三日の道は、思っていたより短かった。王都が近づくほど、風は乾き、土は固くなり、影は薄くなっていく。石畳が光をよく返すせいだろう。影は逃げているのではない。たたまれて、目の細かい布に変わるのだ。

 西門の列に並ぶと、先頭のあたりで鐘が一打、乾いた音を立てた。計測台が据えられていた。神殿の白布と、王都役所の青い旗。影務院——影の計測と運用を管轄する部局——の紋章は、三日月の内側に薄い目盛りが刻まれている。

「観測だ」とリクが小声で言う。「見世物でもある」

 列の向こうで、喉元に印章をつけた長身の男がこちらへ視線を滑らせた。平原で“観測は十分ではない”と言った男だ。彼は名乗らない。名ではなく、役目で動いている目だ。

「怖い?」とルナが袖を引いた。

「少し。だから、ほどける結び目は先に探す」

 俺は門前の石に落ちる影を撫でた。陰影は薄いが、重なっている。荷車の車輪、門のアーチ、兵の脛。細くて丈夫な糸が、何百と交差している。ほどこうと思えば、指先の感覚で充分だ。だが今日は、ほどいて壊す日ではない。影が人を守ると、ここで言い直す日だ。

 順番が来た。広場の中央に円形の台座。表面は黒い石、縁に白い線で密な目盛り。影務官が板筆でさらさらと書きつける。

「氏名、年齢、スキル」

 木札を示し、俺は正直に答える。「三十四。スキル“影潜り”」

 ざわめきが走る。最低等級の名前だ。影務官は表情ひとつ変えず、黒石の台へ手を指し示した。

「右手を。痣の上に」

 指示に従う。王都の影が刻んだ痣は、触れられるたび低く唸る。黒石の下で何かが目を覚ます気配。影の川が、定規を当てられて形を矯(た)められる。

「計測、开始」

 喉印の男が、ひと文字ずつ切り分けるように言う。黒石の縁が微かに光り、白い目盛りが淡く呼吸を始めた。影が引かれる。網の中へ。糸の名前を付けられるみたいに。無能という札を貼った、あの声と同じ仕組みだ——と直感する。

 吸われすぎないよう、俺は影を**“縫って”**おいた。自分の影と、台座の下の暗部を、見えない波縫いで細かく結ぶ。引かれれば引かれるほど、逆に戻ってくるように。

「……逸脱反応」誰かが息を呑んだ。「押し戻している?」

 喉印の男が一歩、近づく。「影は神の尺度に従う。戻すことは想定されていない」

「その想定が、最初の間違いだ」

 俺は声に出した。「影は言葉じゃない。息だ。押せば吐き、吸えば寄る」

 白布の群れの端で、エリシアが口を結び、こちらを見ていた。彼女は胸元の銀糸に指を触れ、視線で合図を送る。政治の場に変わる気配だ。彼女なりの準備がある。

 観測は続く。黒石の上に、薄い文字列が浮いた。級:無等/判定:観測不能(縫合干渉)。ざわつきが一段増す。見たことのない出力なのだろう。影務官が板筆を止め、喉印の男に目配せした。

「縫合を解け」と男。

「解けない」と俺。「これは守るための結び目だ。ほどくのは俺だ」

「ならば——別計だ」

 男が喉元の印に軽く触れる。門楼上の陰に待機していた術者二人が、同時に白い布を広げた。布の裏に影が滲み、影枷(かげかせ)が形になる。見栄えは儀礼だが、機能は拘束だ。影を“文字”へ変換して固定する。市井の前でやるには十分すぎる威圧。

 門前の空気が冷えた。リクが思わず半歩踏み出す。俺は手を上げて止めた。逃げない、と三日前に決めた。逃げないが、縛られもしない。

「その布、裏表が逆だ」

 俺は言った。男の目が一瞬だけ細くなった。

「影を言葉に変えると、言葉のほうが“主”になる。だが、お前たちが知っている言葉は、人が作った“測り言葉”だけだ。暮らし言葉で縫った影に、それは刺さらない」

「暮らし言葉?」

 エリシアが一歩、前に出た。商人貴族の礼法で、しかし市井に向ける声で告げる。

「影で守られた荷車と、影で暖められた火と、影で繕った夜更けの裾。——王都が忘れた言葉です。彼はそれで縫っている。救済の定義を変えてから測ってください」

 群衆の中の誰かが「そうだ」と小さく言った。昨日、荷車を護った商人かもしれない。目撃者が言葉に体温を与える。計測は観客の目にも依存している——と、喉印の男も理解している顔だった。

