あの日の約束が叶うなら、もう一度だけ君に会いたい

 朝は曇っていた。雲は薄い灰色で、天井の白をすこしだけ冷たくする。目を開けると、視界の端で一本の髪の毛が天井に触れているみたいな影を見つけた。よく見れば、照明の笠の縁から落ちる細い線にすぎないのに、そこだけがやけに存在感を持つ。身を起こそうとすると、体は熱もないのに重かった。布団の綿が湿気を吸って重くなった朝の、あの質量。腕を動かすたびに、海の浅瀬を歩くみたいに抵抗がある。

 母はドアを半分だけ開けて、「無理しないで」と言った。声がよく通る朝ほど、人は心配を隠すのがうまくなるのだと思った。私は「大丈夫」と答える代わりに、うなずいた。母は出勤の準備を整え、玄関で鍵の音を二度鳴らしてから出ていった。家の中に、私だけの音が残る。布団が肌に擦れる音、喉の奥で呼吸が反響する音、冷蔵庫の低い唸り。時計の針は正確に進んでいるはずなのに、数字は曖昧なまま浮かんでいる。時間は、見ていないと勝手に歪む。見ているときは、こちらの目つきを真似てくる。

 天井の影をもう一度見つめる。影は影のままで、形を変えない。私はゆっくりと布団から手を出し、指先で空気を掬う動作をした。何も掴めないのに、その無為を体に刻むと、少しだけ次の動作に移れる。リモコンでテレビをつけるのはやめて、窓のカーテンをすこしだけ開けた。曇天の薄い光が、室内の輪郭をにじませる。見慣れた机の角、引き出しの金属取っ手。昨日の夜、鍵をかけ直した感触が、指にうっすら戻ってくる。

 机に歩み寄って、引き出しの鍵を外した。かちり、という音は昨日より小さく、しかしはっきりしていた。中から、共通日記を取り出す。濃い青の表紙。角の白い擦り傷。ページを開くと、付箋を挟んだところがふくらみ、指にすぐ触れた。昨日、淡い黄色の四角に「ここで時間が止まった」と書いて挟み込んだ、その場所。ためらいながら、付箋の先を摘んで持ち上げる。ページの先――最終ページに近い白紙のスペースに、薄い鉛筆の影のようなものが見えた。気のせいだと思った。たぶん紙の繊維が光を拾っただけだ、と。

 部屋の明かりを消し、窓辺へ日記を持っていく。曇りの光に角度を合わせ、紙をそっと傾ける。白の奥に、薄い線の集まり。細い骨のような跡。目が慣れてくると、線は形を持ちはじめる。ひと筆ひと筆の癖。とめ、はね、はらい。文字になる。――「また夏に会おう」。頭のところで、血が一度だけ抜け、足の裏から戻る。その間に、喉は乾いた。声は出ないのに、声の出ないことが音になる。

 私は否定した。これは私の見間違い。紙の繊維、光の悪戯。そうでなければ困る。困るのに、その困りごとは、どこかで待ち望んでいた来客にも似ている。胸の奥の誰かが椅子から立ち上がり、玄関まで迎えにいく。私は机に戻り、ページを遡った。過去の蓮の筆跡と照合する。筆圧の波、鉛筆の芯の減り具合、数字の書きぶり。七の横棒は短く、三は二画目が少し長い。「夏」の左の縦画が、ほんの少し右へ寄っている。合致する。乱暴にめくっては戻り、また同じところで指が止まる。何度目かの往復で、白紙だったページの角に、極小の数字が光に浮いた。「7/31」。インクではない。紙の繊維が角度を変えて光を拾うだけのように、見える。見える、と思った瞬間、胸に温度が広がる。温度は恥ずかしさでも喜びでもない、名前のないぬくもりで、失くしたものが一時的に形を取り戻すときだけ生まれる、あの種類の熱だ。

 机の上の透明軸のシャープペンに、自然に手が伸びていた。芯は、先日折れたばかりで短い。カチ、カチ、と二度押して、出過ぎないように爪で整える。同じページの余白に、私は迷いのない字で書いた。「会いたい」。二文字目の「い」が少しだけ大きくなった。書いた瞬間、空気が変わる。世界の音が薄い布で二重に覆われたみたいに遠のき、窓の外の蝉の声が逆再生で縮む。音が奥に引き戻される。耳の中で、気圧がふっと変わる。耳管が詰まり、床がすこしだけ斜めになる。私は机の縁を掴み、体が落ちる方向を探る。本のページの境目が、現実の境界になって、そこだけが違う重力を持ったように見えた。

