使者の顔は、風に晒された樹皮のように乾ききっていた。長駆してきたのだろう、砂でざらついた呼吸の隙間から、切り詰めた言葉が落ちる。
「――隣国の辺境町で、高熱と咳、赤い発疹。二十を越える家に同時に出ました。行商が運んだ荷からか、水か……まだ特定できておりません。国境警備は往来を制限、しかし食糧も薬も足りない。領主館から“薬草師殿”に、急ぎの助力願いと」
“薬草師殿”という呼び名に、執事の眉がわずかに震えた。ここでは、誰もわたくしをそう呼ばない。ただ“お嬢様”か“追放された方”か、そのどちらかだったから。
「……状況の詳細を、話せるだけ話して」
わたくしは、使者の手から地図とメモ束を受け取った。粗末な紙だが、震える筆致で日付と発症者の年齢、家の位置が丁寧に記されている。わたくしは即座に卓上へ広げ、赤い糸で印を結んだ。
「発症位置が……この井戸を中心に扇形に広がっている。風向きは?」
「南から西へ。乾いた風が二日ほど続きました」
「なら、飛沫と接触だけでなく、埃に乗って拡がっている可能性がある。まずは水。井戸の利用を止めさせ、煮沸を徹底。それと――」
わたくしは薬草園へ駆け出した。土の匂いが、胸を冷やし、手を速くする。畝の間で膝をつくと、乾燥架から束を下ろした。
「熱を下げる葉、咳を鎮める根。発疹には清めの煎液と皮膚に塗る軟膏。補水用には……これは砂糖と塩が要るわね。台所! 蜂蜜があればなお良い」
「蜂蜜は樽に半分ほど、塩は袋で二つ。砂糖は高いので、黒糖なら多少」
「十分。鍋を一番大きいもの二つ、火は弱く長く――焦げ付かせないように」
わたくしが指示を飛ばすと、執事がまるで若者のような足取りで走った。村の女たちも、目配せひとつで動く。薬草園は、風に鳴るだけでなく、わたくしの声に応える生き物になっていた。
まずは“封じ手”だ。病は強いときほど、拙速に叩きにいくのではなく、回りを固めて息を細くするのがよい。わたくしは、庭の隅に置いていた板に炭で大きく書く。
――一、井戸の使用停止と煮沸徹底。
――二、咳の者と発疹の者を別の小屋に分ける。看病人は固定。
――三、使い捨て布(古布で良い)で口と鼻を覆う。
――四、手を洗う。灰で擦り、川水で流し、仕上げに煮沸水。
――五、器具と寝具の“日干し”。強い日には陰干しでも。
――六、補水。薄い甘じょっぱい飲み物を少しずつ。吐くなら匙で。
「文字が読めない者もいる。絵もつけましょう」
わたくしは、棒人間に布を被せる絵、井戸に×、鍋で湯気を立てる図、日輪と寝具の絵をざっくりと添えた。伝わればいい。完璧は要らない。要るのは速度と、繰り返しだ。
「わたくしが現地に着くまでに、これを各家に回して。お触れより早い“口”が必要。子どもは大人より走るのが速いから、駄賃をやると尚よし」
女たちが顔を見合わせ、うなずいた。わたくしは最後に、灰の壺と布束、それから香りの強い葉を袋に入れる。気休めじゃない。弱った心に香りは効く。呼吸が浅くなるのを防ぐ“橋”だ。
「リリアーナ様、本当に行かれるのですか。隣国領内ですぞ」
「病は国境を選ばないわ。治った命は、きっとこちらへ巡り返る。……それに」
わたくしは、馬の鞍に手をかけて笑った。
「これは――薬草園に吹いた、最初の追い風だもの」
執事は何も言わず、ただ深く頭を下げた。わたくしは鞍に跨がり、使者とともに国境道へと走らせた。谷を渡る風は冷たく、頬を刺したが、胸の奥は澄みきっていた。
道々、使者はぽつりぽつりと話した。発症した最初の家は、行商人が宿をとった納屋に隣接していたこと。二軒目、三軒目は、その家と桶を貸し借りする仲だったこと。子どもと老人の発症が目立つこと。病の名を誰かが囁き、恐怖は名前に引っ張られて太ること。
「名前は、治すためにつけるもの。怖がるためではないわ」
わたくしはそう返し、腹の中で病の“顔”を組み立てた。高熱、咳、赤い発疹。水と風。季節の乾き。赤子と老人の脱水――まずは、喉と血が渇いている。
