朝いちばんの風は乾いていた。窓を少し開けると、夏の終わりの洗いたてのタオルみたいな匂いが、部屋の四角に軽くぶつかってほどける。空は高い。雲はほとんど輪郭だけを残して薄く、屋根と電線のあいだに、透ける水色の余白がいくつも吊り下がっている。喉の奥に落とした空気はするりと通り、胸骨のうらに溜まることもなく、静かに出入りした。鏡の前で口角を指先で押して離す。合図はひとつで足りる。――今日は、告白に向いている。体が知っていた。理由は後からついてくる。
靴箱の列はいつも通りで、廊下の匂いはゴムと洗剤と、少しだけ古い本。黒板の右上、「二学期始業式まであと」の数字は昨日よりひとつ減り、ひとの背中が見えるように、季節の背中も少しだけ近い。ホームルームのあいだ、私はノートの端に小さく今日の段取りを書いていく。右側、内側、明るい道、止まる、連絡。石段。風鈴。境内。ページの角は三回折る。折り目の厚みは、指の腹を落ち着かせる薬だ。
放課後の空は、午前中より少し薄くなって、光は斜め。神社の石段はまだ昼の熱を残しているけれど、指先で触れると、芯はすでに冷えはじめているのがわかる。私と蓮は並んで座り、しばらく何も言わずに、蝉の余韻を聞いた。鳴き終えた後の空気の沈み方は、少し海に似ている。波が引いたあとに残る、濡れた砂の色の黙り方。風鈴は鳴らない。鳴らないのに、鳴る前の輪郭だけが耳の奥に薄く吊られている。
「結衣」
先に蓮が口を開いた。呼ばれただけで、背中の筋肉が少し緩む。
「あの日さ。花火の夜。世界がすっと逸れた気がした。ほんのすこし、レールが横にずれたみたいな。……もし、結衣が“知ってた”としても、俺は怒らない。むしろ、ありがとうって言う」
風の向きが、南から西へ、ほんの少し変わった。石段の熱がふっと浅くなり、私は吸い込んだ息をゆっくり吐いた。喉の金具は、今はどこにもない。
「知ってた」
自分の声が、空気に軽く混ざっていく。時間がわずかに軋む音。石段の下の砂利がひとつ、転がる気配。
「でも、言えなかった。言ったら、君の笑顔が“不吉の影”で汚れる気がして。私が、怖かった。私の怖さで、君の毎日を縛るのが」
言い終えるのを、蓮は邪魔しない。ひと呼吸ぶんの沈黙の後で、うなずく。視線は私ではなく、石段の上の、薄い空へ。
「結衣の“言わない勇気”を、俺は信じる。で、今は――言っていい。怖いって。好きって。全部」
風鈴が、ようやくひとつ鳴った。短い音。私の笑いは泣きに近づいて、泣きは笑いに戻って、舌の上で同時にほどける。私は、ここに置くべきいちばん短い言葉を選んだ。
「好き。……愛してる。いまの君に」
去年でも、未来のだれかでもなく、いまの彼。今日の蓮。夕方の光で半分だけ金色になっている、目の縁と、髪の短い影。彼は目を細め、「俺も」と短く言って、額にキスを落とした。石段の熱が、ゆっくり冷めていく。世界は、二人の体温でちょうどよい温度になった。私はその温度の上で、呼吸をもう一度数え直す。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。
「練習しよっか」と蓮が言う。「“未来の告白”」
「うん」
「二年後も好きって言う」
「十年後も好きって言う」
「老いても好きって言う」
将来の言葉を、現在に少し前借りする遊び。言葉の重さで、未来がこちら側に少し傾く。傾いたぶんだけ、足場が増える。増えた足場の板は、軽すぎず、重すぎず、今の私たちの体重に合う。
日が落ちて、境内の灯が次々と灯った。明るさは強くなく、紙の提灯の向こうから滲む色は、皮膚で受け取るのに向いている。私は覚悟を決め、リュックから青い表紙の共通日記を出した。表紙はこの夏の湿気と光を交互に吸って吐いて、角がやわらかく丸くなっている。ページを開く。守った、賛成、任せろ、――濃い筆圧。ページの端の、見慣れない筆跡の断片。年齢の重い、滑らかな線。「消えない」「代償=?」「覚悟は硬くないほうが長持ち」。私はページの角を三回折った箇所を見せ、言葉を足すより先に、現象を見てほしい、と思った。