 視界がゆるやかに暗転して、その暗がりの中に白い線が一本、走る。黒板の枠に似た白。目を開けると、学校の廊下に立っていた。床はワックスで去年の光をまだ少し閉じ込めている。掲示板のポスターの端がめくれ、日付は数年前。写真部の展示のプリントには、幼い私が写っている。制服のスカートの丈は、学校の規則に忠実すぎて、今見ると少しだけ間の抜けた真面目さがある。窓の外からグラウンドの照り返し。湿った風が白いカーテンを押して、すぐに引く。誰かの声が重なる。笑い声は、私の最近の記憶より高い。

 階段を駆け降りる足音。跳ねる音の次に、名前を呼ぶ声。「結衣!」。その音だけで、膝がゆるんだ。私は廊下の壁に片手をつき、ぐっと体を支える。彼は角を曲がって現れた。汗ばむ前髪、額に光る小さなしずく。私を見ると、いつも通りの笑顔で言う。「どうした、大丈夫?」。私は手を伸ばしてしまう。触れてしまう。腕。体温。汗に混ざる、部活の倉庫に並ぶ古いマットの匂い。塩気。夢ではない。夢なら、もう少し輪郭が甘いはずだ。

「ごめん、ちょっと、夢見て」と言い訳のようにいうと、蓮は肩をすくめた。「なら、起きるまで付き合う」と冗談めかして言って、私の頭を軽く叩く。指先の的確さが、笑ってしまうほど懐かしい。笑うと、目の奥のどこかが崩れて、涙がこぼれそうになった。私は鼻の奥の熱を押し込めるみたいにして息を吸い、彼の胸に額だけをすこしだけ寄せた。彼は驚いた顔をして、ゆっくりと腕を回すでもなく、距離を保ったまま立っていた。その慎重さが、逆に私を救った。

 呼吸が整ってくると、私は周囲を見回した。時間は、どの方向を指しているのか。廊下の端のカレンダーに視線をやる。七月二十日。紙の数字は新しい。インクは乾いているのに、日付は今日のために印字されたみたいに鮮やかだ。事故まで、十日以上。頭の中で、日にちを指折り数える。今日は二十日。二十一、二十二、二十三……三十一。指が止まる。昨日、紙の角で見た「7/31」の数字が、脳裏に浮かぶ。私は、拳を強く握った。今度はちゃんと過ごす、と心の中で言葉にする。ちゃんと、という曖昧な副詞が、今日だけは具体的な形を持つ。宿題を期限までに出すとか、噂話をしないとか、そういうことより、はるかに先の場所にある「ちゃんと」。

 それでも、問いは背後からついてくる。運命を変えられるのか。変えるという単語は、強すぎる。運ぶ方向を少しずらす、とか、角度を一度変える、とか、そういう言い方に置き換えたい。私は蓮の顔を見上げた。彼は、いつもの彼だ。たぶん、ここには「泣けない泣き方」なんて言葉はまだ存在しない。私の辞書の、そのページはまだ印刷されていない。頭のどこかが、すこしだけ軽くなる。

 放課後、私たちは寄り道をした。商店街の端のコンビニでアイスを買う。私は白いカップのバニラ、蓮はチョコモナカを選んだ。外に出ると、バス停のベンチがちょうど影になっている。古いベンチの表面は、何度も塗り直されて、薄いペンキの層が年輪みたいに重なっている。私はスプーンですくって、口に運ぶ。一口目の冷たさが舌先に刺さって、すぐに甘さに変わる。甘さは瞬時に喉を通って、胸の真ん中に丸い球を置く。

「ねえ」と蓮が言う。「免許取ったらさ、バイクで海、見に行こう。朝早く出て、昼前に着いて、帰りは夕日を追いかけながらさ」。私は「いいね」と言う。「写真も撮ろう。お前、撮るの好きだろ」と続ける。私は笑ってうなずく。来年の夏、という言葉が彼の口から自然にこぼれ落ちるたび、喉のどこかが細くすぼまる。蓮は気づかない。私も、気づかれないように笑う練習をする。笑いの角度を、少しだけ内側に倒すと、痛みは見えにくくなる。それは、ひとつの技術だ。