国境の柵に着いたとき、夕陽は柵を赤く塗りつぶしていた。番兵が槍を横にし、わたしたちをじろりと見た。使者が札を差し出す。番兵の顎がわずかに引きつり、それでも柵は開いた。
「助力、感謝する。……中は、思っている以上に荒れている」
柵の内側は、匂いでわかった。湿った布と汗、吐瀉のわずかな酸の匂い。わたくしは鼻で短く息をし、口で長く吐いた。匂いは敵の大きさを教える。過剰に怯えなければ、足をすくわれない。
広場に仮の小屋が立ち、入口に布が垂れている。咳の小屋と、発疹の小屋。仕切りの縄。子どもが泣き止み、大人が声を失う場所。わたくしは、まず“声”を戻す。
「皆さん、わたしは薬草のリリアーナ。水と火と草で、できることをします。今から言うことを、ひとつずつ。早く、簡単に。むずかしいことは言いません」
囲む目が、張り詰めた糸のようにこちらに集まる。わたくしは両手を上げ、ゆっくり下ろす。
「深呼吸。ひとつ」
自分が先にする。誰かが真似る。真似が連なる。空気は、それだけで変わる。
合わせてきた鍋に、水と塩、黒糖、少しの蜂蜜。かき混ぜる。子どもには匙で、口の端から。吐いたら、間を空け、またひと匙。わたくしは、その作業を“見せる”ことにした。レシピは口頭で伝えられても、手つきは目で覚えるものだ。
「火は弱く、焦がさずに。――咳の者には、この根の煎液を薄く。熱は、額ではなく、首筋と脇も冷やす。布を濡らして、絞って、置く。……そう、上手」
女たちの手はすぐに覚える。老人の手は、覚えていた方法を思い出す。男たちは最初戸惑い、やがて、薪を割り、釜を運び、土を掘る。役割が、病を押し返す“盾”になる。
夜、焚き火のそばに人の輪ができる。わたくしは、丸めた紙と炭で“地図”を描いた。最初の家から矢印を伸ばし、桶の貸し借り、井戸の位置。女衆の「あそこと、あそこは水を分け合う仲」といった声が、矢印を増やしていく。
「井戸の底板にひびが入ってたって、前に言ってた」
「風で埃が入って、子どもの桶が倒れて……」
断片が繋がる。わたくしは頷き、明日の“仕事”を決める。
「夜明け、井戸を開ける。底を見て、板を替える。灰を撒く。煮沸用の薪は、わたしが買う。代金は、館の備蓄から出すわ」
使者が目を剥いたが、わたくしは静かに返した。
「命の利は、あとで必ず戻るの。今は、出すとき」
そのとき、小屋の布がはためき、ひとりの青年が駆けてきた。頬はこけ、目だけが異様に光っている。背に、剣。旅装。軍靴は、この村のものではない。
「薬草師殿! 熱のある子が、痙攣を――!」
わたくしは飛び上がるように立った。小屋へ駆け込み、狭い床の上で小さな体が弓なりになるのを見た。呼気が浅い。脈は速い。わたくしは手桶の位置を見て、周囲の顔を素早く読む。
「あなた、父親?」
「違う。通りすがりの……」
「なら、火の加減を見て。あの鍋は弱く、こっちは沸かす。――母親は?」
泣き腫らした目が挙がる。わたくしはその手を握った。
「大丈夫。今からすることを、全部わたしが言う。あなたは、子の手を、柔らかく支えて。強くは握らない。歯は布で守る。舌を噛まないように」
湯を少し冷まし、布を浸す。首、腋、腹。冷やしすぎない。痙攣は、山のようにやってきて、波のように引いていく。わたくしは波の“谷”を待ち、匙でごく少量の補水液を口の端へ。母親の目がこちらを見、わたくしは目で“いい”と返す。呼吸がわずかに整う。火の揺れが、落ち着いた。
「……よく、頑張ってる。あなたも、子も」
母親の肩がふるえ、泣き声が小さくなった。わたくしは、青年が持ってきた布袋に目を向ける。焦げと油の匂い。剣の鍔には、王都工房の刻印。見覚えがある。王家の衛士か、それに近い。
その夜、わたくしは仮小屋の隅で、焚き火の赤を遠目に、記録をとった。発症者の顔色、舌の乾き、尿の量、発疹の形。草の効き目。鍋の減り。――書けば、次の者が“最初の一人”で悩まなくて済む。