「見世物にする気はない」と男。「だが秩序のためには、基準が要る」

「基準を作った声は、神か?」俺は問う。「俺を無能と裁いた声は、神殿の奥で繰り返し再生される模型じゃないのか」

 白布の端がざわめく。影務官の一人が板筆を落とした。ルナが小さく俺の影に触れ、くすぐるように合図を送る。大丈夫の合図。影が、低く、肯く。

 喉印の男は短く息を吐き、布を下ろさせた。

「……よかろう。市門試験に切り替える」

 彼が指先で合図すると、門楼の影から丸い影燈(えいとう)が吊り下ろされた。夜ではないのに灯る黒い灯。人だかりが一歩退く。影燈は周囲の影を薄く撫で、**“迷い”**の濃い場所を浮かせる。嘘や恐怖や殺意——影の皺(しわ)が騒ぐところが、白く霞む。

「逸脱者。ここで“救済”を定義せよ。言葉で。影で。それが王都に通用するかを測る」

 言葉の試験。影の試験。両方一度に、門前で。やり方は、わかる。

 俺は影燈の真下に立ち、呼吸を整えた。影は息だ。言葉は吐く息に乗る。

「救済は、切断ではない。縫合でもない。ほどける結び目を見つけ、生きたままほどいて、生きたまま結び直すことだ。影はそのための布だ。人の手が、人の手へ渡すものだ」

 影燈の内側で、影が一度だけ波打った。門楼上から低いさざめき。影務官が目盛りを読む——“市井語彙との共鳴”。目盛りがわずかに上がる。喉印の男は感情を見せない。

「影で、示せ」

 合図。俺は振り向き、列の少し後ろで悲鳴を噛み殺している少年を指さした。荷車の車輪に指が挟まれている。周囲は気づいていない。影燈が引き出した**小さな“迷い”**だ。

 駆け寄り、車輪の下に落ちる薄影を撫で、糸を一本だけ抜く。抜いた糸を輪にして、少年の指の周りに通す。引けば、車輪はその場で半指分浮いた。指が抜ける。泣き声が上がり、次の瞬間には笑い声に変わる。影の輪は自然とほどけて消えた。

 見ていた誰かが、息を呑んだ音を立て、もう一人が小さく手を打った。拍手は大きくならない。門前では、大声を憚(はばか)る。それでいい。影は静かな拍手をよく覚える。

 影燈の目盛りがもう一目盛り、上がった。喉印の男が、こちらへ歩み寄る。至近で見る瞳は、空の色を吸った薄い青だ。彼はようやく名を名乗った。

「影務院・青印官(せいいんかん)セレド。——観測を終えるには、もう一つ必要だ。お前自身の影の名」

「名?」

「影は呼べる。呼ぶと応える。お前が“影に呼ばれた名”を言え。それが逸脱の根だ」

 胸の奥で、痣が弱く鳴った。名前——この世界に来てから、一度も口にしていない音。前の世界の名はもう、薄紙の裏側にある。影が、違う音を喉の奥に押し上げる。低く、土の匂いのする音だ。

 「縫い手」

 口が勝手にそう言った。言葉が出た瞬間、影燈がすっと消えた。光でないものが消える音はしないのに、広場が一拍、深くなった気がした。

 セレドがわずかに目を見開く。「神殿の帳にも、市場の書札にもない影名だ。——観測は、ここで打ち切る」

「救済は?」と誰かが問うた。街の誰か。恐れの混じった声。

 セレドはゆっくり首を振った。「門前で縛ることはしない。三日後の再会は、王都の内側でだ。——縫い手、王に会え」

 王、の二字が広場の空気を一段重くする。エリシアが息を飲んだ。リクが短剣の柄を、目立たないふうに握り直す。ルナは俺の影の端をつまんで、小さく、結び目を作った。ほどける結び目。彼女が覚えた“合図”。

「生きたまま、ほどいて結び直す。だよね」

「ああ」

 門が開く。王都の影は、薄く、深い。針のような塔の先から落ちる影は、布目が細かく、手触りが冷たい。それでも、布だ。縫えるし、ほどける。縫い手という名が、胸の奥でひとつ居場所を得る。

 俺たちは歩を進めた。影は背中を押し、同時に、足首を軽く引いた。転ばないための引き止め。優しい重さだ。

 王都の内側で待つのは、神殿の測り言葉、市場の暮らし言葉、そして——無能と告げた“声”の正体。

 影は、静かに笑った気がした。

――第12話 了(つづく)――