始業式の朝、窓を開けると、空気の端にだけ秋が混ざっていた。洗いたてのシャツを肩に通すと、綿の目が肌の上で音もなく整列する。去年と同じ制服、同じボタン、同じ糸――なのに、糸は少し太くなった気がした。糸の太さではなく、私の指の感覚が、今はもう少し正確なのかもしれない。襟を指でなぞり、鏡に「行ってきます」を小さく映す。母の「行ってらっしゃい」に重ねるように言うと、声は玄関の靴の上にふっと降り、そこから外へ滲んでいく。
校門の手前で、蝉の声と、すでに混じり始めた秋の虫の細い音が、ほんの一瞬だけ交差した。体育館に入ると、床のワックスの匂いが鼻に届き、靴底のゴムがぬるく滑った。椅子に座る前、私は一度だけ呼吸を数える。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。舞台の上では校長が紙を持ち、長い話を始める。言葉は遠くで波のように続き、天井の扇風機はゆっくり首を振る。左、正面、右。右、正面、左。扇風機の風は私の前髪をわずかに持ち上げ、また置く。その単調は、退屈で、光だ。普通が戻る。普通は、退屈で、光だ。私は“帰った”実感を、小さく噛み締めた。
拍手の音が小さく散り、体育館から教室へ移動する。廊下の掲示板には文化祭の予告のポスターが貼られ、角が早くもめくれている。教室に入ると、黒板に「席替え」の二文字。ざわめき。担任はいつものやり方――出席番号順にくじを引く方式――で、淡々と名前を呼んでいく。私のくじは、窓から二列目の真ん中より少し後ろ。瑠衣は斜め前、蓮は窓際の一番後ろ。遠すぎず、近すぎない。偶然の配置が、ほどよい「間」を置く。
新しい席に教科書を重ね、筆箱の位置を決め、椅子を少しだけ内側に寄せる。角度は、黒板の左下が見やすいくらい。午前の短い授業が終わると、昼休み、三人で机を寄せた。瑠衣が弁当の蓋を外し、「見て見て、卵焼きが巻けた」と誇らしげに言う。私は拍手し、蓮は「巻きの巻きが深い」とよく分からないことを言って笑わせる。スマホを取り出し、互いの夏の写真を見合う。海の夕日、濡れた石畳、橋の上のチェキ。指で滑らせるたび、画面の光が額に跳ね返る。
「二人、顔が変わった」
瑠衣がそう言い、箸の先で私たちを順番に指す。
「何かに勝った顔?」
私は笑う。勝ち、という単語の角はまだ気恥ずかしい。
「何かに負けた顔でもある」
蓮がそう返して、三人で笑った。勝ちと負けが重なると、生き延びた顔になる。勝っただけの顔はどこか薄く、負けただけの顔は今にも崩れそうで、重なった顔は、厚みがある。厚みは、ページの束の厚みと似ている。読み終えたぶんだけ、指に重さが残る。
午後のチャイムが鳴り終わった頃、私は図書室へ向かった。廊下の端の窓から、白い雲がちぎれて流れていくのが見える。図書室の中は、夏よりすこし涼しい。窓際の机に知らない生徒がひとり、その手前に新聞が開きっぱなしで置かれている。私は民俗学の棚に歩き、背表紙の列の間に指を入れて、あの本――『境界の民話』――を探す。あった。棚に戻され、付箋は外されている。表紙を開いても、折れ曲がった角は戻っていて、ページは何事もなかった顔をしている。
――何事もなかった顔、を演じるのが上手なものほど、何かを抱えている。
そんなことを考えながら、私は貸出カードのポケットに指を差し入れた。透明な小さなポケットの裏、紙が一枚、少しだけずれている。引き出すと、その裏に鉛筆で小さな文字があった。
〈返却期限:来年の夏〉
もちろん正式な記載ではない。だれかの遊び。事務的な余白に忍び込んだ、私的な未来。私は笑う。遊びは、合図の練習だ。私はその遊びを受け取り、心の中でだけ、そっと押印する。夏は返却し、また借りる。返却するから、借りられる。持ち帰るから、また持ち出せる。
