週明けの月曜、教室の空気は、曇天の重さをそのまま閉じ込めたみたいに低かった。廊下の掲示板に貼り出された模試の結果の紙は、湿った風で端がわずかに持ち上がり、ホッチキスの針の銀が時々光る。人だかりの手前から、ため息と安堵が混ざる音が漏れてくる。私は背伸びをせず、少し離れた場所から紙全体を見た。数字の列より先に、目は名前を探す。――蓮。黒いインクのふた文字が、確かにそこにある。点数でも偏差値でもないものが、私の胸の真ん中で音を立てた。名前は存在の証明。紙の白に刺さる黒の形だけで、人は今日を乗り切れることがある。

「どうだった?」と瑠衣が肩をつつく。私は「まあまあ」と笑って見せて、紙から視線を外した。教室に戻る途中、階段の踊り場で白い光が床を薄く覆っている。窓の外では、入道雲がひとつ、ゆっくり背を伸ばしていた。雲のふちが、別の夏から切り出して貼り付けたみたいにくっきりしている。私は階段の内側に寄って降りた。内側。右側。――覚えたばかりの小さなルールは、体に馴染むとき、言葉を離れて筋肉の仕事になる。

 放課後、瑠衣が机に両手を置いて、わずかに身を乗り出した。いつもより瞳の色が明るい。「ねえ、結衣はどうしたいの?」

「どう、って?」

「この夏、何を選ぶの?」

 直球。私は一秒、二秒、言葉を失い、窓の外の雲を見た。選ぶ――。蓮を守るために沈黙するのか、真実を告げて未来を変えようとするのか。天秤の針は、ここ数日ずっと震え続けている。そこに、胸の奥で別の選択肢が形を得る。“もう一度、彼に恋をする”。過去の延長ではなく、今この夏の彼に、もう一度。あの夜の橋の上で小指が覚えた温度に、今の私の掌を重ね直すみたいに。

「……選ぶよ」と私は言った。「ちゃんと」

「なにを?」

「いま、のほう」

 曖昧な返事に聞こえるだろうか。けれど私の中では、音を立てて何かが定位置にはまった。瑠衣は「ふーん」とだけ言って、笑った。「じゃあ、アイスは今日もバニラやね」

「うん。今日も」

 昇降口で上履きを脱いでいると、蓮が横に並んだ。かかとのゴムが床を擦る音が、互い違いに重なる。

「今度の金曜、海、行かん?」と蓮。

「行く」と私は即答した。返事が、思ったより先に口から出て、私自身が驚いた。選ぶ行為が言葉になる速度。返事は、炭酸みたいに喉を抜けて、胸を軽くした。コンビニで買ったペットボトルの炭酸水を開け、ひと口。気泡が舌の上で弾ける感触は、迷いの形をたやすく崩してくれる。

 その夜、机の上に小さな山ができた。日焼け止め。タオル。絆創膏。カメラ。設定を見直し、露出とホワイトバランスを固定にするか、オートに任せるかで少しだけ迷う。迷いの時間は短くていい。母がノックもそこそこに部屋に入ってきた。珍しく、口元がやわらかい。

「楽しそうね」

「うん」と私は言う。多くを語らないほうが、伝わることがある。母は視線を机の上に滑らせ、少し考える間を入れてから言った。

「お弁当、多めに作ろうか」

「……お願いして、いい?」

「もちろん」

 そこで、二人の間に微小な回復が生まれた。目には見えないけれど、空気の密度が少しだけ変わる。食卓で交わす言葉の数は、まだ増えない。それでも、冷蔵庫の中に「次のためのもの」が増えるだけで、家は未来の気配を少し取り戻す。

 当日、まだ薄暗い駅のホームに立つ。始発に近い電車が入ってきて、ドアが開くと冷んやりした空気が足首にまとわりついた。車窓の景色は、走り出してすぐ水色にほどけ、遠くの山の影が紙の端みたいに薄くなる。眠っている町を抜け、トンネルを越え、突然、視界がひらける。光が一段階強くなり、ホームに降りると潮の匂いが胸を埋めた。鼻の奥に塩。たしかに、海。

「やっぱ本物は違うな」と蓮ははしゃぎ、私は笑う。砂浜へ出る。靴を脱ぐ。砂は朝から体温を持っていて、足裏に細かな粒が貼りつく。波打ち際を走ると、足首にかかる水が冷たく、脛の産毛が一瞬で逆立つ。そういう生理が、今日の「生」をはっきりさせる。遠くで、カモメが二声、短く鳴いた。日射しはまだ鋭すぎず、風は塩を運ぶ要領をよく知っている。

 午前、私たちは写真を撮り合った。波打ち際で蓮が私を手招きして、「結衣、こっち見て」と言う。砂に足を取られないように歩く間の数歩のぎこちなさも含めて、今日の私だ。蓮がシャッターを切る。画面の中の私は、去年より少し痩せ、目元に影がある。それでも、笑っている。笑っていることが、演技でないと分かるまで、ほんの半歩分、時間がかかった。