「……あなた、どこから来たの?」
声に顔を上げると、先ほどの青年が、薪の影から半身を出していた。近くで見ると、野良の風体にしては、姿勢が良すぎる。剣の手入れも、戦う者のそれだ。
「北の街道の宿場から。……といっても、“今は”それで通してほしい」
「“今は”?」
「身分の話は、落ち着いてから。――薬草師殿、礼を言う。あなたが来てから、人の目が、少し戻った」
「礼は、治ってからにして。……あなた、手を見せて」
青年の手の平には、小さな赤い斑が幾つか。熱は、ない。わたくしは手桶で手を洗わせ、香りの葉で軽く揉ませる。
「あなたには明日、井戸を開ける手伝いを頼むかもしれない」
「やる。剣より、桶の方が役に立つなら」
妙な男ね、と心の中で笑う。剣を腰に、桶を担ぐと臆面もなく言える人間は、そういない。わたくしは、彼が“使える”と判断した。病の場では、肩書より、使える手が貴い。
夜が明ける少し前、空が鉄の色を脱ぎ始めるころ、小屋の外に人の気配が増えた。わたくしは立ち上がり、背伸びを一度。体の節が鳴る。眠気は、土の匂いで溶けた。
井戸の蓋を上げると、湿気が顔にまとわりついた。底板は黒ずみ、片隅に薄い緑の膜が揺れている。板に走るひびから、細い泡。わたくしは、持ってきた灰と石灰を、規定量より少し薄めて撒いた。強すぎると、かえって人の腹を痛める。
「板は、この幅で二枚新しく。周りの土を少し高くして、雨水が入りにくいように。……それから、桶の縄は新しいものに替える。手は灰で擦り、洗ってから持つ」
青年は黙々と動き、指示を先回りした。わたくしは、彼が時折空を読む視線に気づく。風向き。雲の厚さ。剣の人間は、天候を見るのが癖になる。行軍の習いだ。
午前のうちに、いちばん重い子どもの熱がわずかに下がった。母親がわたくしの手をとり、何度も礼を言う。わたくしは頷き、記録に“下がり始め”と書いた。初動が効きはじめるまでの時間。これを体で覚えておけば、次は少し平気になる。
昼過ぎ、国境の柵の方がざわついた。わたくしが顔を向けるより先に、青年が一歩進み出る。砂塵の中から、馬列。旗。王都の色。わたくしの胸に、一瞬だけ冷たい指が走る。嫌な予感は、草の匂いに紛れない。
先頭の騎馬が止まり、従者が下馬した。外套の帽子を取る。髪は風に乱れ、頬に疲れ。だが、その目の光は、王都の磨かれた鉱石のように澄んでいる。
「――薬草師、リリアーナ・フォン・グレイス殿であられるか」
わたくしは、一歩進んで膝を折った。王都の礼を、隣国の土の上でも崩さない。崩せば、ややこしいほぞが狂う。
「はい。ここに」
従者は短く息を吸い、振り返る。馬上にいた人物が、外套を押さえてゆっくりと下りた。足元がふらつき、青年がとっさに支える。わたくしは、その額に手を伸ばし――熱の鋭さに、目を細めた。
「っ、……殿下!」
周囲の兵が一斉に膝をついた。わたくしの心臓が、一瞬だけ跳ねる。青年が、わずかに目を伏せた。やっぱり、あなたね。
王太子――いいえ、噂に聞く“隣国の”王弟殿下は、わたくしの目の前で、静かに息を乱していた。頬に紅。喉の渇き。皮膚に浮く斑。わたくしは、丁寧な言葉を選ぶ余裕を捨てた。
「すぐにこちらへ。寝台は清潔な板に布。皆、手を洗って。口と鼻を覆い、近づく者は固定。補水を、匙で」
兵たちは戸惑いつつも、青年の短い号令で動く。わたくしは、殿下の脈をとりながら、心の中で小さく笑った。皮肉だこと。王都で“泥臭い”と嘲られたわたくしの手が、いま王族の喉を潤す。
殿下の唇がわずかに動いた。
「……君は、グレイス家の。婚約破棄の……」
「ええ、そう。――あなたは水を飲む。話は、そのあと」
匙を口へ。殿下は反射で拒むが、喉が液を覚える。半分。少し間を置いて、もう半分。首筋を冷やす。脇へ布。息が、荒波から細い川へ変わっていく。
