朝練の終わった校舎裏には、濡れた芝の匂いと、体育館のワックスの甘さがまだ混ざって漂っている。ボールの跳ねる乾いた音が、壁に三度ぶつかって消える。蓮はクラスメイトにボールを返し、こちらを見つけると、いつもの癖で顎を小さく上げた。手を軽く振る。それだけのしるしで、彼が私を「ここにいる」と認めてくれることに、胸の奥の小さな筋肉が安堵の形に収まる。
「購買、行く?」と蓮が言う。私はうなずき、昇降口の影を踏みながら並んで歩く。自動ドアの近くは、いつもより体感温度が低い。並んだトレーの上に、焼きそばパン、コロッケパン、メロンパン。あの頃の「普通」を、私は丁寧になぞる。私はメロンパンを、蓮は焼きそばパンを――のはずが、手がふと別の棚に伸び、期間限定のチョコスコーンを取ってしまう。ねっとりした甘さの記憶が、今の私の舌にだけ残っている。
「それ、初めてじゃない?」と蓮が笑う。「前は砂糖落ちるの嫌だって言ってたのに」
「あ、そっか」と私。演技、という言葉を思い出して、慌ててメロンパンに取り替える。過去の私にあわせる演技。わずかな違いが、簡単にズレを生む。自販機の前で、私は何も考えずにブラックを選んでしまう。缶の口に触れる金属のひやっとした感触。舌に広がる苦味は、眠気より早く脳に届く。
「苦いの、平気になったん?」蓮が目を丸くして、すぐに笑う。「大人やん」
ハッとして、笑いながら缶を両手で包む。「ちょっとね」と曖昧に返す。変わったね、と言われる怖さが一瞬で喉を細くする。私が変わりすぎたら、ここが「前の夏」ではなくなってしまうかもしれない。不安は、校舎の白い壁の内側で育つ蔦みたいに、気づかぬうちに広がる。蓮はいまを生きている。わずかな汗の匂い、昇降口の影で笑ったときの目尻の動き、パンの袋を開ける手つき。その一つひとつが、今日のものだ。未来を知っているのは、私だけ。
家庭科室の前を通ると、焼き菓子の甘い匂いが廊下まで溢れてきた。バターと砂糖の、陽だまりの色をした匂い。窓の外からは、ラジオ体操の音楽が遠くまばらに聞こえてくる。図書室は、他の教室と違う温度を保っていた。空調が紙のために調整されているせいか、涼しさは輪郭を持ち、呼吸の通り道を少し広げてくれる。本棚の角に指を当てると、ニスの薄い層が汗を弾く。私たちは小声で、借りたい本の背を順に撫でた。世界史の図版集、写真家の薄い作品集、文字の多い雑誌。指先の紙のざらつきは、時間の粒度をわずかに変える。
「変わったね」と、蓮がまた言う。声は柔らかい。私を責める気配はどこにもない。ただ、観察として、目に映った変化を、親しい人に共有するときの調子。
「ちょっとね」と私は繰り返す。ちょっと、なら許される気がする。ちょっと、には戻れる余地が含まれている。演技を続けながら、私は演技という言葉の輪郭を、少しずつ薄くしていく。薄くしていくことで、今日が今日として立ち上がるのを、邪魔しないために。
放課後、私たちは神社へ向かった。商店街を抜けて、細い路地を曲がると、石段が始まる。最初の五段は段鼻が磨り減り、足の形に凹んでいる。以前来たときに見た凹みは、こんなに深かっただろうか。狛犬の位置が、記憶と少し違う。賽銭箱の縁に刻まれた傷の形も、どこか違和感がある。過去は固定ではないのか。あるいは、私の記憶が曖昧なのか。曖昧、という言葉は便利で、しかし何も救わない。
境内の端に、小さな祠がある。誰も説明しないまま慣習として残る場所。祠の脇に一本の大きな木。幹は太く、肌はしっとりとした灰。巻かれたしめ縄の結び目が、陽の加減で青い糸のように見えた。昨日、日記のページの上に見た細い線の記憶が、そこに重なる。祠の前には、ガラスの板に挟まれた古文書の写しが置かれている。紙は新しいが、文字は古い。「約束の言葉は時を越える。守る者には道が、破る者には罰が」。
蓮が、声に出して読んだ。「罰、って物騒やな」
「昔の言い回しだよ」と私は笑う。「“道”も、“罰”も、きっとわたしたちが思ってる意味と違う」
「約束、か」と蓮はしめ縄を見上げる。「結び目、きれいやな。青く見える」