「いい」と蓮は満足げに頷き、「応募しよ」と続ける。夏フォト募集。私は「うん」と言い、撮った写真のいくつかに小さな星をつけた。去年の私に勝てるかはわからない。でも、今の私のほうが、今日の海と仲良しだ。

 昼、堤防に腰を下ろし、弁当を広げる。母の唐揚げ、卵焼き、きんぴらの隙間に、昨夜握ったおにぎり。梅と昆布。蓮がひと口食べるたびに「うまい」と言う。私は笑って、「それ、今日で三回目」と数える。回数を記録するのが好きだ。記録は、あとから私を助ける。私が感じた温度や塩気の正体が、単語を通してもう一度立ち上がる。

「海来ると、飯なんでも特別やな」と蓮。「唐揚げ、海風で味変してる」

「科学的に説明して」と私はからかう。

「……うまい、という科学や」

「了解」

 午後、古い灯台へ上がる階段は、途中から段差が不規則になり、息が上がった。ふくらはぎが張る。同じテンポで踏み出し続けるのが難しい。踊り場で立ち止まったとき、蓮の背に手を軽く当てられた。押すのでも引くのでもない、ただ「ここ」という位置を指し示す触れ方。背中越しに伝わる体温が、未来の寒さを一瞬追い払う。上まで行くと、風は方言みたいに強まり、それでも言葉として通じた。海は遠くと近くを同時に見せる。水平線は境界でありながら、幅を持つ。

 夕方。海に沈む太陽が、雲を一枚ずつ薄く透かし、オレンジの滲みを作る。波頭にだけ光が乗り、崩れては消える。蓮が「なあ、結衣」と切り出した。視線は逸らさない。

「俺、好きだよ。ずっと」

 去年も聞いた言葉。でも今日のそれは、今の私に向けられている。私は喉の奥がきゅっと狭くなるのを自覚しながら、震える声で「私も」と返す。「もう一回、恋してる」

 蓮は一瞬だけ驚いた顔をして、それから笑った。「じゃあ二回目の記念、写真撮るか」並んで自撮り。背後に夕陽。二人の頭上を、タイミングよくカモメが横切る。シャッター音のあと、画面に薄いノイズが走った気がして、すぐ消えた。気のせい、と言い切れないくらい短く、記憶には残るくらい鮮明に。

 帰り道、暗くなる前に駅へ向かい、電車に乗る。車内の蛍光灯は海から離れるにつれて白さを増し、窓に映る私たちを少しだけ冷たくする。蓮は「眠い」と言って肩に頭を預け、私はその重みを受けている肩の筋肉だけ、少しだけ背筋を伸ばす。背筋を伸ばすという小さな努力は、未来のための準備に似ている。小さく、でも確か。

 夜、部屋に戻って共通日記を開く。ページの上で、今日の海の匂いは急速に薄くなる。その代わり、紙の匂いが強くなる。私は「二回目の告白」と書き出し、続ける。堤防の弁当のこと。灯台の階段。夕陽のノイズ。書き終えたとき、ページの下に文字が現れた。「ありがとう。二回目も、一回目と同じくらい好き」

 私は「違うよ、もっと」と書き足す。鉛筆の芯がわずかに強く紙に沈む。文字と文字が重なって、紙が少しだけ厚くなる錯覚がする。厚みは、約束の手触りに似ている。私はスマホを手に取り、撮るのはやめた。写真に写らない文字は、写らないままでいい夜がある。写らないという事実が、ページの内側の誰かを軽く守る。

 手帳も開く。「7/31=境界」の欄に、小さく点を置く。今日の海は、境界から遠い。それでも、境界は幅を持つ。その幅の内側で、私は今日、ふたつ選んだ。守るための沈黙と、今を生きる恋。二つの選択は矛盾しない。むしろ、お互いを強くする。沈黙があるから、笑顔が軽くなる。恋があるから、沈黙は容器になる。容器には「守る」というラベルが貼れる。

 窓を開ける。夜風が入ってきて、カーテンの裾が軽く脛に触れる。遠くで、遅れて鳴る雷の低い響き。風鈴が一度だけ、鳴る。音はすぐに消え、消えたあとに残る静けさが、今日の全てのやりとりを受け止める椅子になる。私はその椅子に腰掛けるみたいに、胸に手を置いた。

「ありがとう」

 囁いてから、呼吸を数える。ひとつ、ふたつ。昨日より、わずかに正確に。耳の奥で、二つの鼓動がしばらくのあいだ重なっていた。私と、彼。姿は見えないのに、今は同じ速度で生きている。未来の影に、今の光を重ねる。光は影を消さない。ただ、輪郭をやわらかくする。やわらかくなった輪郭なら、怖れないで触れる。私はページを静かに閉じ、窓辺の夜を深く吸い込んだ。潮の残り香と、街路樹の湿った匂い。最善はたぶん小さくて、でも確かにここにある。そう信じることから、次の朝が始まる。