兵の輪の外で、使者と執事が固く頷き合った。村の女たちは、王族だろうと子だろうと、同じ手つきで世話をする。わたくしは、殿下の額に残る熱を指で測り、目で時間を刻んだ。
やがて、殿下の瞼がゆっくりと上がる。焦点が合い、わたくしの顔を捉える。わたくしは、微笑まない。今は、笑う時ではないから。
「殿下。おそらくこの病は、水と埃。井戸と桶。――封じ手はもう打ちました。あと必要なのは、“従うこと”。命令でなく、“皆でやる”こと」
殿下は、わずかに口角を上げた。多分、生まれてから彼は命令する側で、従うことをほとんど知らない。けれど、病は皇も民も同じ高さに引きずり下ろす。そこから立つのは、皆でしかできない。
「君の指図に従おう。……王家の名において」
「王家の名は要らない。わたくしには、鍋と草があれば足りるわ」
言ってしまってから、すこし笑いそうになる。辺境の土は、言葉を軽くする。殿下の喉が小さく鳴り、目元が面白そうに揺れた。
「薬草師殿。君は、ずいぶん強い」
「草は、弱いものを強くするためにあるの。わたくしも、そのひとつ」
外で、風が向きを変えた。遠くで雲がちぎれ、陽が一筋落ちる。小屋の布が、柔らかく揺れた。わたくしは、匙を置き、立ち上がる。
「殿下、あなたにお願いがある。――王家の馬と兵を、“薪と水”に変えて」
兵たちがざわめき、殿下は目を細め、すぐに頷いた。命令が飛ぶ。馬は井戸へ、兵は薪割りへ。王家の旗が、井戸の側で日除けになった。村の子が、その影に入り、笑う。病の場で、笑いは薬だ。
その夕、最初の死者が出なかった。人は、それだけで強くなる。夜、焚き火の赤は昨日より明るく見えた。わたくしは記録に“王弟殿下来訪、補水開始後に呼吸安定”と書きつけ、最後に、小さな一文を加えた。
――婚約破棄という言葉は、どこかで、薬草園への招待状になったらしい。
紙を閉じたとき、青年が近づいてきた。焚き火に照らされた顔は、昼間より疲れているのに、不思議と晴れていた。
「……俺は、レオン。名乗るのが遅くなった」
「レオン。桶が似合う衛士さん。覚えやすいわ」
「君は、強い。殿下が君に従うのを見て、兵が動いた」
「殿下に従ったのよ。わたしはただ、鍋を見てただけ」
レオンは笑い、火の粉を靴で払い、少しだけ真面目な顔に戻った。
「王都から、明日には使節が来る。“薬草師殿に、王都へ”という話が出るかもしれない」
わたくしは、焚き火の先で寝息を立てる子らに目をやった。赤い頬。浅い呼吸。小さな手。わたくしの心は、草の根のように地に伸びた。
「王都は、鍋を持っている?」
「……持っていないだろうな」
「なら、今はここにいる。鍋のそばに。――ただし」
わたくしは、紙を持つ手を少しだけ上げた。
「王都が鍋を持つと約束するなら。井戸を直し、布と灰を配り、草の畝を守ると約束するなら。わたくしは、王都へ行ってもいい」
レオンは目を丸くし、それから、誇らしげにうなずいた。
「君は、王都に必要だ。……王都がそれに気づけば、の話だが」
「気づかせるのも、仕事のうちよ」
夜空に、遅れた星がひとつ、瞬いた。焚き火の先で、殿下が浅く寝返りを打ち、わたくしの方へ顔を向けた。熱はまだある。けれど、呼吸は静かだ。わたくしは立ち上がり、鍋の火加減を見に行った。
明日も、今日と同じことを繰り返す。水を沸かし、布を洗い、草を煎じ、手を洗い、匙を運ぶ。病は、派手な一撃で退かない。小さな“よい”を積むことで、いつのまにか境目を越えている。
草は、弱い。けれど、弱いものほど、長く続く。“続ける”を味方につける。それが、薬草の勝ち方だ。
そして、続ける者の手を、王家が支えるのなら――この国の病は、きっと減る。
焚き火に手をかざしながら、わたくしは、初めて辺境に来た日の自分を思い出した。馬車の揺れ。荒れ地。冷たい風。自由の匂い。あの日、胸に芽吹いた小さな期待は、いま確かな茎になっている。
「――さあ、明日も鍋から始めましょう」
