台所の窓に、曇り空が薄く貼りついている。朝の湯気は低い位置で丸まり、流し台の金属に指先の冷たさを戻す。炊飯器の蓋を開けると、立ちのぼる湯気の白がいったん視界を埋め、すぐに消える。昨夜、何度も握っては崩したおにぎりの練習の続きを、私は静かに再開した。水で濡らした掌に塩を軽くつけ、米の熱さを測る。梅干しは母がいつものように小皿に三つ、昆布の佃煮は小さなタッパーに。梅の赤は、曇天の下でもきちんと赤い。
母が鍋の火を止め、「もうひとつの箱は?」と訊く。私は用意しておいた弁当箱を指さす。昨夜から、冷蔵庫の一番上で眠らせておいた自作のほう。梅と昆布。二つの味だけ。足りないくらいが、今日はちょうどいい。
「重くない?」と母。私は「平気」と笑う。平気という言葉は、朝に使うと嘘の気配が少し薄まる。玄関で靴を履く。弁当箱が二つ、バッグの底で寄り添う音を立てた。
昇降口のざわめきは、色つきの霧みたいに胸に入ってくる。濡れた靴底、砂埃、ワックスの甘さ。人の流れに沿いながら、私はバッグの持ち手をぎゅっと握る。――不意に、胸が鳴った。心拍が一拍、未来の速さで跳ねる。跳ねたあと、指先に遅れて血が届く。私は深く一度だけ息を吸い、呼吸の形を整える。整えながら、弁当箱の重みを確かめる。確かな重さは、今日の私が、今日の私であるための証拠のひとつだ。
中庭のベンチは、夏の朝の色を知っている。木陰の冷たさ、草の匂い、遠くの水撒きの音。私は弁当を二つ、膝の上で開けた。白いご飯の上に、梅の赤が小さな島を作る。昆布はその隣で、海のかけらみたいに光の筋を抱える。蓮はいつもの癖で、箸を持ちあげてから一拍、匂いを嗅ぐみたいに笑って、「うまい」と言った。あっさり、迷いのない声。
「毎日は無理」と私は顔を逸らして言う。頬に熱が集まる。
「毎日じゃなくてええ」と蓮。「たまにがええ」
会話は軽い。軽さは、落ちないように手元で支えを入れている種類の軽さだ。私は弁当箱の蓋の内側の水滴を親指で拭い取りながら、心の中で針を一本ずつ通す。日常という布の目は、緩む。緩むたび、私は細い糸で縫い直す。道では右側を歩く。階段では内側に寄る。横断歩道では、青の点滅の前でも走らない。帰宅したらメッセージを送る。行き先を短く共有する。小さな手順をひとつずつ。安全のための微修正は、やがて愛情表現にすり替わっていく。すり替わったあとのそれは、もともとそこにあったかのように落ち着く。
「これ、さ」と蓮が梅をひとかじりして言う。「種、あとで飛ばして競争しよ」
「だめ」と私は笑う。「内側に向けて飛ばすの、禁止」
「なんやそのルール」
「私の町内ルール。今日は特に厳しい」
「はは」と蓮は笑い、種を丁寧に紙に包んだ。丁寧、ということばの音が、薄い風鈴のように耳の奥で鳴る。
五限が終わり、教室の空気が少し柔らかくなる。自習の時間、瑠衣が机に肘をのせて近づき、小声で囁く。「最近、結衣の顔色、良い」
驚きでも疑問でもない、ただの観察の言い方だった。私は喉の奥まで出かかった言葉――また、好きになってる――を飲み込み、「ちゃんと食べてるから」と笑って返す。食べること=生きること。昼に口の中を満たした米の粒の記憶が、今、体のどこかで静かに灯る。エネルギーという無味無臭のものが、ひとりの人の色に染まる瞬間がある。弁当の塩気と、昆布の甘さの後味が、午後の眠気を違う種類に変えてくれる。
廊下を歩いていると、掲示板の前に人だかりができていた。写真部の顧問が、夏フォト募集のポスターを貼っている。テーマは「いまの夏」。応募はスマホ写真でも可。優秀作は校内誌に掲載。蓮が「出してみっか」と言う。私たちは廊下の端に寄って、スマホのフォルダを覗く。去年の花火。赤や白の輪が夜の黒に浮かび、知らない手の影が端に写り込んでいる。神社の階段。石の段鼻の磨り減り。海の遠景。水平線の向こうの光の諧調。どれも「前」の夏だ。
