始業式の前日。窓の外の空は、まだ夏の青を名残に揺らしながら、どこかで薄く秋の気配を混ぜはじめている。風は乾いているのに、カーテンの裾は湿ったような重さで揺れた。私は机の上に制服を広げ、アイロンの先を襟に押し当てる。蒸気の白が一度だけ立ちのぼり、布の皺が音もなく沈む。肩から袖へと滑らせ、背に回り、裾を引き、また襟へ戻る。小さな「整える」を、順番に置いていく。

 教科書のカバーを替える。透明のビニールを開き、角を合わせ、空気の泡をカードで押し出す。古いカバーは黄ばみがひと筋、指で引けば簡単に裂けた。裂け目のシャッという感触で、胸のざわめきが細かい砂になっていく。砂なら、飲み込まずに吐き出せる。靴の泥を落とす。ブラシを当て、爪先の縫い目に詰まった薄茶の粒をはじく。靴紐を左右、同じ長さに揃え、ぎゅっと結ぶ。三回、指で結び目を確かめる。ひとつ、ふたつ、みっつ。昨日より、すこしだけ正確に。

 昼。スマホが震える。瑠衣から。「明日、席替えだったら、近いといいね」――短いメッセージ。私は「そうだね」と返す。軽い言葉は、時々、救命具になる。深く沈みかけたときにだけ、やわらかく浮かび上がらせる、空気の輪。文字の送信を見届けてから、私は胸の奥で小さく息を吐いた。輪っかは見えないのに、腕にかかる。

 午後、蓮と合流して、写真の展示会場へ向かった。市民会館のガラス扉は指紋で曇り、押すと重い。中は涼しく、空調の風が床を這ってくる。入ってすぐのホワイエに、受付の机がひとつ、手指消毒のボトルがひとつ、プログラムの紙がひと束。人影はまばらで、話し声は壁に簡単に吸われていく。

 展示室には、等間隔に写真が並び、それぞれの下に小さな札がついていた。作者名。タイトル。学校名。紙の白は同じなのに、活字の字体がばらばらで、丸い字、角ばった字、妙に伸びる字、縮こまる字が交互に現れる。「この札のフォント、統一されてないね」と私が笑うと、蓮も小さく笑った。

「それ、俺も思ってた。作者の個性より札の個性が強いのあるよな」

「ね。札に負けない写真、っていう対決図」

 冗談はすぐ溶けた。壁の「佳作」の札の前で、蓮は立ち止まる。自分の「雨上がり」がそこにあった。濡れた石畳と、低い空。提灯の色は薄く、それなのに水の上でだけ強く、赤く揺れる。「次も出す」と、蓮はそれだけ言った。声は強いけれど、突っ張っていない。方向だけが、はっきりしている。

「次、私もエッセイ出す」

 自然と出た言葉だった。去年の私が言えなかった未来の言い方。未来は“具体の挑戦”というフォームを得たとき、急に、現在形の動詞に寄ってくる。展示室の出口のところに「次回募集」の紙があり、応募要項――サイズ、締切、搬入方法――が淡々と並んでいた。フォームは、どこかお祓いに似ている。念ではなく、段取り。願いではなく、手順。

 会場を出ると、空はすでに曇っていた。光の白さは硬いまま、色だけが薄くなる。風は湿っていて、商店街のシャッターの隙間から、油と鉄の匂いが押し出されてくる。駅前の踏切に近づくと、警報が鳴った。赤い点滅。低いベルの音が、線路に沿って空を横切る。

 私は無意識に、三回折りの手帳に触れた。折り目の角は、いつもより頼もしい厚みになっている。蓮の指を探す。彼はもう、こちらの手を探していて、握り返す。ぎゅ、ぎゅ――合図は二度。踏切の棒はゆっくり降り、車列が止まる。人も止まる。列車の音は遠くから近づき、私たちの前を通り過ぎる。すべてがその一本の線のために空けられた、細長い通路になっていく。

 通過のあいだ、世界が再び薄紙に包まれた。音が遠のき、匂いが消え、色の飽和が下がる。薄紙の皺は、去年の夜の皺と同じ位置に見えた。私はそこで、はっきり気づく。――戻る力が働いている。あの夜、世界が逸れてくれた方向ではなく、今は、私たちを、誰かの元いた場所へ押し戻そうとする力。

 警報が止まり、人が動きはじめた。私たちも一歩、踏み出す。階段の踊り場みたいな一歩。そこで、向こうから走ってきた自転車がバランスを崩し、少年が転びかけた。金属が短く鳴り、細いタイヤが地面を滑る音がして、私は反射的に肩をすくめる。蓮が、迷わなかった。とっさに手を出し、ハンドルを押さえて止める。前輪がほんの少し跳ね、少年の膝が地面に触れる寸前で踏みとどまる。

「すみません!」少年は顔を上げ、息を切らして礼を言い、もう一度「すみません!」と繰り返して、すぐ走り去った。小さな危機は、何も起きなかったに等しい形で終わる。終わったのに、胸の中の時間だけが少し遅れて震え、私の膝は、次の一歩を探すのに一秒かかった。

「いま、怖かった」

 私は正直に言い、蓮の腕に額を当てた。皮膚に汗の塩が少し残っていて、その塩が現実の温度を持っていた。蓮は「大丈夫」と言った。背に回る掌は、私が勝手に名づけた**“大丈夫の手”**だった。撫でるというより、押すでもなく、ただ、そこに在る圧。その圧が「今に戻れ」を言ってくれる。私は息を三度、数え直した。ひとつ、ふたつ、みっつ。昨日より、すこしだけ正確に。