家へ帰ると、玄関には去年と同じ位置にサンダルが置かれていた。少し色が薄くなっている。台所では母が包丁を鳴らし、夕方のニュースが画面の青で部屋の色温度を下げる。アナウンサーの声の向こうで鍋の水が軽く揺れ、小さな泡の音がときどき跳ねる。家は、去年とほぼ同じ。違うのは、私の胸の中の配置だった。恐れの位置が少し後ろへ下がり、働く手が前へ出た。恐れは消えない。でも、後列へ下げれば、視界は広がる。前列に出た「働く手」は、段取りと、工具箱と、合図を持つ。
夕食のあと、机に座る。窓の外で、秋の虫がまだ遠慮がちに鳴く。共通日記を開くと、最終ページが近い。表紙に戻るまで、指で数えられる残り。私は今年の「条文」を清書することにした。これまで書き散らしてきた箇条書きを、ひとつの骨組みにまとめる作業。骨は硬すぎてはいけない。折れるから。柔らかすぎてもいけない。形にならないから。少し弾力のある、ちょうどよい強度で。
ペン先を整えて、書く。
――条一 危険の合図は手
――条二 感情は肯定形で
――条三 戻る場所は三回折り
――条四 写真と言葉は交換
――条五 笑いを可視化(数える)
――条六 謝罪は修理
――条七 祈りは段取りへ
ひとつ書くごとに、呼吸をひとつ置く。条文は、祈りの形式の退屈さに似て、私の心を落ち着かせる。書き終えて、ページの下に目をやる。待つ。数秒後、インクの濃さが少し上がった場所から「賛成」の二文字が現れる。筆圧は、夏の途上で見たどれよりも、整っていて、落ち着いている。私は笑う。「ありがとう」と小さく書き足す。ありがとうは、魔法ではない。修理の潤滑油だ。
さらに、欄外の見知らぬ筆跡が最後の一行を添えた。年齢の重みを持つ、滑らかな字。
――約束は、君の胸に残る動詞
名詞ではなく、動き。約束は、これからも“行う”もの。私は胸の真ん中が温かくなるのを感じる。約束という単語が、書棚の背表紙から降りてきて、工具箱の中の一番上に置かれる。取り出しやすい場所へ。
ペンを置き、胸に手を当てる。鼓動は落ち着いている。数える。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。目を閉じると、夏の映像がリールのように回る。海、雨、橋、灯、祠、写真、手、声。どれも静かで、強い。強さは大きな音ではなく、長く残る輪郭。輪郭が残れば、たとえ色が薄れても、形は戻せる。
窓を少し開けると、風はやわらかい。紐に吊るした風鈴は鳴らない。鳴らない糸だけが夜の光を拾い、細く光る。スマホが震えた。画面には蓮の名前。
〈明日も学校。明日も、手〉
短いメッセージは、過不足がなく、よく馴染む。私は「了解。明日も、ことば」と返す。“手”と“ことば”。この夏、私たちが手に入れた、二つの道具であり、証拠。手は合図で、言葉は修理で、両方は約束だ。送信の青いバーが右端まで走るのを見届けて、私はスマホを伏せた。
ベッドに潜る。布団の匂いは、太陽と洗剤と少しの眠気でできている。天井の白は、夜になると天井の白の役割をやめ、ただの余白になる。そこに、今日の字が薄く透ける。私は「ありがとう」を小さく三回言った。ひとつ、ふたつ、みっつ。声は外へ出ない。胸の内に丸い輪をつくり、その輪がゆっくり広がって、肋骨の内側に触れて止まる。
暗闇は恐ろしくない。暗闇は、見えるものを選ばせてくれる。見えなくていいものをそっと後ろへ下げ、今見たいものを手前へ引き寄せる。胸の中には、確かな灯が残っている――約束という名の、動く灯が。灯は小さいけれど、歩く速度にちょうどいい。速すぎも遅すぎもしない。私はその灯を胸骨の裏でそっと持ち、まぶたの裏に今日の条文をもう一度並べる。条一から条七まで、順番に。唱えるたび、身体が順番を思い出す。
眠りのふち、遠くで秋の虫が試し鳴きを始めた。季節が滑っていく音。それに合わせるみたいに、私の呼吸も、音のないところで小さく調律される。約束は名詞じゃない。動詞だ。明日も、行う。明日も、手。明日も、ことば。私は胸の上で両手を重ね、小さく頷いた。青い糸の結び目はほどけず、固くもならず、ちょうどよく息をしている。世界は静かで、動いている。私は静かで、動いている。動く灯は、消えない。消えないまま、今日を終わらせる。そうして私は、音の少ない夜へ、ゆっくりと沈んでいった。