「今夏の写真で勝負しよう」と私は言う。「去年に勝てるやつ」
「勝てるやつか。ハードル上げはったな」
「ハードルが高いほうが、あとで嬉しい」
「うん、それはそうやな」と蓮は笑う。笑いの影が、彼の頬に薄く落ちる。影はすぐ消えるが、私の内側だけに残像を残す。残像は、次の選択のときにこっそり手を上げる。
昇降口を出た途端、遠くで救急車のサイレンが鳴った。空の色を薄く変える音。私の体は反射で固まり、足が止まる。胸の奥の古い記憶が、一瞬だけ息を奪う。蓮はすぐに気づく。何も言わず、手を取る。言葉ではなく、皮膚で「ここだよ」と知らせる握り方。骨の上に骨を重ねる角度が、正確だ。私の呼吸が、ようやく出入り口を思い出す。深呼吸を三回。鼻から吸って、口から吐く。耳を澄ませる。サイレンは遠ざかる。波が引くように、音が薄くなる。薄くなるにつれ、私の心臓が蓮の歩幅に同調して落ち着いていくのを、体の内側で見た。――私の心臓は、私ひとりのものではなく、いま少しだけ、二人の速度を持っている。
「たい焼き、食べる?」と蓮がいつもの声で言う。私はうなずく。簡単な質問を、簡単に選ぶことができるとき、人は生き延びることがうまくなる。
夕方、河川敷。ベンチに並んで座る。川面は薄い灰色で、風が撫でるたび筋が走る。向こう岸の草むらでは小さな虫が鳴き、空はオレンジの端に群青の予告を貼る。蓮が「結衣、さ」と言い、視線を逸らさないまま続けた。「お前、前より、優しくなった?」
私は笑って首を振る。「ううん、ただの“臆病”」
「臆病のほうが、約束を守れる」と蓮。「逃げへんで考えるから」
「逃げないときも、ある。逃げたいときも、ある」
「それも含めて、守る、や」と蓮は草むらに指を伸ばし、四つ葉を探し始めた。しばらくして、「あ」と小さく声を出し、短い茎の先に四枚の葉をつけた小さな緑を摘んで、私に渡す。四つ葉は、ミラクルの記号、というより今日は「小さな祈り」だ。祈りの形は具体で、軽い。軽いものは、風に負けないことがある。
「ありがと」と私は四つ葉をノートに挟む場所を想像しながら言う。「圧着しすぎないように」
「圧着?」
「葉っぱの形、残したい」
「なるほどな」と蓮は笑う。笑いの音が、夕焼けの中で薄く光った。
帰り道、私たちは今日の写真を撮った。河川敷の端、橋のふもと、ベンチの影。スマホの画面に並ぶ小さな矩形は、薄い熱を持ち、「今日」という名の保存を繰り返す。保存の音はしない。音がしない記録のほうが、長く残る。
夜。部屋に戻ると、窓の外で風鈴が一度だけ鳴った。鳴って、すぐに黙る。机に座り、共通日記を開く。今日の欄に、箇条書きで手順を書く。
――道では右側。
――階段は内側。
――横断歩道は走らない。
――帰宅連絡を入れる。
――暗い道を避ける。
――自転車のライト確認。
――ヘルメット(※忘れない)。
書きながら、自分の字が少しずつ落ち着いていくのがわかった。それらの下に、私は一行を付け足す。「守るためのルール=一緒に生きるためのルール」。書き終えて、ペン先を上に上げた瞬間、すぐ下に細字が現れた。「賛成」。これまでよりも、わずかに太く、確かな筆圧。紙の繊維が、その重みを記憶している。私はスマホを取り、反射的に写真を撮る。写真には、やはり私の行しか写らない。写らない、という事実が、逆に写っているものの存在を濃くする。
ページに指先を置く。紙は体温で柔らかくなる。「賛成」という二文字が、私の掌に目に見えない凹みを作る。凹みは、安心の形に似ている。安心は、約束とは少し違う。約束が未来に向かう言葉なのに対して、安心は今日の椅子だ。座り心地は、日ごとに変わる。私はその椅子の高さを、今日に合わせる。
