土曜日の市民プールは、色の名前を全部集めて輪にしたみたいな午後だった。浮き輪のピンク、ビーチボールの青、ラッシュガードの黒、プールサイドの白。金属の手すりが陽をはね返して、目を細めると細かい光の粒が跳ねた。鼻の奥には、昔から変わらない塩素の匂い。救命員のホイッスルが短く鳴るたび、空気が一度だけ薄く震える。水面は、子どもたちの笑い声を受けて絶えずさざめき、そのさざめきが私の皮膚の境界をやわらかく曖昧にした。
「先、入るで」と蓮が言う。黒い髪の先に小さな水滴をいくつも抱えたまま、プールに飛び込む音は、思い出と現在のちょうど真ん中に落ちた。私は梯子からそっと降りる。水が身体の線をひとつずつなぞり、脚、腰、肩へと境界を塗り替えていく。喉の高さまで来たところで、一度だけ深く息を吸って、顔を水の内側へ沈めた。
瞬間、いまが崩れた。白い廊下の照り返し、消毒液の匂い、機械の数字、瞳孔反射なし――あの、名前を持つ刃物のような言葉たちが、波になって押し寄せる。耳の内側に残っている嗚咽の音が、水の圧に似ている。呼吸のスイッチの場所がわからなくなる。吸うはずの空気はどこにもない。私は顔を上げるタイミングを逃し、溺れるというより、浮かび上がるという動作をどこかに置き忘れてしまっただけの人になった。
背中に、確かな力が触れた。肩甲骨の少し下を、広い手が支える。水の中での、その触れ方の慎重さ。「無理すんなよ」と蓮の声。乾いた声と濡れた水のあいだに、柔らかな板が差し込まれたみたいに、浮力が戻る。私は水面に顔を出し、睫毛から滑り落ちる水を手の甲で払う。肺が空気の形を思い出すのに、数呼吸かかった。「ごめん」と言うと、蓮は首を横に振った。「初日から飛ばしたら、明日もたへんで」
笑い合う。その笑いは、救命具みたいに正しく機能した。私はまた、今日の私の体に収まる。
昼の休憩時間。プールサイドのベンチは、濡れた世界のはしっこにある乾いた島だ。売店のポテトは、塩が多すぎて、でもそれがいい。紙トレイの底に、油の薄い滲みが花の形を作っている。私は一本、蓮に一本。交互に指先の塩を舌でほどく。指についた塩は、涙の味とは似ているようで違う。涙はもっと重く、体のどこかを削って流れ出る味がする。
「そういやさ」と蓮が、ポテトを噛みながら言う。「結衣って、ときどき遠く見るよな」
胸の奥で、小さな鈴が鳴った。遠く。私は考えるより先に、口が動いた。「遠くにいる自分を見つけないと、ここに戻れない感じがして……」と言いかけて、慌てて笑いに変える。「夏バテ、かな。ぼーっとする」
蓮は、私が笑う速度よりゆっくりと瞬きをした。「……戻れないときは、手、繋げよ」
「え?」
「それ、ええ錨(いかり)になるやろ。物理で引っ張る」
冗談みたいな調子なのに、視線は真っ直ぐで、どこも笑っていない。不意に、背骨の中の空気が落ち着く。私は「うん」とだけ答えた。言葉を少なくすると、体の反応がはっきりする。頷く、息を吸う、笑う、それだけ。夏の午後は、余計な動作をすぐに見抜く。
更衣室を出て、外の自販機でスポーツドリンクを買い、二人でプールを後にする。門の手前で、スマホが震えた。発信者の名前に、心臓がひとつ余計に打つ。瑠衣。けれど、この世界の瑠衣は、まだ未来の重さを知らない。
「明日の補講、来れる?」――他愛ない声。背景に、扇風機の回る音がする。私は日陰に腰を下ろし、背中で壁の熱を受けながら返事をした。「うん、行ける」
「あ、そうだ。全然関係ないんだけどさ。蓮って、結衣のこと好きだって」
土砂降りでも晴天でもない空が、音もなく色を変える。知っているはずのことが、いまこの瞬間に告げられると、胸の中の波が形を変える。返事に必要な言葉は短いのに、舌の上でよく転がしてからでないと、滑って落としてしまいそうで怖い。「……うん、知ってる」
「知ってるの、かっこよ」と瑠衣が笑い、「じゃ、明日」と通話は途切れた。画面が黒くなる。蓮が、横から覗きこむように「内緒話?」と訊く。
