王都の朝は、以前よりも静かだった。
 静けさの向こうで、何かが大きく組み替わっていく――そんな予感が、白い光のなかに漂っている。
 王の布告から三日、王城の南庭は、杭の打音と人いきれと土の匂いで満ちていた。赤い糸を引く測量師、杭を受け取る職人、畝の線を引く女たち、桶を担ぐ少年たち。
 そして、中央の柱には真新しい板札が掲げられている。

 ――王都直轄薬草園/公共鍋場(パブリック・ケトル)
 ――園丁長(えんていちょう):リリアーナ・フォン・グレイス

 名を見上げるたび、胸の奥で波が立つ。
 婚約破棄の刻印は消えない。だが、その上から木を重ね、土で押さえ、芽を立たせるようにして、新しい章が始まろうとしているのだった。

「園丁長、杭の位置、あと半尺南です!」

「了解。――畝の幅は狭くしないで。根が詰まると、病も詰まります」

 返事が幾つも重なる。響きが、もう“わたくし一人”の音ではないことが嬉しかった。
 鍋場の屋根は、城壁の風下に設え直す。煙は街へ逃がさず、匂いは園へ戻す。灰は溜めず、日毎に撒く。井戸は新板、縄は新替。手洗い槽の脇に、灰壺と布束と木札――絵と短い言葉で「こすって流す」を書く。学の有無に関わらず伝わる仕掛けこそ、王都という“人の海”では命綱だ。

 王弟殿下は、杖で土を軽く突きながら足を運んだ。回復は順調だが、まだ長距離は難しい。それでも毎朝の視察を欠かさないのが、この方の真面目さであり頑固さでもある。

「見事だ、リリアーナ。ほんの数日で、庭が装置に変わる」

「草は静かに働きます。けれど“場”を与えると、もっと速くなるのです」

「場、か」

 殿下の視線が、鍋の列から、手洗い槽、布干しの棚、記録板、地図へと渡る。
 地図には王都を方眼で割り、各街区の井戸・鍋・布の備蓄状況を色で塗り分けた。欠品が一目でわかるよう、赤・黄・青の札を磁で留める。港での教訓を、都市規模に翻訳する作業は、眠りながらも頭の奥で続いていた。

「王都は広い。ここひとつだけでは足りません。街区ごとに小さな“衛生拠点(ステーション)”を置いて、材料と手順を回していく。薬草はわたくしが供給しますが、鍋と布は民と王家が一緒に回さねば続きません」

