日曜の午後。窓ガラスの向こうで、空は真夏の白に磨かれていた。光は硬く、洗いたての皿を乾かすみたいに、街の角をきっぱり乾かしていく。ベランダの風鈴は今日はほとんど鳴らず、鳴らないまま細い糸だけが陽の中で光っている。秒針が壁の白い余白に規則的な点を打つ。私は机の上に昨夜作った「帰り支度シート」をもう一度ひらき、赤いボールペンで今日の日付の横に小さな丸を足した。

 ――帰る=失う、ではない。帰る=持ち帰る。

 大きく書いたその一行の下に、細かい箇条書きが続く。鉛筆の芯はもう一本。ボールペンの青は半分。手帳の角は三回折った。共通日記の残りページは、片手で数えられる。スマホのメモには“今の私”が覚えているべき事柄――蓮の笑い方、昼寝の癖、ラムネの開け方、抱きしめたときの背中の温度――が並び、その列は読むたびに涙を呼ぶけれど、同時に、涙に溺れさせないための釘にもなっていた。私は深呼吸をひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。

 玄関で靴を履き、靴紐を結び直す。母が台所から顔を出し、「夕方まで?」と尋ねる。「図書館寄って、帰りに橋、かな」と答えると、母は「いってらっしゃい」と言った。声には小さな引っかかりがあって、それは見送る者の勇気の音だ。私はうなずき、ドアを閉めた。

 駅前で待ち合わせると、蓮は時間ぴったりに現れた。青いTシャツの肩のあたりに陽の粒が古いフィルムの傷みたいに散り、額にはうっすら汗が光っている。私たちは並んで図書館へ向かった。日曜の午後のはずなのに、人影はまばらで、風の音がいつもより遠くまで通る。商店街のシャッターの隙間からは、乾いた金属の匂いがした。

 館内は冷房が効きすぎていて、腕の皮膚が細かく縮む。自動ドアの開閉のたびに紙と埃の匂いが軽く揺れ、その揺れが冷房の風にすぐ攫われていく。書架の間の通路は暗く、窓際だけが明るい。私たちはその窓際の席に座った。テーブルの木目に小さな傷が縦に並び、誰かの時間がそこに少しずつ残っているのがわかる。

 宿題を、最後に片付ける。社会のプリント。英語の穴埋め。夏の作文の推敲。蓮は数学のグラフを丁寧に引き、私は原稿用紙に最後の句読点を置く。書きながらわかっている。これは勉強というより、儀式だ。普通をわざわざ作ること。普通の時間を人工的に呼び戻すことで、非日常に抗う術。二学期のベルが鳴る前に、私たちは自分の手で「普通」を一度、形にしておきたかった。

「終わった」と蓮がペンを置いた。私も「終わった」と言って、原稿用紙の角を軽く揃える。揃える、の動作だけで、胸の奥の揺れが半歩落ち着く。

「帰り、商店街、見てく?」

「うん。なんか、音がする」

 図書館を出ると、駅の反対側の商店街で小さなイベントが始まっていた。露店の屋根布が風でぱたぱたと鳴り、シャボン玉が横に流れていく。輪投げの輪が地面に当たって乾いた音を出し、わたあめの袋が透明の薄皮を光で膨らませる。子供の笑い声は、軽くて、よく跳ねた。蓮は肩掛けのポーチからチェキを取り出す。

「スナップ撮っていい?」と聞く声に、私はうなずく。蓮はすばやく店先の赤を拾い、影の青を拾い、シャボン玉の虹を拾った。チェキの小さなモーター音がかすかに鳴り、白い印画紙が吐き出される。ミルク色の中に色が少しずつ滲み、輪郭が上がってくる。私はその変化を見ているだけで、呼吸の速度が整うのを感じた。

「最後の一枚は、帰りに橋で撮ろう」と蓮が言った。ポーチの中のフィルムが、残り一枚でからんと軽い。「うちの分も一枚お願い」と私は笑って頼む。「了解」と言って、蓮はチェキをポーチに戻した。言葉が紙に触れる前に、予定に変換される。紙になる前の、小さな約束。

 夕方。橋に着く。欄干の「約束」の刻みは、夕日の角度で影が深く見え、文字の彫りは昨日より確かに思えた。川面は贅沢に光を散らし、風は上流から下流へ、一定の速度で渡っていく。蓮がチェキを取り出し、「じゃあ、撮るね」と数歩後ろに下がった。構図を探すときの癖――一度上を見る、右に半歩、左に四分の一歩。私は欄干に掌を置き、手の温度を金属に分ける。

 その背中が、光に縁取られて、ほんの一瞬だけ、輪郭を失った。風が強くなり、蝉しぐれが一度だけ途切れる。白い薄紙が世界にかぶさるみたいに、音も、風も、匂いも、色も、等しく薄くなって、私の周りのすべてが少し遠くへ置かれた。私は反射的に息を止めた。脳が告げる。「この感じを知っている」。去年、花火の夜、彼の背中が遠ざかった瞬間に似ている気配。違うのは、今度は遠ざからないままで、ただそこから世界が動かない、ということ。

 私は足を一歩、前に出した。喉は閉じない。言える。だから言う。

「――蓮」

 名を呼ぶ。それは祈りではない。呼び戻すための、合図。

 世界は、ゆっくり、戻った。まず風が戻り、次に蝉が戻り、最後に夕日の熱が頬に刺さった。欄干の金属はさっきより温かく、指の腹の皮膚は自分の体温を思い出す。蓮が振り返る。目を細め、「ごめん、逆光、むずい」と笑う。笑顔は、去年と同じ可笑しさで、去年と違う重みを持っている。私は膝の力が抜けそうになって、欄干に手をついた。息を吸う。吐く。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。

