王都の影は、薄いのに深かった。
 石畳の目が細かく光を返すせいで、足元の黒は紙一枚ぶんの厚みしかないように見える。けれど、指先をそっと触れれば、その紙が何十枚も重なって、本当は帳面みたいに積み重なっているのがわかる。

 小謁見の間は、想像よりずっと狭かった。黄金ではなく、磨かれた木と白い石。王は年輪の刻まれた掌を膝に置き、こちらを見る。その横に青い印を喉に抱く男――青印官セレド。背後には神殿の白布と、商人貴族ヴァルデ家の紋章旗。
 市井の言葉と測り言葉が、同じ部屋で息を潜めている。

「縫い手と名乗ったな」
 開口一番、王はそう言った。声は乾いて、しかし柔らかい。

「名乗ったというより……影に呼ばれた名です」

「名は便利だ。呼べば集まり、責任を置ける。――そなたを保護したいという声と、置き場を作れという声が上がっている。神殿は前者、ヴァルデ家は後者だ」

 エリシアが一歩すすみ、裾をつまんで礼を取った。
「父は“影の救済は市の機能だ”と考えます。孤児や老い、怪我や夜の往来――影縫いは暮らしを支える。同時に合わせ箱は物流と医療の中核になり得る。ゆえに影縫い役を置き、都市の規定へ編み込むことを提案します」

 白布側から、かすかな嘆息。セレドは表情を変えずに続ける。
「神殿は“逸脱”を恐れる。秩序は計測できる範囲でしか保てない。縫い手、実演を」

 王の視線が「やってみよ」と告げる。
 俺はうなずき、床に落ちる薄影を拾い上げた。
 侍従の一人が、無意識に片足をかばっているのに気づいたからだ。靴の縁が硬く、親指の付け根に当たっている。ほんのわずかな迷いが、影燈なしでも見える。

「失礼」
 許しを得てしゃがみ込み、床の影から一本だけ糸を抜く。抜いた糸を輪にし、靴の縁の影に通して、半指だけゆるませる。
 侍従が目を瞬かせ、立ち位置を替えずに体重を移した。ふっと肩の力が抜ける。
「……痛みが、消えました」

「ほどいて、結び直しただけです」
 俺は輪をほどき、糸を影に返す。
 小さなことだ。だが、こういう小さな場所に“救済”の居場所がある。切らず、縛らず、息を合わせる。

 王が短く息を笑いに変えた。
「見事。――だが秩序の側もまた、息を合わせねばならぬ。セレド」

「計測網(オラクル)の更新が必要です」
 黒衣の青印官はそう言い、喉元の印章へ指を添えた。「“無能”という語を最初に貼ったのは古い帳面だ。古王朝の記録音声が、今も参照庫で繰り返されている。あなたは“縫う/ほどく”で参照の結び目を逆向きに揺らした。計測を壊すのではなく、暮らし言葉で補正できるか――それを試すべきだ」

 そこで、部屋の空気が変わった。
 扉の外、三度の鐘。石の廊を渡って、薄色の影がしみ込んでくる。俺はとっさに振り返った。古い門印が廊の突き当たりでひとりでに灯って、床の影へ古語の輪を落としている。輪は、獲物の足跡を嗅ぎ当てた猟犬のように、真っすぐこちらへ――ルナへ伸びてきた。

「下がって!」
 影を折り、輪に指を差し入れて結び目を作る。引けば輪は縮み、押せば広がる。俺は押し、ルナの足元から輪を逸らした。輪は一拍遅れて、別の影を掴む――エリシアの裾の影を。
 彼女は眉ひとつ動かさず、逆に裾を一センチだけ踏んで止めた。
「鍵血の誘引だわ。――誰?」
 声は礼儀を保ったまま、鋼の芯を通す。

「門印は参照庫と繋がっている」
 セレドの喉印が薄く光る。「――“素材標識”。鍵血と幼い影適性を収蔵候補として印す、昔の手順……。誰かが古い帳面を開いた」

 王の眼差しが低く沈んだ。
「愚かだ。――だが、古い愚かしさほど厄介なものはない。セレド、封じよ」

「封じる前に、示すべきです」
 青印官は俺を見た。「縫い手。王都の中枢で、古い輪をほどいて結び直せ。参照庫は夜しか開かない。鍵血が要る。――王は近衛を出せるが、市の目を閉ざしてはならぬ。これは“見世物”ではないが、見届けは必要だ」

 エリシアが一歩、こちらへ。
「行こう。――ルナ、怖い?」

「すこし。でも、おじさんがいる」
 ルナは俺の影の端をつまんで小さな結び目を作った。
 ほどける結び目。合図。
「大丈夫」

 王は立ち上がり、短く頷く。
「影縫い役(仮)を王命で認める。参照庫の夜、そなたらの手業と、神殿の秩序と、市井の目を同じ布に縫い合わせよ。――それがうまくいけば、翌朝、広場で“救済の定義”を公布する」