「つまり、王命だけでも、民の善意だけでも、足りないというわけだな」

「はい。両方が“日課”になること。制度に落とし、惰性にすることです」

 殿下の目元に、おかしそうな笑いが灯る。

「惰性を褒めた者は初めて見た」

「よい惰性は、よい壁になります。嵐のたびに新しい壁を造るより、普段から“そこにある壁”のほうが強いでしょう?」

 殿下は頷き、「壁」という言葉を口の中でころがした。

「……壁を築こう、君と。王都の周りにではなく、人の暮らしの中に」

 その言い方が好きだと、思った。

 午後、文官たちが帳面を携え、列をなした。
 “直轄”が意味するのは、予算と規則と帳簿だ。現場の速度が遅くなる危険でもあり、広げるための脚でもある。

「園丁長、本年度の割当と、緊急備蓄の枠が決まりました。灰三百俵、布二千反、鍋二百口、蜂蜜と黒糖は……」

「蜂蜜は季節で収量が変わります。港の商会と、採れ高に応じた“変動枠”の契約を」

「変動枠……そのような取り決めは例が少なく……」

「例が少ないから病が多いのです。――それから、布は反物だけでなく、端切れも集めて。口覆いに使えます」

 文官の顔がこわばった。書く手が止まる。
 “前例”のない箱が、帳面の行間に重く乗るのが見えた気がする。

 そこへ、白衣の医官たちが現れた。
 先日の公開の場で面目を潰した彼らは、露骨な敵意をひとまず仕舞い、ぎこちない礼を取った。

「園丁長。王命により、我々も協働に加わることとなった」

「ようこそ。――ここでは、白衣も泥にまみれます」

 わたくしが笑うと、彼らはきゅっと表情を固くした。
 だが対立より先に、手を動かすことを選ぶ。それが“直轄”の勢いであり、現場の礼儀だ。

「記録を共有しましょう。症状、発熱経過、補水量、尿の回数、舌の色。医官殿の知見を乗せてくだされば、紙はもっと賢くなります」

「……ふむ。君の紙は、既にかなり賢いがね」

 年長の医官が、どこか負けを認めた声音でつぶやく。
 紙と鍋と草――これらは、意地や矜持よりよほど頑固だ。事実を積み、結果で語るからだ。

 夕刻。園の片隅で、セレスティアが膝掛けをかけて日を浴びていた。
 港で瀕死だった彼女は、ゆっくりと回復に向かっている。頬の陰はまだ濃いが、瞳に湿りではない光が宿っていた。

「……わたくしを、ここに置くのですね」

「日に当てるのも治療です。心も」

 わたくしが水差しを手向けると、彼女は震える指で受け取った。
 沈黙が、半分ほど罪を言葉にしてしまうことを、彼女はよく知っている。だから、ときどきだけ、絞るように言葉を出す。

「あの夜会で、あなたを嘲ったことを、わたくしは一生忘れません」

「忘れなくていいのです。忘れないで、“同じ場所に立たない”でいてください」

 セレスティアは目を伏せ、ほとんど見えないほど小さく頷いた。
 赦しとは忘却ではなく、境界の引き直しだ。彼女が自分の側の線を引き直すのを、わたくしは邪魔しない。
 遠くで女官が手を振り、鍋場から甘い匂いが流れてくる。蜂蜜と黒糖を溶いた補水が湯気を上げ、子どもたちの笑いと重なる。この匂いは、王都の新しい“安堵の匂い”になるだろう。

 夜。
 帳面に今日の記録を移し替え、閉じようとしたとき、扉が軽く叩かれた。
 入ってきたレオンは作業衣のまま、髪に木屑をつけていた。

「手伝ってきた。鍋の棚、補強完了。……それと、門の巡邏(じゅんら)の割り当ても見直した。鍋場の火が増えたせいで、夜間の灯りに人が集まる。混雑すると“口”も増えるが、“手”も増える。声が荒立つ前に“仕事”を渡せるように、順(じゅん)を決めた」

「ありがとう。火と人はよく似ています。燃やし方で害にも薬にもなる」

 レオンは鞘に手を置き、言いよどんだ。
 いつもの、剣先より繊細な躊躇があるときの癖だ。

「――王都の北門から、気になる報せ。隣国の使いが密かに入城した。医官連中と接触した形跡がある。表向きは“医術交流”だが、金が動いている」

 胸の奥を冷たい糸が通り過ぎる。
 隣国。殿下の命を救ったと知られると同時に、国境の向こうでも“薬草令嬢”の名が動かすものが出てくる。善意も、悪意も。

「交流自体は悪くありません。けれど、“帳面の外側”で物が動くのは、病と同じです」

「もう一つ。使いの宿に、妙な木箱。印は穀物だが、重さが合わない。……触らせない。匂いは、鉄と甘い香。……薬か、香りで誤魔化した何かか」

「錠前は?」

「厳重。夜明け前に倉へ移すらしい」

 わたくしは帳面を閉じ、息を整えた。
 医官ギルドの一部、王太子派の残り火、隣国の野心。火は消えず、形を変えて薪を探す。
 ならば、こちらは火の道を決める。風の道を描く。鍋の数を増やすのと同じように、“疑い”にも手順を与える。

「殿下にお伝えしましょう。――公開の場で、交流を“明るみに”する提案を」

「明るみに?」

「はい。かつて“鍋を見せた”ように、今度は“交換する知恵を見せる”。密やかに動く理由を壊します。彼らが真に交流を望むなら乗るでしょうし、望まないなら、それが答えです」