「光のせいだよ」と言いながら、私は自分の指の先がわずかに熱を帯びるのを感じる。青い糸。境界。結び目。私の中でだけ、言葉が互いに呼び合う。
石段の上のベンチに腰掛ける。風鈴の音が遠く、小さく、鳴る。蓮はスポーツドリンクのキャップを歯で開け、喉を鳴らす。喉の奥の湿った音が、私を十七歳の内側に完全に連れ戻す。
「さ、来年の夏、どこ行く?」と蓮がふいに問う。何気ない調子。あくまで今日の続きを延長するように。私は喉が鳴る音を自分で聞く。数秒遅れて、「海」と答える。言葉が舌から離れるまでに、短い坂道があった。「じゃあ写真いっぱい撮ろう」と蓮は笑い、トレーナーのポケットからスマホを取り出す。古い機種。少し傷のある画面に、私たちが並ぶ。彼の腕が伸び、肩が触れる。シャッター音のあと、一瞬だけ画面に微かな歪みが走る。私の口角が、わずかに引き延ばされ、蓮の片方の瞳が、ほんの気持ち大きく見えた。見間違い、と切り捨てるには短く、記憶に残すには十分な瞬間。
「いけてる?」と蓮。私は「うん」と頷く。写真はすぐにタイムラインに流されるようなものではない。ただ、ここにいる二人の、今日の証拠。証拠は、安心の形をして胸の内ポケットに収まる。けれど、証拠は同時に、未来の目撃者にもなりうる。私の中の誰かが、それを恐れている。
帰り道、バス停に着くと、ちょうどバスが行ってしまったところだった。時刻表の数字が、日差しの反射で読みにくい。「歩くか」と蓮が言う。私はうなずく。夕焼けは、色の言葉を全部借りても足りないくらいのグラデーションで街を包み、アスファルトは昼の熱をゆっくりと手放している。靴の底に伝わる温度は、夕方の体温に似ている。セミの声は、昼間よりわずかに低く、列の端で外れた音が、独り言みたいに遅れて耳に届く。
「大人になったらさ」と蓮が言い始める。「車とかより、バイクがいいな。風、直で感じるやん。海の手前の道、さーっと走ってさ。写真はさ、三脚立てるの苦手やから、手持ちで上手く撮る練習する。夕焼けは難しいけど、難しいから楽しいねん」
「うん」と私は相槌を打つ。「難しいほうが、あとで、嬉しいもんね」
「仕事は……まあ、今は全然わからんけど」と蓮は笑う。「でも、“大人になったら”って言葉が、なんか嫌や。今を捨てるみたいやから。今、ちゃんとしといて、その続きに“なったら”があるんやろな」
私は彼の「大人になったら」を心の中で繰り返す。その先を知っている痛みと共存する練習を、ゆっくり始める。痛みをただ飲み込むのではなく、薄い水で割って、温度を変えて、体のどこに置くかを選ぶこと。足の裏の歩幅、息の寝かし方、視線の置き場所。私が選べることを、選ぶ。
夕暮れの色が濃くなる。歩道橋の上で、風が一度だけ向きを変える。蓮の髪が、その風の形を忠実になぞって揺れ、すぐに元に戻る。私はその一部始終を、ただ見ている。見ていること以外のすべてが、余計な気がする瞬間がある。見ていることの中に、十七歳の全部がある。
夜、自室で共通日記を開く。青い表紙は、今日の汗を吸って少しだけ温度を持っている。私は「今日は海の話をした」と書く。ペン先が紙の繊維を押し分けて進む感触。書き終えると、ページの端がふっと揺らいだ気がした。窓は閉めている。風はない。私は息を止める。次の瞬間、細い鉛筆の線が、私の文字のすぐ下に現れたように、見えた。「来年も」。蓮の癖に、似ている。見間違い、と言い切るには、短い。短いのに、確かだと信じたい欲が、指先に集まる。私はページをそっと閉じる。閉じると、部屋の時計の秒針が一瞬だけ止まった。静止の気配は、すぐにほどけて、秒針はまた動き始める。時間は、ほころびながらも進む。進むたび、ほころびは別の場所に移る。
