殿下の寝台に、朝の光が差し込んだ。まだ熱は残っていたが、呼吸は深く、頬には血色が戻り始めている。

「……喉が、渇く」

 低い声に、わたくしは微笑んだ。
「良い兆しですわ。口が渇いたと訴えられるのは、命が戻ってきた証拠」

 匙で補水液をすくい、殿下の口元へ運ぶ。昨日まで力なく閉じていた唇が、自ら開いた。

「……甘い。だが、楽だ」
「黒糖と蜂蜜の力ですわ。病人には薬草より、まず水と塩と糖――基本が命を救うのです」

 殿下はしばし黙し、やがて瞳をわたくしに向ける。
「君は、王都で“役立たず”と呼ばれたそうだな」
「ええ。薬草など、泥にまみれる恥だと」

 わたくしは穏やかに笑った。
「けれど殿下。今日ここにいる兵も村人も、皆この鍋に従って動きました。それは紛れもなく、王都の命令より強い力でしたわ」

 殿下は目を細め、何かを考えるように沈黙した。

 昼過ぎ。王都からの使節は、再びわたくしの前に立った。
「殿下の容態は安定した。すぐに王都へ移送し、王家の医官の手に委ねる」

「まだ早いと申し上げました。熱は下がりきっておらず、長距離の移動は命を削る」

「だが、王都の民は不安を募らせている。『病に王族が倒れた』という噂は、広がるだけで国を揺るがす」

 ――なるほど。命よりも、評判か。
 わたくしは冷ややかに扇を閉じた。

「評判は、鍋では救えません。ですが命を救えば、評判はいずれ戻る。……それでもなお移送を強行するのなら、わたくしは同行しません」

「なに……?」

「殿下を支えられるのは、この“薬草学”です。私を拒むなら、殿下の快復は保証できません」

 広場が凍りついた。だが兵たちの多くは、わたくしの言葉にうなずいていた。昨夜、彼ら自身も補水液に救われたからだ。

 使節は唇を噛み、やがて吐き捨てた。
「……王都でその舌がどう裁かれるか、覚えておけ」

 その夜。焚き火のそばで、レオンが口を開いた。
「リリアーナ。王都からの報せを聞いた。……お前の元・婚約者――王太子殿下が動き始めた」

 胸がわずかに冷える。
「動いた? どういう意味です?」

「『自らが破棄した令嬢が、今や王弟殿下を支えている』――そういう噂が王都を駆け巡っている。王太子殿下は激昂し、近習たちに“グレイスの娘を必ず取り戻せ”と命じたそうだ」

 わたくしは深く息をつき、夜空を仰いだ。
 あの人は、何も変わっていない。薬草を馬鹿にし、私を追放し、今さら“取り戻す”とは。

「……愚かですわ。わたくしは、もう王都の籠の鳥ではありません」

 レオンの横顔が火に照らされる。
「気をつけろ。王太子の背後には、権力と欲が渦巻いている。お前が殿下の傍で力を示せば示すほど、奴らはお前を利用しようとする」

 わたくしは拳を握った。
「ならば利用させません。――私は、鍋と草の側に立つだけ」

 炎がぱちりと弾けた。
 夜風に乗って、遠くで犬が吠える。
 そしてわたくしの心に、ひとつの決意が芽吹いた。

 ――“悪役令嬢”は死んだ。
 今ここにいるのは、“薬草令嬢”。
 命を救うためなら、王都すら相手にしてみせる。