誰にともなく呟いて、わたくしは小屋の布をそっと下ろした。夜は、まだ長い。けれど、わたくしたちの手は、もう病に届いている。
「――隣国の辺境町で、高熱と咳、赤い発疹。二十を越える家に同時に出ました。行商が運んだ荷からか、水か……まだ特定できておりません。国境警備は往来を制限、しかし食糧も薬も足りない。領主館から“薬草師殿”に、急ぎの助力願いと」
“薬草師殿”という呼び名に、執事の眉がわずかに震えた。ここでは、誰もわたくしをそう呼ばない。ただ“お嬢様”か“追放された方”か、そのどちらかだったから。
「……状況の詳細を、話せるだけ話して」
わたくしは、使者の手から地図とメモ束を受け取った。粗末な紙だが、震える筆致で日付と発症者の年齢、家の位置が丁寧に記されている。わたくしは即座に卓上へ広げ、赤い糸で印を結んだ。
「発症位置が……この井戸を中心に扇形に広がっている。風向きは?」
「南から西へ。乾いた風が二日ほど続きました」
「なら、飛沫と接触だけでなく、埃に乗って拡がっている可能性がある。まずは水。井戸の利用を止めさせ、煮沸を徹底。それと――」
わたくしは薬草園へ駆け出した。土の匂いが、胸を冷やし、手を速くする。畝の間で膝をつくと、乾燥架から束を下ろした。
「熱を下げる葉、咳を鎮める根。発疹には清めの煎液と皮膚に塗る軟膏。補水用には……これは砂糖と塩が要るわね。台所! 蜂蜜があればなお良い」
「蜂蜜は樽に半分ほど、塩は袋で二つ。砂糖は高いので、黒糖なら多少」
「十分。鍋を一番大きいもの二つ、火は弱く長く――焦げ付かせないように」
わたくしが指示を飛ばすと、執事がまるで若者のような足取りで走った。村の女たちも、目配せひとつで動く。薬草園は、風に鳴るだけでなく、わたくしの声に応える生き物になっていた。
まずは“封じ手”だ。病は強いときほど、拙速に叩きにいくのではなく、回りを固めて息を細くするのがよい。わたくしは、庭の隅に置いていた板に炭で大きく書く。
――一、井戸の使用停止と煮沸徹底。
――二、咳の者と発疹の者を別の小屋に分ける。看病人は固定。
――三、使い捨て布(古布で良い)で口と鼻を覆う。
――四、手を洗う。灰で擦り、川水で流し、仕上げに煮沸水。
――五、器具と寝具の“日干し”。強い日には陰干しでも。
――六、補水。薄い甘じょっぱい飲み物を少しずつ。吐くなら匙で。
「文字が読めない者もいる。絵もつけましょう」
わたくしは、棒人間に布を被せる絵、井戸に×、鍋で湯気を立てる図、日輪と寝具の絵をざっくりと添えた。伝わればいい。完璧は要らない。要るのは速度と、繰り返しだ。
「わたくしが現地に着くまでに、これを各家に回して。お触れより早い“口”が必要。子どもは大人より走るのが速いから、駄賃をやると尚よし」
女たちが顔を見合わせ、うなずいた。わたくしは最後に、灰の壺と布束、それから香りの強い葉を袋に入れる。気休めじゃない。弱った心に香りは効く。呼吸が浅くなるのを防ぐ“橋”だ。
「リリアーナ様、本当に行かれるのですか。隣国領内ですぞ」
「病は国境を選ばないわ。治った命は、きっとこちらへ巡り返る。……それに」
わたくしは、馬の鞍に手をかけて笑った。
「これは――薬草園に吹いた、最初の追い風だもの」
執事は何も言わず、ただ深く頭を下げた。わたくしは鞍に跨がり、使者とともに国境道へと走らせた。谷を渡る風は冷たく、頬を刺したが、胸の奥は澄みきっていた。
道々、使者はぽつりぽつりと話した。発症した最初の家は、行商人が宿をとった納屋に隣接していたこと。二軒目、三軒目は、その家と桶を貸し借りする仲だったこと。子どもと老人の発症が目立つこと。病の名を誰かが囁き、恐怖は名前に引っ張られて太ること。
「名前は、治すためにつけるもの。怖がるためではないわ」
わたくしはそう返し、腹の中で病の“顔”を組み立てた。高熱、咳、赤い発疹。水と風。季節の乾き。赤子と老人の脱水――まずは、喉と血が渇いている。
