公開審問の翌日。
 王都は一見、落ち着きを取り戻していた。
 広場の〈民閲板〉には新しい札が貼られ、鍋場では子どもが匙を振り、大人たちは布を畳んでいた。
 ――だが、空気は乾いていた。
 風の中に、焦げる前の油の匂いが混じっている。
 影は、諦めていない。

 夕刻。
 園の畝を見回っていた時、レオンが駆け込んできた。
「リリアーナ! 南区の鍋場が燃やされた。布干しも、灰壺も」

 胸の奥で鐘が鳴る。
 急ぎ駆けつけると、鍋場は黒煙に包まれていた。
 だが、幸い火は小さく、兵と民が連携して消し止めていた。
 煙の中、鍋の縁に刻まれた波型が、煤に汚れながらも残っている。
 ――鍋は、まだ生きている。

「怪我人は?」
「軽傷が数名。……犯人は影の中に紛れた」

 布商会の青年が、煤だらけの顔で近づき、息を切らして叫ぶ。
「でも、鍋は残りました! 火を継げます!」

 その言葉に、わたくしは頷いた。
「――鍋を広場へ運びましょう。火を継ぐ姿を、皆に見せます」

 夜。
 広場の中央に黒く煤けた鍋が据えられた。
 群衆が集まり、ざわめき、子どもが泣き、老人が眉をひそめる。
 殿下が杖を突き、声を上げた。

「影は火を消そうとした。だが、火は継げる!」

 わたくしは煤けた鍋の縁に手を置き、ゆっくりと灰を落とした。
 火は弱く、風に揺れる。
 その時、殿下が身を屈め、自らの袖を裂いて布を差し出した。

「火を守れ」

 わたくしはその布を湿らせ、鍋の縁を覆った。
 風が遮られ、火が安定する。
 群衆の息が合わさり、やがて歓声に変わった。

「火を継げ!」「鍋を守れ!」

 声が重なり、揺れ、広場を満たす。
 火は吹き消されなかった。
 ――惰性は、声によっても守られる。

 翌朝。
 〈民閲板〉には新しい札が並んでいた。
 一枚は“鍋:一減”。だが、横に赤い印が付けられている。
 “破壊による減”。
 数字は減った。だが、それは“晒された減”だ。
 人々は札を指でなぞり、頷いた。
 ――影を晒せば、影は形を失う。

 その光景を見届けていると、黒扇の使者が現れた。
「見事だな。鍋が燃やされても、火を継いで見せるとは」
 彼は小さく笑い、囁く。
「だが、敵は次に“人”を狙うだろう。……園丁長、覚悟はあるか?」

 わたくしはまっすぐに答えた。
「覚悟は、火の横に座ることです。火が強ければ覆い、弱ければ灰を払う。――それだけです」

 使者は一瞬だけ目を細め、そして扇を閉じて背を向けた。
「……ならば、次の月でまた会おう」

 夜更け。
 園の畝に並ぶ草々の間を歩く。
 殿下が隣に立ち、声を落とした。
「君は、狙われる」
「はい。それは鍋の隣に立つ者の務めです」

 殿下は黙り、やがて短く言った。
「……務め以上に、私は君を守りたい」

 胸が熱を帯びる。
 舌の約束が、再び灯された。
 草の根が土の奥で息づくように、静かに確かに。

 その夜、園の入口に誰かが小さな灯籠を置いていった。
 紙には子どもの字でこう書かれていた。

「あしたも、なべをまもる」

 灯籠の中の火は揺れ、小さいが、決して消えなかった。
 わたくしはその光を胸に刻み、静かに呟いた。

「――明日も、鍋から始めましょう」