朝の鐘がひとつ。王都の空は、洗い上げた皿みたいに薄い青を載せていた。石畳は夜露を吸って鈍く光り、広場の屋台は半分だけ口を開けている。蜂蜜の匂い、焼き栗の匂い、革の油の匂い。人の匂いが混ざると、影は少しだけ甘くなる。

「緊張してる?」とルナ。
「少しな」
「いつも通りでいいよ。ほどいて、結ぶだけ」

 そう言って、ルナは俺の影の端をつまみ、いつものほどける結び目を一つ作った。解くより先に安心が来る結び方。これがあると、息の深さを思い出せる。

 西側の門から、神殿の白布と役所の青旗が広場へ流れ込んできた。真ん中には丸い台。黒い石に白い目盛り――計測台。門前にあったものより大きく、影燈が四方から吊られている。

「ほら」とリクが顎で示す。
 青印官セレドが台の脇に立ち、喉元の印に軽く触れて一礼した。彼の視線は壁時計みたいに正確で、けれど今日はほんの少し柔らかかった。
 その隣、ヴァルデ家の紋章旗の下でエリシアが手袋を持ち、胸の銀糸を整えている。鍵血の心拍は静かだ。昨夜の支払いの分だけ、息の通り道が広くなっているのがわかる。

 王は、最初の鐘がふたつめに折れるのを待って歩み出た。豪奢ではない衣装、磨かれた木の杖。声は乾いているが、質は温かい。

「今日、王都は一つの言葉の向きを変える。救済だ。切断であってはならない。囲い込みであってはならない。放任でもない。――市井の言葉で、今一度、定義せよ」

 視線が俺を呼ぶ。
 俺は台へ上がり、黒石に右手を置いた。痣は低くうなり、影燈の輪がゆっくりと脈打つ。
 広場の端から端まで、ざわめきが薄い波紋みたいに広がっていくのがわかる。人は言葉を待っている。恐る恐る、しかし確かに。

「まず、見せる」

 俺は声に出した。派手な見世物ではなく、いつものことをする。
 計測台の縁から一歩降りると、屋台と屋台の間で若い職人が指を押さえているのが目に入った。木槌で潰したのか、関節が赤い。大勢の前で助けられるのが恥ずかしいのか、顔を伏せている。

「いいか?」
 うなずきが小さく返る。
 俺は地面の薄影を撫で、一本だけ糸を抜いた。糸は陽の向きで硬さが違う。朝の糸はまだ柔らかい。輪にして、指の影に通し、半指だけゆるませる。
 職人は息を吐いた。「……動く。痛くない」
 拍手は小さい。広場は、昼間の大声をまだ持っていない。でも、その小ささで十分だ。影は静かな拍手を長く覚えている。

「救済は、切らず、縫わず、生きたままほどき直すことだ」
 俺は台に戻り、黒石に手を置きなおした。
「影は布だ。強く引けば切れる。固く縛れば腐る。だから――ほどける結び目で、人の暮らしを結び直す。息ができるように、血が巡るように」

 白布の一部がざわつく。切断に慣れた指先は、ほどく手つきに時間がかかるから。
 青印官セレドが一歩進み、役目の声で告げた。
「今日、計測網(オラクル)は更新される。古い帳面から“無能”の語を参照から外す。代わりに、市井の語彙を導入する。――『ほどける』『息を合わせる』『支払い』『返す』」

 王が静かに頷く。
「合わせ箱は、王都の公益装置とする。物流と医療に限り、鍵血の支払いを公費で補助する。市民は、鍵血に負担を押しつけてはならない。――影縫い役、置く」

 言葉は、石よりも先に空気を固くする。広場の空気が少し震え、すぐ落ち着く。
 ヴァルデの旗の下で、エリシアが短く息を整えた。彼女の銀糸が光を吸って、わずかに黒く濃くなる。

「ここで、もうひとつ」
 セレドの声が低く広場を渡る。「昨夜、参照庫で追跡ルーチンが動いた。人の手が、古い帳面を今に合わせて都合よく継ぎ足していた。――神ではない。私たちだ。だからこそ、直せる」