国境の柵に着いたとき、夕陽は柵を赤く塗りつぶしていた。番兵が槍を横にし、わたしたちをじろりと見た。使者が札を差し出す。番兵の顎がわずかに引きつり、それでも柵は開いた。
「助力、感謝する。……中は、思っている以上に荒れている」
柵の内側は、匂いでわかった。湿った布と汗、吐瀉のわずかな酸の匂い。わたくしは鼻で短く息をし、口で長く吐いた。匂いは敵の大きさを教える。過剰に怯えなければ、足をすくわれない。
広場に仮の小屋が立ち、入口に布が垂れている。咳の小屋と、発疹の小屋。仕切りの縄。子どもが泣き止み、大人が声を失う場所。わたくしは、まず“声”を戻す。
「皆さん、わたしは薬草のリリアーナ。水と火と草で、できることをします。今から言うことを、ひとつずつ。早く、簡単に。むずかしいことは言いません」
囲む目が、張り詰めた糸のようにこちらに集まる。わたくしは両手を上げ、ゆっくり下ろす。
「深呼吸。ひとつ」
自分が先にする。誰かが真似る。真似が連なる。空気は、それだけで変わる。
合わせてきた鍋に、水と塩、黒糖、少しの蜂蜜。かき混ぜる。子どもには匙で、口の端から。吐いたら、間を空け、またひと匙。わたくしは、その作業を“見せる”ことにした。レシピは口頭で伝えられても、手つきは目で覚えるものだ。
「火は弱く、焦がさずに。――咳の者には、この根の煎液を薄く。熱は、額ではなく、首筋と脇も冷やす。布を濡らして、絞って、置く。……そう、上手」
女たちの手はすぐに覚える。老人の手は、覚えていた方法を思い出す。男たちは最初戸惑い、やがて、薪を割り、釜を運び、土を掘る。役割が、病を押し返す“盾”になる。
夜、焚き火のそばに人の輪ができる。わたくしは、丸めた紙と炭で“地図”を描いた。最初の家から矢印を伸ばし、桶の貸し借り、井戸の位置。女衆の「あそこと、あそこは水を分け合う仲」といった声が、矢印を増やしていく。
「井戸の底板にひびが入ってたって、前に言ってた」
「風で埃が入って、子どもの桶が倒れて……」
断片が繋がる。わたくしは頷き、明日の“仕事”を決める。
「夜明け、井戸を開ける。底を見て、板を替える。灰を撒く。煮沸用の薪は、わたしが買う。代金は、館の備蓄から出すわ」
使者が目を剥いたが、わたくしは静かに返した。
「命の利は、あとで必ず戻るの。今は、出すとき」
そのとき、小屋の布がはためき、ひとりの青年が駆けてきた。頬はこけ、目だけが異様に光っている。背に、剣。旅装。軍靴は、この村のものではない。
「薬草師殿! 熱のある子が、痙攣を――!」
わたくしは飛び上がるように立った。小屋へ駆け込み、狭い床の上で小さな体が弓なりになるのを見た。呼気が浅い。脈は速い。わたくしは手桶の位置を見て、周囲の顔を素早く読む。
「あなた、父親?」
「違う。通りすがりの……」
「なら、火の加減を見て。あの鍋は弱く、こっちは沸かす。――母親は?」
泣き腫らした目が挙がる。わたくしはその手を握った。
「大丈夫。今からすることを、全部わたしが言う。あなたは、子の手を、柔らかく支えて。強くは握らない。歯は布で守る。舌を噛まないように」
湯を少し冷まし、布を浸す。首、腋、腹。冷やしすぎない。痙攣は、山のようにやってきて、波のように引いていく。わたくしは波の“谷”を待ち、匙でごく少量の補水液を口の端へ。母親の目がこちらを見、わたくしは目で“いい”と返す。呼吸がわずかに整う。火の揺れが、落ち着いた。
「……よく、頑張ってる。あなたも、子も」
母親の肩がふるえ、泣き声が小さくなった。わたくしは、青年が持ってきた布袋に目を向ける。焦げと油の匂い。剣の鍔には、王都工房の刻印。見覚えがある。王家の衛士か、それに近い。
その夜、わたくしは仮小屋の隅で、焚き火の赤を遠目に、記録をとった。発症者の顔色、舌の乾き、尿の量、発疹の形。草の効き目。鍋の減り。――書けば、次の者が“最初の一人”で悩まなくて済む。
「……あなた、どこから来たの?」
