八つの鐘が落ちて、王都の石は夜の息を吸い込みはじめる。
聖堂裏の階段は、昼間より少し湿っていて、靴底がすべすべの苔を撫でるたび、かすかな冷たさがくるぶしへ上がってきた。ランプの油は干した草の匂いがして、火は小さく音を立てる。火のそばにいると、影はおとなしくなる。離れると、影は途端に言いたいことを思い出す。
「緊張、してる?」とルナが小声で聞いた。
「してないと言えば嘘になる」
「じゃあ、ちょっとだけ手を貸すね」
ルナは俺の影の端をつまんで、小さな結び目を一つ。すぐほどける結び方。約束みたいな印。指先が触れたところだけ、黒が柔らかくなる。影は人の温度に弱い。
前を行くエリシアは、ケープの内側で手袋を外していた。細い指、浅く呼吸を整える肋骨の動き。胸の銀糸は月桂と鍵の紋。鍵血の鼓動は、夜に合う。
「窪みに触れるのは、合図のあとにするわ。あなたが“ほどきはじめ”を見つけたら、合図して」
「了解」
横でリクが短剣を鳴らす。「俺は左右の影を見張る。白布が二人、青印の配下が一人、ここまでついてきてる。敵じゃないのは頭ではわかってるけど、背中は貸さない」
最後尾に立つ青印官セレドは、目線を落としたまま言った。
「今日のここは“記録されない”。――記すのは、明日、広場での結果だけだ。私情を嫌う部署だが、今夜に限っては、秩序も人の側に立つ」
「その言い方、好きだ」とリクが肩をすくめる。「秩序に私情があるの、俺は嫌いじゃない」
階段の底は、薄い冷気の皿だった。参照庫の扉は石の蝶番で、古い割れ目に薄灰が詰めてある。中は意外なほど狭い。部屋というより、幾つもの箱が互い違いに置かれた倉。中央に二つ、合わせ箱の本体。片方は王都、片方は、どこか遠い都市の名がもう読めない古語で彫られている。箱の縁に、細く白い線で目盛りが刻まれ、線は薄く呼吸していた。
息を呑む。ここで、あの声が育った。
――無能。
乾いた板の裏から擦れ音と一緒に出てくる、古い語。
俺は箱の影をそっと撫で、糸口を探す。語には置き場所がある。胸の内の、ちょうど台所の紐の引き出しみたいな棚。そこから少し抜いて、別の棚へ移せば、名前は呪いをやめる。
「合図、いま」
エリシアは指を窪みに当てた。月桂の鍵が、影へ音もなく沈む。箱の中が、遠い風を吸い込んだみたいにわずかに膨らむ。向こう側の影の川が、低く、冷たく鳴る。
「来るわよ」とエリシア。
「受ける」と俺。
セレドが影燈を高く掲げた。黒い灯は、白い灯よりも静かな輪郭で、影の縁にだけ明るさを置いていく。白布の二人は扉際で目を伏せ、リクは壁の割れ目を片っ端から影でふさぐ。ルナが俺の影の端に指を置き、軽く上下に揺らしてリズムを作る。息を合わせるための、家の中の合図みたいに。
――『……能』
最初の音だけがやってきて、そこで引っかかった。
「ほどける」
古い結び方だった。硬く締めるやり方じゃない。昔の人の仕事らしく、解くことを前提にした、出入りの良い結び。余白が、まだ残っている。
「この棚じゃない」
指を差し入れる。影は紙よりも先に呼吸する。俺は棚の下段に指を滑らせ、一直線に落ちていく“負け癖”のレールを掴む。
影が言う。支払え。
ああ、わかってる。
「支払うもの、決めたの?」とルナ。
「決めた。――俺の、いらない負けを一枚だけ」
口にした途端、胸の内側で薄い紙がふっと浮く。
前の世界の、朝の台所。差し出されたコップの水を受け取らないで、返事をしないで出ていった朝。いつでも戻れると思って、戻らないまま、閉じてしまった朝。
誰にも渡せなかった謝罪の紙。
それを、影へ差し出す。
痛みは、ほとんどない。ただ、温度が一度だけ下がる。空いた場所に、夜風が通る。空いたから、糸が通る。
「……ありがとう」
誰の声でもなく、影の底がそう言った気がした。錯覚でいい。言われたことにしておく。そうすれば、人の側に重さが残る。
「もう一度、来る」とエリシア。
――『 』
今度は空欄だった。古い声は、棚から外れた。名札が落ちた棚は、ただの木になる。