 白布の中にざらりとした動揺が走る。責めるためではない。責任を引き受けるための動揺だ。
 王は逃げ道を用意しない。代わりに方向を示す。

「計測は、人を助けるための道具だ。道具は時に、人を傷つける。ならば、傷つけないよう持ち方を変えよ。――縫い手」

 呼ばれて、俺は黒石の台座に左手を添えた。
 影燈の輪が深くなり、白い目盛りが呼吸を始める。
 “判定音声”が、古い紙の端を擦る音と一緒に、どこかから滲み出てくる。
 ――(   )
 昨夜、棚から外した空欄。その空欄の縁が、まだかすかに痛む。支払った記憶の場所は、静かで、涼しい。

「ここに、暮らし言葉を置く」
 俺は言った。
「“夜泣きは抱いてから”」
「“きつい紐は息をするために緩める”」
「“ほどける結び目で結ぶ”」
 祈りでも命令でもない。ただの説明。
 影燈が一度だけ強く息をし、目盛りが静かに止まった。黒石の上に、薄い文字が浮かぶ。
 級:未定義/判定:観測完了(生活語彙共鳴)
 広場の空気が、あたたかいものを飲み込むときみたいに動いた。

 そのときだ。
 台の足元、石の目に古い輪が一つ、ひっそりと灯った。昨夜の門印と同じ系統。獲物の気配を嗅ぐ猟犬みたいに、輪はルナの足元へ向かって伸びる。
「来たわ」とエリシアの声。
 リクが片足で輪の進行を塞ぎ、俺は輪の縁に指を差し入れて――結び目を作った。
 輪は縮む。詰まって、苦しんで、止まる。
「ほどくのは、こっちの仕事だ」
 結び目を逆にほどき、輪を裏返す。
 対象を示す細い筋が、俺の痣を探して揺れる。痣は静かだ。目印は裏へ折り込んだ。
 筋は宙を掴み、消えた。

 その瞬間、小さな歓声がどこかで上がり、別の場所で老女のしわがれた笑い声が重なった。広場の裾が、やっと息を吸ったのだ。
 王が杖の先で石を軽く叩く。乾いた音が、群衆の緊張をほどく。
「見たか。――これが救済だ。縫い手、鍵血、そして市井。道具は人に使われるべきだ。影は生の側に」

 拍手が広がる。大きくはないが、底が厚い。
 白布の隊列の中で、年長の神官が目を閉じて短い祈りを結び、青印官セレドが板筆に新しい見出しを書き入れた。
 『影縫い所(えいほうどころ)設置――王都第一号』
 ヴァルデ家の掲示板にも、同じ字が躍る。商人たちは目配せを交わし、屋台の親父が「昼に寄ってけ」と口の端を上げる。子どもが真似をして、結んではすぐほどける結び目を作っては笑った。

 式が終わっても、広場はしばらく静かだった。静けさは、良い布だ。そこに言葉を縫い付ければ、ほどけにくい。

「終わったな」とリクが肩を回す。
「始まったとも言う」とエリシア。
「どっちも正しい」とセレド。
 彼は喉印に軽く触れ、俺の方を見た。「計測は、今日からしばらく面倒な仕事になる。文句は言うが、やる」

「文句は必要だ。ほどけない結び目を増やさないために」
「学ぶね、縫い手」

 ルナが俺の袖を引っぱる。
「ねえ、おじさん。お腹、すいた」
「正しい」
「蜂蜜パン!」
「さすがに今日は売り切れだろう」
「あるよ」と、屋台の親父の声が飛ぶ。「朝から影が先に買いに来てたからな」
 俺たちは笑って、甘い袋を受け取った。紙袋はまだ温かくて、指に蜂蜜の輪ができた。輪はすぐ舐めたほうがいい。甘さは逃げ足が早い。

 王都の塔は昼の青に背を伸ばして、針の影を細く落としている。影は薄いが、深い。針の影の先、広場の端に、もう一枚の板が立てられていた。
 『“無能”の語、計測帳より廃止。――王都告示』
 短い一文。けれど、長い負債が少し軽くなる。

 蜂蜜パンを三つ、四人で分けた。ルナが一番大きいところを取り、エリシアが飴の固い縁を好み、リクは焦げ目を選び、俺は残りを受け取る。残りは、いつも十分だ。
「ねえ」とルナ。「影って、甘いの、ほんとに好き?」
「好きだ」
「どうして?」
「人の笑い声を、よく吸うから」
「じゃあ、もっと笑わないとだめだね」
「うん」
 彼女は言って、俺の影に指で小さな輪を描いた。新しいが、すぐほどける結び方。今度の輪は、別の人にも教えられる気がした。

