王都中央広場の石畳に、ふたたび高座が設えられた。
 最初の公開裁きが“嘲笑を裏返す場”だったのに対し、今回は“惰性を守る場”――継続する力を試す審問だ。
 高座の背後には〈民閲板〉、その横に〈検見台〉、さらに鍋三つ。赤と青の旗が風に鳴り、灰壺の縁に朝日が落ちる。
 群衆は早くから集まり、露店の女は湯を沸かし、子どもは絵札を振って走り回る。鍋の匂いが人の緊張を少しずつ揉みほぐしていく。

 正午の鐘が鳴り、王弟殿下が杖を鳴らした。
「本日の審問は、“盟を紙に閉じ込めようとした者たち”に対するものだ。――密約は既に板に貼られている。署名も印も、ここにある」

 ざわめきが波のように押し寄せ、やがて引く。
 わたくしは高座の下手に立ち、胸の前で手を重ねた。
 レオンは舞台の縁、布干しの影に半歩引いて構え、医官の若手たちが検見台の周りに控える。
 布商会からはグラウ伯商が姿を見せ、対する古参商会の長は顔色を変えぬまま椅子に座った。白衣の列の端では、先日の帳簿偽装に関わった医官が俯き、手錠の音が小さく鳴る。

「まず、園丁長」
 殿下が促す。
 わたくしは頷き、板前へ歩み出た。

「――“盟”は紙ではありません。鍋の火と灰の帯、布の畝、数字の札。これらの“惰性”です。
 紙を曲げれば、火は消えます。数字を隠せば、粉は紛れます。布を止めれば、寝床が冷えます。
 本日の審問は、罪を炙るためでなく、“道”をはっきり敷き直すための時間です」

 言い終えると、少女が鈴を鳴らし、最初の証言が始まった。

 一人目は布商会の若い帳付けだった。
「……端切れの値を釣り上げる指示が来ました。鍋場へ回る分を減らせば、園が困るだろう、と。自分は……逆らえませんでした」

 彼の声は細く震え、しかし言葉は嘘を含まない。
 わたくしは頷き、地図板に指を置いた。
「値のつり上げは、この街区とこの街区で顕著。――ですが、こちらの四街区では、等価交換が“増”になっています。なぜか分かりますか?」

 青年は驚いた顔で地図板を見つめ、やがて小さく答えた。
「……板に数字が出るから、です。民が枚数を数えて、足りない、と言ってくる。だから“釣り上げ”がばれる街区では命令が出ない」

「つまり、数字は“恐れ”を民へ渡したのではなく、“恥”を権力へ返したのです」

 広場に薄い笑いが広がり、古参の長の口元が引きつる。
 王弟殿下は淡く頷き、次の証言を促した。

 二人目は白衣の若い医官だ。
「……帳簿に“点字”を打ったのは、私ではない。ですが、黙認しました。『病は治まった』と報告した方が落ち着くと……」
 彼はそこで言葉を詰まらせ、俯いた。「落ち着くのは、私たちの心だけでした」

「よく言いました」
 わたくしは、蜂蜜を落とした湯を差し出す。
「ここからが仕事です。――“民閲板の前で自分の数字を読む日”を定めます。医官も、商会も、園も。月に一度、“読み手”として板に立つ。質問を受け、答える。
 言葉で飾らず、数字で示す。間違えば翌月に直す。……名を『市民監査日』としましょう」

 ざわめきが大きくなり、すぐに拍手が混じった。
 殿下が声を乗せる。「評議会にも同じ場を設ける。貴族も、板の前に立て」

 階段の上に並ぶ重鎮の幾人かが、露骨に眉をひそめた。
 だが、最初の裁きのときと違い、彼らの背後には“沈黙の海”ではなく、鍋と板と絵札がある。
 暮らしの側に寄りかかった秤は、もはや簡単には戻らない。

 ここで古参商会の長が立ち上がった。
「ふん。民の喝采に媚びる見世物だ。数字など、いくらでも弄れる。札を二枚重ねれば濃く見えるだろう」

 彼は冷笑しながら、台の端の札束をつまみ上げる。
 わたくしは肩をすくめ、短く返した。
「札を重ねれば、光に透けます。――見せましょう」

 検見台に灯を入れ、二枚重ねの札を掲げると、重なった部分の色は一様ではなく、境の筋が浮かび上がる。
 さらに、札の右下に押した微細な刻印――鍋の縁と同じ波型――が僅かにずれるのが、誰の目にもわかった。
 子どもが歓声を上げ、大人が頷き、長は顔色を変える。

「あなた方は“見えない場所”で強かった。しかし、ここは“見える場所”です」
 わたくしは札を一枚ずつ剥がし、光に透かした。
「――見える場で勝つには、良い品と良い手順しかありません」

 グラウ伯商が前へ出て、短く言った。
「商会連合は“端切れ買上”と“割戻”を継続する。検見台への常駐も受ける」
 彼は古参の長へ視線を投げ、「邪魔をするなら、市で勝負しよう」と低く告げた。
 広場の空気が一段引き締まり、長の足元から自信の影が消える。

 審問は核心へと進む。
 殿下が掲げたのは、セレスティアが写した密約の写し――“盟を紙だけに留めるべし”に並ぶ署名と印。
 殿下の声は冷たいが、怒りに任せてはいない。

「名を呼ばれた者は、前へ」

 数名の貴族がしぶしぶ立ち上がり、石段を降りる。
 彼らは口々に弁解し、外交上の配慮だ、民心の安定だ、と飾り立てた。
 わたくしはそのたびに、板を指し、鍋を示し、検見台を見せた。
 “言葉”に対して“物”を置く――彼らが最も苦手とする土俵だ。

