朝は曇り。空の低さが校舎の白をほんの少しだけ灰色に寄せ、教室の天井で回る扇風機の羽根は、いつもと同じ速度のはずなのに、今日だけ妙に遅い。風は生まれて、すぐにどこかで躓く。私のノートの端には、力のない鉛筆の線が一本、黒くも薄くもなりきれないまま伸びている。線を延ばしては止め、止めては延ばす。それは、心の中の天秤の針に似ていた。「言う/言わない」。どちらかが少しだけ重くなると、もう一方が必ずすぐさま反抗する。七月三十一日に事故があること。蓮がいなくなること。言えば、未来は変わるかもしれない。でも、言葉は刃でもある。呪いにもなる。軽く口にした瞬間から、たとえ避けられたとしても、蓮の笑顔に「不吉」という薄い影が落ちるのではないか。影は一度つくと、写真みたいにそこだけ濃度が固定される。
一限の現代文は、評論文だった。黒板に題が書かれる。「予告の重さ」。チョークの粉の白が、今日に限って雪の粒のように見える。朗読の声が、扇風機の鈍い風に混じって前から後ろへ流れていく。「――告げることは責任を引き受けること」。その一節が、黒板の白より白く、胸の奥に沈んだ。告げる。引き受ける。その二語の間に、細くて長い廊下がある。私は廊下の手前で立ち止まり、靴ひもの結び目を何度も直すふりをしている。前に進まないための所作は、いつだって丁寧になる。
休み時間、後ろの席で瑠衣が筆箱を落とした。中身が、音を立てて床に散る。私はかがんで、転がるシャープペンの芯ケースや消しゴムの欠片を拾い集める。瑠衣の指が、私の指先にかすって、彼女は小声で言った。「最近の結衣、まるで“先の台本”知ってるみたい」
心臓を、掌で掴まれた感じがした。台本。先。私は笑って、「そんなことないよ」と言う。笑いが少し遅れる。彼女はそれ以上追わずに「ごめん、ありがと」と言って席に戻った。無邪気な一言は、時々、刃より鋭く、風鈴より長く響く。
放課後、私と蓮は駅前の本屋へ向かった。改札の近くのその店は、冷房の風を紙の匂いに混ぜて、夏と関係のない島をつくっている。入口の平積みを過ぎ、雑誌の棚を抜け、奥の専門書の一角――民俗学のコーナーに立つ。『境界の民話』。前に図書室で見た本と版元が違う別版だ。背表紙の色が薄い緑から濃い紺に変わっている。手に取って開くと、ページの端に付箋が何枚か挟まっている。貼り方が、どこかで見た斜めの癖を帯びていて、胸が先に反応する。付箋のひとつが導く章の見出しは、「境界は“約束”の強度に比例して開閉する」。角が折られたページの欄外、鉛筆で小さな文字が走っていた。〈言わぬ誓いも約束〉。
筆跡は、蓮のものに似ている。でも、確証はない。似ている、という言葉は、慰めにも罠にもなる。私はページを閉じ、背表紙を親指で軽く撫でてから棚に戻す。言わないことも約束の一種。そう自分に言い聞かせる。言わないと決めることで、今日の笑顔を守る。守る、という言葉に、今夜の私の寝息が少しだけ深くなる予感がした。
店を出ると、空はさらに低くなっていた。踏切に差しかかったところで、遮断機が降りる。赤いランプが、規則正しい秒で瞬いて、音は、耳の膜に直接触れてくる。線路の向こう側から列車が現れる。車輪がレールを捉える重い音の中に、ほんの一瞬、火花が散るのが見えた――気のせい、と言えないくらい鮮やかに。
私は、口を開きかけた。「三十一日は――」その先に置く言葉を、舌は知っている。けれど同時に、背中の筋肉が固まる。言葉は、外に出た瞬間から外の空気を吸って別の生き物になっていくから、怖い。
「三十一日、花火の前にさ、橋に寄ろうぜ」
蓮の声が、私の言葉と交差する。世界は時々、狙ったみたいにタイミングを合わせてくる。私の「三十一日は」は、喉の奥で形を崩して、飲み込まれる。蓮は続ける。「前に落書きあったろ。あそこで、また願掛けしよう」
「……うん」私はうなずくことしかできない。赤いランプが、また一度、等間隔で光る。橋。約束。青い結び目。言わない誓い。いくつかの言葉が、胸のなかで無言のまま手を繋ぎ直す。
夜。部屋の灯りを落として、机に向かう。共通日記を開き、今日のページに「言えなかったこと」を長く書く。書くほどに、呼吸は整い、体温は静まる。書きながら気づく――これは、誰にも見せない「言わない練習」だ。言わないでいることを、筋肉に覚えさせるための反復。紙は粘土のように、私の手から出た熱を少しだけ留める。
