新学期の朝、校舎の白は、夏の間に増えたひび割れさえも整列させて、何事もなかったふりをしていた。蝉の声は遠のき、代わりに草むらの奥で鳴く小さな虫の擦過音が、肺の奥へ薄い膜のように降り積もる。昇降口に向かう生徒たちの靴音は軽く、まだ使い慣れないローファーの革の硬さが、並んで歩く彼らの足首をひそかに締めつけている。私は、その流れから半歩だけ外れて歩いた。

 靴箱の列の途中、無意識に視線は左から三段目の端へ滑っていく。そこだけ空気が抜けているみたいに見える空のスペース。蓮の名札は、取り外されることもなく、その場所を示し続けていた。指が、空気を掴む仕草をした。掴んだところで、掌には何も残らない。けれど、その無意味さを身体で確かめないと、次の一歩を出してはいけない気がした。

 廊下の匂いは、夏に比べて乾いた。ワックスの甘さの奥に、漂白剤の刺すような残り香がある。教室の扉を開けると、窓際の光が黒板の上で薄く跳ね、空席にだけ濃い影を落とした。そこは、夏休み前まで誰もが振り返った場所。席替えの案が貼られた印刷用紙が、前の掲示板に斜めに画鋲で留められている。「二学期席替え案」。クラス委員の文字の角が、不自然に丸い。その紙の前で、誰かが小声で言った。「蓮の席、どうするのかな」。返事はどこにも置かれず、空気が一拍遅れて沈む。

 やがて担任が入ってきた。白いシャツの襟が少しだけ曲がっている。「おはよう」といつもの調子で言ってから、教卓に出席簿を置く音を、いつもより丁寧に小さくした。目線は一度だけ、あの空席をかすめた。「――蓮の席は、しばらくそのままにします」。それだけ言って、言葉をたたむ。クラス全体に、薄い埃のような沈黙が落ちる。花粉のように微細で、けれど確実に喉に引っかかる類の沈黙だ。

 瑠衣が後ろの席から、わざと軽い声で言った。「ねえ、二学期の体育祭、今年は応援合戦あるって」。誰かが「あーね」と応じ、別の誰かが「マジしんど」と笑う。笑いが生まれ、広がり、消える。その波の速さに、私はうまく乗れない。笑いそうになる顔の筋肉が、どのタイミングで動けばいいのか忘れてしまっている。ほんの一拍遅れて口角を上げたときには、波はもう違う岸に打ち寄せていて、私の足元には白い泡だけが置いていかれた。置いていかれる感覚が重なるごとに、私の周りの空気はほんの少しずつ密度を増す。呼吸のたびに体内で生まれる音が、ひとつ、ふたつと増える。

 午前中の授業は、板書の文字を追うふりをしながら、遠いところで鳴るアラームの音のように頭の中を流れていった。先生がマーカーを替える音、椅子がきしむ音、ページがめくられる乾いた音。すべてが「いつもの音」を装うのに、そこから一音だけ削られているように感じる。間違い探しの答えが分かっているのに、誰もそこに触れようとしない。触れないことで、クラスの形が保たれているのだと思うと、私の中のどこかがぐらりと揺れる。

 放課後。昇降口を抜ける前に、スマホを取り出してタイムラインを覗く。画面には、私の知っている人たちの知らない顔が並ぶ。加工された光の当たり方、いつもより長いキャプション、ふいに添えられる「#泣ける」「#尊い」。集団のやわらかい感嘆の記号の中に、蓮の名前が、偶然のような必然のような文脈で滑り込んでいる。「あの子、いいやつだったよね」。その一文の軽さに、怒りは生まれなかった。怒るのに必要な温度が、私の中から抜けていた。ただ、めまいだけがした。文字の群れが液体になって、指の下で揺れる。その揺れが私を酔わせる前に、私は画面を閉じた。

 川沿いの道を帰る。水面は夏よりも重く、流れの速さが上からは見えない。雲の影がゆっくりと滑っていき、その影の縁だけが異様にくっきりしている。遠くでサイレンが鳴った。救急車か消防車か判別のつかない音。次の瞬間、その音が二重に、三重に重なって聞こえて、足が止まる。幻聴だ、と頭では理解するのに、理解は足首まで届かない。サイレンの音は、私の体内に小さな銀の筒を差し込むみたいにして、呼吸のリズムをずらした。

 私はスマホの録音アプリを開いた。録音ボタンを押すと、赤い丸がゆっくりと鼓動する。マイクのアイコンの周りに、青い輪が広がっては消える。そこに記録されるのは、川の音でも、風の音でもなく、私の息の音だけ。吸う、吐く。吸う、吐く。理由は分からない。けれど、何かを残しておかないと、今日が丸ごと紙の上から剥がれ落ちてしまう気がした。録音という行為に、救いがあるのではなく、救いがないことを確かめるための目印があるだけだとしても、私はその目印を必要としていた。

 家の玄関を開けると、台所から出汁の匂いがした。母は、普段より少し手の込んだ献立を並べている。鶏の照り焼き、ひじきの煮物、きゅうりとわかめの酢の物。色合いのバランスまで考えた気配がある。私は箸を持つが、動きはぎこちない。一口、二口。すぐに止まる。母は「食べないと」と言う。口調はやさしい。やさしいからこそ、胃の奥がきゅっと縮む。食べることが「生きている証明」になるように感じられて、それがつらい。証明し続けることの疲労が、咀嚼の回数とともに数えられていく。