机の上の散らかったプリントを整えようとして、手が止まる。ベッドの下の影がいつもより濃い。しゃがみ込んで腕を伸ばすと、薄い光沢の紙に指が触れた。引っ張り出す。去年の夏祭りのツーショット。提灯の赤が、私たちの頬に丸い色を置いている。蓮が少し照れて笑っている。私は隣で、目を細めている。写真の裏に、細いペンで書かれた文字。「7/31 20:40」。数字を目で追った瞬間、体が硬直する。具体的な時刻は、名前を持つ刃物に似ている。刃がどこに向いているのか、もう誤魔化せない。「その時刻の前に」を、私はこれまで口の中で壊してきた。壊すたび、意味は砕けて砂になり、喉を乾かせた。砂のかわりに小さな水を飲むみたいにして、私は今、息を吸う。
写真を裏返し、机の上に置く。音はしなかった。紙は、いつだって無音で落ちる。私は椅子に座り直し、天井を見上げる。朝に見つめた、あの細い影は、夜になると形がぼやける。ぼやける代わりに、部屋のどこかで別の線が濃くなる。時計の秒針が、規則正しく、ほんの少しだけ早足で進む。息を合わせる。ひとつ、ふたつ。昨日よりすこしだけ正確に。今夜は、録音アプリを開かない。開かないこともまた、目印になる。目印なしで歩ける距離が、今日、ほんの少しだけ延びた気がした。
枕元で、手帳を開く。今日の欄には、昼のうちに書いた「7/31=境界」の文字がある。二重線で囲む。囲った瞬間、線の内側の空気がわずかに温度を変える気がする。境界は線ではなく幅を持つ。幅の中で、私は迷うのではなく、立ち止まる練習をする。立ち止まって、呼吸を数え、目を開けて、手を伸ばす。届くものと、届かないものの差を、今日のうちに確かめる。
電気を消すと、窓の向こうで、どこか遠くの車のライトが壁に一度だけ反射した。光は、そこにいたことだけを知らせて、すぐにいなくなる。私は布団に入り、目を閉じる。暗闇の中で、「来年も」という二文字が、淡い光で浮かぶ。浮かんだ文字は、私に触れず、ただ空気を少しだけやわらかくした。やわらかさの中で、私は体の力を抜く。抜いた力の分だけ、明日へ持っていける強さが増えるのだと、信じてみる。
――十七歳の夏は、戻ってきたのではなく、私の中で開いている。開いたものは、簡単には閉じない。閉じるには、もう一度、手で確かめる必要がある。私はそのことを、今日の静けさの中でだけ、正しく思い出せた。時計の秒針は進む。写真の裏の数字は変わらない。変わらないものと進むもののあいだで、私は明日の歩幅を、そっと決めた。
「購買、行く?」と蓮が言う。私はうなずき、昇降口の影を踏みながら並んで歩く。自動ドアの近くは、いつもより体感温度が低い。並んだトレーの上に、焼きそばパン、コロッケパン、メロンパン。あの頃の「普通」を、私は丁寧になぞる。私はメロンパンを、蓮は焼きそばパンを――のはずが、手がふと別の棚に伸び、期間限定のチョコスコーンを取ってしまう。ねっとりした甘さの記憶が、今の私の舌にだけ残っている。
「それ、初めてじゃない?」と蓮が笑う。「前は砂糖落ちるの嫌だって言ってたのに」
「あ、そっか」と私。演技、という言葉を思い出して、慌ててメロンパンに取り替える。過去の私にあわせる演技。わずかな違いが、簡単にズレを生む。自販機の前で、私は何も考えずにブラックを選んでしまう。缶の口に触れる金属のひやっとした感触。舌に広がる苦味は、眠気より早く脳に届く。
「苦いの、平気になったん?」蓮が目を丸くして、すぐに笑う。「大人やん」
ハッとして、笑いながら缶を両手で包む。「ちょっとね」と曖昧に返す。変わったね、と言われる怖さが一瞬で喉を細くする。私が変わりすぎたら、ここが「前の夏」ではなくなってしまうかもしれない。不安は、校舎の白い壁の内側で育つ蔦みたいに、気づかぬうちに広がる。蓮はいまを生きている。わずかな汗の匂い、昇降口の影で笑ったときの目尻の動き、パンの袋を開ける手つき。その一つひとつが、今日のものだ。未来を知っているのは、私だけ。
家庭科室の前を通ると、焼き菓子の甘い匂いが廊下まで溢れてきた。バターと砂糖の、陽だまりの色をした匂い。窓の外からは、ラジオ体操の音楽が遠くまばらに聞こえてくる。図書室は、他の教室と違う温度を保っていた。空調が紙のために調整されているせいか、涼しさは輪郭を持ち、呼吸の通り道を少し広げてくれる。本棚の角に指を当てると、ニスの薄い層が汗を弾く。私たちは小声で、借りたい本の背を順に撫でた。世界史の図版集、写真家の薄い作品集、文字の多い雑誌。指先の紙のざらつきは、時間の粒度をわずかに変える。
