黒板の右上、「二学期始業式まであと」の数字が一桁になった。クラスの誰かが書いた「9」の丸は、朝の湿気を飲んだチョークで少し太っている。窓の外、夏の背中が見えはじめていた。去っていく季節は、いつも前よりも近くに感じる。こちらに背を向けて歩いているのに、距離は縮まる。境界は日にちにも、空の高さにも、体温にもある。私は自分の胸の奥に指先を当てて、今日の温度を測り直した。

 ホームルームのあと、私は机に「夏の決算」と題した小さな表を作った。ノートの罫線を四本だけ濃くなぞり、縦に区切りを入れる。左の列に「守れたこと/守れなかったこと」、右の列に「言えたこと/言えなかったこと」。下の段には「増えた約束/解けた誤解」。書き出していくと、心の棚の埃が指の腹にうつっていくように、かすかな手応えが残る。私はいつもの小さなリスト――右側、内側、明るい道、止まる、連絡――も欄外に書き添えた。守れた。守れなかった。言えた。言えなかった。増えた。解けた。ぜんぶ、過去形で置いてから、行末に小さく現在形を書き足す。守る。言う。増やす。解く。動詞の角は、今のほうが立っていて、喉をやさしく通る。

 昼休み、瑠衣が弁当の蓋を開けながら言った。「二学期入ったらさ、みんな忙しくなるよ。だから今、決めとくといい」

「何を?」

「優先順位。誰の“今”を最初に持つか、とか。結衣は“いま”の持ち方が上手になったけど、忙しくなると手が足りなくなるじゃん。だから、先に決めておく。柔らかく」

 柔らかく、という言い方が、瑠衣らしくて私は笑った。「硬い覚悟は、折れるもんね」

「そうそう。折れたら痛いんだよ。指も。心も」

 卵焼きは甘く、海苔はしっかり噛むまで香らない。私は頷きながら、弁当の小さな仕切りの端を指でなぞった。四角の角は、丸くしておくと片付けが楽だ。覚悟も、角を丸くしておくと、長持ちする。

 放課後、蓮と河川敷へ向かった。夕焼けが橋の裏側から染み出して、川面を薄い赤で撫でている。風は上流から南へ、すこし湿って、草むらを一定方向に倒し、すぐ戻す。しなって、戻す。倒れているのではないと、私はもう体で知っている。

「最終結果、まだ?」私は尋ねた。写真部の、あの公募のことだ。

「夕方には来るって。……でもさ、落ちても受かっても、撮るのは続ける」

 蓮は、川の向こうの堤防を見ながら言った。言い切る声は強いけれど、突っ張ってはいない。彼の中にある“続ける筋肉”が、一度も力みなく動く気配がした。

「かっこいー」

 私は小さく拍手した。掌の音はやわらかく、空にすぐ溶ける。「私も、書くの続ける。交換日記も、“今を残す言葉”も」

「なら、契約しようか」

「契約?」

「言葉だけじゃなく、具体で。条文ありのやつ」

 私たちは笑って、ベンチに座り、ノートの終わりから二枚目のページを開いた。ページの端を三回折り、戻る場所の合図を自分の目に見せてから、ペン先を置く。条文は、五つ。

 ――第1条 危険を感じたら、理由を言わずに手を握る。
 ――第2条 「会いたい」「助けて」をためない。
――第3条 「怖い」を笑わない。
 ――第4条 「戻る場所」を毎週確認する。
 ――第5条 写真と日記を月に一度交換して見る。

「うん、好き」と私は言った。言ったあとで、心のどこかに静かな灯りが点る。蓮が頷く。「サイン」

 私たちは、それぞれの名前を書いた。サインの下に、青い糸のような線を引く。線は真っ直ぐではなく、少し波打った。波がある直線は、私たちの現実に似合う。波は不安じゃない。波は呼吸だ。呼吸は合図だ。合図は、約束の下に敷いておくと、すべらない。

「第0条、いるかな」

「何?」

「破ったら、直す。直す方法まで、先に決めとく」

「いいね」

 私は第0条を、いちばん上に小さく書き足した。破る前提で、直す前提。壊れないものなんて、ない。だから、修理の道具を手を届く場所に置く。

 帰り道、踏切の手前で人だかりができていた。警報は鳴っているのに、遮断機が片側だけ上がりきらず、線路脇で係員がオレンジ色のベストを光らせて動いている。笛の音。短い無線の声。手袋をした手が、順番に、それぞれの持ち場で確かに働く。十分ほどで故障は解け、遮断機は静かに下り、静かに上がった。誰も怪我はない。人だかりがほっと息を吐く音が、一気に空に押し上げられる。