ページの端が、かすかに震えた。風はない。目を凝らすと、紙の繊維の奥から、ごく細い線がにじむように立ち上がってくる。「守る」。以前より淡い。けれど確かにそこにある。私はスマホを取り、何度か角度を変えて写真に撮る。液晶に映るのは、私の行だけだ。どこにも、あの二文字は写らない。記録からこぼれる現象は、私の孤独を少しだけ救う。救われるというより、孤独の輪郭に薄い布が一枚かかる感じ。布があると、輪郭はたしかにそこにあり続けるのに、触れたときの痛みがやわらぐ。
私はペンを置き、手のひらをページに重ねる。「黙る」という行為に、今日だけは名前を与えたい。沈黙。いや、違う。「守るための沈黙」。名づけることで、沈黙はただの空白ではなく、意志の入った容器になる。容器は持ち運べる。場所を選んで置ける。
翌朝、体育の時間。曇りの光が屋内プールの水面に白い網目を投げ、その揺らぎが天井の梁へうつる。自由時間の合間を見計らって、私は蓮を呼び寄せた。プールの縁に二人で並んで腰掛け、水の中で足をばたつかせる。水しぶきの粒が、すねに小さな星座を作る。
「ねえ、もしもさ」と私は切り出す。喉の奥まで出てきては引っ込み、また出てくる言葉を、ゆっくり掬い上げる。「もしも、明日が最後の日だって知ってたら、何する?」
蓮は即答だった。「結衣と過ごす」
あまりの速さに、私は笑いながら泣きそうになる。笑う筋肉と泣く筋肉は、意外に近い場所にある。「じゃあ、三十一日も、その先も、私と過ごして」と言いそうになって、喉に入ってきた冷たい水が、ことばの出口を塞いだ。咳き込みそうになって、私は息を整える。冷たさは、熱に弱い衝動をいったん黙らせる。
「なんや、ポエムタイム?」と蓮が笑う。からかいは、体温を元に戻す、簡易の術みたいなものだ。「ううん」と私は首を振って、ごまかす。笑いと沈黙の間に、短い橋をかける。橋は、誰にも気づかれないくらい低くて短い。
放課後。コンビニの前で、私たちはいつものようにアイスを食べた。私はバニラのカップ、蓮はチョコモナカ。ベンチの上、アイスの内壁をスプーンで削り取る感触は、紙の上で言葉を掬うときと似ている。私は空を見上げ、何気ない声色を用意する。
「花火の日さ。自転車で行こ。車、混むし」
「せやな。帰りも人すごいし、道、混雑避けたほうがはやいか」
「うん。あと、帰りは橋のほうじゃなくて、駅前の明るい道で帰ろ。屋台のほう遠回りだけど、にぎやかで楽しいし」
「ええやん、ええやん。途中でたい焼き食べよ。あ、あとさ、スマホのライト、新しいやつ入れとく。暗くなっても足元見えるように」
小さな方針をいくつも置く。言い出しやすい順から置く。誰も傷つけない形にして置く。置くたび、運命の線がほんの少しだけ撓(たわ)む感触がする。撓んだ線は、戻らないとは限らない。けれど、撓んだ事実は残る。残った事実は、明日の手がかりになる。
「そういえばさ」と蓮が言う。「結衣、最近さ……」
「ん?」
「なんか、あれや。昔より、一歩先のこと考えてるっぽい」
「年相応に、ね」と私は笑う。「いろいろ、考えること増えた」
「ええこっちゃ」と蓮は頷く。頷くたび、髪の先から水滴が落ちるみたいに、言葉の影が彼の肩に一瞬だけ落ちて、すぐに消える。影はすぐ消えるのに、私だけがその気配の跡を見ている。
帰宅すると、窓辺の風鈴が鳴った。風は弱いはずなのに、音が一瞬だけ伸びた。音の尾が、普段より二拍ぶん長い。そのわずかな伸びが、今日と明日の間に挟まった紙の厚みのように思える。私は胸に手を置く。ここに在るものの重さを、あらためて測る。言えなかった、という罪悪感の輪郭に触れてから、私はそれに名前を与えた。「守るための沈黙」。名づけられた瞬間、罪悪感はただの陰影ではなく、意味のある影になる。意味のある影は、光源の位置を教えてくれる。光の位置が分かれば、立ち位置も決められる。
共通日記を開く。今日の欄に、短く書く。「黙ることを選んだ。自転車、明るい道」。書いた行の下で、紙の奥がほんのわずかに明るくなる気がした。目の錯覚かもしれない。錯覚でも、今夜の私を扱うには十分だ。ページを閉じる。指先の力を抜く。紙は、静かに閉じることも、約束の一種だと教える。
