仮設小屋の空気は、熱と薬草の匂いに満ちていた。
 寝台に横たわるセレスティアは、かつての華やかな姿を失い、黒斑に覆われた肌と乾いた唇で呻いている。

「……水を……」

 掠れた声に、わたくしは木匙を手に取った。
 だが背後から、ざわめきが起こる。

「リリアーナ様! その方は……あの時、殿下と共にあなたを――」
「助けることはありません! 見捨てても……」

 村人も兵も、口々に言う。彼女が婚約破棄の場でわたくしを嘲ったことを、皆が覚えていたのだ。

 わたくしは深く息を吸い、匙を水に浸す。
「草は敵も味方も選びません。病は身分を見ず、疫は憎しみを越えて広がります。ならば、わたくしもまた選びません」

 静寂の中で、わたくしは匙をセレスティアの唇へ運んだ。
 彼女は震える指でわたくしの手を掴み、かすかな声で呟く。
「……なぜ……」

「救える命を救う。それが薬草師だからです」

 夜更け。セレスティアの熱はわずかに下がり、黒斑も少し薄れた。
 彼女の傍らに立つと、民衆の視線が集まる。誰もが無言のまま、わたくしの行いを目撃していた。

 やがて、一人の兵が声を上げた。
「――あれが本物の強さだ。嘲笑を受けても、なお救いの手を差し伸べる……」

 囁きは波となり、広場に広がっていく。
 “薬草令嬢”の名が、憎しみではなく慈悲の象徴として刻まれ始めていた。

 その場に王太子が姿を現したのは、夜が明ける頃だった。
 外套に身を包み、鋭い眼差しを隠そうともせずに。

「リリアーナ……! なぜだ……なぜ、あんな女まで救う!」

「理由は先ほど言いました。病は選ばない。だからわたくしも選ばない」

「そんな理屈……!」

 彼は言葉を詰まらせ、振り上げた拳を下ろせないまま立ち尽くした。
 その背後では、かつての寵愛を受けたセレスティアが眠りながら浅い呼吸をしている。

「……お前は、私を辱め続ける気か」
 王太子の声は震えていた。
 だが、わたくしは静かに微笑んだ。

「辱めているのは、ご自分の行いですわ」

 その瞬間、王弟殿下が姿を現し、王太子の前に立った。
「兄上。これ以上リリアーナを侮辱すれば、王家の恥はさらに深まるだけだ」

「お前まで……!」

「彼女は命を救った。私はその証人だ。兄上、もはや後退の道しか残っていない」

 王太子の顔から血の気が引き、力なく後ずさる。
 その様子を、人々は静かに、しかし確かに見ていた。

 夜明けの光が港を照らした。
 セレスティアの寝台の横で、わたくしは小さく呟く。

「……婚約破棄された令嬢は、ただの“ざまぁ”では終わらない。
 救うことで、過去を越えていきますわ」

 港の波が静かに打ち寄せ、草の芽吹きのような未来の音を響かせていた。