校門の手前で、蝉の声と、すでに混じり始めた秋の虫の細い音が、ほんの一瞬だけ交差した。体育館に入ると、床のワックスの匂いが鼻に届き、靴底のゴムがぬるく滑った。椅子に座る前、私は一度だけ呼吸を数える。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。舞台の上では校長が紙を持ち、長い話を始める。言葉は遠くで波のように続き、天井の扇風機はゆっくり首を振る。左、正面、右。右、正面、左。扇風機の風は私の前髪をわずかに持ち上げ、また置く。その単調は、退屈で、光だ。普通が戻る。普通は、退屈で、光だ。私は“帰った”実感を、小さく噛み締めた。
拍手の音が小さく散り、体育館から教室へ移動する。廊下の掲示板には文化祭の予告のポスターが貼られ、角が早くもめくれている。教室に入ると、黒板に「席替え」の二文字。ざわめき。担任はいつものやり方――出席番号順にくじを引く方式――で、淡々と名前を呼んでいく。私のくじは、窓から二列目の真ん中より少し後ろ。瑠衣は斜め前、蓮は窓際の一番後ろ。遠すぎず、近すぎない。偶然の配置が、ほどよい「間」を置く。
新しい席に教科書を重ね、筆箱の位置を決め、椅子を少しだけ内側に寄せる。角度は、黒板の左下が見やすいくらい。午前の短い授業が終わると、昼休み、三人で机を寄せた。瑠衣が弁当の蓋を外し、「見て見て、卵焼きが巻けた」と誇らしげに言う。私は拍手し、蓮は「巻きの巻きが深い」とよく分からないことを言って笑わせる。スマホを取り出し、互いの夏の写真を見合う。海の夕日、濡れた石畳、橋の上のチェキ。指で滑らせるたび、画面の光が額に跳ね返る。
「二人、顔が変わった」
瑠衣がそう言い、箸の先で私たちを順番に指す。
「何かに勝った顔?」
私は笑う。勝ち、という単語の角はまだ気恥ずかしい。
「何かに負けた顔でもある」
蓮がそう返して、三人で笑った。勝ちと負けが重なると、生き延びた顔になる。勝っただけの顔はどこか薄く、負けただけの顔は今にも崩れそうで、重なった顔は、厚みがある。厚みは、ページの束の厚みと似ている。読み終えたぶんだけ、指に重さが残る。
午後のチャイムが鳴り終わった頃、私は図書室へ向かった。廊下の端の窓から、白い雲がちぎれて流れていくのが見える。図書室の中は、夏よりすこし涼しい。窓際の机に知らない生徒がひとり、その手前に新聞が開きっぱなしで置かれている。私は民俗学の棚に歩き、背表紙の列の間に指を入れて、あの本――『境界の民話』――を探す。あった。棚に戻され、付箋は外されている。表紙を開いても、折れ曲がった角は戻っていて、ページは何事もなかった顔をしている。
――何事もなかった顔、を演じるのが上手なものほど、何かを抱えている。
そんなことを考えながら、私は貸出カードのポケットに指を差し入れた。透明な小さなポケットの裏、紙が一枚、少しだけずれている。引き出すと、その裏に鉛筆で小さな文字があった。
〈返却期限:来年の夏〉
もちろん正式な記載ではない。だれかの遊び。事務的な余白に忍び込んだ、私的な未来。私は笑う。遊びは、合図の練習だ。私はその遊びを受け取り、心の中でだけ、そっと押印する。夏は返却し、また借りる。返却するから、借りられる。持ち帰るから、また持ち出せる。
家へ帰ると、玄関には去年と同じ位置にサンダルが置かれていた。少し色が薄くなっている。台所では母が包丁を鳴らし、夕方のニュースが画面の青で部屋の色温度を下げる。アナウンサーの声の向こうで鍋の水が軽く揺れ、小さな泡の音がときどき跳ねる。家は、去年とほぼ同じ。違うのは、私の胸の中の配置だった。恐れの位置が少し後ろへ下がり、働く手が前へ出た。恐れは消えない。でも、後列へ下げれば、視界は広がる。前列に出た「働く手」は、段取りと、工具箱と、合図を持つ。