 レオンは目を細め、口角を上げた。

「君は、光で戦う」

「草は光がないと働けませんから」

 翌日。王弟殿下の執務室。
 窓の向こうに、薬草園の畝が規則正しく並び、鍋場の煙が薄く立ちのぼる。殿下は提案書に目を通し、すぐに頷いた。

「公開の“医術共講(シンポシオン)”――良い。王都の医官、薬草師、隣国の医師、皆を同じ場に上げ、実地で手を動かす。知識のやり取りは、民の目の前で」

「観客に民を入れ、質問を受け、自分の手で煮て飲ませる。――口だけの者は、鍋の前で沈みます」

「これなら、裏金は流れにくい。日が当たる場所では、金は熱く、持ちにくい」

 殿下の比喩は、いつも少しだけ詩的だ。
 わたくしは、その詩を実用の形に翻訳する。

「場は鍋場の拡張で足ります。井戸は二本に増やし、布干しを倍に。――それから、口上(アナウンス)係を置いて、今日の“講”が何を示したか、短くまとめて配ります。文字が苦手な人にも読めるよう絵で」

「よし。準備に入ろう」

 殿下は筆を置き、わたくしを見た。
 その視線に、少しだけ迷いが混じる。

「……もう一件。“縁組”の話が、王妃から私に来ている」

 心臓が小さく跳ねた。
 縁組――王家にとっては政(まつりごと)の道具であり、国の針でもある。個の感情より先に、盤面があり、利害がある。
 殿下は、視線を逃がさずに続けた。

「君の名を、紙の上に書きたいと、王妃は言う。だが、私はまだ返答していない。……君の望まぬ形で、君を縛るのは、嫌だ」

 しばらく声が出なかった。
 わたくしは“薬草師”としての答えと、“ひとり”としての答えを探す。鍋の火加減のように、強すぎず、弱すぎず。
 紙はすぐに乾くが、言葉はすぐには乾かない。

「――殿下。わたくしは、薬草園に婚約しています」

 我ながら、奇妙な言い回し。だが殿下は、ふっと笑った。

「嫉妬していいか?」

「ええ。けれど、薬草園は嫉妬深くはありません。手を貸す者は、皆夫(ツレ)です」

 殿下の笑いが伸び、やがて真顔に戻る。

「君が選ぶなら、私は待つ。君が選ばぬなら、私はただ隣で煮る」

 その言葉は、軽くも重くもなく、ただ真っ直ぐに届いた。
 ――選ぶ。草を選んだ日から、選ぶことは労働になった。
 だったら、今日も労働すればいい。鍋をひとつ増やし、壁をひとつ厚くし、言葉をひとつ磨く。
 その先で、紙にインクを落とす“時”が来るのなら、その時に。

「ありがとうございます。今は、鍋の火を絶やさない時です」

「了解した、園丁長」

 “医術共講(シンポシオン)”の告知は、王都中の井戸端と市(いち)と酒場に広がった。
 当日。鍋場の前には長椅子が並び、布の幕が日をやわらげ、人のざわめきが波のように寄せては返す。
 王都医官の一団、隣国の医師団、薬草園の人々、そして民。
 わたくしは口上係の少女に合図し、彼女は鈴を鳴らした。

「本日の講題(テーマ)は“水と手と口”――煮沸、手洗い、補水の仕方を、皆で“見て、して、飲む”日です」

 最初の実演は、隣国の医師が名乗りを上げた。
 整った話しぶり、立派な薬瓶、光る金具。
 ただし、鍋の前に立ったとき、彼の動きはぎこちなかった。
 やがて、王都の若い医官が続く。彼は先日の港での記録を読み込み、紙を手に“正しく”煮ることを示した。
 民が拍手を送る。拍手に力が宿る。
 “場”が、良い癖を学び始めた瞬間だった。

 実演が一巡したあと、質問を受け付ける。
 母親が手を挙げ、子を抱いた老人が声を震わせ、旅人が井戸の地図を指す。
 その合間、ひときわ鋭い眼の隣国医師が、手を上げた。

