東の港町に、黒い帆が戻ったのは曇天の午後だった。
 船員たちは憔悴し、桟橋に降り立った者の幾人かはその場で倒れた。咳と吐き気、皮膚に浮かぶ暗い斑点。港の空気は瞬く間に不安で満たされる。

「――疫病だ!」

 誰かが叫び、人々は蜘蛛の子を散らすように逃げた。

 数日後。王城の会議室。
 重苦しい空気の中、医官たちが一堂に会していた。だが彼らは顔を見合わせるばかりで、何ひとつ有効な策を示せない。

「船乗りどもはすでに隔離しました。しかし治療法は見つからず……」
「水か、食糧か、あるいは風か。原因すら断定できぬ」
「このままでは王都へ広がるのも時間の問題です」

 議場にざわめきが広がる。

 そのとき、王弟殿下が立ち上がった。
「ならば、リリアーナを呼べ」

 ざわめきがさらに大きくなる。
「し、しかし……! 彼女は追放された令嬢。いまは庶民と同じ立場。王都の威信を――」

「威信で病が止まるか!」

 殿下の怒声が会議室を揺るがした。
「私は彼女に救われた! 命を繋いだのは、草と鍋だ! 王都がまだ愚かな矜持に縛られるというのなら、滅びを選ぶがいい!」

 その言葉に、誰も反論できなかった。

 同じ頃、わたくしは薬草園で芽吹いた草を摘んでいた。
 そこへ駆け込んできたのは、泥にまみれた従者。
「リリアーナ様! 港から疫病が……殿下が、あなたをお呼びです!」

 胸が高鳴る。
 ――来た。鍋と草が、再び試される時。

 港町の仮設小屋。
 咳き込む船乗りの傍らに膝をつき、わたくしは観察を始めた。皮膚の斑点は赤ではなく、黒に近い。熱は高く、意識は朦朧。水を吐き、喉を焼かれるように渇いている。

「……この症状、ただの熱病ではありませんわ」

 わたくしは周囲を見回し、布と灰、そして香り草を求めた。
「水を煮沸して。必ず。黒斑には清めの煎液を。……そして隔離を徹底。病の名を恐れるより、まずは道を断つことです!」

 戸惑う医官たちをよそに、兵と町人が動いた。鍋に火がともり、灰が撒かれ、布が張られる。
 やがて、わたくしの声に従う人の輪が港を取り囲んだ。

 夜。仮設小屋の外で、レオンが低く言った。
「医官たちは完全に黙ったな。誰も具体的な手を示せず、お前の指示を待つばかりだ」

「草は弱い。けれど弱いからこそ、使う者の工夫で強くなるのです」

 わたくしは手を握りしめ、炎を見つめた。
 ――ここで結果を出せば、もはや誰も薬草を嘲ることはできない。
 そしてそれは、王太子が望んだ“ざまぁ”の舞台を、逆にわたくしのものへ変えることになる。

 そのとき、小屋の奥から声がした。
「……助けて……リリアーナ様……」

 かすかな声の主を見て、胸が凍った。
 そこに横たわっていたのは――かつて、王都でわたくしを嘲り笑った令嬢セレスティア。
 王太子の傍らで婚約破棄をあおり、わたくしを追い落とした張本人だった。

「あなた……どうしてここに……?」

 セレスティアの唇が震え、黒い斑点に覆われた手が伸びる。
「港の舞踏会に……招かれて……人混みで……」

 わたくしは深く息を吸い、袋から薬草を取り出した。
「いいでしょう。あなたもまた、救いますわ。草は、敵も味方も選びませんから」

 わたくしの言葉に、小屋の中が静まり返った。
 ――ここから始まるのは、ただの治療ではない。
 それは、王都そのものを揺るがす第二のざまぁへの序章だった。