朝の風に、ほんのすこしだけ秋の匂いが混ざっていた。洗いたてのタオルがすこし冷えた指先で干されるときの匂い。夏の背中の、肩甲骨のあたりに指を当てたような、しずかな陰影。カレンダーには赤ペンで小さく丸が増えている。宿題の締切、始業式、写真部の結果発表、そして「夏の最終週末」。丸はどれも同じ大きさなのに、視線に触れるとそれぞれの重みが変わる。私は机に向かい、方眼ノートをひらいて「帰り支度シート」と書いた。旅の終わりの支度に似ているけれど、ここで言う「帰り」は時間の帰還だ。来た道を確かめ、持ち帰る位置を整える作業。

 鉛筆の芯を替える。0.5のHB。芯のケースの中で透明な棒が二本しか残っていない。予備を買うべきか、買わずに使い切るべきか――今日は、使い切るに丸をつける。ボールペンを立てて、インクの残量を光に透かす。青は半分、黒は三分の一。青い糸の色を想起させるインクに、心が少し落ち着く。共通日記のページ厚を指先で測り、あと何枚で表紙に戻るかを数える。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。

 スマホのメモに“今の私”が覚えているべき事柄を箇条書きする。蓮の笑い方――喉の奥で一度だけ空気が跳ねてから外にほどける。昼寝の癖――ベンチに座ると右肩から少しだけ前に倒れ、起きるとき右目だけ先に開く。ラムネの開け方――添え木の角度を一度だけ確かめてから、親指の腹でビー玉の下を押す。抱きしめた時の背中の温度――肩甲骨の下で焦点が合うように温かい。些末なディテールの列は、涙を誘う。けれど、並べた文字はたくさんの釘になって、涙に溺れさせない。私はメモに小さく書き足す。右側、内側、明るい道、止まる、連絡。折り目三回。二回握る。罰という名の修理=「ごめん」を三回。条文は、柔らかい覚悟の骨格だ。

 放課後、神社の石段で蓮と並ぶ。風鈴がよく鳴る。鳴る、鳴らない、鳴る。石段は日中の熱を薄く保っていて、すこし遅れて冷めていく途中だった。私が呼吸を数えるあいだ、蓮は両手を膝に置いて空を見、やがて「さ、」と口を開き、一度言い淀む。

「写真、最終の結果、たぶん週末出る。もし通ったら、県の展示。落ちても、また出す。――どっちでも、結衣と見に行きたい」

「行こう」

 私は即答する。即答の音は軽く、でも芯がある。二人のあいだで交わされた言葉が、手帳のマスに「予定」として移動する。言葉→予定の変換。変換された瞬間、未来の断片が、現実の紙に触れて温度を持つ。私は手帳を取り出し、日付の隅に小さく「会場へ」と書く。蓮はのぞき込んで、私が書いた文字の横に、自分の三角形の小さなサインを添えた。三角がふたつ重なった印は、紙の繊維の上でわずかにきしみ、厚みのある約束になった。

 帰り道。川の上を渡る風が強い。欄干の「約束」の刻みを指でなぞると、温度が昨日までより温かい。金属の色は同じなのに、昼の光が長く刻まれたまま残っている気配。祠に寄ると、青い結び目の横に新しい紙が置かれていた。〈来年も、ここで〉――幼い字。たどたどしい線が、かえって確かだ。蓮が横で微笑む。「増えてくな、味方」

「うん」

 胸の奥で理解する。――約束は、増えるほど強くなる。一本の糸では切れてしまう力も、束になれば、引っ張り方を変えてもほどけない。私は祠の前で小さく手を合わせ、結び目の前で息を整えた。強く結びすぎない、ほどけもしない、ちょうどよさで。