蓮は真剣に読む。ノートの紙の目に沿って視線が進み、ところどころで戻る。顎の力が少し抜けるのがわかる。「これ、俺の字に似てるけど、ちょっと違うの、あるな」
「うん。誰かが、向こうから支えてくれてる気がする。未来の私たちかもしれないし、過去の私たちかもしれないし、ただの“約束の神さま”かもしれない」
蓮は笑った。笑いながらも、言葉を選ぶ速さは慎重だ。
「どれでもいい。支えてくれてるものは、支え。その区別がつかないときは、“ありがとう”でぜんぶ正しい。……じゃあ、俺らも、だれかの支えになろう」
空はもう群青になっていて、一番星の位置が、去年と少し違う。違うのに、同じに見せようとする目の癖を、私は今夜やめることにした。違うなら、違う場所に置きなおす。置きなおしてから、そこに「今」を重ねる。
帰り道、橋の上で立ち止まる。欄干の、あの「約束」の刻みは、今日は少しぬくい。金属は昼の光を忘れ、夜の湿りを受けとめ、名前も知らない誰かの手の温度を、まだ少しだけ残している。私は小指を差し出した。
「来年も、十年後も、ここで言う。『愛してる』を」
蓮は「了解」と微笑んだ。小指は絡まり、ほどけない。強く結びすぎない、けれど、ほどけもしない、ちょうどよさで。青い糸の結び目の触感が、指先の記憶で蘇る。
家に着くと、風鈴は鳴らなかった。鳴らない静けさは、今日の輪郭に合っている。机に座り、共通日記の白い真ん中に新しいタイトルを置く。「告白のページ」。私はペン先を整え、ゆっくり書く。理由や戦略を脱いだ素の言葉。
――愛してる。それだけでいい。
書き終えて、胸をひとつ鳴らす。数秒後、ページの下に、これまででいちばん濃い筆圧が現れた。
――俺も。生きられる限り、毎日言う。
喉の奥があつくなる。熱は痛みに変わらない。熱は熱のまま、胸骨の裏に灯って、そこに留まる。私は指の背で涙を拭い、ページの端に小さく丸をつけた。丸は、今日の点。線にしなくてもいい。点がいくつか集まれば、それは私の道になる。
その直後、欄外に、見知らぬ筆跡が静かに一行だけ添えた。
――ここまで来たら、帰り道が見える。
「帰り道」。現代へ戻ること。夏が終わること。別れの言い換えではない。持ち帰る道。拾ってきたものを、置き直す道。私は「うん」と小さく書き添えて、窓を開けた。夜風が紙をめくり、白紙の新しいページで止まる。罫線はまっすぐで、余白は広い。そこは、二人がこれから書く「普通の日」のために残された余白。写真を現像する待ち時間。宿題のグラフで線が少し曲がってしまうこと。クラスの誰かが描く劇のポスターの仮題。台所から聞こえる油の音。洗濯機の終わるメロディ。そういう普通を、書いていい場所。
私はペン先で軽く触れ、「明日も、ここに戻ってくる」と囁いた。ページは鳴らない。鳴らないまま、そこに在る。あることは、光だ。音よりも長く、香りよりも広く、温度よりも静かに、ここに積もる。私はその光の薄さを胸にしまい、目を閉じる。
眠りの縁で、今日をもう一度、小さな声で読み返した。朝の乾いた風。石段の熱と冷えの間。蝉の残響。世界が逸れた感覚。言えなかった理由。言える今。額に落ちたキス。未来の告白の練習。灯った提灯。ページの「守った」「賛成」「任せろ」。見知らぬ筆跡の「消えない」「覚悟」「帰り道」。欄干のぬくさ。小指のちょうどよさ。――愛してる。それだけでいい。俺も、毎日言う。私はゆっくり吸い、吐いた。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。風鈴は鳴らない。鳴らない静けさが、今日という一日の蓋をやさしく閉じた。青い糸の結び目はほどけず、固くもならず、胸の内でちょうどよく息をしていた。