「変わったね」と、蓮がまた言う。声は柔らかい。私を責める気配はどこにもない。ただ、観察として、目に映った変化を、親しい人に共有するときの調子。
「ちょっとね」と私は繰り返す。ちょっと、なら許される気がする。ちょっと、には戻れる余地が含まれている。演技を続けながら、私は演技という言葉の輪郭を、少しずつ薄くしていく。薄くしていくことで、今日が今日として立ち上がるのを、邪魔しないために。
放課後、私たちは神社へ向かった。商店街を抜けて、細い路地を曲がると、石段が始まる。最初の五段は段鼻が磨り減り、足の形に凹んでいる。以前来たときに見た凹みは、こんなに深かっただろうか。狛犬の位置が、記憶と少し違う。賽銭箱の縁に刻まれた傷の形も、どこか違和感がある。過去は固定ではないのか。あるいは、私の記憶が曖昧なのか。曖昧、という言葉は便利で、しかし何も救わない。
境内の端に、小さな祠がある。誰も説明しないまま慣習として残る場所。祠の脇に一本の大きな木。幹は太く、肌はしっとりとした灰。巻かれたしめ縄の結び目が、陽の加減で青い糸のように見えた。昨日、日記のページの上に見た細い線の記憶が、そこに重なる。祠の前には、ガラスの板に挟まれた古文書の写しが置かれている。紙は新しいが、文字は古い。「約束の言葉は時を越える。守る者には道が、破る者には罰が」。
蓮が、声に出して読んだ。「罰、って物騒やな」
「昔の言い回しだよ」と私は笑う。「“道”も、“罰”も、きっとわたしたちが思ってる意味と違う」
「約束、か」と蓮はしめ縄を見上げる。「結び目、きれいやな。青く見える」
「光のせいだよ」と言いながら、私は自分の指の先がわずかに熱を帯びるのを感じる。青い糸。境界。結び目。私の中でだけ、言葉が互いに呼び合う。
石段の上のベンチに腰掛ける。風鈴の音が遠く、小さく、鳴る。蓮はスポーツドリンクのキャップを歯で開け、喉を鳴らす。喉の奥の湿った音が、私を十七歳の内側に完全に連れ戻す。
「さ、来年の夏、どこ行く?」と蓮がふいに問う。何気ない調子。あくまで今日の続きを延長するように。私は喉が鳴る音を自分で聞く。数秒遅れて、「海」と答える。言葉が舌から離れるまでに、短い坂道があった。「じゃあ写真いっぱい撮ろう」と蓮は笑い、トレーナーのポケットからスマホを取り出す。古い機種。少し傷のある画面に、私たちが並ぶ。彼の腕が伸び、肩が触れる。シャッター音のあと、一瞬だけ画面に微かな歪みが走る。私の口角が、わずかに引き延ばされ、蓮の片方の瞳が、ほんの気持ち大きく見えた。見間違い、と切り捨てるには短く、記憶に残すには十分な瞬間。
「いけてる?」と蓮。私は「うん」と頷く。写真はすぐにタイムラインに流されるようなものではない。ただ、ここにいる二人の、今日の証拠。証拠は、安心の形をして胸の内ポケットに収まる。けれど、証拠は同時に、未来の目撃者にもなりうる。私の中の誰かが、それを恐れている。
帰り道、バス停に着くと、ちょうどバスが行ってしまったところだった。時刻表の数字が、日差しの反射で読みにくい。「歩くか」と蓮が言う。私はうなずく。夕焼けは、色の言葉を全部借りても足りないくらいのグラデーションで街を包み、アスファルトは昼の熱をゆっくりと手放している。靴の底に伝わる温度は、夕方の体温に似ている。セミの声は、昼間よりわずかに低く、列の端で外れた音が、独り言みたいに遅れて耳に届く。
「大人になったらさ」と蓮が言い始める。「車とかより、バイクがいいな。風、直で感じるやん。海の手前の道、さーっと走ってさ。写真はさ、三脚立てるの苦手やから、手持ちで上手く撮る練習する。夕焼けは難しいけど、難しいから楽しいねん」
「うん」と私は相槌を打つ。「難しいほうが、あとで、嬉しいもんね」