ふと、机の隅に挟んだ四つ葉のことを思い出す。ノートのページの間に、薄い紙を一枚挟んで、重ねる。圧着しすぎないように、という言葉を自分で守る。守る、の練習は、こういう小さなところから始めると、体に馴染む。
風呂上がり、髪をタオルに包んだまま、私は手帳を開いた。「7/31=境界」に、さらに小さな文字で加える。「自転車/明るい道/人の多いほう/帰宅連絡/橋は願掛けだけ」。書くたび、鉛筆の芯がわずかに減る。減る音はしない。音のしない減少は、長いあいだ人を支える。
布団に横になり、電気を消す。窓の外の暗さは一定ではなく、遠くの車のライトが時々壁に薄い四角を置いていく。胸に手を置く。指の下で、律動の強い鼓動がいる。耳を近づけると、二つのテンポが重なるように聞こえた。ひとつは私。もうひとつは、今日、河川敷で並んで座っていた彼。姿は見えないけれど、いまは同じ速度で生きている。速度が同じという事実だけで、世界の端がほんの少しだけ丸くなる。
「ありがとう」と、小さく囁く。誰に、ではない。ありがとうという言葉の中に、今日の全ての針目がゆっくり沈む。返事の代わりに、風鈴が一回、鳴った。薄い音。音はすぐ消える。消えたあと、部屋には、静けさの正確な輪郭が残る。
目を閉じる。ひとつ、ふたつ。呼吸を数える。昨日より、すこしだけ正確に。私の心臓は、変わった。臆病、と呼んだその変化は、恐れから始まって、守りに変わり、いま「繋ぐ」という新しい名前を得た。変わらない笑顔の隣で、変わった心臓が拍つ。拍つたび、今日の細い糸が、見えない青で結び直される。青は、祠のしめ縄の結び目に似ている。強く結びすぎない、けれどほどけない、ちょうどよさ。私はその結び目の手前で、そっと手を離した。離した指先に、安心の形の小さな凹みだけを残して。
遠くで雷鳴が低く転がり、やがて途切れる。部屋は真っ暗で、夜はやわらかい。私は今日のルールを胸の内側に並べ直し、眠りに滑り込む。明日も、右側。明日も、内側。明日も、連絡。そういう小さなことだけで、未来は、ほんの少し撓む。それでいい。それがいい。撓んだぶんだけ、二人の速度は並ぶ。風鈴は黙り、秒針は進む。進む音は聞こえないが、私は確かに、進んでいる。
母が鍋の火を止め、「もうひとつの箱は?」と訊く。私は用意しておいた弁当箱を指さす。昨夜から、冷蔵庫の一番上で眠らせておいた自作のほう。梅と昆布。二つの味だけ。足りないくらいが、今日はちょうどいい。
「重くない?」と母。私は「平気」と笑う。平気という言葉は、朝に使うと嘘の気配が少し薄まる。玄関で靴を履く。弁当箱が二つ、バッグの底で寄り添う音を立てた。
昇降口のざわめきは、色つきの霧みたいに胸に入ってくる。濡れた靴底、砂埃、ワックスの甘さ。人の流れに沿いながら、私はバッグの持ち手をぎゅっと握る。――不意に、胸が鳴った。心拍が一拍、未来の速さで跳ねる。跳ねたあと、指先に遅れて血が届く。私は深く一度だけ息を吸い、呼吸の形を整える。整えながら、弁当箱の重みを確かめる。確かな重さは、今日の私が、今日の私であるための証拠のひとつだ。
中庭のベンチは、夏の朝の色を知っている。木陰の冷たさ、草の匂い、遠くの水撒きの音。私は弁当を二つ、膝の上で開けた。白いご飯の上に、梅の赤が小さな島を作る。昆布はその隣で、海のかけらみたいに光の筋を抱える。蓮はいつもの癖で、箸を持ちあげてから一拍、匂いを嗅ぐみたいに笑って、「うまい」と言った。あっさり、迷いのない声。
「毎日は無理」と私は顔を逸らして言う。頬に熱が集まる。
「毎日じゃなくてええ」と蓮。「たまにがええ」
会話は軽い。軽さは、落ちないように手元で支えを入れている種類の軽さだ。私は弁当箱の蓋の内側の水滴を親指で拭い取りながら、心の中で針を一本ずつ通す。日常という布の目は、緩む。緩むたび、私は細い糸で縫い直す。道では右側を歩く。階段では内側に寄る。横断歩道では、青の点滅の前でも走らない。帰宅したらメッセージを送る。行き先を短く共有する。小さな手順をひとつずつ。安全のための微修正は、やがて愛情表現にすり替わっていく。すり替わったあとのそれは、もともとそこにあったかのように落ち着く。
