その夜は、風が一度も向きを変えなかった。
 王都の上を一定の速さで流れる風は、火にとってはやさしく、陰にとっては冷たい。
 鍋場の煙はまっすぐに空へ昇り、灰壺の縁は静かに冷め、〈民閲板〉の札は誰に触れられずともゆっくり湿気を吐き出していた。

 気づくのが、ほんの少し遅れた。
 園の裏門。布干し棚の影に、藁束に紛れた小さな陶瓶。
 レオンが走り、私は手で合図を送る――止まれ。灰を、布を、風の向き。
 間に合った。けれど、影は一つではなかった。

 静かな足音。
 「園丁長」と、誰かが低く呼ぶ。振り返った瞬間、喉の奥に布が当たり、視界が暗くほどけた。

     ◇

 目が覚めた。
 鼻先に鉄と薬の匂い。纏った布は粗く、口元にわずかに甘い香り――例の粗製粉末を焚いて気配を誤魔化したのだろう。
 椅子に縛られた両手首は血の気を失い、指先に細い痺れ。足元には濡れ布。
 薄闇の向こう、揺らぎのない声がする。

「園丁長。君は“壁”を立てすぎた」

 古参商会の長だった。
 その眼は、負けを知らない者の澄んだ残酷さで、こちらを見下ろしている。

「民閲板が、我らの値を固定する。検見台が、我らの裏を照らす。割戻が、我らの利を薄める。――君は火で商いを煮殺した」

「火加減を誤ったのは、そちらですわ」
 声は乾いているが、折れてはいなかった。
「粉を甘味と偽り、数字を飾り、布に毒を縫い込んだ。……見える場で、続けられる商いではありません」

 男は口の端を吊り上げる。
「見せなければいい。――君を消せば、鍋はばらける。惰性は主を失い、壁は崩れる」

 椅子が軋み、背後で布が持ち上がった。
 喉元に冷たい刃。
 そのとき――戸板が爆ぜ、闇が裂けた。

 先に飛び込んだのは、匂いだった。灰と、蜂蜜と、濡れ布の匂い。
 続いて、音。鉄の鳴る一瞬、刃が外へ弾かれ、椅子が横向きに倒れる衝撃。
 レオンだった。
 床を転がる私を抱き起こし、片手で縄を断ちながら短く言う。

「遅れて悪い。――鍋の火が道を教えた」

 外では喧騒。
 人の怒鳴り声と、子どもの叫びと、鈴の音。
 鈴――口上係の合図。〈民閲板〉の前で非常の知らせを拡げる時の音だ。

 古参の長が逃げようとした瞬間、戸口に影が立った。
 杖の先に小さな灯。王弟殿下だ。
 彼は言葉少なに室内を見渡し、私の拘束が解けたのを確かめると、冷ややかに長へ告げた。

「鍋に刃を向ける者は、市の外に立て。――二度と戻るな」

 長の顔が蒼白になり、後ずさる。外の闇に呑まれながら、彼は何かを吐き捨てた。
 だが、その声はすでに鈴と人々の気配に掻き消されていた。

     ◇

 広場。
 私はレオンの肩を借りて〈民閲板〉の前に立った。
 そこには、見慣れない札が一枚、赤い印で貼られている。

 ――〈火継(ひつぎ)〉。

 殿下が私の耳元で短く説明した。「南区で始まった。火が狙われたら、全区の鍋から火を分け合う仕組みだ。君が倒れても、湯気を絶やさぬために」

 広場を一周見渡す。
 赤青白の紙灯籠。
検見台の列。
 鍋の縁に肩を寄せる人々。
 絵札を掲げ、口上を唱える子ども。
 ――私は、もう、私ひとりではない。

 黒扇の使者が人の輪を抜けて近づいた。
 扇を閉じ、深く一礼する。

「園丁長。君が狙われることは読んでいた。だが、火は継がれた。……“壁”が人の姿になった」

「壁は、最初から人の姿でした」
 私は微笑む。
「鍋の前に立つ背中。布を干す手。数字を貼る指。――それが、低く長い壁です」

 使者は目元を緩め、「負けたな」と呟いた。
「勝ち負けではありませんわ。……鍋は、続くか続かないかです」

     ◇

 そのまま、夜は儀になった。
 〈火継〉の札の合図で、各街区の鍋から火が分けられ、灰壺の蓋が開き、濡れ布が風の道を作る。
 殿下が私の隣に立ち、袖口の裂け目を気にもしない。

「王妃が聞いたら叱られるな」
「叱られたら、灰で袖を染めてしまえば良いのです。――王都の色に」

 殿下は声を立てずに笑い、少し真面目な顔に戻る。
「……園丁長。さきほど君は、刃の前でも折れなかった。私は、それに答えたい」

 胸の奥が、静かに熱を帯びる。
 彼は人目を気にして視線を斜めに落とし、でも、言葉だけは真正面から差し出した。

「私は紙を持ってきた。――湿っているが、今夜なら乾く」

 差し出されたのは、薄い羊皮紙。
 “縁組”の仮契約――王家の印はあとで構わぬ、まずは二人の署名だけを、という王妃の温い采配が、紙の端に小さく記されている。
 私は紙を受け、鍋の湯気の上にかざした。
 湯気は紙の繊維を開き、文字を受け入れる準備を整える。
 火は強すぎず、弱すぎず。
 殿下が私を見る。
 私も殿下を見る。