「ねえ」私は言う。「いま、止まった」

「俺も、感じた。……多分、帰り道の始まり」

 帰り道。昨日、見知らぬ筆跡が教えてくれた言葉。「ここまで来たら、帰り道が見える」。見えるだけじゃない。今は、足の裏の硬さまで伝わってくる。

「撮ろっか」

 蓮がチェキを構え、私が一歩寄る。私の右手を彼の左手が探して、自然に絡まる。シャッター音。白い印画紙が吐き出され、空気の中でゆっくり像を浮かべる。ミルク色の下から、光の粒に縁取られた二人が浮かび上がる。手を繋いで、笑っている。私は写真を両手で挟み、「かわくのを待つ」みたいに、呼吸をひとつ置く。汗は引き、動悸は静かになっていく。

「もう一枚、うちの分」

「任せて」

 同じ構図で、少しだけ違う。二枚目の私の笑いは、さっきより横にひらいていて、蓮の目じりの皺も、さっきより深い。私は一枚を手帳に挟み、余白にボールペンで小さく書き込む。

 ――動いた。

 動き出したのは、世界か、時間か、二人か。たぶん、全部。私は「帰り支度シート」の項目を頭の中で重ね、角を三回折った手帳をポケットにしまった。

 駅の近くまで歩く途中、商店街ではまだイベントの余韻が残り、シャボン玉が風に乗ってときどき頬に触れた。小さな泡がはじけるたび、水の冷たさが皮膚に点をつける。駄菓子屋の前を通りかかると、店主が「お、写真、撮れたか」と声をかける。「撮れました」と蓮がチェキを持ち上げて見せると、店主は「ええ顔や」と短く笑った。その言い方が、今日という日の余白にきちんと収まる。

 別れ際、橋のたもとで一度立ち止まる。欄干の刻みは夕日の角度を変え、刻印の影は長く伸びていた。私たちは指を二度握り合い――ぎゅ、ぎゅ――合図だけを交換して、短い「また明日」で別れた。言葉は軽く、しかし骨がある。

 夜。自室。窓を少し開けると、空気は昼の固さを半分ほど失っていた。風鈴は鳴らない。鳴らない静けさは、今日の輪郭によく似合う。私は机に座り、共通日記を開く。ページの中央に、今日を細かく書く。図書館の冷房の冷たさ、窓際の木目の凹凸、商店街のシャボン玉、チェキのモーター音、橋の風、蝉の途切れ、世界にかぶさった薄い紙。名を呼んだこと。戻ったこと。二枚の写真の、指の皺の位置。書き終えて、最後に一行を置いた。

 ――止まって、動いた。

 数秒後、ページの下に文字が浮かぶ。「止まる=合図。動く=選ぶ」。合図と選択。私は声に出さずに復唱する。止まる、動く。止まる、動く。呼吸のようだ。さらに欄外の見知らぬ筆跡が、細い線で一行だけ添えた。「合図を覚えた者は、帰り方を知る」

「……帰る」

 私は震える指でその二文字を書いた。インクが涙の輪で少し滲む。滲みは汚れではない。紙の上でだけ許された、今日の湿度の痕。私はそっとページを閉じ、角を三回折る。折り目はすでに確かだが、折り直すことで唱える。唱えることで、体は順番を思い出す。

 写真をスマホで撮って、父と母の家族グループに送る。去年の花火、今年の花火、今日の橋のチェキの三枚を並べた画像。送信の青いバーが右端まで走り、既読の小さな文字がつく。数分後、母から「いい笑顔」のメッセージ。父はスタンプの押しどころを迷ったらしく、同じ拍手の絵がなぜか二回続けて届いた。私は笑い、胸の奥の鈴がひとつ鳴るのを聞く。笑いは、持ち帰るものリストの最後の項目だ。

 ベッドに腰をかけ、明日の制服の襟を軽く撫でる。糸の縫い目はずれていない。ポケットにハンカチを入れ、手帳の角を確かめる。右側、内側、明るい道、止まる、連絡。罰という名の修理――「ごめん」を三回。条文は胸の裏側で小さく温まっていて、熱は痛みに変わらない。

 寝る直前、ドアがノックされる。母が顔をのぞかせ、「明日から学校ね」と微笑む。「うん」と答えると、胸の奥で小さな鐘が鳴った。ベルの音=始まりの合図。夏は終わりに向かいながら、別の始まりを連れてくる。私は布団に横になり、目を閉じる。まぶたの裏で、今日の静止画がゆっくりスライドする。図書館の窓際。商店街の風。橋の欄干。薄い紙の下に収められた世界。呼んだ名。戻った風。笑った顔。手の圧。チェキの白。上がっていく色。余白に書いた字――動いた。

 秒針が、壁の白に等間隔で点を打つ。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。鳴らない風鈴の糸が、闇の中で細く光る。合図は覚えた。帰り方も、たぶん、覚えた。私は胸の上で両手を組み、誰にも聞こえない声で「明日も」と呟く。呟きは外へ出ない。けれど、紙の中のどこかで、何かが静かにうなずいた気がした。青い糸の結び目はほどけず、固くもならず、ちょうどよく息をしている。世界は止まり、そして動く。私たちも、止まり、そして動く。笑顔のまま消えてしまう背中を、私は今度、呼び戻せる。呼び戻す合図を、胸の真ん中にしまいながら、私は眠りに落ちていった。