天秤は完全には止まらない。針は、静けさの中でも、微細に震え続ける。それでも、今夜は黙ることで蓮の笑顔を守ると決めた。決める、という行為は、体のどこかに小さな鍵を差し込む感じがする。鍵は回った。音はしなかった。私はそのまま、電気を落とし、耳の奥で風鈴の残響を薄く聞きながら、目を閉じる。呼吸を数える。ひとつ、ふたつ。昨日よりすこしだけ正確に。窓の外、曇天の向こうで、明日の薄い青が、まだ名前のない色のまま、こちらを見ていた。
一限の現代文は、評論文だった。黒板に題が書かれる。「予告の重さ」。チョークの粉の白が、今日に限って雪の粒のように見える。朗読の声が、扇風機の鈍い風に混じって前から後ろへ流れていく。「――告げることは責任を引き受けること」。その一節が、黒板の白より白く、胸の奥に沈んだ。告げる。引き受ける。その二語の間に、細くて長い廊下がある。私は廊下の手前で立ち止まり、靴ひもの結び目を何度も直すふりをしている。前に進まないための所作は、いつだって丁寧になる。
休み時間、後ろの席で瑠衣が筆箱を落とした。中身が、音を立てて床に散る。私はかがんで、転がるシャープペンの芯ケースや消しゴムの欠片を拾い集める。瑠衣の指が、私の指先にかすって、彼女は小声で言った。「最近の結衣、まるで“先の台本”知ってるみたい」
心臓を、掌で掴まれた感じがした。台本。先。私は笑って、「そんなことないよ」と言う。笑いが少し遅れる。彼女はそれ以上追わずに「ごめん、ありがと」と言って席に戻った。無邪気な一言は、時々、刃より鋭く、風鈴より長く響く。
放課後、私と蓮は駅前の本屋へ向かった。改札の近くのその店は、冷房の風を紙の匂いに混ぜて、夏と関係のない島をつくっている。入口の平積みを過ぎ、雑誌の棚を抜け、奥の専門書の一角――民俗学のコーナーに立つ。『境界の民話』。前に図書室で見た本と版元が違う別版だ。背表紙の色が薄い緑から濃い紺に変わっている。手に取って開くと、ページの端に付箋が何枚か挟まっている。貼り方が、どこかで見た斜めの癖を帯びていて、胸が先に反応する。付箋のひとつが導く章の見出しは、「境界は“約束”の強度に比例して開閉する」。角が折られたページの欄外、鉛筆で小さな文字が走っていた。〈言わぬ誓いも約束〉。
筆跡は、蓮のものに似ている。でも、確証はない。似ている、という言葉は、慰めにも罠にもなる。私はページを閉じ、背表紙を親指で軽く撫でてから棚に戻す。言わないことも約束の一種。そう自分に言い聞かせる。言わないと決めることで、今日の笑顔を守る。守る、という言葉に、今夜の私の寝息が少しだけ深くなる予感がした。
店を出ると、空はさらに低くなっていた。踏切に差しかかったところで、遮断機が降りる。赤いランプが、規則正しい秒で瞬いて、音は、耳の膜に直接触れてくる。線路の向こう側から列車が現れる。車輪がレールを捉える重い音の中に、ほんの一瞬、火花が散るのが見えた――気のせい、と言えないくらい鮮やかに。
私は、口を開きかけた。「三十一日は――」その先に置く言葉を、舌は知っている。けれど同時に、背中の筋肉が固まる。言葉は、外に出た瞬間から外の空気を吸って別の生き物になっていくから、怖い。
「三十一日、花火の前にさ、橋に寄ろうぜ」
蓮の声が、私の言葉と交差する。世界は時々、狙ったみたいにタイミングを合わせてくる。私の「三十一日は」は、喉の奥で形を崩して、飲み込まれる。蓮は続ける。「前に落書きあったろ。あそこで、また願掛けしよう」
「……うん」私はうなずくことしかできない。赤いランプが、また一度、等間隔で光る。橋。約束。青い結び目。言わない誓い。いくつかの言葉が、胸のなかで無言のまま手を繋ぎ直す。
夜。部屋の灯りを落として、机に向かう。共通日記を開き、今日のページに「言えなかったこと」を長く書く。書くほどに、呼吸は整い、体温は静まる。書きながら気づく――これは、誰にも見せない「言わない練習」だ。言わないでいることを、筋肉に覚えさせるための反復。紙は粘土のように、私の手から出た熱を少しだけ留める。
ページの端が、かすかに震えた。風はない。目を凝らすと、紙の繊維の奥から、ごく細い線がにじむように立ち上がってくる。「守る」。以前より淡い。けれど確かにそこにある。私はスマホを取り、何度か角度を変えて写真に撮る。液晶に映るのは、私の行だけだ。どこにも、あの二文字は写らない。記録からこぼれる現象は、私の孤独を少しだけ救う。救われるというより、孤独の輪郭に薄い布が一枚かかる感じ。布があると、輪郭はたしかにそこにあり続けるのに、触れたときの痛みがやわらぐ。