声に顔を上げると、先ほどの青年が、薪の影から半身を出していた。近くで見ると、野良の風体にしては、姿勢が良すぎる。剣の手入れも、戦う者のそれだ。
「北の街道の宿場から。……といっても、“今は”それで通してほしい」
「“今は”?」
「身分の話は、落ち着いてから。――薬草師殿、礼を言う。あなたが来てから、人の目が、少し戻った」
「礼は、治ってからにして。……あなた、手を見せて」
青年の手の平には、小さな赤い斑が幾つか。熱は、ない。わたくしは手桶で手を洗わせ、香りの葉で軽く揉ませる。
「あなたには明日、井戸を開ける手伝いを頼むかもしれない」
「やる。剣より、桶の方が役に立つなら」
妙な男ね、と心の中で笑う。剣を腰に、桶を担ぐと臆面もなく言える人間は、そういない。わたくしは、彼が“使える”と判断した。病の場では、肩書より、使える手が貴い。
夜が明ける少し前、空が鉄の色を脱ぎ始めるころ、小屋の外に人の気配が増えた。わたくしは立ち上がり、背伸びを一度。体の節が鳴る。眠気は、土の匂いで溶けた。
井戸の蓋を上げると、湿気が顔にまとわりついた。底板は黒ずみ、片隅に薄い緑の膜が揺れている。板に走るひびから、細い泡。わたくしは、持ってきた灰と石灰を、規定量より少し薄めて撒いた。強すぎると、かえって人の腹を痛める。
「板は、この幅で二枚新しく。周りの土を少し高くして、雨水が入りにくいように。……それから、桶の縄は新しいものに替える。手は灰で擦り、洗ってから持つ」
青年は黙々と動き、指示を先回りした。わたくしは、彼が時折空を読む視線に気づく。風向き。雲の厚さ。剣の人間は、天候を見るのが癖になる。行軍の習いだ。
午前のうちに、いちばん重い子どもの熱がわずかに下がった。母親がわたくしの手をとり、何度も礼を言う。わたくしは頷き、記録に“下がり始め”と書いた。初動が効きはじめるまでの時間。これを体で覚えておけば、次は少し平気になる。
昼過ぎ、国境の柵の方がざわついた。わたくしが顔を向けるより先に、青年が一歩進み出る。砂塵の中から、馬列。旗。王都の色。わたくしの胸に、一瞬だけ冷たい指が走る。嫌な予感は、草の匂いに紛れない。
先頭の騎馬が止まり、従者が下馬した。外套の帽子を取る。髪は風に乱れ、頬に疲れ。だが、その目の光は、王都の磨かれた鉱石のように澄んでいる。
「――薬草師、リリアーナ・フォン・グレイス殿であられるか」
わたくしは、一歩進んで膝を折った。王都の礼を、隣国の土の上でも崩さない。崩せば、ややこしいほぞが狂う。
「はい。ここに」
従者は短く息を吸い、振り返る。馬上にいた人物が、外套を押さえてゆっくりと下りた。足元がふらつき、青年がとっさに支える。わたくしは、その額に手を伸ばし――熱の鋭さに、目を細めた。
「っ、……殿下!」
周囲の兵が一斉に膝をついた。わたくしの心臓が、一瞬だけ跳ねる。青年が、わずかに目を伏せた。やっぱり、あなたね。
王太子――いいえ、噂に聞く“隣国の”王弟殿下は、わたくしの目の前で、静かに息を乱していた。頬に紅。喉の渇き。皮膚に浮く斑。わたくしは、丁寧な言葉を選ぶ余裕を捨てた。
「すぐにこちらへ。寝台は清潔な板に布。皆、手を洗って。口と鼻を覆い、近づく者は固定。補水を、匙で」
兵たちは戸惑いつつも、青年の短い号令で動く。わたくしは、殿下の脈をとりながら、心の中で小さく笑った。皮肉だこと。王都で“泥臭い”と嘲られたわたくしの手が、いま王族の喉を潤す。
殿下の唇がわずかに動いた。
「……君は、グレイス家の。婚約破棄の……」
「ええ、そう。――あなたは水を飲む。話は、そのあと」
匙を口へ。殿下は反射で拒むが、喉が液を覚える。半分。少し間を置いて、もう半分。首筋を冷やす。脇へ布。息が、荒波から細い川へ変わっていく。
兵の輪の外で、使者と執事が固く頷き合った。村の女たちは、王族だろうと子だろうと、同じ手つきで世話をする。わたくしは、殿下の額に残る熱を指で測り、目で時間を刻んだ。