 父は缶ビールを開ける音を、少しだけ遠慮がちに小さくした。「気持ちを切り替えるのも、大事だぞ」と言う。私は頷いたふりをして、心のなかで呟く――そのスイッチがどこにあるのか、教えて。押したら鳴る音はどんな音で、押し続けたら指は痛むのか、スイッチの材質は何で、誰が取り付けたのか。質問は増えるのに、口には出さない。会話は噛み合わない。それでも、この家には悪意が一つもない。悪意がないことは、たしかに救いで、同時に孤独の形をくっきりさせる。

 夜、机の上に広げたファイルの間から、一枚の用紙が出てきた。二学期のはじめに返却された、国語の課題エッセイ。テーマは「日常の変化を観察して書く」。私は、窓から見える線路を走る列車のダイヤの遅れについて書いた。たった三分の遅れで家の時計と学校のチャイムと私の体温が別々の時間帯に移動する、という話。先生の赤い朱筆は「よく観ている」と書いてくれている。朱のインクは、乾いた今も、紙の上で艶を保つ。あのときの私は、観察のふりをして、告白をしていた。壊れたリズムが怖いです、という。今その赤い文字を読むと、「よく観ている」が、「よく壊れているね」と言われたみたいに胸に刺さる。

 机の引き出し――鍵をかけたままだった場所に、手を伸ばす。鍵を外す。金属音が、遠い。引き出しを開けると、あの共通日記がそこにある。濃い青の表紙は、蛍光灯の白を鈍く返す。私はそれをそっと取り出し、表紙を撫でた。角のささくれが指に引っかかる。開く。蓮の筆跡は、少し斜めで、ところどころで濃淡が揺れる。筆圧の波に、彼の呼吸のリズムが見える気がする。

 「来年の夏も、同じ場所で花火を」。約束の行。そこだけ文字が少しだけ大きく、最後の「花火を」の「を」が、紙の繊維に深く刺さっている。私はその一行を指でなぞった。紙の上で、皮膚の温度が薄く広がっていく。破いて捨てたい衝動が、胸のどこかから立ち上がる。破れば、本当に消える。消えることが、やっと現実になる。現実にすると、私が今日までどうにか保ってきたものが、形ごと崩れる気がした。私は手を止め、代わりに小さな付箋を取り出す。淡い黄色の四角に、ペンで書く。「ここで時間が止まった」。付箋を挟む。メタな行為だと分かっている。それでも私は、止まった時間を可視化する何かが欲しかった。見える形にすれば、少しは扱える。扱えないまま抱えるより、今はその方がいい。

 日記を閉じ、また引き出しに戻す。鍵をかける。かちり、という音が、この部屋の夜の中心になる。音が消えると、静けさはすぐに元の場所へ戻った。

 次の日、昼休みに図書室へ行く。図書室は、冷房の効いた空気が紙の匂いに混ざって、季節から少しだけ切り離された島みたいだ。本棚の隙間をゆっくり歩く。文庫の棚を過ぎ、郷土資料の棚の手前で足が止まる。薄い緑色の背表紙に、手書きのラベル。「民俗学入門」と書いてある。見覚えがある気がして、取り出す。ぱらぱらとめくるうちに、一枚の付箋が落ちそうになる。端がわずかに折れた淡い青。挟まっていた章のタイトルは「時間と境界の民話」。ページの真ん中あたりに、鉛筆で小さな線で囲われた一文がある――「境界の裂け目は、約束を守る者に開く」。蓮の字、かもしれない。少し斜めで、筆圧の濃淡がある。私は眉をひそめた。何を意味するのか、考える前に、ページをそっと閉じる。考え始めると、呼吸のリズムがまた壊れる気がした。司書台に本を返すとき、手の中の紙の重さが、いつもより素直だった。

 帰り道、商店街の端に差しかかると、夏祭りの提灯の片付けが行われていた。高い脚立の上で、作業員が電球をひとつずつ外していく。赤いビニールの提灯から、光が抜けると、殻だけになった骨組みが風に鳴る。カラカラ、と乾いた竹の音。風の機嫌に合わせて、音の高さが少しずつ変わる。音だけが夏の名残りだった。色も、匂いも、触感も片づけられて、最後に残るのは、目を閉じても耳の奥に触れるかすかな音。私は耳を塞いだ。両手のひらが、自分の鼓動を拾う。ふたつのリズムがずれて、重なる。頭の中で、校舎の白と、靴箱の空白と、日記の黄色い付箋と、図書室の青い付箋が、順番を失ってぐるぐる回る。

 夜になっても、その音はしばらく消えなかった。ベッドに横たわると、録音アプリで保存した「息の音」をもう一度だけ再生する。吸う、吐く。吸う、吐く。波打つグラフが、私の内側の海の線と重なる。消そうかと思って、やめる。残す理由は分からないが、消す理由はもっと分からない。目を閉じて、まぶたの裏に今日を並べる。空の下駄箱、空の席、空の提灯。空っぽの形ばかりだ。けれど、その空っぽは、音を持っている。耳を塞いでも聞こえてしまうような、細い音。泣けない泣き方には、今日も形がある。喉はひりつき、吐き気は波のように寄せては返し、涙は出ない。

 翌朝、私はまた靴箱の前で一瞬立ち止まるだろう。それでも、指で空気を掴む仕草は、昨日より少しだけ短くなるかもしれない。短くなったことを誰も知らないとしても、私だけが知っていればいい。時間は止まったままのふりをして、実は少しずつ、見えないところで動いている。付箋の黄色は、やがて紙の白に色移りするだろう。そこにうっすら残った跡を、いつか私は「時間」と呼ぶかもしれない。

 耳の奥で、風に鳴る骨の音が、やっと遠のいた。私は録音を止め、画面を伏せる。暗い部屋の中で、電源を切らないスマホの黒が、かすかな熱を持って掌に触れる。今は、ただ呼吸を数える。ひとつ、ふたつ。昨日よりも少しだけ、正確に。