私はペンを置き、手のひらをページに重ねる。「黙る」という行為に、今日だけは名前を与えたい。沈黙。いや、違う。「守るための沈黙」。名づけることで、沈黙はただの空白ではなく、意志の入った容器になる。容器は持ち運べる。場所を選んで置ける。
翌朝、体育の時間。曇りの光が屋内プールの水面に白い網目を投げ、その揺らぎが天井の梁へうつる。自由時間の合間を見計らって、私は蓮を呼び寄せた。プールの縁に二人で並んで腰掛け、水の中で足をばたつかせる。水しぶきの粒が、すねに小さな星座を作る。
「ねえ、もしもさ」と私は切り出す。喉の奥まで出てきては引っ込み、また出てくる言葉を、ゆっくり掬い上げる。「もしも、明日が最後の日だって知ってたら、何する?」
蓮は即答だった。「結衣と過ごす」
あまりの速さに、私は笑いながら泣きそうになる。笑う筋肉と泣く筋肉は、意外に近い場所にある。「じゃあ、三十一日も、その先も、私と過ごして」と言いそうになって、喉に入ってきた冷たい水が、ことばの出口を塞いだ。咳き込みそうになって、私は息を整える。冷たさは、熱に弱い衝動をいったん黙らせる。
「なんや、ポエムタイム?」と蓮が笑う。からかいは、体温を元に戻す、簡易の術みたいなものだ。「ううん」と私は首を振って、ごまかす。笑いと沈黙の間に、短い橋をかける。橋は、誰にも気づかれないくらい低くて短い。
放課後。コンビニの前で、私たちはいつものようにアイスを食べた。私はバニラのカップ、蓮はチョコモナカ。ベンチの上、アイスの内壁をスプーンで削り取る感触は、紙の上で言葉を掬うときと似ている。私は空を見上げ、何気ない声色を用意する。
「花火の日さ。自転車で行こ。車、混むし」
「せやな。帰りも人すごいし、道、混雑避けたほうがはやいか」
「うん。あと、帰りは橋のほうじゃなくて、駅前の明るい道で帰ろ。屋台のほう遠回りだけど、にぎやかで楽しいし」
「ええやん、ええやん。途中でたい焼き食べよ。あ、あとさ、スマホのライト、新しいやつ入れとく。暗くなっても足元見えるように」
小さな方針をいくつも置く。言い出しやすい順から置く。誰も傷つけない形にして置く。置くたび、運命の線がほんの少しだけ撓(たわ)む感触がする。撓んだ線は、戻らないとは限らない。けれど、撓んだ事実は残る。残った事実は、明日の手がかりになる。
「そういえばさ」と蓮が言う。「結衣、最近さ……」
「ん?」
「なんか、あれや。昔より、一歩先のこと考えてるっぽい」
「年相応に、ね」と私は笑う。「いろいろ、考えること増えた」
「ええこっちゃ」と蓮は頷く。頷くたび、髪の先から水滴が落ちるみたいに、言葉の影が彼の肩に一瞬だけ落ちて、すぐに消える。影はすぐ消えるのに、私だけがその気配の跡を見ている。
帰宅すると、窓辺の風鈴が鳴った。風は弱いはずなのに、音が一瞬だけ伸びた。音の尾が、普段より二拍ぶん長い。そのわずかな伸びが、今日と明日の間に挟まった紙の厚みのように思える。私は胸に手を置く。ここに在るものの重さを、あらためて測る。言えなかった、という罪悪感の輪郭に触れてから、私はそれに名前を与えた。「守るための沈黙」。名づけられた瞬間、罪悪感はただの陰影ではなく、意味のある影になる。意味のある影は、光源の位置を教えてくれる。光の位置が分かれば、立ち位置も決められる。
共通日記を開く。今日の欄に、短く書く。「黙ることを選んだ。自転車、明るい道」。書いた行の下で、紙の奥がほんのわずかに明るくなる気がした。目の錯覚かもしれない。錯覚でも、今夜の私を扱うには十分だ。ページを閉じる。指先の力を抜く。紙は、静かに閉じることも、約束の一種だと教える。
天秤は完全には止まらない。針は、静けさの中でも、微細に震え続ける。それでも、今夜は黙ることで蓮の笑顔を守ると決めた。決める、という行為は、体のどこかに小さな鍵を差し込む感じがする。鍵は回った。音はしなかった。私はそのまま、電気を落とし、耳の奥で風鈴の残響を薄く聞きながら、目を閉じる。呼吸を数える。ひとつ、ふたつ。昨日よりすこしだけ正確に。窓の外、曇天の向こうで、明日の薄い青が、まだ名前のない色のまま、こちらを見ていた。