「民閲板の数字は、あなたがたの想像より頑丈です。
 鍋の湯気は、あなたがたの想像より遠くへ届きます。
 ――実際に、国境で届きました」

 ざわめきの中、黒扇の使者が一歩進み出る。
 彼は扇を閉じ、殿下とわたくしへ向き直った。

「我が王の名において、『開かれた鍋の盟』に正式に二件の追加条を申し出る。
 一、国境町に“共同検見台”を常設し、交互に“民閲”を行うこと。
 二、粗製粉の密売に関わった者は、双方で罪に問うこと」

 広場がどよめき、すぐに歓声が混じった。
 殿下は頷き、短く応じる。「受ける」
 その瞬間、階段上の幾人かの顔に、あからさまな狼狽が走った。
 “紙の細工”が、国境の風で破られていく。

 審問の終盤、思いも寄らない人物が前に出た。
 セレスティアだ。
 薄い外套を肩にかけ、絵札と同じ色のリボンを胸に結び、静かに礼をした。

「わたくしは、かつてこの広場で、リリアーナ様を嘲りました。
 そのわたくしが今、絵札を描き、子どもたちに鍋の絵を教えています」

 広場の空気が柔らかくなる。
 彼女は続けた。
「笑いは、鍋の煙のように上へ昇り去ります。けれど絵札は手に残ります。……わたくしは、残る方に立ちたい」

 その言葉は、糸のように細く、しかし千切れない。
 赦しは忘却ではない――彼女自身がそれを体現して見せた。
 古参の長が視線を逸らし、幾人かの貴族の肩がわずかに落ちる。
 人は、変わってしまった“元笑い手”の前で、軽々しく嘲笑を繰り返せない。

 結語の刻。
 殿下は杖を石に軽く打ち、短く言い渡した。

「密約に署名した者のうち、直接の妨害を指揮した二名は官位を剥奪、商会の長は市の資格を停止。残りは『市民監査日』に三月続けて立ち、質問に答えよ。
 医官ギルドは帳簿を“民閲板”と連結、点字のような符牒は禁止。――違えれば、直ちに免職」

 王命は厳しい。しかし、火で焼くのではなく、壁で仕切る。
 彼らは歩き続けるしかない。低い壁を、日々跨ぎながら。

 そして殿下は、静かに視線をわたくしへ向ける。
「園丁長。――最後に、“手順”を」

 わたくしは鍋の前に立ち、ゆっくりと匙を取った。
「本日の手順は三つ。
 一、怒りは鍋の下へ。
 二、数字は光の前へ。
 三、言葉は湯気の側へ。
 ――以上です」

 広場が静まり、次いで、波のような拍手が押し寄せた。
 拍手は長く、しかしうるさくはない。湯気のように上へ上がって、空へ溶けていく。
 わたくしは深く礼をし、顔を上げたとき、殿下の視線と真っ直ぐにぶつかった。

 彼はほんの少しだけ、口の端を上げた。
 そこに政治の陰影はなく、ただ“約束の火加減”だけが宿っていた。

 審問の後、園へ戻る途中で、レオンが並んだ。
「派手にやったな」
「派手に、ですか?」
「舞台は大きく、手順は静か。……つまり、君らしい」

 彼は懐から小箱を出した。
 蓋を開けると、中には極小の金の型――札の隅に押す波型刻印の新型だ。
「偽札対策。商人と錠前師が一晩で拵えた。『惰性に参加したい』そうだ」

「嬉しい“嫉妬”ですね」
「嫉妬?」
「ええ。『園の札が羨ましい、なら自分も札を作る側へ』――それは良い火加減」

 レオンは目を細め、頷いた。「君と殿下の影響は、鍋より広がる」

 夜、園に戻ると、畝の端に小さな灯が並んでいた。
 子どもたちが置いていったという素朴なランタン――絵札と同じ赤青白の紙が貼られ、内側で小さな火が揺れている。
 わたくしは一つを手に取り、ふっと息を吹いた。炎は揺れ、消えず、むしろ安定した。

「殿下」
 声を掛けると、彼は畝の向こうから現れた。
「――今日、あなたは“王の言葉”より“園丁の手順”を優先させました」
 殿下は肩を竦め、冗談めかして言う。「私は賢いからな」
 わたくしは笑い、そして、真面目に返した。

「ありがとうございます。惰性は、“上からの明日”ではなく、“皆の今日”でしか育たないから」

 沈黙。
 夜風が、草の葉先を撫でる。
 殿下は一歩、近づいた。
 声は低く、揺れない。

「明日、王妃に答える。……『紙はまだ湿っている。だが、ふたつの舌は、同じ火で温まっている』と」

 胸の奥で、静かに火が鳴った。
 わたくしは、頷いた。
「――鍋の隣に、居ます」

 その晩遅く、黒扇の使者から小箱が届いた。
 蓋の内側には、青い印板の写しと、短い文。

『国境の“共同検見台”、起工。
君の壁は低い。だから長い。
だから、越える者は歩く。
だから、我らは同じ方角を見る。』

 わたくしは箱を閉じ、灯を落とした。
 闇の中に、鍋の余熱だけがぽうっと残っている。
 草の根は、闇を嫌わない。
 明日も、壁は低く、長いだろう。
 明後日も、札は光に透け、数字は湯気に濡れるだろう。
 “盟”は紙から暮らしへ、そして暮らしから習いへ――ようやく、本当の意味で根を下ろし始めたのだ。

「――さあ、明日も鍋から始めましょう」

 独り言は、園の暗がりに吸い込まれ、静かに、確かに、根に届いた。