「園丁長に問う。――“薬草”は、どこまで国境を越える?」

「根は、土の都合で伸びます。けれど、種は風次第。――わたくしは、風の用意はします」

「風?」

「壁を低くする手順のことです。絵と、言葉と、鍋と、手と、笑い。誰の手にも持てる形にすること」

 男は黙り、やがて薄く笑った。
 その笑みに野心が混じることも、誇りが混じることも、どちらも嘘ではないのだろう。

 “講”の終了後、裏手の倉で問題の木箱が見つかった。
 警備が運び出そうとした瞬間、封が内側から緩み、粉の匂いがわずかに漏れた。鉄と甘さ。レオンの言っていたとおりだ。

「下がって! 布で口と鼻を覆って、灰を!」

 号令に従い、灰を薄く撒き、布で床を拭う。粉は湿り、重さを増した。
 木箱の中身は、隣国で重税を逃れるために粗製濫造された“甘味粉末”――砂糖に似せたが、水に溶くと不純物が沈む。消化を荒らし、脱水を招く。
 港の混乱と抱き合わせで売りさばくつもりだったのだ。

 殿下が倉に現れ、無言で箱を見下ろした。
 怒りは短く、命令は簡潔だった。

「没収。――“講”の場で晒せ」

 夕刻、木箱は鍋場の片隅に置かれ、実演が行われた。
 清浄な水に“粉末”を落とすと、見た目は甘い救いに見える。だが、底に黒い泥が沈む。
 子どもが目を丸くし、母が眉をしかめ、老人が乾いた喉を指で押さえる。

「これは“救いの顔”をした毒です。――だから、鍋は見えるところで煮、匙は見えるところで運びましょう」

 拍手が起こり、野次が混じり、笑いが解毒のように広がった。
 隣国の代表は蒼白になり、背後にいた王都の古参商会の男は、風のない場所で汗をかいていた。

 夜。
 “講”の余熱がまだ園に残るなか、わたくしは畝の端にしゃがみ込んだ。
 土はゆっくり冷えていく。けれど根の周りは、まだ温い。
 背後に気配。振り返らずとも、わかる。

「園丁長。……君は今日、また壁を一つ築いたな」

「ええ。低い壁です。子どもでも跨げる高さの」

「それが、遠くまで続く」

 殿下は隣にしゃがみ、土を指でつまんだ。
 指先に残る土の色は、王族の指に似合わない。だが、その色こそ今の王都の色だと思えた。

「――縁組の返事、王妃に伝える。『今はまだ、紙を濡らす時ではない。鍋の湯気で乾くまで待つ』とな」

「……詩的です」

「君の口癖が移ったのだろう」

 わたくしは笑い、土に指を差し入れて、細い根に触れた。
 根は驚くほど繊細で、しかし、驚くほど粘り強い。
 王太子の陰謀は形を変え、商会の欲は姿を変え、隣国の野心は風向きを窺う。
 それでも、壁を低く、長く、あらゆる暮らしの中に築いていけば、嵐は足を取られる。
 そのために、わたくしは“園丁長”になったのだ。

「殿下。明日、薬草園の“種箱”を作ります。各街区に配る用です。紙と、絵と、少しの種。――風を増やす箱です」

「いい名だ。種箱。……君がいる限り、王都はきっと芽吹き続ける」

「殿下が湯気を守ってくだされば」

 夜気が降り、鍋場の灯が一つ、また一つと落ちる。
 遠くで、布を取り込む音。井戸の蓋が閉まる音。子どもが欠伸をする声。
 王都は、少しずつ、“よい惰性”を覚えはじめている。
 紙に刻んだ線が、人の手と体に移り、習いとなっていく。
 それは、物語が制度に変わる瞬間だ。

 わたくしは立ち上がり、土を払った。
 明日の鍋のために、今夜の火を小さく残す。
 草は夜でも、根を伸ばす。
 だから人も、夜に、少しずつ根を張る。

「――さあ、明日も鍋から始めましょう」

 自分に向けた小さな合図を、王都の闇がやわらかく受け取った。