「これ、さ」と蓮が梅をひとかじりして言う。「種、あとで飛ばして競争しよ」
「だめ」と私は笑う。「内側に向けて飛ばすの、禁止」
「なんやそのルール」
「私の町内ルール。今日は特に厳しい」
「はは」と蓮は笑い、種を丁寧に紙に包んだ。丁寧、ということばの音が、薄い風鈴のように耳の奥で鳴る。
五限が終わり、教室の空気が少し柔らかくなる。自習の時間、瑠衣が机に肘をのせて近づき、小声で囁く。「最近、結衣の顔色、良い」
驚きでも疑問でもない、ただの観察の言い方だった。私は喉の奥まで出かかった言葉――また、好きになってる――を飲み込み、「ちゃんと食べてるから」と笑って返す。食べること=生きること。昼に口の中を満たした米の粒の記憶が、今、体のどこかで静かに灯る。エネルギーという無味無臭のものが、ひとりの人の色に染まる瞬間がある。弁当の塩気と、昆布の甘さの後味が、午後の眠気を違う種類に変えてくれる。
廊下を歩いていると、掲示板の前に人だかりができていた。写真部の顧問が、夏フォト募集のポスターを貼っている。テーマは「いまの夏」。応募はスマホ写真でも可。優秀作は校内誌に掲載。蓮が「出してみっか」と言う。私たちは廊下の端に寄って、スマホのフォルダを覗く。去年の花火。赤や白の輪が夜の黒に浮かび、知らない手の影が端に写り込んでいる。神社の階段。石の段鼻の磨り減り。海の遠景。水平線の向こうの光の諧調。どれも「前」の夏だ。
「今夏の写真で勝負しよう」と私は言う。「去年に勝てるやつ」
「勝てるやつか。ハードル上げはったな」
「ハードルが高いほうが、あとで嬉しい」
「うん、それはそうやな」と蓮は笑う。笑いの影が、彼の頬に薄く落ちる。影はすぐ消えるが、私の内側だけに残像を残す。残像は、次の選択のときにこっそり手を上げる。
昇降口を出た途端、遠くで救急車のサイレンが鳴った。空の色を薄く変える音。私の体は反射で固まり、足が止まる。胸の奥の古い記憶が、一瞬だけ息を奪う。蓮はすぐに気づく。何も言わず、手を取る。言葉ではなく、皮膚で「ここだよ」と知らせる握り方。骨の上に骨を重ねる角度が、正確だ。私の呼吸が、ようやく出入り口を思い出す。深呼吸を三回。鼻から吸って、口から吐く。耳を澄ませる。サイレンは遠ざかる。波が引くように、音が薄くなる。薄くなるにつれ、私の心臓が蓮の歩幅に同調して落ち着いていくのを、体の内側で見た。――私の心臓は、私ひとりのものではなく、いま少しだけ、二人の速度を持っている。
「たい焼き、食べる?」と蓮がいつもの声で言う。私はうなずく。簡単な質問を、簡単に選ぶことができるとき、人は生き延びることがうまくなる。
夕方、河川敷。ベンチに並んで座る。川面は薄い灰色で、風が撫でるたび筋が走る。向こう岸の草むらでは小さな虫が鳴き、空はオレンジの端に群青の予告を貼る。蓮が「結衣、さ」と言い、視線を逸らさないまま続けた。「お前、前より、優しくなった?」
私は笑って首を振る。「ううん、ただの“臆病”」
「臆病のほうが、約束を守れる」と蓮。「逃げへんで考えるから」
「逃げないときも、ある。逃げたいときも、ある」
「それも含めて、守る、や」と蓮は草むらに指を伸ばし、四つ葉を探し始めた。しばらくして、「あ」と小さく声を出し、短い茎の先に四枚の葉をつけた小さな緑を摘んで、私に渡す。四つ葉は、ミラクルの記号、というより今日は「小さな祈り」だ。祈りの形は具体で、軽い。軽いものは、風に負けないことがある。
「ありがと」と私は四つ葉をノートに挟む場所を想像しながら言う。「圧着しすぎないように」