「参照が切れた」とセレドの声。抑えた息が混じる。「追跡ルーチンが動く。古い帳面は外れても、新しい帳面が“切断箇所”を注記しに来る」
「壁だ」とリクが徹した声で言う。
石目がひとつ、表面の灰を吸って、黒く湿った。そこから、紙の端みたいな薄い影が二本、すっと伸びる。匂いは乾いた墨。人の手の影。神じゃない。
「やっぱり、人がいるのね、最奥に」とエリシア。
「いる。――けど、今日は扉を蹴破らない。ほどいて、戻す」
薄い影は、ルナの足首の影を探していた。あの子の影は、最近よく笑うから、きっと見つけやすい。笑う影は、よく動く。
「ルナ、足を半歩引いて」
「うん」
子供の半歩は、紙一枚ぶんの距離。だけど、その紙一枚が、世界の端になる。
俺は二本の薄い影の“より”を逆にほどき、**紙縒(こより)**を解くみたいに芯だけを抜き取った。追跡は「筋」を通って来る。筋が消えれば、追跡は宙を掴む。
「一本、切った」
「もう一本」とセレド。声は硬いが、焦りの温度はない。秩序の人の声は、緊急時ほど冷える。嫌いじゃない。
二本目の影は、俺の痣を目印にしていた。王都の影が噛んだ跡。印は便利だ。呼べば集まる。嫌なら、呼ばせなければいい。
痣の縁に自分の影を薄く縫い付けて、目印を裏返す。表に見える“濃い黒”を、内側に折り込む。
指先が一瞬だけ冷え、すぐ戻る。
「……消えた」と白布の一人が呟いた。「目印が取れた」
箱の中は、静かになった。
代わりに、向こう側の深いところで、人の息が一つ、乱れる。
参照庫の最奥にいる誰かが、いま自分の影の上に体重を落としたみたいな、それくらいの音。
「届いたな」とリクが笑う。
「ここで追うのはやめましょう」とエリシア。「鍵血の支払いを増やせば戻れなくなる」
「賛成だ」とセレド。「証拠は結果で示せばいい。明日、広場で」
俺は箱の縁に、薄い糸を一筋縫い付けた。暮らし言葉の糸。
――“きつい紐は、息をするためにゆるめる”
――“ほどける結び目で縛る”
――“ほつれたら、まず笑って、次に直す”
それは祈りではない。ただの生活の説明。けれど影は、こういう説明をよく覚える。世界の裏地は、説明でよくあたたまる。
「参照の核は?」と俺。
「今日は、触れただけでいい」とセレド。「核ごとひっくり返すのは、市井の合意の外だ。明日、王の前で“救済の定義”を掲げる。それで十分だ」
ルナが、俺の袖をつまんだ。
「記憶、一枚、だいじょうぶ?」
「だいじょうぶだ」
胸の中の空いた棚は、すでに別の音で満ち始めていた。さっきの紙の軽さは、とても軽くて、たぶん俺が持っている必要のなかった重さだ。代わりに入ってきたのは、ルナの指の温度と、エリシアの呼吸の長さと、リクの間の取り方と、セレドの短い肯定。
それで、充分だと思った。
「片付けるぞ」とリク。
白布の一人が扉を閉じ、もう一人が印を押し、セレドが影燈を消す。黒い灯が消えると、闇は少し薄くなる。目が夜に慣れて、石の色が戻ってくる。
階段を上がる途中、ルナがいつもの調子で言った。
「お腹すいた」
「わかる。帰りにパンを買おう」
「甘いやつ!」
「すぐ言う」
エリシアが笑った。「蜂蜜の、好きだったわね。――支払いのあとだから、今日は甘くても許されるわ」
「影も甘いの好きかな」とルナ。
「好きだよ」と俺。「影は、人が笑うのが好きなんだ」
地上は、夜露が石畳を白くしていた。屋台はほとんど店じまいで、最後の一軒が蜂蜜パンを三つだけ残してくれていた。
「縫い手さんの分は、あたためておきましたよ」
「どうして俺だと」
「影が先に買いに来たみたいでしたからね」
そう言って笑うから、こちらも笑って受け取る。紙袋は温かく、蜂蜜は蓋の縁から少し漏れて、指先に甘い輪を作った。ルナがそれを舐めて、目を細める。
宿へ向かう途中で、セレドが立ち止まった。
「今夜のことは、帳面に載らない。だが、私は覚えておく」
「秩序の人の言葉にしては、ずいぶん私情がある」