「……私たちの外でも、たくさんの手が働いてる」

 私は胸に手を当てて呟いた。螺子は回す人がいるから締まり、電灯は点ける人がいるから灯る。世界への信頼は、現実の人の動きに支えられている。私と蓮の四つの手が拾えないものを、誰かの手が拾ってくれる。安心は、分担されると増えるのだと、目の前の作業が教えてくれる。

 夜、家。父が珍しく早く帰った。母が笑って、油の温度を少しだけ上げ、揚げたてのコロッケを皿に重ねていく。衣の音は軽く、芋の蒸気が甘い匂いを持ち上げる。テーブルに置かれた瞬間、湯気が私の顔を撫でた。

「海、楽しかったか」

 父はぎこちなく問う。問いかけの角が少し立っていて、本人もそれに気づいている顔。

「うん」

 私はスマホのフォルダを開いて、海の写真を見せた。砂の上の足跡、灯台の階段、蓮が撮ってくれた私の横顔、夕焼けに溶ける水面。父は不器用に褒める。「この夕日、いいな」

「蓮が“応募しよ”って言ってたやつ。……一次は通ったんだよ」

「ほう。がんばっとるな」

 父の褒め言葉は少ないけれど、その一言は皿の上のコロッケよりも温かかった。母が「もう一個食べる?」と笑い、私は「食べる」と言って、からしをほんの少しだけ足した。家族の時間が、ほんの少し戻ってくる。戻ってくる時間は、音が静かで、湯気がすこし多い。

 自室に戻り、共通日記に“契約条文”を写す。第0条から第5条まで。サインの下の青い線も、波をつけたまま写す。写すことは、二重に残すこと。二重に残すことは、ひとつ失っても、もうひとつが支える、というかたちの祈りだ。私は欄外に、冗談半分で書き添えた。「破ったら罰は?」

 すぐに、ページの下から文字が上がってくる。「罰は“ごめん”を三回。罰という名の修理」

「修理、いいね」と私は書いた。ごめんは、減らすためにも必要だ。ごめんの数は、謝罪の数ではなく、修理の手順の数。三回言うあいだに、声帯だけでなく、手も働く。継ぎ目に触れる指の腹が、熱でやわらかくなる。

 ペンを置こうとしたとき、欄外に、見知らぬ筆跡がふっと現れた。「覚悟は硬くないほうが長持ち」

 私は笑って「わかる」と書く。硬い覚悟は、強く見えて、折れる。折れた場所は鋭く、触れるたびに痛む。柔らかい覚悟は、形が変わるぶんだけ、長く持つ。形が変わるたびに、触れ方を学べる。

 ベッドに横になり、目を閉じる。秒針が壁の白い余白に均等に点を打つ。窓の外の電線は動かず、風鈴は鳴らない。鳴らない静けさは、今日の正確な輪郭だ。私は、昼に作った「夏の決算」の表をまぶたの裏でなぞり、ひと項目ずつ、今の時制に置き換えていく。守る。言う。増やす。解く。解けなかったものは、今年の秋に持ち越す。持ち越していい。持ち越すことも、方法のひとつだ。私は自分の胸の上で両手を組み、軽く圧をかける。骨と骨が挨拶をして、ほどけていく。

 夢の入口で、青い糸の線が、ゆっくり結び直されていく映像が見えた。祠のしめ縄の結び目に似ているけれど、もっと細く、もっと私の指の記憶に近い糸。誰かの手――見えない伴走者の、年齢の重い手――が、ほどけすぎない程度に、でも決して固くは結ばない程度に、ゆっくり、ゆっくりと結んでいく。結び終わるたびに、糸は呼吸をひとつ分だけ膨らませ、しずかに縮む。私はそのリズムに合わせて、息を吸い、吐いた。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。

 明日、私たちは条文を一度読み上げるだろう。危険を感じたら、理由を言わずに手を握る。会いたい、助けて、をためない。怖い、を笑わない。戻る場所を毎週確認する。写真と日記を月に一度、交換して見る。罰は“ごめん”を三回。罰という名の修理。第0条は、上に小さく書いてある。破る前提で、直す前提。覚悟は、しなやかに。青い糸の下で。私はその文字列を胸の裏側にもう一度置き、眠りに落ちた。世界のどこかで、いくつもの手が、それぞれの持ち場で働いている音が、夜の底でかすかに続いていた。