「圧着?」
「葉っぱの形、残したい」
「なるほどな」と蓮は笑う。笑いの音が、夕焼けの中で薄く光った。
帰り道、私たちは今日の写真を撮った。河川敷の端、橋のふもと、ベンチの影。スマホの画面に並ぶ小さな矩形は、薄い熱を持ち、「今日」という名の保存を繰り返す。保存の音はしない。音がしない記録のほうが、長く残る。
夜。部屋に戻ると、窓の外で風鈴が一度だけ鳴った。鳴って、すぐに黙る。机に座り、共通日記を開く。今日の欄に、箇条書きで手順を書く。
――道では右側。
――階段は内側。
――横断歩道は走らない。
――帰宅連絡を入れる。
――暗い道を避ける。
――自転車のライト確認。
――ヘルメット(※忘れない)。
書きながら、自分の字が少しずつ落ち着いていくのがわかった。それらの下に、私は一行を付け足す。「守るためのルール=一緒に生きるためのルール」。書き終えて、ペン先を上に上げた瞬間、すぐ下に細字が現れた。「賛成」。これまでよりも、わずかに太く、確かな筆圧。紙の繊維が、その重みを記憶している。私はスマホを取り、反射的に写真を撮る。写真には、やはり私の行しか写らない。写らない、という事実が、逆に写っているものの存在を濃くする。
ページに指先を置く。紙は体温で柔らかくなる。「賛成」という二文字が、私の掌に目に見えない凹みを作る。凹みは、安心の形に似ている。安心は、約束とは少し違う。約束が未来に向かう言葉なのに対して、安心は今日の椅子だ。座り心地は、日ごとに変わる。私はその椅子の高さを、今日に合わせる。
ふと、机の隅に挟んだ四つ葉のことを思い出す。ノートのページの間に、薄い紙を一枚挟んで、重ねる。圧着しすぎないように、という言葉を自分で守る。守る、の練習は、こういう小さなところから始めると、体に馴染む。
風呂上がり、髪をタオルに包んだまま、私は手帳を開いた。「7/31=境界」に、さらに小さな文字で加える。「自転車/明るい道/人の多いほう/帰宅連絡/橋は願掛けだけ」。書くたび、鉛筆の芯がわずかに減る。減る音はしない。音のしない減少は、長いあいだ人を支える。
布団に横になり、電気を消す。窓の外の暗さは一定ではなく、遠くの車のライトが時々壁に薄い四角を置いていく。胸に手を置く。指の下で、律動の強い鼓動がいる。耳を近づけると、二つのテンポが重なるように聞こえた。ひとつは私。もうひとつは、今日、河川敷で並んで座っていた彼。姿は見えないけれど、いまは同じ速度で生きている。速度が同じという事実だけで、世界の端がほんの少しだけ丸くなる。
「ありがとう」と、小さく囁く。誰に、ではない。ありがとうという言葉の中に、今日の全ての針目がゆっくり沈む。返事の代わりに、風鈴が一回、鳴った。薄い音。音はすぐ消える。消えたあと、部屋には、静けさの正確な輪郭が残る。
目を閉じる。ひとつ、ふたつ。呼吸を数える。昨日より、すこしだけ正確に。私の心臓は、変わった。臆病、と呼んだその変化は、恐れから始まって、守りに変わり、いま「繋ぐ」という新しい名前を得た。変わらない笑顔の隣で、変わった心臓が拍つ。拍つたび、今日の細い糸が、見えない青で結び直される。青は、祠のしめ縄の結び目に似ている。強く結びすぎない、けれどほどけない、ちょうどよさ。私はその結び目の手前で、そっと手を離した。離した指先に、安心の形の小さな凹みだけを残して。
遠くで雷鳴が低く転がり、やがて途切れる。部屋は真っ暗で、夜はやわらかい。私は今日のルールを胸の内側に並べ直し、眠りに滑り込む。明日も、右側。明日も、内側。明日も、連絡。そういう小さなことだけで、未来は、ほんの少し撓む。それでいい。それがいい。撓んだぶんだけ、二人の速度は並ぶ。風鈴は黙り、秒針は進む。進む音は聞こえないが、私は確かに、進んでいる。