「秩序は、誰かの夜食で持っているところがある」
彼の横顔に、ほんの少しだけ、疲れが出た。
「明日、広場で対立が起きる。神殿は“切断”を、貴族は“囲い込み”を、市井は“放任”を言うだろう。あなたは、どれでもない言葉で、救済を言語化しなければならない」
「切らず、縫わず、ほどき直す。生きたまま」
「それだ。――言葉は、明るいところよりも、半暗がりのほうが届く。門前であなたがやったみたいに、小さな痛みを一つ、ほどいてみせてから言いなさい」
「注文が多いな」
「秩序はいつだって、注文書から始まる」
短いやり取りに、少し風が通った。人は、会話で呼吸を合わせる。影は、それをすぐ真似する。
宿の前で、ルナが俺の影の端に触れた。
「ねえ、おじさん」
「ん?」
「明日、こわかったら、また結ぶから」
彼女の指が、影へ小さな輪を結ぶ。ほどける結び目。
「ありがとう」
影は低く喉を鳴らす。猫みたいな音。背中がゆるむ。
部屋に戻ると、パンの袋から甘い匂いが出てきて、床板は昼間より柔らかい音を立てた。エリシアは窓辺で水を一口飲み、リクは短剣の刃を布で拭く。俺は痣に触れて、反応を確かめた。噛み跡は、もう低くしか鳴らない。追跡の筋は消えた。
「やれる?」とエリシア。
「ああ」
「じゃあ、私もやれる」
淡い確信が部屋を満たす。蜂蜜パンは三つとも違う形にちぎられて、皿の上で月みたいに並んだ。
「明日は晴れるよ」とルナが言った。
「どうしてわかる」
「影が、軽いから」
その答えが、今夜のどんな占いよりも頼もしく思えた。
蝋燭を吹き消す前、窓の外を見た。王都の塔は、昼間より背が低い。夜は影が伸びる代わりに、塔の針は少しだけ疲れる。いいことだ。疲れがあるなら、ほどける余白もある。
目を閉じる前に、さっき手放した記憶の棚をもう一度見に行く。そこは空いたままだったけれど、空いているからこそ、誰かの笑い声が置ける気がした。
――明日、そこへ置こう。広場の、最初の拍手の音を。
影は、ゆっくりとうなずいた。
(つづく)
聖堂裏の階段は、昼間より少し湿っていて、靴底がすべすべの苔を撫でるたび、かすかな冷たさがくるぶしへ上がってきた。ランプの油は干した草の匂いがして、火は小さく音を立てる。火のそばにいると、影はおとなしくなる。離れると、影は途端に言いたいことを思い出す。
「緊張、してる?」とルナが小声で聞いた。
「してないと言えば嘘になる」
「じゃあ、ちょっとだけ手を貸すね」
ルナは俺の影の端をつまんで、小さな結び目を一つ。すぐほどける結び方。約束みたいな印。指先が触れたところだけ、黒が柔らかくなる。影は人の温度に弱い。
前を行くエリシアは、ケープの内側で手袋を外していた。細い指、浅く呼吸を整える肋骨の動き。胸の銀糸は月桂と鍵の紋。鍵血の鼓動は、夜に合う。
「窪みに触れるのは、合図のあとにするわ。あなたが“ほどきはじめ”を見つけたら、合図して」
「了解」
横でリクが短剣を鳴らす。「俺は左右の影を見張る。白布が二人、青印の配下が一人、ここまでついてきてる。敵じゃないのは頭ではわかってるけど、背中は貸さない」
最後尾に立つ青印官セレドは、目線を落としたまま言った。
「今日のここは“記録されない”。――記すのは、明日、広場での結果だけだ。私情を嫌う部署だが、今夜に限っては、秩序も人の側に立つ」
「その言い方、好きだ」とリクが肩をすくめる。「秩序に私情があるの、俺は嫌いじゃない」
階段の底は、薄い冷気の皿だった。参照庫の扉は石の蝶番で、古い割れ目に薄灰が詰めてある。中は意外なほど狭い。部屋というより、幾つもの箱が互い違いに置かれた倉。中央に二つ、合わせ箱の本体。片方は王都、片方は、どこか遠い都市の名がもう読めない古語で彫られている。箱の縁に、細く白い線で目盛りが刻まれ、線は薄く呼吸していた。
息を呑む。ここで、あの声が育った。
――無能。
乾いた板の裏から擦れ音と一緒に出てくる、古い語。