「うん、バレバレ」と私は言う。言った途端、頬が熱を持った。バレバレ、という言葉は幼くて、でもその幼さが、今日の私をちゃんと十七歳に戻してくれる。
夕方の光は、街の輪郭を薄くしながら、古いものだけを少し濃くする。私たちは川にかかる古い橋を渡った。欄干には、過去の誰かの落書きが刻まれている。名前、ハート、年号。鉄の上に刻まれた「約束」の二文字の前で、私は足を止めた。指先で、ゆっくりとなぞる。古い傷は、指の腹に小さな地形を作る。
「願掛け、する?」と蓮が笑う。
「する」と私は言い、胸の中で言葉を選ぶ。「明日もちゃんと起きる」「課題をためない」。そんな小さな願いを先に口にすることで、本当に願いたいことの輪郭を少しだけ和らげる。言いたいのは「あなたが死なない」。でも、その言葉を口に出すことは、ここにまだいない未来を、この橋の上に連れて来るみたいで怖かった。
「来年の夏も、一緒に」と代わりに言う。蓮は迷わなかった。「当たり前だろ」。欄干の真ん中で、小指を差し出す。私は自分の小指を絡める。触れ合う爪の固さ、皮膚の薄い熱、骨の細い強さ。小指は、こんなにも具体的な器官だったのか、と驚く。目眩の縁を踏む。橋の上の風が一度だけ止み、川面が静かに息を止める。
「はい、成立」と蓮が笑い、指を離す。離れたあと、皮膚は約束の形にわずかに凹む。凹みは、体の内側へとゆっくり吸い込まれていく。
空が、濃くなっていった。家の近くで分かれて、私は玄関の鍵を回す。部屋は、日中の熱を少し残している。窓を少し開け、机の前に座る。共通日記を取り出し、青い表紙を撫でる。今日のページに、「橋で約束した」と書く。書き終えて、ペン先を上に向けたまま、しばらく動かないでいると、ページの端がふっと揺らいだ。風はない。指先が凍る。
薄い鉛筆の線が、紙の繊維の中からにじみ上がるみたいに現れた。「守る」。はっきりと、蓮の字。私は息を止め、震える指でスマホを掴む。カメラを日記に向け、シャッターを切る。液晶に映った画像には、私の「橋で約束した」の行だけがある。どこにも、「守る」はない。もう一度、角度を変えて撮る。結果は同じ。現実の記録では掬えない何かが、ここにはある。ルールは、古文書の一行みたいに短くて、まだ言葉にならない。
私はスマホを伏せ、日記に手のひらを置いた。紙は体温で少しだけやわらかくなる。「ありがとう」と言いそうになって、やめる。誰に向けたありがとうか分からない言葉は、すぐに軽くなる。
風のない夜に、遠雷が鳴った。窓の外で、海の底のような音が、ゆっくり動く。照明を落としてベッドに入る。目を閉じる直前、耳元で蓮の声がする。「結衣、来年も、その先も」。音はかすかで、でも空気は確かに震えた。はっと目を開けると、部屋は暗いまま。枕元の共通日記が、風もないのに、ふいにめくれた。ページは自分の意思で位置を確かめるみたいに動き、やがて「7/31」のページで止まる。そこにはまだ何も書かれていない。白が、こちらを見返してくる。
「運命は、変えられるの?」と囁く。返事はない。ないのに、脈拍が少しだけ落ち着く。質問の形だけが、体の中の恐れの輪郭をすこし整える。整った形は、扱える。扱えるものは、置き場所を決められる。
目を閉じ直す。意識が眠りへ滑りこむふちで、私は今日のいくつかの「驚き」を並べてみる。水の内側で息が途切れたこと。背中を支える手の温度。遠くを見る私を、言葉にならない視線で見つめた蓮。電話口の瑠衣の「好きだって」。橋の上の約束。ページに浮いた「守る」。写真には写らない文字。耳元の声。めくれて止まったページ。どれも、事実のかたちをしている。どれも、奇跡と言い切るには小さすぎて、でも奇跡と呼ぶには十分に手の届かないところにある。
眠りは、希望と恐怖を等分に混ぜた温度を持っていた。どちらも薄く、どちらも確か。私はその温度を胸のすこし下に収め、呼吸を数えた。ひとつ、ふたつ。昨日よりも、わずかに正確に。明日から、「言うべきか、隠すべきか」の疼きがはっきり形を持ち始めるだろう。言葉は時を越える、とあの祠の写しは言った。守る者には道が、破る者には罰が。私は、どちらの言葉にもまだ触れていない。触れていないうちに、眠ることにする。眠りながら、小指の感触を思い出す。小さな器官に宿った約束が、青い糸みたいに、私を今へやさしく結び留めた。