窓の外で、電線が夜の濃さを少しだけ受けとめ、星がひとつ、遅れて現れる。遅れても、間に合う。間に合うように、私たちは今日、言った。明日も、言う。明日がぜんぜん普通でも、言う。普通だから、言う。言葉は鍵で、扉は毎日ある。鍵は、毎日、同じ音で回ればいい。回る音は、胸の奥で小さく鳴り、鳴ったという事実だけが、眠りの底まで届く。私はその音を抱えて、静かに沈んでいった。灯りは小さく、けれど、消えないまま。
靴箱の列はいつも通りで、廊下の匂いはゴムと洗剤と、少しだけ古い本。黒板の右上、「二学期始業式まであと」の数字は昨日よりひとつ減り、ひとの背中が見えるように、季節の背中も少しだけ近い。ホームルームのあいだ、私はノートの端に小さく今日の段取りを書いていく。右側、内側、明るい道、止まる、連絡。石段。風鈴。境内。ページの角は三回折る。折り目の厚みは、指の腹を落ち着かせる薬だ。
放課後の空は、午前中より少し薄くなって、光は斜め。神社の石段はまだ昼の熱を残しているけれど、指先で触れると、芯はすでに冷えはじめているのがわかる。私と蓮は並んで座り、しばらく何も言わずに、蝉の余韻を聞いた。鳴き終えた後の空気の沈み方は、少し海に似ている。波が引いたあとに残る、濡れた砂の色の黙り方。風鈴は鳴らない。鳴らないのに、鳴る前の輪郭だけが耳の奥に薄く吊られている。
「結衣」
先に蓮が口を開いた。呼ばれただけで、背中の筋肉が少し緩む。
「あの日さ。花火の夜。世界がすっと逸れた気がした。ほんのすこし、レールが横にずれたみたいな。……もし、結衣が“知ってた”としても、俺は怒らない。むしろ、ありがとうって言う」
風の向きが、南から西へ、ほんの少し変わった。石段の熱がふっと浅くなり、私は吸い込んだ息をゆっくり吐いた。喉の金具は、今はどこにもない。
「知ってた」
自分の声が、空気に軽く混ざっていく。時間がわずかに軋む音。石段の下の砂利がひとつ、転がる気配。
「でも、言えなかった。言ったら、君の笑顔が“不吉の影”で汚れる気がして。私が、怖かった。私の怖さで、君の毎日を縛るのが」
言い終えるのを、蓮は邪魔しない。ひと呼吸ぶんの沈黙の後で、うなずく。視線は私ではなく、石段の上の、薄い空へ。
「結衣の“言わない勇気”を、俺は信じる。で、今は――言っていい。怖いって。好きって。全部」
風鈴が、ようやくひとつ鳴った。短い音。私の笑いは泣きに近づいて、泣きは笑いに戻って、舌の上で同時にほどける。私は、ここに置くべきいちばん短い言葉を選んだ。
「好き。……愛してる。いまの君に」
去年でも、未来のだれかでもなく、いまの彼。今日の蓮。夕方の光で半分だけ金色になっている、目の縁と、髪の短い影。彼は目を細め、「俺も」と短く言って、額にキスを落とした。石段の熱が、ゆっくり冷めていく。世界は、二人の体温でちょうどよい温度になった。私はその温度の上で、呼吸をもう一度数え直す。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。
「練習しよっか」と蓮が言う。「“未来の告白”」
「うん」
「二年後も好きって言う」
「十年後も好きって言う」
「老いても好きって言う」
将来の言葉を、現在に少し前借りする遊び。言葉の重さで、未来がこちら側に少し傾く。傾いたぶんだけ、足場が増える。増えた足場の板は、軽すぎず、重すぎず、今の私たちの体重に合う。
日が落ちて、境内の灯が次々と灯った。明るさは強くなく、紙の提灯の向こうから滲む色は、皮膚で受け取るのに向いている。私は覚悟を決め、リュックから青い表紙の共通日記を出した。表紙はこの夏の湿気と光を交互に吸って吐いて、角がやわらかく丸くなっている。ページを開く。守った、賛成、任せろ、――濃い筆圧。ページの端の、見慣れない筆跡の断片。年齢の重い、滑らかな線。「消えない」「代償=?」「覚悟は硬くないほうが長持ち」。私はページの角を三回折った箇所を見せ、言葉を足すより先に、現象を見てほしい、と思った。
蓮は真剣に読む。ノートの紙の目に沿って視線が進み、ところどころで戻る。顎の力が少し抜けるのがわかる。「これ、俺の字に似てるけど、ちょっと違うの、あるな」