やがて、殿下の瞼がゆっくりと上がる。焦点が合い、わたくしの顔を捉える。わたくしは、微笑まない。今は、笑う時ではないから。
「殿下。おそらくこの病は、水と埃。井戸と桶。――封じ手はもう打ちました。あと必要なのは、“従うこと”。命令でなく、“皆でやる”こと」
殿下は、わずかに口角を上げた。多分、生まれてから彼は命令する側で、従うことをほとんど知らない。けれど、病は皇も民も同じ高さに引きずり下ろす。そこから立つのは、皆でしかできない。
「君の指図に従おう。……王家の名において」
「王家の名は要らない。わたくしには、鍋と草があれば足りるわ」
言ってしまってから、すこし笑いそうになる。辺境の土は、言葉を軽くする。殿下の喉が小さく鳴り、目元が面白そうに揺れた。
「薬草師殿。君は、ずいぶん強い」
「草は、弱いものを強くするためにあるの。わたくしも、そのひとつ」
外で、風が向きを変えた。遠くで雲がちぎれ、陽が一筋落ちる。小屋の布が、柔らかく揺れた。わたくしは、匙を置き、立ち上がる。
「殿下、あなたにお願いがある。――王家の馬と兵を、“薪と水”に変えて」
兵たちがざわめき、殿下は目を細め、すぐに頷いた。命令が飛ぶ。馬は井戸へ、兵は薪割りへ。王家の旗が、井戸の側で日除けになった。村の子が、その影に入り、笑う。病の場で、笑いは薬だ。
その夕、最初の死者が出なかった。人は、それだけで強くなる。夜、焚き火の赤は昨日より明るく見えた。わたくしは記録に“王弟殿下来訪、補水開始後に呼吸安定”と書きつけ、最後に、小さな一文を加えた。
――婚約破棄という言葉は、どこかで、薬草園への招待状になったらしい。
紙を閉じたとき、青年が近づいてきた。焚き火に照らされた顔は、昼間より疲れているのに、不思議と晴れていた。
「……俺は、レオン。名乗るのが遅くなった」
「レオン。桶が似合う衛士さん。覚えやすいわ」
「君は、強い。殿下が君に従うのを見て、兵が動いた」
「殿下に従ったのよ。わたしはただ、鍋を見てただけ」
レオンは笑い、火の粉を靴で払い、少しだけ真面目な顔に戻った。
「王都から、明日には使節が来る。“薬草師殿に、王都へ”という話が出るかもしれない」
わたくしは、焚き火の先で寝息を立てる子らに目をやった。赤い頬。浅い呼吸。小さな手。わたくしの心は、草の根のように地に伸びた。
「王都は、鍋を持っている?」
「……持っていないだろうな」
「なら、今はここにいる。鍋のそばに。――ただし」
わたくしは、紙を持つ手を少しだけ上げた。
「王都が鍋を持つと約束するなら。井戸を直し、布と灰を配り、草の畝を守ると約束するなら。わたくしは、王都へ行ってもいい」
レオンは目を丸くし、それから、誇らしげにうなずいた。
「君は、王都に必要だ。……王都がそれに気づけば、の話だが」
「気づかせるのも、仕事のうちよ」
夜空に、遅れた星がひとつ、瞬いた。焚き火の先で、殿下が浅く寝返りを打ち、わたくしの方へ顔を向けた。熱はまだある。けれど、呼吸は静かだ。わたくしは立ち上がり、鍋の火加減を見に行った。
明日も、今日と同じことを繰り返す。水を沸かし、布を洗い、草を煎じ、手を洗い、匙を運ぶ。病は、派手な一撃で退かない。小さな“よい”を積むことで、いつのまにか境目を越えている。
草は、弱い。けれど、弱いものほど、長く続く。“続ける”を味方につける。それが、薬草の勝ち方だ。
そして、続ける者の手を、王家が支えるのなら――この国の病は、きっと減る。
焚き火に手をかざしながら、わたくしは、初めて辺境に来た日の自分を思い出した。馬車の揺れ。荒れ地。冷たい風。自由の匂い。あの日、胸に芽吹いた小さな期待は、いま確かな茎になっている。
「――さあ、明日も鍋から始めましょう」
誰にともなく呟いて、わたくしは小屋の布をそっと下ろした。夜は、まだ長い。けれど、わたくしたちの手は、もう病に届いている。