「先、入るで」と蓮が言う。黒い髪の先に小さな水滴をいくつも抱えたまま、プールに飛び込む音は、思い出と現在のちょうど真ん中に落ちた。私は梯子からそっと降りる。水が身体の線をひとつずつなぞり、脚、腰、肩へと境界を塗り替えていく。喉の高さまで来たところで、一度だけ深く息を吸って、顔を水の内側へ沈めた。
瞬間、いまが崩れた。白い廊下の照り返し、消毒液の匂い、機械の数字、瞳孔反射なし――あの、名前を持つ刃物のような言葉たちが、波になって押し寄せる。耳の内側に残っている嗚咽の音が、水の圧に似ている。呼吸のスイッチの場所がわからなくなる。吸うはずの空気はどこにもない。私は顔を上げるタイミングを逃し、溺れるというより、浮かび上がるという動作をどこかに置き忘れてしまっただけの人になった。
背中に、確かな力が触れた。肩甲骨の少し下を、広い手が支える。水の中での、その触れ方の慎重さ。「無理すんなよ」と蓮の声。乾いた声と濡れた水のあいだに、柔らかな板が差し込まれたみたいに、浮力が戻る。私は水面に顔を出し、睫毛から滑り落ちる水を手の甲で払う。肺が空気の形を思い出すのに、数呼吸かかった。「ごめん」と言うと、蓮は首を横に振った。「初日から飛ばしたら、明日もたへんで」
笑い合う。その笑いは、救命具みたいに正しく機能した。私はまた、今日の私の体に収まる。
昼の休憩時間。プールサイドのベンチは、濡れた世界のはしっこにある乾いた島だ。売店のポテトは、塩が多すぎて、でもそれがいい。紙トレイの底に、油の薄い滲みが花の形を作っている。私は一本、蓮に一本。交互に指先の塩を舌でほどく。指についた塩は、涙の味とは似ているようで違う。涙はもっと重く、体のどこかを削って流れ出る味がする。
「そういやさ」と蓮が、ポテトを噛みながら言う。「結衣って、ときどき遠く見るよな」
胸の奥で、小さな鈴が鳴った。遠く。私は考えるより先に、口が動いた。「遠くにいる自分を見つけないと、ここに戻れない感じがして……」と言いかけて、慌てて笑いに変える。「夏バテ、かな。ぼーっとする」
蓮は、私が笑う速度よりゆっくりと瞬きをした。「……戻れないときは、手、繋げよ」
「え?」
「それ、ええ錨(いかり)になるやろ。物理で引っ張る」
冗談みたいな調子なのに、視線は真っ直ぐで、どこも笑っていない。不意に、背骨の中の空気が落ち着く。私は「うん」とだけ答えた。言葉を少なくすると、体の反応がはっきりする。頷く、息を吸う、笑う、それだけ。夏の午後は、余計な動作をすぐに見抜く。
更衣室を出て、外の自販機でスポーツドリンクを買い、二人でプールを後にする。門の手前で、スマホが震えた。発信者の名前に、心臓がひとつ余計に打つ。瑠衣。けれど、この世界の瑠衣は、まだ未来の重さを知らない。
「明日の補講、来れる?」――他愛ない声。背景に、扇風機の回る音がする。私は日陰に腰を下ろし、背中で壁の熱を受けながら返事をした。「うん、行ける」
「あ、そうだ。全然関係ないんだけどさ。蓮って、結衣のこと好きだって」
土砂降りでも晴天でもない空が、音もなく色を変える。知っているはずのことが、いまこの瞬間に告げられると、胸の中の波が形を変える。返事に必要な言葉は短いのに、舌の上でよく転がしてからでないと、滑って落としてしまいそうで怖い。「……うん、知ってる」
「知ってるの、かっこよ」と瑠衣が笑い、「じゃ、明日」と通話は途切れた。画面が黒くなる。蓮が、横から覗きこむように「内緒話?」と訊く。
「うん、バレバレ」と私は言う。言った途端、頬が熱を持った。バレバレ、という言葉は幼くて、でもその幼さが、今日の私をちゃんと十七歳に戻してくれる。