 夜。共通日記をひらく。「帰り支度シート」の項目を写す。芯の本数。インクの残。手帳の折り目。三つの目的。メモの細部。最後に、ページの真ん中に大きく書く。――帰る=失う、ではない。帰る=持ち帰る。沈黙ののち、ページの下から字が現れる。「持ち帰る:言葉、写真、ルール、笑い」。列の末尾に、笑いが入っているのが、たまらなくうれしい。さらに余白に、見知らぬ筆跡が静かに添える。「持ち帰るのは、恐れではなく働く手」

 恐れを燃料にしてきた夏が、働く手=段取りへと置き換わっていく。恐れは火。手は工具。燃料が尽きても、工具は残る。私はペン先で小さく、ありがとう、と書き添えた。見知らぬ筆跡は返事をよこさない。でも、ページの繊維が呼吸する気配だけは、確かだった。

 週末の朝。青空。自転車のタイヤに空気を入れる。指の腹で側面を押して、充分の固さを確かめる。手首のゴムを付け替え、ポケットの中の古い輪ゴムを一本だけ捨てる。捨てる行為は、空白を作るためで、空白は新しいものの居場所になる。カメラのレンズを拭き、ストラップの縫い目を指で撫でる。母が台所から顔を出した。

「お昼、いらない?」

「いらない。帰りに食べる」

 母は頷き、タオルで手を拭いてから「いってらっしゃい」と言う。その声にはわずかな引っかかりがあって、引っかかりは喉の裏をすべって空気に混ざる。見送る者の勇気の音。私は玄関で靴紐を結び直し、背中で「行ってきます」を重ねた。重ねた声は、扉の外でふわりと広がった。

 待ち合わせの橋。蓮は時間ぴったりに現れる。汗の光が額に沿って一筋だけ。呼吸は整っていて、瞳の奥は遠くを測っている。私たちは今日の目的を三つだけ口にする。

「①展示の結果を一緒に見る」

「②“戻る場所”にサインを重ねる」

「③帰りに家族へ写真を送る」

 目的を三つに絞るのは、不確実な日を渡るための緊急時のルール。欲張らないことが、遠くへ行く条件だ。私は手帳の角を三回折り、折り目の厚みを指で確かめる。蓮は右手を上げ、私の手に二度、握りの合図を送る。ぎゅ、ぎゅ。返事に、同じ強さで握り返す。

 市民会館。掲示板の前は、いつもの週末より人が多い。冷房の風が床を這い、紙の角が微かに揺れる。結果掲示の列に並びながら、私はひとつ、ふたつ、呼吸を数える。列の先の白い紙の端に青い画鋲がふたつ、赤がひとつ。色の配置は意味を持たないのに、胸の中では秩序を持つ。蓮は、手に持っていたストラップを一度だけ指に巻き直し、視線を水平に保つ。名前の列が目に入る。私の視界の端で、蓮の肩が小さく上下した。――蓮の写真「雨上がり」は、佳作。大賞ではない。けれど、名前の横に小さな丸がついている。選ばれた、という事実の丸。

「……よし」

 蓮は一瞬だけ悔しそうに笑い、すぐに肩の力を抜いた。「でも、会場で見るこの感じが好き」

 展示室の壁に、蓮の写真があった。濡れた石畳。提灯の赤が水のうえでほのかに揺れ、空気の水分まで写っているみたいだった。私は静かに拍手する。掌をふたつ合わせる音は、暗い床にやわらかく吸い込まれていく。

「あなたが撮った雨、私の胸からも上がった」

 それは慰めではなく、本当の感想だった。写真を前に立つと、あの夜の湿りが、今夜の呼吸に置き換わる。私の胸の奥で、もう一度、雨がやむ。やむ音はしない。けれど、やんだという事実が照明の熱でゆっくり乾いていく。

 展示を出ると、陽は傾きはじめていた。館の外で冷たい麦茶を紙コップでもらい、二人で一気に飲む。紙の縁の毛羽が唇に触れる感触までが、今日の輪郭になる。会場の外の掲示板に、来月の募集の紙。蓮は「出す」と短く言い、私は「書く」とうなずく。行為の現在形が、今日の終わりを次の始まりに変える。