「うん。誰かが、向こうから支えてくれてる気がする。未来の私たちかもしれないし、過去の私たちかもしれないし、ただの“約束の神さま”かもしれない」
蓮は笑った。笑いながらも、言葉を選ぶ速さは慎重だ。
「どれでもいい。支えてくれてるものは、支え。その区別がつかないときは、“ありがとう”でぜんぶ正しい。……じゃあ、俺らも、だれかの支えになろう」
空はもう群青になっていて、一番星の位置が、去年と少し違う。違うのに、同じに見せようとする目の癖を、私は今夜やめることにした。違うなら、違う場所に置きなおす。置きなおしてから、そこに「今」を重ねる。
帰り道、橋の上で立ち止まる。欄干の、あの「約束」の刻みは、今日は少しぬくい。金属は昼の光を忘れ、夜の湿りを受けとめ、名前も知らない誰かの手の温度を、まだ少しだけ残している。私は小指を差し出した。
「来年も、十年後も、ここで言う。『愛してる』を」
蓮は「了解」と微笑んだ。小指は絡まり、ほどけない。強く結びすぎない、けれど、ほどけもしない、ちょうどよさで。青い糸の結び目の触感が、指先の記憶で蘇る。
家に着くと、風鈴は鳴らなかった。鳴らない静けさは、今日の輪郭に合っている。机に座り、共通日記の白い真ん中に新しいタイトルを置く。「告白のページ」。私はペン先を整え、ゆっくり書く。理由や戦略を脱いだ素の言葉。
――愛してる。それだけでいい。
書き終えて、胸をひとつ鳴らす。数秒後、ページの下に、これまででいちばん濃い筆圧が現れた。
――俺も。生きられる限り、毎日言う。
喉の奥があつくなる。熱は痛みに変わらない。熱は熱のまま、胸骨の裏に灯って、そこに留まる。私は指の背で涙を拭い、ページの端に小さく丸をつけた。丸は、今日の点。線にしなくてもいい。点がいくつか集まれば、それは私の道になる。
その直後、欄外に、見知らぬ筆跡が静かに一行だけ添えた。
――ここまで来たら、帰り道が見える。
「帰り道」。現代へ戻ること。夏が終わること。別れの言い換えではない。持ち帰る道。拾ってきたものを、置き直す道。私は「うん」と小さく書き添えて、窓を開けた。夜風が紙をめくり、白紙の新しいページで止まる。罫線はまっすぐで、余白は広い。そこは、二人がこれから書く「普通の日」のために残された余白。写真を現像する待ち時間。宿題のグラフで線が少し曲がってしまうこと。クラスの誰かが描く劇のポスターの仮題。台所から聞こえる油の音。洗濯機の終わるメロディ。そういう普通を、書いていい場所。
私はペン先で軽く触れ、「明日も、ここに戻ってくる」と囁いた。ページは鳴らない。鳴らないまま、そこに在る。あることは、光だ。音よりも長く、香りよりも広く、温度よりも静かに、ここに積もる。私はその光の薄さを胸にしまい、目を閉じる。
眠りの縁で、今日をもう一度、小さな声で読み返した。朝の乾いた風。石段の熱と冷えの間。蝉の残響。世界が逸れた感覚。言えなかった理由。言える今。額に落ちたキス。未来の告白の練習。灯った提灯。ページの「守った」「賛成」「任せろ」。見知らぬ筆跡の「消えない」「覚悟」「帰り道」。欄干のぬくさ。小指のちょうどよさ。――愛してる。それだけでいい。俺も、毎日言う。私はゆっくり吸い、吐いた。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。風鈴は鳴らない。鳴らない静けさが、今日という一日の蓋をやさしく閉じた。青い糸の結び目はほどけず、固くもならず、胸の内でちょうどよく息をしていた。
窓の外で、電線が夜の濃さを少しだけ受けとめ、星がひとつ、遅れて現れる。遅れても、間に合う。間に合うように、私たちは今日、言った。明日も、言う。明日がぜんぜん普通でも、言う。普通だから、言う。言葉は鍵で、扉は毎日ある。鍵は、毎日、同じ音で回ればいい。回る音は、胸の奥で小さく鳴り、鳴ったという事実だけが、眠りの底まで届く。私はその音を抱えて、静かに沈んでいった。灯りは小さく、けれど、消えないまま。