夕方の光は、街の輪郭を薄くしながら、古いものだけを少し濃くする。私たちは川にかかる古い橋を渡った。欄干には、過去の誰かの落書きが刻まれている。名前、ハート、年号。鉄の上に刻まれた「約束」の二文字の前で、私は足を止めた。指先で、ゆっくりとなぞる。古い傷は、指の腹に小さな地形を作る。
「願掛け、する?」と蓮が笑う。
「する」と私は言い、胸の中で言葉を選ぶ。「明日もちゃんと起きる」「課題をためない」。そんな小さな願いを先に口にすることで、本当に願いたいことの輪郭を少しだけ和らげる。言いたいのは「あなたが死なない」。でも、その言葉を口に出すことは、ここにまだいない未来を、この橋の上に連れて来るみたいで怖かった。
「来年の夏も、一緒に」と代わりに言う。蓮は迷わなかった。「当たり前だろ」。欄干の真ん中で、小指を差し出す。私は自分の小指を絡める。触れ合う爪の固さ、皮膚の薄い熱、骨の細い強さ。小指は、こんなにも具体的な器官だったのか、と驚く。目眩の縁を踏む。橋の上の風が一度だけ止み、川面が静かに息を止める。
「はい、成立」と蓮が笑い、指を離す。離れたあと、皮膚は約束の形にわずかに凹む。凹みは、体の内側へとゆっくり吸い込まれていく。
空が、濃くなっていった。家の近くで分かれて、私は玄関の鍵を回す。部屋は、日中の熱を少し残している。窓を少し開け、机の前に座る。共通日記を取り出し、青い表紙を撫でる。今日のページに、「橋で約束した」と書く。書き終えて、ペン先を上に向けたまま、しばらく動かないでいると、ページの端がふっと揺らいだ。風はない。指先が凍る。
薄い鉛筆の線が、紙の繊維の中からにじみ上がるみたいに現れた。「守る」。はっきりと、蓮の字。私は息を止め、震える指でスマホを掴む。カメラを日記に向け、シャッターを切る。液晶に映った画像には、私の「橋で約束した」の行だけがある。どこにも、「守る」はない。もう一度、角度を変えて撮る。結果は同じ。現実の記録では掬えない何かが、ここにはある。ルールは、古文書の一行みたいに短くて、まだ言葉にならない。
私はスマホを伏せ、日記に手のひらを置いた。紙は体温で少しだけやわらかくなる。「ありがとう」と言いそうになって、やめる。誰に向けたありがとうか分からない言葉は、すぐに軽くなる。
風のない夜に、遠雷が鳴った。窓の外で、海の底のような音が、ゆっくり動く。照明を落としてベッドに入る。目を閉じる直前、耳元で蓮の声がする。「結衣、来年も、その先も」。音はかすかで、でも空気は確かに震えた。はっと目を開けると、部屋は暗いまま。枕元の共通日記が、風もないのに、ふいにめくれた。ページは自分の意思で位置を確かめるみたいに動き、やがて「7/31」のページで止まる。そこにはまだ何も書かれていない。白が、こちらを見返してくる。
「運命は、変えられるの?」と囁く。返事はない。ないのに、脈拍が少しだけ落ち着く。質問の形だけが、体の中の恐れの輪郭をすこし整える。整った形は、扱える。扱えるものは、置き場所を決められる。
目を閉じ直す。意識が眠りへ滑りこむふちで、私は今日のいくつかの「驚き」を並べてみる。水の内側で息が途切れたこと。背中を支える手の温度。遠くを見る私を、言葉にならない視線で見つめた蓮。電話口の瑠衣の「好きだって」。橋の上の約束。ページに浮いた「守る」。写真には写らない文字。耳元の声。めくれて止まったページ。どれも、事実のかたちをしている。どれも、奇跡と言い切るには小さすぎて、でも奇跡と呼ぶには十分に手の届かないところにある。
眠りは、希望と恐怖を等分に混ぜた温度を持っていた。どちらも薄く、どちらも確か。私はその温度を胸のすこし下に収め、呼吸を数えた。ひとつ、ふたつ。昨日よりも、わずかに正確に。明日から、「言うべきか、隠すべきか」の疼きがはっきり形を持ち始めるだろう。言葉は時を越える、とあの祠の写しは言った。守る者には道が、破る者には罰が。私は、どちらの言葉にもまだ触れていない。触れていないうちに、眠ることにする。眠りながら、小指の感触を思い出す。小さな器官に宿った約束が、青い糸みたいに、私を今へやさしく結び留めた。