 夕方の帰路。踏切で列車待ち。赤い点滅。風。鉄の匂い。遮断機は規則正しく下り、規則正しく上がるのに、胸の奥の時間はすこしだけたわむ。私は心の中で小さく刻む。――ここが境界。もし時間が巻き戻るなら、このあたりで“来た道”が終わり、“帰り道”が始まる。音は連続しているのに、意味はわずかに折れ曲がる。その折れ目に、指を挟まないように。蓮が横で手を差し出す。私は握る。言葉はない。腕の圧が、まだここにいることを証明する。列車が通り過ぎる。風が私たちの前でほどけて、背中でふたたび結ばれる。赤い点滅が消え、静かな白に戻る。

 橋の上で、短く立ち止まる。欄干の「約束」の刻みは今日もぬくい。指の腹でなぞると、金属はわずかに汗を吸ったみたいに柔らかい。私は欄干に掌を置き、川面の光を数える。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。風鈴は遠くで鳴らない。鳴らない静けさは、今日の正しい輪郭だ。

 夜。自室。共通日記を開く。タイトルも何も要らないページに、ひとことだけ書く。「迫ってきた」。ページは静かに温い。余白に、彼の字と知らない字が、すこしずつ時間差で重なる。「大丈夫」「働く手」「戻る」。三語が並ぶ。私は頷く。頷いた現実が頷きとしてページに残るわけではないのに、紙の繊維はそれを知っているみたいに、ささやかにふくらむ。

 机の引き出しの中の小箱を開ける。去年の花火の写真と今年の花火の写真を二枚、並べる。去年の私は泣いていて、今年の私は笑っていた。二つの夏が同じ木の上で呼吸し、木目の溝が光を反射する。涙が落ちる。写真の光沢の上で水は丸くなり、指で拭うと、丸の痕が薄く残る。泣いているのに、手は止まらない。明日の服を畳む。Tシャツは淡い灰、スカートは紺。ポケットにハンカチを入れ、手帳の折り目をもう一度、三回、確かめる。角はすでにしっかりしていて、折り直す必要はない。それでも、折る。折り直しは、唱えるのと同じだ。唱えることで、体は順番を思い出す。

 窓を少し開ける。夜の匂いが入ってくる。風鈴は鳴らない。鳴らないけれど、糸は確かにある。青い糸の結び目は、ほどけず、固くもならず、ちょうどよく息をしている。私は胸の上で両手を組み、小さく言う。「もどる」。声は外へは出ていかない。けれど、胸の内で反響して、道のかたちを作る。帰る=失う、ではない。帰る=持ち帰る。私はまぶたの裏に今日の三つの目的をもう一度置き、ひとつずつ正の字でなぞる。1、2、3。正の字は完成して、明日の余白に薄く透ける。

 眠りのふちで、紙の上の文字が、ゆっくりと道具に変わっていくのが見えた。言葉は釘になり、写真は板になり、ルールはネジになり、笑いは潤滑油になった。持ち帰るのは、恐れではなく働く手。働く手は、暗闇の中でも場所を覚えている。工具箱は床の右手前、手帳は枕元、共通日記は胸のすこし左。私はその配置を指先で確認するように、空気を撫でる。撫でるだけで、音は出ない。出ないけれど、そこに在る。その「在る」という事実が、今夜の光だった。

 秒針が、壁の白に均等な間隔で点を打つ。私はひとつ深呼吸をし、もうひとつ深呼吸をする。昨日より、すこしだけ正確に。目を閉じる。蓮の笑い方、昼寝の癖、ラムネの開け方、背中の温度――メモの行が胸の内側でやさしく光る。光は小さく、けれど消えない。最終週末は迫ってくる。迫ってくるものの輪郭は、怖いときもある。でも、私は今日、工具を揃えた。揃えた音はしない。音がしないまま、手は準備を終えて、膝の上に戻る。明日も、ここに戻ってくる。鳴らない風鈴の沈黙が、それを肯定するように、長く、薄く、夜の中へ伸びていった。