバルゴの両脚が影に沈んでいく。
 巨体がバランスを崩し、石畳に倒れ込んだ。

 その隙に俺は影から飛び出し、渾身の拳をその顔面に叩き込む。

「ぐはっ!」

 鼻血を噴き、バルゴが呻いた。

 盗賊たちは青ざめ、次々と逃げていく。

 俺は荒い息を吐きながら、ルナを影から引き出した。
 彼女は目を潤ませて言った。

「……おじさん、すごい……! 本当に、すごいよ……!」

 震える声に、胸の奥が熱くなる。
 無能と呼ばれた俺が、誰かに“すごい”と言われる日が来るなんて。

 だがまだ終わりじゃない。
 バルゴは完全には倒れていない。
 そして盗賊団は、この街全体に根を張っている。

 これからが本当の戦いだ。

「――影は、まだ俺に力を貸してくれる」

 俺はそう呟き、夜の闇を見上げた。

第3話ここまで