 夕方、神社に寄る。境内はすいていて、風鈴の音が今日はよく透る。祠の前に立ち、私は小声で言った。

「もし、もしも、どうしても帰らなきゃいけないなら、お願い。持ち帰らせて。彼の笑い方、私の“ありがとう”、契約の条文、四つの手。――全部」

 しめ縄の結び目が、風で一度だけ強く鳴った。紙垂が横に揺れ、青い糸みたいに見える繊維が、夕日の端を掬って光った。返事の代わり。返答の不在が、返答の形式になることを、私はこの夏で覚えた。

 夜。机に共通日記を開く。ページは、今日の湿度に合った温度を持っている。私はペンを置き、「変えられなかった」と書きかけて、止まる。何を? 今年の夏は、変わった。花火の夜を越え、川の逆流をやり過ごし、灯籠の風がひっかけたさざ波を待った。いくつもの小さな“凶日”は、約束の連なりと段取りに弱まり、逸れた。だけど――帰る運命そのものは、変えられないのかもしれない。彼を“この夏に”留めることは、誰にもできないのかもしれない。夏は、背を向けながら近づいてきて、近づいたぶんだけ離れていく。私は書きかけの「変えられなかった」の上に、そっと一本線を引いた。

 言葉を選び直す。「変えるのではなく、受け止める」。続けて書く。「帰る。けれど、失わない」

 数秒ののち、ページの下から文字が、ゆっくり浮かびあがった。

 ――失わない=構造にする。

 構造。私はその単語の角を指でたしかめる。柔らかい覚悟に似た、骨。個人的な感情を、続けられる仕組みに起こす。私は箇条書きを始めた。

・戻る場所の確認(週に一度、手帳の角を三回折る)
・合図の握り(危険を感じたら、説明の前に「ぎゅ、ぎゅ」)
・写真と日記の交換(毎月一度、言葉と像を交換して見る)
・罰という名の修理(ためたら「ごめん」を三回。言いながら直す)
・「怖い」を笑わない契約(第3条の再読)
・「働く手」を可視化(段取りを書き、工具の位置を決める)

 書いているうちに、欄外に細い線が現れた。見知らぬ筆跡。年齢の重さを持つ、なめらかな字。

 ――構造=織り。道具×手順×伴走者。

 織り。縦糸と横糸。青い糸は一本だけでは頼りなく、けれど、交差が増えるたびに、布になる。布になれば、包める。包めば、持ち帰れる。私は「ありがとう」と書き、指でページの角を押さえた。指が少し震える。震えは止めない。震えが新しい織り目になって、紙の目をほんのわずかに変える。

 ペン先を持ち替え、私は「砕ける」という単語を小さく書き、丸で囲む。砕けたのは、たぶん「変えられるはず」という期待の塊だ。固いものは、すぐに折れる。砕けた破片は、光を増やす。小さな面が増えれば、同じ光でもきらきらする。破片は道具にもなる。紙やすりのように、角を落とす道具。刃の足りない小刀の、研ぎ直しの粒。

 深夜、眠りに落ちる手前、私は夢を見た。河川敷。去年の自分が泣いていて、今年の自分が隣に座る。去年の私は、指の背で涙を追いきれず、鼻をすすっている。靴の砂は落ちず、草は湿っているのに冷たくない。去年の自分が言う。「助けて」――小さな声。胸の奥の、誰にも届かないはずの場所から出た声。私は答える。「任せて」――去年よりすこし強く、でも、肩に載せない強さで。二人は手を繋ぐ。指の節と節が合い、骨の太さの違いを確かめるように、そっと握る。夜空を見上げ、泣く。泣きながら、呼吸を合わせる。ひとつ、ふたつ。去年より、すこしだけ正確に。

 目が覚めたとき、枕は少し湿っていた。泣いたのは、去年か、今年か、両方か。答えは要らない。泣けたことが、今年の違いだ。去年、私は泣けなかった。泣けなかったのは、涙が一滴も無かったからではなく、涙がどこへ行けばいいのか、身体が知らなかったからだ。今は、行き場がある。ページがあり、手があり、契約があり、青い糸があり、伴走者がいる。泣くことは、構造に含まれる。

 カーテンの隙間から朝の薄い色が差しはじめる。鳥の声はまだ少なく、風鈴は鳴らない。私はベッドの上で上体を起こし、膝に日記をのせる。最後にもう一行、書いた。

 ――帰る=失う、ではない。帰る=持ち帰る。持ち帰る=織り重ねる。

 ページは鳴らない。ただ、そこにある。あることそのものが、今日の光だ。私は制服の襟をもう一度撫で、鞄に教科書を入れ、手帳の角を三回折った。折り目の厚みは、唱えるための形。唱えるうちに、身体が順番を思い出す。鏡の前で一度、笑ってみる。口角は片方が少し上がりやすい。去年の私が知らなかった小さな癖。蓮の笑い方、昼寝の癖、ラムネの開け方、抱きしめたときの背中の温度――覚えているべき事柄の列を胸の内側で読み上げ、私は小さく頷いた。

 始業式は明日。夏は背を向けながら、私の方へまだ少し近づいてくる。砕けた破片は、ポケットの奥で小さく触れ合い、こすれて、丸くなる。痛みは消えない。けれど、痛みが形を持てば、置き場所が決まる。置き場所が決まれば、運べる。運べるものは、持ち帰れる。私は胸の上で両手を重ね、誰にも聞こえない声で「ありがとう」と言った。声は外へは出ない。出ないけれど、紙の向こうの誰かが、静かにうなずいた気がした。青い糸の結び目はほどけず、固くもならず、ちょうどよく息をしている。私は目を閉じる。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。風鈴は鳴らない。鳴らない静けさが、今日のふちをやさしく縫いとめていった。