 青印官セレドが紙を一枚差し出した。薄いが重い紙。
「影縫い所――最初の依頼票だ。城西の小さな産院。夜泣きがひどく、火が強くて、影が薄すぎて、母子が眠れない。**“夜泣きは抱いてから”**を、教えに行ってくれ」
「仕事だな」
「仕事だ」
 セレドは短く笑った。「秩序は、夜食と、赤子の泣きで持つものだ」

 王都の昼が始まる。
 広場の片づけの音、馬の蹄、屋台の声。影はそれを全部やわらげて、細かい布目に落としていく。
 俺たちは、紙を胸に入れた。最初の一歩が、一番静かでいい。

 風が少し変わって、遠くで鐘が一つ鳴る。
 影は、生の側に。
 それだけは、もう揺るがない。

 *

 エピローグ――「影縫い所」

 王都の西端、古い井戸のそばに小さな扉がある。看板には手書きで**「影縫い所」。表札の板はルナが磨いて、エリシアが文字を書き、リクが釘を打ち、俺は影で板の節**をふさいだ。朝一番の陽を受けて、板の木目は牛乳みたいに白い。

 扉を開けると、棚。棚の上には糸巻き、布きれ、蝋燭、薄い油。干した草の匂い。窓辺には蜂蜜の瓶。蜂蜜は甘いが、影はすぐ覚える。
 来客は、だいたい小さな困りごとを抱えてくる。靴擦れ、夜泣き、抜けなくなった指輪、締めすぎた帯。俺は影を撫でて、ほどいて、結び直す。
 「料金は?」と聞かれたら、「返せる時に、返せるもので」と答える。蜂蜜の瓶でもいいし、暖かいスープでもいいし、言葉でもいい。言葉は、支払いに向いている。影は説明をよく吸うから。

 昼下がり。
 扉の向こうで子どもが笑い、荷車がきしみ、遠くで青印官の声がする。計測台がまたどこかで更新されているのだろう。王都の帳面は分厚くなったが、余白も前より増えた。余白は、ほどくために必要だ。

「ただいま」とルナ。片手にパン袋、もう片手に紙束。
「依頼、増えた?」
「うん。『糸くずが喉にからむような夜のせき』って、なに?」
「湿った火のせいだな。火を弱めて、影を厚くして、寝具を軽くする。――あと、蜂蜜を少し」
「たべたい!」
「そう来ると思った」
 エリシアが台所から顔を出して笑う。「蜂蜜湯、作ってるところ。今日のは薄めだから、おかわりしても怒らない」

 リクは外で板に油を塗り、窓の格子を締め直している。
「昼のうちに合わせ箱の小口も診ておく。医局から荷が入る。鍵血の支払いは、今日から市の基金で賄うそうだ」
「助かる」とエリシアが頷く。鍵血の額は、彼女の親指の爪に薄い白を残した。支払った分だけ白くなる。それは誇りであって、負担でもある。負担をひとりに背負わせない仕組みが昨日から、ここにはある。

 棚に新しい札をぶら下げた。
 『夜泣きは抱いてから』
 札は、祈りではない。ただの説明。扉を潜る誰かの背中が、少しでも軽くなればいい。

 夕暮れ、影は長くなる。扉を閉めると、部屋の影が猫の背みたいに丸くなる。ルナはそこでうとうとし、エリシアは湯呑に手を添え、リクは椅子を後ろ脚だけで支える癖をまだ直していない。俺は痣に触れ、反応を確かめる。噛み跡は低く、静かに鳴るだけだ。呼ばれても、もう走らない。呼ぶときだけ、応える。

「ねえ、おじさん」
「ん?」
「わたし、大きくなったら、なんになるのかな」
「好きに決めるといい。ほどける結び目で、何度でも結び直せる」
「そっか」
 ルナは満足そうに頷いて、また目を閉じる。
 影が薄く揺れて、喉を鳴らした。猫みたいな音。背中がやわらかくなる。

 外で、鐘が一つ鳴った。王都の夕暮れは、毎日が少しずつ違う。違うけれど、同じように温かい。
 影は、今日も生の側にいる。
 それを確かめるために、明日も扉を開く。
 ――ほどいて、結ぶ。人の手で。

(完)