夕食のあと、机に座る。窓の外で、秋の虫がまだ遠慮がちに鳴く。共通日記を開くと、最終ページが近い。表紙に戻るまで、指で数えられる残り。私は今年の「条文」を清書することにした。これまで書き散らしてきた箇条書きを、ひとつの骨組みにまとめる作業。骨は硬すぎてはいけない。折れるから。柔らかすぎてもいけない。形にならないから。少し弾力のある、ちょうどよい強度で。
ペン先を整えて、書く。
――条一 危険の合図は手
――条二 感情は肯定形で
――条三 戻る場所は三回折り
――条四 写真と言葉は交換
――条五 笑いを可視化(数える)
――条六 謝罪は修理
――条七 祈りは段取りへ
ひとつ書くごとに、呼吸をひとつ置く。条文は、祈りの形式の退屈さに似て、私の心を落ち着かせる。書き終えて、ページの下に目をやる。待つ。数秒後、インクの濃さが少し上がった場所から「賛成」の二文字が現れる。筆圧は、夏の途上で見たどれよりも、整っていて、落ち着いている。私は笑う。「ありがとう」と小さく書き足す。ありがとうは、魔法ではない。修理の潤滑油だ。
さらに、欄外の見知らぬ筆跡が最後の一行を添えた。年齢の重みを持つ、滑らかな字。
――約束は、君の胸に残る動詞
名詞ではなく、動き。約束は、これからも“行う”もの。私は胸の真ん中が温かくなるのを感じる。約束という単語が、書棚の背表紙から降りてきて、工具箱の中の一番上に置かれる。取り出しやすい場所へ。
ペンを置き、胸に手を当てる。鼓動は落ち着いている。数える。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。目を閉じると、夏の映像がリールのように回る。海、雨、橋、灯、祠、写真、手、声。どれも静かで、強い。強さは大きな音ではなく、長く残る輪郭。輪郭が残れば、たとえ色が薄れても、形は戻せる。
窓を少し開けると、風はやわらかい。紐に吊るした風鈴は鳴らない。鳴らない糸だけが夜の光を拾い、細く光る。スマホが震えた。画面には蓮の名前。
〈明日も学校。明日も、手〉
短いメッセージは、過不足がなく、よく馴染む。私は「了解。明日も、ことば」と返す。“手”と“ことば”。この夏、私たちが手に入れた、二つの道具であり、証拠。手は合図で、言葉は修理で、両方は約束だ。送信の青いバーが右端まで走るのを見届けて、私はスマホを伏せた。
ベッドに潜る。布団の匂いは、太陽と洗剤と少しの眠気でできている。天井の白は、夜になると天井の白の役割をやめ、ただの余白になる。そこに、今日の字が薄く透ける。私は「ありがとう」を小さく三回言った。ひとつ、ふたつ、みっつ。声は外へ出ない。胸の内に丸い輪をつくり、その輪がゆっくり広がって、肋骨の内側に触れて止まる。
暗闇は恐ろしくない。暗闇は、見えるものを選ばせてくれる。見えなくていいものをそっと後ろへ下げ、今見たいものを手前へ引き寄せる。胸の中には、確かな灯が残っている――約束という名の、動く灯が。灯は小さいけれど、歩く速度にちょうどいい。速すぎも遅すぎもしない。私はその灯を胸骨の裏でそっと持ち、まぶたの裏に今日の条文をもう一度並べる。条一から条七まで、順番に。唱えるたび、身体が順番を思い出す。
眠りのふち、遠くで秋の虫が試し鳴きを始めた。季節が滑っていく音。それに合わせるみたいに、私の呼吸も、音のないところで小さく調律される。約束は名詞じゃない。動詞だ。明日も、行う。明日も、手。明日も、ことば。私は胸の上で両手を重ね、小さく頷いた。青い糸の結び目はほどけず、固くもならず、ちょうどよく息をしている。世界は静かで、動いている。私は静かで、動いている。動く灯は、消えない。消えないまま、今日を終わらせる。そうして私は、音の少ない夜へ、ゆっくりと沈んでいった。