「――遅いですわ」
 言ってから、自分で笑ってしまった。
「でも、今がいい。今なら、紙はすぐ乾く」

 鍋の縁に紙を置き、指先でインクを含ませる。
 “リリアーナ・フォン・グレイス”。
 殿下もまた、短く名前を書く。
 湯気が紙を撫で、インクが定着する。
 〈民閲板〉の前。検見台の灯の下。火継の鈴の音に乗って――紙が、乾いた。

 歓声が広場に波紋のようにひろがる。
 「おめでとう」「園丁長!」「殿下!」
 セレスティアが絵札を振り、子どもたちが札を貼り、布商会の青年が新しい端切れ束を掲げる。
 黒扇の使者は静かに扇を傾け、遠く国境の方角へ一礼した。

 殿下が囁く。「君は『薬草園に婚約している』と言ったな」
「ええ。……園は嫉妬深くありません。皆、連れ合いです」
「なら、私も、その列に入るだけだ」

     ◇

 夜はまだ長い。
 だが王都は眠らない。
 〈市民監査日〉の初回告知が板に貼られ、新しい“波型刻印”で押された札が試しに光へ透かされる。
 誰かが鍋の火へ蜂蜜を落とし、子どもが塩をひとつまみ。
 老人が「昔はこんなことは無かった」と笑い、若者が「明日もやる」と頷く。
 細い火が、何百と重なり合い、やがて国境の方角へも、同じ香りを運んでいくだろう。

 レオンが近づき、空を見上げる。
「二つの月は今日は出ないらしい」
「湯気があれば十分です」
「……ああ。十分だ」

 彼は少し言いよどんでから、小箱を差し出した。
 蓋の中には、極小の金型――新しい刻印。波だけでなく、鍋の小さな影が添えられている。

「錠前師と商人が“自分たちの惰性”を刻みたいと言う。……君は、魔法を使わずに魔法を作るな」
「魔法はいつも台所にありますわ。鍋と灰と、少しの蜂蜜に」

 レオンは肩で笑い、真顔で礼をした。「おめでとう、園丁長」

     ◇

 夜更け、火が落ち着き、風がようやく向きを変えた。
 私は殿下と並んで園の畝を歩いた。
 土は夜の間に少しだけ温くなり、芽はかすかに伸びている。
 殿下は杖を土に軽く押し、短く言う。

「――明日、王妃へ紙を見せる。『乾いた』とな」
「王妃はお喜びになるでしょう。……袖の裂け目は叱られますけれど」
「灰で染めるさ」
「王都の色に、ですね」

 沈黙。
 ほどよい。
 鍋と同じで、沈黙にも火加減がある。

「リリアーナ」
 殿下が名前を呼ぶ声に、私は顔を向ける。
「私は嫉妬するかもしれない。君が鍋の前で誰かの手を取り、誰かの匙を導くたびに。……だが、鍋は蹴らない」
「私は火を覆います。殿下が強すぎる時も、弱すぎる時も。――それが園丁の役目だから」

 殿下は頷き、遠くの鐘の音を聞いた。
 夜明け前の鐘。
 〈民閲板〉の前に、早起きの子どもたちが集まる時間だ。

 私は、いつもの言葉を胸に灯す。
「――さあ、明日も鍋から始めましょう」

     ◇

 翌朝。
 王都の空は薄く晴れ、洗った布が風に鳴り、鍋は湯気を上げ、〈民閲板〉の札は新しい色をまとっていた。
 “鍋:±0(火継)”“井戸:+1”“発熱:-2”。
 数字は歌のように並び、子どもが指でなぞって唱える。
 「なべぜろ、いどぷらすいち、はつねつまいなすに」
 笑い声がつられて起こり、誰かが補水の匙を差し出し、別の誰かが灰を振る。
 惰性は、完成した。
 制度になり、暮らしになり、壁になった。

 黒扇の使者は国境へ戻るという。
 別れ際、彼は扇を胸に当て、短い言葉を置いた。

「君の壁は低い。だから、私の国でも立てられる。
 そして長い。だから、私の国でも歩き続けるしかない。
 また会おう、園丁長。次は、板の前で」

「ええ。板の前で」

 彼は笑い、風の方角へ消えた。
 セレスティアは絵札箱を胸に抱え、子どもたちを連れて市へ向かう。
 レオンは巡邏の順を見直し、錠前師と商人は刻印台の高さを調整している。
 殿下は王妃のもとへ、乾いた紙を携えて歩いて行った。

 私は畝の端にしゃがみ、小さな芽に声をかける。
 ――踏まれても、また芽吹く。
 ――火が弱くても、灰で守る。
 ――数字は光へ。
その全てが、今日もここにある。

 “ざまぁ”で始まった物語は、湯気で終わるのではない。
 湯気で続いていく。
 紙は乾いた。
 だが鍋は、これからも毎朝、湯気を立てる。
 壁は低く、長く。
 そして、明るく。

「――行きましょう。今日も、鍋から」

 朝の風が、やわらかく返事をした。

(終)