「来年の夏はさ、遠くの花火大会行きたい。あの、海沿いの。屋台がめっちゃ出て、人多いけど、浜風があるから暑くないってやつ」。蓮は空を指さすみたいにして、言葉で地図を描く。私は頷きながら、彼の指の先を見る。空は曇っている。雲は薄く、高さを失っている。ベンチの脇の電柱に、ポスターが貼られているのに気づく。「夏祭り花火大会 7/31」。赤い字は少しだけ褪せて、しかし数字だけは太く濃い。ポスターの片隅、装飾の模様のような細い線が、境界線の記号に見えた。地図で国と国を分ける時に引かれる、あの細い線。あるいは、日記のページの真ん中を走っていた、現実と紙の境目のような。

 私はポケットから、小さな手帳を取り出す。今の予定を書き込むための、現行の手帳。共通日記ではない。私はボールペンで今日の日付の欄を開き、その下に小さく書いた。「7/31=境界」。文字を書いているあいだ、息を止めていたらしい。書き終えてから、遅れて肺が空気を欲しがる。吸う、吐く。吸う、吐く。昨日録音した自分の呼吸の音が、耳の奥で薄く再生される。私はボールペンのノックを戻し、手帳を閉じた。

 風が、ページを一枚だけめくった。閉じたはずの手帳の端がふっと持ち上がり、薄い紙が空気に追随して鳴る。ぱら、と音がして、先のページがちらりと顔を見せる。そこには何も書かれていない。白い。白さは可能性の色だと言う人がいるけれど、私はそれを簡単には信じない。白さは、まだ名前がないだけの色かもしれない。名前は、後から付く。付けるのは私かもしれないし、私ではない誰かかもしれない。

 バスが曲がり角の向こうから現れた。ブレーキの音が、曇った午後の空気に溶ける。乗ろうか、歩いて帰ろうか、と蓮が言う。「歩く」と私は答える。足元のアスファルトに、小さな石が埋まっていて、靴の底がわずかに盛り上がる。歩くたび、それは私の重さを受け止め、すぐに手放す。私たちは並んで歩き始めた。会話は途切れ途切れで、その途切れが、今日のためだけの余白になった。

 家に着くと、母はまだ帰っていなかった。玄関の匂いは朝と同じで、キーリングの金属の匂いと雨の匂いが混ざっている。部屋で手帳を机の上に置く。共通日記には触れない。触れないでいることが、触れることより難しいと初めて知った。窓の外、雲の厚みが少し増した。明日が晴れるのかどうか、天気予報のない世界で迷う。私は机に頬杖をつき、指先で机の端をリズムもなく叩く。叩くたび、今日の紙の匂いがわずかに立つ。

 夜、布団に入って目を閉じる。まぶたの裏に、ポスターの「7/31」の数字が浮かぶ。境界。境界は、いつでも線ではなく幅を持つ。幅の中を歩いているあいだは、どちらにも属さない。どちらにも属さない時間が、ほんの少しだけ人をやさしくすることを、私は前にどこかで読んだ気がする。図書室の薄い本。あの章のタイトルは――「時間と境界の民話」。付箋の色は淡い青。ページの真ん中の一行。「境界の裂け目は、約束を守る者に開く」。私は小さく息をつく。約束。「また夏に会おう」。守る、とは何を指すのか。言葉に触れた瞬間だけ、意味は輪郭を持ち、すぐに溶ける。

 眠りは浅く、しかし確実にやってくる。夢の手前で、私は自分の呼吸を数える。ひとつ、ふたつ。昨日よりも、すこしだけ正確に。ページのどこかで、風が音を立てている。閉じたはずの手帳の角が、また揺れた気がした。めくれ上がった先の白いページに、風の指が触れる。不穏、という言葉の形をした、かすかな冷たさが足首にまとわりつく。私は布団の中で膝を折り、空気を抱くみたいにして眠りに落ちた。

 ――開いたものは、簡単には閉じない。閉じるには、もう一度開く必要がある。そう書かれた見えない文字が、天井の影と重なって、静かに、そこにあった。