俺は箱の影をそっと撫で、糸口を探す。語には置き場所がある。胸の内の、ちょうど台所の紐の引き出しみたいな棚。そこから少し抜いて、別の棚へ移せば、名前は呪いをやめる。
「合図、いま」
エリシアは指を窪みに当てた。月桂の鍵が、影へ音もなく沈む。箱の中が、遠い風を吸い込んだみたいにわずかに膨らむ。向こう側の影の川が、低く、冷たく鳴る。
「来るわよ」とエリシア。
「受ける」と俺。
セレドが影燈を高く掲げた。黒い灯は、白い灯よりも静かな輪郭で、影の縁にだけ明るさを置いていく。白布の二人は扉際で目を伏せ、リクは壁の割れ目を片っ端から影でふさぐ。ルナが俺の影の端に指を置き、軽く上下に揺らしてリズムを作る。息を合わせるための、家の中の合図みたいに。
――『……能』
最初の音だけがやってきて、そこで引っかかった。
「ほどける」
古い結び方だった。硬く締めるやり方じゃない。昔の人の仕事らしく、解くことを前提にした、出入りの良い結び。余白が、まだ残っている。
「この棚じゃない」
指を差し入れる。影は紙よりも先に呼吸する。俺は棚の下段に指を滑らせ、一直線に落ちていく“負け癖”のレールを掴む。
影が言う。支払え。
ああ、わかってる。
「支払うもの、決めたの?」とルナ。
「決めた。――俺の、いらない負けを一枚だけ」
口にした途端、胸の内側で薄い紙がふっと浮く。
前の世界の、朝の台所。差し出されたコップの水を受け取らないで、返事をしないで出ていった朝。いつでも戻れると思って、戻らないまま、閉じてしまった朝。
誰にも渡せなかった謝罪の紙。
それを、影へ差し出す。
痛みは、ほとんどない。ただ、温度が一度だけ下がる。空いた場所に、夜風が通る。空いたから、糸が通る。
「……ありがとう」
誰の声でもなく、影の底がそう言った気がした。錯覚でいい。言われたことにしておく。そうすれば、人の側に重さが残る。
「もう一度、来る」とエリシア。
――『 』
今度は空欄だった。古い声は、棚から外れた。名札が落ちた棚は、ただの木になる。
「参照が切れた」とセレドの声。抑えた息が混じる。「追跡ルーチンが動く。古い帳面は外れても、新しい帳面が“切断箇所”を注記しに来る」
「壁だ」とリクが徹した声で言う。
石目がひとつ、表面の灰を吸って、黒く湿った。そこから、紙の端みたいな薄い影が二本、すっと伸びる。匂いは乾いた墨。人の手の影。神じゃない。
「やっぱり、人がいるのね、最奥に」とエリシア。
「いる。――けど、今日は扉を蹴破らない。ほどいて、戻す」
薄い影は、ルナの足首の影を探していた。あの子の影は、最近よく笑うから、きっと見つけやすい。笑う影は、よく動く。
「ルナ、足を半歩引いて」
「うん」
子供の半歩は、紙一枚ぶんの距離。だけど、その紙一枚が、世界の端になる。
俺は二本の薄い影の“より”を逆にほどき、**紙縒(こより)**を解くみたいに芯だけを抜き取った。追跡は「筋」を通って来る。筋が消えれば、追跡は宙を掴む。
「一本、切った」
「もう一本」とセレド。声は硬いが、焦りの温度はない。秩序の人の声は、緊急時ほど冷える。嫌いじゃない。
二本目の影は、俺の痣を目印にしていた。王都の影が噛んだ跡。印は便利だ。呼べば集まる。嫌なら、呼ばせなければいい。
痣の縁に自分の影を薄く縫い付けて、目印を裏返す。表に見える“濃い黒”を、内側に折り込む。
指先が一瞬だけ冷え、すぐ戻る。
「……消えた」と白布の一人が呟いた。「目印が取れた」
箱の中は、静かになった。
代わりに、向こう側の深いところで、人の息が一つ、乱れる。
参照庫の最奥にいる誰かが、いま自分の影の上に体重を落としたみたいな、それくらいの音。
「届いたな」とリクが笑う。
「ここで追うのはやめましょう」とエリシア。「鍵血の支払いを増やせば戻れなくなる」
「賛成だ」とセレド。「証拠は結果で示せばいい。明日、広場で」
俺は箱の縁に、薄い糸を一筋縫い付けた。暮らし言葉の糸。
――“きつい紐は、息をするためにゆるめる”
――“ほどける結び目で縛る”