 白布の一団に、わずかなざわめき。セレドはそれを手で制した。
「では今夜。鐘が八つ。――“鍵血”、準備を」

 謁見はそこで解かれた。
 廊を出ると、王都の光は夕景の茜に変わっていた。石に落ちる影が長く伸び、その縁がやわらかい。
 俺はルナの頭を撫で、エリシアと肩を並べ、リクと目を合わせた。
「夜までに、支払いを決める」
 影を濃くすれば、何かを支払う。熱か、時間か、記憶か。参照庫の縫い目は古い。ほどくには、古い支払いが要るかもしれない。

「なにを、払うの?」とルナ。

「できれば――俺の、いらない負けだ」
 前の世界の、どうしようもなく不器用だった時間。もし一枚剥いでも構わない紙があるなら、そこだ。
 ルナは一瞬だけ考えて、小さく頷いた。
「でも、ぜんぶはだめ。残ったら、いっしょに笑えなくなる」

「わかってる」
 笑う。影が、低く笑いを返す。

 夜が落ちるまでの間、俺たちは市場の暮らし言葉を集めて歩いた。
 包帯の結び方。壊れた車輪の紐の巻き直し。夜泣きをする嬰(あかご)の、抱き上げ方の順番。
 影は、こういうものを覚えたがる。
 神殿の測り言葉に欠けているのは、きっとこういう“雑事の強さ”だ。

 鐘が八つ。
 聖堂裏の階段には、誰の足音もなかった。けれど、気配はある。市井の目は遠巻きに、壁の向こうで息を潜めている。見届けは、こうして行われる。

 地下の空気は、昼と違って濡れていた。
 合わせ箱のそばで、灯りがわずかに揺れる。
 セレドが影燈を吊るし、白布の二人が脇に控え、リクが背中を壁につけ、ルナが俺の影の端をつまんだ。エリシアは箱の窪みへ指を置き、支払いの呼吸を整える。

「始める」
 鍵血が扉を開く。
 “昔の声”が、箱の奥からゆっくり滲み出てきた。
 ――『無能』
 判定音声。古い帳面の角が擦れる音といっしょに、乾いた語が漏れる。

「ほどく」
 俺はその語の結び目を探した。発音でも、意味でもない。置き場所だ。語が人の胸のどの棚に置かれるか――そこに指を入れ、引く。負け癖の古い紙が、少し剥がれる感触。
 支払え、と影が言う。
 わかっている。
 俺は一枚、前世の薄い紙を差し出した。
 誰にも言わなかった、小さな逃げ。
 名前を呼ばれたのに返事をしなかった朝。
 それを、影に食べさせる。

 痛みは、ほとんどなかった。
 胸のどこかが、静かに空いた。空いた分だけ、新しい糸が通る。

「もう一度」
 古い語が、同じ音で出てこようとして、出てこなかった。
 ――『 』
 空欄。
 セレドが初めて息を飲んだ音を出す。「……参照が外れた」

「外したんじゃない。ほどいて、棚を替えただけだ」
 俺は影を撫で、箱の縁に暮らし言葉を縫い付ける。
 “怪我をしたら、まずほどく”
 “きつい紐は、息をするために緩める”
 “ほどける結び目で縛る”
 言葉は呪文ではない。説明だ。市井が毎日やっていることを、影に思い出させるための。

 箱の奥が、わずかに温かくなった。
 “昔の声”が、今の息で湿る。
 その時だ。
 側壁の石目がひとつ、音もなく動いた。
 古い門印の別系統。
 素材標識。
 ――ルナの足首の影が、指先ひとつぶんだけ、薄く引かれる。

「だれ?」エリシアが鋭く問う。セレドが喉印を叩き、白布の一人が走る。
 リクはもう飛んでいた。
 俺は影を縫って、足首の薄い引きをほどく。
 引き手は壁の向こう――参照庫の最奥。
 “昔の声”の背後に、もっと古い、人の手の影。

「開発(つく)った人間がいるのね」エリシアが低く言う。「神じゃない。――帳面を今でも書き換えている誰か」

「行くぞ」リクが短く言い、俺はうなずいた。
 影は薄いが、道はできた。
 ほどける結び目を探して。
 息を合わせて。
 人の側で。

 夜の鐘が、九つを告げた。
 参照庫の奥は、まだ見えない。
 けれど、影は確かに押していた。
 背中を、やさしく。
 転ばないように、少しだけ引いて。

――第13話 了(つづく)――