「仕事は……まあ、今は全然わからんけど」と蓮は笑う。「でも、“大人になったら”って言葉が、なんか嫌や。今を捨てるみたいやから。今、ちゃんとしといて、その続きに“なったら”があるんやろな」
私は彼の「大人になったら」を心の中で繰り返す。その先を知っている痛みと共存する練習を、ゆっくり始める。痛みをただ飲み込むのではなく、薄い水で割って、温度を変えて、体のどこに置くかを選ぶこと。足の裏の歩幅、息の寝かし方、視線の置き場所。私が選べることを、選ぶ。
夕暮れの色が濃くなる。歩道橋の上で、風が一度だけ向きを変える。蓮の髪が、その風の形を忠実になぞって揺れ、すぐに元に戻る。私はその一部始終を、ただ見ている。見ていること以外のすべてが、余計な気がする瞬間がある。見ていることの中に、十七歳の全部がある。
夜、自室で共通日記を開く。青い表紙は、今日の汗を吸って少しだけ温度を持っている。私は「今日は海の話をした」と書く。ペン先が紙の繊維を押し分けて進む感触。書き終えると、ページの端がふっと揺らいだ気がした。窓は閉めている。風はない。私は息を止める。次の瞬間、細い鉛筆の線が、私の文字のすぐ下に現れたように、見えた。「来年も」。蓮の癖に、似ている。見間違い、と言い切るには、短い。短いのに、確かだと信じたい欲が、指先に集まる。私はページをそっと閉じる。閉じると、部屋の時計の秒針が一瞬だけ止まった。静止の気配は、すぐにほどけて、秒針はまた動き始める。時間は、ほころびながらも進む。進むたび、ほころびは別の場所に移る。
机の上の散らかったプリントを整えようとして、手が止まる。ベッドの下の影がいつもより濃い。しゃがみ込んで腕を伸ばすと、薄い光沢の紙に指が触れた。引っ張り出す。去年の夏祭りのツーショット。提灯の赤が、私たちの頬に丸い色を置いている。蓮が少し照れて笑っている。私は隣で、目を細めている。写真の裏に、細いペンで書かれた文字。「7/31 20:40」。数字を目で追った瞬間、体が硬直する。具体的な時刻は、名前を持つ刃物に似ている。刃がどこに向いているのか、もう誤魔化せない。「その時刻の前に」を、私はこれまで口の中で壊してきた。壊すたび、意味は砕けて砂になり、喉を乾かせた。砂のかわりに小さな水を飲むみたいにして、私は今、息を吸う。
写真を裏返し、机の上に置く。音はしなかった。紙は、いつだって無音で落ちる。私は椅子に座り直し、天井を見上げる。朝に見つめた、あの細い影は、夜になると形がぼやける。ぼやける代わりに、部屋のどこかで別の線が濃くなる。時計の秒針が、規則正しく、ほんの少しだけ早足で進む。息を合わせる。ひとつ、ふたつ。昨日よりすこしだけ正確に。今夜は、録音アプリを開かない。開かないこともまた、目印になる。目印なしで歩ける距離が、今日、ほんの少しだけ延びた気がした。
枕元で、手帳を開く。今日の欄には、昼のうちに書いた「7/31=境界」の文字がある。二重線で囲む。囲った瞬間、線の内側の空気がわずかに温度を変える気がする。境界は線ではなく幅を持つ。幅の中で、私は迷うのではなく、立ち止まる練習をする。立ち止まって、呼吸を数え、目を開けて、手を伸ばす。届くものと、届かないものの差を、今日のうちに確かめる。
電気を消すと、窓の向こうで、どこか遠くの車のライトが壁に一度だけ反射した。光は、そこにいたことだけを知らせて、すぐにいなくなる。私は布団に入り、目を閉じる。暗闇の中で、「来年も」という二文字が、淡い光で浮かぶ。浮かんだ文字は、私に触れず、ただ空気を少しだけやわらかくした。やわらかさの中で、私は体の力を抜く。抜いた力の分だけ、明日へ持っていける強さが増えるのだと、信じてみる。
――十七歳の夏は、戻ってきたのではなく、私の中で開いている。開いたものは、簡単には閉じない。閉じるには、もう一度、手で確かめる必要がある。私はそのことを、今日の静けさの中でだけ、正しく思い出せた。時計の秒針は進む。写真の裏の数字は変わらない。変わらないものと進むもののあいだで、私は明日の歩幅を、そっと決めた。