――“ほつれたら、まず笑って、次に直す”
それは祈りではない。ただの生活の説明。けれど影は、こういう説明をよく覚える。世界の裏地は、説明でよくあたたまる。
「参照の核は?」と俺。
「今日は、触れただけでいい」とセレド。「核ごとひっくり返すのは、市井の合意の外だ。明日、王の前で“救済の定義”を掲げる。それで十分だ」
ルナが、俺の袖をつまんだ。
「記憶、一枚、だいじょうぶ?」
「だいじょうぶだ」
胸の中の空いた棚は、すでに別の音で満ち始めていた。さっきの紙の軽さは、とても軽くて、たぶん俺が持っている必要のなかった重さだ。代わりに入ってきたのは、ルナの指の温度と、エリシアの呼吸の長さと、リクの間の取り方と、セレドの短い肯定。
それで、充分だと思った。
「片付けるぞ」とリク。
白布の一人が扉を閉じ、もう一人が印を押し、セレドが影燈を消す。黒い灯が消えると、闇は少し薄くなる。目が夜に慣れて、石の色が戻ってくる。
階段を上がる途中、ルナがいつもの調子で言った。
「お腹すいた」
「わかる。帰りにパンを買おう」
「甘いやつ!」
「すぐ言う」
エリシアが笑った。「蜂蜜の、好きだったわね。――支払いのあとだから、今日は甘くても許されるわ」
「影も甘いの好きかな」とルナ。
「好きだよ」と俺。「影は、人が笑うのが好きなんだ」
地上は、夜露が石畳を白くしていた。屋台はほとんど店じまいで、最後の一軒が蜂蜜パンを三つだけ残してくれていた。
「縫い手さんの分は、あたためておきましたよ」
「どうして俺だと」
「影が先に買いに来たみたいでしたからね」
そう言って笑うから、こちらも笑って受け取る。紙袋は温かく、蜂蜜は蓋の縁から少し漏れて、指先に甘い輪を作った。ルナがそれを舐めて、目を細める。
宿へ向かう途中で、セレドが立ち止まった。
「今夜のことは、帳面に載らない。だが、私は覚えておく」
「秩序の人の言葉にしては、ずいぶん私情がある」
「秩序は、誰かの夜食で持っているところがある」
彼の横顔に、ほんの少しだけ、疲れが出た。
「明日、広場で対立が起きる。神殿は“切断”を、貴族は“囲い込み”を、市井は“放任”を言うだろう。あなたは、どれでもない言葉で、救済を言語化しなければならない」
「切らず、縫わず、ほどき直す。生きたまま」
「それだ。――言葉は、明るいところよりも、半暗がりのほうが届く。門前であなたがやったみたいに、小さな痛みを一つ、ほどいてみせてから言いなさい」
「注文が多いな」
「秩序はいつだって、注文書から始まる」
短いやり取りに、少し風が通った。人は、会話で呼吸を合わせる。影は、それをすぐ真似する。
宿の前で、ルナが俺の影の端に触れた。
「ねえ、おじさん」
「ん?」
「明日、こわかったら、また結ぶから」
彼女の指が、影へ小さな輪を結ぶ。ほどける結び目。
「ありがとう」
影は低く喉を鳴らす。猫みたいな音。背中がゆるむ。
部屋に戻ると、パンの袋から甘い匂いが出てきて、床板は昼間より柔らかい音を立てた。エリシアは窓辺で水を一口飲み、リクは短剣の刃を布で拭く。俺は痣に触れて、反応を確かめた。噛み跡は、もう低くしか鳴らない。追跡の筋は消えた。
「やれる?」とエリシア。
「ああ」
「じゃあ、私もやれる」
淡い確信が部屋を満たす。蜂蜜パンは三つとも違う形にちぎられて、皿の上で月みたいに並んだ。
「明日は晴れるよ」とルナが言った。
「どうしてわかる」
「影が、軽いから」
その答えが、今夜のどんな占いよりも頼もしく思えた。
蝋燭を吹き消す前、窓の外を見た。王都の塔は、昼間より背が低い。夜は影が伸びる代わりに、塔の針は少しだけ疲れる。いいことだ。疲れがあるなら、ほどける余白もある。
目を閉じる前に、さっき手放した記憶の棚をもう一度見に行く。そこは空いたままだったけれど、空いているからこそ、誰かの笑い声が置ける気がした。
――明日、そこへ置こう。広場の、最初の拍手の音を。
影は、ゆっくりとうなずいた。
(つづく)



